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原著作者:【むじん書院】

蜀書六 三国志三十六 関張馬黄趙伝第六

関羽伝

関羽雲長、もともとの字を長生といい、河東の人である。亡命して涿郡に出奔した。先主劉備)が郷里で人々を糾合していたとき、関羽は張飛とともに彼のために禦侮した。先主は平原国のとなると、関羽・張飛を別部司馬とし、別々に部曲を統率させた。先主は二人とともに寝るときは同じ牀であり、恩愛は兄弟のようであった。しかし衆人のいる集会では一日中侍立しつづけ、先主に従って東奔西走し、困難を避けようとはしなかった。[一]先主は徐州刺史車胄を襲撃して殺すと、関羽に下邳城を守らせて太守の事務を代行させ、[二]自身は小沛に帰還した。

[一] 『蜀記』に言う。曹公曹操)と劉備が下邳で呂布を包囲したとき、関羽は(曹)公に申告した。「呂布は秦宜禄を使者として救援を求めさせています。彼の妻を娶ることをお許しください。」公はそれを許した。撃破を目前にして、さらにたびたび公に申告した。公は彼女が並外れた色香を持っているのではないかと疑い、先に迎えをやって謁見し、自分の手元に留め置いた。関羽の心は穏やかでいられなかった。これと『魏氏春秋』が説くものとは異なっている。

[二] 『魏書』に言う。関羽に徐州を宰領させた。

建安五年(二〇〇)、曹公が東征すると先主は袁紹のもとに出奔した。曹公は関羽を生け捕りにして帰還し、偏将軍の官職を授け、彼をはなはだ手厚く礼遇した。袁紹が大将軍顔良を派遣して東郡太守劉延白馬において攻撃したので、曹公は張遼および関羽を先鋒として彼を攻撃させた。関羽は顔良の麾蓋を眺め見て、馬に鞭打って敵勢一万のただなかで顔良を刺し、その首を斬って引き返したが、袁紹軍の諸将のうちでも敵対できる者はなかった。かくて白馬の包囲は解けた。曹公はすぐさま上表して関羽を漢寿亭侯に封じた。はじめ曹公は関羽の人となりを雄壮だと思っていたが、彼の心中を察すると、長く留まる意志は無いようだったので、張遼に言った。「が試しに情けをもって尋ねてみてくれ。」張遼が関羽に尋ねてみたところ、関羽は歎息して言った。「も曹公の待遇が厚いことはよくよく知っております。しかし吾は劉将軍から厚い御恩を受け、死を共にすることを誓っておりまして、背くわけにはいかないのです。吾は最後まで留まることはしません。吾は必ず功績を立てて曹公(の御恩)に報い、そののち立ち去るでしょう。」張遼が関羽の言葉を曹公に報告すると、曹公は彼を忠義だと思った。[一]関羽が顔良を殺すに及び、曹公は彼が必ず去ってしまうと悟り、手厚い賞賜を加えた。関羽はその賜り物をことごとく封印し、手紙を書いて辞去を告げ、袁軍の先主のもとに出奔した。左右の者がそれを追跡しようとしたが、曹公は言った。「彼もやはりその主君のためにしているのだ。追わぬようにな。」[二]

[一] 『傅子』に言う。張遼は太祖(曹操)に報告しようと思ってはいたが、太祖が関羽を殺してしまうことを心配して報告しなかった。(しかし言わずにいることは)君主に仕える道ではないので、歎息して言った。「公は父君だが、関羽は兄弟でしかない。」ついにそのことを報告した。太祖は言った。「君主に仕えて、その根本を忘れないのは天下の義士である。(関羽が)いつ立ち去ると見積もるかね?」張遼は言った。「関羽は公の御恩を受けておりますから、必ずや功績を立てて公(の御恩)にお報いし、しかるのち去りましょう。」

[二] 臣裴松之は思う。曹公は関羽が留まらないことを知りながら、心底、彼の志を評価した。(関羽が)立ち去ったときも追捕の手を出さず、その義心を完成させてやった。王者・覇者の度量がなければ誰がここまで到達できようか?これこそ実に曹公の善美さである。

先主に従って劉表に身を寄せた。劉表が卒去すると曹公が荊州を平定したので、先主はから南に行って長江を渡ろうとし、別途、関羽を数百艘の船に乗せて江陵で落ち合うことにした。曹公が追走して当陽長阪に到達すると、先主は横道をとって漢津に向かい、ちょうど関羽の船団と行き合ったので、一緒になって夏口に到着した。[一]孫権は軍勢を派遣し、先主を救援して曹公に対抗させると、曹公は軍勢を引き揚げて帰還した。先主は長江南岸の諸郡を占領すると、元勲に対する加増・任命を行い、関羽を襄陽太守・盪寇将軍とし、長江北岸に駐屯させた。先主は西進して益州を平定すると、関羽を董督荊州事に任命した。関羽は馬超が来降したと聞くと、もともと旧知の仲ではなかったので、関羽は諸葛亮に宛てて手紙を書き、馬超の人品才覚は誰に比類するかと質問した。諸葛亮は関羽が護前と知っていたので、そこで彼に返答して言った。「孟起馬超)は文武を兼ね備え、雄壮激烈たること人一倍であり、一代の英傑、黥(布)彭(越)の仲間である。益徳(張飛)と轡を並べて先を争うべきであるが、それでも髯の絶倫傑出ぶりには及ばないだろう。」関羽は鬚髯が美しく、それゆえ諸葛亮は「髯」と言ったのである。関羽は手紙を見ると大喜びし、賓客たちに見せびらかした。

