利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

蓋勲伝

蓋勲元固といい、敦煌広至の人である。[一]家は代々、二千石取りを輩出した。[二]はじめ孝廉に推挙されて漢陽長史となった。ときに武威太守が権勢を嵩にかけ、思うがままに汚職横領に手を染めていたので、従事である武都蘇正和はその罪を調べて処断した。涼州刺史梁鵠は貴族外戚を恐れはばかっていたので、蘇正和を殺して怨みを避けようと思い、それを蓋勲に相談した。蓋勲はもともと蘇正和の宿敵であったので、ある人はこれを機会に報復してはどうかと蓋勲に勧めた。蓋勲は「だめだ。善良な人間を殺そうと企てるのは忠義ではないし、他人の危機に便乗するのは仁愛ではない」と言い、そこで梁鵠を諫めて「そもそもいでうのは、そいつにりをさせるためです。[三]鷙りのあと煮殺してしまっては何の役に立ちましょう?」と言った。梁鵠はその言葉を聞き入れた。蘇正和は命拾いしたのを喜び、蓋勲のもとへ行って謝意を伝えようとしたが、蓋勲は会おうともせず、「私は梁使君(梁鵠)のために取り計らっただけで、蘇正和のためにしたわけじゃない」と言って、最初と同じように怨みつづけた。[四]

[一] 広至は県名である。故城は今の瓜州常楽県の東にあり、いま県泉堡と呼ばれているのがそれである。王先謙は言う。「今の安西州の東である。」

[二] 『続漢書』に言う。「曾祖父の蓋進は漢陽太守、祖父の蓋彪大司農である。」『謝承書』に言う。「父の字は思斉といい、官位は安定属国都尉まで昇った。」

[三] 紲とは繋ぐこと。『広雅』に言う。「とはまえること。」『蒼頡解詁』に言う。「鳶とは鳴くことである。」食の音は嗣(シ)。王先謙は言う。「官本注が鳴を鴟と作るのが正しい。」

[四] 『続漢書』にいう。中平元年に黄巾賊が蜂起すると、の武威太守である酒泉黄雋が徴し寄せられたが、期日に遅れてしまった。梁鵠が上奏のうえ黄雋を誅殺しようとしたが、蓋勲が取りなしてやったので命拾いした。黄雋は黄金二十斤でもって蓋勲への謝礼としたが、蓋勲は「私はあなたの罪が八議(八ヶ条の免罪条件)に相当すると思ったので、あなたを弁護したのです。私がどうして売名行為などいたしましょう!」と黄雋に告げ、飽くまで辞退して受け取らなかった。

