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原著作者:【むじん書院】

華陽国志 巻一

巴志

昔在唐堯,洪水滔天.鯀功無成,聖禹嗣興,導江疏河,百川蠲脩;封殖天下,因古九囿以置九州.仰稟參伐,俯壤華陽,黑水、江、漢為梁州.厥土青黎.厥田惟下上.厥賦惟下中.厥貢璆、鐵、銀、鏤、砮、磬、熊、羆、狐、狸、織皮.於是四奧既宅,九州逌同,六府孔修,庶土交正,厎眘財賦,成貢中國.蓋時雍之化,東被西漸矣.

歷夏、殷、周,九州牧伯率職.周文為伯,西有九國.及武王克商,幷徐合青,省梁合雍,而職方氏猶掌其地,辨其土壤,甄其寶利.起于秦帝.漢興,高祖藉之成業.乃改雍曰涼,革梁曰益.故巴、漢、庸、蜀屬益州.至魏咸熙元年平蜀,始分益州巴、漢七郡置梁州.治漢中.以相國參軍中山耿黼為刺史.元康六年,廣漢益州,更割雍州之武都、陰平,荊州之新城、上庸、魏興以屬焉.凡統郡一十一,縣五十八.

『洛書』曰:「人皇始出,繼地皇之後,兄弟九人,分理九州,為九囿.人皇居中州,制八輔.」華陽之壤,梁岷之域,是其一囿;囿中之國,則巴蜀矣.其分野,輿鬼、東井.其君,上世未聞.五帝以來,黃帝、高陽之支庶,世為侯伯.及禹治水命州,巴、蜀以屬梁州.禹娶於塗山,辛、壬、癸、甲而去.生子啟,呱呱啼,不及視.三過其門而不入室,務在救時.今江州塗山是也,帝禹之廟銘存焉.會諸侯於會稽,執玉帛者萬國,巴蜀往焉.周武王伐紂,實得巴蜀之師,著乎『尚書』.巴師勇銳,歌舞以淩殷人,倒戈.故世稱之曰,「武王伐紂,前歌後舞」也.武王既克殷,以其宗姬封於巴,爵之以子.古者,遠國雖大,爵不過子.故吳楚及巴皆曰子.

其地,東至魚復,西至僰道,北接漢中,南極黔涪.土植五榖.牲具六畜.桑、蠶、麻、苧,魚、鹽、銅、鐵、丹、漆、茶、蜜,靈龜、巨犀、山雞、白雉,黃潤、鮮粉,皆納貢之.其果實之珍者,樹有荔支蔓有辛蒟,園有芳蒻、香茗,給客橙、蕟.其藥物之異者,有巴戟天、椒.竹木之貴者,有桃支、靈壽.其名山有塗、籍、靈臺、石書、刊山.其民質直好義.土風敦厚,有先民之流.故其詩曰:「川厓惟平,其稼多黍.旨酒嘉穀,可以養父.野惟阜丘,彼稷多有.嘉穀旨酒,可以養母.」其祭祀之詩曰:「惟月孟春,獺祭彼崖.永言孝思,享祀孔嘉.彼黍既潔,彼儀惟澤.蒸命良辰,祖考來格.」其好古樂道之詩曰:「日月明明,亦惟其名.誰能長生,不朽難獲.」又曰:「惟德實寶,富貴何常.我思古人,令問令望.」而其失,在於重遲魯鈍.俗素樸,無造次辨麗之氣.其屬有濮、賨、苴、共、奴、獽、夷、蜑之蠻.

周之仲世,雖奉王職,與秦、楚、鄧為比.『春秋』魯桓公九年,巴子使韓服告楚,請與鄧為好.楚子使道朔將巴客聘鄧.鄧南鄙攻而奪其幣.巴子怒,伐鄧,敗之.其後巴師、楚師伐申.楚子驚巴師.魯莊公十八年,巴伐楚,克之.魯文公十六年,巴與秦、楚共滅庸.哀公十八年,巴人伐楚,敗於鄾.是後,楚主夏盟,秦擅西土,巴國分遠,故於盟會希.戰國時,嘗與楚婚.及七國稱王,巴亦稱王.

