利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

馬超伝

馬超孟起といい、右扶風茂陵の人である。父は馬騰といい、霊帝の末期、辺章・韓遂らとともに西方の州で事業を興した。初平三年(一九二)、韓遂・馬騰は軍勢を率いて長安に参詣した。漢朝は韓遂を鎮西将軍として金城に帰還させ、馬騰を征西将軍としてさせた。のちに馬騰は長安を襲撃したが、敗走し、撤退して涼州に帰っていった。司隷校尉鍾繇関中を鎮めることになると、韓遂・馬騰に文書を配布し、禍福を説明してやった。馬騰は馬超を派遣し、平陽における鍾繇の郭援・高幹討伐に従軍させた。馬超の部将龐悳が自ら郭援の首を斬った。のちに馬騰は韓遂と不和になり、京畿に帰りたいと申し出た。そこで徴し寄せて衛尉とし、馬超を偏将軍として都亭侯に封じ、馬騰の部曲を宰領させた。[一]

[一] 『典略』に言う。馬騰は字を寿成といい、馬援の子孫である。桓帝の時代、彼の父で字を子碩というのが、かつて天水蘭干県尉となっていた。のちに(馬子碩は)官職を失ったが、そのまま隴西に留まり、族と入り交じって住まいした。家は貧しく妻はなく、結局羌族のを娶って馬騰を生んだ。馬騰は若いころ貧しく産業もなかったので、いつも彰山の山中で材木を切り出す仕事に就き、(材木を)背負って城市に行って販売し、それで自分を養っていた。馬騰の人となりは身の丈八尺余り、体つきは広大、面や鼻は雄壮異形であった。しかしながら性質は賢明温厚であったので、人々の多くが彼を尊敬した。霊帝の末期、涼州刺史耿鄙が姦悪な役人を信任したので、領民の王国ら、および・羌が謀叛した。州郡は民衆の中から武力ある者を募集し、それを討伐しようとした。馬騰が応募者の中にいたが、州郡は彼を立派だと思い、軍の従事に任命して一部隊の人数を統率させた。賊を討伐して功績があり、軍の司馬を拝命した。のちに功績によって偏将軍に昇進し、さらに征西将軍に昇進した。いつも汧・隴の一帯に屯していた。初平年間(一九〇~一九四)、征東将軍を拝命した。当時、西方の州では食糧が少なかった。馬騰は自ら上表して、軍中の人の多くが飢えているので、池陽で食糧を得たいと請願し、そのまま長平岸頭に移駐した。しかし将軍王承らは馬騰が自分に危害をなすことを恐れ、そこで馬騰の陣営を攻撃した。そのとき馬騰は近くに外出して防備がなかったので、ついに潰滅して逃走し、西へと上っていった。ちょうどそのころ三輔が混乱するようになったので、もう再び東方へは行かなかった。そして鎮西将軍韓遂と異姓兄弟の契りを結んだ。初めは非常に親しみあっていたが、のちに一転して部曲をもって侵入しあい、讐敵に変わってしまった。馬騰が韓遂を攻撃したので、韓遂は逃走したが、軍勢を糾合して引き返し、馬騰を攻撃して彼の妻子を殺した。何度も戦闘を続けて和解することはなかった。建安年間(一九六~二二〇)の初期、国家の綱紀がゆるみ始めたので、そこで司隷校尉鍾繇・涼州韋端をして彼らを和解させた。馬騰を徴し出して槐里に帰還して駐屯させ、異動して前将軍に任命し、仮節とし、槐里侯に封じた。北方では族の侵略に備え、東方では白騎に備え、士人を待遇して賢者を推挙し、民衆の生命を救うことを優先したので、三輔ははなはだ安定し、彼を愛した。(建安)十五年、徴し出されて衛尉となったが、馬騰は自分が年老いたことを見て、そのまま入朝して宿衛することにした。むかし曹公曹操)は丞相になったとき、馬騰の長子馬超をいたが、(馬超は)応じなかった。馬超はのちに司隷校尉(鍾繇)の督軍従事となり、郭援を討伐したが、飛来した矢に当たってしまった。そこでその足を囊に包んでから戦い、撃破して郭援の首を斬った。詔勅によって徐州刺史を拝命し、のちに諫議大夫に任命された。馬騰が入朝するに及び、詔勅を下して偏将軍に任命し、馬騰の軍営を宰領させた。さらに馬超の弟馬休奉車都尉、馬休の弟馬鉄騎都尉に任じ、その家族を移住させて、みなに赴かせ、ただ馬超だけを残留させた。

