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原著作者:【むじん書院】

和熹鄧皇后紀

和熹鄧皇后といい、[一]太傅鄧禹の孫である。父鄧訓護羌校尉惠棟は言う。「『続漢書』にいう、鄧訓には五男三女がいて、長子は鄧騭、次に鄧京・鄧悝・鄧宏・鄧閭があり、女には鄧燕、次に鄧綏、鄧綏とは后のことであるが、次に鄧容があった。鄧燕は早くに卒去したが子女がおり、(その女)娥甫が襁褓に包まれていたとき、后は十二歳であったが、娥が幼くして孤児になったのを憐れみ、目をかけて養育したが、慈愛恩恵は極めて深いものだった。」氏は光烈皇后の従妹である。后が五歳のときのこと、太傅夫人は彼女を愛で、その手で髪を切ってやった。夫人は年を食っていて目が弱く、うっかり后の額を傷付けてしまったが、恵棟は言う。「『東観記』にいう。痛みを感じたが、こらえて一言も発せず、額中傷だらけになった。」(后は)痛みをこらえて一言も発しなかった。左右で見ていた者が怪訝に思って訊ねると、后は言った。「痛くないわけじゃないの。太夫人が(私を)可愛がって髪を切ってくれたのに、お年寄りの気持ちを傷付けるなんてできない。だから我慢しただけ。」六歳で史書(篆書)を得意とし、[二]十二で『詩(経)』『論語』に通暁した。兄たちが経伝を読むたび、いつも下意して学問に追究した。[三]典籍のことに思いふけり、家でする仕事には見向きもしなかったので、母はいつも彼女をなじって言っていた。「は女の仕事を習って着物を仕立てようともせず、そのくせ勉学に打ち込んでいるけど、博士にでもなれるつもりなのかい?」后は母の言葉に背くのは一大事だと思い、昼間は婦人の仕事を修得し、日が暮れると経典を朗読した。家の者は(彼女を)「諸生」と呼んだ。父鄧訓は彼女に目を見はり、ことある事に、大小を問わず相談した。恵棟は言う。「『袁宏紀』に言う。鄧訓は家庭にあって非常に厳しく、子供たちが挨拶に来ても席に着かせることはなかった。后に対してだけは、ことある事に、大小を問わず彼女に相談した。弟鄧邠が言った。『日ごろ息子たちとは語ろうとしなかったのに、今になって耄碌しましたか!』鄧訓は言った。『我は耄碌しておらぬ。この女はまだ幼いが(他の)子供らの及ぶところではない。必ず我が家を繁栄させるぞ。』これほど彼女に目をかけていたのである。」

[一] 蔡邕は言う。「諡法にいう。功績を立てて民衆を安堵させるのを『』と言う。」

[二] 史書とは、宣王太史籒が著作した『大篆』十五篇のことである。前書(『漢書』)では「童子を教育する書」と言っている。恵棟は言う。「『東観記』にいう。后が六歳のとき、兄たちが后の髪の毛を引っ張った。后は言った。『身体も髪や肌も父母からの授かりもの。傷付けないようにするのが孝行の始まりなのに、どうして他人の髪の毛をおもちゃにするの!』」

[三] 下意は出意(思い切ってする)という意味である。

永元四年(九二)、選ばれて(後宮に)入るはずだったが、ちょうどそのころ鄧訓が卒去した。后は昼夜なく号泣しつづけ、三年の(服喪期間の)あいだ総菜を口にせず、憔悴しきって顔付きが変わってしまい、親戚でも彼女を見分けられなくなった。后はあるとき夢を見た。天をってみたが、[一]広々として真っ青、鍾乳石のような形の物があったので、恵棟は言う。「『東観記』にいう。つるりとした玉でできた、鍾乳石のような物があった。」近寄ってすがりつき、それを吸ってみた。(目が覚めたあと)それを何人かの夢占いに訊ねてみると、「は天によじ登った夢を見ましたし、は天まで行ってそれをめました。[二]これらはみな聖王の前兆であって、めでたさといったら言葉になりません」ということだった。また人相見が后を見て驚いて言った。「これは成湯の筋ですぞ。」[三]家の者は密かに喜んだが公言はしなかった。后の叔父鄧陔が言った。「千人の命を救えば子孫が(侯に)封ぜられると、いつも聞いている。兄者鄧訓は謁者となり、使として石臼河を修め、何焯は言う。「使修(使として修めた)は罷修(修めるのを取り止めた)と作るべきだ。」恵棟は言う。「修はもともと治の字だったのである。『罷治石臼河』では文章にならない。『袁紀』に、石臼河を治めたが極めて道理に適い、数千人の命を救った、とある。おそらく鄧訓は初めに治水を行ったが、後になってその完成が困難であると分かり、それを取り止めたというのであろう。」一年で数千人の命を救った。天道を信じよう。我が家にはきっと幸福がやってくるぞ。」むかし太傅鄧禹は歎息して言っていた。「は百万の軍勢を率いてきたが、故無き殺人はただの一度もしていない。其の後世、必ずや勃興する者が現れるだろう。」先謙は言う。「其の字は衍字であろう。」

[一] 捫とは、摸のことである。

[二] 咶の音は是(ゼ)。恵棟は言う。「周宣の『(占)夢書』にいう。むかし聖明なる皇帝の時代、神秘の気は燦然としており、まず旧例を鑑みるに、堯は龍に乗って天に昇る夢、湯は天下に布令する夢を見て、後にいずれも天下を領有した、と。咶を『東観記』は舐と作る。『荀卿子』に言う。伏して天を咶める。注にいう。咶と舐は同じで、咶はまた狧とも作る。舌を使って食べることである。」

[三] 『続漢書』に言う。「人相見である待詔相工(官名?)の蘇文は言った。『これは成湯の骨法ですぞ。』」

七年、后は再び諸家の子供たちと一緒に選ばれて後宮に入った。后は身の丈七尺二寸、容姿は姝麗、[一]大勢の中にいてもとりわけ目立っていて、左右にいた者たちはみな驚いた。八年冬、掖庭に入って貴人となった。ときに十六歳である。うやうやしく心配りはこまやか、しぐさは整っていた。陰后に奉公して朝から晩まで気を抜くことはなく、同輩たちと接するときも、いつも克己してへりくだり、恵棟は言う。「馬融『論語注』に、克己とは約身(身を慎むこと)であるという。」後宮の奴婢が相手であっても、残らず恩借をかけてやった。『通鑑』胡注にいう。恩情をかけた上で、へりくだった態度を取ること。帝はいたく感心して彼女を寵愛した。后が病気にかかったとき、特別に命令を下して后の母や兄弟を中に入れ、期限を切らずに医薬を与えさせた。后は帝に言上した。「禁裏の重要さはこの上ないものでございます。それを外舎に久しく内裏に置かれれば、[二]上は陛下に私人を寵遇なさったとのご批判がございましょうし、恵棟は言う。「幸私(私人を寵遇する)を『通鑑』は私幸(寵遇を私用する)と作る。」下は賤妾に満足を知らぬとの誹謗がございましょう。上下ともに毀損されることになるのは、まこと不本意なことでございます。」帝は言った。「人はみな何度も宮中に入ることを栄誉だと思っておるのに、貴人はかえって憂慮する。(そのように)深く自分を抑制することは、まこと見習うことさえ難しいものだな。」宴会が催されるたび姫妾や貴人たちは競って我が身を飾り立て、は光彩を放ち、は鮮明だったのだが、[三]后だけは質素な着物で、服装に飾りを付けなかった。汪文台は言う。「『初学記』十に引く『続漢書』に言う。衣には彩りを選ばず、装には飾りを付けなかった。」自分の着物が陰后と同じ色だったときは、すぐに着替えた。(他の宮女たちと)同時に拝謁することがあっても、正坐離立しようとはせず、歩いていくときは腰を低くして目立たないようにした。[四]帝が質問したときは、いつもためらったあとで答え、陰后より先に発言しないようにした。帝は后が心を尽くして身を屈しているのを見て、歎息して言った。「徳を修める努力は、とうとうこれほどになったのか!」のちに陰后が次第に遠ざけられていったが、(后は)たびたびお誘いを受けても、そのつど病気だといって辞退した。当時、帝は何度も皇子を失っており、后は跡継ぎが増えないことを心配して、いつも涙を流して歎息し、たびたび才人を推薦して、『通鑑』胡注にいう。西漢の宮中の爵号に才人はない。おそらく東方に遷都したとき設置したものであろう。帝の気持ちを慰めようとした。

[一] 姝は美しい様子である。『詩』に言う。「彼姝者子.」

[二] 外舎とは外戚である。

[三] 『説文』に言う。「簪とはである。珥とはのことで、玉を耳に充てるのである。」『釈名』に言う。「婦人の上の服を袿と言う。」

[四] 離とは(横二列に)並ぶことである。『礼記』に言う。「離坐離立して、三列にならぬよう。」

后の徳望が日に日に盛んになっていくのを見た陰后はなすすべを知らず、ついに呪詛を構えて危害を加えようとしはじめた。帝が病に倒れて危篤状態になったとき、陰后は密かにつぶやいた。「我が思い通りできるようになれば、鄧氏はもう一人も生かしておかぬ。」后は(その言葉を)聞いて、涙を流しながら左右の者に告げた。「我は誠意を尽くして皇后にお仕えしてきたのに、とうとう天祐のご加護なく、そのうえ天罰を蒙ることになってしまいました。婦人に殉死の義理があるわけではありません。しかし周公は身をもって武王の命を請いましたし、[一]越姫は心に必死の契りを誓っております。[二]上は帝の御恩にお報いし、中は宗族の禍を解き、下は陰氏から人豕の譏りを免れますよう(我は自決しようと思います)。」[三]急いで薬を飲もうとしたが、宮人の趙玉が強く引き留め、使者が来たところで『通鑑』胡注にいう。属は之欲の反切(ショク)で、会(ちょうどそのとき)ということである。のご病気は快癒されましたと嘘をついた。后はそうなのだと信じて思い止まった。翌日、帝は本当に平癒していた。