周之季世,巴國有亂.將軍蔓子請師於楚,許以三城.楚王救巴.巴國既寧,楚使請城.蔓子曰:「藉楚之靈,克弭禍難.誠許楚王城.將吾頭往謝之.城不可得也.」乃自刎,以頭授楚使.王歎曰:「使吾得臣若巴蔓子,用城何為!」乃以上卿禮葬其頭.巴國葬其身,亦以上卿禮.

周顯王時,楚國衰弱.秦惠文王與巴、蜀為好.蜀王弟苴私親於巴.巴蜀世戰爭,周慎王五年,蜀王伐苴.侯苴侯奔巴.巴為求救於秦.秦惠文王遣張儀、司馬錯救苴、巴.遂伐蜀,滅之.儀貪巴道之富,因取巴,執王以歸.置巴、蜀、及漢中郡.分其地為一縣.儀城江州.司馬錯自巴涪水,取楚商於之地,為黔中郡.

秦昭襄王時,白虎為害,自秦、蜀、巴、漢患之.秦王乃重募國中:「有能煞虎者邑萬家,金帛稱之.」於是夷朐忍廖仲、藥何、射虎秦精等乃作白竹弩於高樓上,射虎.中頭三節.白虎常從羣虎,瞋恚,盡搏煞羣虎,大呴而死.秦王嘉之曰:「虎歷四郡,害千二百人.一朝患除,功莫大焉.」欲如要,王嫌其夷人.乃刻石為盟要:復夷人頃田不租,十妻不算;傷人者,論;煞人雇死,倓錢盟曰:「秦犯夷,輸黃龍一雙.夷犯秦,輸清酒一鍾.」夷人安之.漢興,亦從高祖定秦,有功.高祖因復之,專以射白虎為事.戶歲出賨錢口四十.故世號白虎復夷.一曰板楯蠻.今所謂弜頭虎子者也.

漢高帝滅秦,為漢王,王巴、蜀.閬中人范目,有恩信方略,知帝必定天下,說帝,為募發賨民,要與共定秦.秦地既定,封目為長安建章鄉侯.帝將討關東,賨民皆思歸;帝嘉其功而難傷其意,遂聽還巴.謂目曰:「富貴不歸故鄉,如衣繡夜行耳.」徙封閬中慈鄉侯.目固辭.乃封渡沔縣侯.故世謂:「三秦亡,范三侯」也.目復除民羅、朴、昝、鄂、度、夕、龔七姓不供租賦.閬中有渝水.賨民多居水左右,天性勁勇;初為漢前鋒,陷陣,銳氣喜武.帝善之,曰:「此武王伐紂之歌也.」乃令樂人習學之.今所謂『巴渝舞』也.

天下既定,高帝乃分巴置廣漢郡.孝武帝又兩割置犍為郡.故世曰「分巴割蜀,以成犍、廣」也.

自時厥後,五教雍和,秀茂挺逸.英偉既多,而風謠旁作.故朝廷有忠貞盡節之臣,鄉黨有主文歌詠之音.巴郡譙君黃,仕成哀之世,為諫議大夫.數進忠言.後違避王莽.又不事公孫述.述怒,遣使賚藥酒以懼之.君黃笑曰:「吾不省藥乎?」其子瑛,納錢八百萬,得免.國人作詩曰:「肅肅清節士,執德寔固貞.違惡以授命,沒世遺令聲.」巴郡陳紀山,為漢司隸校尉,嚴明正直.西虜獻眩,王庭試之,分公卿以為嬉.紀山獨不視.京師稱之.巴人歌曰:「築室載直梁,國人以貞真.邪娛不揚目,枉行不動身.姧軌僻乎遠,理義協乎民.」巴郡嚴王思,為揚州刺史,惠愛在民.每當遷官,吏民塞路攀轅,詔遂留之.居官十八年卒,百姓若喪考妣.義送者賚錢百萬,欲以贍王思家.其子徐州刺史不受.送吏義崇不忍持還,乃散以為食,食行客.巴郡太守汝南應季先善而美之,乃作詩曰:「乘彼西漢,潭潭其淵.君子愷悌,作民二親.沒世遺愛,式鏡後人.」