馬超は軍勢を統率するようになってから、そのまま韓遂と連合し、楊秋・李堪・成宜らとも結び合うようになると、軍勢を進めて潼関まで到達した。曹公(曹操)が韓遂・馬超とただ一騎で馬上会談したとき、馬超は自分の武力を頼みとして、密かに突進して曹公を捕まえようと思ったが、曹公の左右の将許褚が目をらして彼をんでいたので、馬超はそのため行動を起こすことができなかった。曹公は賈詡の計略を用いて馬超と韓遂を離間させ、また猜疑しあうように仕向けたので、(馬超の)軍勢はそのために大敗した。[一]馬超が逃走してもろもろの族たちのもとに身を寄せたので、曹公は追撃して安定まで行ったが、ちょうどそのとき北方で事変があり、軍勢を引率して東方に帰還した。楊阜は曹公を説得して言った。「馬超には(韓)信・(黥)布なみの武勇があり、非常に羌族・胡族の心をつかんでおります。もし大軍が撤退されれば、その防備は厳重でなくなり、隴上の諸郡は国家の所有ではなくなりますぞ。」馬超は果たしてもろもろの戎族たちを率いて隴上の郡県を攻撃し、隴上の郡県はみな彼に呼応して涼州刺史韋康を殺害し、冀城を占拠して彼(韋康)の軍勢を押さえた。馬超は征西将軍・領幷州牧・督涼州軍事を自称した。韋康の故吏であった平民の楊阜・姜叙・梁寛・趙衢らは、馬超を攻撃せんと合議し、楊阜・姜叙が鹵城において挙兵した。馬超は出立してこれを攻撃したが、下すことができなかった。梁寛・趙衢が冀城の城門を閉鎖したので、馬超は入城することができず、進退窮まり、漢中に出奔して張魯に身を寄せた。張魯(の資質)は一緒に事業を計画するには不充分であったので、内心では於邑(はやる気持ち)を抱き、先主劉備)が成都において劉璋を包囲したと聞くや、密かに手紙を送って降服したいと申し入れた。[二]

[一] 『山陽公載記』に言う。むかし曹公は蒲阪に進軍したとき、(黄河を)西に渡ろうとした。馬超は韓遂に告げた。「渭水北岸でこれを防ぐべきだ。二十日にもならぬうち河東の食糧は尽き、奴めはきっと敗走するだろう。」韓遂は言った。「渡河するのを見逃してやって、黄河の真ん中に追い詰めるのも愉快じゃないか!」馬超の計略が実施されることはなかった。曹公はそれを聞いて言った。「馬家の小僧が死なねば、は葬られる場所さえないのだ。」

[二] 『典略』に言う。建安十六年(二一一)、馬超は関中の諸将侯選・程銀・李堪・張横・梁興・成宜・馬玩・楊秋・韓遂らと手を組み、都合十部が一斉に反乱を起こし、その軍勢は十万人にもなり、黄河・潼関地域に集結し、陣営を連ねて建設した。この歳、曹公は西征し、馬超らと黄河・渭水の合流地点あたりで戦い、馬超らは敗走した。馬超は安定まで行き、韓遂は涼州に遁走した。詔勅が下って馬超の家族が収監され滅ぼされた。馬超は再び隴上で敗北し、のちに漢中に出奔した。張魯は(彼を)都講祭酒とし、女を彼に嫁がせようと考えたが、ある人が張魯を諫めて言った。「かように親を愛せない人が、どうして他人を愛せましょうや?」張魯はそれで止めた。むかし馬超が反乱を起こす以前、彼の小婦(側室)の弟は三輔に住居していたが、馬超が敗北するに及び、种は(馬超に)先行して漢中に入った。正月元旦、种が馬超に年賀を告げに行くと、馬超は胸を叩き血を吐きながら言った。「郷里で百人もの人間が、一晩でみな死んでしまった。いま二人で年賀しあっている場合だろうか?」のちに何度も張魯に軍勢を求め、北進して涼州を奪取せんと図ったが、張魯が行かせてやると敗北してしまった。また張魯の将楊白らが彼の自由を阻害しようとした。馬超はそのため武都から氐族の部落に逃げ込み、またもや出奔してへ行った。この歳は建安十九年である。

