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原著作者:【むじん書院】

光武郭皇后紀

光武皇后は聖通といい、真定の人である。[一](郭氏は)郡の著姓(有力氏族)であった。父郭昌は田地・邸宅・財産数百万銭を異母弟に譲与したので、国の人々はそれを義挙だと思った。郡に仕えて功曹となり、真定恭王を娶った。(彼女は)郭主と呼ばれ、[二]后および子息郭況を生んだ。郭昌は早くに卒去した。郭主は王家の女でありながら礼節と倹約を好み、母儀の徳を備えていた。更始二年(二四)春、光武劉秀)は王郎を攻撃して真定まで来たところで、后を迎え入れ、寵愛し、即位するに及んで(后を)貴人とした。

[一] 稾は県名で、故城は今の恒州稾城県の西にある。沈寿は言う。「『前志』に、真定県に稾城あり、という。ここでは『銚期伝』と同じくただ『稾』とだけ言っており、『前書』の城の字はおそらく衍字であって、浅はかな人物が後世の地名によって付け加えたのだろう。後漢でもこうした県はない。『隋志』には、趙郡稾城は後斉が下曲陽を廃止してここに編入し、稾城県と改称した、とある。『改称した』と言っているのだから、斉以前には城の字がなかったことが分かる。ところが『魏地形志』が言うには、鉅鹿郡稾城は前漢では真定に属し、後漢では(以下に脱文があるのだろう。)属し、晋は廃止したのち、太和十二年に復活させた、とある。城の字はやはり後世の地名に基づいて付け加えたことになる。この県は晋の時代に初めて廃止されたものであり、いま『後志』にその記載がないのは脱文であろう。」王先謙は言う。「『前志』では稾城と作っていたことが『地理志』『五行志』に見えており、この文と『銚期伝』に城の字がなく『前志』に城の字があることでもって、浅はかな人物が付け加えたとすべきでない。この批判は無理というものであろう。それ以外のことは『郡国志』に見える。今の正定府稾城県の西南の邱頭社である。」

[二] 恭王の名は劉普といい、景帝劉啓)から七代目の孫にあたる。

建武元年(二五)、(后は)皇子劉彊を生んだ。帝は郭況の慎み深さを称え、年齢はまだ十六であったが黄門侍郎に任じた。二年、貴人を皇后に立て、劉彊を皇太子とし、郭況を緜蛮に封じた。陳景雲は言う。「緜蛮とあるのは綿曼の誤りであろう。真定の属県である。『郡国志』にその記載がないのは、おそらく後に廃止されたからであろう。」李賡芸は言う。「『春秋』に戎蛮子とあるのを『公羊』では曼と作っている。蛮と曼の二字は古代では通用したのである。」王先謙は言う。「今の正定府獲鹿県の北である。」(郭況は)后の弟ということで尊重され、賓客たちが八方から集まった。郭況は恭しく士人にへりくだったので、大層な名声を手に入れた。恵棟は言う。「『拾異記』に言う。郭況は富貴権勢の地位にありながら、門を閉ざして優然と暮らし、世事に関わろうとはしなかった。一代の智慧者である。」十四年、(郭況は)城門校尉に昇進した。それからのち、后は寵愛が少しづつ衰えたことで、何度も恨み言を口にするようになった。十七年、とうとう(皇后の位を)廃されて中山王太后となったが、后の次子である右翊公劉輔中山王に進められ、常山郡を中山国に加増された。郭況は大国へ転封されて陽安侯になった。[一]后の従兄郭竟騎都尉として征伐戦に従軍し、功績を立てて新郪侯に封ぜられ、官位は東海国のまで昇った。[二]郭竟の弟郭匡発干侯となり、[三]官位は太中大夫まで昇った。銭大昕は言う。「新郪侯郭竟と発干侯郭匡の職歴は後文に詳しい。この文は『史通』のいう煩瑣な例であり、二十字は省いた方がよい。」后の叔父郭梁は早くに亡くなり、子がなかった。その女婿であった南陽陳茂は、恩沢により南〓侯に封ぜられた。[四]