漢安帝時,巴郡太守連失道.國人風之曰:「明明上天,下土是觀.帝選元后,求定民安.孰可不念,禍福由人.願君奉詔,惟德日親.」永初中,廣漢、漢中羌反,虐及巴郡.有馬妙祈妻義,王元憒妻姬,趙蔓君妻華夙喪夫,執恭姜之節,守一醮之禮,號曰「三貞」.遭亂兵迫匿,懼見拘辱,三人同時自沈于西漢水而沒.死,有黃鳥鳴其亡処,徘徊焉.國人傷之,乃作詩曰:「關關黃鳥,爰集于樹.窈窕淑女,是繡是黼.惟彼繡黼,其心匪石.嗟爾臨川,邈不可獲!」永建中,泰山吳資元約為郡守,屢獲豐年.民歌之曰:「習習晨風動,澍雨潤我苗.我后卹時務,我民以優饒.」及資遷去,民人思慕,又曰:「望遠忽不見.惆悵嘗〓佪.恩澤實難忘,悠悠心永懷.」

孝桓帝時,河南李盛仲和為郡守,貪財重賦.國人刺之曰:「狗吠何諠諠,有吏來在門.披衣出門應,府記欲得錢.語窮乞請期,吏怒反見尤.旋顧家中,家中無可與.思往從鄰貸,鄰步人以言遺.錢錢何難得,令我獨憔悴!」漢末政衰,牧守自擅,民人思治,作詩曰:「混混濁沼魚,習習激清流.溫溫亂國民,業業仰前脩.」其德操、仁義、文學、政幹,若洛下閎、任文公、馮鴻卿、龐宣孟、玄文和、趙溫柔、龔升侯、楊文義等,播名立事,言行表世者,不勝次載也.

孝安帝元初三年,涼州羌反入漢中,殺太守董炳,擾動巴中.中郎將尹就討之,不克.益州諸郡皆起兵禦之.三府擧廣漢王堂為巴郡太守.撥亂致治,進賢達士.貢孝子嚴永,隱士黃錯,名儒陳髦,俊士張璊,皆至大位.益州刺史張喬,表其尤異.徙右扶風.民為立祠.

孝桓帝以幷州刺史秦山但望字伯闔為巴郡太守.勤卹民隱.郡文學掾宕渠趙芬,掾弘農馮尤,墊江龔榮、王祈、李溫,臨江嚴就、胡良、文愷,安漢陳禧,閬中黃閶,江州毋成、陽譽、喬就、張紹、牟存、平直等,詣望自訟曰:「郡境廣遠,千里給吏.兼將人從,冬往夏還.夏單冬複.惟踰時之役,懷怨曠之思.其憂喪吉凶,不得相見.解緩補綻,下至薪菜之物,無不躬買於市.富者財得自供.貧者無以自久.是以清儉,枉夭不聞.加以水陸艱難,山有猛禽;思迫期會,隕身江河,投死虎口.咨嗟之歎,歷世所苦.天之應感,乃遭明府,欲為更新.童兒匹婦,懽喜相賀:『將去遠就近,釋危蒙安.』縣無數十,民無遠邇,恩加未生,澤及來世.巍巍之功,勒於金石.乞以文書付計掾史.人鬼同符,必獲嘉報.芬等幸甚.」望深納之.郡戶曹史枳白望曰:「芬等前後百餘人,歷政訟訴,未蒙感寤.明府運機布政,稽當皇極.為民庶請命救患,德合天地,澤潤河海.開闢以來,今遇慈父.經曰:『奕奕梁山,惟禹甸之.有倬其道,韓侯受命.』比隆等盛,於斯為美.」

