利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

劉寵伝

劉寵祖栄といい、東萊牟平の人で、悼恵王の子孫である。[一]悼恵王の子が孝王劉将閭で、劉将閭の末子が牟平侯に封ぜられて子孫はそこに住まいした。父の劉丕は手広く学んで「通儒」と呼ばれた。恵棟は言う。「丕は本とも作る。『続漢書』に言う。劉本は師について経伝を授かり、諸書を広く学んで『通儒』と呼ばれ、賢良方正に推挙されて般の県長となり、在官のまま卒去した。」

[一] 悼恵王劉肥高祖劉邦)の子である。

劉寵は若くして父の学業を授かり、経典に明るいことから孝廉に推挙されて、東平陵県令に叙任され、[一]仁愛と恩恵によって官吏・民衆に愛された。恵棟は言う。「『続漢書』に言う。このとき民衆の風俗は奢侈贅沢であったが、劉寵は官職に就くと、自ら倹約に努めて民衆の模範となり、礼儀によって上下の秩序を定めたので、都会でも田舎でも(彼を)顕彰した。職務に就いて数年、母が病気になったため官職を棄てて帰郷した。」母が病気にかかったので官職を棄てて去ったが、百姓たちが見送ろうとして道を塞ぎ、車を進ませることができなかった。そこで身軽な服に着替えて飛ぶように帰っていった。

[一] 東平陵は県名で、済南郡に属している。恵棟は言う。「『続漢書』に言う。劉寵は経書に明るく行動も修まっていたので孝廉に推挙され、光祿大夫より四行に挙げられた。」

のちに四たび昇進して予章太守となり、さらに三たび昇進して会稽太守を拝命した。恵棟は言う。「『続漢書』に言う。我が身を正して下の者に率先すると、郡内は大いに治まった。」田舎の民草は愿朴で、白髪になっても市井に入らない者がいて、[一]官吏からはひどく除け者にされていた。劉寵は(お役所仕事の)煩雑さを取り除き、法律違反を禁止したので郡内は大いに教化され、徴し出されて将作大匠になった。山陰県の五・六人の老人がいて、尨眉白髪であったが、[二]若邪山の谷間から出てきて、[三]一人が百銭づつ献上して劉寵を見送った。劉寵は彼らをねぎらいながら言った。「父老よ、どうして自分を苦しめるのでしょう?」答えて言った。「山谷の田舎書生でござれば、恵棟は言う。「『袁宏紀』では『山谷の田舎爺でござれば、生まれてこのかた郡県に行ったこともござらぬ』と言っている。何焯は、ここ(本伝)では鄙(田舎)の下に老(爺)の字が一つ抜けているのだと言っている。」王補は言う。「『通鑑』は『范書』に従って老の字がない。思うに、『范書』の場合は生(書生)の字句が断絶しており、『袁紀』では生の字を下の句に属させて読むべきということになる。鄙生という語句は『范書』にしばしば見られるが、しかしながら、上の『田舎の民草は愿樸で、白髪になっても市井に入らない者がいる』を受ければ、『袁紀』が合理的である。」いまだ郡朝を存じませぬ。『通鑑』胡注にいう。郡が政務を執ることを郡朝といい、府が政務を執ることを府朝という。他の太守の時代には、役人どもが民間から(金品を)要求して夜中になっても収まらず、それに犬が夜っぴて吠え続け、民草は安心することもできかねました。明府が車を降りて(着任して)からというもの、犬は夜中に吠えず、民衆は役人を見なくなりました。年老いてから聖明(の時代)に遭遇いたしましたが、いま(官職を)棄てて立ち去られるとお聞きしたので、体を起こしてお見送りに参ったのでございます。」劉寵は言った。「の政治がどうして公のお言葉ほどのものでありましょう?父老には苦労をお掛けしました!」一人につき一枚づつ大銭を受け取った。汪文台は言う。「『呉志』劉繇伝注の『続漢書』に言う。会稽では劉寵を一銭太守と呼んだが、彼の清潔さはこのようなものであった。」

[一] 愿とは謹しむことである。『風俗通』に言う。「俗語で市井というが、市に行くとき売り物があるべきなら、当然、井戸の傍らでまず(商品を)洗い、それから市に行くべき、と言うのである。『春秋井田記』を慎重に調べてみると、人は三十歳になると百畝の田をもらって五人を養い、五人を一戸とする。(五人とは自分のほか)父母妻子である。公田を十畝、住居を五畝で、田は合せて一頃十五畝分づつ、八世帯で九頃二十畝になり、一つの井戸を共有する。住居を真ん中にするのは人を尊重するからである。公田をそれに次とするのは公を重んじるからである。私田を外にするのは私を賤しむからである。井田の意義は、一に地気を洩らさないこと、二に家ごとの費用を節約すること、三に風俗を同じくすること、四に(農耕に)巧みな者とまずい者を合わせること、五に財貨を流通させることである。井田ごとに取引を行い、交易が終わると帰ってくる。それゆえ市井と言うのである。」劉攽は言う。「注に『市井というが、市に行くとき売り物があるべきなら、当然、井戸の傍らで』とあるが、文章を検討すると、上の当(べき)の字が一つ多い。」