[一] 武王が(太子時代に)病気にかかったとき、周公は彼のために王父、王弟、文王(武王の父)に命乞いをして、「もし三王さまが太子は天の責めを受けておられるのだとお思いでしたら、明朝にもの身を(犠牲として天に捧げて)代わりにしてください」と言った(『尚書』)。

[二] 越姫は昭王の寵姫で、越王句践である。昭王は越姫を従えて宴会を催し、越姫に言った。「楽しいかい?」答えて言った。「楽しいことですから楽しいのでしょう。しかし長くは持ちますまい。」王は言った。「こうやってと生死を共にしたいものだがのう。」姫は言った。「君王はお楽しみあそばせ。は死んでもご命令をお受けいたしませぬ。」のちに王が病気になり、赤い雲が空飛ぶ鳥のように太陽を挟んだ(のが観測された)。王が周太史に下問するとは言った。「これは王のお体を害するものです。将相(将軍・宰相)に転嫁されますようお願いいたします。」王は「将相はにとって股肱のようなものである」と言って許可しなかった。姫が言った。「君王の御徳はなんと偉大でございましょう。妾は王に殉死しとう存じます。昔日の遊楽のときにはご命令をお受けせぬのを正しいと思っておりましたが、いま君王が礼を取り戻され、国中の人々が君王のために死んでおります。ましてや妾ごときはどうでしょう?妾は地下にいって狐狸の先駆けをいたしとうございます。昔日は口で言わずとも、心では(一命を捧げようと)誓っておりました。妾はなる者はその心に背かぬものと聞いております。」こうして自殺した。それゆえ「心に誓った」と言っているのだ。記事は『列女伝』に見える。

[三] 高帝劉邦)は戚夫人を寵愛していた。帝が崩御すると、呂太后は夫人の手足を切断し、目を抜いて耳を焼き、室内で飼育して「人彘」と名付けた。

十四年夏、陰后は巫蠱事件によって廃位され、后が(彼女の)救済を求めても思い通りにならなかった。帝はすぐ彼女に(皇后になってくれと)希望を伝えたが、后はますます病気がひどくなったと言って、自分から固く閉じこもるようになった。ちょうどそのとき担当官が長秋宮を建立すべしと上奏したので、帝は言った。「皇后の尊さというのは朕と一心同体であり、宗廟を受け継いで天下の母になるのである。どうして軽んじられようか!ただ鄧貴人の徳だけは後宮に冠たるものであり、その地位に相応しい。」冬が到来すると皇后に立てられた。三たびの辞退を経て、そのあと即位した。その手で手紙を書いて謝意を表すとともに、徳義の薄さのため、小君への選を満足させられないことを深く陳謝した。当時、四方の国々が貢ぎ物を献上するときには、珍奇・美麗な物品を競うように買い求めていたが、后が即位してからはことごとく禁止し、季節の変わり目には、ただ紙と墨を提供させるだけとした。帝はいつも鄧氏(の一族)に官爵を与えようとしたが、后はそのつど哀願して辞退した。そのため兄の鄧騭でさえ帝の御代を通じて虎賁中郎将に過ぎなかった。

元興元年(一〇五)、帝は崩御した。長子である平原王は病気を持っており、その他の皇子たちは前後十数人にわたって夭逝したので、そのあと生まれた者があれば、そのつど秘密裏に民間で養育させていた。(そのうちの)殤帝は生後百日であったが、后は彼を迎え入れて擁立した。(殤帝が)后を奉戴して皇太后とし、黄山は言う。「殤帝は生後百日なのだから、どうして皇太后の尊号を奉ることができようか。特別措置として、羣臣たちが詔書を称して奉戴しただけなのだ。しかしこれ以後、閻・梁太后が踏襲して制度化されたのである。」太后は朝政に臨むようになった。和帝の葬儀ののち、宮人たちはみな御苑に帰った。太后は周・馮貴人に下賜を行った。その策に言う。「朕は貴人らとともに後宮に入り、喜びを等しく分かち合って十年余りになる。天のお恵みを得られず、先帝は早くも天下をお棄てになられた。孤の心は煢煢として[一]仰ぎ見る相手を失い、朝から晩までずっと思い出にひたり、心の底から悲しみが込み上げてくる。今は先例に則って外苑に分帰(?)させるが、完結は傷ましく悲歎は増しており、燕燕の詩だとて、どうして喩えられようか?[二]そこで貴人に王の(格式の)青蓋の車、装飾を施した驂馬を四匹づつ、黄金三十斤、色違いの絹織物三千匹、白茅の敷物四千端を下賜する。」さらに馮貴人には王の(格式の)赤綬を下賜し、未だ頭上に歩揺・環珮を着けたことがなかったことから、それぞれ一式を追加して賜った。[三]

[一] 煢煢とは、孤独な様子である。『詩』に言う。「煢煢としてにあり。」

[二] 『詩』鄁鄘の序に言う。「荘姜、帰る妾を送る。」その詩に言う。「燕燕の飛ぶや、その羽を池に差す。く子の帰るや、野において遠く送る。瞻望するも及ばずして、泣涕すること雨の如し。」

[三] 『周礼』に「王后は首服を副となす」とある。副首でもって飾りとしたもので、今の歩揺のようなもの。『釈名』に言う。「皇后の首副には、その上部に垂らした珠があって、歩くたび揺れるのである。」

当時、大葬に遭遇したばかりで禁令は設けられていなかった。宮中で大きな真珠の入った箱を一つ紛失したが、尋問をすれば必ず冤罪に陥る者が出ると太后は懸念し、『通鑑』胡注にいう。尋問したのち獄に投ずれば、獄中の供述によって追及を受ける者の中に、必ず無辜にして捕らえられる者が出る。そこで親しく宮人に謁見して顔色を観察したところ、すぐさま自首する者があった。また和帝の寵愛した吉成の御者たちが共謀し、吉成が巫蠱を行っているといって陥れた。恵棟は言う。「漢の法律では、他人を蠱惑して指導する者は棄市する。王制では左道を執るといい、鄭氏は今の巫蠱のようなものと言っている。『袁宏紀』に、吉成の御者は心底吉成を恨んでおり、そこで桐で人形を作り、太后の姓字を書いてそれに埋め込んだ、とある。」かくて(吉成を)掖庭に下して尋問が行われたが、弁明は明白であった。太后は考える。先帝の左右にいた側近たちは恩寵をもって待遇されていた。平日でさえ悪口しなかったのに、今さらこんなことをするのは人間の感情としてあり得ない、と。改めて自分のもとに呼び出して事実を確認すると、案の定御者たちの仕業であった。感服して聖明だと思わない者はなかった。常日ごろ鬼神は兆候を現さず、淫祠は幸福をもたらさないと考えていたので、そこで担当官に詔勅を下し、もろもろの祠官のうち典礼に適合しない者を罷免した。また詔勅を下し、建武以来の妖術による犯罪者、および馬氏・竇氏の家族で禁錮されている者たちを赦免し、すべて平民に復帰させた。太官・導官・尚方・内者による御服や珍味、靡麗なもの、精巧な細工を減らし、[一]自非供陵廟、稲梁米得導択、王先謙は言う。「導は〓と作るべきだ。前書百官表に、少府の属官に〓官があるという。」朝夕、一切れの肉と飯だけとした。かつて太官湯官に二万以上もの歳出をしていたが、[二]太后は勅令によって停止してうた。珍品にかかる費用を削減せよ、と。恵棟は言う。「曰の字は誤りで、日(日々の)と作るべきだ。」これによって数千万もが節約された。郡国の献上物に至っては、どこでもその過半数が削減された。御猟場の鷹や犬は全て売り払い、蜀・漢釦器九帯佩刀は、いずれも新調を止めた。[三]三十九種の絵画や工作を取り止め、さらに御府・尚方・織室錦繡・氷紈・綺縠・金銀・珠玉・犀象・瑇瑁・彫鏤といった玩具は、みな製造を完全停止した。離宮・別館に儲峙された米糒・薪炭はことごとく省かせた。[四]また諸園の貴人に詔勅を下し、宮人のうち宗室・同族に年老いて使者の任に耐えられぬ者があれば、園監に命じて事実確認のうえ名前を報告させることとし、自ら北宮増喜観に御幸して彼らに謁見し、出処進退を自由に決めさせたところ、その日のうちに五・六百人がお役御免になった。

[一] 『漢官儀』に言う。「太官は食膳を管掌する。」前書の音義に言う。「導官は米を選んで祭祀に供することを管掌する。尚方は刀剣や諸物および玉器作りを管掌する。」『漢官儀』に言う。「内者は帷帳を管掌する。」官名を列挙しているのである。恵棟は言う。「『方言』にいう。東斉の言葉では布帛の繊細なものを綾と言い、秦や晋では靡と言う。」郭璞は言う。「靡とは細工の良きものである。」薛君『韓詩章句』に言う。「靡は良きものである。」

