利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

趙雲伝

趙雲子龍といい、常山真定の人である。もともと公孫瓚に属していたが、公孫瓚が先主劉備)と田楷を派遣して袁紹に対抗したとき、趙雲はそのまま随従して先主の主騎となった。[一]先主は当陽長阪曹公曹操)に追撃されると、妻子を棄てて南方に逃走した。趙雲が自ら幼子すなわち後主劉禅)を抱きかかえ、甘夫人すなわち後主の母を保護したので、いずれも難を免れることができた。昇進して牙門将軍となった。先主がに入ったとき、趙雲は荊州に留まっている。[二]

[一] 『(趙)雲別伝』に言う。趙雲は身長が八尺あり、姿や顔付きは雄壮偉大であった。本郡から推挙され、義従の官吏・兵卒を率いて公孫瓚のもとに参向した。当時、袁紹が冀州牧を称しており、公孫瓚は州の人々が袁紹に従うことを深く心配していたので、趙雲がやってきたことを善とし、趙雲をからかって言った。「聞けば貴州の人々はみな袁氏を願っているとのことだが、君はどうして独り心変わりして、迷いを起こして寝返ったりしたのかね?」趙雲は答えて言った。「天下は喧々囂々として、どうすればよいのか知らず、民衆は逆さ吊りの災厄に遭っております。州では仁政のあるところに従おうと論議いたしました。袁公(袁紹)を放っておいて明将軍に私情を持っているわけではございません。(将軍が仁政を行わないのならすぐさま立ち去る所存です。)」そうして公孫瓚とともに征討した。当時、先主もやはり公孫瓚に身を寄せていたが、つねづね趙雲に接して(彼を)受け入れたので、趙雲は自分から深く協力することができた。趙雲は兄の喪に服すことを口実に公孫瓚のもとを辞去し、しばらく帰郷することになったが、先主は彼が(公孫瓚のもとに)戻って来ないことを悟り、手を取って別れを告げた。趙雲は別れ間際に言った。「最後まで御徳には背きませぬ。」先主が袁紹を頼ったとき、趙雲はにおいて(先主に)会った。先主は趙雲と同じ牀で眠り、密かに趙雲に募集をかけさせて数百人を手に入れたが、みな劉左将軍(劉備)の部曲だと称したので、袁紹は気付かなかった。そのまま先主に随行して荊州に到着した。

[二] 『雲別伝』に言う。むかし先主が敗北したとき、趙雲はもう寝返って去りましたと言った者があった。先主は手戟を彼に投げ付け、「子龍はを棄てて逃げたりはしないんだ」と言った。しばらくして趙雲がやってきた。江南平定に従軍し、偏将軍となり、趙範と交代して桂陽太守を領した。趙範の寡婦氏と言い、中国一の色香があった。趙範は彼女を趙雲に嫁がせようと望んだが、趙雲は辞退して言った。「お互い同姓なのだから、の兄は我の兄も同然です。」固辞して承諾しようとしなかった。当時、それを受け入れるように趙雲に勧めた人もいたが、趙雲は「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、(彼の)心を知ることはできないし、天下に女は少なくない」と言い、ついに娶ることはなかった。趙範は果たして逃走したが、趙雲は全く気にしなかった。それ以前、夏侯惇博望で戦ったおりのこと、夏侯蘭を生け捕りにしたことがあった。夏侯蘭は趙雲の郷里の人で、幼少のとき互いに面識があった。趙雲は彼を生かしておくよう先主に申し入れ、夏侯蘭が法律に詳しいからと軍正に取り立てるよう薦めた。(しかしそれ以後も)趙雲は自分から(夏侯蘭に)近付くことはしなかった。彼の慎重な配慮はみなこのような有様であった。先主が益州に入ると、趙雲は留営司馬を領した。当時、先主の孫夫人孫権の妹であることを鼻にかけて傲慢であり、から連れてきた官吏・兵士の多くが好き勝手をして不法行為を働いていた。先主は趙雲の厳重さならばきっと取り締まることができると見込んで、特別に内向きのことを管掌させた。孫権は劉備が征西したと聞いて、大々的に艦船を出して妹を引き取らせたが、夫人は密かに後主を連れて呉に帰国しようとした。趙雲は張飛とともに軍勢を率いて長江を遮断し、後主を取り戻してから帰還した。

