利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

先主伝

先主は小沛に帰還すると、[一]また軍勢を糾合して一万人余りを手に入れた。呂布がそれを嫌い、みずから出兵して先主を攻めると、先主は敗走して曹公に身を寄せた。曹公は彼を手厚くもてなし、予州牧に任じた。沛へ行って敗兵を拾うに先立ち、彼に軍糧を補給して軍兵を授け、東行して呂布を撃たせた。呂布が高順を派遣してこれを攻めさせたので、曹公は夏侯惇を出したが、救援することができずに高順に打ち破られた。(高順は)またもや先主の妻子を捕獲して呂布の元へ後送した。曹公はみずから東征に乗り出し、[二]先主を支援して下邳で呂布を包囲、呂布を生け捕りにした。先主はまた妻子を取り戻し、曹公に随行して許へ帰還した。(曹公は)上表して先主を左将軍とし、礼遇はいよいよ鄭重になり、外出のときは同じ輿を、酒宴のときは同じ席を用いた。袁術が徐州経由で北行して袁紹を頼ろうとしたので、曹公は先主に朱霊・路招を監督させて袁術を迎撃した。まだ到着せぬうちに袁術は病死した。

[一] 『英雄記』に言う。劉備軍は広陵にあって飢餓に困敗し、官吏兵士は老いも若きも互いを食らい合った。飢餓を舐め尽くした挙げ句、小沛に帰りたくなり、とうとう役人をやって呂布に降服を申し入れた。呂布は劉備を州に帰らせ、力を合わせて袁術を攻撃することにした。刺史の車馬・使用人を揃えてやり、劉備の妻子や部曲の家族を泗水のほとりで見送ったが、送別会ではお互いに楽しんだ。 『魏書』に曰う。諸将が呂布に告げた。「劉備は反覆をくり返しており、飼い慣らすのは困難です。早急に始末なさるべきでしょう。」呂布は聞き入れず、ありのままを劉備に語った。劉備は心中穏やかではいられず、落ち着ける場所を探し求め、人をやって、小沛に屯させてくれるよう呂布を説得させた。呂布はそうして彼を行かせてやった。

[二] 『英雄記』に言う。建安三年(一九八)春、呂布は人に金を預けて河内へ行かせ、馬を買おうとしたが、劉備の手兵に強奪されてしまった。呂布はそうしたことから中郎将高順・北地太守張遼らに劉備を攻撃させた。九月、ついに沛城を打ち破り、劉備が身一つで逃走したので、その妻子を手に入れた。十月、曹公みずからが呂布を征討したとき、劉備は梁国の国境線上で曹公に出くわし、そのまま公に随行して東征に加わった。

先主が進発する以前のこと、献帝の舅である車騎将軍董承は[一]衣帯に包み隠された帝の密詔を辞受、曹公の誅伐を命ぜられた。先主はまだ進発していなかった。そのとき曹公はのんびりとして先主に言った。「いま天下の英雄といえばただ使君と曹操だけだなあ。本初(袁紹)のような輩は数えるうちに入らんよ。」先主はちょうど食べようとしていたときで、うっかり匕と箸とを落としてしまった。[二]こうして董承および長水校尉种輯・将軍呉子蘭・王子服らと共謀するようになった。ちょうど(袁術攻撃の)指令を授かったため実行に移せぬまま、計画は漏れ、董承らはみな誅に伏した。[三]

[一] 臣裴松之が思うに、董承は漢の霊帝の母董太后の甥であり、献帝にとっては丈人にあたる。おそらく古代には丈人という呼び方がなかったので、それを舅と言っているのであろう。

[二] 『華陽国志』に言う。ちょうどこのとき雷鳴が轟いた。劉備はそれにかこつけて曹操に言った。「聖人は『迅雷風烈、必ず変ず』とおっしゃいましたが、まこと至言でございまするな。一たびの轟音がよくこれほどの威力になるとは!」