[二] 経は常のことである。

[三] 蜀は蜀郡、漢は広漢郡である。両郡は献上用の器作りを管掌した。元帝の時代、貢禹が「蜀・広漢は金銀の器を管掌し、おのおの五百万を費やしております」と上書しているのが、これのことである。釦の音は口(コウ)、金銀で縁取りをした器である。

[四] 儲峙とは蓄積といった意味である。糒は干した飯。

殤帝が崩御すると太后は安帝を擁立し、引き続き朝政に臨んだ。立て続けに大葬に遭遇して百姓たちが役務に苦しんでいたため、[一]殤帝の康陵方中の秘蔵品、[二]および種々の工作を、一つ一つ節約して十分の一に抑えた。

[一] 大葬とは和帝・殤帝の崩御を言う。

[二] 方中は陵中のこと。墓の蔵の中なので「秘」と言うのである。

詔勅を下して司隷校尉・河南尹・南陽太守に告げた。「事ごとに前代の外戚賓客を観察しておるが、権威を嵩にきて軽薄で謥詷、[一]奉公を濁乱するようになれば、『通鑑』胡注にいう。その権勢を恃んで好き勝手に振る舞い、奉公している官吏が濁乱されてしまうことを言うのである。高誘は言う。濁とは乱である。人々の悩みの種となっておった。責任は司法の懈怠にある。その処罰を速やかに行わないからだ。いま車騎将軍鄧騭らは恭順の心を持っているとはいえ、宗門は広大であり姻戚は少なくない。賓客は狡猾であり禁令を干犯することも多い。[二]はっきりと検査を行い、擁護することのないように。」それ以来、親族が罪を犯しても見逃されることはなくなった。恵棟は言う。「『続漢書』にいう。后の性質は慎み深く、兄弟たちがみな内でも外でも先帝に寵愛されていたが、政務を執るようになって以後、内では左右の側近たちを検査し、外では宗族を抑制した。」太后は陰氏が罪を犯して廃位されたのを憐れみ、配流された者たちを赦免して郷里に帰し、詔勅によって資産五百万余りを返還してやった。永平元年(五八)、恵棟は言う。「『安帝紀』に拠ると、これは永初元年のことである。平は初と作るべきだ。」太夫人に爵位を与えて新野君とし、一万戸が湯沐邑として供された。[三]

[一] あわただしいことを言う。謥の音は七洞の反切(ソウ).詷の音は洞(ドウ)。

[二] 干は犯すことである。

[三] 湯沐というのは、その賦税を取って湯沐の用具を供するからである。

二年夏、京師は日照りになった。(その原因を探るため)親しく洛陽の官衙に御幸し、冤罪の調査をした。囚人の中に実際には殺人を犯していないにも関わらず、尋問を受けて自首した者があって、衰弱していて、御輿が見えても恵棟は言う。「『東観記』は便輿見(便輿が見える)とする。便は箯と作るべきだ。」郭璞は『三倉』に注して言う。「箯輿土器。」『説文』にいう。箯は竹製の御輿である。役人を恐れて物言うことができなかった。(御輿が)立ち去ろうとしたとき、頭を挙げて何かを訴えたいようなそぶりだった。太后はそれを見て取り、すぐに呼び寄せて実状を問いただしたところ、事実が歪曲されたことが詳細に分かった。『通鑑』胡注にいう。歪曲された事実を明らかにできたというのである。その場で洛陽県令を逮捕して獄に下し、罪責を追及した。一行がまだ宮殿に帰り着かないうちに、雨が注いで大降りとなった。恵棟は言う。「『東観記』にいう。太后が政治を代行した。永初二年三月、京師が日照りのまま五月一日になったので、太后は洛陽に御幸して獄舎を視察し、冤罪に陥れられた囚人を取り上げた。杜冷は殺人を犯していないのに自首し、笞で打たれて衰弱しており、便輿が見えても役人を恐れて自己弁護しようとしなかった。役人が立ち去ろうとしたとき、恐る恐る頭を挙げて、何かを言いたいようなそぶりだった。太后がそれを察知して、すぐに呼び寄せて実状を問いただしたところ、ようやく告白した。その場で県令を逮捕して獄に下し、罪責を追及し、(河南の)尹を左遷した。一行がまだ宮殿に帰り着かないうちに、雨が注いで大降りとなった。」

三年秋、太后の体調が思わしくなかったため、左右の者たちは心配して祈祷を捧げ、祝詞を述べて(自分を)身代わりにするよう祈念した。太后はそれを聞くなり、怒りとともに譴責したが、(その一方で)ひっそりと掖庭令以下に詔勅を発し、ただ祈祷を行った過失を陳謝させるに留め、みだりに不祥の言葉(弾劾)を起こさせないようにした。恵棟曰:「東観記,左右咸流涕,歎太后臨大病,不自顧,而念兆民.後病瘳,豈非天地之応与?」古いしきたりでは、歳末になると衛士の見送りとして饗宴を催し、[一]大儺逐疫をすることになっていた。[二]太后は陰陽に不調があり軍事問題が多発していたことから、詔勅を下して宴会中の演芸や音楽を禁止し、逐疫の侲子のうち半数を削減し、[三]象や駱駝の類はことごとく廃止した。豊作の年には元に戻した。太后は掖庭に入ってからというもの、曹大家について経書を受講し、恵棟は言う。「『続漢書』にいう。后は後宮に入ってからというもの、五経・伝記・図讖・内事・風角・占候や『老子』『孟子』『礼記』『法言』と手広く閲読し、浮ついた申韓の書物などは見なかった。」天文や算数をも修めた。昼間は王政に臨んで夜中は読書にふけったが、自分に誤謬がないかと心配し、経典に乖離していないかと恐れた。そこで多くの儒者たちの中から劉珍らを抜擢し、博士・議郎および四つの府(役所)の掾史(属官)五十人余りとともに東観(図書館)に送り、伝記を讐校させた。[四](その)事業の完成が奏上されると、それぞれ格差を付けて葛布が下賜された。さらに中官・近臣らに詔勅を下して東観で経伝を講読させ、宮中の者に教育を施したので、左右の者たちの朗読の声は朝夕なく満ちみちた。新野君が薨去したとき、太后は自ら病気を見舞ったのであるが、(新野君が)臨終を迎えると悲哀のあまり体調を崩し、それはただならぬ様子であった。恵棟は言う。「『東観記』にいう。弱り切って骨まで浮き出し、自分の力で立つこともできなかった。」長公主赤綬恵棟は言う。「『独断』を調べてみるに、異姓の婦女のうち恩沢によって封ぜられた者は、格式を長公主と同等とする、とある。」東園秘器、玉飾りの着物に刺繍入りの死装束を贈与し、[五]さらに布三万匹、銭三千万を下賜したが、鄧騭らは銭や布を固辞して受け取らなかった。司空持節として葬儀を仕切らせ、格式を東海恭王と同等とし、敬君した。太后は諒闇が明けると、[六]

[一] 古いしきたりでは、衛士のうち任期を終えて帰郷する者があれば、は親しく饗宴を催してやった。前書(『漢書』)「蓋寛饒伝」の言う「歳末の交代に、上は饗宴に出席して衛卒を罷免する」とは、このことである。

[二] 『礼記』月令篇にいう。「大儺、旁磔、土牛があり、寒気を払う。」鄭玄注に言う。「とは陰の気である。この月、日ごとにを被るため、墳墓の四星の気が悪鬼となり、陰気が強くなるたび出没して人々に害をなすのだ。」それゆえ、これを追い退けるのである。

[三] 侲子とは逐疫をする人である。音は振(シン)。薛綜は『西京賦』に注して言う。「侲の意味は善である。善なる童幼子のことである。」『続漢書』に言う。「大儺では、中黄門の子弟より選ばれる十歳から十二歳までの百二十人を侲子とする。みな赤い帽子に黒い皮衣で、大きなを手に持つ。」

[四] 讐とは対することである。恵棟は言う。「劉向『別録』に言う。讐校というのは、一人が本を持ち、一人が対面して読み、まるで仇敵のようである。それゆえ讐校と言うのだ。」

[五] 東園は職名で、少府に属す。葬具の製造を管掌するので、それゆえ秘器と言っているのである。

[六] 諒闇とは廬のなかで服喪することである。あるいは「諒陰」とも書く。諒とは信のこと、陰とは黙のことである。哀しみにあるうちは沈黙を守ってしゃべらないという意味である。王先謙は言う。「官本ではこの下に本文がある。長いあいだ日照りが続いたため、太后は三日ごとに洛陽に御幸して囚人を取り調べ、裁決を下して死罪とされた三十六人、耐罪とされた八十人を釈放してやり、それ以外は死罪を右趾切断に減刑してやり、以下は司寇にまわした。以上三十八字。これは脱文である。」