中平元年(一八四)、北地族が辺章らとともに隴右を侵害すると、刺史左昌は軍勢動員に便乗して数千万(の銭)を断じ、盗んだ。[一]蓋勲が固く諫めたので、左昌は腹を立て、蓋勲に別働隊として阿陽に屯させ、賊軍の鋭鋒を防がせた。[二]軍事にかこつけて彼に罪を着せるつもりである。ところが蓋勲はたびたび戦功を立てたのであった。辺章らはそのまま金城を攻撃して郡守陳懿を殺したので、蓋勲はこれを救援すべきだと左昌に進言したが、聞き入れられなかった。辺章らが進軍しての左昌を包囲すると、恵棟は言う。「冀は刺史の治府である。」左昌は恐怖して蓋勲を召し寄せた。蓋勲はもともと従事辛曾・孔常とともに阿陽に屯していたが、左昌からの檄文が届くと、辛曾らはためらって駆けつけることを承知しなかった。蓋勲は腹を立てて言った。「むかし荘賈が期限に遅れたときは穣苴が剣を奮ったものです。[三]いまの従事どのは古代の監軍(荘賈)と同じ轍ではございませんか!」辛曾らは恐怖して彼の言う通りにした。蓋勲はただちに軍兵を率いて左昌の救援に向かい、到着すると辺章らを責めなじり、叛逆の罪にあたると咎め立てた。(辺章の兵士たちは)みな「もし左使君があなたの言葉を早く取り入れ、軍兵を我々に差し向けてくれていれば、庶民は自分から改心できたのです。今となっては既に罪重く、もはや降服することはできません」と言い、包囲を解いて立ち去った。左昌は(銭を)断じ盗んだことが咎められて徴し返され、扶風宋梟が後任にあたった。[四]宋梟は侵害叛乱がたびたび起こることを悩み、蓋勲にこう告げた。「涼州では学問をやる者が少ないから、たびたび反乱暴動を起こすのである。今から『孝経』の写本を数多く作り、家々にそれを学ばせよう。人々に義理を悟らせるのだ。」蓋勲は諫めた。「むかし太公田和)はに封ぜられ、崔杼は君主を殺害いたしましたし、伯禽の侯となり、慶父は位を簒奪いたしました。[五]この二つの国は学者が少なかったのでしょうか?いま災難を静める手立てに窮しているわけでもないのに、にわかに尋常でない仕事をやるとなると、ただ一州の怨みを招くばかりでなく、朝廷からも笑いぐさにされましょうぞ。蓋勲にはその利点が理解できませぬ。」宋梟は聞き入れず、ついに奏上のうえそれを実施した。案の定、詔書による問責を被り、無能怠慢であるとして徴し返された。このとき叛乱した羌族が畜官護羌校尉夏育を包囲しており、[六]蓋勲は州郡の軍兵を糾合して夏育の救援に向かったが、狐槃まで行ったところで羌族どもに敗れてしまった。蓋勲は敗残兵百人余りを拾って魚麗の陣を布いた。[七]羌族の精鋭騎兵が猛烈な挟撃をかけてきたため、数多くの士卒が死んだ。蓋勲も三ヶ所に傷を負ったが、決して動揺することなく、木のを指差しながら[八]「必ずここへ私を葬ってくれよ」と言った。句就種の羌人である滇吾は[九]昔から蓋勲に可愛がられていたので、武器で人々を制止しながら「蓋長史は賢人である。お前たちがあの人を殺したならば天に背くことになるぞ」と言った。蓋勲が見上げながら罵った。「死に損ないの裏切り者め、お前らに何が分かるというのだ?さっさと私を殺しに来い!」人々は互いに顔を見合わせて驚いた。滇吾が馬から飛びおりて(その馬を)蓋勲に進上したが、蓋勲は乗ることを承知せず、とうとう賊兵に捕まってしまった。羌族・族どもは彼の義勇に感服し、あえて危害を加えようとはせず、漢陽へと送り返した。後任の刺史楊雍はただちに上表して蓋勲に漢陽太守を領させた。当時、人々は飢えに苦しみ、互いに(隣家に侵入して)食糧を探りあった。蓋勲は食糧を調して彼らに与えることとし、[一〇]真っ先に(自分の)家から食糧を出して人々の手本としたので、命拾いした者は千人余りにもなった。恵棟は言う。「『袁紀』にいう。富豪の中には食糧を隠して提供しない者があった。蓋勲は『私の罪だな』と言い、自分の家から食糧を出して彼らの手本とした。郡中がそれを聞くや、督促しなくても米倉へ送られてきたものが二千斛余りにもなった。」