永興二年,三月甲午,望上疏曰:「謹按『巴郡圖經』境界南北四千,東西五千,周萬餘里.屬縣十四.鹽鐵五官,各有丞史.戶四十六萬四千七百八十.口百八十七萬五千五百三十五.遠縣去郡千二百至千五百里.鄉亭去縣,或三四百,或及千里.土界遐遠,令尉不能窮詰姦凶.時有賊發,督郵追案,十日乃到.賊已遠逃,蹤跡絕滅.罪錄逮捕,證驗文書,詰訊,即從春至冬,不能究訖.繩憲未加,或遇德令.是以賊盜公行,姦宄不絕.榮等,及隴西太守馮含、上谷太守陳弘說:往者,至有劫閬中令楊殷、終津侯姜昊,傷尉蘇鴻、彭亭侯孫魯、雍亭侯陳已、殷侯樂普.又有女服賊千有餘人,布散千里,不即發覺,謀成乃誅.其水陸覆害,煞郡掾枳謝盛、塞威、張御,魚復令尹尋,主簿胡直,若此非一.給吏休謁,往還數千.閉困須報,或有彈劾,動便歷年.吏坐踰科,恐失冬節,侵疑先死.如當移傳,不能待報,輒自刑戮.或長吏忿怒,冤枉弱民,欲赴訴郡官,每憚還往.太守行桑農,不到四縣.刺史行部,不到十縣.郡治江州,時有溫風.遙縣客吏,多有疾病.地勢剛險,皆重屋累居,數有火害.又不相容,結舫水居五百餘家.承三江之會,夏水漲盛,壞散顛溺,死者無數.而江州以東,濱江山險,其人半楚,姿態敦重.墊江以西,土地平敞,精敏輕疾.上下殊俗,情性不同.敢欲分為二郡:一治臨江.一治安漢.各有桑麻丹漆,布帛魚池.鹽鐵足相供給.兩近京師.榮等自欲義出財帛,造立府寺.不費縣官,得百姓懽心.孝武以來,亦分吳蜀諸郡.聖德廣被,民物滋繁.增置郡土,釋民之勞,誠聖主之盛業也.臣雖貪大郡以自優暇,不忍小民顒顒蔽隔,謹具以聞.」朝議未許.遂不分郡.分郡之議,始於是矣.

順帝・桓帝の御代、板楯がたびたび反乱した。太守である蜀郡の趙温は恩愛信義によって降伏させた。以来、宕渠では九つの穂を持つ稲が生え、胊忍では連理の木が生えた。

光和二年(一七九)、板楯がまたも叛逆して三蜀・漢中を侵害した。州郡は連年これに悩まされた。天子は軍勢を大動員したく思ったが、当時、征伐のため疲弊していたので、益州の計曹に下問して計略を検討することにした。益州計曹掾の程包は答えた。「板楯の七姓は白虎を射て業績を立て、前漢に対して功績がございました。本来は義民なのであります。(むかしは)夫役を免除して、ただ賨銭を一人当たり毎年四十銭、供出させるだけでございました。彼らは勇敢で戦闘が上手く、むかし羌族がたびたび漢中に侵入して郡県が破壊され、ずっと絶えることはございませんでしたが、のちに板楯を手に入れて以来、賊徒はますます尽き果てました。(彼らを)「神兵」と名付けたところ、羌族どもは畏怖して嫌い、二度と南進してはならぬと仲間に伝えたのでございます。のち建寧『後漢(書)』は「建和」と作る。二年、羌族がまた漢に侵入したとき、牧守は慌てふためきましたが、板楯の力を借りて打ち破ったのです。もし板楯がいなければ蜀・漢の民衆は左衽していたことでしょう。かつて車騎将軍馮緄が南征したときも、丹楊の精兵を授かっていたとはいえ、同時に板楯の力も頼りにしておりました。近ごろの益州の乱では、朱亀が幷州・涼州の精兵を率いて討伐いたしましたが、功績を挙げられず、太守李顒が板楯を率いて平定いたしました。忠誠功績はこの通りでして、もともと邪悪な心を持っているわけではないのでございます。長吏や郷亭が新しく賦役をかけましたが、それは非常に重く、労役は奴婢以上、鞭打ちは囚人より隆く、挙げ句、妻を横取りしたり子を売り飛ばしたりいたしましたので、(板楯たちの)なかには自刎する者もございました。州郡に冤罪を訴えても牧守は審理しようとせず、遠路はるばる朝廷へやって来ても、自分たちでは告訴するすべもなく、怨みを抱いて天に向かって叫び、胸を叩いて谷に身を投げました。賦役において悲しみ、刑罰に乎いて苦しみ、部落同士で集まって叛逆を起こすに至ったのでございます。深く見通した計略でもって帝位僭称や不法行為を働いているわけではございません。ひたすら聡明有能な牧守を選任して彼らの資産食糧を増やしてやり、仮措置として賞金付きの募集をかけ、彼らの利便を図ってやれば、自然と落ちつくことでしょう。わざわざご征伐なさるまでもございません。むかし中郎将尹就が羌族を討伐して益州を騒がせたとき、百姓たちは諺を作って『賊が来るのはまだましだ。尹は我らを殺すだろう!』と言ったものでした。尹就が徴し返されたのち、羌賊はおのずと敗退いたしました。臣の愚見に拠りますれば、軍勢を派遣するよりも、州郡を任命するに越したことはございません。」天子はそれを聞き入れ、太守曹謙を遣して降服勧告、赦免の詔勅を伝えさせると、一日にして静まった。