七年正月、初めて太廟に入って七日間にわたりし、公卿・百官に格差を付けて下賜した。庚戌、宗廟を参詣し、命婦・羣妾を連れて儀式をけ、[一]皇帝と交献して親しく(酒を)薦め、儀式を済ませて帰ってきた。[二]そのとき詔勅を下して言った。「およそ食膳をお供えする際、その季節に合わさぬことが多く、あるいは鬱養強孰させ、『通鑑』胡注にいう。鬱養強孰とは、作物が季節に合わず充分成熟していないとき、土室を作って下から火であぶり、土の蒸気で蒸らして生長を助け、無理やり成熟を先取りすることを言うのである。彊の音は其両の反切(キョウ)。あるいは穴を掘って新芽を摘み、味は充分でないうえ生長を妨げておる。これが季節に沿って作物を育てるものといえようか!伝に『その季節であらねば食わじ』と言う。[三]今後、陵廟に参詣して御膳をお供えする者は、みな季節を待ってから献上するように。」およそ省略したものは二十三種になった。

[一] 相とは助けることである。『儀礼』に言う。「命夫とは男子が大夫になることである。命婦とは大夫の妻である。」

[二] 『周礼』にいう。宗廟の祭日の朝、王は龍の模様の礼服とを着用して入り、践祚して即位する。后は副禕(?)を着用し、王に付き従って入る。王は圭瓚の杯でもって地面に酒を注ぎ、亡骸に献ずることとし、続いて后が璋瓚の杯でもって地面に酒を注ぎ、亡骸に献ずることとする。それを交献と言うのであるが、儀式が終わるまで九回繰り返される。恵棟は言う。「『袁宏紀』にいう。五年冬、謁者劉珍が建白した。『密かに鑑みまするに、永平年間の初めに虎賁中郎将梁松が、皇太后は宗廟に入られ、陛下と交献して至孝の心を明らかになされるべきと申し、孝明皇帝が経典を遵奉して公卿・博士に議論させましたところ、当時の太傅鄧禹が梁松の言葉通りになされるべきと奏上いたし、それにより光烈皇后が宗廟に入られたのであります。皇太后におかれましては宗廟にお入りになり、光烈皇后の故事を倣われますよう。』その事案は公卿に下され、僉議の結果、劉珍の言葉通りになされるべきとされた。恵棟が思うに、母子の交献というのは古来そうした儀式がなく、それゆえ孝明皇帝は公卿・博士に議論させたのである。」

[三] 『論語』に言う。「季節をなさねば食わじ。」その作物の季節でなければ食べないという意味である。前書に邵信臣は言う。「季節でない作物は人を傷付けます。お供えすべきでありません。」

太后が朝政に臨んで以来、水害や日照りは十回もあり、四方の夷狄は外側より侵入し、盗賊どもが内側より蜂起していた。(太后は)人民が飢えていると聞くたび、ときには夜が明けるまで寝ないでいるなど、我が身を削って仕事に当たり、災厄から救い出そうとした。おかげで天下はまた平安となり、収穫も再び豊穣になっていった。

元初五年、平望侯劉毅は[一]太后が多大なる仁政を行っていることから、速やかに注記を設けられるべしと安帝に奏上した。「臣の聞きますところ、『易』の記載によって羲・農の皇徳が明らかとなり、[二]『書』の著述によって唐・虞の帝道が高められたとのことです。それゆえ聖明であっても必ず功績を竹帛に書き記し、管弦による音楽を流すのであります。[三]伏して思いまするに、皇太后におかれましては大聖の姿を承けて乾坤の徳を体得され、[四]虞妃の足跡に等しく、任姒の足跡に並び、[五]孝悌にして慈仁、允恭にして節約、贅沢の源を根絶して欲望の兆しを抑制され、内裏朝廷の位階を正して四海(天下)を教化なされました。[六]元興・延平年間に際しては、国家に太子や皇后がなかったため、天の兆しを仰ぎ見るとともに人々の評判を参考にして、陛下をお迎えして天下の主といたしましたので、漢室は安泰となり四海は静まったのでございます。またも洪水に遭遇し、東州では飢饉となりましたが、[七]元元に恩寵を垂れ賜い、冠蓋交路(?)、衣食を節約して群下に率先し、食膳を減らして驂を解き、黎苗(民衆)を裕福にされ、[八]惻隠の恩情は赤子を見るかのようでございます。[九]克己して過ちの責任を取り、卑賤な人でも抜擢してやり、晏晏の政治を尊んで[一〇]寛容な教化を敷き、[一一]滅亡した国を再興して断絶した家系を継続させ、功臣を取り上げて宗室を厚遇し、流刑者を呼び返して禁錮者を釈放しておられます。慈悲のなき政策には御心によって実行されず、旧典になき制度には朝議にも参加されません。弘徳は洋溢して宇宙を充足したまい、[一二]恩沢は豊沛として八方に広められ、華夏は教化を楽しみ戎狄は同化共存しており、大功は大漢において明らか、恩恵は民衆において加わり、巍巍たる業績は、聞くことができても真似られず、蕩蕩たる勲功は、語ることができても言い尽くせません。古の帝王は左右に史を控えており、[一三]漢の旧典は御代ごとに注記を置いておりました。恵棟は言う。「『芸文志』に『漢著記』百九十巻とある。『五行志』に『漢著記』はおよそ十二代、二百一十二年とある。谷永は、災害異変が八代の『著記』に及び、久しく解決したとの記録がない、と言っている。荀悦は内外の注記を復活させよとの説を唱えており、先帝の故事では、起居や日用の動静の節目ごとに必ずそれを書き記しており、その制度を復活して内史に管掌させ、それにより内向きの事を記録すべきだ、と言っている。」そもそも道義には崇高とそうでないものがあり、政治には進展とそうでないものがあるのです。もし善政を記さないで些細な異変ばかりを書くならば、それは堯・湯に洪水や日照りの責を負わせ、天まで煕く仮る美しさを咸無くしてしまうことになるのです。[一四]高宗・成王に雉の声や旋風の変を抱かせ、中興や太平の功績を無くしてしまうことになるのです。[一五]さかのぼって『詩(経)』『(尚)書』を調べますと、虞には二人の妃、周室には三人の母がおり、[一六]行いを正して徳を助け、[一七]閾を越えぬよう心がけており、[一八]内側ではお家騒動に遭い、外側では災害に遇うことは一度もございませんでした。大麓を総覧して天物を経営し、[一九]功徳の巍巍たること、これほどであったのでございます。なにとぞ史官に命じて長楽宮の注と聖徳の頌を著述させ、栄光を宣布して金石に勲功を刻み、日月にこれを県げて[二〇]悪党にこれを攄べ、もって陛下の烝烝たる孝心を明らかになさいますよう。」帝はこれを聞き入れた。[二一]

[一] 平望は北海郡に属す県で、今の青州北海県の西北平望台がその地である。別名を望海台という。王先謙は言う。「今の青州府寿光県の東にある。『郡国志』には(記載が)ないが、おそらく廃止されたのだろう。」

[二] 『易』の繋辞に言う。「古代、庖羲氏が天下に君臨していたとき、天を仰いで形象を観測し、地にうつ伏せて筋目を観察した。こうして初めて八卦を描き、神明の徳に通じて万物の情に類した。庖羲氏が没すると神農氏が立ち、木を切って鋤の刃を作り、木をしごいて鋤の柄を作り、鋤の利益を天下に教え広めた。」伏羲・神農を三皇と言う。それゆえ皇徳と言っているのである。

[三] 竹を簡冊と言い、帛を縑素と言う。黄帝以下の六代の音楽はみな功徳を顕彰するものであった。管弦による音楽を流すというのはそのことだ。

[四] 『易』に言う。「聖人はその徳を天地と和合させる。」

[五] 虞妃とは舜の妻であった娥皇・女英のことである。任は文王の母、姒は武王の母である。

[六] 『易』家人の卦に言う。「女が家中で正しく位置し、家を正すならば、天下は定まる。」『礼記』の言うには、東夷・西戎・南蛮・北狄、これらを四海と呼ぶ。

[七] 延平元年に安帝が即位すると六つの州で洪水になった。永初元年に司隷・兗・予・徐・冀・幷の六つの州の貧民に(食糧を)支給した。

[八] 『広雅』に言う。「苗とは衆である。」

[九] 隠とは痛むことである。『尚書』に言う。「赤子を守るようにして人々の平安を願う。」

[一〇] 『尚書』考霊燿曰:「文塞晏晏。」

[一一] 敷とは布くことである。『尚書』に言う。「五教を寛容にせよ。」

[一二] 洋溢とは多いさまを言う。

[一三] 『礼記』玉藻に言う。「行動は左史が記録し、言葉は右史が記録する。」

[一四] 咸は皆ということ、煕は広いことである。『尚書』に言う。「願わくば功績は咸煕めよ。」堯の朝政におけるあまたの功績をみな広めよと言うのである。仮の音は格(カク)で、至ることである。『尚書』に言う。「わが烈祖を祐け、皇天に格る。」伊尹が湯王を補佐して功績が天に聞こえると言うのである。堯は洪水に九年、湯は大日照りに七年遭った。

[一五] 高宗は殷王であり、小乙の子、名を武丁といった。成湯を祭ろうとしたとき雉が飛んできて鼎の耳に登って鳴いた。高宗は徳を修めて殷は中興された。成王が周公を疑ったとき雷電大風の変事が起こった。成王が過ちを改めたのは処刑の間際だった。

[一六] 『尚書』に言う。「嬀汭において二人の女を降嫁し、虞に連れ添わせた。」三人の母とは后稷の母姜嫄、文王の母大任、武王の母大姒を指す。『詩』大雅に言う。「その初めに人を生むは、これ姜嫄なり。」また言う。「大任の身重となりて、生むがこれ文王。」また言う。「太姒の徽音を嗣ぎて、則ち百はこれ男。」

