唐紀四 資治通鑑巻第一百八十八

高祖神堯大聖光孝皇帝中之上

武徳二年(己卯,六一九)

1-十一月。己卯、劉武周が浩州へ入寇した。

2-秦王世民が兵を率いて、凍りついた黄河を龍門から渡り、柏壁に屯営して(劉武周麾下の)宋金剛と対峙した。この頃、大乱続きのこととて、河東の州県の官庫はほとんど空っぽだった。人情は騒然となり、宋金剛は人々をかき集めて城堡へ入れたが、兵糧を徴発しても何も手に入らず、軍中は食料が欠乏した。世民は、民を教諭した。人々は、世民の軍が来たと聞いて駆けつけてきた。近所から遠所へ至るまで、日々、人々が集まってくる。その後、次第に食糧も集まってきて、軍隊の食糧も充分になった。そこで、兵を休め、馬へ秣を食べさせた。将軍や副将には、ただ民間から食糧を集めさせるだけで、大軍は防備を固くして戦わない。そうしているうちに、賊軍の勢威は日々衰えていった。

ある時、世民は自ら軽騎を率いて敵状を偵察した。部下達を四散させた後、世民は一甲士と共に丘に登って眠った。すると、突然、敵兵が四方から集まってきた。李世民達は、最初は敵兵に気がつかなかった。しかし、たまたま鼠を追いかけた蛇が甲士の顔に触れたので、甲士は驚いて飛び起き、危機に気がついて李世民と共に馬に乗った。百歩ほど駆けたところで敵兵が追いついてきたが、李世民が大羽箭で敵の驍将を一人射殺したので、賊兵は退いた。 

3-李世勣は唐へ帰順したかったが、(竇建徳に捕らわれている)父親が殺されることを懼れ、郭孝恪へ相談した。すると、郭孝恪は言った。「我等は竇建徳へ仕えたばかりです。何かしようとすると、すぐに疑われてしまいます。ですから、まずは信頼されること。全てはその後です。」李世勣は、これに従った。後、王世充の所領の獲嘉を襲撃して撃破した。入手した得物は全て竇建徳へ献上したので、竇建徳は李世勣へ心を許した。

話は前後するが、漳南の劉黒闥は、若い頃から驍勇狡猾と評判だった。もともと竇建徳と仲が善かったが、やがて盗賊となり、郝孝徳、李密、王世充と主君を転々とした。王世充は、彼を騎将へ抜擢したが、劉黒闥は王世充のやることを見る度に、密かに嘲笑していた。王世充は、劉黒闥へ新郷を守備させたが、李世勣はこれを襲撃して捕らえ、竇建徳へ献上した。竇建徳は、劉黒闥を将軍にして、漢東公の爵位まで賜下した。

4-十二月。庚申、上(高祖=李淵)が、華山にて猟をした。

5-于筠が永安王孝基へ、呂祟茂を急攻するよう説いた。独孤懐恩は、まず攻具を造り、その後に進軍するよう請うた。孝基は、独孤懐恩の策に従った。呂祟茂は、宋金剛へ救援を求めた。金剛は、麾下の将、善陽の尉遅敬徳と尋相へ兵を与えて夏県へ派遣した。孝基は、前後に敵を受け、大敗した。孝基、懐恩、均、唐倹及び行軍総管劉世譲が捕まった。尉遅敬徳は、恭という名前だが、字の方が有名である。

上は裴寂を入朝させ、敗戦責任を問うて獄吏へ引き渡したが、すぐに釈放し、以前にも増していよいよ寵遇した。

尉遅敬徳と尋相が澮州へ帰ろうとした時、秦王世民は兵部尚書殷開山と総管秦叔宝等に攻撃させた。両軍は美良川にて戦い、唐軍が大勝利を収め、首級二千を挙げた。尉遅敬徳と尋相は精鋭を率いて、蒲反の王行本を救援に行こうとしたが、世民は自ら歩騎三千を率いて夜半、間道から安邑へ赴き、これを襲撃して大勝利を得た。尉遅敬徳と尋相は、僅かに体一つで逃げ出した。世民は、その部下をことごとく捕らえ、柏壁へ帰った。

諸将の中には宋金剛との戦闘を請う者も居たが、世民は言った。「金剛軍は、敵地深く侵入しているし、精兵勇将が悉くここに集まっている。劉武周は太原に拠り、宋金剛を防御壁として恃んでいる。だが、奴等の軍には食糧が無く、略奪をして軍資としている。奴等には速戦が有利だ。だから我等は防備を固め鋭気を養って、敵の戦意を挫くのだ。そして別働隊を汾・隰へ派遣して敵の心腹を衝けば、奴等は食糧は尽き打つ手に窮し、自ずから敗走する。今は、その機を待つのだ。速戦するのは宜しくない。」

永安壮王孝基は、脱走を計画したので、劉武周が殺した。

6-李世勣は再び使者を派遣して、竇建徳へ説いた。曹、載の二州は人口の多い土地です。この土地を領有しております孟海公は、鄭(王世充)へ上辺こそ臣従していますが、内実は離間しています。もしも大軍でこれへ臨めば、簡単に奪えます。既に海公を得て、徐・兗に臨めば、河南は戦わずに定まります。」竇建徳も同意し、自ら河南へ進軍しようと欲したが、それに先だって、行台の曹旦へ五万の兵を与えて河を渡らせた。李世勣は、三千の兵を率いて、これに合流した。

武徳三年(庚辰,六二〇)

1-春、正月。将軍秦武通が、蒲反の王行本を攻撃した。王行本は、出撃して敗北した。食糧が尽き、救援も途絶えたので、包囲を突破して逃げようとしたが、従う者が居ない。戊寅、城門を開いて降伏した。辛巳、上は蒲州へ御幸して、行本を斬った。秦王世民は、軽騎を率いて蒲州へ来て、上へ謁見した。宋金剛は、絳州を包囲する。癸巳、上は長安へ帰った。

2-李世勣は、竇建徳への造反を計画した。その内容は、”竇建徳が河南へ来るのを待って、その陣営を襲撃して殺し、父親と竇建徳の領土を奪ってから唐へ帰る”というものである。だが、竇建徳の妻が出産したので、竇建徳はなかなかやってこなかった。

さて、曹旦は、竇建徳の妻の兄である。河南では勝手放題にやることが多く、麾下へ編入された賊徒達は、皆、彼を怨んでいた。賊帥の魏郡の李文相は、李商胡と号して五千余人をかき集め、孟津の中潬に拠っていた。母親の霍氏は、騎射の名手で、霍総管と自称していた。李世勣は李商胡と義兄弟となり、彼の拠点へ行って霍氏へ拝礼した。すると、霍氏は泣いて李世勣へ言った。「竇氏は無道です。どうしてやりましょうか!」李世勣は言った。「母上、憂えなさいますな。一ヶ月以内に奴を殺し、共に唐へ帰順しましょう!」李世勣が帰った後、霍氏は李商胡へ言った。「東海公は、我等と共にあの盗賊を殺すと言った。時間が経てば、何が起こるか判らない。なんで、奴が来るのを待つ必要があろうか。早く決起した方がよい。」その夜、商胡は曹旦の正副の将達二十三人を呼んで酒を飲ませ、皆殺しにした。曹旦の別将高雅賢と阮君明はまだ河北にいて河を渡っていなかった。商胡は四艘の巨舟で河北の兵三百人を渡河させたが、流れの半ばで皆殺しにした。ただ、獣医が泳いで南岸へ逃げ登り、曹旦へ告げた。曹旦は、厳重に警備を強いた。商胡は既に決起してから、始めて李世勣へ使者を出してこれを告げた。李世勣と曹旦は、並んで布陣していた。郭孝恪は、曹旦を襲撃するよう李世勣へ勧めたが、李世勣は躊躇った。やがて、曹旦が守備を固めていると聞き、遂に郭孝恪と共に数十騎を率いて唐へ来奔した。商胡は、精兵二千を率いて北方の阮君明を襲撃して、これを破った。高雅賢は、敗残兵を集めて撤退した。商胡は追撃したが、追いつけずに、帰った。

竇建徳の群臣は、李蓋(李世勣の父)を誅殺するよう請うたが、竇建徳は言った。「李世勣は唐の臣下だ。我に捕らえられても本朝を忘れない。忠臣ではないか。その父親に、何の罪があるか!」遂に、これを赦した。

甲午、李世勣と郭孝恪は長安へ到着した。曹旦は、遂に済州を取り、洺州へ帰った。

3-二月、庚子、上は華陰へ御幸した。

4-劉武周が、派兵して潞州へ来寇し、長子と壺関を陥とした。潞州刺史郭子武は防ぐことができなかった。上は、将軍河東王行敏へ救援を命じた。行敏と子武は反りが合わなかった。するとある者が、子武が造反を計画していると言い立てたので、行敏は子武を斬った。乙巳、劉武周が再び潞州へ来寇したが、行敏が、これを撃破した。

5-壬子、開州の蛮族の冉肇則が、通州を陥した。

6-甲寅、将軍桑顕和等を夏県へ派遣して、呂祟茂を攻撃させた。

7-初め、工部尚書独孤懐恩が蒲反を攻撃したが、なかなか落とせず、失敗も多かった。上は、屢々敕書で彼を叱責した。これによって、独孤懐恩は上を怨んだ。ある時、上は戯れに独孤懐恩へ言った。「姑の子は、皆、既に天子になった(隋の煬帝と李淵自身のこと)。次は舅の子が天子となる番かな?」独孤懐恩は、それで自負した。ある時、彼は腕を振るって言った。「我が家で尊いのは、どうして女性だけだろうか。(周の明帝の皇后、隋の文帝の皇后、そして上の母は、全て独孤氏だった。)」遂に、麾下の元君宝と共に、造反を考えた。やがて、独孤懐恩、元君宝、唐倹が、皆、尉遅敬徳に捕らえられると、元君宝は唐倹へ言った。「独孤尚書が、大事を謀っていた。もっと早く決起していれば、こんな屈辱には会わなかった物を!」秦王世民が美良川にて尉遅敬徳を破ると、独孤懐恩は逃げ帰ったので、上は再び彼へ兵を与えて蒲反を攻撃させた。元君宝は、唐倹へ再び言った。「独孤尚書は、遂に苦難から逃げ帰り、今は蒲反にいる。王者は死なぬとはこの事だ!」唐倹は、独孤懐恩が遂に造反するのではないかと懼れ、劉世譲を帰して唐と和を結ぶよう、尉遅敬徳を説得した。尉遅敬徳はこれに従ったので、劉世譲は、独孤懐恩の造反計画を上聞することになった。この時、王行本は既に降伏しており、独孤懐恩は彼の城へ入城、占拠していた。上が独孤懐恩の陣営へ御幸する為に黄河を渡河しようと舟の乗船した時、劉世譲が駆け込んできた。上は大いに驚いて言った。「我が凶刃から免れたのは、天命以外のなにものでもない!」そして、独孤懐恩を呼び付けた。独孤懐恩は、まだ事が露見したとは思わずに軽舟でやって来たところを捕らえて獄吏へ引き渡し、党与を捕まえた。甲寅、独孤懐恩と、その一味を誅殺する。

8-竇建徳が李商胡を攻撃し、これを殺した。竇建徳は洺州に農桑を奨励した。境内に盗賊がいなくなったので、行商人が野宿できるほどになった。

9-突厥の処羅可汗が楊政道を迎え、隋王に立てた。処羅可汗は、北に住んでいた中国の士民を悉く彼へ与えたので、その民は一万を越えた。百官を設置し、制度は全て隋の制度に依った。定襄へ住む。