先主が人をやって馬超を迎えさせると、馬超は軍勢を率いてただちに城下にやってきた。城中では恐れおののき、劉璋はすぐ頭を下げ(降服し)た。[一]馬超を平西将軍督臨沮とし、前都亭侯た。[二]先主は漢中王になると、馬超を任命して左将軍仮節とした。章武元年(二二一)、驃騎将軍に昇進させ、涼州牧を領させ,封爵を斄郷侯に進めた。(辞令書)に言う。「朕は不徳でありながら至尊を継ぐことになり、宗廟を承け奉ることになった。曹操父子は代々その罪を重ね、朕は惨憺たる思いにとらわれ、頭痛の如き症状を得た。海内では恨み怒り、正統に帰順して本道に立ち返り、氐族・羌族が服従し、獯鬻(匈奴)が正義を慕うまでになった。君の信義は北方の地で顕著であり、威厳・武勇はともに昭然としている。それゆえ任務を委ねて君に授け、虓虎(吼えたける虎)の猛威を高く掲げ、万里の彼方まで正し、民衆の病苦を救わせるのだ。さあ、本朝の教化を明らかに宣言し、遠近(の人々)を手懐けたうえ保護してやり、賞罰を厳粛に慎み、それによって漢家の幸福を確かなものとし、それによって天下(の期待)に報いよ。」二年、卒去した。時に四十七歳であった。没するに臨み、上疏して言っていた。「臣の一門宗族二百人余りは、孟徳(曹操)めにあらかた誅殺されてしまい、ただ従弟馬岱だけが残りました。途絶えんとしている宗家の血食(生贄を捧げる祭祀)を継承させてください。深く陛下にお託しいたし、もう外に申し上げることはございません。」馬超は追諡されて威侯と言い、子の馬承が嗣いだ。馬岱の官位は平北将軍まで昇り、爵位は陳倉侯に進められた。馬超の女は安平王劉理に縁づけられた。[三]

[一] 『典略』に言う。劉備は馬超が降参したと聞いて喜び、「は益州を手に入れたぞ」と言った。そこで人をやって馬超を留めて(もてなし)、密かに軍勢を授けて彼を援助(すると約束)してやった。馬超が到着すると、軍勢を引率させて(成都の)城北に屯させた。馬超が来てから十日にもならぬうちに成都は潰滅した。

[二] 『山陽公載記』に言う。馬超は劉備からの待遇が厚いのを見たので、劉備と語り合うときはいつも劉備の字を呼んだ。関羽は怒り、彼を殺したいと申し出た。劉備は言った。「他人が追い詰められて我を頼って来たのだ。(それなのに)らは怒りを抱き、我の字が呼ばれたことを理由に彼を殺そうとする。どうして天下に示しが付こうか!」張飛は言った。「それならば、礼儀を彼に示してやりましょう。」翌日、大宴会を催し、馬超に出席せよと伝え、関羽・張飛はともども刀を手にして(先主の左右に)侍立した。馬超が坐席を振り返っても関羽・張飛の姿が見えなかったが、彼らが侍立しているのを見て大いに驚き、とうとう劉備の字を再び呼ぶことはなくなった。翌日、歎息して言った。「我は今になって敗北した理由が分かったよ。人主の字を呼んだせいで、もう少しで関羽・張飛に殺されるところだったな。」以後、尊敬をもって劉備に仕えるようになった。臣裴松之は考える。馬超は追い詰められて劉備に帰参し、彼から爵位を受けたのだ。どうして傲慢になって劉備の字を呼ぶ余裕などあろうか?そのうえ劉備は入蜀したとき、関羽を留めて荊州を鎮めさせており、関羽は一度も益州の地に入っていない。それゆえ関羽は馬超が帰服したと聞き、手紙で「馬超の人物才能は誰に比類するか」と諸葛亮に訊ねたのであり、書物(山陽公載記)が言う通りにはなりえない。関羽がどうして張飛と一緒に侍立することなどできようか?どんな人間でも行動を起こすには、みなそれがよいと思っているからであり、それが駄目だと知っていれば行わないものだ。馬超がもし本当に劉備の字を呼んだとすれば、やはり理屈からいってそうすべきと思ったからである。たとい関羽が馬超殺害を申し出たとしても、馬超は(その計画を)聞いていないはずで、ただ二子(関羽・張飛)が侍立しているのを見ただけで、どういう理由で、字を呼んだためだと即座に察知し、もう少しで関羽・張飛に殺されるところだったと言うのか?言葉が理屈に沿っていないのは、ひどく腹の立つことである。袁暐・楽資らのもろもろの記載は、穢雑にして空虚誤謬であり、こうした類は、ほとんど言い尽くせないほどである。

