利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

武帝紀

八年(二〇三)春三月、その城郭を攻めると、(袁譚らが)戦いに出てきたので、撃ち、大いに打ち破った。袁譚・袁尚は夜中に遁走した。夏四月、軍を鄴に進めた。五月、許に帰還し、賈信を留めて黎陽に屯させた。

己酉、布令を下した。「『司馬法』に『将軍はに死す』とある。[一]それゆえ趙括の母は、趙括に連坐しないよう請願したのである。これは古代の将軍が外部で軍勢を破滅させたとき、家族が内部で罪を被ったということである。将に命じて征討に行かせるとき、ただ功績を賞するだけで罪過を罰しないのは、もとより国典に沿うものではない。そこで諸将に出征を命じたとき、軍勢を破滅させた者は罪過に抵触するものとし、勝機を逃した者は官爵を罷免する。」[二]

[一] 『魏書』に言う。綏とは退却のことである。一尺の前進はあっても一寸の退却はない。

[二] 『魏書』に載せる庚申の布令に言う。「提議する者のなかには、軍吏に功能があったとしても、郡国委任の人選には徳行の点で堪えられないという者がある。いわゆる『ともに道をくべきも、いまだをともにすべからず』(『論語』)である。管仲は言っている。『賢者を能力によって食わせれば、お上は尊くなり、闘士を功績によって食わせれば、兵卒は死を軽んずる。この二つが国家に備われば、天下は治まる』と。無能の人、不闘の士がそろって俸禄賞賜を受け、それによって功績を立てて国を興すことができた者など聞いたことがない。それゆえ明君は功績なき臣下に官職を与えず、戦わざる兵士に賞賜を与えないのだ。治平の世では徳行を尊び、有事の世では功能を賞するもの。論者の言葉は、まことで虎を窺うようなものであろうか!」

秋七月、布令を下した。「騒乱の世が到来してから十五年、若者たちは仁義礼譲の気風を体験していない。吾ははなはだ残念に思う。そこで郡国に命令を下しておのおの文学を修めさせることとし、県が五百戸以上であれば校官を設置し、その郷里の俊英・造士を選抜して学問を授けよ。願わくば先王の道を廃れさせず、天下に益あらんことを。」

八月、公は劉表を征討し、西平に布陣した。公が鄴を引き払って南に向かったとき、袁譚・袁尚は冀州を争い、袁譚が袁尚に敗れて逃走し、平原に楯籠った。袁尚はそれを厳しく攻め立てたが、袁譚は辛毗を派遣して(公に)降服を乞い、救援軍を求めた。諸将はみな逡巡したが、荀攸はそれを許可してやるよう公に勧めた。[一]公はそこで軍勢をまとめて帰還した。冬十月、黎陽に着陣し、子の曹整を袁譚と縁組みさせた。[二]袁尚は公が北進してきたと聞き、平原(の包囲)を解いて鄴に帰還した。東平の呂曠・呂詳は袁尚に叛いて陽平に屯し、その軍勢を率いて(公に)投降し、列侯に封ぜられた。[三]

[一] 『魏書』に言う。公は言った。「我が呂布を攻めたとき、劉表は侵害してこなかったし、官渡の役でも袁紹を救援しなかった。こやつは保身の賊であって攻略は後回しでよい。袁譚・袁尚は狡猾であり、彼らの混乱に乗じるべきだ。たとい袁譚が詐術を用い、最後まで手を束ねてはいないとしても、我が袁尚を打ち破り、彼らの土地のうち半分を手に入れられるならば利益は自然と多くなる。」そこでこれを許可した。

[二] 臣裴松之は考える。袁紹が死んでから、このときまで一周忌と五ヶ月を経過しただけである。袁譚は家を出て伯父(袁基)の後を継いだとはいえ、袁紹のために三年の喪に服さず、そのくせ二年のうちに吉礼を行うのは悖徳である。魏武はあるいは便宜的に彼と約束したもので、いま結婚と言っているのは、必ずしもこの年に婚礼を済ませたとは限らない、ということだろうか。