10-三月、乙丑。劉武周が、その将の張万歳を浩州へ来寇させた。李仲文が、これを撃退した。数千人を捕斬する。

11-納言を侍中と改称する。同様に、内史令は中書令、給事郎は給事中。

12-甲戌、内史侍郎封徳彝を中書令とした。

13-王世充の将帥が、相継いで、統治している州県ごと降伏してくるようになった。そこで、王世充は法律を厳しくし、一人が亡叛したらその家族は幼長となく殺戮した。ただし、親子、兄弟、夫婦でも、告発したら赦された。また、五家を保となし、誰かが家族ぐるみ逃げ出して残りの四家が気がつかなければ、皆、連座して誅殺された。こうして、殺される人間は益々多くなったが、亡命する者は益々増える。とうとう、木こりのような人間でさえ、移動が制限されるようになった。公私共に困窮し、民は生活に安んじなくなった。また、宮城は大獄となっていた。王世充は、少しでも猜疑すると、その家族を宮中へ収繋した。出討する諸将も、また、家族を宮中へ人質に出した。おかげで、宮中に軟禁されている者は一万人を越え、毎日数十人が死んでいった。王世充は、また、台省の官吏を司、鄭、管、原、伊、殷、梁、湊、嵩、谷、懐、徳等十二州の営田使とした。丞、郎でこの役目を仰せつかる者は、まるで仙人にでもなれたかのように喜んだ。

14-甲申、行軍副総管張綸が、浩州にて劉武周を敗り、千余人を捕斬する。

15-西河公張綸と真郷公李仲文が兵を率いて石州へ臨んだ。劉季真は懼れ、偽りの降伏をした。乙酉、劉季真を石州総管とし、彭山郡公に封じる。

16-蛮酋の冉肇則が信州へ来寇した。趙郡公孝恭と戦ったが、戦況は不利だった。李靖が八百の兵を率いて襲撃を掛け、これを斬り、五千余人を捕らえた。己丑、開・通二州を回復する。孝恭は、また、蕭銑の唐平王闍提を攻撃し、これを斬った。

17-夏、四月、丙申。上は華山を祠った。壬寅、長安へ帰った。

18-益州行台を設置し、益、利、会、鄜、涇、遂州の六総管を隷属させた。

19-劉武周は屢々浩州を攻撃したが、李仲文に敗北した。そのうちに、宋金剛の軍中は兵糧が尽きてしまった。丁未、金剛は敗走し、秦王世民がこれを追撃した。

20-羅士信が、慈澗(隋志;河南郡、寿安県に慈澗がある。)を包囲した。王世充は、太子の玄応を救援に向かわせた。羅士信は、玄応を刺して落馬させた。しかし玄応は、部下から救われて危難を免れた。

21-壬子、顕州道行台楊士林を行台尚書令とした。

22-甲寅、秦王世民に益州道行台尚書令を加える。

23-秦王世民は、呂州まで尋相を追撃し、大いに破った。勝ちに乗じて更に追撃を掛け、一昼夜に二百余里進んで数十回戦った。高壁嶺まで来ると、総管劉弘基が轡を執って諫めた。「大王は賊を破り、ここまで追撃しました。功績は、もう充分です。深入りしすぎないで、御自愛下さいませ!それに、士卒も飢え疲れています。暫くここに留まり、兵糧が集まるのを待ってから再び進軍しても、決して遅くはありません。」すると、世民は言った。「金剛は、打つ手が無くなって逃げたのだ。士卒達の心も離れている。功績は成し難くて敗れやすく、好機は得難くして失いやすい。この勢いに乗ってこれを執らなければならない。もしもここに留まって、敵方に準備をさせてしまえば、再び攻めることはできない。我は、忠を尽くし国へ殉じる。なんで我が身を顧みれようか!」遂に、馬に鞭打って進んだ。将士も、もう、誰も飢えを言わなくなった。雀鼠谷まで、金剛を追い詰め、一日に八回戦って全てこれを破り、数万人を捕斬した。夜、雀鼠谷の西原に宿営した。世民は、二日間何も食べず、三日間武装を解かなかった。軍中には、ただ一匹だけ羊がいた。世民は、将士へ分け与えて食べさせた。丙辰、陜州総管于筠が、金剛の所から逃げてきた。世民は兵を率いて介休へ赴いた。金剛には、まだ二万の兵があった。西門から出て、城を背にして布陣する。世民は総管の李世勣へ攻撃させた。李世勣軍が少し退却すると、賊軍はそれに乗じて進軍したが、世民が精鋭を率いてその背後へ廻って攻撃した。金剛は大敗し、三千の首級を挙げられる。金剛は、軽騎で逃げた。世民は数十里追撃する。浩州行軍総管樊伯通、張徳政は堡に拠って籠城していた。世民が兜を取って援軍だと示すと、堡中は喜びに泣き崩れた。左右の者が、王が食事もしないで進撃してきたことを告げると、彼等は濁酒と脱粟飯を献上した。

尉遅敬徳は、敗残兵を集めて介休を守った。世民は、任城王道宗と宇文士及を派遣して、説得させた。尉遅敬徳と尋相は、介休と永安を挙げて降伏した。世民は、敬徳を得て非常に喜び、右一府統軍として、彼の手勢八千をそのまま指揮させ、他の陣営と混在させた。屈突通は、変事が起こることを危惧して何度も進言したが、世民は聞かなかった。

劉武周は、金剛が負けたと聞いて大いに懼れ、ヘイ州を棄てて突厥へ逃げた。金剛は、その余衆を集めて再び戦おうとしたが、将兵達は誰も戦いたがらなかった。しかたなく、彼も百騎を率いて突厥へ逃げた。

世民が晋陽へ到着すると、武周の僕射楊伏念が城ごと降伏してきた。唐倹は、府庫へ封をして、世民を待った。こうして、武周の所領は、全て唐の版図へ入った。

それからすぐに、金剛は上谷へ逃げ込もうと計画したが、突厥は追いかけて捕まえ、腰斬にした。嵐州総管の劉六児は、宋金剛に従って介休へ入ったが、秦王世民が捕らえて、斬った。その兄の季真は石州を棄てて劉武周の将の馬邑の高満政のもとへ逃げ込んだが、満政は彼を斬った。

劉武周が南寇した時、彼の内史令苑君璋が諫めて言った。「唐主は、一州の兵力で長安へ進攻し、向かうところ敵もないまま、これを取りました。これは人間わざではありません。天が授けたのです。それに、晋陽以南は道路は険しく狭く、深入りしたら後続がなかなか続けません。もしも進戦して不利になれば、どうやって帰還するのですか!北は突厥と連和し、南は唐朝と結び、この土地だけで南面して孤と称するのが一番です。そうすれば、長く栄えましょう。」武周は聞かず、君璋を留めて朔州を守らせた。敗北するに及んで、武周は泣いて君璋へ言った。「君の言葉を用いなかったばっかりに、こうなってしまった。」しばらくして、武周は馬邑へ帰ろうと謀ったが、事前にばれた。突厥は、これを殺した。突厥は、君璋章を大行台として劉武周の残党を統率させ、郁射設へ兵を監督させて鎮守を助けさせた。

24-庚申、懐州総管黄君漢が、西済州にて王世充の太子玄応を攻撃して大勝利を収めた。熊州行軍総管史万宝が、九曲にて襲撃し、また、これを破る。

25-辛酉、王世充が鄧州を陥とす。

26-上は、幷州平定と聞いて、大いに悦んだ。壬戌、群臣と宴会を開いて繪帛を賜下する。各自御府へ入って好きなだけ持って行かせるという大盤振舞だ。唐倹は官職を復旧し、更に幷州道安撫大使も兼任させる。また、没収した独孤懐恩の田宅資財も、全て彼へ賜下した。

世民は、李仲文を幷州へ留めて、鎮守させた。劉武周はしばしば兵を出して来寇したが、仲文はこれを全て撃破し、城や堡を百余所も下す。詔して仲文を検校幷州総管とする。

27-五月、竇建徳は、高士興を幽州へ派遣して、李芸を攻撃させた。しかし、勝てずに籠火城まで退却した。李芸はこれを攻撃し、大勝利を収め、首級五千を挙げた。竇建徳の大将軍王伏宝の勇略は、軍中に冠たるものだった。諸将はこれを妬き、造反すると言い立てたので、竇建徳は彼を殺した。この時、王伏宝は言った。「大王は、どうして讒言を聞き入れ、自ら左右の手を斬られるのか!」

28-初め、尉遅敬徳は兵を率いて呂祟茂を助けて夏県を守っていた。上は、密かに使者を派遣して、祟茂の罪を赦し夏州刺史に任命して、敬徳を殺させようと謀った。しかし、事前に洩れ、敬徳は祟茂を殺した。敬徳が去った後、祟茂の余党達は再び夏県に拠って拒守した。秦王世民は晋州から軍を率いてやってきて夏県を攻撃した。壬午、これを屠る。

29-辛卯、秦王世民が、長安へ到着した。

30-この月、突厥が王世充へ阿史那掲多を使者として派遣し、馬千匹を献上して通婚を求めた。世充は宗族の女を娶らせ、互いに交易をした。

31-六月、壬辰。和州総管、東南道行台尚書令楚王杜伏威へ詔して使持節、総管江・淮以南諸軍事、揚州刺史、東南道行台尚書令、淮南道安撫使とし、呉王へ進封して、李姓を賜下した。輔公祏を行台左僕射として舒国公へ封じる。

32-丙午、皇子の元景を立てて趙王とした。元昌を魯王、元亨を鄷王とする。

33-顕州行台尚書令楚公楊士林は唐の官爵を受けたけれども、北は王世充と結び、南は蕭銑と通じていた。そこで安撫使李弘敏と共にこれを討つよう、廬江王瑗へ詔が降りた。ところが、甲寅、楊士林から忌まれていた長史の田瓚が、楊士林を殺して王世充へ降伏した。この時、廬江王瑗らの軍は、まだ顕州へ到着していなかった。世充は田瓚を顕州総管とした。

34-秦王世民が劉武周を討伐した時、突厥の処羅可汗は、弟の歩利設へ二千騎を与えて、唐を助けさせた。そして武周は滅亡したが、この月、処羅が晋陽へやって来た。総管の李仲文は、これを制止することができなかった。又、処羅可汗は、「仲文を助けるのだ。」という名目で、倫特勒へ数百人の部下を与えてここへ留めた。石嶺以北にも、兵を留めてこれを守らせ、去って行った。

35-上が、王世充攻撃を言い出した。世充はそれを聞いて、諸鎮から驍勇を選りすぐって、皆、洛陽へ集め、四鎮将軍を設置し、人を募って洛陽の四城を分守した。秋、七月。壬戌、秦王世民へ、諸軍を監督して世充を攻撃するよう詔が降りた。陜東道行台屈突通の二人の息子は洛陽にいた。そこで、上は通へ言った。「今、卿にも東征を命じたいが、二人の息子はどうなるだろうか?」すると、通は言った。「臣は昔、捕虜となりましたが、その時は殺されるのが当然でした。それなのに陛下は、ただいましめを解いてくれただけではなく、一人の士として礼遇してくださいました。この時臣は、『余命は陛下へ忠節を尽くす、』と、心と口で誓ったのです。いまはただ、死に場所を得ないことを恐れるだけです。今回先駆となれましたら、二人の息子などなんで顧みましょうか!」上は感嘆して言った。「卿は義に殉じる士だが、ここまでだったとは!」

36-癸亥、突厥が、密かに王世充へ使者を派遣した。路州総管李襲誉が、これを攻撃して敗った。牛や羊一万余を捕らえた。

37-驃騎大将軍可朱渾定遠が、告発した。「幷州総管李仲文は、突厥と密約を結んでおります。洛陽で戦争が始まったら、胡騎を引き入れて長安を直撃するのです。」甲戌、皇太子へ蒲反を鎮守してこれに備えるよう命じた。又、礼部尚書唐倹を幷州へ派遣して安撫させ、一時的に幷州総管府を廃止して仲文を入朝させた。