[三] 『典略』に言う。はじめ馬超が入蜀したとき、彼の庶妻(側室)氏および子の馬秋は張魯のもとに留まっていた。張魯が敗北すると、曹公は彼らを手に入れ、董氏を閻圃に賜い、馬秋を張魯に附属させた。張魯は自らの手で彼を殺した。

馬超傳

馬超字孟起,右扶風茂陵人也.父騰,靈帝末與邊章﹑韓遂等倶起事於西州.初平三年,遂﹑騰率眾詣長安.漢朝以遂為鎮西將軍,遣還金城,騰為征西將軍,遣屯郿.後騰襲長安,敗走,退還涼州.司隸校尉鍾繇鎮關中,移書遂﹑騰,為陳禍福.騰遣超隨繇討郭援﹑高幹於平陽,超將龐悳親斬援首.後騰與韓遂不和,求還京畿.於是徵為衞尉,以超為偏將軍,封都亭侯,領騰部曲.[一]

[一] 典略曰:騰字壽成,馬援後也.桓帝時,其父字子碩,嘗為天水蘭干尉.後失官,因留隴西,與羌錯居.家貧無妻,遂娶羌女,生騰.騰少貧無産業,常從彰山中斫材木,負販詣城市,以自供給.騰為人長八尺餘,身體洪大,面鼻雄異,而性賢厚,人多敬之.靈帝末,涼州刺史耿鄙任信姦吏,民王國等及氐﹑羌反叛.州郡募發民中有勇力者,欲討之,騰在募中.州郡異之,署為軍從事,典領部眾.討賊有功,拜軍司馬,後以功遷偏將軍,又遷征西將軍,常屯汧﹑隴之閒.初平中,拜征東將軍.是時,西州少穀,騰自表軍人多乏,求就穀於池陽,遂移屯長平岸頭.而將王承等恐騰為己害,乃攻騰營.時騰近出無備,遂破走,西上.會三輔亂,不復來東,而與鎮西將軍韓遂結為異姓兄弟,始甚相親,後轉以部曲相侵入,更為讎敵.騰攻遂,遂走,合眾還攻騰,殺騰妻子,連兵不解.建安之初,國家綱紀始弛,乃使司隸校尉鍾繇﹑涼州牧韋端和解之.徵騰還屯槐里,轉拜為前將軍,假節,封槐里侯.北備胡寇,東備白騎,待士進賢,矜救民命,三輔甚安愛之.十五年,徵為衞尉,騰自見年老,遂入宿衞.初,曹公為丞相,辟騰長子超,不就.超後為司隸校尉督軍從事,討郭援,為飛矢所中,乃以囊囊其足而戰,破斬援首.詔拜徐州刺史,後拜諫議大夫.及騰之入,因詔拜為偏將軍,使領騰營.又拜超弟休奉車都尉,休弟鐵騎都尉,徙其家屬皆詣鄴,惟超獨留.

超旣統眾,遂與韓遂合從,及楊秋﹑李堪﹑成宜等相結,進軍至潼關.曹公與遂﹑超單馬會語,超負其多力,陰欲突前捉曹公,曹公左右將許褚瞋目盻之,超乃不敢動.曹公用詡謀,離閒超﹑遂,更相猜疑,軍以大敗.[一]超走保諸戎,曹公追至安定,會北方有事,引軍東還.楊阜說曹公曰:「超有信﹑布之勇,甚得羌﹑胡心.若大軍還,不嚴為其備,隴上諸郡非國家之有也.」超果率諸戎以擊隴上郡縣,隴上郡縣皆應之,殺涼州刺史韋康,據冀城,有其眾.超自稱征西將軍,領幷州牧,督涼州軍事.康故吏民楊阜﹑姜敘﹑梁寬﹑趙衢等,合謀擊超.阜﹑敘起於鹵城,超出攻之,不能下;寬﹑衢閉冀城門,超不得入.進退狼狽,乃奔漢中依張魯.魯不足與計事,內懷於邑,聞先主圍劉璋於成都,密書請降.[二]