[一] 陽安は汝南郡に属した県で、故城は今の予州朗山県にある。故の道国城がそれである。王先謙は言う。「今の汝寧府確山県の東北にある。」

[二] 新郪は汝南郡に属した県で、故城は今の潁州汝陰県の西北にある。郪丘城がそれである。■(郪)の音は七私の反切(シ)。王先謙は言う。「今の潁州府太和県の北にある。『旧志』では七十里を誤って宋王城とする。」

[三] 発干は東郡に属した県で、故城は今の博州堂邑県の西南にある。王先謙は言う。「今の東昌府堂邑県の西南にある。」

[四] 〓の音は力全の反切(レン)。王先謙は言う。「注は『光武紀』に見える。」

二十年、中山王劉輔はまた転封されて沛王となり、后は沛太后となった。郭況は大鴻臚に昇進した。帝はたびたびその邸宅に行幸し、公卿や諸侯を郭家に集めて飲み食いした。下賜された金銭や絹の盛大さは並ぶ者がなく、京師では郭況の家を「金穴」だと評した。恵棟は言う。「『拾異記』にいう。郭況の資産は数億銭、家の使用人は四百人余り、黄金でもって食器を作り、屋形の地下には金銭をしまう洞窟があり、武士を並べてそれを見張らせた。財宝をちりばめて矢倉を飾り、彼に寵愛された者はみな玉の器に食事を盛った。そのため東京では郭家を玉の廚房、金の洞穴と呼んだ。」二十六年、后の母の郭主が薨去すると、帝は直々に亡骸と対面して葬儀へ送り出した。百官を大いに集め、使者を出して郭昌の棺を迎えさせ、郭主とともに埋葬した。郭昌に陽安侯の印綬を追贈し、思侯した。二十八年、后は薨去し、北芒に埋葬された。汪文台は言う。「『御覧』百三十七に引く『続漢書』では、北陵に埋葬された、と作る。」

帝は郭氏を憐れみ、詔勅によって郭況の子郭璜淯陽公主を降嫁させ、郭璜をに取り立てた。顕宗劉荘)が即位すると、郭況は帝の舅にあたる陰識・陰就と並んで特進となり、たびたび賞賜を授け、劉攽は言う。「文脈を勘案すれば、授は受と作るべきだ。」恩寵は(三人とも)揃って手厚く、陰・郭に対する礼遇はどのような機会でも同等だった。永平二年(五九)に郭況が卒去したときに追贈された品々ははなはだ手厚く、帝は直々に亡骸に対面した。節侯と諡した。子の郭璜が後を継いだ。

元和三年(八六)、粛宗劉炟)が北方へ狩りに出かけて真定を通りがかったとき、もろもろの郭氏を招き集め、(郭氏たちが)拝謁して祝辞を述べると、を招き入れて、飲み、楽しみを尽くした。[一]郭主の塚の上で太牢のお供え物を捧げ、(郭氏に)粟一万斛、銭五十万を下賜した。永元年間(八九~一〇五)の初め、郭璜は長楽少府となり、[二]子の郭挙侍中として射声校尉を兼務した。大将軍竇憲が誅殺されると、郭挙は竇憲の女婿であったために叛逆を企て、父子ともども獄に下されて死んだ。家族は合浦に流され、[三]宗族のうち官職にあった者はことごとく罷免された。新郪侯郭竟は初め騎将であったが、[四]征伐戦に従軍して功績を立てたので東海国の相を拝命し、永平年間(五八~七六)に卒去すると、子の郭嵩が後を継いだ。郭嵩が卒去したのち、生前、楚王劉英の事件に関与していたことが追及され、領国は改易された。建初二年(七七)、章帝(粛宗)は郭嵩の子郭勤に封土を継がせて伊亭侯としたが、郭勤には子がなかったため、(彼の死後)領国は改易された。発干侯郭匡は、官位が太中大夫まで昇り、建武三十年に卒去すると、子の郭勲が後を継いだ。郭勲が卒去すると、子の郭駿が後を継ぎ、永平十三年、やはり楚王劉英の事件に連座して領国を失った。建初三年、郭駿を再び観都侯に封じたが、卒去したとき子がなかったため、領国は改易された。郭氏のうち諸侯に取り立てられた者は合わせて三人あったが、みな領国は断絶したのである。