献帝の初平元年(一九〇)、征東中郎将である安漢の趙穎が巴郡を二つに分割すべしと建議した。趙穎は「巴」という古来の呼称を望んでいたので、それを益州牧劉璋に白げ、墊江より上流域を巴郡とし、江南の龐羲を太守として安漢で統治させ、江州から臨江までを永寧郡とし、朐忍から魚復までを固陵郡とした。巴郡はこうして分割された。

建安六年(二〇一)、魚復の蹇胤が劉璋に白げて「巴」の呼称を主張した。劉璋はそこで永寧を巴郡、固陵を巴東と改め、龐羲を巴西太守に徙した。こうして三巴ができた。このとき涪陵の謝本が劉璋に白げて、丹興・漢髪の二県でもって郡にして頂きたいと請願した。最初、巴東属国をこしらえたが、のちにそのまま涪陵郡とした。

分割された後の属県は七つ、戸数は二万である。洛陽を去ること三千七百八十五里。東は朐忍に接し、西は蔣県に接し、南は涪陵に接し、北は安漢・徳陽に接している。巴子の時代には江州を都としていたが、あるときは墊江、あるときは平都、後には閬中で統治した。その先王の陵墓の多くは枳にあり、その畜牧は沮にある。今の東突硤下の畜沮がその地である。また亀亭の北岸に市場を立てたが、今の新市里がその地である。その郡は枳を東下すると、明月硤・広徳嶼がある。かつての巴にも三硤があった。巴と楚はしばしば攻撃しあっており、そのため扞関・陽関および沔関を設置したのだ。漢の御代、郡は江州巴水の北で統治した。甘橘官があり、今の北府城がその地である。今は南城に還されている。

劉先主は初め、江夏の費瓘を太守にしようと思い、江州都督を領させていた。のちに都護李厳が周囲十六里に及ぶ大城に改築したが、城の裏山を削って汶江から巴江へと水を流して、城を中州にしようとした。五都でもって巴州の設置を要求したが、丞相諸葛亮は許可しなかった。諸葛亮は北征するにあたって李厳を漢中に召し寄せたため、山を削る計画は実施されず、それでも蒼龍・白虎門(だけ)が造られた。別の郡県の倉にはみな城があった。李厳の子李農が交代して都督となり、李農が解任された後は、梓漢の李福が都督となった。延熹年間(一五八~一六七)、車騎将軍鄧艾が都督となって陽関で統治した。十七年、平都・楽城・常安を廃止した。