38-壬午、秦王世民が新安へ到着した。王世充は、魏王弘烈を襄陽へ、荊王行本を虎牢へ、宋王泰を懐州へ、斉王世惲を南城へ、楚王世偉を宝城へ派遣してそれぞれ鎮守させた。太子玄応は東城を、漢王玄恕は含嘉城を、魯王道徇は曜儀城を守り、世充は自ら戦兵を率いた。左輔大将軍楊公卿は左龍驤二十八府の騎兵を、右游撃大将軍郭善才は内軍二十八府の歩兵を、左游撃大将軍跋野綱は外軍二十八府の歩兵を率い、総勢三万で唐へ備えた。弘烈と行本は世偉の子息で、泰は世充の兄の子である。

39-梁師都が突厥や稽胡の兵を率いて入寇した。行軍総管段徳操が、これを攻撃して破り、千余級を斬首した。

40-羅士信が前軍を率いて慈澗を包囲した。王世充は、自ら三万の兵を率いてこれを救援に向かった。 己丑、秦王が軽騎を率いて世充の動向を偵察に出かけたが、それがたまたま世充の軍隊と遭遇した。衆寡敵せず、道路は狭くて険しい。遂に、王世充軍は、これを包囲してしまった。だが、世民は左右に馳せながら射撃し、敵の左建威将軍燕琪を捕らえたので、世充軍は退却した。世民が陣営に帰った時は、塵や埃が顔を覆い、どこの誰とも判らない有様。兵士達が入営を拒みそうになったので、生民は甲を脱いで名を名乗り、ようやく入営できた。明け方、世民は歩騎五万を率いて慈澗へ進軍した。世充は、慈澗の包囲を突破して洛陽へ帰った。世民は、宜陽に居た行軍総管史万宝を龍門へ派遣して占拠させた。太行の将軍劉徳威は河内を包囲した。洛口の上谷公王君廓は敵の糧道を絶った。河陰の懐州総管黄君漢は迴洛城を攻撃した。唐の大軍が北邙に屯営し、陣営を連ねて王世充へ迫る。世充の洧州長史繁水の張公謹と刺史崔枢が州城ごと降伏してきた。

41-八月、丁酉。南寧の西爨蛮が使者を派遣して入貢した。はじめ、隋末の蛮酋爨翫が造反して誅殺された。この時、諸子は官奴とされ、土地を棄てさせられていた。後、上が即位すると、翫の子の弘達を昆州刺史として、父親の屍を持ち帰らせて埋葬させた。そんな経緯があったので、益州刺史段綸が使者を派遣してその部落を招諭すると、皆、来降した。

42-己亥、竇建徳の共州県令唐綱が刺史を殺して、州ごと来降した。

43-鄧州の土豪が、王世充の任命した刺史を捕らえて、来降した。

44-癸卯、梁師都の石堡留守張挙が千余人を率いて来降した。

45-甲辰、黄君漢が校尉張夜叉へ水軍で迴洛城を襲撃させ、これに勝った。その将の達奚善定を捕らえ、河陽南橋を切断して帰る。従属する堡二十余が降伏した。世充は、太子玄応へ楊公卿らを率いて迴洛を攻撃させたが、勝てなかったので、迴洛城の西へ月城を築き、兵を留めてこれを守った。

世充は、青城宮に陣を布いた。秦王世民も、又、ここに陣を布いて対峙した。世充は川を川を隔てて世民へ言った。「隋室が傾覆して、唐は関中の帝となり、鄭は河南の帝となった。世充は、いまだかつて西へ侵略したことはないのに、王は突然挙兵して東進した。どういうつもりか?」すると世民の命令を受けて、宇文士及が答えた。「四海は皆皇風を仰いでいるのに、ただ公独り、その声教を阻んでいる。だからやって来たのだ!」世充は言った。「共に兵を退いて講和するのも、また素晴らしいではないか!」対して言った。「詔を奉じて、東都(洛陽)を取るのだ。修好は命じられていない。」日が暮れて、各々兵を退いた。

46-上は、竇建徳と連合しようと、使者を派遣した。竇建徳はその使者が帰る時、同安長公主を送り返した。(同安長公主は、上と同母の姉妹である。黎陽が陥落した時以来、竇建徳に捕らえられていた。)

47-乙卯、劉徳威が懐州を襲撃した。その外郭へ入り、多くの堡を落とした。

48-九月、庚午。梁師都の将劉旻が華池ごと来降した。唐は、彼を林州総管に任命した。

49-癸酉、王世充の顕州総管田瓚が所領二十五州を率いて来降した。これより襄陽は世充との連絡が絶えた。

50-史万宝が甘泉宮まで進軍した。丁丑、秦王世民が右武衛将軍王君廓を派遣して轘轅を攻撃させ、これを抜いた。王世充は、その将魏隠らへ君廓を攻撃させた。君廓は、偽って逃げ、伏兵に襲撃させて、敵を大いに破った。遂に東進し、管城へ至って、帰った。話は前後するが、王世充の将郭士衡と許羅漢が東都の国境で掠奪を行った時、君廓は策を用いてこれを撃退した。すると、ねぎらいの詔が降りた。「卿は十三人で賊軍一万を破った。この少数でこんな大軍を撃退した例は、古今未曾有である。」

世充の尉州刺史時徳叡が、指揮下にある杞、夏、陳、隨、許、潁、尉の七州を率いて来降した。秦王世民は、便宜的に、時徳穎へ旧領をそのまま支配させ、手を加えなかった。尉州を南汴州と改称する。ここにおいて、河南の郡県は、相継いで来降した。

劉武周からの降将尋相等が大勢叛去した。だから、諸将は尉遅敬徳を疑い、軍中にて捕らえた。行台左僕射屈突通や尚書殷開山は世民へ言った。「敬徳は驍勇絶倫の男。今、これを捕らえましたので、彼は心中必ずや怨んでおります。放置したら、後難の種となりかねません。殺した方が宜しゅうございます。」 世民は言った。「そうではない。敬徳がもしも叛くのなら、どうして尋相に遅れたりするものか!」そして、彼を釈放するように命じ、臥内へ引き入れ、金を賜下して言った。「丈夫の意気が通い有ったのだ。小嫌など意に介さないでくれ。我は、讒言を信じて忠良を害したりなどしない。公はそれを信じてくれ。だが、どうしても去りたいのならば、この金を、今後のたすけとするがよい。一時でも共に力を合わせた時の想いを表したいのだ。」辛巳、世民は五百騎を率いて戦地へ行き、魏の宣武帝陵へ登った。王世充は、歩騎一万余を率いて駆けつけてきて、これを包囲した。単雄信が、槊を引いて、世民へ直進してきた。すると、敬徳が馬を踊らせて大声で怒鳴り、横あいから雄信を刺して落馬させた。世充の兵がびびってしりごみしたところを、敬徳は世民を連れて包囲を突破した。世民と敬徳は、すぐに騎兵を率いて取って返して戦った。かれらは、世充の陣を縦横に駆け回り、ちっとも足を滞らせない。そこへ後続の屈突通が大軍を率いてやって来たので世充軍は大敗し、王世充は体一つで逃げ出した。冠軍大将軍陳智略を捕らえる。千余の首級を斬り、六千の捕虜を獲た。世民は、敬徳へ言った。「公は、さっそく報いてくれたか!」敬徳へ金銀一篋を賜下し、以来、ますます寵遇が厚くなった。

敬徳は、矟(武器の一種)をかわすのが巧く、単騎で敵陣へ乗り込むたびに、敵は矛先を並べて突き刺そうとするのだが、遂に傷つけることができなかった。また、敵の矟を奪って、却ってこれで刺したりした。斉王元吉は、馬矟の名手と自負していた。敬徳の能力を聞くと、刃抜きの武器での勝負を申し込んだ。すると、敬徳は言った。「敬徳は、謹んで刃を去らせていただきますが、王は刃を付けたままで宜しゅうございます。」そして試合をしたが、結局元吉は、敬徳を刺すことができなかった。すると、秦王世民が敬徳へ問うた。「矟を奪うのと、矟を避けるのと、どちらが難しい?」敬徳は言った。「奪う方が難しゅうございます。」そこで世民は、元吉の矟を奪うように命じた。元吉は、矟を繰り出し、馬を踊らせて刺すことばかりに必死になったが、敬徳は須臾の間に三度、その矟を奪った。元吉は、上辺だけは感嘆した顔をしていたが、心中では非常に恥じていた。

51-叛胡が嵐州を落とした。

52-初め、王世充は邴元真を滑州行台僕射とした。濮州刺史杜才幹はもとは李密の将で、邴元真が李密に叛いたのを恨んでいたので、衆を率いて降伏すると欺いた。元真は、後ろ盾の勢力を恃んで、自ら招慰に出かけた。才幹は出迎えて室へ招き入れ座に就かせてから捕らえ、その罪状を数え上げた。「汝はもともと庸才なのに、魏公は、汝を幕僚にした。それなのに毫毛の手柄も建てずに、滔天の禍を犯した。今、殺してやるが、これこそ汝に相応だ!」遂に、これを斬る。黎陽へ人を派遣して、その首を李密の墓へそなえて、祭った。壬午、濮州を以て来降した。(「唐紀」へ入ってからは、ただ単に「○州刺史」と記載された場合は、「李淵麾下の○州刺史」を意味すると判断し、これまでそのように翻訳してきました。ところが、ここでは「濮州刺史杜才幹」と記載されているのに、後で李淵に降伏している。多分、これは最初の記述の誤りで、邴元真を殺した時の杜才幹は独立した軍閥だったのではないだろうか。)

53-突厥の莫賀咄設が涼州へ来寇した。総管の楊恭仁がこれを攻撃し、敗北した。莫賀咄設は、男女数千人を掠めて去った。

54-丙戌、田瓚を顕州総管とし、蔡国公の爵位を賜下した。

55-冬、十月。甲午、王世充の大将軍張鎮周が来降した。

56-甲辰、行軍総管等士信が王世充の硤石堡を襲撃して、これを抜いた。士信は、又、千金堡を包囲した。堡中の人は、彼等を罵った。士信は、夜、百余人の人へ数十の嬰児を抱かせて堡下へ派遣し、児へ泣かせて呼びかけ、偽って言った。「羅総管へ帰順する為、東都から来たのです。」だが、そう言った後、彼等は言い合った。「ここは千金堡だ。我等は、道を間違った。」そして、去っていった。堡中の人々は、羅士信は既に去っており、洛陽から亡命した人々が居るだけだと思い、兵を出してこれを追撃した。士信は、道へ兵を伏せており、その門が開くのを窺って突入し、これを屠った。

57-竇建徳が幽州を包囲するや、李芸は高開道へ急を告げた。開道が二千騎を率いて救援に来たので、竇建徳は退却した。高開道は、李芸のつてで、長安へ使者を派遣して来降した。戊申、開道を蔚州総管とし、李氏の姓を賜下し、北平郡王に封じた。開道の頬に、鏃が刺さっていた。医者を召しだしたところ、医者は言った。「鏃は深く刺さっており、摘出できません。」開道は怒り、その医者を斬った。別の医者を召したところ、彼は言った。「これを出すと、とても痛いですぞ。」開道はこれも斬り、更に別の医者を召した。彼は言った。「取り出せます。」そして、骨を穿ち、くさびをその間に置いた。骨は一寸余りも裂けたが、遂に、鏃は摘出された。開道は、妓女へ演奏させ、膳を勧めた。

58-竇建徳は、二十万の大軍を率いて、再び幽州を攻撃した。建徳の兵が(城壁へ飛びつくと?)、薛万均と薛徹が決死隊百人を率いて、地下道から彼等の背後へ廻って、これを襲撃した。建徳軍は潰走し、官軍は千余の首級を挙げた。李芸は、勝ちに乗じてその陣へ肉薄した。建徳は、営中に陣を布いた。彼等は堀を埋めて出撃し、奮戦して李芸軍を大いに破った。そして、敗走する李芸軍を城下まで追撃したが、攻撃しても勝てないので、退却した。