[一] 『説文』に言う。「倡とは楽人である。」『声類』に言う。「俳優である。」

[二] 長楽少府は皇太后宮を管掌し、俸禄は二千石である。長信宮にあるときは長信少府と言い、長楽宮ならば長楽少府と言う。

[三] 郡名である。今の廉州県にあたる。王先謙は言う。「今の廉州府合浦県の東北七十五里である。」

[四] 前書(『漢書』)に言う。「車将・戸将・騎将光禄に属し、俸禄は比千石である。」

論に言う。物事の盛衰や感情の起伏には確固とした定めがあるものだ。而崇替去来之甚者,必唯寵惑乎?当其接牀笫,承恩色,雖険情贅行,莫不徳焉.[一]及至移意愛,析嬿私,雖恵心妍状,愈献醜焉.愛情が高まれば、天下でもその高貴さを受け入れられず、歓心が落ちれば、九服でもその生命を免れ得ないもの。これこそまさに志士の沈思し、君子の推敲するところであり、未だそこから逃れられた者はないのである。郭后は衰えによって遠ざけられ、怨恨ぶりは甚だしかった。それでもなお恩沢は別邸へと加えられ、寵愛は親戚へと重ねられたのである。東海の慎重さに至っては去就するにも礼を尽くし、後世の者に栄枯盛衰の落ち度を見せない。また古代における光明ではなかろうか!

[一] 『説文』に言う。「贅とはである。」『老子』に言う。「余分に食うというのは贅沢をすることである。」『河上公注』に言う。「行いが妥当でないのを贅と言う。」『荘子』に言う。「付いたと垂れた。」醜悪さを言うのである。

光武郭皇后紀

光武郭皇后諱聖通,眞定稾人也.[一]為郡著姓.父昌,讓田宅財產數百萬與異母弟,國人義之.仕郡功曹.娶眞定恭王女,號郭主,[二]生后及子況.昌早卒.郭主雖王家女,而好禮節儉,有母儀之德.更始二年春,光武擊王郞,至眞定,因納后,有寵.及卽位,以為貴人.

[一] 稾,縣名,故城在今恆州稾城縣西.沈壽曰:「前志眞定縣有稾城,此與銚期傳但曰:稾,則前書疑衍城字,淺人據後代地名增之耳.後漢並無此縣,隋志云:趙郡稾城,後齊廢下曲陽入焉,改為稾城縣.夫曰改為則齊前無城字可知,而魏地形志云:鉅鹿郡稾城,前漢屬眞定,後漢屬,(下有脫文)晉罷,太和十二年,復.城字,當亦据後世地名增之.此縣晉時始罷,今後志無之,當有奪文.」先謙曰:「前志作稾城,見地理五行二志.不應緣此與銚期傳無城字,而以前志有城字,為淺人所增設,此疑難也.餘見郡國志.今正定府稾城縣西南邱頭社.」

[二] 恭王名普,景帝七代孫.

建武元年,生皇子彊.帝善況小心謹愼,年始十六,拜黃門侍郞.二年,貴人立為皇后,彊為皇太子,封況緜蠻侯.陳景雲曰:「緜蠻當是綿曼之誤,眞定屬縣也.郡國志無之,蓋後已省.」李賡芸曰:「春秋戎蠻子,公羊作曼.蠻曼二字古通借.」先謙曰:「今正定府獲鹿縣北.」以后弟貴重,賓客輻湊.況恭謙下士,頗得聲譽.惠棟曰:「拾異記云:況雖居富勢,閉門優游,未曾干世事,為一時之智也.」十四年,遷城門校尉.其後,后以寵稍衰,數懷怨懟.十七年,遂廢為中山王太后,進后中子右翊公輔為中山王,以常山郡益中山國.徙封況大國,為陽安侯.[一]后從兄竟,以騎都尉從征伐有功,封為新郪侯,官至東海相.[二]竟弟匡為發干侯,[三]官至太中大夫.錢大昕曰:「新郪侯竟﹑發干侯匡歷官,具詳於後.此文依史通點煩之例,可省二十字.」后叔父梁,早終,無子.其壻南陽陳茂,以恩澤封南〓侯.[四]