[一七] 『詩』に言う。「まず烈考が有り、続いて文母が有る。」これが徳を助けること。劉攽は言う。「注について調べてみると今の詩ではみな右の字に作っている。右には有の音があり、有と作るべきでない。」

[一八] 閾とは門の仕切である。『左伝』に言う。「婦人は送迎するにも門を出ず、兄弟に会うにも閾を越えず。」

[一九] 麓とは録ということで、万機の政治を大いに統べることを言う。『書』に言う。「大麓に納める。」また言う。「天物を痛めつけ滅ぼす。」

[二〇] 『易』に言う。「天象を掲げて著名なるは日月ほど大なるはなし。」

[二一] 『広雅』に言う。「攄とは舒(のべる)ということである。」孔安国は『尚書』に注して言う。「烝烝とは進展することである。」

六年、太后は詔勅を下し、和帝の弟である済北・河間王の子女のうち五歳以上の四十人余り、また鄧氏の近縁の子孫三十人余りを徴し寄せ、ともに邸宅を開き、[一]経書について学ばせて自ら試験を行った。さらに幼い者たちには教育係を置かせ、朝夕、宮殿に入れて懇切丁寧に詔導してやり、恩愛ははなはだ手厚かった。[二]そして従兄である河南尹鄧豹・越騎校尉鄧康らに詔勅を下して述べた。「吾が子供たちを呼び入れて学官を置いた理由は、実にいま百王の疲弊を継承せんとしておるところ、時の風俗は浅薄になって巧みな詐偽が発生し、五経は衰退して教導する者はおらず、衰退を極めつつあり、それゆえ聖道を崇敬することで誤った風俗を正したく思っておるのだ。言い伝えにあるではないか。『満腹して日を過ごせば用心することがなくなる。厄介なことだ!』[三]今は末世であり、貴人・外戚といった俸禄を受ける家では、衣服は温かく飯は旨く、乗るのは堅固であり駆り立てるのは良好である。[四]しかしながら学術に対しては垣根に向かうようで(視野が狭く)、善悪を知らない。[五]それは従来における災禍失敗の原因である。永平年間に四姓の小侯をみな入学させたのは、[六]風俗を改めて軽薄を戒め、彼らを忠孝の道に返らせるためである。先公はすでに武功をもって竹帛に記され、さらに文徳をもって子孫を教化なされた。[七]それゆえよく束脩し、法の網に触れずに済んだのである。[八]誠に子供らをして上は祖先の勲功を述べさせ、下は詔書の本意を考えさせるに充分であろう。さあ、これに努めよ!」

[一] 『蒼頡篇』に言う。「邸とは舎である。」

[二] 詔とは告げることである。

[三] 『論語』の孔子の言葉である。人が日を過ごして満腹すると道義を心がけなくなる、と言うこと。厄介なこととは、最後まで遠大な志を抱かないままになる、と言うこと。

[四] 堅とは車の好いこと、良とは馬の善いことである。『墨子』に言う。「聖王が衣服の法を作れば、堅車良馬は貴ばれることはない。」

[五] 『尚書』に言う。「学ばざれば牆に面す。」

[六] 小侯の解説は『明帝紀』に見える。

[七] 先公とは鄧禹を指す。鄧禹には十三人の子があり、おのおの一芸を身に付けさせた。それゆえ文徳だと言っているのである。

[八] (束脩とは)よく自分を制約して修身することを言う。

鄧康は太后が久しく朝政に臨んでいたので、心底から畏怖を抱き、病気を口実に参朝しなかった。太后は内人を使者として彼を訪問させた。当時、宮中の下女として出入りしていた者は、多くの場合、良くも悪くも取り沙汰されるような事情を抱えていた。そのうち年を取った者はみな中大人と称していたが、(このとき)使者に立った者も、もともと鄧康の下女であったにもかかわらず、やはり自分を中大人だといって通してもらった。鄧康はそれを聞いて彼女を罵り、「汝は我が家から出ていったのだ。それなのにこんな真似をするのか!」と言った。下女は腹を立てて帰り、鄧康は仮病を使って不遜な言葉を吐いていますと(太后に)説明した。太后はかくて鄧康を官職から罷免して帰国させ、一族から戸籍を外して絶交した。

永寧二年二月、病に臥せって次第に重くなっていった。そこで手車に乗って前殿で侍中・尚書を引見し、それから北へ向かい太子が新たに修繕した宮殿を訪れた。帰還すると天下に大赦を下し、諸園の貴人・王・主・百官にそれぞれ格差を付けて銭布を賜った。詔勅に言う。「朕は無徳ながら天下の母となったが、天祐は薄く神助はなく、離別は早く憂患は大きかった。延平のころは海内に主なく、元元は災厄に遭い、累卵の危うきに置かれていた。[一]こつこつと苦心を重ね、あえて万乗を楽しみとしなかったのは、上は天を欺いて先帝に恥じることはなく、下は人に背いて本心に負い目を感じることなく、心から百姓たちの救済を願い、劉氏を安んじたく思っていたからだ。自分では気持ちが天地に通じて幸福を蒙りたいと念願していたのだが、哀しみは内外より起こり、痛ましきことは絶えなかった。[二]近ごろは病気のため仕事は滞り、長らく祭祀を行うこともできなかった。無理をして原陵に参上してから、ますます咳による吐血がひどくなり、とうとう治まらなくなってしまった。生死は大いなる定めであり、如何ともしがたいものだ。公卿百官はそれぞれ忠誠に尽力し、朝廷をお助けせよ。」三月、崩御した。在位二十年、齢四十一歳であった。汪文台は言う。「『御覧』百三十七に引く『続漢書』では、丙午の日と作る。」順陵に合葬された。

[一] 『説苑』に言う。「晋の霊公は贅沢にふけって九層の台を建造し、国家と人民は困窮していたのに功績が立てられないことを気にしていた。布令を下して『左右の側近で諫言する者は斬る』と言っていたが、荀息が拝謁を求めてきた。公は言った。『諫めるつもりか?』荀息は言った。『そんなことはよういたしませぬ。臣は十二個の碁石を積み上げることができますが、その上に九羽の鶏を載せたいと思います。』公は言った。『危ないな。』荀息は言った。『それ以上に危ないことがございます。公は九層の台を築かれましたが、(そのせいで)男女は耕すことも機織ることもできず、社稷は一度に滅亡しようとしております。ご主君は何をお望みなのでしょうか!』君は言った。『寡人の過ちである。』そこで台を破壊した。」

[二] 内外とは、新野君が薨じ、和帝・殤帝が崩御したことを言うのである。

論曰:鄧后称制終身,号令自出,術謝前政之良,身闕明辟之義,[一]至使嗣主側目,斂衽於虚器,[二]直生懐懣,懸書於象魏.[三]借之儀者,殆其惑哉![四]然而建光之後,王柄有帰,[五]遂乃名賢戮辱,便孽党進,[六]衰斁之来,茲焉有徴.[七]故知持権引謗,所幸者非己;焦心卹患,自強者唯国.[八]是以班母一説,闔門辞事;[九]愛姪微愆,髡剔謝罪.[一〇]将杜根逢誅,未值其誠乎![一一]但蹊田之牛,奪之已甚.[一二]

[一] 前政謂周公也.辟,君也.尚書曰「朕復子明辟」,言周公摂位,復還成王.今太后不還,故曰闕也.

[二] 器謂神器,諭帝位也.

[三] 象魏,闕也.直生,杜根等上書,請太后還政.

[四] 借猶仮也.殆,近也.言太后不還政於安帝,近可惑也.

[五] 太后建光之中崩,帰政安帝.

[六] 帝寵用乳母王聖及其女伯栄,出入宮掖,通伝姦賂,太尉楊震及鄧騭等皆被中官譖誅也.

[七] 斁,敗也.安帝臨政,衰敗逾甚,故曰有徴也.

[八] 言執持朝権以招衆謗者,所幸不為己身,唯憂国也.

[九] 太后兄大将軍騭,以母憂上書乞身,太后不許,以問班昭,乃許之.語見昭伝也.

[一〇] 太后兄騭子鳳受遺事洩,騭遂髡妻及鳳以謝天下.語見騭伝.

[一一] 誠,信也.言未為太后所信.

[一二] 左伝申叔時曰:「牽牛以蹊人之田而奪之牛,牽牛以蹊者信有罪矣,而奪之牛,罰已重矣.」此喻杜根.上書雖曰有罪,太后殺之為過甚也.