[三] 『献帝起居注』に言う。董承らは劉備と計画を練っていたが実行には至らず、劉備は出征してしまった。董承は王子服に言った。「郭多は兵士数百を持っただけで李傕数万人を崩壊させた。とにかく足下と我とが同心するかどうか、それだけだ!むかし呂不韋の一門は、子楚に応じて後から高貴になった。いま吾は子とともにそれに倣おうぞ。」王子服は言った。「畏れ多くて任に堪えられませぬ。それに軍勢も少のうございますゆえ。」董承は言った。「計画を実行したあと曹公の旧軍を手に入れよう。それでも不足かね?」王子服は言った。「いま京師に任用できる者がありましょうか?」董承は言った。「長水校尉种輯・議郎呉碩は我が腹心であって、職務に忠実な者たちだ。」こうして計略を固めていった。

先主は下邳を根城とした。朱霊らが引き揚げたのち、先主は徐州刺史車胄を殺し、関羽を残して下邳を守らせ、自身は小沛に引き揚げた。[一]東海の昌霸が反逆すると、郡県の多くが曹公に叛いて先主に味方し、軍勢は数万人になり、(先主は)孫乾を派遣して袁紹と連合した。曹公は劉岱・王忠にこれを攻撃させたが、勝つことができなかった。五年(二〇〇)、曹公が東行して先主を征討すると、先主は敗北した。[二]曹公はその軍勢をことごとく接収し、先主の妻子を拘束するとともに関羽を捕虜にして帰還した。

[一] 胡沖の『呉歴』に言う。曹公はしばしば懐刀をやって密かに諸将を監視させ、もし賓客を招いて酒食を振る舞う者があれば(陰謀を企てているに違いないから)、そのつど他事にかこつけて殺害してきた。劉備はそのとき門を閉ざし、人を連れてかぶを植えていた。曹公は人をやって門内を窺わせた。(その者が)立ち去ったあと、劉備は張飛・関羽に告げた。「吾がどうして野菜を植えているような人間であろうか?曹公はきっと疑念を抱くであろう、もはや留まってはいられぬ。」その夜、裏手の棚を開けて張飛らとともに軽装の騎馬で立ち去った。拝領した衣服は残らず封印して置いておき、小沛へ行って人数を糾合した。 臣裴松之は思う。魏の武帝は先主に諸将を統率させて袁術を迎撃させ、郭嘉らがそろって諫めても魏武は聞き入れなかった。その事実は歴然としている。野菜を植えて逃亡したのではない。胡沖の言うことは、なんと乖離のひどいことか!

[二] 『魏書』に言う。当時、公は官渡において差し迫った状況を抱えていた。そこで諸将を選んで官渡に残し、みずから精兵を率いて劉備を征討した。劉備は当初、公は強敵と対峙しているため東進することはできまいと考えていたので、斥候の騎兵が突如やって来て「曹公が直々に到来した」と告げると、劉備は大層驚き、それでもなお信じられなかった。彼自身が数十騎を連れて出陣し、はるかに公の軍勢を眺め、麾旌を見るなり、すぐさま人々を見捨てて逃げ去った。

先主は青州へ逃れた。青州刺史袁譚は先主の故の茂才であったので、歩騎を率いて先主を出迎えた。先主が袁譚に従って平原に到着すると、袁譚は使者を飛ばして袁紹に報告した。袁紹は将校を派遣して途中まで迎えに出させ、彼自身も鄴から二百里先まで出て、先主と対面した。[一]一ヶ月余りも滞在しているうちに、失った士卒たちが次第しだいに集まってきた。曹公が官渡において袁紹と対峙しているとき、汝南黄巾賊の劉辟らが曹公に叛いて袁紹に呼応した。袁紹は先主に軍勢を授けて劉辟らとともに許の城下で略奪させた。関羽が逃亡して先主に帰参した。曹公が曹仁に軍勢を授けて先主を攻撃させたので、先主は袁紹軍に帰陣したが、内心では袁紹の元を離れたく思い、そこで南方の荊州牧劉表と連合すべきだと袁紹を説得した。袁紹は先主本来の軍兵を連れて再度、汝南へ行かせ、賊の龔都らと合流させると、軍勢は数千人になった。曹公は蔡陽を出して攻撃させたが、先主に殺されることになった。