[一] 『蜀記』に言う。むかし劉備がにいたとき、曹公と一緒に狩猟に出かけたことがある。狩猟の最中に人々が散らばったので、関羽は公を殺せと劉備に勧めたが、劉備は従わなかった。夏口までやってきて、長江のほとりで風に舞うように(不安定な立場に)なると、関羽は怒りながら言った。「かつての狩猟の最中、もし関羽の言葉に従っておられたら、今日のような困窮はなかったのですぞ。」劉備は言った。「その時は国家のために彼を惜しんだだけだ。もし天道が正義をお助けになるならば、どうしてこれがに転じないと分かるのか!」臣裴松之は思う。劉備は(狩猟の)のちに董承らと結託謀議したが、ただ計画が露見して叶わなかっただけである。もし国家のために曹公を惜しんだのであれば、このような事は何だったと言うのか!関羽がもし実際にこのように勧めて、劉備が従わなかった(事実がある)とすれば、きっと曹公の腹心親戚が実に大勢いて、計画が充分に練られたものでないため、にわかに実行に移せなかったからである。曹(公)は殺すことができたとしても、自分は間違いなく逃れられず、それゆえ計算によって取り止めたのであり、どうして彼を惜しむなどということがあろうか!過ぎ去ったことでなので、ことさらにかこつけて綺麗事を言っただけだ。

関羽はかつて流れ矢に当たり、左臂を貫通したことがあった。のちに傷は癒えたものの、雨が降るたびいつも骨がき痛んだ。医者は言った。「に毒が塗ってあって、毒が骨に染み込んでいるのです。臂を切開して穴を作り、骨を削って毒を取り去らなければなりません。そうすればこの症状を取り除くことができます。」関羽は即座に臂を伸ばして医者に切らせた。そのとき関羽はちょうど諸将を招いて飲食会談していたところで、臂の血が流れ落ちて大皿を満たしたのに、関羽は焼肉を切り分けたり酒を取り寄せたりして、しゃべり笑うことは普段通りだった。

二十四年、先主は漢中王となると関羽を前将軍に任命し、仮節鉞とした。この歳、関羽は軍勢を率いて樊の曹仁を攻めた。曹公は于禁を派遣して曹仁を救助させたが、秋に大長雨となって漢水が氾濫し、于禁が監督していた七軍は全て水没してしまった。于禁は関羽に降り、関羽はさらに将軍龐悳を斬った。陸渾の羣盗のなかには、はるばる関羽から印綬称号を受けて彼の支党となる者もあった。関羽の威勢は華夏中原)を震わせた。曹公は許都を移転させて、その鋭鋒を避けようと動議したが、司馬宣王司馬懿)・蔣済が「関羽が(荊州一円知行の)志を得ることを、孫権はきっと願いません。人をやって彼の背後を追跡するよう孫権に勧め、江南を分割して孫権に封ずることをお許し下さい。さすれば樊の包囲は自ずと解けますぞ」と主張したので、曹公はそれに従った。それ以前のこと、孫権が使者を派遣して我が子のために関羽のを求めたところ、関羽はその使者を罵倒侮辱して婚姻を許さず、孫権を激怒させたことがあった。[一]また南郡太守麋芳が江陵にあり、将軍傅士仁公安していたが、日ごろ両人は関羽が自分を軽んずるのを嫌悪していた。関羽が軍勢を出してからは、麋芳・士仁は軍需物資の供給にあたったものの、救援に全力を尽くさなかった。関羽が「帰ったらあいつらを処罰してやる」と言ったので、麋芳・士仁はみな恐れを抱いて不安になった。こうしたことがあって、孫権が密かに麋芳・士仁を勧誘すると、麋芳・士仁は人をやって孫権を迎え入れさせた。そして曹公が徐晃を派遣して曹仁を救援させると、[二]関羽は勝つことができず、軍勢を率いて撤退帰還した。(しかし)孫権がすでに江陵を占拠しており、関羽の兵士たちの妻子をことごとく捕虜にしていたため、関羽軍は完全に瓦解してしまった。孫権は部将を派遣して関羽を迎撃させ、関羽および子の関平臨沮において斬首した。[三]

[一] 『典略』に言う。関羽が樊を包囲すると、孫権は使者をやって支援したいと申し入れたが、使者には早く行ってはならぬと命じ、一方で主簿を派遣して関羽に命令(が出ていること)を事前に伝えていた。関羽はその遅延に怒り、また自分でも既に于禁らを捕らえていたので、罵って言った。「狢子めがこんな真似をしやがるなら、樊城が陥落したとき、を滅ぼさずにいられようか!」孫権はそれを聞いて、彼が自分を軽視していることを知り、直筆書状によって関羽に陳謝する態度を取り、自分から出向くと約束した。臣裴松之は考える。荊州とは表面では睦ましくしていたが、内心では互いに猜疑心を持っていた。それゆえ孫権の関羽襲撃では、軍勢を潜行させ進発を秘密にしたのである。『呂蒙伝』を調べると、「精兵をコウロクの中に潜伏させ、白衣(平民)に櫓をこがせて商人の衣服を着せた」と言っている。このことからそれを言えば、関羽は孫権に援助を求めてはおらず、孫権の方でも出向くとは絶対に言わなかったはずである。もし援助を約束し合ったのなら、なにゆえその形跡を隠すのか?