[一] 断ずるとは割截ること。

[二] 阿陽は天水郡に属する県。恵棟は言う。「後漢は天水を漢陽と改称している。」

[三] 斉の景公の時代、燕・晋が斉に侵入した。景公は司馬穣苴を将として防がせ、寵臣の荘賈に監軍を命じた。(荘賈は)穣苴と翌朝の会合を約束したが、荘賈はもともと驕り高ぶっていたので、夕方になってからやって来た。穣苴は軍正を呼んで「軍法では期限に遅れた者をどうすることなっているか?」と訊ねると、「斬首相当です」との答えだった。こうして荘賈を斬首して三軍に布告した。銭大昕は言う。「後漢では明帝の諱を避けて荘を厳と改めていたのに、ここでは荘賈と言っている。『董卓伝』にも穣苴が荘賈を斬首したとの発言がある。『明帝紀』には、楚の荘王は災害もないのに戒めと恐れを抱いた、とある。みな後世の校正者が無学であったため、いちいち改めたものである。『西南夷伝』に、楚の頃襄王の時代、将の荘豪を派遣した、とあり、また、滇王は荘蹻の子孫である、と言っている。『西羌伝』には、魯の荘公が秦を討伐した、とある。これらは蔚宗(范曄)が事実を述べた言葉であるから、漢の諱を避けていないのである。」

[四] 『続漢書』では梟の字を泉と作っている。汪文台は言う。「范(范曄)が梟と作るのも間違いだし、泉と作るのも間違っている。おそらく本来は因と作っていたものを、音が近いため誤って淵と作られ、さらに諱を避けて泉と作られたものだろう。」

[五] 崔杼は斉の大夫。斉の荘公がかつて彼の妻と交わったことがあったので、崔杼はこれを殺したのである。慶父は魯の荘公の弟。荘公の子のが即位し、これが湣公なのであるが、慶父は湣公を襲撃して殺した。いずれも『史記』に見えている。

[六] 『前書(漢書)』尹翁帰伝に言う。「処罰が決まれば畜官の管理に回した。」『音義』に言う。「右扶風は牧畜の行われる場所であり、牧場管理の属官がある。それゆえ畜官と言うのである。畜の音は許救の反切(キュウ)。」恵棟は言う。「夏育のことは『鮮卑伝』に見える。」王先謙は言う。「官本では官をすべて宮と作る。」

[七] 麗の音は離(リ)。『左伝』に言う。「王が諸侯を率いてを討伐すると、鄭原繁・高渠彌は公を奉じて魚麗の陣を布いた。先鋒は片寄って後詰めは隊伍を組み、隊伍は弱点の修復にあたる。」杜預の注に言う。「これが魚麗の陣法である。」『恵棟』は言う。「『晋書』載記に言う。狐槃は天水冀県にあり。『袁宏紀』では孤盤と作る。」

[八] 表とはのこと。

[九] 句就は羌族の一種である。句の音は古侯の反切(コウ)。

[一〇] 調するとは発(徴発)するということ。

のちに官職を退いたが、徴し出されて討虜校尉を拝命した。恵棟は言う。「『袁紀』にいう。蓋勲の治績は西方の州で明らかであったが、耿鄙の敗北は必至であろうと知り、自ら退職して家に帰った。それから徴し寄せられて武都太守となり、詔勅によって大将軍何進・上軍校尉蹇碩が蓋勲を見送った。京師ではそれを栄誉なことだと評判した。まだ武都に到着せぬうちに、徴し返されて討虜校尉になった。」霊帝劉宏)が引見して「天下の者どもは何が苦しゅうてこのような反乱を起こすのか?」と訊ねると、蓋勲は「ご寵臣の子弟が混乱を起こしているのでございます」と述べた。このとき宦者である上軍校尉蹇碩が同座していたので、帝が振り返って蹇碩を問い詰めると、蹇碩は恐怖し、どう答えればよいか分からなかった。そして、このことから蓋勲に恨みを抱くようになったのだ。帝がまた蓋勲に「私はかつて平楽観に軍隊を並ばせ、中蔵の財宝をたくさん出して兵士に与えたことがあったが、どう思われるかな?」[一]と告げると、蓋勲は「臣は『先王は恩徳をかすのに軍兵を観せませんでした』[二]と聞いております。いま賊軍は遠方にありますのに近傍で布陣なさるのは、果毅を明らかにすることにはならず、ご武勇を熟れ腐らせるだけでございましょう」[三]と答えた。帝は言った。「素晴らしい。君に会うのが遅すぎたのが残念だ。羣臣どもはそんなことを一度も言ってくれなかったよ。」