[一] 『魏書』に言う。劉備が袁紹に帰服すると、袁紹父子は心底から尊重した。

曹公は袁紹を撃破したのち、みずから南進して先主に攻撃をかけた。先主が麋竺・孫乾を派遣して劉表に連絡を付けさせると、劉表はみずから(先主を)郊外まで出迎え、上賓の礼をもって待遇し、その手勢を増やしてやって新野に屯させた。先主に帰服する荊州の豪傑が日ごとに増えていったので、劉表は彼の本心を疑い、こっそりと邪魔をした。[一](劉表は先主に)夏侯惇・于禁らを博望で防がせた。しばらくして先主は伏兵を設け、ある朝、陣営を自焼して逃走した風を装った。夏侯惇らは追いかけてきて、伏兵に打ち破られた。

[一] 『九州春秋』に言う。劉備が荊州に住まいするようになって数年、あるとき劉表の宴席から廁へ立ち、内髀に肉が付いているのを見付けると、情けなくなって涙を流した。席に戻ったとき、劉表が気付いて劉備に訊ねた。劉備は言った。「吾は常に鞍から身を離したことはなかったので髀肉はみな落ちておりましたが、今ではもう騎乗することもないので内髀に肉が付いてしまいました。月日の経つのは馳せるがごとく、老いも差し迫っておりますのに功業は立てられておらず、それが悲しかったのです。」 『世語』に言う。劉備が樊城に屯していたとき、劉表は彼を礼遇しながらも、彼の人となりを警戒していて充分には信用できなかった。あるとき劉備を宴会に招いたことがあったが、蒯越・蔡瑁が酒宴を利用して劉備を始末しようとした。劉備はそれに気付き、廁へ行くふりをして密かに脱出した。乗馬の名を的盧といったが、的盧に跨って逃走し、襄陽城西の檀溪の水中を渡ろうとして溺れ、抜け出せなくなった。劉備が「的盧よ、今日は厄日だぞ。頑張ってくれ!」と励ますと、的盧は一躍三丈も飛び上がり、ついに抜け出すことができた。流れに乗って河を渡り、中ほどまで来たところで追補の者がやって来て、劉表の意向を伝えて陳謝し、「なんとまあ逃げ足の速い奴だ!」とつぶやいた。 孫盛は言う。これは納得できぬ言葉だ。劉備はこのとき羈旅の身であって、客人と主人とでは勢力が違うものだ。もしこのような変事があったならば、どうして安閑と劉表の世を過ごして無傷でいられたのか?これらはみな世俗の妄説であって、事実ではないのである。

十二年(二〇七)、曹公が北進して烏丸を征討したとき、先主は許を襲撃すべきと劉表を説得したが、劉表は採用できなかった。[一]曹公が南進して劉表を征討しようとした矢先、ちょうどそのとき劉表は卒去、[二]子の劉琮が後任に立ち、(曹公に)使者を遣して降服を願い出た。先主は樊に駐屯していて曹操の突然の到来を知らず、宛まで来たところで初めてそれを聞き、手勢を率いて退去した。襄陽を通りがかったとき、諸葛亮は劉琮を攻めれば荊州を領有することが可能だと先主を説得した。先主は言った。「吾には堪えられぬ。」[三]そこで馬を止めて劉琮を呼んだが、劉琮は恐怖のあまり立つことができなかった。劉琮の左右(側近)および荊州人の多くが先主に帰服した。[四]当陽に着くころには人数十万余り、輜重数千両にもなっており、一日の行程は(わずか)十里余りであった。別働隊として関羽には数百艘の船に乗せ、江陵で落ち合うことにした。ある人が先主に告げた。「急行して江陵に楯籠るべきです。いま多くの人数を抱えてはおりますが、甲冑を着けた者は少ないのです。もし曹公の軍勢が来たならば、どうやって防げましょう?」先主は言った。「そもそも大事を成し遂げるためには人民を根本とせねばならん。いま人々が吾を頼りにしてくれたからには、吾はどうして見捨てて逃げることができよう!」[五]