和熹鄧皇后紀

和熹鄧皇后諱綏,[一]太傅禹之孫也.父訓,護羌校尉;惠棟曰:「續漢書,訓有五男三女,長騭,次京﹑悝﹑宏﹑閭,女燕,次綏,綏卽后也,次容.燕早卒有子女,娥甫在襁褓時,后年十二,傷娥早孤,養視撫育,慈恩深至.」母陰氏,光烈皇后從弟女也.后年五歲,太傅夫人愛之,自為翦髮.夫人年高目冥,誤傷后額,惠棟曰:「東觀記,雖痛忍不言,一額盡傷.」忍痛不言.左右見者怪而問之,后曰:「非不痛也,太夫人哀憐為斷髮,難傷老人意.故忍之耳.」六歲能史書,[二]十二通詩﹑論語.諸兄每讀經傳,輒下意難問.[三]志在典籍,不問居家之事.母常非之,曰:「汝不習女工以供衣服,乃更務學,寧當擧博士邪?」后重違母言,晝修婦業,暮誦經典,家人號曰「諸生」.父訓異之,事無大小,輒與詳議.惠棟曰:「袁宏紀云,訓閨庭甚嚴,諸子進見未嘗賜席,至於后事無大小,每輒咨之.弟邠曰:平生不與諸男語,今豈年衰耶!訓曰:我不衰,是女雖小,諸兒無及者,必益於我家.是以奇之.」

[一] 蔡邕曰:「諡法,有功安人曰熹.」

[二] 史書,周宣王太史籒所作大篆十五篇也.前書曰「教學童之書」也.惠棟曰:「東觀記,后六歲,諸兄持后髮,后曰:身體髮膚受之父母,不敢毀傷孝之始也.柰何弄人髮乎!」

[三] 下意猶出意也.

永元四年,當以選入,會訓卒,后晝夜號泣,終三年不食鹽菜,憔悴毀容,親人不識之.后嘗夢捫天,[一]蕩蕩正靑,若有鍾乳狀,惠棟曰:「東觀記,滑如磄〓,有若鍾乳.」迺仰嗽飲之.以訊諸占夢,言堯夢攀天而上,湯夢及天而咶之,[二]斯皆聖王之前占,吉不可言.又相者見后驚曰:「此成湯之法也.」[三]家人竊喜而不敢宣.后叔父陔言:「常聞活千人者,子孫有封.兄訓為謁者,使修石臼河,何焯曰:「使修當作罷修.」惠棟曰:「修本治字.罷治石臼河,為不辭矣.袁紀,治石臼河甚有方,活數千人.蓋訓先治之,後知其難成,而復罷之也.」歲活數千人.天道可信,家必蒙福.」初,太傅禹歎曰:「吾將百萬之眾,未嘗妄殺一人,其後世必有興者.」先謙曰:「其字當衍.」

[一] 捫,摸也.

[二] 咶音是.惠棟曰:「周宣夢書,昔聖帝明皇之時,神氣炤然,先見故堯夢乘龍上天,湯夢布令天下,後皆有天下.咶,東觀記作舐.荀卿子曰:伏而咶天.注咶與舐同,咶亦作狧,用舌食也.」

[三] 續漢書曰:「相者待詔相工蘇文曰:『此成湯之骨法.』」

七年,后復與諸家子俱選入宮.后長七尺二寸,姿顏姝麗,[一]絕異於眾,左右皆驚.八年冬,入掖庭為貴人,時年十六.恭肅小心,動有法度.承事陰后,夙夜戰兢.接撫同列,常克己以下之,惠棟曰:「馬融論語注,克己約身也.」雖宮人隸役,皆加恩借.通鑑胡注,旣有以恩之,又假借以辭色.帝深嘉愛焉.及后有疾,特令后母兄弟入視醫藥,不限以日數.后言於帝曰:「宮禁至重,而使外舍久在內省,[二]上令陛下有幸私之譏,惠棟曰:「幸私,通鑑作,私幸.」下使賤妾獲不知足之謗.上下交損,誠不願也.」帝曰:「人皆以數入為榮,貴人反以為憂,深自抑損,誠難及也.」每有讌會,諸姬貴人競自修整,簪珥光采,袿裳鮮明,[三]而后獨著素,裝服無飾.汪文臺曰:「初學記十引續漢書云,衣不擇采裝不務飾.」其衣有與陰后同色者,卽時解易.若並時進見,則不敢正坐離立,行則僂身自卑.[四]帝每有所問,常逡巡後對,不敢先陰后言.帝知后勞心曲體,歎曰:「修德之勞,乃如是乎!」後陰后漸疎,每當御見,輒辭以疾.時帝數失皇子,后憂繼嗣不廣,恆垂涕歎息,數選進才人,通鑑胡注,西漢宮中爵號無才人,蓋東都所置也.以博帝意.

[一] 姝,美色也.詩曰:「彼姝者子.」

[二] 外舍,外家.

[三] 說文曰:「簪,笄也.珥,瑱也,以玉充耳.」釋名曰:「婦人上服曰袿.」

[四] 離,並也.禮記曰:「離坐離立,無往參焉.」

陰后見后德稱日盛,不知所為,遂造祝詛,欲以為害.帝嘗寢病危甚,陰后密言:「我得意,不令鄧氏復有遺類!」后聞,乃對左右流涕言曰:「我竭誠盡心以事皇后,竟不為所祐,而當獲罪於天.婦人雖無從死之義,然周公身請武王之命,[一]越姬心誓必死之分,[二]上以報帝之恩,中以解宗族之禍,下不令陰氏有人豕之譏.」[三]卽欲飲藥,宮人趙玉者固禁之,因詐言屬有使來,通鑑胡注,屬之欲反,會也.上疾已愈.后信以為然,乃止.明日,帝果瘳.

[一] 武王有疾,周公為之請命於大王﹑王季﹑文王,曰「若爾三王有丕子之責于天,以旦代某之身」也.

[二] 越姬,楚昭王之姬,越王句踐女也.昭王讌遊,越姬從,謂姬曰:「樂乎?」對曰:「樂則樂矣,而不可久也.」王曰:「願與子生死若此.」姬曰:「君王樂遊,要妾以死,不敢聞命.」後王病,有赤雲夾日如飛鳥.王問周太史.史曰:「是害王身,請移於將相.」王曰:「將相於孤,猶股肱也.」不聽.姬曰:「大哉君王之德.妾請從王死矣.昔日遊樂,是以不敢聽命,今君王復禮,國人為君王死,何況妾乎?妾願先驅狐狸於地下.昔日口雖不言,心許之矣.妾聞信者不負其心.」遂自殺.故曰「心誓」.事見列女傳也.

[三] 高帝愛幸戚夫人.帝崩,呂太后斷夫人手足,去眼薰耳,使居鞠室中,名曰「人彘」也.

十四年夏,陰后以巫蠱事廢,后請救不能得,帝便屬意焉.后愈稱疾篤,深自閉絕.會有司奏建長秋宮,帝曰:「皇后之尊,與朕同體,承宗廟,母天下,豈易哉!唯鄧貴人德冠後庭,乃可當之.」至冬,立為皇后.辭讓者三,然後卽位.手書表謝,深陳德薄,不足以充小君之選.是時,方國貢獻,競求珍麗之物,自后卽位,悉令禁絕,歲時但供紙墨而已.帝每欲官爵鄧氏,后輒哀請謙讓,故兄騭終帝世不過虎賁中郞將.

元興元年,帝崩,長子平原王有疾,而諸皇子夭沒,前後十數,後生者輒隱祕養於人閒.殤帝生始百日,后乃迎立之.尊后為皇太后,黃山曰:「殤帝生始百日,何能躬上皇太后尊號.特羣臣稱詔書尊之耳.然自是〓梁諸太后沿為典制矣.」太后臨朝.和帝葬後,宮人並歸園,太后賜周﹑馮貴人策曰:「朕與貴人託配後庭,共歡等列,十有餘年.不獲福祐,先帝早弃天下,孤心煢煢,[一]靡所瞻仰,夙夜永懷,感愴發中.今當以舊典分歸外園,慘結增歎,燕燕之詩,曷能喻焉?[二]其賜貴人王靑蓋車,采飾輅,驂馬各一駟,黃金三十斤,雜帛三千匹,白越四千端.」又賜馮貴人王赤綬,以未有頭上步搖﹑環珮,加賜各一具.[三]

[一] 煢煢,孤特之貌也.詩曰:「煢煢在疚.」

[二] 詩鄁鄘序曰:「衞莊姜送歸妾也.」其詩曰:「燕燕于飛,差池其羽.之子于歸,遠送于野.瞻望不及,泣涕如雨.」

[三] 周禮「王后首服為副」,所以副首為飾,若今步搖也.釋名曰:「皇后首副,其上有垂珠,步則搖也.」

是時新遭大憂,法禁未設.宮中亡大珠一篋,太后念,欲考問,必有不辜.通鑑胡注,考問則下之,獄辭所連及,必有無辜而被逮者.乃親閱宮人,觀察顏色,卽時首服.又和帝幸人吉成,御者共枉吉成以巫蠱事,惠棟曰:「漢律,敢蠱人及教令者,棄市.王制執左道.鄭氏曰:若今巫蠱.袁宏紀,成御者志恨成,乃為桐人,書太后姓字埋之.」遂下掖庭考訊,辭證明白.太后以先帝左右,待之有恩,平日尚無惡言,今反若此,不合人情,更自呼見實覈,果御者所為.莫不歎服,以為聖明.常以鬼神難徵,淫祀無福,乃詔有司罷諸祠官不合典禮者.又詔赦除建武以來諸犯妖惡,及馬﹑竇家屬所被禁錮者,皆復之為平人.減太官﹑導官﹑尚方﹑內者服御珍膳靡麗難成之物,[一]自非供陵廟,稻梁米得導擇,先謙曰:「導當作〓.前書百官表,少府屬有〓官.」朝夕一肉飯而已.舊太官湯官經用歲且二萬萬,[二]太后敕止曰,殺省珍費,惠棟曰:「曰字誤,當作日.」自是裁數千萬.及郡國所貢,皆減其過半.悉斥賣上林鷹犬.其蜀﹑漢釦器九帶佩刀,並不復調.[三]止畫工三十九種.又御府﹑尚方﹑織室錦繡﹑冰紈﹑綺縠﹑金銀﹑珠玉﹑犀象﹑瑇瑁﹑彫鏤翫弄之物,皆絕不作.離宮別館儲峙米糒薪炭,悉令省之.[四]又詔諸園貴人,其宮人有宗室同族若羸老不任使者,令園監實覈上名,自御北宮增喜觀閱問之,恣其去留,卽日免遣者五六百人.