[一] 中蔵とは内蔵すること。

[二] 『国語』に言う。「穆王犬戎を征討しようとしたとき、祭公謀父が諫めて言った。『なりませぬ。先王は恩徳を曜かすのに軍兵を観せませんでした。』」韋昭の注に言う。「曜とは明らかにすること。観とは示すことである。」王先謙は言う。「官本では曜を耀と作る。」

[三] 『左伝』に言う。「軍事は果毅を明らかにして、それを聴く。これを武と言う。敵を殺すことを果と呼び、果を行うことを毅と言う。」

蓋勲はそのころ宗正劉虞佐軍校尉袁紹とともに禁兵(近衛軍)を共同統括していた。蓋勲は劉虞・袁紹に告げた。「私がを拝察いたすに、上はたいそうご聡明であらせられます。ただ左右の者に押し込められておるのです。もし協力して寵臣どもを誅殺し、それから英俊たちを呼んで抜擢し、漢室を復興できたならば、功績を遂げたあと引退するのも爽快なことではございませんか!」劉虞・袁紹の方でももともと計画を立てていたので、このことから連絡を取り合うようになった。まだ実行に至らぬうちに、司隷校尉張温が蓋勲を京兆尹に推挙した。帝は蓋勲を側近くに引き寄せたく思っていたところだったが、蹇碩らは内心、彼をうとましく思っていたので、みなで張温の上奏に従うよう勧めた。結局、京兆尹を拝命することになった。

ときの長安県令楊党は父親が中常侍であり、権勢を嵩にかけて貪欲放埒であった。蓋勲は捜査の結果、彼が一千万余りを収賄したことをつかんだ。貴族外戚たちがみな彼のために(見逃してやってくれと)申し入れたが、蓋勲は聞き入れず、事実そのままを報告、同時に楊党の父についても言及した。捜査を遂行せよとの詔勅が下り、京師に威光を震わせた。そのころ小黄門である京兆高望尚薬監を務め、皇太子(劉弁?)に寵愛されていた。太子は高望の子高進を孝廉にしてくれるよう蹇碩を通じて依頼してきたが、蓋勲は登用を承知しなかった。ある人が「皇太子はご主君の片腕で、高望はそのお気に入りですし、蹇碩は帝のご寵臣です。それなのにあなたは彼らに逆らっておられる。いわゆる三つの怨みがを作るというものでしょう」と言うと、蓋勲はこう言った。「賢者を選抜するのはお国に報いるためである。賢者でないのを推挙せずに死んだとて、何を悔やむことがあろう!」蓋勲は外地にいたとはいえ、軍事国政の機密事項は、逐一、帝がいつも宸筆の詔勅で彼に諮問した。[二]たびたび賞賜を与えられ、たいそう親任されるありさまは朝臣以上であった。恵棟は言う。「『袁紀』にいう。蓋勲の身は外地にあったとはいえ、たいそう親任され、琴詩十二章を著述して奏上すると、帝はそれを褒めたたえた。」

[一] 府とはまりのこと。恵棟は言う。「『魯語』にいう。子叔声伯が言った。苦成氏には三つの亡び(の要因)があります。徳行は少ないのに寵愛は多く、位階は低いのに国政への参与を望み、大きな功績があるわけでもないのに大きな俸禄を求めており、みな怨みの府でございます。怨みで三府を作るのは多すぎると言うべきです、と。韋昭は言う。怨みの聚まるところなので、府と言うのである。」

[二] 『続漢書』に言う。「このとき、漢陽の叛乱者王国が軍勢十万人余りでもって陳倉を攻めたので、三輔は震えおののいた。蓋勲は郡兵五千人を統括していたが、一万人に満たしてほしいと自ら要請するとともに、処士である扶風の孫瑞鷹鷂都尉桂陽魏傑破敵都尉、京兆の杜楷威虜都尉弘農楊儒鳥撃都尉長陵第五雋清寇都尉に任用すべきと上表した。この五人の都尉はみな古くから有名であったが、すべて蓋勲に所属することになった。機密事項は、逐一、霊帝が宸筆の詔勅で以て彼に諮問した。」恵棟は言う。「注の孫瑞の上に士字が抜けている。また魏傑については、『献帝紀』に歩兵校尉魏傑とあり、この人物のことである。」王先謙は言う。「官本の注では、その手で詔勅を認めたの上に以の字がない。」