咸煕元年(二六四)、ただ四県のみとなり、鎮西参軍である隴西の怡思和が太守となり、二つの部曲、軍勢を守った。

江州県  郡治。塗山には禹王の祠および塗后の祠がある。北水には碑銘があり、(その)祠に言う。「漢代の初め、犍為の張君は太守となり、忽然と神仙の道を会得し、それにより升渡された。」いま民衆たちは張府君祠と呼んでいる。県の城下には清水穴というのがあり、巴の人々はその水で白粉を作るが、それはつやつやと輝いて色鮮やかで香りもよい。白粉は京師への献上物となっているため、粉水と呼ばれている。それゆえ代々「江州の堕休粉」と言い伝えられてきたのである。荔枝園があり、実が熟すと、二千石(太守)はいつも食膳を構え、士大夫を集めて樹下で一緒にそれを食べた。県北には稲田があって献上米を産出した。溜池では蒲蒻(香蒲)の藺席(むしろ)を産する。その冠族には波・鈆・毋・謝・然・〓・楊・白・上官・程・常がおり、代々高官に昇っていた。

枳県  郡の東四百里の涪陵水会で統治した。土地は痩せている。時に人士が多く、章・常・連・黎・牟・楊がいて、郡の冠首であった。

臨江県  枳の東西百里にあり、朐〓に接している。塩官があり、監塗二谿にあって郡中の尊敬を集めている。その富豪の門にもまた家ごとに塩井があり、又厳・甘・文・楊・杜が大姓になっている。晋代の初め、文立が常伯の地位を充実させ、左右にいて献言を行った。楊宗符は武隆で称賛された。人、呉にあって孫氏の虎臣となった。

平都県  蜀の延熙年間のとき廃止された。大姓は殷・呂・蔡氏。

墊江県  郡の西北中水四百里にある。桑蠶や牛馬がある。漢の時代、龔栄が俊才によって荊州刺史になり、後に龔揚・趙敏がうるわしい徳行巴郡太守になり、淳于長は雅やかで美貌を持っていた。黎・夏・杜はみな大姓である。

楽城県  西州江三百里にある。延熙十七年に廃止された。

常安県  やはり廃止された。

巴東郡は先主が益州入りしたとき江関都尉と改められた。建安二十一年(二一六)、朐〓・魚復・羊渠および宜都巫・北井の六県を固陵郡として、武陵の康立(廖立?)を太守とした。章武元年(二二一)、朐〓の徐慮、魚復の蹇機が、巴という名が失われたことを上表して訴えると、先主は聴許して(郡名を)巴東に戻し、南郡の輔厈を太守とした。先主は呉を征討したのち夷道を伝って撤退し、この郡で薨去した。尚書令李厳を都督として要害を構築させ、李厳が江州へと引き揚げると、征西将軍である汝南の陳到が都督となった。陳到が在官のまま卒去すると、征北大将軍である南陽の宗預を都督とした。宗預が引き揚げると、内領軍(中領軍)である襄陽の羅献を後任とした。蜀が平定されると、羅献はその任務のまま淩江将軍を拝命し、武陵太守を領した。

泰始二年(二六六)、呉の大将歩闡・唐咨は羅献を攻撃し、羅献が城に楯籠ると、唐咨は西方へと朐忍まで侵入した。故の蜀の尚書郎であった巴郡の楊宗が洛陽に危急を告げにいったが、まだ帰ってこないうちに羅献は飛び出して歩闡を攻撃し、彼らを大破した。歩闡・唐咨が撤退すると、羅献は監軍・仮節・安南将軍に昇進して西鄂侯に封ぜられ、入朝したときには御蓋・朝服を下賜された。呉の武陵太守孫恢が南浦に侵略してきたが、安蛮護軍楊宗がこれを討伐すると逃走した。そこで楊宗を武陵太守にして南浦に駐屯させ、武陵蛮夷をねんごろに誘えば、三県の住民を新たに味方させることができると上表した。羅献が卒去すると、犍為太守である天水の楊攸を監軍とした。楊攸が涼州刺史に昇進すると、朝議では唐彬か楊宗を後任とすべきとされた。晋の武帝は散騎常侍文立に諮問した。「唐彬と楊宗のどちらを任用すべきであろう?」文立は答えた。「唐彬・楊宗はいづれも実績があり、西方になくてはならぬ人物であります。しかしながら楊宗の才覚は誠に立派であるものの酒癖がありますし、唐彬の人となりもまた根っからの金銭欲がございます。陛下のご判断を仰ぐばかりです。」帝は言った。「金銭欲は満足させられるが酒癖を治すのは難しい。」ついに唐彬を任用して監軍とし、広武将軍の官位を加増した。