[二] 『蜀記』に言う。関羽と徐晃はかねがね相愛の仲だったので、遠くからともに語り合い、ただ日常のことばかりを話題にして軍事に言及することはなかった。しばらくして、徐晃は馬から下りると命令を発した。「関雲長のを取った者には賞金千斤だぞ。」関羽は驚き恐れて徐晃に言った。「大兄、それは何たる言葉でしょうか!」徐晃は言った。「これは偏に国家の事だからな。」

[三] 『蜀記』に言う。孫権は部将を派遣して関羽を攻撃し、関羽および子の関平を捕らえた。孫権は関羽を生かして劉・曹にぶつけたいと思ったが、左右の者たちが言った。「狼の子を養うことはできませぬ。のちに必ず害をなすでしょう。曹公は即座に彼を排除しなかったために自ら大きな心配事を作り、都を遷そうと提議したのです。今、どうして生かしておけましょう!」そこで彼を斬首した。臣裴松之が『呉書』を調べてみたところ、孫権は将軍潘璋を派遣して関羽の退路を遮断し、関羽がやってくるとすぐさま斬ったとある。それに臨沮は江陵から二・三百里も離れているのだから、どうして、すぐに関羽を殺さずに彼の生死を議論する余裕があるだろうか?また「孫権は関羽を生かして劉・曹にぶつけたいと思った」とも言っている。この不自然さは智者でさえ絶句させてしまうだろう。『呉歴』に言う。孫権は関羽の首級を曹公に送ると、諸侯の礼をもってその亡骸を葬った。

関羽にを追贈して壮繆侯と言った。[一]子の関興が嗣いだ。関興の字は安国といい、若くして麗しい評判があり、丞相諸葛亮は大層評価して彼を尊重した。弱冠(二十歳)にして侍中中監軍となったが、数年後に卒去した。子の関統が嗣ぎ、公主(皇女)を娶り、官位は虎賁中郎将にまで昇った。卒去したとき子がおらず、関興の庶子関彝に封土を続がせた。[二]

[一] 『蜀記』に言う。関羽が初めに軍勢を出して樊を包囲したとき、が彼の足に噛み付く夢を見て、子の関平に語った。「吾は今年になって耄碌してしまったようだ。帰ってくることはできまい!」『江表伝』に言う。関羽は『左氏伝』を愛好し、暗唱すればほとんど全部が口にできた。

[二] 『蜀記』に言う。龐徳(龐悳)の子龐会は、鍾(会)鄧(艾)討伐に従軍し、蜀が破られると、関氏の家をことごとく滅ぼした。

張飛伝

張飛益徳といい、涿郡の人である。若いころから関羽とともに先主劉備)に仕えていた。関羽が数歳年長であったので張飛は彼に兄事した。先主が曹公に従軍して呂布を破り、随従してに帰還したとき、曹公は張飛を中郎将に任命した。先主は曹公に背いて袁紹劉表に身を寄せ、劉表が卒去して曹公が荊州に入ると、先主は江南に遁走した。曹公はそれを追撃し、一日一夜かけて当陽長阪で追い付いた。先主は曹公が突然やってきたと聞くと、妻子を棄てて逃走し、張飛に二十騎を率いさせて拒後させた。張飛は川を足がかりに橋を断ち切り、目をらし矛を横たえて言うに、「身どもはこれぞ張益徳である。来い、ともに死を決しようぞ!」敵兵のうちあえて近付く者はいなかった。おかげで逃げ延びることができた。先主は江南を平定すると、張飛を宜都太守征虜将軍として新亭侯に封じ、のちに南郡に転任させた。先主が益州に入り、引き返して劉璋を攻撃したとき、張飛は諸葛亮らとともに流れを遡って攻め上り、手分けして郡県を平定した。江州に到達したとき、劉璋の将の巴郡太守厳顔を撃破し、厳顔を生け捕りにした。張飛は怒鳴りながら厳顔に言った。「大軍がやってきたというのに、どうして降服せず、あえて抗戦したのだ?」厳顔は答えた。「らは無作法にも我が州を侵略強奪した。我が州にはを断たれる将軍はあっても、降服する将軍などおらぬのだ。」張飛は怒り、左右に命じて(彼を)引き下がらせて頭をろうとした。厳顔は顔色を変えず、「頭を斫るならすぐに斫れ。怒ることなぞあるか!」と言った。張飛は勇壮だと思って彼を釈放し、招き寄せて賓客とした。[一]張飛は行く先々で戦いに勝ち、先主と成都で落ち合った。益州が平定されると、諸葛亮・法正・張飛および関羽に各々金五百斤、銀千斤、銭五千万、錦千匹を賜り、その他の人々にも各々格差を付けて分与し、張飛に巴西太守を領させた。

[一] 『華陽国志』に言う。はじめ先主がに入って巴郡にやってきたとき、厳顔は胸を叩きながら歎息した。「これこそ、奥山に一人で坐り、虎を放って自衛すると言うものだぞ!」

曹公は張魯を破ると、夏侯淵張郃を留めて漢川を守らせた。張郃は別働隊として諸軍を監督して巴西に下り、その地の民衆を漢中に移そうと考えて宕渠蒙頭盪石に軍を進め、張飛と対峙すること五十日余りになった。張飛は精兵一万人余りを率い、間道を通って張郃を待ち伏せて交戦したが、山道が迮狭であったため(張郃勢の?)前後は助け合うことができず、張飛はついに張郃を破った。張郃は乗馬を棄てて山中に逃げ込み、ただ麾下十人余りとともに間道を縫って退き、(後詰めに合流すると)軍勢を引率して南鄭に帰還したので、の地は平安になった。先主は漢中王になると、張飛を任命して右将軍仮節とした。章武元年(二二一)、車騎将軍に昇進して司隷校尉を領し、加増されて西郷侯に封ぜられた。(辞令)に曰く、「朕は天の序を継承して大いなる事業を嗣ぎ奉り、邪悪を排除し混乱を鎮めたが、未だ道理を尽くし照らすことはできずにいる。いま寇虜どもが害をなして民衆は危害を被っており、漢朝を思慕する士は鶴のごと頸を延ばして待ち望んでいる。朕は憂慮を抱き、坐るときも席に落ち着かず、食べるときも味が分からない。軍勢を整えて宣誓し、いま天罰が行われようとしているのだ。君の忠誠豪毅は召虎に匹敵し、名声は遠近に鳴り響いている。ゆえに格別に命令を顕示し、城壁を高めて爵位を進め、京師を司る役目を兼ねさせることとする。さあ大いに天威を用い、徳によって帰服する者を手懐け、刑によって叛逆する者を伐ち、朕の意志にかなえよ。『詩(経)』に言うではないか。『ませるでない、かすでない。王国とはに来させるものだ。の功績をり、に賜与して恩寵とする。』努力しないでいられようか!」