帝が崩御すると、董卓少帝劉弁)を廃位して何太后を殺害した。蓋勲は手紙を送って言った。「むかし伊尹・霍光は非常措置により功績を立てましたが、それでも肝を冷やさせるものです。あなたのような醜い小童が、どうしてそんなことをやり遂げられましょう?祝賀する者が門前にいるとき、哀弔する者は草廬におるのです。慎まずにはいられませんぞ!」[一]董卓は手紙を受け取ると、彼をたいそう恐れる気持ちになった。徴し寄せられて議郎になった。このとき左将軍皇甫嵩の精兵三万人が扶風に屯しており、蓋勲は密かに手を結んで董卓を討伐しようとしていた。ちょうど皇甫嵩もお徴しを受けたので、蓋勲は軍勢も少なくて単独で自立することもできまいと、一緒に京師へ帰還したのである。公卿以下、董卓にへりくだらぬ者はなかったが、ただ蓋勲だけは礼法を主張して長揖(軽いお辞儀)をするだけだったので、見ていた者はみな血色を失った。董卓が司徒王允に「よき司隷校尉を得たいものじゃが、誰にすべきかな?」と訊ねると、王允は「ただ蓋京兆しかおりませぬ」と言った。董卓は「かの人の明智は余りある。とすれば雄職(要職)に就けたとしても不充分じゃ」と言い、そこで越騎校尉とした。董卓はまた長らく禁兵を統括させておきたくなく、またもや出向させて潁川太守とした。まだ郡に到着せぬうちに、王先謙は言う。「『書鈔』七十六の『謝承書』に言う。蓋勲が潁川太守に昇進すると、民衆官吏は思わず詠嘆の声をもらした、と。これはつまり、すでに郡に到着していたということだ。あるいは、程なく徴し返されたため、その前評判を思慕したものであろうか。」京師に徴し返された。ときに河南尹朱雋が軍事問題について董卓に陳述すると、董卓が朱雋を叱責して言った。「私は百戦百勝してきたし、それは心で思い描いた通りだったのだ。あなたは妄言して私の刀を汚してはならぬ。」蓋勲が「むかしは武丁ほどの明君でさえ諫言を求めたものです。[二]それなのに、あなた程度の者が他人の口を閉ざそうとなさるのですか?」と言うと、董卓が「あいつをからかっただけじゃ」と言うので、蓋勲は「怒鳴りながらからかうなど聞いたことがございませぬが?」と言った。董卓はとうとう朱雋に謝った。蓋勲は剛直不屈の人ではあったが、内心では董卓に嫌気が差しており、失意の中、背中にを患って卒去した。ときに五十一歳。董卓からの贈り物を受け取ってはならぬと遺言した。董卓は表向きに寛容さを示したく思い、東園の秘蔵の器物を弔いの贈り物として下賜されたいと上表し、礼法の定めに従って亡骸を見送った。安陵に埋葬された。

[一] 『孫卿子荀子)』に言う。「慶賀する者は座敷におり、哀弔する者は村里におる。幸福と災禍は隣り合わせ、その入口を見分けられる者はいない。」

[二] 武丁とは王の高宗である。傅説に「あなたの気持ちを話して朕の心を清めてくれ」と告げると、傅説は王に「ただ木訥として掟に従うだけならば正しき者ですが、君主として諫言に従うならば聖なる者でございます」と答えた。『尚書』に見える。恵棟は言う。「この言葉は『楚語』に見えている。梅氏(梅賾)の説は東晋以降に出たものだから、蓋元固がどうしてそれを参照できよう。」

子の蓋順の官位は永陽太守まで昇った。