利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

光烈陰皇后紀

光烈皇后は麗華といい、[一]南陽新野の人である。むかし光武劉秀)は新野へ行ったとき、后の美貌を噂に聞いて心より満足した。のちに長安へ行き着いたとき、執金吾の馬車や騎士のあまりの豪勢さを目にし、歎息しながら「官に就くなら執金吾、妻に取るなら陰麗華だなあ」と言ったものである。更始元年(二三)六月、かくて当成里において后を迎え入れた。恵棟は言う。「『御覧』に引く『郡国志』に、鄧州皇后城は陰后を迎えた場所、とある。」(后は)ときに十九歳であった。光武は司隷校尉として洛陽へ西上することになり、后を新野に帰らせた。鄧方が挙兵すると、后の兄陰識がその将となり、后は家族を連れて淯陽へ移り、鄧奉の公邸で宿泊した。

[一] 『諡法』に言う。「道徳を守って功業に従うことを『烈』と言う。」『東観記』にいう。「陰子公なる者があって、陰子方を生み、陰方(子方)は陰幼公を生み、陰公(幼公)は陰君孟を生んだ。(陰君孟は)名をといい、これが后の父である。」現在、流布している本では「睦」を「」と作っている。恵棟は言う。「孫愐が『風俗通』を検討して言っている。管修は斉から楚へ行って陰の大夫となり、その後裔がこれを氏としたのである。」陰子方が宣帝の時代の人であること、『陰興伝』に見える。

光武は即位すると、侍中傅俊に后を出迎えに行かせ、王先謙は言う。「『水経注』にいう。魯陽関水は皇后城の西をよぎる。建武元年、世祖は侍中傅俊に節を持たせて淯陽において光烈皇后を出迎えさせた。傅俊は兵士三百人余りを徴用して宿衛に充て、皇后はこれに従い京師へと帰った。おそらく税舎のある場所にあたり、それゆえ城にはその名が付けられているのである(?)。」(后が)胡陽・寧平公主の宮人たちと一緒に洛陽へ到着すると、后は貴人とされた。[一]后が優雅な性質と寛容さ、仁慈を備えていたことから、帝は尊貴な位に引き上げたいと思ったが、后は固く辞退し、氏に子があることを理由に挙げ、最後までお受けしようとしなかった。そのため、ついには郭皇后が立てられたのである。建武四年(二八)、彭寵征伐に随行し、元氏において顕宗劉荘)を生んだ。九年、后の母氏および弟陰訢[二]が盗賊にさらわれ、殺害された。帝はそのことを深く悲しみ、そこで大司空に詔勅を下して述べた。「吾はまだ無名のころ陰氏を妻に迎えたものの、軍勢を率いて征伐に出かけたため、互いに離ればなれになってしまったのだが、幸運なことに安全を保ち、ともに虎口を脱することができた。[三]貴人は母儀の徳を備えており、后に立てるべきなのであるが、(后は)固く辞退して受け入れず媵妾と席を並べている。[四]朕はその謙譲の美徳を嘉し、諸弟のうち未だ土地を賜っておらぬ者には封侯を許したのであるが、しかし災禍に遭遇して母子ともに落命した者には心を痛ませた(だけであった)。『小雅』に言う。『将恐将懼,惟予与汝.将安将楽,汝転弃予』、と。[五]詩人の戒めがあるのだから、慎まないでいられようか?そこで貴人の父陰陸に爵位諡号を追贈して宣恩哀侯とし、弟陰訢を宣義恭侯とし、弟陰就には哀侯の後を継がせる。棺が座敷へ到着したならば、太中大夫を使者として印綬を授けさせ、在国中の列侯に相当する礼を行う。(死者の)魂に意識があるならば、その恩寵栄誉を喜ばしく思うであろう!」