[一] 『漢晋春秋』に言う。曹公が柳城から帰ってきたとき、劉表が劉備に「君の言葉を採用しなかったがために、この絶好の機会を逃してしもうたな」と言うと、劉備は「いま天下は分裂して、日々、戦闘が続いておりますゆえ、機会の到来に、どうして最後ということがありましょう?後日これに乗ずることができますれば、今回のことも後悔するには及びますまい」と言った。

[二] 『英雄記』に言う。劉表は病気にかかると、劉備に荊州刺史を領させるよう上表した。 『魏書』に言う。劉表は病気が重くなると、国土を劉備に託しつつ、振り返りながら言った。「我が子は才能なく、諸将はみな落命してしもうた。我が死んだあとは、卿が荊州を仕切るのがよかろう。」劉備は言った。「ご子息たちはそれぞれ賢明です。君よ、どうか病気のことだけをお考えください。」ある人が劉表の言葉に従うべきと劉備に勧めたが、劉備は「この方は我を手厚く待遇してくれた。いまその言葉に従うならば、人々はきっと我のことを薄情だと思うだろう。忍びないことだよ」と言った。 臣裴松之が考えるに、劉表夫妻はかねてより劉琮を愛し、嫡子を捨てて庶子を立てようとしていた。情愛も計画も長らく決まっていたのだから、臨終に際して荊州をまるごと劉備に授けようとするはずがない。これもまた事実でない話である。

[三] 孔衍の『漢魏春秋』に言う。劉琮は降服を願い出たとき、あえて劉備には知らせなかった。劉備もまた知らずにいて、ずっとしてからやって気付き、腹心を派遣して劉琮に問い合わせると、劉琮は宋忠に命じて劉備の元へやって方針を伝えさせた。このとき曹公が宛に来ており、劉備は大いに驚き、宋忠に言った。「卿がたのやり方はこの調子だ。早めに相談してくれず、いま災禍が到来してからやっと我に知らせに来るとは、なんともひどいことではないか!」刀を抜いて宋忠に突き付け、「いま卿の頭を切り落としても、怒りを解くことはできぬ。それに大丈夫たる者が別れに際して卿のような輩を殺すのも恥ずかしいことだからな!」と言って、宋忠を追い払った。それから部曲たちを呼び集めて協議したところ、ある者が、劉琮および荊州の官吏兵士を劫かし、ただちに南進して江陵へ行くのがよいと劉備に勧めた。劉備は答えた。「劉荊州どのは臨終に際して孤遺を我に託された。信義に背いて自分の望みを通すことなど吾にはできぬ。死んだあと、どの面さげて劉荊州に会えようか!」

[四] 『典略』に言う。劉備はその道中、劉表の墓に別れを告げ、ついに涙を流し、それから立ち去った。

[五] 習鑿歯は言う。先主は危難のなかに顚沛しても、信義はいよいよ鮮明になり、情勢が逼迫して事態が危険になっても、言葉から道理は失われなかった。景升の恩顧を追慕して三軍を感動させ、報恩の義士を愛護して同じ苦しみを甘受した。彼が人々の気持ちに結びついたのを見れば、どうしてただ醪を与えて寒さを和らげ、蓼を含んで病気を見舞った程度のことであろうか!彼が最後には大事業を完成させたのも、やはり当然ではないだろうか!

曹公は、江陵に軍需物資があることから、先主がその地を占拠することを恐れ、輜重車を手放し、行軍を軽くして襄陽に到達した。先主がすでに通り過ぎたあとだと聞くと、曹公は精鋭五千騎を率いて猛追し、一日一夜で三百里余りも進み、当陽の長阪にて追い付いた。先主は妻子を棄て、諸葛亮・張飛・趙雲らの数十騎とともに逃走し、曹公はその人数や輜重を盛大に鹵獲した。先主は(街道を)それて漢津へ馳せ付け、うまい具合に関羽の船団と出くわしたので、沔水を渡ることができた。劉表の長子である江夏太守劉琦の軍勢一万余りと遭遇し、同道して夏口に到着した。先主は諸葛亮を派遣して孫権と手を結び、[一]孫権は周瑜・程普らの水軍数万人を派遣して先主に合力させ、[二]赤壁において曹公と対戦し、これを大いに打ち破り、その艦船を焼き払った。先主は呉の軍勢とともに水陸両道から一斉に進み、追撃して南郡まで到達した。このときはまた疫病の流行もあって、北軍では多数の死者を出していたため、曹公は引き揚げていった。[三]