[一] 陽安,縣,屬汝南郡,故城在今豫州朗山縣,故道國城是也.先謙曰:「在今汝寧府確山縣東北.」

[二] 新郪,縣,屬汝南郡,故城在今潁州汝陰縣西北郪丘城是也.■音七私反.先謙曰:「在今潁州府太和縣北.舊志七十里訛為宋王城.」

[三] 發干,縣,屬東郡,故城在今博州堂邑縣西南.先謙曰:「在今東昌府堂邑縣西南.」

[四] 〓音力全反.先謙曰:「注見光武紀.」

二十年,中山王輔復徙封沛王,后為沛太后.況遷大鴻臚.帝數幸其第,會公卿諸侯親家飲燕,賞賜金錢縑帛,豐盛莫比,京師號況家為金穴.惠棟曰:「拾異記,況累金數億,家僮四百餘人,以黃金為器,閣下有藏金窟,列武士以衞之.錯雜寶以飾臺榭,其寵者皆以玉器盛食.故東京謂:郭家為瓊廚金穴.」二十六年,后母郭主薨,帝親臨喪送葬,百官大會,遣使者迎昌喪柩,與主合葬,追贈昌陽安侯印綬,諡曰思侯.二十八年,后薨,葬于北芒.汪文臺曰:「御覽百三十七引續漢書作,葬北陵.」

帝憐郭氏,詔況子璜尚淯陽公主,除璜為郞.顯宗卽位,況與帝舅陰識﹑陰就並為特進,數授賞賜,劉攽曰:「案文授當作受.」恩寵俱渥.禮待陰﹑郭,每事必均.永平二年,況卒,贈賜甚厚,帝親自臨喪,諡曰節侯,子璜嗣.

元和三年,肅宗北巡狩,過眞定,會諸郭,朝見上壽,引入倡飲甚歡.[一]以太牢具上郭主冢,賜粟萬斛,錢五十萬.永元初,璜為長樂少府,[二]子擧為侍中,兼射聲校尉.及大將軍竇憲被誅,擧以憲汝壻謀逆,故父子俱下獄死,家屬徙合浦,[三]宗族為郞吏者,悉免官.新郪侯竟初為騎將,[四]從征伐有功,拜東海相.永平中卒,子嵩嗣;嵩卒,追坐染楚王英事,國廢.建初二年,章帝紹封嵩子勤為伊亭侯,勤無子,國除.發干侯匡,官至太中大夫,建武三十年卒,子勳嗣;勳卒,子駿嗣,永平十三年,亦坐楚王英事,失國.建初三年,復封駿為觀都侯,卒,無子,國除.郭氏侯者凡三人,皆絕國.

[一] 說文曰:「倡,樂也.」聲類曰「俳」.

[二] 長樂少府,掌皇太后宮,秩二千石.居長信宮曰長信少府,長樂宮曰長樂少府.

[三] 郡名,今廉州縣.先謙曰:「今廉州府合浦縣東北七十五里.」

[四] 前書曰:「車﹑戶﹑騎將,屬光祿,秩比千石.」

論曰:物之興衰,情之起伏,理有固然矣.而崇替去來之甚者,必唯寵惑乎?當其接牀笫,承恩色,雖險情贅行,莫不德焉.[一]及至移意愛,析嬿私,雖惠心妍狀,愈獻醜焉.愛升,則天下不足容其高;歡隊,故九服無所逃其命.斯誠志士之所沈溺,君人之所抑揚,未或違之者也.郭后以衰離見貶,恚怨成尤,而猶恩加別館,增寵黨戚.至乎東海逡巡,去就以禮,使後世不見隆薄進退之隙,不亦光於古乎!

[一] 說文曰:「贅,肬也.」老子曰:「餘食贅行.」河上公注曰:「行之無當為贅.」莊子曰:「附贅懸肬.」言醜惡也.