59-李密が敗北した時、楊慶は洛陽へ帰り、姓をもとの楊氏へ戻した。(楊慶は、李密へ帰属して、改姓していた。)王世充が帝と称すると、慶は、再び姓を郭氏へ戻した。王世充は、彼を管州総管にして、兄の娘を娶せた。秦王世民が洛陽へ迫ると、慶は、人を派遣して降伏を請うた。そこで世民は、総管李世勣へ兵を与えて、管州城を占拠させる為に派遣した。慶は、妻と共に来降したがったが、妻は言った。「主上は、君の心を繋ぎ止めたかったから、妾を小間使いにしたのです。今、君は既に付託に背いて、利を貪り保全を求めました。妾がどうして君について行きましょうか!もし長安へ行ったら、妾はただの一婢にしか過ぎません。君にとって何の役に立ちましょう!どうか洛陽へ送り返してください。それが一番のお慈悲です。」慶は許さなかった。慶が出ると、妻は侍者へ言った。「もしも唐が鄭を滅ぼしたら、我が家は必ず亡びます。鄭が唐を滅ぼしたら、我が夫は必ず死にます。こうなってしまって、生きていて何になりますか!」遂に自殺した。庚戌、慶が来降した。姓を楊氏へ戻す。上柱国、郇国公を拝受する。

この時、世充の太子玄応は、虎牢関を鎮守し、栄、汴の間に陣営していたが、これを聞くと兵を率いて管城へ駆けつけた。李世勣は、これを撃退する。栄州刺史魏陸を説得しようと、郭孝恪へ書を書かせた。それを読んで、陸は密かに降伏を請うた。そうとは知らず玄応は、兵を徴発しようと、大将軍張志を陸の元へ派遣した。丙辰、陸は志等四将を捕らえ、州を挙げて来降した。陽城令王雄が、諸堡を率いて来降した。秦王世民は、李世勣へ、兵を率いて呼応するよう命じ、雄を嵩州刺史とした。これによって、嵩山以南の道が始めて開通した。魏陸は、張志へ玄応の偽手紙を書かせて、東道の兵を釘付けにさせ、その将の張慈宝は汴州へ帰るよう命じた。その傍ら、汴州刺史王要漢へは慈宝を図るよう、密かに告げた。慈宝は、まんまと騙されて汴州へ戻ったので、要漢は慈宝を斬り、唐へ降伏した。玄応は、諸州が皆叛いたと聞き、大いに懼れて洛陽へ逃げ帰った。要漢を汴州総管として郳国公の爵位を賜下すると、詔が降りた。

60-王弘烈が襄陽へ拠っていた。上は、金州総管府司馬涇陽の李大亮へ、樊・鄧地方を安撫して王弘烈を図るよう命じた。十一月、大亮は樊城鎮を攻撃してこれを抜き、その将国大安を斬り、その城柵十四を下した。

61-蕭銑は、偏狭な性格で猜疑心が強かった。諸将は功を恃み、横暴で勝手気儘になり、些細なことでも誅殺を乱用するようになった。蕭銑はこれを患い、兵を罷免して農民へ戻すと宣言したが、これは、実は諸将の権力を奪う為だった。大司馬董景珍の弟は将軍となっていたが、この政策に怨望して乱を起こそうと謀った。しかし、その陰謀は漏洩し、誅殺されてしまった。景珍は、その時長沙を鎮守していた。蕭銑は、詔を下して彼を赦し、江陵へ呼び戻した。しかし、景珍は懼れ、甲子、長沙を以て来降した。峡州刺史許紹へ、兵を出してこれに応じるよう詔が降った。

62-雲州総管郭子和は、突厥や梁師都と連合を結んだが、提携した後、師都の寧朔城を攻撃して、これに勝った。また、突厥間の不調和を聞くと、これを上へ報告しようと使者を放ったが、その使者は突厥へ捕まってしまった。そんなこんなで処羅可汗は激怒して、彼の弟の子升を捕らえた。郭子和は孤立してしまって危険を感じ、その民を率いて南へ移住することを請うた。唐の朝廷はこれを許可し、延州の故城へ移住するよう詔が降りた。

63-張挙と劉旻が降伏するや、梁師都は大いに懼れ、尚書の陸季覧を突厥へ派遣して処羅可汗を説得した。「このごろ中原は動乱続きで、数カ国に分裂し、それぞれの勢力が均衡して力が弱まっていました。ですから、皆、北面して突厥へ帰順しているのです。しかし今、定陽可汗(劉武周)は既に亡く、天下は全てが唐の領土になろうとしています。師都は、滅亡を恐れているのではありません。ただ、次は可汗の番かと危惧するのです。ですから、奴等が中華を平定する前に、南進して中原を取るべきです。ちょうど、魏道武(晋、孝武帝紀参照)のように。その時には、師都が道案内となりましょう。」処羅は、これに従った。莫賀咄設を原州へ入寇させ、泥歩設と師都を延州へ入寇させ、突利可汗と奚、霫、契丹、靺鞨を幽州へ入寇させようと謀った。又、竇建徳この軍隊を滏口から西進させ、晋・絳にて合流するよう計画した。莫賀咄は処羅の弟の咄苾であり、突利は、始畢の子息の什鉢苾である。

処羅は、又、幷州を取って楊政道をそこに住ませようと思った。多くの群臣が諫めたが、処羅は言った。「我が父は国を失ったが、隋の援助を頼んで独立できたのだ(隋の開皇十九年)。この恩を忘れてはならない。」だが、いざ出陣という時に、卒した。義成公主は、処羅の子の奥射が醜くて柔弱だったので、これを廃して莫賀咄設を立てた。頡利可汗と号する。乙酉、頡利可汗は使者を派遣して、処羅の喪を告げた。上は、始畢の喪の時と同じ礼で対した。

64-戊子、安撫大使李大亮が、王世充の沮・華二州を取った。

65-この月、竇建徳は黄河を渡って孟海公を攻撃した。

以前、王世充が竇建徳の黎陽を攻撃した時、竇建徳は報復として殷州を襲撃して破った。それ以来、この両国は国交を断絶していた。だが、唐軍が洛陽へ迫るに及んで、世充は建徳へ使者を派遣して救援を求めた。すると、建徳の中書侍郎劉彬が建徳へ説いた。 「天下大乱で、唐は関西を得、鄭は河南を得、夏は河北を得、この三者で鼎足の勢力図を成したのです。今、唐が挙兵して鄭へ臨みました。秋から冬へかけて、唐軍はますます兵力を増強しており、鄭の領土は日々削り取られています。唐は強く、鄭は弱い。このままでは鄭はささえ切れません。しかし、鄭が滅亡すれば、夏も独立できません。ここは、仇を解き忿を除き、兵を動員して救援へ向かうべきでございます。夏がその外を撃ち、鄭がその内を攻めれば、唐を必ず破れます。唐軍が退却したら、状況の変化を静観し、もしも鄭を取れるようならば取り、二国の兵を合わせて戦争で疲弊した唐を攻撃すれば、天下を取ることもできますぞ!」  建徳はこれに従い、世充の元へ使者を派遣し、救援に赴くことを告げた。また、麾下の礼部侍郎李大師を唐へ派遣し、洛陽の兵を退却させるよう請うた。しかし秦王世民は、彼を抑留し、返事を出さなかった。

66-十二月、辛卯。王世充は、許・毫など十一州全てを以て降伏を請うた。

67-壬辰、燕郡王李芸が籠火城にて、再び竇建徳軍を攻撃して、これを破った。

68-辛丑、王世充の隋州総管徐毅が州を挙げて降伏した。

69-癸卯、峡州刺史許紹が蕭銑の荊門鎮を攻撃して、これを抜いた。紹の管轄地は梁、鄭と隣接していた。二国の国境警備兵は、紹の士卒を得たら皆殺したが、紹が二国の兵卒を捕らえたら、兵糧を与えて放してやった。すると、敵人は恥を知り、以来、侵掠しなくなった。こうして境内は安定した。

70-蕭銑が、その斉王張繡へ長沙を攻撃させた。董景珍が繡へ言った。「『前年彭越を塩漬にして、往年は韓信を殺す』。卿はこれを見ながら、どうして臣下どうしで相戦いあっているのだ!」繡は応じず、進攻してこれを包囲した。景珍は囲みを突破して逃げようとしたが、麾下に殺された。銑は、繡を尚書令とした。繡は功績を恃んで驕慢横暴になったので、銑はまた、これを殺した。これによって功臣諸将は、全て離心を持ち始め、軍隊は益々弱体化していった。

71-王世充は、兄の子の代王琬と長孫安世を竇建徳の元へ派遣して、援軍を請うた。

72-突厥の倫特勒が幷州にいるので、大きな民患となった。そこで幷州総管劉世譲は、策を設けてこれを捕らえた。上は、これを聞いて甚だ喜んだ。張道源は竇建徳に従って河南にいたが、密かに長安へ使者を派遣し、出兵して洺州を攻撃し山東を震駭させるよう請うた。丙午、世譲を行軍総管として、土門から兵を率いて出陣し、洺州へ向かうよう、詔が降りた。

73-己酉、瓜州刺史賀抜行威が、驃騎将軍達奚暠を捕らえ、挙兵して造反した。

74-この年、李子通が揚子江を渡って沈法興を攻撃し、京口を取った。法興は、その僕射蔣元超を派遣して、これを拒んだ。両軍は庱亭にて戦い、元超は敗死した。法興は毘陵を棄て、呉郡へ逃げる。ここにおいて丹陽、毘陵などの郡は、全て子通へ降伏した。子通は、法興の府掾だった李百薬を内史侍郎、国子祭酒とした。

杜伏威は、行台左僕射輔公祏へ兵卒数千を与えて子通を攻撃させた。将軍の闞稜と王雄誕を副将とする。公祏は揚子江を渡って丹陽を攻撃し、これに勝った。更に進軍して溧水に屯営する。子通は、数万の兵を率いてこれを拒んだ。公祏は精鋭千人へ長刀を与えて先鋒とし、又千人をすぐその後方へ付けて、言った。「退く者が居たら、即座に斬れ。」そして自身は、残りの兵を率いてその背後に控えた。子通は方陣を作って前進したが、公祏の前鋒千人は、決死で戦った。公祏は、さらに左右翼を張り出して敵を攻撃したので、子通は敗走した。公祏は追撃したが、かえって敗北し、帰って壁を閉じて戦わなかった。すると、王雄誕が言った。「子通軍には、塁壁がありませんし、緒戦の勝利で油断しています。この無防備につけ込んで攻撃すれば、破れます。」しかし、公祏は従わなかった。そこで雄誕は、その手勢数百人を率いて夜襲を掛けた。風が出たのを幸い火を放ったので、子通は大敗し、数千人の兵卒が降伏した。子通は、食糧が尽きたので、江都を棄てて京口を保った。こうして江西の地は、全て伏威が領有した。伏威は、丹陽へ遷都した。

子通はまた、太湖へ東走した。敗残兵をかき集めて二万人を得ると、呉郡の沈法興を攻撃し、大勝利を収めた。法興は左右数百人を率いて城を棄てて逃げた。呉郡の賊帥聞人遂安が、その将葉孝弁を派遣して、法興を迎えた。法興は同行したが、中途で後悔し、孝弁を殺して会稽へ向かおうと思った。だが、孝弁はこれを覚り、法興へ迫って揚子江へ落とし、溺死させた。子通の軍勢は再び勢力を盛り返し、余杭へ遷都した。法興の領土を全て奪ったので、その領土は北は太湖から南は嶺へ至り、東は会稽を包み、西は宣城を距てた。

75-広・新二州の賊帥高法澄と沈宝徹が隋の官吏を殺して州に拠り、林士弘へ帰属した。漢陽太守馮盎が、これを撃破したが、しばらくすると宝徹の兄の子の智臣が再び新州にて兵を集めた。盎が兵を率いてこれを攻撃する。賊が結集すると、盎は甲を脱いで大呼した。「お前らは、俺を知らないのか!」すると、賊徒の大半は、武器を棄てて肌脱ぎになり、馮盎を拝礼した。(馮盎は、祖母の洗夫人以来、嶺南で畏敬されていた。)遂に、賊軍は壊滅し、馮盎は宝徹と智臣を捕らえた。こうして、嶺外は平定された。