先主は葭萌から引き返して劉璋を攻撃したとき、諸葛亮を召し寄せた。諸葛亮は趙雲と張飛らを率いて一緒に長江をさかのぼって西上し、郡県を平定した。江州まで来ると(軍勢を)分割して、趙雲には外水から江陽に攻め上らせ、諸葛亮とは成都で落ち合うことにした。成都が平定されると趙雲は翊軍将軍になった。[一]建興元年(二二三)、中護軍征南将軍となり、永昌亭侯に封ぜられ、鎮東将軍に昇進した。五年、諸葛亮に随従して漢中に駐留した。翌年、諸葛亮が軍勢を出したとき、斜谷道を経由するぞと喧伝したので、曹真は大軍を派遣してこれに当たった。諸葛亮は趙雲と鄧芝に(斜谷道へ)行って防ぐように命じ、その一方で自分は祁山を攻撃した。趙雲・鄧芝の軍勢は弱く、敵は強く、箕谷において敗北した。しかしながら軍勢を引き締めて固守したので、大敗するには至らなかった。軍が撤退すると左遷されて鎮軍将軍となった。[二]

[一] 『雲別伝』に言う。益州が平定されたのち、当時、成都城中の家屋邸宅および場外の農地桑田を分配して諸将に下げ渡そうと議論された。趙雲はそれに反駁して言った。「霍去病匈奴が滅ぼされていないからと、家を作ろうとはしませんでした。国賊()はただ匈奴なみ(の害毒)ではありませんぞ。まだ平安を求めるべきではありません。天下が都定されて、おのおのが桑梓に戻り、本土に帰農するのを待てば、それこそよろしいことです。益州の人民ははじめ戦争に巻き込まれておりますので、農地邸宅はすべて返還すべきです。今は住居を保証して生業に帰らせ、しかるのちに夫役・調税を課すことにして、彼らの歓心を得ましょう。」先主はすぐさまそれに従った。夏侯淵が敗北すると、曹公は漢中の地を争い、北山の麓に運んだ軍糧米は数千万囊もあった。黄忠は奪うべしと主張し、趙雲の軍勢も黄忠に随行して軍糧米を奪いに行った。黄忠が期限を過ぎても帰って来なかったので、趙雲は数十騎を率いて軽装で陣営を出て、黄忠らの様子を出迎えて見ようとした。そのとき曹公が軍勢を催して大々的に出てきた。趙雲は曹公の先鋒の攻撃を受け、まさに戦おうとしたとき彼らの大軍が到達し、情勢は差し迫っていた。(趙雲は)そのまま前進して敵陣に突撃し、闘いながら退いた。曹公の軍は敗れたが、またもや集合して(勢力を盛り返して)しまった。趙雲は敵勢を陥れたので帰還して陣営に到着したが、将軍張著が負傷して(動けなくなって)いたので、趙雲はふたたび馬を駆って(敵の)陣営に戻り、張著を迎え入れた。曹公の軍勢は追撃して(趙雲の)陣営まで到達した。このとき沔陽県長張翼が趙雲の陣営内におり、張翼は門を閉ざして防ぎ守ろうとしていたが、趙雲は陣営に入ると更に大きく開門させ、旗を伏せ太鼓を止めさせた。曹公の軍勢は趙雲に伏兵があるのではないかと疑い、引き払った。趙雲は太鼓を轟かせて天を震わせ、ひたすら戎弩で曹公の軍勢を背後から射たので、曹公の軍勢は驚き、味方同士で踏み付け合ったり、漢水の中に落ちたりして死ぬ者が非常に多かった。先主は明朝、自ら趙雲の陣営を訪れて、昨日の戦いの場所を視察し、「子龍は一身すべてが胆だ」と言った。宴会で酒を飲んで歓楽を催し、(それは)日暮れまで続き、軍中では趙雲を虎威将軍と呼ぶようになった。孫権が荊州を襲撃すると、先主は大いに怒って孫権を討伐しようとした。趙雲は諫めて言った。「国賊は曹操であって孫権ではございませぬ。それにまず魏を滅ぼしてしまえば、呉は自ら降服して参りましょう。曹操の身は斃れたとはいえ、子の曹丕が簒奪してしまいました。民衆の心に沿って、速やかに関中を経略し、黄河・渭水の上流を占拠して凶逆の輩を討つべきです。関東の義士は必ずや糧米を包んで馬を鞭打って王師(天子の軍勢)を出迎えるでありましょう。魏を差し置いて先に呉と戦ったりすべきでありません。軍事情勢というものは、ひとたび(干戈を)交えると、すぐに解くことはできないのです。」先主は聞き入れず、そのまま東征し、趙雲を留めて督江州とした。先主は秭帰において敗北し、趙雲が軍勢を進発させて永安に着陣したときには、呉軍は撤退したあとだった。