[一] 『江表伝』に言う。孫権は魯粛を派遣して劉表の二人の子に弔意を伝え、同時に劉備との盟約を結ばせることにした。魯粛がまだ到着しないうちに、曹公はすでに漢津を渡っていた。魯粛はそこで先に進み、当陽に来たところで劉備に行き会った。そこで孫権の意向を伝えて、天下の情勢について議論し、誠意を尽くした。その上で劉備に訊ねてみた。「予州どのはこれからどこへ行かれるおつもりでしょうか?」劉備は言った。「蒼梧太守呉臣どのとは旧交がありますので、彼のもとへ身を寄せようと思っております。」魯粛は言った。「孫討虜(孫権)さまは聡明仁慈の人で、賢者を敬い士人に礼を尽くされるので、江表の英傑たちはみな、彼のお方に帰服しております。すでに六つの郡を領有され、兵士は精悍、食糧は豊富であり、事業を完成させるには充分(資格をお持ち)です。いま貴君のために計画いたしますに、腹心を派遣して東方で盟約を結ばせ、連合の友好関係を尊重し、ともに世業を完成させるに越したことはございません。それなのに呉臣に身を寄せるとの仰せ。呉臣は凡人でありますし、遠方の郡に追いやられており、行くゆくは他人に併合されるばかりです。(身を)託すほどの価値がありましょうか?」劉備はいたく喜び、鄂県まで進んで住まると、即日、諸葛亮を魯粛に付けて孫権のもとへ参詣させ、同盟の契りを結ばせた。

[二] 『江表伝』に言う。劉備は魯粛の計略を受け入れ、鄂県の樊口まで進んで住まった。諸葛亮が呉を参詣してまだ帰らぬうちに、劉備は曹公の軍勢が(川を)下ると聞いて恐怖し、日ごとに川へ邏の役人を出して孫権軍(の到着)を眺めさせた。役人は周瑜の船を遠くに見付けると、馬を飛ばして劉備に報告した。劉備が「どうしてそれを青・徐の軍勢でないと分かったのか?」と言うと、役人は「船をみて分かりました」と答えた。劉備は人をやって彼らを慰労した。周瑜は言った。「軍務があって署を委ておくことができません。もしも威を屈していただけるならば、誠実に、ご希望にお応えいたしましょう。」劉備は関羽・張飛に「彼らは我を呼び付けようとする。我はいま自分から東方と結託したのだから、行かねば同盟の意図に反することになる」と告げ、単舸に乗って周瑜に会いに行き、「ただいま曹公を防ぐにあたり、計略をお持ちのことと存じます。兵卒はいかほどでございますか?」と訊ねた。周瑜が「三万人です」と言ったので、劉備が「少ないのが心残りです」と言うと、周瑜は「これで充分です。予州どのはただ周瑜が奴らを打ち破るのをご覧いただくだけで結構です」と言った。劉備は魯粛らを呼んで一緒に語り合いたいと思ったが、周瑜が「ご命令を受けたからには勝手に署を委てるわけには参りませぬ。子敬とお会いになりたければ、改めてお過しください。それに孔明どのも一緒にお出でになりましたので、三日もせぬうちに参るでありましょう」と言ったので、劉備はいたく恥ずかしく思い、周瑜に一目置きはしたが、それでも内心、北軍を必ず撃破できるとは信じられなかった。そのため後方に下がって、二千人を率いて関羽・張飛を伴い、周瑜に協力しようとはしなかった。おそらく(戦況に合わせて)進退できるように考えていたのであろう。 孫盛は言う。劉備は英雄の才能を持ちながら、滅亡必至の立場にあった。呉に危急を告げて救援に駆け付けてもらったからには、もう長江の川辺を観望して事後の計算を立てることなど、あり得ないことだ。『江表伝』の言葉は、呉の人々が快挙を独り占めしようとした言葉であろう。