76-竇建徳の行台尚書恒山の胡大恩が、降伏を請うてきた。

武徳四年(辛巳,六二一)

1-春、正月、癸酉。大恩を代州総管として、定襄郡王へ封じ、李姓を賜下した。代州は石嶺の北で、劉武周の乱以来、寇盗が満ち溢れていた。大恩は鎮を雁門へ遷し、これらを討撃して、悉く平らげた。

2-稽胡の酋帥劉仚成は数万の部落を持ち、辺寇を行っていた。辛巳、太子建成へ諸軍を統べてこれを討伐するよう詔が降りた。

3-王世充の梁州総管程嘉会が所管を以て来降した。

4-杜伏威が、その将陳正通、徐紹宗へ精鋭二千を与えて派遣し、秦王世民と合流して王世充を攻撃した。甲申、梁を攻撃して、これに勝つ。

5-丙戌、黔州刺史田世康が、蕭銑の五州四鎮を攻撃し、全て勝った。

6-秦王世民が精鋭千余騎を選び、皆へ引きずるような長い裾と黒い甲をかぶせて左右隊へ分け、秦叔宝、程知節、尉遅敬徳、翟長孫へ分散して指揮させた。戦争のたびに、世民は自ら黒甲隊をかぶり、これを率いて前鋒とし、機会に乗じて進撃したが、向かうところ敵を粉砕しないことはなく、敵人はこれを畏れた。ある時、行台僕射屈突通と贊皇公竇軌が、兵を率いて陣営へ向かっていると、王世充軍とバッタリ出くわし、戦いになったが、戦況は不利だった。だが、秦王世民が黒甲を率いて救援に駆けつけたので、世充は大敗した。この時、敵の騎将の葛彦璋を捕らえ、六千余人を捕斬した。世充は、逃げ帰った。

7-李靖が趙郡王孝恭へ、蕭銑を取る十策を説いた。孝恭は、これを上へ伝えた。二月、信州を夔州と改め、孝恭を総管として、舟艦を沢山造らせて水戦に習熟させた。孝恭は、今まで戦争に出たことがなかったので、靖を行軍総管として、孝恭の長史も兼任させ、軍事を委ねた。靖は、孝恭へ、巴・蜀の酋長の子弟を全て召集し、才覚に従って職務を授け、左右へ置くように説いた。これは、抜擢するように見えるが、その実人質としていたのである。

8-王世充の太子玄応が、兵数千人を率いて兵糧を虎牢から洛陽へ運び入れようとした。秦王世民は将軍李君羨を派遣して、これを襲撃させた。君羨は敵を撃破し、玄応は体一つで逃げ出した。

世民が、宇文士及へ、進軍して東都を包囲するよう請願させた。すると、上は士及へ言った。「帰って、汝の王へ伝えよ。今洛陽を取ったら、兵を留めて休息させよ。城に勝ったときは、乗輿や法物や図籍器械など、個人で所蔵すべきでないものは、汝がこれを没収せよ。その他子女玉帛は、全て将士へ分賜せよ。」

辛丑、世民は本隊を青城宮へ移した。その軍が塁や壁を完成させる前に、王世充は二万の軍を率いて方諸門から出陣し、馬坊垣の跡を利用して穀水へ臨み唐軍を拒んだので、諸将は皆畏れた。世民は、精騎で北邙へ陣を布き、魏の宣武帝陵へ登って敵陣を望み、左右へ言った。「賊軍は行き詰まったな。総勢で出陣し、この一戦に僥倖を求めている。今日、これを破れば、もう奴等に後はないぞ!」そして、屈突通へ五千の歩兵を率いて川を渡り攻撃するよう命じた。この時、通を戒めて言った。「交戦したら、のろしを挙げろ。」煙が上がると、世民は騎兵を率いて南下した。自ら兵卒に先立ち、通と力を合わせて力戦する。世民は、世充の陣の厚薄を知りたくて、精騎数十騎と共に敵陣へ突っ込んで背後へ出た。行く手の敵兵は全て薙ぎ払われ、大勢の敵が死傷した。ところが、そこで長堤に行く手を阻まれ、諸騎はバラバラになってしまった。世民につき従っているのは、将軍丘行恭ただ一騎のみ。世充が数騎で追求する。その上、世民の馬に流れ矢が当たって、馬は倒れてしまった。行恭は馬首を返して追撃者を射た。それは一発も当たらなかったが、追う者も脚を留めた。そこで行恭は、下馬して自分の馬を世民へ授けた。そして自身は馬前にて徒歩で長刀を執った。跳躍して大呼し、数人を斬る。そのまま敵陣へ突入して突破し、大軍へ入ることができた。世充は、衆を率いて死戦した。散っては集まること数回。辰の刻から午へ及んで、世充軍はようやく退却した。世民は、兵を指揮してこれに乗じ、そのまま城下まで進撃する。七千人を捕斬して、遂に城を包囲する。驃騎将軍段志玄は世充軍と力戦するうちに深入りしてしまい、そこで馬が倒れて捕らえられてしまった。二騎が両側から彼の髻(もとどり)を掴んで洛水を渡ろうとしたが、志玄は身を翻して奮戦し、二人とも落馬してしまった。志玄は馳せ帰る。数百騎が追撃したが、彼へ敢えて近づこうととしなかった。

ところで、驃騎将軍王懐文は、唐軍の斥候として偵察中に世充軍に捕らえられていた。世充は、憂さを晴らそうとして、これを左右へ置いていた。壬寅、世充が右掖門から出て洛水に臨んで陣を布くと、懐文はアッと言う間に槊を引いて世充を刺した。だが、世充は甲で庇った。槊は途中で折れて貫けなかった。世充の近習達は、突然のことに驚き慌てて為す術を知らない。懐文は唐軍目指して走り去ったが、寫口にて捕まって殺された。世充は、兜を取って群臣へ示し、言った。「懐文は槊で我を刺したが、遂に傷つけることもできなかった。これこそ天命ではないか!」

話は遡るが、御史大夫の鄭頲は、世充へ仕えるのが楽しくなく、病気と称して事に預からないことが多かった。ここにいたって、彼は世充へ言った。「『金剛と言う、絶対に壊れない仏がある』と聞いたことがありますが、陛下こそそれであります。臣は稀代の僥倖にて仏の世に生まれることができました。どうか、官位を棄て、削髪して沙門となることをお許しください。日々精進して勤行に励み、陛下の神武の助けとなりとうございます。」 すると、世充は言った。 「国の大臣とは、声望が重く、人々が注視している。それが仏道へ入れば、人々は、何事かと騒いでしまう。戦争が一段落つくのを待ちなさい。そうすれば、公の願いを叶えよう。」頲は固く請うたが、世充は許さなかった。頲は退出すると、妻へ言った。「名節を慕う志を持って、我が髪を束ねて官に就いていたが、不幸にして乱世に遭遇し、流離の末にここに至った。猜疑の主君の朝廷に身を置き、危亡の地に足を踏む。浅薄な我が智力では、我が身を全うすることはできまい。人は皆、いずれ死ぬ。早かろうが遅かろうが、大した違いはない。好きなことをするのなら、死んでも遺憾はない。」遂に、髪を削って僧服を着た。世充は、これを聞いて激怒した。「お前は、我が必ず敗れると見て、難を逃れる為に出家したのか?これを誅殺しなければ、衆を制御することはできぬわ!」遂に、頲を市場にて斬った。頲は死に臨んで自若として談笑した。観る者は、彼を壮者と讃えた。

詔が降りて、王懐文へ上柱国・朔州刺史が賜下された。

9-幷州安撫使唐倹が密かに上奏した。「真郷公李仲文と妖僧志覚が、造反しようと謀りました。又、陶氏の娘を娶って、桃李の謡に応じようとしています。可汗へ諂い仕え、非常に気に入られています。可汗は、彼が南面可汗として立つことを許可しました。幷州にては、贈賄が幅を利かせております。」上は、この件を裴寂、鎮叔達、蕭瑀へ裁断させた。乙巳、仲文は、誅に伏した。

10-庚戌、王泰が、河陽を棄てて逃げた。その将趙夐らは城を以て来降した。別将単雄信、裴孝達と総管王君廓は、洛口を挟んで対峙した。秦王世民は歩騎五千を率いて救援に向かい、轘轅へ至った。すると、雄信らは逃げたので、君廓は追撃して、これを敗った。

11-壬子、延州総管段徳操が、劉仚成を攻撃して破った。千余級を斬首する。

12-乙卯、王世充の懐州刺史陸善宗が、城を以て降伏した。

13-秦王世民は、洛陽の宮城を包囲した。城中の守備は甚だ厳しく、大きな投石機は、重さ五十斤の石を二百歩も投げ飛ばした。八つの弩は、車輪のような箭に巨斧のような鏃の矢を五百歩も飛ばした。世民は、昼夜休まず四面から攻撃したが、十日余りしても勝てない。城中から内応しようとする者は十三人も居たが、全て発覚して殺された。唐の将士はみな疲弊して帰りたがった。総管劉弘基等が撤退を請願すると、世民は言った。「今、大挙してやって来たのは、この一労で永年の安逸を得る為だ。東方の諸州は既に風をに靡くように降伏してきた。ただ洛陽だけが孤城として残っているが、いつまでも保てるものか。功績は成就寸前だ。なんでこれを棄てて帰れるか!」そして、軍中へ命じた。「洛陽を破るまでは、我が軍は絶対に帰らない。敢えて退却を言う者は、斬る!」これ以後、衆人は退却を口にしなくなった。上はこれを聞くと、世民へ密敕を出して、帰るよう命じた。だが、世民は、洛陽は必ず落とせると上表した。また、参謀軍事封徳彝を長安へ派遣し、入朝させて現状の形勢を面と向かって論じさせた。徳彝は、上へ言った。「世充の得た土地は多いのですが、皆、面従しているだけで、その号令が施行されるのはただ洛陽一城のみです。奴等の知恵は尽き力は窮し、勝利は目前です。今、もしも退却すれば、賊軍は再び勢力を盛り返して更にあちこちと連合し、後には滅ぼしにくくなりますぞ!」上は、これに従った。世民は世充へ書を遣り禍福を論じて諭したが、世充は返事を出さなかった。

14-戊午、王世充の鄭州司兵沈悦が、左武候大将軍李世勣のもとへ使者を派遣して、降伏を請うた。左衛将軍王君廓が、夜半に兵を率いて虎牢を襲撃すると、悦は内応した。遂に唐軍はこれを抜き、世充の荊王行本と長史の戴冑を捕らえた。悦は、君理の孫である。

15-竇建徳が周橋に勝ち、孟海公を捕虜にした。

著作権

翻訳:渡辺省

唐紀四 資治通鑑卷第一百八十八

高祖神堯大聖光孝皇帝中之上

武德二年(己卯,六一九)

1-十一月,己卯,劉武周寇浩州。

2-秦王世民引兵自龍門乘冰堅渡河,屯柏壁,與宋金剛相持。時河東州縣,俘掠之餘,未有倉廩,人情恇擾,聚入城堡,徵斂無所得,軍中乏食。世民發教諭民,民聞世民為帥而來,莫不歸附,自近及遠,至者日多,然後漸收其糧食,軍食以充。乃休兵秣馬,唯令偏裨乘閒抄掠,大軍堅壁不戰,由是賊勢日衰。

世民嘗自帥輕騎覘敵,騎皆四散,世民獨與一甲士登丘而寢。俄而賊兵四合,初不之覺,會有蛇逐鼠,觸甲士之面,甲士驚寤,遂白世民俱上馬,馳百餘步,為賊所及,世民以大羽箭射殪其驍將,賊騎乃退。

3-李世勣欲歸唐,恐禍及其父,謀於郭孝恪。孝恪曰:「吾新事竇氏,動則見疑,宜先立效以取信,然後可圖也。」世勣從之。襲王世充獲嘉,破之,多所俘獲,以獻建德,建德由是親之。