[一] 寧平は淮陽郡に属した県で、故城は今の亳州谷陽県の西南にある。王先謙は言う。「胡を湖とすべきこと、『宋弘伝』に見える。」

[二] 音は欣(キン)。

[三] 『荘子』に言う。孔子盗跖に遭遇したとき柳下恵に告げた。「もう少しで虎口を免れられないところであった。」

[四] 『爾雅』に言う。「とは送ることである。」孫炎は言う。「(嫁ぎ先まで)送り出す侍女のことを媵と言う。」

[五] 『谷風』の詩である。

十七年、皇后郭氏を廃して貴人を(皇后に)立てた。三公に詔勅を下して述べた。「皇后(郭氏)は怨恨を抱いてたびたび命令に背き、腹違いの子を可愛がることも側室を教え導くこともできず、宮闈の内部はを見るような(心を寒からしめる)有様であった。[一]もともと関雎之徳の無きところ、そのうえ呂・霍之風を備えるようになったのだから、蘇輿は言う。「后は寵愛の衰えたことで恨み言を口にしたが、それ以外には何の罪もなかった。(しかし)呂・霍に喩えられて深文(?)を免れなかったのも当然なのだ。光武が呂廟の祭祀を廃止して供物を減らしたのも、(建武中元元年。)やはりこれが原因である。」どうして幼子を託して高らかな祭祀を受け継がせられようか。いま大司徒・[二]宗正に節を持たせ、恵棟は言う。「劉吉である。韋昭の『国語注』に、漢の宗正には劉氏を用いる、とあるのは、これのことである。」皇后の璽綬を召し上げる。陰貴人は郷里の良家であったが、自己を貧賤の家に帰した。[三]『我会わずして今三年』という。[四]宗廟を奉り、天下の母となすべきである。担当者は旧典を詳細に検討し、速やかに尊号を建白せよ。非常の仕事は国家にとってもめでたきことではない。祝賀を挙げてはならぬ。」后は(皇后の)位にあっても恭しく、嗜好品も少なく、諧謔を好まなかった。人柄は仁慈孝行に厚く、思いやり深かった。七歳のとき父を失ってから数十年も経っていても、話題に上れば涙を流さないことはなかった。帝はそれを見ていつも歎息していた。

[一] 『爾雅』に言う。「宮中の小門を闈と言う。」

[二] 戴渉である。

[三] 『公羊伝』に言う。「婦人が嫁ぐことを『帰』と言う。」

[四] 『豳風東山の言葉である。

顕宗が即位すると后を尊んで皇太后とした。永平三年(六〇)冬、帝は太后とともに章陵へ行幸し、旧宅にて酒宴を設け、陰氏・郭氏の知人や諸家の子弟を集め、みな揃って恩賞を下賜した。七年、崩御した。在位二十四年、享年六十歳であった。原陵に合葬された。

明帝(顕宗)は孝心の情に厚く、追慕すること果てしなかった。恵棟は言う。「『東観記』にいう。上は年をまたいでなおはるばると思いを馳せ、そこでもろもろの侯王・公主・外戚および郡国の計吏を従えて陵墓に参上し、御殿で拝謁するのと同じように進み出て拝礼した。」十七年正月、原陵に参詣するにあたって、夜中、先帝と太后とが普段通り談笑する様子を夢に見た。目が覚め、悲しみのあまりもう寝付けなくなってしまった。そこで暦を調べてみると翌朝が吉日にあたっていたので、百官および賓客たちを引き連れて陵墓に参詣した。その日、陵墓の植木に甘露が降り注いだ。帝は百官に採取を命じて供物とした。酒宴が果てたあと、帝は席を立って牀で横になり、太后の鏡奩の中の物を眺めていたが、[一]感動して悲しみの涙を流し、装具を(涙で)きらきらと輝かせた。胡三省は言う。「沈約は言う。漢には秦を踏襲して上陵にはみな寝廟があった(?)。そのため寝殿と称するのである。生きている人と同様に日常の衣服を形作るのは、古代においてそこに寝るという気持ちがあったからだ(?)。」左右の者たちはみな泣いて、仰ぎ見られる者はなかった。

[一] 奩とは鏡箱である。音は廉(レン)。

光烈陰皇后紀

光烈陰皇后諱麗華,[一]南陽新野人.初,光武適新野,聞后美,心悅之.後至長安,見執金吾車騎甚盛,因歎曰:「仕宦當作執金吾,娶妻當得陰麗華.」更始元年六月,遂納后於宛當成里,惠棟曰:「御覽引郡國志,鄧州皇后城,卽迎陰后處.」時年十九.及光武為司隸校尉,方西之洛陽,令后歸新野.及鄧奉起兵,后兄識為之將,后隨家屬徙淯陽,止於奉舍.