[三] 『江表伝』に言う。周瑜は南郡太守になると、南岸の地を分割して劉備に与えた。劉備は別途、油江口に陣営を築き、公安と改称した。劉表の官吏兵士のうち北軍に従っていた者たちも、多くが寝返って劉備に身を投じてきた。劉備は周瑜に与えられた土地が少なく、民衆を安住させるには不足していたため、のちに孫権から荊州の数郡を借用した。

先主傳

先主還小沛,[一]復合兵得萬餘人.呂布惡之,自出兵攻先主,先主敗走歸曹公.曹公厚遇之,以為豫州牧.將至沛收散卒,給其軍糧,益與兵使東擊布.布遣高順攻之,曹公遣夏侯惇往,不能救,為順所敗,復虜先主妻子送布.曹公自出東征,[二]助先主圍布於下邳,生禽布.先主復得妻子,從曹公還許.表先主為左將軍,禮之愈重,出則同輿,坐則同席.袁術欲經徐州北就袁紹,曹公遣先主督朱靈﹑路招要擊術.未至,術病死.

[一] 英雄記曰:備軍在廣陵,飢餓困敗,吏士大小自相啖食,窮餓侵逼,欲還小沛,遂使吏請降布.布令備還州,幷勢擊術.具刺史車馬童僕,發遣備妻子部曲家屬於泗水上,祖道相樂. 魏書曰:諸將謂布曰:「備數反覆難養,宜早圖之.」布不聽,以狀語備.備心不安而求自託,使人說布,求屯小沛,布乃遣之.

[二] 英雄記曰:建安三年春,布使人齎金欲詣河內買馬,為備兵所鈔.布由是遣中郞將高順﹑北地太守張遼等攻備.九月,遂破沛城,備單身走,獲其妻息.十月,曹公自征布,備於梁國界中與曹公相遇,遂隨公俱東征.

先主未出時,獻帝舅車騎將軍董承[一]辭受帝衣帶中密詔,當誅曹公.先主未發.是時曹公從容謂先主曰:「今天下英雄,唯使君與操耳.本初之徒,不足數也.」先主方食,失匕箸.[二]遂與承及長水校尉种輯﹑將軍吳子蘭﹑王子服等同謀.會見使,未發.事覺,承等皆伏誅.[三]

[一] 臣松之案:董承,漢靈帝母董太后之姪,於獻帝為丈人.蓋古無丈人之名,故謂之舅也.

[二] 華陽國志云:于時正當雷震,備因謂操曰:「聖人云『迅雷風烈必變』,良有以也.一震之威,乃可至於此也!」

[三] 獻帝起居注曰:承等與備謀未發,而備出.承謂服曰:「郭多有數百兵,壞李傕數萬人,但足下與我同不耳!昔呂不韋之門,須子楚而後高,今吾與子由是也.」服曰:「惶懼不敢當,且兵又少.」承曰:「擧事訖,得曹公成兵,顧不足邪?」服曰:「今京師豈有所任乎?」承曰:「長水校尉种輯﹑議郞吳碩是我腹心辦事者.」遂定計.

先主據下邳.靈等還,先主乃殺徐州刺史車冑,留關羽守下邳,而身還小沛.[一]東海昌霸反,郡縣多叛曹公為先主,眾數萬人,遣孫乾與袁紹連和,曹公遣劉岱﹑王忠擊之,不克.五年,曹公東征先主,先主敗績.[二]曹公盡收其眾,虜先主妻子,幷禽關羽以歸.

[一] 胡沖吳歷曰:曹公數遣親近密覘諸將有賓客酒食者,輒因事害之.備時閉門,將人種蕪菁,曹公使人闚門.旣去,備謂張飛﹑關羽曰:「吾豈種菜者乎?曹公必有疑意,不可復留.」其夜開後棚,與飛等輕騎俱去,所得賜遺衣服,悉封留之,乃往小沛收合兵眾. 臣松之案:魏武帝遣先主統諸將要擊袁術,郭嘉等並諫,魏武不從,其事顯然,非因種菜遁逃而去.如胡沖所云,何乖僻之甚乎!