初,漳南人劉黑闥,少驍勇狡獪,與竇建德善,後為羣盜,轉事郝孝德﹑李密﹑王世充。世充以為騎將,每見世充所為,竊笑之。世充使黑闥守新鄕,李世勣擊虜之,獻於建德。建德署為將軍,賜爵漢東公,常使將奇兵東西掩襲,或潛入敵境覘視虛實。黑闥往往乘閒奮擊,克獲而還。

4-十二月,庚申,上獵於華山。

5-于筠說永安王孝基急攻呂崇茂,獨孤懷恩請先成攻具,然後進,孝基從之。崇茂求救於宋金剛,金剛遣其將善陽尉遲敬德﹑尋相將兵奄至夏縣。孝基表裏受敵,軍遂大敗,孝基﹑懷恩﹑筠﹑唐儉及行軍總管劉世讓皆為所虜。敬德名恭,以字行。

上徵裴寂入朝,責其敗軍,下吏,旣而釋之,寵待彌厚。

尉遲敬德﹑尋相將還澮州,秦王世民遣兵部尚書殷開山﹑總管秦叔寶等邀之於美良川,大破之,斬首二千餘級。頃之,敬德﹑尋相潛引精騎援王行本於蒲板,世民自將步騎三千從閒道夜趨安邑,邀擊,大破之。敬德﹑相僅以身免,悉俘其眾,復歸柏壁。

諸將咸請與宋金剛戰,世民曰:「金剛懸軍深入,精兵猛將,咸聚於是。武周據太原,倚金剛為扞蔽。軍無蓄積,以虜掠為資,利在速戰。我閉營養銳以挫其鋒,分兵汾﹑隰,衡其心腹。彼糧盡計窮,自當遁走。當待此機,未宜速戰。」

永安壯王孝基謀逃歸,劉武周殺之。

6-李世勣復遣人說竇建德曰:「曹﹑戴二州,戶口完實,孟海公竊有其地,與鄭人外合內離;若以大軍臨之,指期可取。旣得海公,以臨徐﹑兗,河南可不戰而定也。」建德以為然,欲自將徇河南,先遣其行臺曹旦等將兵五萬濟河,世勣引兵三千會之。

武德三年(庚辰,六二〇)

1-春,正月,將軍秦武通攻王行本於蒲反。行本出戰而敗,糧盡援絕,欲突圍走,無隨之者,戊寅,開門出降。辛巳,上幸蒲州,斬行本。秦王世民輕騎謁上於蒲州。宋金剛圍絳州。癸巳,上還長安。

2-李世勣謀俟竇建德至河南,掩襲其營,殺之,冀得其父並建德土地以歸唐。會建德妻産,久之不至。

曹旦,建德之妻兄也,在河南,多所侵擾,諸賊羈屬者皆怨之。賊帥魏郡李文相,號李商胡,聚五千餘人,據孟津中潬;母霍氏,亦善騎射,自稱霍總管。世勣結商胡為昆弟,入拜商胡之母。母泣謂世勣曰:「竇氏無道,如何事之!」世勣曰:「母無憂,不過一月,當殺之,相與歸唐耳!」世勣辭去,母謂商胡曰:「東海公許我共圖此賊,事久變生,何必待其來,不如速決。」是夜,商胡召曹旦偏裨二十三人,飲之酒,盡殺之。旦別將高雅賢﹑阮君明尚在河北未濟,商胡以巨舟四艘濟河北之兵三百人,至中流,悉殺之。有獸醫游水得免,至南岸,吿曹旦,旦嚴警為備。商胡旣擧事,始遣人吿李世勣。世勣與曹旦連營,郭孝恪勸世勣襲旦,世勣未決,聞旦已有備,遂與孝恪帥數十騎來奔。商胡復引精兵二千北襲阮君明,破之。高雅賢收眾去,商胡追之,不及而還。

建德群臣請誅李蓋,建德曰:「世勣,唐臣,為我所虜,不忘本朝,乃忠臣也,其父何罪!」遂赦之。

甲午,世勣﹑孝恪至長安。曹旦遂取濟州,復還洺州。

3-二月,庚子,上幸華陰。

4-劉武周遣兵寇潞州,陷長子﹑壺關。潞州刺史郭子武不能禦,上以將軍河東王行敏助之。行敏與子武不叶,或言子武將叛,行敏斬子武以徇。乙巳,武周復遣兵寇潞州,行敏擊破之。

5-壬子,開州蠻冉肇則陷通州。

6-甲寅,遣將軍桑顯和等攻呂崇茂於夏縣。

7-初,工部尚書獨孤懷恩攻蒲反,久不下,失亡多,上數以敕書誚讓之,懷恩由是怨望。上嘗戲謂懷恩曰:「姑之子皆已為天子,次應至舅之子乎?」懷恩亦頗以此自負,或時扼腕曰:「我家豈女獨貴乎?」遂與麾下元君寶謀反。會懷恩﹑君寶與唐儉皆沒於尉遲敬德,君寶謂儉曰:「獨孤尚書近謀大事,若能早決,豈有此辱哉!」及秦王世民敗敬德於美良川,懷恩逃歸,上復使之將兵攻蒲反。君寶又謂儉曰:「獨孤尚書遂拔難得還,復在蒲反,可謂王者不死!」儉恐懷恩遂成其謀,乃說尉遲敬德,請使劉世讓還與唐連和,敬德從之,遂以懷恩反狀聞。時王行本已降,懷恩入據其城,上方濟河幸懷恩營,已登舟矣,世讓適至。上大驚曰:「吾得免,豈非天也!」乃使召懷恩,懷恩未知事露,輕舟來至;卽執以屬吏,分捕黨與。甲寅,誅懷恩及其黨。

8-竇建德攻李商胡,殺之。建德洺州勸課農桑,境內無盜,商旅野宿。

9-突厥處羅可汗迎楊政道,立為隋王。中國士民在北者,處羅悉以配之,有眾萬人。置百官,皆依隋制,居於定襄。

10-三月,乙丑,劉武周遣其將張萬歲寇浩州,李仲文擊走之,俘斬數千人。

11-改納言為侍中,內史令為中書令,給事郞為給事中。

12-甲戌,以內史侍郞封德彝為中書令。

13-王世充將帥﹑州縣來降者,時月相繼。世充乃峻其法,一人亡叛,擧家無少長就戮,父子﹑兄弟﹑夫婦許相吿而免之。又使五家為保,有擧家亡者,四鄰不覺,皆坐誅。殺人益多而亡者益甚,至於樵采之人,出入皆有限數;公私愁窘,人不聊生。又以宮城為大獄,意所忌者,幷其家屬收系宮中;諸將出討,亦質其家屬於宮中,禁止者常不減萬口,餒死者日有數十。世充又以臺省官為司﹑鄭﹑管﹑原﹑伊﹑殷﹑梁﹑湊﹑嵩﹑谷﹑懷﹑德等十二州營田使,丞﹑郞得為此行者,喜若登仙。

14-甲申,行軍副總管張倫敗劉武周於浩州,俘斬千餘人。

15-西河公張綸﹑眞鄕公李仲文引兵臨石州,劉季眞懼而詐降。乙酉,以季眞為石州總管,賜姓李氏,封彭山郡王。

16-蠻酋冉肇則寇信州,趙郡公孝恭與戰,不利。李靖將兵八百,襲擊,斬之,俘五千餘人;己丑,復開﹑通二州。孝恭又擊蕭銑東平王闍提,斬之。

17-夏,四月,丙申,上祠華山;壬寅,還長安。

18-置益州道行臺,以益﹑利﹑會﹑鄜﹑涇﹑遂六總管隸焉。

19-劉武周數攻浩州,為李仲文所敗。宋金剛軍中食盡;丁未,金剛北走,秦王世民追之。

20-羅士信圍慈澗,王世充使太子玄應救之,士信刺玄應墜馬,人救之,得免。

21-壬子,以顯州道行臺楊士林為行臺尚書令。

22-甲寅,加秦王世民益州道行臺尚書令。

23-秦王世民追及尋相於呂州,大破之,乘勝逐北,一晝夜行二百餘里,戰數十合。至高壁嶺,總管劉弘基執轡諫曰:「大王破賊,逐北至此,功亦足矣。深入不已,不愛身乎!且士卒饑疲,宜留壁於此,俟兵糧畢集,然後復進,未晩也。」世民曰:「金剛計窮而走,眾心離沮;功難成而易敗,機難得而易失,必乘此勢取之。若更淹留,使之計立備成,不可復攻矣。吾竭忠徇國,豈顧身乎!」遂策馬而進,將士不敢復言飢。追及金剛於雀鼠谷,一日八戰,皆破之,俘斬數萬人。夜,宿於雀鼠谷西原,世民不食二日,不解甲三日矣,軍中止有一羊,世民與將士分而食之。丙辰,陝州總管于筠自金剛所逃來。世民引兵趣介休,金剛尚有眾二萬,出西門,背城布陳,南北七里。世民遣總管李世勣等與戰,小卻,為賊所乘。世民帥精騎擊之,出其陳後,金剛大敗,斬首三千級。金剛輕騎走,世民追之數十里,至張難堡。浩州行軍總管樊伯通﹑張德政據堡自守,世民免冑示之,堡中喜噪且泣。左右吿以王不食,獻濁酒﹑脫粟飯。

尉遲敬德收餘眾守介休,世民遣任城王道宗﹑宇文士及往諭之,敬德與尋相擧介休及永安降。世民得敬德,甚喜,以為右一府統軍,使將其舊眾八千,與諸營相參。屈突通慮其變,驟以為言,世民不聽。

劉武周聞金剛敗,大懼,棄幷州走突厥。金剛收其餘眾,欲復戰,眾莫肯從,亦與百餘騎走突厥。

世民至晉陽,武周所署僕射楊伏念以城降。唐儉封府庫以待世民,武周所得州縣皆入於唐。

未幾,金剛謀走上谷,突厥追獲,腰斬之。嵐州總管劉六兒從宋金剛在介休,秦王世民擒斬之。其兄季眞,棄石州,奔劉武周將馬邑高滿政,滿政殺之。

武周之南寇也,其內史令苑君璋諫曰:「唐主擧一州之眾,直取長安,所向無敵,此乃天授,非人力也。晉陽以南,道路險隘,縣軍深入,無繼於後,若進戰不利,何以自還!不如北連突厥,南結唐朝,南面稱孤,足為長策。」武周不聽,留君璋守朔州。 及敗,泣謂君璋曰:「不用君言,以至於此。」久之,武周謀亡歸馬邑,事泄,突厥殺之。突厥又以君璋為大行臺,統其餘眾,仍令郁射設督兵助鎮。

24-庚申,懷州總管黃君漢擊王世充太子玄應於西濟州,大破之;熊州行軍總管史萬寶邀之於九曲,又破之。

25-辛酉,王世充陷鄧州。

26-上聞幷州平,大悅。壬戌,宴群臣,賜繒帛,使自入御府,盡力取之。復唐儉官爵,仍以為幷州道安撫大使;所籍獨孤懷恩田宅資財,悉以賜之。

世民留李仲文鎮幷州,劉武周數遣兵入寇,仲文輒擊破之,下城堡百餘所。詔仲文檢校幷州總管。

27-五月,竇建德遣高士興擊李藝於幽州,不克,退軍籠火城。藝襲擊,大破之,斬首五千級。建德大將軍王伏寶,勇略冠軍中,諸將疾之,言其謀反,建德殺之,伏寶曰:「大王柰何聽讒言,自斬左右手乎!」

28-初,尉遲敬德將兵助呂崇茂守夏縣,上潛遣使赦崇茂罪,拜夏州刺史,使圖敬德,事泄,敬德殺之。敬德去,崇茂餘黨復據夏縣拒守。秦王世民引軍自晉州還攻夏縣,壬午,屠之。