はじめ張飛の雄壮威猛は関羽に次ぐもので、の謀臣程昱らはみな(関)羽・(張)飛は一万人相当だと称えていた。関羽は兵卒をよく待遇したが、士大夫に対しては驕慢であった。張飛は君子を敬愛したが、小人に対しては憐れみをもたなかった。先主はいつも彼を戒めて言っていた。「卿が刑罰によって殺すことは過差(行き過ぎ)があるし、そのうえ日ごと健児を笞打ち、そのくせ左右に控えるよう命じている。これはを招くやり方だぞ。」張飛はそれでもめなかった。先主はを討伐するとき、張飛に軍勢一万人を率いさせて、閬中を出立させて江州で合流しようとした。進発するに臨み、彼の帳下の将張達范彊が張飛を殺し、その首を持って、流れに乗って孫権のもとに奔った。張飛陣営の都督が上表して先主に報告したが、先主は張飛の都督から上表があると聞いて、「ああ!張飛が死んだ」と言った。張飛に追諡して桓侯と言った。長子張苞は早くに夭折した。次子張紹が後を嗣ぎ、官位は侍中尚書僕射まで昇った。張苞の子張遵尚書となり、諸葛瞻に従軍し、緜竹において鄧艾と戦って死んだ。

馬超伝

馬超孟起といい、右扶風茂陵の人である。父は馬騰といい、霊帝の末期、辺章・韓遂らとともに西方の州で事業を興した。初平三年(一九二)、韓遂・馬騰は軍勢を率いて長安に参詣した。漢朝は韓遂を鎮西将軍として金城に帰還させ、馬騰を征西将軍としてさせた。のちに馬騰は長安を襲撃したが、敗走し、撤退して涼州に帰っていった。司隷校尉鍾繇関中を鎮めることになると、韓遂・馬騰に文書を配布し、禍福を説明してやった。馬騰は馬超を派遣し、平陽における鍾繇の郭援・高幹討伐に従軍させた。馬超の部将龐悳が自ら郭援の首を斬った。のちに馬騰は韓遂と不和になり、京畿に帰りたいと申し出た。そこで徴し寄せて衛尉とし、馬超を偏将軍として都亭侯に封じ、馬騰の部曲を宰領させた。[一]

[一] 『典略』に言う。馬騰は字を寿成といい、馬援の子孫である。桓帝の時代、彼の父で字を子碩というのが、かつて天水蘭干県尉となっていた。のちに(馬子碩は)官職を失ったが、そのまま隴西に留まり、族と入り交じって住まいした。家は貧しく妻はなく、結局羌族のを娶って馬騰を生んだ。馬騰は若いころ貧しく産業もなかったので、いつも彰山の山中で材木を切り出す仕事に就き、(材木を)背負って城市に行って販売し、それで自分を養っていた。馬騰の人となりは身の丈八尺余り、体つきは広大、面や鼻は雄壮異形であった。しかしながら性質は賢明温厚であったので、人々の多くが彼を尊敬した。霊帝の末期、涼州刺史耿鄙が姦悪な役人を信任したので、領民の王国ら、および・羌が謀叛した。州郡は民衆の中から武力ある者を募集し、それを討伐しようとした。馬騰が応募者の中にいたが、州郡は彼を立派だと思い、軍の従事に任命して一部隊の人数を統率させた。賊を討伐して功績があり、軍の司馬を拝命した。のちに功績によって偏将軍に昇進し、さらに征西将軍に昇進した。いつも汧・隴の一帯に屯していた。初平年間(一九〇~一九四)、征東将軍を拝命した。当時、西方の州では食糧が少なかった。馬騰は自ら上表して、軍中の人の多くが飢えているので、池陽で食糧を得たいと請願し、そのまま長平岸頭に移駐した。しかし将軍王承らは馬騰が自分に危害をなすことを恐れ、そこで馬騰の陣営を攻撃した。そのとき馬騰は近くに外出して防備がなかったので、ついに潰滅して逃走し、西へと上っていった。ちょうどそのころ三輔が混乱するようになったので、もう再び東方へは行かなかった。そして鎮西将軍韓遂と異姓兄弟の契りを結んだ。初めは非常に親しみあっていたが、のちに一転して部曲をもって侵入しあい、讐敵に変わってしまった。馬騰が韓遂を攻撃したので、韓遂は逃走したが、軍勢を糾合して引き返し、馬騰を攻撃して彼の妻子を殺した。何度も戦闘を続けて和解することはなかった。建安年間(一九六~二二〇)の初期、国家の綱紀がゆるみ始めたので、そこで司隷校尉鍾繇・涼州韋端をして彼らを和解させた。馬騰を徴し出して槐里に帰還して駐屯させ、異動して前将軍に任命し、仮節とし、槐里侯に封じた。北方では族の侵略に備え、東方では白騎に備え、士人を待遇して賢者を推挙し、民衆の生命を救うことを優先したので、三輔ははなはだ安定し、彼を愛した。(建安)十五年、徴し出されて衛尉となったが、馬騰は自分が年老いたことを見て、そのまま入朝して宿衛することにした。むかし曹公曹操)は丞相になったとき、馬騰の長子馬超をいたが、(馬超は)応じなかった。馬超はのちに司隷校尉(鍾繇)の督軍従事となり、郭援を討伐したが、飛来した矢に当たってしまった。そこでその足を囊に包んでから戦い、撃破して郭援の首を斬った。詔勅によって徐州刺史を拝命し、のちに諫議大夫に任命された。馬騰が入朝するに及び、詔勅を下して偏将軍に任命し、馬騰の軍営を宰領させた。さらに馬超の弟馬休奉車都尉、馬休の弟馬鉄騎都尉に任じ、その家族を移住させて、みなに赴かせ、ただ馬超だけを残留させた。