[二] 魏書曰:是時,公方有急於官渡,乃分留諸將屯官渡,自勒精兵征備.備初謂公與大敵連,不得東,而候騎卒至,言曹公自來.備大驚,然猶未信.自將數十騎出望公軍,見麾旌,便棄眾而走.

先主走靑州.靑州刺史袁譚,先主故茂才也,將步騎迎先主.先主隨譚到平原,譚馳使白紹.紹遣將道路奉迎,身去鄴二百里,與先主相見.[一]駐月餘日,所失亡士卒稍稍來集.曹公與袁紹相拒於官渡,汝南黃巾劉辟等叛曹公應紹.紹遣先主將兵與辟等略許下.關羽亡歸先主.曹公遣曹仁將兵擊先主,先主還紹軍,陰欲離紹,乃說紹南連荊州牧劉表.紹遣先主將本兵復至汝南,與賊龔都等合,眾數千人.曹公遣蔡陽擊之,為先主所殺.

[一] 魏書曰:備歸紹,紹父子傾心敬重.

曹公旣破紹,自南擊先主.先主遣麋竺﹑孫乾與劉表相聞,表自郊迎,以上賓禮待之,益其兵,使屯新野.荊州豪傑歸先主者日益多,表疑其心,陰禦之.[一]使拒夏侯惇﹑于禁等於博望.久之,先主設伏兵,一旦自燒屯僞遁,惇等追之,為伏兵所破.

[一] 九州春秋曰:備住荊州數年,嘗於表坐起至廁,見髀裏肉生,慨然流涕.還坐,表怪問備,備曰:「吾常身不離鞍,髀肉皆消.今不復騎,髀裏肉生.日月若馳,老將至矣,而功業不建,是以悲耳.」 世語曰:備屯樊城,劉表禮焉,憚其為人,不甚信用.曾請備宴會,蒯越﹑蔡瑁欲因會取備,備覺之,僞如廁,潛遁出.所乘馬名的盧,騎的盧走,渡襄陽城西檀溪水中,溺不得出.備急曰:「的盧:今日厄矣,可努力!」的盧乃一踊三丈,遂得過,乘浮渡河,中流而追者至,以表意謝之,曰:「何去之速乎!」 孫盛曰:此不然之言.備時羈旅,客主勢殊,若有此變,豈敢晏然終表之世而無釁故乎?此皆世俗妄說,非事實也.

十二年,曹公北征烏丸,先主說表襲許,表不能用.[一]曹公南征表,會表卒,[二]子琮代立,遣使請降.先主屯樊,不知曹公卒至,至宛乃聞之,遂將其眾去.過襄陽,諸葛亮說先主攻琮,荊州可有.先主曰:「吾不忍也.」[三]乃駐馬呼琮,琮懼不能起.琮左右及荊州人多歸先主.[四]比到當陽,眾十餘萬,輜重數千兩,日行十餘里,別遣關羽乘船數百艘,使會江陵.或謂先主曰:「宜速行保江陵,今雖擁大眾,被甲者少,若曹公兵至,何以拒之?」先主曰:「夫濟大事必以人為本,今人歸吾,吾何忍棄去!」[五]

[一] 漢晉春秋曰:曹公自柳城還,表謂備曰:「不用君言,故為失此大會.」備曰:「今天下分裂,日尋干戈,事會之來,豈有終極乎?若能應之於後者,則此未足為恨也.」

[二] 英雄記曰:表病,上備領荊州刺史. 魏書曰:表病篤,託國於備,顧謂曰:「我兒不才,而諸將並零落,我死之後,卿便攝荊州.」備曰:「諸子自賢,君其憂病.」或勸備宜從表言,備曰:「此人待我厚,今從其言,人必以我為薄,所不忍也.」 臣松之以為表夫妻素愛琮,捨適立庶,情計久定,無緣臨終擧荊州以授備,此亦不然之言.