29-辛卯,秦王世民至長安。

30-是月,突厥遣阿史那掲多獻馬千匹於王世充,且求婚;世充以宗女妻之,幷與之互市。

31-六月,壬辰,詔以和州總管﹑東南道行臺尚書令楚王杜伏威為使持節﹑總管江淮以南諸軍事﹑揚州刺史﹑東南道行臺尚書令﹑淮南道安撫使,進封吳王,賜姓李氏。以輔公祏為行臺左僕射,封舒國公。

32-丙午,立皇子元景為趙王,元昌為魯王,元亨為鄷王。

33-顯州行臺尚書令楚公楊士林,雖受唐官爵,而北結王世充,南通蕭銑;詔廬江王瑗與安撫使李弘敏討之。兵未行,長史田瓚為士林所忌,甲寅,瓚殺士林,降於世充,世充以瓚為顯州總管。

34-秦王世民之討劉武周也,突厥處羅可汗遣其弟步利設帥二千騎助唐。武周旣敗,是月,處羅至晉陽,總管李仲文不能制;又留倫特勒,使將數百人,云助仲文鎮守,自石嶺以北,皆留兵戍之而去。

35-上議擊王世充,世充聞之,選諸州鎮驍勇皆集洛陽,置四鎮將軍,募人分守四城。秋,七月,壬戌,詔秦王世民督諸軍擊世充。陝東道行臺屈突通二子在洛陽,上謂通曰:「今欲使卿東征,如卿二子何?」通曰:「臣昔為俘囚,分當就死,陛下釋縛,加以恩禮。當是之時,臣心口相誓,期以更生餘年為陛下盡節,但恐不獲死所耳。今得備先驅,二兒何足顧乎!」上歎曰:「徇義之士,一至此乎!」

36-癸亥,突厥遣使潛詣王世充,潞州總管李襲譽邀擊,敗之,虜牛羊萬計。

37-驃騎大將軍可朱渾定遠吿:「幷州總管李仲文與突厥通謀,欲俟洛陽兵交,引胡騎直入長安。」甲戌,命皇太子鎮蒲反以備之,又遣禮部尚書唐儉安撫幷州,蹔廢幷州總管府,徵仲文入朝。

38-壬午,秦王世民至新安。王世充遣魏王弘烈鎮襄陽,荊王行本鎮虎牢,宋王泰鎮懷州,齊王世惲檢校南城,楚王世偉守寶城,太子玄應守東城,漢王玄恕守含嘉城,魯王道徇守曜儀城,世充自將戰兵,左輔大將軍楊公卿帥左龍驤二十八府騎兵,右游擊大將軍郭善才帥內軍二十八府步兵,左游擊大將軍跋野綱帥外軍二十八府步兵,總三萬人,以備唐。弘烈﹑行本,世偉之子;泰,世充之兄子也。

39-梁師都引突厥﹑稽胡兵入寇,行軍總管段德操擊破之,斬首千餘級。

40-羅士信將前鋒圍慈澗,世充自將兵三萬救之。己丑,秦王將輕騎前覘世充,猝與之遇,眾寡不敵,道路險阨,為世充所圍。世民左右馳射,獲其左建威將軍燕琪,世充乃退。世民還營,塵埃覆面,軍不復識,欲拒之,世民免冑自言,乃得入。旦日,帥步騎五萬進軍慈澗;世充拔慈澗之戍,歸于洛陽。世民遣行軍總管史萬寶自宜陽南據龍門,將軍劉德威自太行東圍河內,上谷公王君廓自洛口斷其餉道,懷州總管黃君漢自河陰攻迴洛城;大軍屯於北邙,連營以逼之。世充洧州長史繁水張公謹與刺史崔樞以州城來降。

41-八月,丁酉,南寧西爨蠻遣使入貢。初,隋末蠻酋爨翫反,誅,諸子沒為官奴,棄其地。帝卽位,以翫子弘達為昆州刺史,令持其父屍歸葬;益州刺史段綸因遣使招諭其部落,皆來降。

42-己亥,竇建德共州縣令唐綱殺刺史,以州來降。

43-鄧州土豪執王世充所署剌史來降。

44-癸卯,梁師都石堡留守張擧帥千餘人來降。

45-甲辰,黃君漢遣校尉張夜叉以舟師襲迴洛城,克之,獲其將達奚善定,斷河陽南橋而還,降其堡聚二十餘。世充使太子玄應帥楊公卿等攻迴洛,不克,乃築月城於其西,留兵戍之。

世充陳於靑城宮,秦王世民亦置陳當之。世充隔水謂世民曰:「隋室傾覆,唐帝關中,鄭帝河南,世充未嘗西侵,王忽擧兵東來,何也?」世民使宇文士及應之曰:「四海皆仰皇風,唯公獨阻聲教,為此而來!」世充曰:「相與息兵講好,不亦善乎!」又 應之曰:「奉詔取東都,不令講好也!」至暮,各引兵還。

46-上遣使與竇建德連和,建德遣同安長公主隨使者俱還。

47-乙卯,劉德威襲懷州,入其外郭,下其堡聚。

48-九月,庚午,梁師都將劉旻以華池來降,以為林州總管。

49-癸酉,王世充顯州總管田瓚以所部二十五州來降;自是襄陽聲問與世充絕。

50-史萬寶進軍甘泉宮。丁丑,秦王世民遣右武衞將軍王君廓攻轘轅,拔之。王世充遣其將魏隱等擊君廓,君廓偽遁,設伏,大破之,遂東徇地,至管城而還。先是,王世充將郭士衡﹑許羅漢掠唐境,君廓以策擊卻之,詔勞之曰:「卿以十三人破賊一萬,自古以少制眾,未之有也。」

世充尉州剌史時德睿帥所部杞﹑夏﹑陳﹑隨﹑許﹑潁﹑尉七州來降。秦王世民以便宜命州縣官並依世充所署,無所變易,改尉州為南汴州,於是河南州縣相繼來降。

劉武周降將尋相等多叛去。諸將疑尉遲敬德,囚之軍中。行臺左僕射屈突通﹑尚書殷開山言於世民曰:「敬德驍勇絕倫,今旣囚之,心必怨望,留之恐為後患,不如遂殺之。」世民曰:「不然。敬德若叛,豈在尋相之後邪!」遽命釋之,引入臥內,賜之金,曰:「丈夫意氣相期,勿以小嫌介意,吾終不信讒言以害忠良,公宜體之。必欲去者,以此金相資,表一時共事之情也。」辛巳,世民以五百騎行戰地,登魏宣武陵。王世充帥步騎萬餘猝至,圍之。單雄信引槊直趨世民,敬德躍馬大呼,橫刺雄信墜馬,世充兵稍卻,敬德翼世民出圍。世民﹑敬德更帥騎兵還戰,出入世充陳,往返無所礙。屈突通引大兵繼至,世充兵大敗,僅以身免。擒其冠軍大將軍陳智略,斬首千餘級,獲排槊兵六千。世民謂敬德曰:「公何相報之速也!」賜敬德金銀一篋,自是寵遇日隆。

敬德善避矟,每單騎入敵陳中,敵叢矟刺之,終莫能傷,又能奪敵矟返剌之。齊王元吉以善馬矟自負,聞敬德之能,請各去刃相與校勝負,敬德曰:「敬德謹當去之,王勿去也。」旣而元吉刺之,終不能中。秦王世民問敬德曰:「奪矟與避矟,孰難?」敬德曰:「奪矟難。」乃命敬德奪元吉矟。元吉操矟躍馬,志在刺之,敬德須臾三奪其矟;元吉雖面相歎異,內甚恥之。

51-叛胡陷嵐州。

52-初,王世充以邴元眞為滑州行臺僕射。濮州刺史杜才幹,李密故將也,恨元眞叛密,詐以其眾降之。元眞恃其官勢,自往招慰,才幹出迎,延入就坐,執而數之曰:「汝本庸才,魏化置汝元僚,不建毫髮之功,乃構滔天之禍,今來送死,是汝之分!」遂斬之,遣人齎其首至黎陽祭密墓。壬午,以濮州來降。

53-突厥莫賀咄設寇涼州,總管楊恭仁擊之,為所敗,掠男女數千人而去。

54-丙戌,以田瓚為顯州總管,賜爵蔡國公。

55-冬,十月,甲午,王世充大將軍張鎮周來降。

56-甲辰,行軍總管羅士信襲王世充硤石堡,拔之。士信又圍千金堡,堡中人罵之。士信夜遣百餘人抱嬰兒數十至堡下,使兒啼呼,詐云「從東都來歸羅總管」。旣而相謂曰:「此千金堡也,吾屬誤矣。」卽去。堡中以為士信已去,來者洛陽亡人,出兵追之。士信伏兵於道,伺其門開,突入,屠之。

57-竇建德之圍幽州也,李藝吿急于高開道,開道帥二千騎救之,建德兵引去,開道因藝遣使來降。戊申,以開道為蔚州總管,賜姓李氏,封北平郡王。開道有矢鏃在頬,召醫出之,醫曰:「鏃深,不可出。」開道怒,斬之。別召一醫,曰:「出之恐痛。」又斬之。更召一醫,醫曰:「可出。」乃鑿骨,置楔其閒,骨裂寸餘,竟出其鏃;開道奏妓進膳不輟。

58-竇建德帥眾二十萬復攻幽州。建德兵已攀堞,薛萬均﹑薛萬徹帥敢死士百人從地道出其背,掩擊之,建德兵潰走,斬首千餘級。李藝兵乘勝薄其營,建德陳於營中,填塹而出,奮擊,大破之,建德逐北。至其城下,攻之,不克而還。

59-李密之敗也,楊慶歸洛陽,復姓楊氏。及王世充稱帝,慶復姓郭氏,世充以為管州總管,妻以兄女。秦王世民逼洛陽,慶潛遣人請降,世民遣總管李世勣將兵往據其城。慶欲與其妻偕來,妻曰:「主上使妾侍巾櫛者,欲結君之心也。今君旣辜付託,徇利求全,妾將如君何!若至長安,則君家一婢耳,君何用為!願送至洛陽,君之惠也。」慶不許。慶出,妻謂侍者曰:「若唐遂勝鄭,則吾家必滅;鄭若勝唐,則吾夫必死。人生至此,何用生為!」遂自殺。庚戌,慶來降,復姓楊氏,拜上柱國﹑郇國公。

時世充太子玄應鎮虎牢,軍於榮﹑汴之閒,聞之,引兵趣管城,李世勣擊卻之。使郭孝恪為書說榮州刺史魏陸,陸密請降。玄應遣大將軍張志就陸徵兵,丙辰,陸擒志等四將,擧州來降。陽城令王雄帥諸堡來降,秦王世民使李世勣引兵應之,以雄為嵩州刺史,嵩南之路始通。魏陸使張志詐為玄應書,停其東道之兵,令其將張慈寶且還汴州,又密吿汴州刺史王要漢使圖慈寶,要漢斬慈寶以降。玄應聞諸州皆叛,大懼,奔還洛陽。詔以要漢為汴州總管,賜爵郳國公。

60-王弘烈據襄陽,上令金州總管府司馬涇陽李大亮安撫樊﹑鄧以圖之。十一月,庚申,大亮攻樊城鎮,拔之,斬其將國大安,下其城柵十四。

61-蕭銑性褊狹,多猜忌。諸將恃功恣橫,好專誅殺,銑患之,乃宣言罷兵營農,實欲奪諸將之權。大司馬董景珍弟為將軍,怨望,謀作亂;事泄,伏誅。景珍時鎮長沙,銑下詔赦之,召還江陵。景珍懼,甲子,以長沙來降;詔峽州刺史許紹出兵應之。

62-雲州總管郭子和,先與突厥﹑梁師都相連結,旣而襲師都寧朔城,克之。又得突厥釁隙,遣使以聞,為突厥候騎所獲。處羅可汗大怒,囚其弟子升。子和自以孤危,請帥其民南徙,詔以延州故城處之。