馬超は軍勢を統率するようになってから、そのまま韓遂と連合し、楊秋・李堪・成宜らとも結び合うようになると、軍勢を進めて潼関まで到達した。曹公(曹操)が韓遂・馬超とただ一騎で馬上会談したとき、馬超は自分の武力を頼みとして、密かに突進して曹公を捕まえようと思ったが、曹公の左右の将許褚が目をらして彼をんでいたので、馬超はそのため行動を起こすことができなかった。曹公は賈詡の計略を用いて馬超と韓遂を離間させ、また猜疑しあうように仕向けたので、(馬超の)軍勢はそのために大敗した。[一]馬超が逃走してもろもろの族たちのもとに身を寄せたので、曹公は追撃して安定まで行ったが、ちょうどそのとき北方で事変があり、軍勢を引率して東方に帰還した。楊阜は曹公を説得して言った。「馬超には(韓)信・(黥)布なみの武勇があり、非常に羌族・胡族の心をつかんでおります。もし大軍が撤退されれば、その防備は厳重でなくなり、隴上の諸郡は国家の所有ではなくなりますぞ。」馬超は果たしてもろもろの戎族たちを率いて隴上の郡県を攻撃し、隴上の郡県はみな彼に呼応して涼州刺史韋康を殺害し、冀城を占拠して彼(韋康)の軍勢を押さえた。馬超は征西将軍・領幷州牧・督涼州軍事を自称した。韋康の故吏であった平民の楊阜・姜叙・梁寛・趙衢らは、馬超を攻撃せんと合議し、楊阜・姜叙が鹵城において挙兵した。馬超は出立してこれを攻撃したが、下すことができなかった。梁寛・趙衢が冀城の城門を閉鎖したので、馬超は入城することができず、進退窮まり、漢中に出奔して張魯に身を寄せた。張魯(の資質)は一緒に事業を計画するには不充分であったので、内心では於邑(はやる気持ち)を抱き、先主劉備)が成都において劉璋を包囲したと聞くや、密かに手紙を送って降服したいと申し入れた。[二]

[一] 『山陽公載記』に言う。むかし曹公は蒲阪に進軍したとき、(黄河を)西に渡ろうとした。馬超は韓遂に告げた。「渭水北岸でこれを防ぐべきだ。二十日にもならぬうち河東の食糧は尽き、奴めはきっと敗走するだろう。」韓遂は言った。「渡河するのを見逃してやって、黄河の真ん中に追い詰めるのも愉快じゃないか!」馬超の計略が実施されることはなかった。曹公はそれを聞いて言った。「馬家の小僧が死なねば、は葬られる場所さえないのだ。」

[二] 『典略』に言う。建安十六年(二一一)、馬超は関中の諸将侯選・程銀・李堪・張横・梁興・成宜・馬玩・楊秋・韓遂らと手を組み、都合十部が一斉に反乱を起こし、その軍勢は十万人にもなり、黄河・潼関地域に集結し、陣営を連ねて建設した。この歳、曹公は西征し、馬超らと黄河・渭水の合流地点あたりで戦い、馬超らは敗走した。馬超は安定まで行き、韓遂は涼州に遁走した。詔勅が下って馬超の家族が収監され滅ぼされた。馬超は再び隴上で敗北し、のちに漢中に出奔した。張魯は(彼を)都講祭酒とし、女を彼に嫁がせようと考えたが、ある人が張魯を諫めて言った。「かように親を愛せない人が、どうして他人を愛せましょうや?」張魯はそれで止めた。むかし馬超が反乱を起こす以前、彼の小婦(側室)の弟は三輔に住居していたが、馬超が敗北するに及び、种は(馬超に)先行して漢中に入った。正月元旦、种が馬超に年賀を告げに行くと、馬超は胸を叩き血を吐きながら言った。「郷里で百人もの人間が、一晩でみな死んでしまった。いま二人で年賀しあっている場合だろうか?」のちに何度も張魯に軍勢を求め、北進して涼州を奪取せんと図ったが、張魯が行かせてやると敗北してしまった。また張魯の将楊白らが彼の自由を阻害しようとした。馬超はそのため武都から氐族の部落に逃げ込み、またもや出奔してへ行った。この歳は建安十九年である。

先主が人をやって馬超を迎えさせると、馬超は軍勢を率いてただちに城下にやってきた。城中では恐れおののき、劉璋はすぐ頭を下げ(降服し)た。[一]馬超を平西将軍督臨沮とし、前都亭侯た。[二]先主は漢中王になると、馬超を任命して左将軍仮節とした。章武元年(二二一)、驃騎将軍に昇進させ、涼州牧を領させ,封爵を斄郷侯に進めた。(辞令書)に言う。「朕は不徳でありながら至尊を継ぐことになり、宗廟を承け奉ることになった。曹操父子は代々その罪を重ね、朕は惨憺たる思いにとらわれ、頭痛の如き症状を得た。海内では恨み怒り、正統に帰順して本道に立ち返り、氐族・羌族が服従し、獯鬻(匈奴)が正義を慕うまでになった。君の信義は北方の地で顕著であり、威厳・武勇はともに昭然としている。それゆえ任務を委ねて君に授け、虓虎(吼えたける虎)の猛威を高く掲げ、万里の彼方まで正し、民衆の病苦を救わせるのだ。さあ、本朝の教化を明らかに宣言し、遠近(の人々)を手懐けたうえ保護してやり、賞罰を厳粛に慎み、それによって漢家の幸福を確かなものとし、それによって天下(の期待)に報いよ。」二年、卒去した。時に四十七歳であった。没するに臨み、上疏して言っていた。「臣の一門宗族二百人余りは、孟徳(曹操)めにあらかた誅殺されてしまい、ただ従弟馬岱だけが残りました。途絶えんとしている宗家の血食(生贄を捧げる祭祀)を継承させてください。深く陛下にお託しいたし、もう外に申し上げることはございません。」馬超は追諡されて威侯と言い、子の馬承が嗣いだ。馬岱の官位は平北将軍まで昇り、爵位は陳倉侯に進められた。馬超の女は安平王劉理に縁づけられた。[三]