[一] 山陽公載記曰:初,曹公軍在蒲阪,欲西渡,超謂韓遂曰:「宜於渭北拒之,不過二十日,河東穀盡,彼必走矣.」遂曰:「可聽令渡,蹙於河中,顧不快耶!」超計不得施.曹公聞之曰:「馬兒不死,吾無葬地也.」

[二] 典略曰:建安十六年,超與關中諸將侯選﹑程銀﹑李堪﹑張橫﹑梁興﹑成宜﹑馬玩﹑楊秋﹑韓遂等,凡十部,倶反,其眾十萬,同據河﹑潼,建列營陳.是歲,曹公西征,與超等戰於河﹑渭之交,超等敗走.超至安定,遂奔涼州.詔收滅超家屬.超復敗於隴上.後奔漢中,張魯以為都講祭酒,欲妻之以女,或諫魯曰:「有人若此不愛其親,焉能愛人?」魯乃止.初,超未反時,其小婦弟种留三輔,及超敗,种先入漢中.正旦,种上壽於超,超搥胸吐血曰:「闔門百口,一旦同命,今二人相賀邪?」後數從魯求兵,欲北取涼州,魯遣往,無利.又魯將楊白等欲害其能,超遂從武都逃入氐中,轉奔往蜀.是歲建安十九年也.

先主遣人迎超,超將兵徑到城下.城中震怖,璋卽稽首,[一]以超為平西將軍,督臨沮,因為前都亭侯.[二]先主為漢中王,拜超為左將軍,假節.章武元年,遷驃騎將軍,領涼州牧,進封斄鄕侯,策曰:「朕以不德,獲繼至尊,奉承宗廟.曹操父子,世載其罪,朕用慘怛,疢如疾首.海內怨憤,歸正反本,曁于氐﹑羌率服,獯鬻慕義.以君信著北土,威武並昭,是以委任授君,抗颺虓虎,兼董萬里,求民之瘼.其明宣朝化,懷保遠邇,肅愼賞罰,以篤漢祜,以對于天下.」二年卒,時年四十七.臨沒上疏曰:「臣門宗二百餘口,為孟德所誅略盡,惟有從弟岱,當為微宗血食之繼,深託陛下,餘無復言.」追諡超曰威侯,子承嗣.岱位至平北將軍,進爵陳倉侯.超女配安平王理.[三]

[一] 典略曰:備聞超至,喜曰:「我得益州矣.」乃使人止超,而潛以兵資之.超到,令引軍屯城北,超至未一旬而成都潰.

[二] 山陽公載記曰:超因見備待之厚,與備言,常呼備字,關羽怒,請殺之.備曰:「人窮來歸我,卿等怒,以呼我字故而殺之,何以示於天下也!」張飛曰:「如是,當示之以禮.」明日大會,請超入,羽﹑飛並杖刀立直,超顧坐席,不見羽﹑飛,見其直也,乃大驚,遂一不復呼備字.明日歎曰:「我今乃知其所以敗.為呼人主字,幾為關羽﹑張飛所殺.」自後乃尊事備.臣松之按以為超以窮歸備,受其爵位,何容傲慢而呼備字?且備之入蜀,留關羽鎮荊州,羽未嘗在益土也.故羽聞馬超歸降,以書問諸葛亮「超人才可誰比類」,不得如書所云.羽焉得與張飛立直乎?凡人行事,皆謂其可也,知其不可,則不行之矣.超若果呼備字,亦謂於理宜爾也.就令羽請殺超,超不應聞,但見二子立直,何由便知以呼字之故,云幾為關﹑張所殺乎?言不經理,深可忿疾也.袁暐﹑樂資等諸所記載,穢雜虛謬,若此之類,殆不可勝言也.

[三] 典略曰:初超之入蜀,其庶妻董及子秋,留依張魯.魯敗,曹公得之,以董賜閻圃,以秋付魯,魯自手殺之.