呉が巴東を平定されたのち、羊渠を廃止して南浦を設置した。晋の太康年間の初め、巫・北井を建平に戻して、ただ五県のみとした。洛陽を去ること二千五百里。東は建平に接し、南は武陵巴郡に接し、北は房陵に接している。奴・獽・夷・蜑といった蛮民がいる。

魚復県  郡治。公孫述が白帝と改名していたが、章武二年に永安と改称した。咸熙年間の初めに(旧名に)戻した。橘官がある。また沢水神がおり、日照りのとき傍らで太鼓を鳴らすとすぐさま雨になる。赤。

朐忍県  西二百九十里。川の水は東陽・下瞿を通るが数ヶ所で荒れている。山には大きいのや小さいのがあって石城の勢いである。霊寿木・塩井・霊亀がある。咸熙元年、霊亀が相府に献上された。大姓は扶・先・徐氏。漢の時代には扶徐がいて荊州で、『楚訪』に着石である。弜頭白虎復夷者がいる。着石楚訪の四字については未詳。○弜は其雨の反切(ク)、また翹移の反切(キ)で、弓の強い様子である。また渠覊の反切(キ)、また渠良の反切(キョウ)ともいう。一字に三つの音が重複している。

漢豊県  建安二十一年に設置された。郡の西北の彭渓の水源に位置する。

南浦県  郡の南三百里。晋代の初めに設置して、夷狄を管掌させた。

郡は楚と隣接しており、人々の多くは勇壮で文学をやる者が少なく、将帥となる人材を輩出した。

涪陵郡は巴の南の果てである。枳から南に入り、丹涪水を折れたところで、もともと楚の商於の地と接していた。秦の時代に司馬錯がそれによって楚の商於の地を攻略して黔中郡としたのである。漢後にはいつも都尉がいてその地を守っていた。古くは属県五つ。洛陽を去ること五千一百七十里。東は巴東に接し、南は武陵に接し、西は牂柯に接し、北は巴郡に接している。土地は山がちで険しく、川も荒れている。人々は多くが頑固勇敢で、獽蜑の民が多い。県邑は私党におもねり、闘訟になると必ず死者が出る。蠶桑はなく文学をやる者は少ない。ただ茶・丹・漆・蜜・蠟を産出するだけである。漢の時代、赤甲軍はいつもその人民を徴募していたが、蜀の丞相(諸葛)亮もやはりその勇敢な兵卒三千人を徴発して連弩士とし、ついに漢中に移住させた。延煕十三年(二五〇)、大姓徐巨が反逆したので車騎将軍鄧芝がこれを討ち平らげたが、玄(くろ)い猨がその山に入るのを見かけ、鄧芝は生まれつき弩が好きだったので、彼自ら猨に発射して命中させた。猨の子はその矢を抜き、木の葉を巻いてその傷口を塞いだ。鄧芝は歎いて「ああ!吾は生き物としての性質を傷付けてしまった。もう(吾は)死んでしまうだろう。」と言った。その豪族である徐・藺・謝・范五千家を蜀に移住させて猟射官とし、足弱の者を督将韓・蔣に分配して助郡軍と名付けたが、(韓・蔣は)そのまま代々にわたって部曲を管掌して大姓となった。晋代の初め、弩士を馮翊蓮勺に于いて移住させたが、その人々の性質は質実剛直であったため、余所に移されても風俗を変えなかった。そのため今でも蜀・漢・関中・涪陵に有り、彼らのうち従軍して南方にいる者が今なお存在する。山には大亀がおり、その甲羅は占卜をするのによく、その縁の部分は叉を作るのによい。代々、霊叉と号されてきた。