[一] 『典略』に言う。劉備は馬超が降参したと聞いて喜び、「は益州を手に入れたぞ」と言った。そこで人をやって馬超を留めて(もてなし)、密かに軍勢を授けて彼を援助(すると約束)してやった。馬超が到着すると、軍勢を引率させて(成都の)城北に屯させた。馬超が来てから十日にもならぬうちに成都は潰滅した。

[二] 『山陽公載記』に言う。馬超は劉備からの待遇が厚いのを見たので、劉備と語り合うときはいつも劉備の字を呼んだ。関羽は怒り、彼を殺したいと申し出た。劉備は言った。「他人が追い詰められて我を頼って来たのだ。(それなのに)らは怒りを抱き、我の字が呼ばれたことを理由に彼を殺そうとする。どうして天下に示しが付こうか!」張飛は言った。「それならば、礼儀を彼に示してやりましょう。」翌日、大宴会を催し、馬超に出席せよと伝え、関羽・張飛はともども刀を手にして(先主の左右に)侍立した。馬超が坐席を振り返っても関羽・張飛の姿が見えなかったが、彼らが侍立しているのを見て大いに驚き、とうとう劉備の字を再び呼ぶことはなくなった。翌日、歎息して言った。「我は今になって敗北した理由が分かったよ。人主の字を呼んだせいで、もう少しで関羽・張飛に殺されるところだったな。」以後、尊敬をもって劉備に仕えるようになった。臣裴松之は考える。馬超は追い詰められて劉備に帰参し、彼から爵位を受けたのだ。どうして傲慢になって劉備の字を呼ぶ余裕などあろうか?そのうえ劉備は入蜀したとき、関羽を留めて荊州を鎮めさせており、関羽は一度も益州の地に入っていない。それゆえ関羽は馬超が帰服したと聞き、手紙で「馬超の人物才能は誰に比類するか」と諸葛亮に訊ねたのであり、書物(山陽公載記)が言う通りにはなりえない。関羽がどうして張飛と一緒に侍立することなどできようか?どんな人間でも行動を起こすには、みなそれがよいと思っているからであり、それが駄目だと知っていれば行わないものだ。馬超がもし本当に劉備の字を呼んだとすれば、やはり理屈からいってそうすべきと思ったからである。たとい関羽が馬超殺害を申し出たとしても、馬超は(その計画を)聞いていないはずで、ただ二子(関羽・張飛)が侍立しているのを見ただけで、どういう理由で、字を呼んだためだと即座に察知し、もう少しで関羽・張飛に殺されるところだったと言うのか?言葉が理屈に沿っていないのは、ひどく腹の立つことである。袁暐・楽資らのもろもろの記載は、穢雑にして空虚誤謬であり、こうした類は、ほとんど言い尽くせないほどである。

[三] 『典略』に言う。はじめ馬超が入蜀したとき、彼の庶妻(側室)氏および子の馬秋は張魯のもとに留まっていた。張魯が敗北すると、曹公は彼らを手に入れ、董氏を閻圃に賜い、馬秋を張魯に附属させた。張魯は自らの手で彼を殺した。

黄忠伝

黄忠漢升といい、南陽の人である。荊州牧劉表が(彼を)中郎将とし、劉表の従子劉磐と一緒に長沙県を守らせた。曹公荊州を打ち破るに及び、裨将軍を仮に代行し、従来の任務に就いて長沙太守韓玄に属した。先主劉備)が南進して諸郡を平定したので、黄忠はそのまま礼物を捧げて(臣従し)、随従してに入った。葭萌にいて任務を与えられ、引き返して劉璋を攻撃した。黄忠はつねに先登して敵陣を陥れ、勇武豪毅は三軍でも随一だった。益州が平定されたのち、任命を受けて討虜将軍となった。建安二十四年、漢中定軍山において夏侯淵を攻撃した。夏侯淵の軍勢ははなはだ精強であったが、黄忠は鋭鋒を打ち砕いてひるまず進み、配下の士卒を励ますと、鐘や太鼓は天を振るわせ、鬨の声は谷を動かし、一戦にして夏侯淵を斬った。夏侯淵軍は大敗した。征西将軍に昇進した。この年、先主は漢中王となり、黄忠を任用して後将軍にしようと思ったが、諸葛亮が先主を説得して言うには、「黄忠の名声徳望は、もとより関(羽)・馬(超)と同類ではありません。それなのに今にわかに同列にしようとなさる。馬・張(飛)は近くにいて彼の武功を自分の目で見ておりますから、まだしもお考えを納得させられましょうが、関は遠くから彼(の活躍)を聞いているだけなので、きっと喜ばないでしょう。よからぬことではありますまいか!」先主は言った。「自身で彼に説明しよう。」ついに関羽らと同等の位に就け、関内侯の爵位を賜った。翌年に卒去し、剛侯追諡された。子の黄叙は早くに没し、跡継ぎはなかった。

趙雲伝

趙雲子龍といい、常山真定の人である。もともと公孫瓚に属していたが、公孫瓚が先主劉備)と田楷を派遣して袁紹に対抗したとき、趙雲はそのまま随従して先主の主騎となった。[一]先主は当陽長阪曹公曹操)に追撃されると、妻子を棄てて南方に逃走した。趙雲が自ら幼子すなわち後主劉禅)を抱きかかえ、甘夫人すなわち後主の母を保護したので、いずれも難を免れることができた。昇進して牙門将軍となった。先主がに入ったとき、趙雲は荊州に留まっている。[二]