[二] 尨とは混じることである。年老いた者の眉は白と黒が混じるのである。

[三] 若邪は今の越州会稽県の東南にある。

宗正・大鴻臚に転任した。延熹四年(一六一)、黄瓊に代わって司空となったが、濃霧や酷暑のため罷免された。しばらくして将作大匠を拝命し、ふたたび宗正になった。建寧元年(一六八)、王暢に代わって司空となり、重ねて司徒・太尉へと昇進した。汪文台は言う。「『御覧』二百七・『書鈔』三十八・『類聚』四十七・『謝承書』では、劉寵は司徒になっても粗末な布をかぶって眠っていたと言う。」二年、日食のため罷免命令を受け、郷里に帰った。恵棟は言う。「『続漢書』に言う。劉寵は三たび宰相の位を退いたが、故郷に帰ったり京師に上ったりするたび、いつも道に降りて副え馬を外したので、すれ違う人も彼に気付く者はいなかった。」

劉寵は前後して二郡の宰領を経験し、卿相(大臣)に累進したが、しかし清潔倹約で質素であったので王先謙は言う。「官本は清を准と作り、劉攽の『文章を検討すると、准と言うのはまるで意味をなさない。おそらく本来これは廉の字だったのだろう』という言葉を引用している。」家には財貨の蓄えがなかった。かつて京師を出たおりのこと。亭舎で休もうとしたが、亭の役人が彼を押しとどめながら言った。「整頓掃除して劉公を待っているのだ。(ここで休息を)してはならぬ。」劉寵は何も言わずに立ち去った。当時の人々は彼の長者ぶりを称えた。王補は言う。「『袁紀』にいう。劉寵の衣服はくたくた車馬はぼろぼろ、彼が人と付き合うときもねんごろであった。しかしながら朝廷にあっては姿勢を正して冒しがたく、私人としても、門を閉じて住まいは静かで賓客を迎え入れることもなく、子孫に教育を与えるだけであった。そのため進んでは憎まれることはなく、退いても誹謗することはなかった。」老病のため家で卒去した。

弟を劉方といい、官位は山陽太守まで昇った。恵棟は言う。「劉方は別名を劉輿ということが『続漢書』に見える。」銭大昕は言う。「それは別人の劉方だ。」劉方には二人の子がいて、劉岱は字を公山といい、劉繇は字を正礼といった。兄弟は同じくらい名声があった。[一]

[一] 『呉志』に言う。「平原陶丘洪が劉繇を推薦して茂才に推挙させようとした。刺史は言った。『前年は公山を推挙したのに、どうしてまた正礼を推挙できよう?』陶丘洪は言った。『もし明君をして先に公山を用いさせ、後で正礼を抜擢させれば、いわゆる長い道のりを行くに二頭の龍を制御し、千里を行くに麒麟を招くというもので、また結構なことではございませぬか?』」陳景雲は言う。「使明君(明君をして…させる)は明使君と作るべきである。漢代の人は、州将をこのように呼んでいた。」

董卓洛陽に入ると、劉岱は侍中から出向して兗州刺史になった。己を虚しくして人々を愛したので士人の拠り所になった。恵棟は言う。「『英雄記』に言う。劉岱は孝悌にして仁恕、己を虚しくして他人を受け入れた。」初平三年(一九二)、青州黄巾賊が兗州に入って任城国の鄭遂を殺し、転進して東平に侵入した。劉岱はこれに攻撃をかけて戦死した。

興平年間(一九四~一九六)、劉繇は揚州牧・振威将軍になった。当時、袁術淮南を占拠しており、劉繇はそこで住まいを曲阿に移した。ちょうど中国が混乱しているときで、士人の友の多くが南方に逃れてきたが、劉繇は手を引いてかくまってやり優劇を共にしたので、蘇輿は言う。「優は裕福、劇は艱難である。ちょうど甘苦を共にするといった意味である。」大変な名声を得られた。袁術が孫策を派遣して劉繇を攻め破らせたので予章に逃れたが、病気のため卒去した。

劉寵傳

劉寵字祖榮,東萊牟平人,齊悼惠王之後也.[一]悼惠王子孝王將閭,將閭少子封牟平侯,子孫家焉.父丕,博學,號為通儒.惠棟曰:「丕,一作本.續漢書云,本師受經傳,博學羣書,號為通儒,擧賢良方正,為般長,卒官.」

[一] 悼惠王肥,高祖子也.