涪陵県  郡治。

丹興  蜀の時代に廃止された。山は良質な丹を産出する。

漢平県  延熙十三年に設置された。

万寧県  孝霊帝の時代に、本名を永寧といっていた。

漢髪県  塩井がある。諸県の北には獽・蜑、さらに蟾といった異民族がいる。

巴西郡。属県は七つ。洛陽を去ること二千八百一十五里。東は巴郡に接し、南は梓潼に接し、北は涼西城に接している。土地は山々も野原もほとんど平らで、牛馬や桑蚕がいる。人々は先漢以来とりわけ傑出していて、三巴でも筆頭であった。郡が分割された後には叔布・榮始・周羣父子・程公弘らがおり、ある者は三派の学問を兼ね備え、ある者は精妙秀逸であった。それに次いで馬盛衡・承伯は才能清妙、龔徳緒兄弟は英気を燦然と輝かせ、黄公衡は応変の権謀に通じ、馬徳信・王子均・勾孝興・張伯岐は功績を立てて仕事を成し遂げた。劉二主の御代には荊楚(の人士)が称美されていたが、しかし先漢以来、馮車騎・范鎮南は、みなこの土地の生まれなのだ。それゆえ「巴に将帥あり。蜀に宰相あり」と言うのである。晋代になると譙侯が先に文章を修め、陳君が後に煥炳(かがや)かせ、ともに双璧の固めとなって羣を抜き世に秀でた。伝記に顕在する紳士たちは(数多く)、順序立てて記載することもできない。

閬中県  郡治。彭池大沢がある。名山たる霊台は文緯書讖に見える。大姓は三家の狐氏、五家の馬氏、蒲・趙・任・黄・厳氏である。

南充国県  和帝の時代に設置された。塩井がある。大姓は侯・譙氏。

安漢県  人物を輩出するとの評判である。大姓は陳・范・閻・趙(氏)。

平州県  

そのうち二県は(宕渠)郡となった。

宕渠郡。延熹年間(一五八~一六七)に設置して広漢の王士を太守としたが、郡を立ててから九年で廃止した。永興元年(三〇四)、李雄が再び設置してからは今でも郡となっている。長老は言う。「宕渠は故の賨国なのだろう。今でも賨城・盧城がある。」秦の始皇帝の時代、二十五丈もの巨人が宕渠に現れたが、秦史の胡毋敬は「これより五百年後の外、きっと異民族の中から大人になる者があろう」と言っていた。李雄が王になると、先祖代々が宕渠の出自であったので、見識ある者たちはみなそれに呼応したのだと思った。先漢以来、士女は賢明貞淑で、県民である車騎将軍馮緄・大司農玄賀・大鴻臚龐雄・桂陽太守李温らは、みな功績を立てて仕事を成し遂げ、歴代の補任を受けていた。馮緄・李温はおのおの在所に葬られたが、いつも三月になると二人の霊魂が郷里に帰ってきて川が氾濫するため、郡県の官吏人民のうち水上で彼らを祭らぬ者はない。その列女の節義は『先賢志』に(記載が)ある。

宕渠県  郡治。鉄官あり。石蜜(岩場の蜂蜜)、山図の採取できるところ。

漢昌県  和帝の時代に設置された。大姓に勾氏がある。

宣漢県  今は廃止されている。

右巴國,凡分為五郡,二十三縣.

譔曰:巴國,遠世則黃炎之支封;在周則宗姬之戚親;故於春秋,班侔秦楚,示甸衛也.若蔓子之忠烈,范目之果毅;風惇俗厚,世挺名將;斯乃江漢之含靈,山岳之精爽乎?觀其■,足以知其敦壹矣.昔沙麓崩,卜偃言:「其後當有聖女興.」元城郭公謂王翁孺屬當其時.故有政君.李雄,宕渠之廝伍,略陽之黔首耳.起自流隸,君獲士民;其長人之魄,良有以也?