[一] 『(趙)雲別伝』に言う。趙雲は身長が八尺あり、姿や顔付きは雄壮偉大であった。本郡から推挙され、義従の官吏・兵卒を率いて公孫瓚のもとに参向した。当時、袁紹が冀州牧を称しており、公孫瓚は州の人々が袁紹に従うことを深く心配していたので、趙雲がやってきたことを善とし、趙雲をからかって言った。「聞けば貴州の人々はみな袁氏を願っているとのことだが、君はどうして独り心変わりして、迷いを起こして寝返ったりしたのかね?」趙雲は答えて言った。「天下は喧々囂々として、どうすればよいのか知らず、民衆は逆さ吊りの災厄に遭っております。州では仁政のあるところに従おうと論議いたしました。袁公(袁紹)を放っておいて明将軍に私情を持っているわけではございません。(将軍が仁政を行わないのならすぐさま立ち去る所存です。)」そうして公孫瓚とともに征討した。当時、先主もやはり公孫瓚に身を寄せていたが、つねづね趙雲に接して(彼を)受け入れたので、趙雲は自分から深く協力することができた。趙雲は兄の喪に服すことを口実に公孫瓚のもとを辞去し、しばらく帰郷することになったが、先主は彼が(公孫瓚のもとに)戻って来ないことを悟り、手を取って別れを告げた。趙雲は別れ間際に言った。「最後まで御徳には背きませぬ。」先主が袁紹を頼ったとき、趙雲はにおいて(先主に)会った。先主は趙雲と同じ牀で眠り、密かに趙雲に募集をかけさせて数百人を手に入れたが、みな劉左将軍(劉備)の部曲だと称したので、袁紹は気付かなかった。そのまま先主に随行して荊州に到着した。

[二] 『雲別伝』に言う。むかし先主が敗北したとき、趙雲はもう寝返って去りましたと言った者があった。先主は手戟を彼に投げ付け、「子龍はを棄てて逃げたりはしないんだ」と言った。しばらくして趙雲がやってきた。江南平定に従軍し、偏将軍となり、趙範と交代して桂陽太守を領した。趙範の寡婦氏と言い、中国一の色香があった。趙範は彼女を趙雲に嫁がせようと望んだが、趙雲は辞退して言った。「お互い同姓なのだから、の兄は我の兄も同然です。」固辞して承諾しようとしなかった。当時、それを受け入れるように趙雲に勧めた人もいたが、趙雲は「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、(彼の)心を知ることはできないし、天下に女は少なくない」と言い、ついに娶ることはなかった。趙範は果たして逃走したが、趙雲は全く気にしなかった。それ以前、夏侯惇博望で戦ったおりのこと、夏侯蘭を生け捕りにしたことがあった。夏侯蘭は趙雲の郷里の人で、幼少のとき互いに面識があった。趙雲は彼を生かしておくよう先主に申し入れ、夏侯蘭が法律に詳しいからと軍正に取り立てるよう薦めた。(しかしそれ以後も)趙雲は自分から(夏侯蘭に)近付くことはしなかった。彼の慎重な配慮はみなこのような有様であった。先主が益州に入ると、趙雲は留営司馬を領した。当時、先主の孫夫人孫権の妹であることを鼻にかけて傲慢であり、から連れてきた官吏・兵士の多くが好き勝手をして不法行為を働いていた。先主は趙雲の厳重さならばきっと取り締まることができると見込んで、特別に内向きのことを管掌させた。孫権は劉備が征西したと聞いて、大々的に艦船を出して妹を引き取らせたが、夫人は密かに後主を連れて呉に帰国しようとした。趙雲は張飛とともに軍勢を率いて長江を遮断し、後主を取り戻してから帰還した。

先主は葭萌から引き返して劉璋を攻撃したとき、諸葛亮を召し寄せた。諸葛亮は趙雲と張飛らを率いて一緒に長江をさかのぼって西上し、郡県を平定した。江州まで来ると(軍勢を)分割して、趙雲には外水から江陽に攻め上らせ、諸葛亮とは成都で落ち合うことにした。成都が平定されると趙雲は翊軍将軍になった。[一]建興元年(二二三)、中護軍征南将軍となり、永昌亭侯に封ぜられ、鎮東将軍に昇進した。五年、諸葛亮に随従して漢中に駐留した。翌年、諸葛亮が軍勢を出したとき、斜谷道を経由するぞと喧伝したので、曹真は大軍を派遣してこれに当たった。諸葛亮は趙雲と鄧芝に(斜谷道へ)行って防ぐように命じ、その一方で自分は祁山を攻撃した。趙雲・鄧芝の軍勢は弱く、敵は強く、箕谷において敗北した。しかしながら軍勢を引き締めて固守したので、大敗するには至らなかった。軍が撤退すると左遷されて鎮軍将軍となった。[二]