[一] 漢官儀曰:「太官,主膳羞也.」前書音義曰:「導官,主導擇米以供祭祀.尚方,掌工作刀劒諸物及刻玉為器.」漢官儀曰:「內者,主帷帳.」並署名也.惠棟曰:「方言,東齊言,布帛之細者曰綾,秦晉曰靡.」郭璞曰:「靡,細好也.」薛君韓詩章句曰:「靡,好也.」

[二] 經,常也.

[三] 蜀,蜀郡也.漢,廣漢郡也.二郡主作供進之器,元帝時貢禹上書「蜀﹑廣漢主金銀器,各用五百萬」是也.釦音口,以金銀緣器也.

[四] 儲峙猶蓄積也.糒,乾飯.

及殤帝崩,太后定策立安帝,猶臨朝政.以連遭大憂,百姓苦役,[一]殤帝康陵方中祕藏,[二]及諸工作,事事減約,十分居一.

[一] 大憂謂和帝﹑殤帝崩.

[二] 方中,陵中也.冢藏之中,故言祕也.

詔吿司隸校尉﹑河南尹﹑南陽太守曰:「每覽前代外戚賓客,假借威權,輕薄謥詷,[一]至有濁亂奉公,通鑑胡注,言其挾勢恣橫,奉公之吏為所濁亂也.高誘云,濁亂也.為人患苦.咎在執法怠懈,不輒行其罰故也.今車騎將軍騭等雖懷敬順之志,而宗門廣大,姻戚不少,賓客姦猾,多干禁憲.[二]其明加檢敕,勿相容護.」自是親屬犯罪,無所假貸.惠棟曰:「續漢書,后性謙愼,兄弟中外皆先帝所寵,自攝政之後,內檢左右,外抑宗族.」太后愍陰氏之罪廢,赦其徙者歸鄉,敕還資財五百餘萬.永平元年,惠棟曰:「依安帝紀,乃永初元年事,平當作初.」爵號太夫人為新野君,萬戶供湯沐邑.[三]

[一] 言怱遽也.謥音七洞反.詷音洞.

[二] 干,犯也.

[三] 湯沐者,取其賦稅以供湯沐之具也.

二年夏,京師旱,親幸洛陽寺錄冤獄.有囚實不殺人而被考自誣,羸困輿見,惠棟曰:「東觀記,便輿見.便當作箯.」郭璞注三倉曰:「箯輿土器.」說文,箯竹輿也.畏吏不敢言,將去,擧頭若欲自訴.太后察視覺之.卽呼還問狀,具得枉實,通鑑胡注,得其見枉之實也.卽時收洛陽令下獄抵罪.行未還宮,澍雨大降.惠棟曰:「東觀記,太后稱制,永初二年三月,京師旱,至五月朔,太后幸洛陽,省獄,擧冤囚.杜冷不殺人,自誣,被掠羸困,便輿見,畏吏,不敢自理.吏將去,微疾擧頸,若欲有言,太后察覺之,卽呼還問狀,遂信,卽時收令下獄抵罪,尹左遷.行未還宮,澍雨大降.」

三年秋,太后體不安,左右憂惶,禱請祝辭,願得代命.太后聞之,卽譴怒,竊敕掖庭令以下,但使謝過祈福,不得妄生不祥之言.惠棟曰:「東觀記,左右咸流涕,歎太后臨大病,不自顧,而念兆民.後病瘳,豈非天地之應與?」舊事,歲終當饗遣衞士,[一]大儺逐疫.[二]太后以陰陽不和,軍旅數興,詔饗會勿設戲作樂,減逐疫侲子之半,[三]悉罷象橐駝之屬.豐年復故.太后自入宮掖,從曹大家受經書,惠棟曰:「續漢書,后自入宮,遂博覽五經﹑傳記﹑圖讖﹑內事﹑風角﹑占候﹑老子﹑孟子﹑禮記﹑法言,不觀浮華申韓之書.」兼天文﹑筭數.晝省王政,夜則誦讀,而患其謬誤,懼乖典章,乃博選諸儒劉珍等及博士﹑議郞﹑四府掾史五十餘人,詣東觀讐校傳記.[四]事畢奏御,賜葛布各有差.又詔中官近臣於東觀受讀經傳,以教授宮人,左右習誦,朝夕濟濟.及新野君薨,太后自侍疾病,至乎終盡,憂哀毀損,事加於常.惠棟曰:「東觀記,羸,痩骨,立不能自勝.」贈以長公主赤綬﹑惠棟曰:「案獨斷,異姓婦女以恩澤封者,儀比長公主也.」東園祕器﹑玉衣繡衾,[五]又賜布三萬匹,錢三千萬.騭等遂固讓錢布不受.使司空持節護喪事,儀比東海恭王,諡曰敬君.太后諒闇旣終,[六]

[一] 舊事,衞士得代歸者,上親饗焉.前書蓋寬饒傳曰「歲盡交代,上臨饗罷衞卒」是也.

[二] 禮記月令:「有大儺,旁磔,土牛,以送寒氣.」鄭玄注云:「儺,陰氣也.此月之中,日歷虛﹑危,有墳墓四星之氣為厲鬼,隨彊陰出以害人.」故儺卻之也.

[三] 侲子,逐疫之人也,音振.薛綜注西京賦云:「侲之言善也,善童幼子也.」續漢書曰:「大儺,選中黃門子弟,年十歲以上,十二以下,百二十人為侲子.皆赤幘皂製,執大鞉.」

[四] 讐,對也.惠棟曰:「劉向別錄云,讐校者,一人持本,一人讀對,若怨家,故曰讐校.」

[五] 東園,署名,屬少府.主作凶器,故言祕也.

[六] 諒闇,居喪之廬也.或為「諒陰」.諒,信也;陰,默也.言居憂信默不言.先謙曰:「官本,此下正文有,久旱,太后比三日幸洛陽,錄囚徒,理出死罪三十六人,耐罪八十人,其餘減罪死右趾以下至司寇,三十八字.此脫.」

七年正月,初入太廟,齋七日,賜公卿百僚各有差.庚戌,謁宗廟,率命婦羣妾相禮儀,[一]與皇帝交獻親薦,成禮而還.[二]因下詔曰:「凡供薦新味,多非其節,或鬱養強孰,通鑑胡注,鬱養強孰者,言物非其時未及成熟,為土室蓄火其下,使土氣蒸暖鬱而養之,彊使先時成孰也.彊音,其兩反.或穿掘萌牙,味無所至而夭折生長,豈所以順時育物乎!傳曰:『非其時不食.』[三]自今當奉祠陵廟及給御者,皆須時乃上.」凡所省二十三種.

[一] 相,助也.儀禮曰:「命夫者,男子之為大夫也.命婦者,大夫之妻也.」

[二] 周禮,宗廟祭之日,旦,王服袞冕而入,立於阼;后服副禕,從王而入.王以圭瓚酌鬱鬯以獻尸,次后以璋瓚酌鬱鬯以獻尸,此謂交獻也.卒事凡九獻焉.惠棟曰:「袁宏紀,五年冬,謁者劉珍上言曰:竊見,永平初,虎賁中郞將梁松言,皇太后宜入廟,與陛下交獻,以彰至孝之心.孝明皇帝務遵經典,使公卿﹑博士議,時太傅鄧禹奏宜如松言,光烈皇后於是入廟.皇太后宜入宗廟,如光烈皇后故事.事下公卿,僉曰:宜如珍言.棟案,母子交獻,古無是禮,故孝明皇帝使公卿﹑博士議也.」

[三] 論語曰:「不時不食.」言非其時物則不食之.前書邵信臣曰:「不時之物,有傷於人,不宜以奉供養.」

自太后臨朝,水旱十載,四夷外侵,盜賊內起.每聞人飢,或達旦不寐,而躬自減徹,以救災阸,故天下復平,歲還豐穰.