[三] 『魏書』に言う。袁譚は包囲から解放されたとき、密かに将軍の印綬を呂曠にした。呂曠は印を受け取り、それを(公に)送った。公は言った。「我は最初から袁譚が小細工を弄していることは知っていた。(袁譚は)我に袁尚を攻めさせ、その隙に民衆を誘拐して軍勢を集め、袁尚が破られれば、自分が強くなって我の疲弊に乗じるつもりなのだ。袁尚が破られれば我が盛強になるのだから、どうして疲弊に乗じることができようか?」

九年(二〇四)春正月、黄河を渡り、淇水を堰き止めて白溝に流し、食糧輸送路を通じさせた。二月、袁尚は再び袁譚を攻撃し、蘇由・審配を鄴の守備に残した。公が軍勢を進めて洹水に着陣すると、蘇由は投降してきた。到着するなり鄴を攻撃にかかり、土山・地道を掘った。武安県長の尹楷毛城に屯し、上党と糧道を繋いでいた。夏四月、曹洪を残して鄴を攻撃させ、公は尹楷攻撃(の軍勢)を自ら率い、彼を撃破して帰還した。袁尚の将沮鵠邯鄲を守っていたが、[一]またも攻撃してこれを陥落させた。易陽県令の韓範県長の梁岐が県を挙げて投降したので、関内侯の爵位を賜った。五月、土山・地道を壊して包囲の壍壕を作り、漳水を決壊させて城を水没させた。城内で餓死する者は半数を越えた。秋七月、袁尚は鄴救援のために引き返してきた。諸将たちはみな言った。「これは『帰師』(帰還する軍勢)というもので、一人ひとりが自ら戦おうといたします。これを避けるに越したことはありますまい。」公は言った。「袁尚が大道から来るならば避けるべきだ。もし西山に沿って来るならば、奴めは擒になるだけだ。」袁尚は果たして西山に沿って来て、滏水に臨んで陣営を築いた。[二]夜中、(袁尚が)軍勢をやって包囲陣を襲ってきたので、公は迎え撃って潰走させ、そのまま彼らの陣営を包囲した。まだ(包囲陣が)完成せぬうち、袁尚は恐怖を抱き、故の予州刺史陰夔および陳琳が投降を願い出たが、公は許さず、包囲をますます厳しくした。袁尚が夜中に遁走して祁山に楯籠ったので、それを追撃した。その将馬延・張顗らが戦闘を前にして降ったので、軍勢は大潰滅し、袁尚は中山に逃走した。彼らの輜重をことごとく獲得し、袁尚の印綬・節鉞を手に入れ、袁尚からの降人をその家族への見せしめにさせると、(鄴の)城内の者は意気沮喪した。八月、審配の兄の子審栄が、夜中、守っていた城の東門を開いて軍勢をれた。審配は迎撃のすえ敗北した。審配を生け捕りにして、これを斬首し、鄴は平定された。公は袁紹の墓に赴いて祭祀を行い、彼のために大声で泣いて涙を流した。袁紹の妻を慰労し、その家人や宝物を返してやり、色違いの絹や綿を賜い、食糧を官より支給した。[三]

[一] 沮の音は菹(ソ)で、河北のあたりでは今なおこの姓がある。沮鵠は沮授の子である。

[二] 『曹瞞伝』に言う。斥候をやると、いくつかの部隊が前後して馳せ参じ、どれもが「間違いなく西道を通っており、すでに邯鄲に着きました」と言っていた。公は大いに喜び、諸将を集めて言った。「孤はもう冀州を手に入れてしまったぞ。諸君らにはそれが分かるかね?」みな言った。「分かりません。」公は言った。「諸君らは間もなく目の当たりにするだろう。」