[一] 諡法曰:「執德遵業曰烈.」東觀記:「有陰子公者,生子方,方生幼公,公生君孟,名睦,卽后之父也.」今世本「睦」作「陸」.惠棟曰:「孫愐案風俗通曰:管修自齊適楚為陰大夫,其後氏焉.子方宣帝時人,見陰興傳.」

光武卽位,令侍中傅俊迎后,先謙曰:「水經注,魯陽關水逕皇后城西.建武元年,世祖遣侍中傅俊持節,迎光烈皇后於淯陽.俊發兵三百餘人宿衞,皇后道歸京師.蓋稅舍所在故城得其名矣.」與胡陽﹑寧平主諸宮人俱到洛陽,以后為貴人.[一]帝以后雅性寬仁,欲崇以尊位,后固辭,以郭氏有子,終不肯當,故遂立郭皇后.建武四年,從征彭寵,生顯宗於元氏.九年,有盜劫殺后母鄧氏及弟訢,[二]帝甚傷之,乃詔大司空曰:「吾微賤之時,娶於陰氏,因將兵征伐,遂各別離.幸得安全,俱脫虎口.[三]以貴人有母儀之美,宜立為后,而固辭弗敢當,列於媵妾.[四]朕嘉其義讓,許封諸弟.未及爵土,而遭患逢禍,母子同命,愍傷于懷.小雅曰:『將恐將懼,惟予與汝.將安將樂,汝轉弃予.』[五]風人之戒,可不愼乎?其追爵諡貴人父陸為宣恩哀侯,弟訢為宣義恭侯,以弟就嗣哀侯後.及尸柩在堂,使太中大夫拜授印綬,如在國列侯禮.魂而有靈,嘉其寵榮!」

[一] 寧平,縣,屬淮陽,故城在今亳州谷陽縣西南.先謙曰:「胡當為湖,見宋弘傳.」

[二] 音欣.

[三] 莊子曰,孔子見盜跖,謂柳下惠曰:「幾不免於虎口.」

[四] 爾雅曰:「媵,送也.」孫炎曰:「送女曰媵.」

[五] 谷風之詩.

十七年,廢皇后郭氏而立貴人.制詔三公曰:「皇后懷執怨懟,數違教令,不能撫循它子,訓長異室.宮闈之內,若見鷹鸇.[一]旣無關雎之德,而有呂﹑霍之風,蘇輿曰:「后以寵衰怨懟,別無他罪,著見喩以呂﹑霍,未免深文.光武黜呂廟祀而進薄,(建武中元元年.)亦因於此.」豈可託以幼孤,恭承明祀.今遣大司徒涉﹑[二]宗正吉持節,惠棟曰:「劉吉也.韋昭國語注,漢宗正用諸劉,是也.」其上皇后璽綬.陰貴人鄉里良家,歸自微賤.[三]『自我不見,于今三年.』[四]宜奉宗廟,為天下母.主者詳案舊典,時上尊號.異常之事,非國休福,不得上壽稱慶.」后在位恭儉,少嗜玩,不喜笑謔.性仁孝,多矜慈.七歲失父,雖已數十年,言及未曾不流涕.帝見,常歎息.

[一] 爾雅曰:「宮中小門謂之闈.」

[二] 戴涉也.

[三] 公羊傳曰:「婦人謂嫁曰歸.」

[四] 詩豳風東山之詞也.

顯宗卽位,尊后為皇太后.永平三年冬,帝從太后幸章陵,置酒舊宅,會陰﹑鄧故人諸家子孫,並受賞賜.七年,崩,在位二十四年,年六十,合葬原陵.

明帝性孝愛.追慕無已.惠棟曰:「東觀記,上長思遠慕至踰年,迺率諸侯王﹑公主﹑外戚﹑郡國計吏,上陵,如會殿前禮.」十七年正月,當謁原陵,夜夢先帝﹑太后如平生歡.旣寤,悲不能寐,卽案歷,明旦日吉,遂率百官及故客上陵.其日,降甘露於陵樹,帝令百官采取以薦.會畢,帝從席前伏御牀,視太后鏡奩中物,[一]感動悲涕,令易脂澤裝具.胡三省曰:「沈約云,漢因秦上陵皆有寢廟,故稱寢殿.起居衣服象生人之具,古寢之意也.」左右皆泣,莫能仰視焉.

[一] 奩,鏡匣也.音廉.