[三] 孔衍漢魏春秋曰:劉琮乞降,不敢吿備.備亦不知,久之乃覺,遣所親問琮.琮令宋忠詣備宣旨.是時曹公在宛,備乃大驚駭,謂忠曰:「卿諸人作事如此,不早相語,今禍至方吿我,不亦太劇乎!」引刀向忠曰:「今斷卿頭,不足以解忿,亦恥大丈夫臨別復殺卿輩!」遣忠去,乃呼部曲議.或勸備劫將琮及荊州吏士徑南到江陵,備答曰:「劉荊州臨亡託我以孤遺,背信自濟,吾所不為,死何面目以見劉荊州乎!」

[四] 典略曰:備過辭表墓,遂涕泣而去.

[五] 習鑿齒曰:先主雖顚沛險難而信義愈明,勢偪事危而言不失道.追景升之顧,則情感三軍;戀赴義之士,則甘與同敗.觀其所以結物情者,豈徒投醪撫寒含蓼問疾而已哉!其終濟大業,不亦宜乎!

曹公以江陵有軍實,恐先主據之,乃釋輜重,輕軍到襄陽.聞先主已過,曹公將精騎五千急追之,一日一夜行三百餘里,及於當陽之長阪.先主棄妻子,與諸葛亮﹑張飛﹑趙雲等數十騎走,曹公大獲其人眾輜重.先主斜趨漢津,適與羽船會,得濟沔,遇表長子江夏太守琦眾萬餘人,與俱到夏口.先主遣諸葛亮自結於孫權,[一]權遣周瑜﹑程普等水軍數萬,與先主幷力,[二]與曹公戰于赤壁,大破之,焚其舟船.先主與吳軍水陸並進,追到南郡,時又疾疫,北軍多死,曹公引歸.[三]

[一] 江表傳曰:孫權遣魯肅弔劉表二子,幷令與備相結.肅未至而曹公已濟漢津.肅故進前,與備相遇於當陽.因宣權旨,論天下事勢,致殷勤之意.且問備曰:「豫州今欲何至?」備曰:「與蒼梧太守吳臣有舊,欲往投之.」肅曰:「孫討虜聰明仁惠,敬賢禮士,江表英豪,咸歸附之,已據有六郡,兵精糧多,足以立事.今為君計,莫若遣腹心使自結於東,崇連和之好,共濟世業,而云欲投吳臣,臣是凡人,偏在遠郡,行將為人所併,豈足託乎?」備大喜,進住鄂縣,卽遣諸葛亮隨肅詣孫權,結同盟誓.

[二] 江表傳曰:備從魯肅計,進住鄂縣之樊口.諸葛亮詣吳未還,備聞曹公軍下,恐懼,日遣邏吏於水次候望權軍.吏望見瑜船,馳往白備,備曰:「何以知之非靑徐軍邪?」吏對曰:「以船知之.」備遣人慰勞之.瑜曰:「有軍任,不可得委署,儻能屈威,誠副其所望.」備謂關羽﹑張飛曰:「彼欲致我,我今自結託於東而不往,非同盟之意也.」乃乘單舸往見瑜,問曰:「今拒曹公,深為得計.戰卒有幾?」瑜曰:「三萬人.」備曰:「恨少.」瑜曰:「此自足用,豫州但觀瑜破之.」備欲呼魯肅等共會語,瑜曰:「受命不得妄委署,若欲見子敬,可別過之.又孔明已俱來,不過三兩日到也.」備雖深愧異瑜,而心未許之能必破北軍也,故差池在後,將二千人與羽﹑飛俱,未肯係瑜,蓋為進退之計也. 孫盛曰:劉備雄才,處必亡之地,吿急於吳,而獲奔助,無緣復顧望江渚而懷後計.江表傳之言,當是吳人欲專美之辭.

[三] 江表傳曰:周瑜為南郡太守,分南岸地以給備.備別立營於油江口,改名為公安.劉表吏士見從北軍,多叛來投備.備以瑜所給地少,不足以安民,後從權借荊州數郡.