63-張擧﹑劉旻之降也,梁師都大懼,遣其尚書陸季覽說突厥處羅可汗曰:「比者中原喪亂,分為數國,勢均力弱,故皆北面歸附突厥。今定楊可汗旣亡,天下將悉為唐有。師都不辭灰滅,亦恐次及可汗。不若及其未定,南取中原,如魏道武所為,師都請為鄕導。」處羅從之,謀使莫賀咄設入自原州,泥步設與師都入自延州,突利可汗與奚﹑霫﹑契丹﹑靺鞨入自幽州,會竇建德之師自滏口西入,會于晉﹑絳。莫賀咄者,處羅之弟咄苾也;突利者,始畢之子什鉢苾也。

處羅又欲取幷州以居楊政道,其羣臣多諫,處羅曰:「我父失國,賴隋得立,此恩不可忘!」將出師而卒。義成公主以其子奧射設醜弱,廢之,更立莫賀咄設,號頡利可汗。乙酉,頡利遣使吿處羅之喪,上禮之如始畢之喪。

64-戊子,安撫大使李大亮取王世充沮﹑華二州。

65-是月,竇建德濟河擊孟海公。

初,王世充侵建德黎陽,建德襲破殷州以報之。自是二國交惡,信使不通。及唐兵逼洛陽,世充遣使求救於建德。建德中書侍郞劉彬說建德曰;「天下大亂,唐得關西,鄭得河南,夏得河北,共成鼎足之勢。今唐擧兵臨鄭,自秋涉冬,唐兵日增,鄭地日蹙,唐強鄭弱,勢必不支。鄭亡,則夏不能獨立矣。不如解仇除忿,發兵救之,夏擊其外,鄭攻其內,破唐必矣。唐師旣退,徐觀其變,若鄭可取則取之,幷二國之兵,乘唐師之老,天下可取也。」建德從之,遣使詣世充,許以赴援。又遣其禮部侍郞李大師等詣唐,請罷洛陽之兵,秦王世民留之,不答。

66-十二月,辛卯,王世充許﹑亳等十一州皆請降。

67-壬辰,燕郡王李藝又擊竇建德軍於籠火城,破之。

68-辛丑,王世充隨州總管徐毅擧州降。

69-癸卯,峽州剌史許紹攻蕭銑荊門鎮,拔之。紹所部與梁﹑鄭鄰接,二境得紹士卒,皆殺之,紹得二境士卒,皆資給遣之。敵人愧感,不復侵掠,境內以安。

70-蕭銑遣其齊王張繡攻長沙,董景珍謂繡曰:「『前年醢彭越,往年殺韓信』,卿不見之乎,何為相攻!」繡不應,進兵圍之。景珍欲潰圍走,為麾下所殺;銑以繡為尚書令。繡恃功驕橫,銑又殺之。由是功臣諸將皆有離心,兵勢益弱。

71-王世充遣其兄子代王琬﹑長孫安世詣竇建德報聘,且乞師。

72-突厥倫特勒在幷州,大為民患,幷州總管劉世讓設策擒之。上聞之,甚喜。張道源從竇建德在河南,密遣人詣長安,請出兵攻洺州以震山東。丙午,詔世讓為行軍總管,使將兵出土門,趣洺州。

73-己酉,瓜州刺史賀拔行威執驃騎將軍達奚暠,擧兵反。

74-是歲,李子通渡江攻沈法興,取京口。法興遣其僕射蔣元超拒之,戰於庱亭,元超敗死,法興棄毘陵,奔吳郡。於是丹楊﹑毘陵等郡皆降於子通。子通以法興府掾李百藥為內史侍郞﹑國子祭酒。

杜伏威遣行臺左僕射輔公祏將卒數千攻子通,以將軍闞稜﹑王雄誕為副。公祏渡江攻丹楊,克之,進屯溧水,子通帥眾數萬拒之。公祏簡精甲千人,執長刀為前鋒;又使千人踵其後,曰:「有退者卽斬之。」自帥餘眾,復居其後。子通為方陳而前,公祏前鋒千人殊死戰,公祏復張左右翼以擊之,子通敗走,公祐逐之,反為所敗,還,閉壁不出。王雄誕曰:「子通無壁壘,又狃於初勝,乘其無備,擊之可破也。」公祏不從。雄誕以其私屬數百人夜出擊之,因風縱火,子通大敗,降其卒數千人。子通食盡,棄江都,保京口,江西之地盡入於伏威,伏威徙居丹楊。

子通復東走太湖,收合亡散,得二萬人,襲沈法興於吳郡,大破之。法興帥左右數百人棄城走,吳郡賊帥聞人遂安遣其將葉孝辯迎之,法興中塗而悔,欲殺孝辯,更向會稽。孝辯覺之,法興窘迫,赴江溺死。子通軍勢復振,帥其群臣徙都餘杭,盡收法興之 地,北自太湖,南至嶺,東包會稽,西距宣城,皆有之。

75-廣﹑新二州賊帥高法澄﹑沈寶徹殺隋官,據州,附於林士弘,漢陽太守馮盎擊破之。旣而寶徹兄子智臣復聚兵於新州,盎引兵擊之。戰始合,盎免冑大呼曰:「爾識我乎?」賊多棄仗肉袒而拜,遂潰,擒寶徹﹑智臣等,嶺外遂定。

76-竇建德行臺尚書令恆山胡大恩請降。

武德四年(辛巳,六二一)

1-春,正月,癸酉,以大恩為代州總管,封定襄郡王,賜姓李氏。代州石嶺之北,自劉武周之亂,寇盜充斥,大恩徙鎮雁門,討擊,悉平之。

2-稽胡酋帥劉仚成部落數萬,為邊寇;辛巳,詔太子建成統諸軍討之。

3-王世充梁州總管程嘉會以所部來降。

4-杜伏威遣其將陳正通﹑徐紹宗帥精兵二千,來會秦王世民擊王世充,甲申,攻梁,克之。

5-丙戌,黔州刺史田世康攻蕭銑五州﹑四鎮,皆克之。

6-秦王世民選精銳千餘騎,皆皀衣玄甲,分為左右隊,使秦叔寶﹑程知節﹑尉遲敬德﹑翟長孫分將之。每戰,世民親被玄甲帥之為前鋒,乘機進擊,所向無不摧破,敵人畏之。行臺僕射屈突通﹑贊皇公竇軌引兵按行營屯,猝與王世充遇,戰不利。秦王世民帥玄甲救之,世充大敗,獲其騎將葛彦璋,俘斬六千餘人,世充遁歸。

7-李靖說趙郡王孝恭以取蕭銑十策,孝恭上之。二月,辛卯,改信州為夔州,以孝恭為總管,使大造舟艦,習水戰。以孝恭未更軍旅,以靖為行軍總管,兼孝恭長史,委以軍事。靖說孝恭悉召巴﹑蜀酋長子弟,量才授任,置之左右,外示引擢,實以為質。

8-王世充太子玄應將兵數千人,自虎牢運糧入洛陽,秦王世民遣將軍李君羨邀擊,大破之,玄應僅以身免。

世民使宇文士及奏請進圍東都,上謂士及曰:「歸語爾王:今取洛陽,止欲息兵。克城之日,乘輿法物,圖籍器械,非私家所須者,委汝收之。其餘子女玉帛,並以分賜將士。」

辛丑,世民移軍靑城宮,壁壘未立,王世充帥眾二萬自方諸門出,憑故馬坊垣塹,臨穀水以拒唐兵,諸將皆懼。世民以精騎陳於北邙,登魏宣武陵以望之,謂左右曰:「賊勢窘矣,悉眾而出,徼幸一戰,今日破之,後不敢復出矣!」命屈突通帥步卒五千渡水擊之,戒通曰:「兵交則縱煙。」煙作,世民引騎南下,身先士卒,與通合勢力戰。世民欲知世充陳厚薄,與精騎數十沖之,直出其背,眾皆披靡,殺傷甚眾。旣而限以長堤,與諸騎相失,將軍丘行恭獨從世民,世充數騎追及之,世民馬中流矢而斃。行恭囘騎射追者,發無不中,追者不敢前。乃下馬以授世民,行恭於馬前步執長刀,距躍大呼,斬數人,突陳而出,得入大軍。世充亦帥眾殊死戰,散而復合者數四,自辰至午,世充兵始退。世民縱兵乘之,直抵城下,俘斬七千人,遂圍之。驃騎將軍段志玄與世充兵力戰,深入,馬倒,為世充兵所擒,兩騎夾持其髻,將渡洛水,志玄踴身而奮,二人俱墜馬。志玄馳歸,追者數百騎,不敢逼。

初,驃騎將軍王懷文為唐軍斥候,為世充所獲,世充欲慰悅之,引置左右。壬寅,世充出右掖門,臨洛水為陳,懷文忽引槊刺世充,世充衷甲,槊折不能入,左右猝出不意,皆愕眙不知所為。懷文走趣唐軍,至寫口,追獲,殺之。世充歸,解去衷甲,袒示羣臣曰:「懷文以槊刺我,卒不能傷,豈非天所命乎!」

先是,御史大夫鄭頲不樂仕世充,多稱疾不預事,至是謂世充曰:「臣聞佛有金剛不壞身,陛下眞是也!臣實多幸,得生佛世,願棄官削髮為沙門,服勤精進,以資陛下之神武。」世充曰:「國之大臣,聲望素重,一旦入道,將駭物聽。俟兵革休息,當從公志。」頲固請,不許。退謂其妻曰:「吾束髮從官,志慕名節,不幸遭遇亂世,流離至此,側身猜忌之朝,累足危亡之地,智力淺薄,無以自全。人生會有死,早晩何殊,姑從吾所好,死亦無憾!」遂削髮被僧服。世充聞之,大怒曰:「爾以我為必敗,欲苟免邪?不誅之,何以制眾!」遂斬頲於市。頲言笑自若,觀者壯之。

詔贈王懷文上柱國﹑朔州刺史。

9-幷州安撫使唐儉密奏:「眞鄕公李仲文與妖僧志覺有謀反語,又娶陶氏之女以應桃李之謠。諂事可汗,甚得其意,可汗許立為南面可汗。及在幷州,贓賄狼藉。」上命裴寂﹑陳叔達﹑蕭瑀雜鞫之。乙巳,仲文伏誅。

10-庚戌,王泰棄河陽走,其將趙夐等以城來降。別將單雄信﹑裴孝達與總管王君廓相持於洛口,秦王世民帥步騎五千援之,至轘轅,雄信等遁去,君廓追敗之。

11-壬子,延州總管段德操擊劉仚成,破之,斬首千餘級。

12-乙卯,王世充懷州刺史陸善宗以城降。

13-秦王世民圍洛陽宮城,城中守禦甚嚴,大礮飛石重五十斤,擲二百步,八弓弩箭如車輻,鏃如巨斧,射五百步。世民四面攻之,晝夜不息,旬餘不克。城中欲翻城者凡十三輩,皆不果發而死。唐將士皆疲弊思歸,總管劉弘基等請班師。世民曰:「今大擧而來,當一勞永逸。東方諸州已望風款服,唯洛陽孤城,勢不能久,功在垂成,柰何棄之而去!」乃下令軍中曰:「洛陽未破,師必不還,敢言班師者斬!」眾乃不敢復言。上聞之,亦密敕世民使還,世民表稱洛陽必可克,又遣參謀軍事封德彝入朝面論形勢。德彝言於上曰:「世充得地雖多,率皆羈屬,號令所行,唯洛陽一城而已,智盡力窮,克在朝夕。今若旋師,賊勢復振,更相連接,後必難圖!」上乃從之。世民遣世充書,諭以禍福;世充不報。

14-戊午,王世充鄭州司兵沈悅遣使詣左武候大將軍李世勣請降。左衞將軍王君廓夜引兵襲虎牢,悅為內應,遂拔之,獲其荊王行本及長史戴冑。悅,君理之孫也。

15-竇建德克周橋,虜孟海公。

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