[一] 『雲別伝』に言う。益州が平定されたのち、当時、成都城中の家屋邸宅および場外の農地桑田を分配して諸将に下げ渡そうと議論された。趙雲はそれに反駁して言った。「霍去病匈奴が滅ぼされていないからと、家を作ろうとはしませんでした。国賊()はただ匈奴なみ(の害毒)ではありませんぞ。まだ平安を求めるべきではありません。天下が都定されて、おのおのが桑梓に戻り、本土に帰農するのを待てば、それこそよろしいことです。益州の人民ははじめ戦争に巻き込まれておりますので、農地邸宅はすべて返還すべきです。今は住居を保証して生業に帰らせ、しかるのちに夫役・調税を課すことにして、彼らの歓心を得ましょう。」先主はすぐさまそれに従った。夏侯淵が敗北すると、曹公は漢中の地を争い、北山の麓に運んだ軍糧米は数千万囊もあった。黄忠は奪うべしと主張し、趙雲の軍勢も黄忠に随行して軍糧米を奪いに行った。黄忠が期限を過ぎても帰って来なかったので、趙雲は数十騎を率いて軽装で陣営を出て、黄忠らの様子を出迎えて見ようとした。そのとき曹公が軍勢を催して大々的に出てきた。趙雲は曹公の先鋒の攻撃を受け、まさに戦おうとしたとき彼らの大軍が到達し、情勢は差し迫っていた。(趙雲は)そのまま前進して敵陣に突撃し、闘いながら退いた。曹公の軍は敗れたが、またもや集合して(勢力を盛り返して)しまった。趙雲は敵勢を陥れたので帰還して陣営に到着したが、将軍張著が負傷して(動けなくなって)いたので、趙雲はふたたび馬を駆って(敵の)陣営に戻り、張著を迎え入れた。曹公の軍勢は追撃して(趙雲の)陣営まで到達した。このとき沔陽県長張翼が趙雲の陣営内におり、張翼は門を閉ざして防ぎ守ろうとしていたが、趙雲は陣営に入ると更に大きく開門させ、旗を伏せ太鼓を止めさせた。曹公の軍勢は趙雲に伏兵があるのではないかと疑い、引き払った。趙雲は太鼓を轟かせて天を震わせ、ひたすら戎弩で曹公の軍勢を背後から射たので、曹公の軍勢は驚き、味方同士で踏み付け合ったり、漢水の中に落ちたりして死ぬ者が非常に多かった。先主は明朝、自ら趙雲の陣営を訪れて、昨日の戦いの場所を視察し、「子龍は一身すべてが胆だ」と言った。宴会で酒を飲んで歓楽を催し、(それは)日暮れまで続き、軍中では趙雲を虎威将軍と呼ぶようになった。孫権が荊州を襲撃すると、先主は大いに怒って孫権を討伐しようとした。趙雲は諫めて言った。「国賊は曹操であって孫権ではございませぬ。それにまず魏を滅ぼしてしまえば、呉は自ら降服して参りましょう。曹操の身は斃れたとはいえ、子の曹丕が簒奪してしまいました。民衆の心に沿って、速やかに関中を経略し、黄河・渭水の上流を占拠して凶逆の輩を討つべきです。関東の義士は必ずや糧米を包んで馬を鞭打って王師(天子の軍勢)を出迎えるでありましょう。魏を差し置いて先に呉と戦ったりすべきでありません。軍事情勢というものは、ひとたび(干戈を)交えると、すぐに解くことはできないのです。」先主は聞き入れず、そのまま東征し、趙雲を留めて督江州とした。先主は秭帰において敗北し、趙雲が軍勢を進発させて永安に着陣したときには、呉軍は撤退したあとだった。

[二] 『雲別伝』に言う。諸葛亮は言った。「街亭の軍勢は撤退したとき、将兵を再び録することができなかったが、箕谷の軍勢は撤退したのに将兵はまるで失われなかった。何故かね?」鄧芝は答えて言った。「趙雲が自ら後方を断ち切ったので、軍需物資や器物を棄てることはほとんどなく、将兵も失わずに済みました。」趙雲は軍需物資の残りの絹布を持ち帰っていたが、諸葛亮は分配して将士に下賜させようとした。趙雲は言った。「軍事で勝利を得られなかったのに、どうして下賜があるのでしょうか?それらの物資はことごとく赤岸の府庫にお納め下さり、十月をって冬のご下賜となさいますよう。」諸葛亮は彼を大いに評価した。

七年に卒去し、順平侯追諡された。

はじめ先主の時代には法正だけがされ、後主の時代になると、諸葛亮の功績徳行は世をい、蔣琬・費禕は国家の重責を担い、やはり諡された。陳祗は寵愛厚遇されて特別に推奨され、夏侯霸は遠来して帰化したので、また諡された。このとき関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠および趙雲が追諡されたが、当時の議論では栄誉とされた。[一]趙雲の子趙統が嗣ぎ、官位は虎賁中郎督行領軍にまで昇った。次子趙広牙門将であり、姜維に従って沓中(に赴き)、戦陣に臨んで戦死した。

[一] 『雲別伝』に記載する後主の詔勅に言う。「趙雲はむかし先帝に従って功績が顕著であった。朕は幼少をもって艱難にまみれたが、(趙雲の)忠誠順良を頼りとして危険を乗り越えることができた。そもそも諡というのは元勲を叙するものである。(朝廷の)外では趙雲に諡すべきであると議論している。」大将軍姜維らは提議した。「趙雲はむかし先帝に従って功労は顕著であり、天下を経営するにあたっては法度を遵奉しており、功績は記録されるべきであります。当陽の戦役では、義心は金石さえ貫通し、忠心はお上をご守護いたしました。君主がその褒賞を思い、礼儀をもって下の者を厚遇なされれば、臣下はその死を忘れるものです。死者に知覚があるならば不死であるとするに充分ですし、生者が恩に感じれば身を棄てるに充分です。謹んで諡法を勘案いたしますに、柔和・賢明・慈悲・恩恵を『順』と言い、事務を取り仕切って秩序あることを『平』と言い、よく混乱を鎮定することを『平』と言うとあります。趙雲に諡して『順平侯』とすべきと存じます。」

評に言う。関羽・張飛はいずれも一万人に匹敵すると称せられ、一代の虎のごとき臣下であった。関羽は曹公に報いをもって答え、張飛は厳顔を義をもって許したが、いずれも国士の風格があった。しかしながら関羽は強情で自尊心を持ち、張飛は乱暴で恩愛を施さず、そのためたちまち失敗を招いてしまったのは道理からいって当然である。馬超は軍装を採り武勇を頼んだが、そのために自分の一族を転覆させてしまったのは惜しいことである!追い詰められた立場からよく安泰に到達できたのだから、まだましな方ではないだろうか!黄忠・趙雲の強力は真に勇壮猛烈であり、ともに爪牙となったが、これぞ灌嬰・滕侯夏侯嬰)の仲間であろうか?