元初五年,平望侯劉毅[一]以太后多德政,欲令早有注記,上書安帝曰:「臣聞易載羲農而皇德著,[二]書述唐虞而帝道崇,故雖聖明,必書功於竹帛,流音於管弦.[三]伏惟皇太后膺大聖之姿,體乾坤之德,[四]齊蹤虞妃,比跡任姒.[五]孝悌慈仁,允恭節約,杜絕奢盈之源,防抑逸欲之兆.正位內朝,流化四海.[六]及元興﹑延平之際,國無儲副,仰觀乾象,參之人譽,援立陛下為天下主,永安漢室,綏靜四海.又遭水潦,東州飢荒.[七]垂恩元元,冠蓋交路,菲薄衣食,躬率羣下,損膳解驂,以贍黎苗.[八]惻隱之恩,猶視赤子.[九]克己引愆,顯揚仄陋.崇晏晏之政,[一〇]敷在寬之教.[一一]興滅國,繼絕世,錄功臣,復宗室.追還徙人,蠲除禁錮.政非惠和,不圖於心;制非舊典,不訪於朝.弘德洋溢,充塞宇宙;[一二]洪澤豐沛,漫衍八方.華夏樂化,戎狄混幷.丕功著於大漢,碩惠加於生人.巍巍之業,可聞而不可及;蕩蕩之勳,可誦而不可名.古之帝王,左右置史;[一三]漢之舊典,世有注記.惠棟曰:「藝文志,漢著記百九十卷.五行志,凡漢著記十二世,二百一十二年.谷永言:災異有八世著記,久不塞除之語.荀悅有復內外注記之說云,先帝故事,有起居日用動靜之節必書焉.宜復其式,內史掌之,以紀內事.」夫道有夷崇,治有進退.若善政不述,細異輒書,是為堯湯負洪水大旱之責,而無咸熙假天之美;[一四]高宗成王有雉雊迅風之變,而無中興康寧之功也.[一五]上考詩書,有虞二妃,周室三母,[一六]修行佐德,[一七]思不踰閾.[一八]未有內遭家難,外遇災害,覽總大麓,經營天物,[一九]功德巍巍若茲者也.宜令史官著長樂宮注﹑聖德頌,以敷宣景燿,勒勳金石,縣之日月,[二〇]攄之罔極,以崇陛下烝烝之孝.」帝從之.[二一]

[一] 平望,縣,屬北海郡,今靑州北海縣西北平望臺是也,一名望海臺也.先謙曰:「在今靑州府壽光縣東.郡國志,無,蓋省.」

[二] 易繫辭曰:「古者庖羲氏之王天下,仰觀象於天,俯觀法於地,於是始畫八卦,以通神明之德,以類萬物之情.庖羲氏沒,神農氏作,斲木為耜,揉木為耒,耒耜之利,以教天下.」伏羲﹑神農為三皇,故言皇德也.

[三] 竹謂簡冊,帛謂縑素.黃帝以下六代樂,皆所以章顯功德,是流音於管弦.

[四] 易曰:「聖人與天地合其德.」

[五] 虞妃,卽舜妻娥皇﹑女英也.任,文王母;姒,武王母也.

[六] 易家人卦曰:「女正位乎內,正家而天下定矣.」禮記曰,東夷﹑西戎﹑南蠻﹑北狄,謂之四海.

[七] 延平元年,安帝初卽位,六州大水,永初元年,稟司隸﹑兗﹑豫﹑徐﹑冀﹑幷六州貧人也.

[八] 廣雅云:「苗,眾也.」

[九] 隱,痛也.尚書曰「若保赤子,惟人其康乂」也.

[一〇] 尚書考靈燿曰:「文塞晏晏.」

[一一] 敷,布也.尚書曰:「五教在寬.」

[一二] 洋溢,言多.

[一三] 禮記玉藻曰:「動則左史書之,言則右史書之.」

[一四] 咸,皆也.熙,廣也.尚書曰:「庶績咸熙.」言堯之朝政,眾功皆廣.假音格,至也.尚書曰:「祐我烈祖,格于皇天.」言伊尹佐湯,功至於天也.堯洪水九載,湯大旱七年.

[一五] 高宗,殷王也,小乙之子,名武丁.當祭成湯,有飛雉升鼎耳而雊,高宗修德,殷道中興.成王疑周公,乃有雷電大風之變,成王改過,幾致刑措也.

[一六] 尚書曰:「釐降二女于嬀汭,嬪于虞.」三母謂后稷母姜嫄,文王母大任,武王母大姒也.詩大雅曰:「厥初生人,時維姜嫄.」又曰:「大任有身,生此文王.」又曰「太姒嗣徽音,則百斯男」也.

[一七] 詩云:「旣有烈考,亦有文母.」是佐德.劉攽曰:「注,案今詩皆作右字,右有音耳,不當作有也.」

[一八] 閾,門限也.左傳曰:「婦人送迎不出門,見兄弟不踰閾.」

[一九] 麓,錄也.言大錄萬機之政.書曰「納於大麓」,又曰「暴殄天物」也.

[二〇] 易曰:「縣象著明,莫大於日月.」

[二一] 廣雅曰:「攄,舒也.」孔安國注尚書曰:「烝烝猶進進也.」

六年,太后詔徵和帝弟濟北﹑河閒王子男女年五歲以上四十餘人,又鄧氏近親子孫三十餘人,並為開邸第,[一]教學經書,躬自監試.尚幼者,使置師保,朝夕入宮,撫循詔導,恩愛甚渥.[二]乃詔從兄河南尹豹﹑越騎校尉康等曰:「吾所以引納羣子,置之學官者,實以方今承百王之敝,時俗淺薄,巧偽滋生,五經衰缺,不有化導,將遂陵遲,故欲襃崇聖道,以匡失俗.傳不云乎:『飽食終日,無所用心,難矣哉!』[三]今末世貴戚食祿之家,溫衣美飯,乘堅驅良,[四]而面牆術學,不識臧否,[五]斯故禍敗所從來也.永平中,四姓小侯皆令入學,[六]所以矯俗厲薄,反之忠孝.先公旣以武功書之竹帛,兼以文德教化子孫,[七]故能束脩,不觸羅網.[八]誠令兒曹上述祖考休烈,下念詔書本意,則足矣.其勉之哉!」

[一] 蒼頡篇曰:「邸,舍也.」

[二] 詔,吿也.

[三] 論語孔子言也.言人終日飽食,不措心於道義.難矣哉,言終無遠大也.

[四] 堅謂好車,良謂善馬也.墨子曰:「聖王為衣服之法,堅車良馬,不知貴也.」

[五] 尚書曰「弗學牆面」也.

[六] 小侯,解見明紀.

[七] 先公謂鄧禹.禹有子十三人,各使守一蓺,故曰文德也.

[八] 言能自約束修整也.

康以太后久臨朝政,心懷畏懼,託病不朝.太后使內人問之.時宮婢出入,多能有所毀譽,其耆宿者皆稱中大人,所使者乃康家先婢,亦自通中大人.康聞,詬之曰:「汝我家出,爾敢爾邪!」婢怒,還說康詐疾而言不遜.太后遂免康官,遣歸國,絕屬籍.

永寧二年二月,寢病漸篤,乃乘輦於前殿,見侍中﹑尚書,因北至太子新所繕宮.還,大赦天下,賜諸園貴人﹑王﹑主﹑羣僚錢布各有差.詔曰:「朕以無德,託母天下,而薄祐不天,早離大憂.延平之際,海內無主,元元戹運,危於累卵.[一]勤勤苦心,不敢以萬乘為樂,上欲不欺天愧先帝,下不違人負宿心,誠在濟度百姓,以安劉氏.自謂感徹天地,當蒙福祚,而喪禍內外,傷痛不絕.[二]頃以廢病沈滯,久不得侍祠,自力上原陵,加欬逆唾血,遂至不解.存亡大分,無可柰何.公卿百官,其勉盡忠恪,以輔朝廷.」三月崩.在位二十年,年四十一.汪文臺曰:「御覽百三十七引續漢書作,丙午日.」合葬順陵.

[一] 說苑曰:「晉靈公驕奢,造九層之臺,國困人貧,恥功不成.令曰:『左右諫者斬也.』荀息乃求見.公曰:『諫邪?』息曰:『不敢.臣能累十二博棊,加九雞子其上.』公曰:『危哉.』息曰:『復有危於此者.公為九層之臺,男女不得耕織,社稷一滅,君何所望!』君曰:『寡人之過.』乃壞臺焉.」

[二] 內外謂新野君薨及和﹑殤二帝崩也.

論曰:鄧后稱制終身,號令自出,術謝前政之良,身闕明辟之義,[一]至使嗣主側目,斂衽於虛器,[二]直生懷懣,懸書於象魏.[三]借之儀者,殆其惑哉![四]然而建光之後,王柄有歸,[五]遂乃名賢戮辱,便孽黨進,[六]衰斁之來,茲焉有徵.[七]故知持權引謗,所幸者非己;焦心卹患,自強者唯國.[八]是以班母一說,闔門辭事;[九]愛姪微愆,髡剔謝罪.[一〇]將杜根逢誅,未值其誠乎![一一]但蹊田之牛,奪之已甚.[一二]

[一] 前政謂周公也.辟,君也.尚書曰「朕復子明辟」,言周公攝位,復還成王.今太后不還,故曰闕也.

[二] 器謂神器,諭帝位也.

[三] 象魏,闕也.直生,杜根等上書,請太后還政.

[四] 借猶假也.殆,近也.言太后不還政於安帝,近可惑也.

[五] 太后建光之中崩,歸政安帝.

[六] 帝寵用乳母王聖及其女伯榮,出入宮掖,通傳姦賂,太尉楊震及鄧騭等皆被中官譖誅也.

[七] 斁,敗也.安帝臨政,衰敗逾甚,故曰有徵也.

[八] 言執持朝權以招眾謗者,所幸不為己身,唯憂國也.

[九] 太后兄大將軍騭,以母憂上書乞身,太后不許,以問班昭,乃許之.語見昭傳也.

[一〇] 太后兄騭子鳳受遺事洩,騭遂髡妻及鳳以謝天下.語見騭傳.

[一一] 誠,信也.言未為太后所信.

[一二] 左傳申叔時曰:「牽牛以蹊人之田而奪之牛,牽牛以蹊者信有罪矣,而奪之牛,罰已重矣.」此喻杜根.上書雖曰有罪,太后殺之為過甚也.