寵少受父業,以明經擧孝廉,除東平陵令,[一]以仁惠為吏民所愛.惠棟曰:「續漢書云,是時民俗奢泰,寵到官,躬儉訓民,以禮上下有序,都鄙有章.視事數年,以母病棄官歸.」母疾,棄官去.百姓將送塞道,車不得進,乃輕服遁歸.

[一] 東平陵,縣名,屬濟南郡也.惠棟曰:「續漢書云,寵以經明行修,擧孝廉.光祿大夫察四行.」

後四遷為豫章太守,又三遷拜會稽太守.惠棟曰:「續漢書云,正身率下,郡中大治.」山民愿朴,乃有白首不入市井者,[一]頗為官吏所擾.寵簡除煩苛,禁察非法,郡中大化.徵為將作大匠.山陰縣有五六老叟,尨眉皓髮,[二]自若邪山谷閒出,[三]人齎百錢以送寵.寵勞之曰:「父老何自苦?」對曰:「山谷鄙生,惠棟曰:「袁宏紀云,山谷鄙老,生未嘗到郡縣.何焯云,此鄙下脫一老字.」王補曰:「通鑑,從范書無老字.按如范書,則生字句絕,袁紀,則生字當屬下句讀.鄙生字,范書凡數數見,然承上山民愿樸,乃有白首不入市井者,則袁紀為合.」未嘗識郡朝.通鑑胡注,郡聽事曰郡朝,府聽事曰府朝.它守時吏發求民閒,至夜不絕,或狗吠竟夕,民不得安.自明府下車以來,狗不夜吠,民不見吏.年老遭値聖明,今聞當見棄去,故自扶奉送.」寵曰:「吾政何能及公言邪?勤苦父老!」為人選一大錢受之.汪文臺曰:「吳志劉繇傳注續漢書云,會稽號寵為一錢太守,其清如是.」

[一] 愿,謹也.風俗通曰:「俗說市井者,言至市當有所鬻賣,當於井上,先濯乃到市也.謹案春秋井田記,人年三十,受田百畝,以食五口.五口為一戶,父母妻子也.公田十畝,廬舍五畝,成田一頃十五畝.八家而九頃二十畝,共為一井.廬舍在內,貴人也.公田次之,重公也.私田在外,賤私也.井田之義,一曰無洩地氣,二曰無費一家,三曰同風俗,四曰合巧拙,五曰通財貨.因井為市,交易而退,故稱市井」也.劉攽曰:「注市井者,言至市當有所鬻賣,當於井上.案文,多上一當字.」

[二] 尨,雜也.老者眉雜白黑也.

[三] 若邪,在今越州會稽縣東南也.

轉為宗正﹑大鴻臚.延熹四年,代黃瓊為司空,以陰霧愆陽免.頃之,拜將作大匠,復為宗正.建寧元年,代王暢為司空,頻遷司徒﹑太尉.汪文臺曰:「御覽二百七﹑書鈔三十八﹑類聚四十七﹑謝承書云,劉寵為司徒,臥麤布被.」二年,以日食策免,歸鄉里.惠棟曰:「續漢書云,寵三去相位,輒歸本土往来京師,常下道脫驂,過人莫知焉.」

寵前後歷宰二郡,累登卿相,而清約省素,先謙曰:「官本,清作准,引劉攽云:按文,言准都無義,蓋本是廉字.」家無貨積.嘗出京師,欲息亭舍,亭吏止之,曰:「整頓洒埽,以待劉公,不可得也.」寵無言而去,時人稱其長者.王補曰:「袁紀,寵薄衣服弊車馬,其與人交恂恂.然在朝,正色不可干,以私,閉門靜居,不接賓客,教誨子孫而已.故進不見惡,退無謗言.」以老病卒于家.

弟方,官至山陽太守.惠棟曰:「方一名輿,見續漢書.」錢大昕曰:「此別一劉方.」方有二子:岱字公山,繇字正禮.兄弟齊名稱.[一]

[一] 吳志曰:「平原陶丘洪薦繇,欲令擧茂才.刺史曰:『前年擧公山,柰何復擧正禮?』洪曰:『若使明君用公山於前,擢正禮於後,所謂御二龍於長塗,騁騏驥於千里,不亦可乎?』」陳景雲曰:「使明君,當作明使君.漢代人,稱州將如此.」

董卓入洛陽,岱從侍中出為兗州刺史.虛己愛物,為士人所附.惠棟曰:「英雄記云,岱孝悌仁恕,虛己以受人.」初平三年,青州黃巾賊入兗州,殺任城相鄭遂,轉入東平.岱擊之,戰死.

興平中,繇為揚州牧﹑振威將軍.時袁術據淮南,繇乃移居曲阿.値中國喪亂,士友多南奔,繇攜接收養,與同優劇,蘇輿曰:「優裕,劇艱也.猶言與同甘苦.」甚得名稱.袁術遣孫策攻破繇,因奔豫章,病卒.