[二] 『雲別伝』に言う。諸葛亮は言った。「街亭の軍勢は撤退したとき、将兵を再び録することができなかったが、箕谷の軍勢は撤退したのに将兵はまるで失われなかった。何故かね?」鄧芝は答えて言った。「趙雲が自ら後方を断ち切ったので、軍需物資や器物を棄てることはほとんどなく、将兵も失わずに済みました。」趙雲は軍需物資の残りの絹布を持ち帰っていたが、諸葛亮は分配して将士に下賜させようとした。趙雲は言った。「軍事で勝利を得られなかったのに、どうして下賜があるのでしょうか?それらの物資はことごとく赤岸の府庫にお納め下さり、十月をって冬のご下賜となさいますよう。」諸葛亮は彼を大いに評価した。

七年に卒去し、順平侯追諡された。

はじめ先主の時代には法正だけがされ、後主の時代になると、諸葛亮の功績徳行は世をい、蔣琬・費禕は国家の重責を担い、やはり諡された。陳祗は寵愛厚遇されて特別に推奨され、夏侯霸は遠来して帰化したので、また諡された。このとき関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠および趙雲が追諡されたが、当時の議論では栄誉とされた。[一]趙雲の子趙統が嗣ぎ、官位は虎賁中郎督行領軍にまで昇った。次子趙広牙門将であり、姜維に従って沓中(に赴き)、戦陣に臨んで戦死した。

[一] 『雲別伝』に記載する後主の詔勅に言う。「趙雲はむかし先帝に従って功績が顕著であった。朕は幼少をもって艱難にまみれたが、(趙雲の)忠誠順良を頼りとして危険を乗り越えることができた。そもそも諡というのは元勲を叙するものである。(朝廷の)外では趙雲に諡すべきであると議論している。」大将軍姜維らは提議した。「趙雲はむかし先帝に従って功労は顕著であり、天下を経営するにあたっては法度を遵奉しており、功績は記録されるべきであります。当陽の戦役では、義心は金石さえ貫通し、忠心はお上をご守護いたしました。君主がその褒賞を思い、礼儀をもって下の者を厚遇なされれば、臣下はその死を忘れるものです。死者に知覚があるならば不死であるとするに充分ですし、生者が恩に感じれば身を棄てるに充分です。謹んで諡法を勘案いたしますに、柔和・賢明・慈悲・恩恵を『順』と言い、事務を取り仕切って秩序あることを『平』と言い、よく混乱を鎮定することを『平』と言うとあります。趙雲に諡して『順平侯』とすべきと存じます。」