[三] 孫盛は言う。むかし先代の王者が誅伐と褒賞を行ったのは、悪を懲らしめ善を勧め、末永く戒めを明らかにするためであった。袁紹は世の中の危難を利用し、ついには叛逆の企てを抱き、上は神聖なる器物を狙い、下は国家の風紀を犯した。社に奉って宅を汚すのが古代の制度である。それなのに逆臣の冢で哀悼を尽くし、貪欲な家に恩寵を加えるとは。政治を行う道はここにつまづいた。そもそも恨みを隠しつつ他人と友達付き合いするのは、前代の哲人たちが恥じるところであり、旧宅に馬車馬を休ませるとしても、空涙を流さないのが義理というもので、いやしくも道義に外れ友好を絶ったのであれば、どうして彼のために大声で泣くなどということがあろうか!むかし漢の高祖が氏に対してその失敗をし、魏武はこの行為で誤謬を踏襲してしまった。百慮の一失でないといえようか。

むかし袁紹が公とともに挙兵したとき、袁紹は公に訊ねたことがある。「もし計画がうまく行かなかったら、どの場所に向かって根拠とすべきでしょうか?」公は言った。「足下のお考えはどのようなものですか?」袁紹は言った。「吾は、南は黄河を拠点にして北は燕・代を頼み、戎狄の人数を兼併します。南に向かって天下を争うならば、まあ成功できそうですが?」公は言った。「吾は天下の智力に任せ、道義によって彼らを統御します。不可能はありますまい。」[一]

[一] 『傅子』に言う。太祖はこうも言った。「湯・武の王者は、はたして土地を同じくしたでしょうか?もし険固さを元手にしたならば、時機に対応して変化することができませんぞ。」

九月、布令を下して言った。「河北では袁氏の災難にかかった。そこで今年の租税賦役は供出させないように!」豪強が兼併する(のを制限する)法律を厳重にしたので、百姓たちは喜悦した。[一]天子が公を領冀州牧とすると、公は兗州を辞退返上した。

[一] 『魏書』に載せる公の布令に言う。「国があり、家があれば、少ないことを心配せず不平等であることを心配し、貧しいことを心配せず不安定であることを心配するものだ。袁氏の統治では、豪強には好き勝手させ、親戚には兼併させていた。下層の民衆は貧弱なのに租税賦役の供出を肩代わりし、家財を路上で売りに出しても命令に応じるには不足した。審配一門は罪人どもを隠匿し、逃亡者の君主になるまでに至った。百姓たちを懐かせて武装兵を盛強にしたいと思っても、どうして可能であろうか!そこで一畝あたり四升の田租を徴収し、一戸あたり絹二匹・綿二斤づつを供出させるに留め、それ以外には勝手に徴発させないようにする。郡国の守相ははっきりとこれを検察し、強き民に隠匿させたり、弱き民から賦役を二重に取ったりさせぬようにせよ。」

公が鄴を包囲したとき、袁譚は甘陵・安平・勃海・河間を攻略していた。袁尚が敗走して中山に引き揚げると、袁譚はそれを攻撃して袁尚を故安に駆逐し、そのまま彼の軍勢を併合してしまった。公は袁譚に手紙を送って違約を責め、彼との婚姻を絶った。(袁譚の)女を帰し、そのあとで進軍した。袁譚は恐怖し、平原が陥落すると、逃走して南皮に楯籠った。十二月、公は平原に入城し、諸県を攻略平定した。

十年(二〇五)春正月、袁譚を攻撃してこれを打ち破り、袁譚を斬首し、その妻子を誅殺した。冀州は平定された。[一]布令を下して言った。「さあ袁氏とともに悪事を行っていた者たちよ、一緒に革新しよう。」民衆には私怨による復讐をさせず、手厚い葬礼を禁止するよう命じ、全て法律によって一元化した。同月、袁煕の大将焦触・張南らが寝返って袁煕・袁尚を攻撃したので、袁煕・袁尚は三郡の烏丸のもとへと遁走した。焦触らがその県をこぞって投降したので、列侯に封じた。はじめ袁譚を討伐したとき、民衆が氷を叩く仕事から逃亡したので、[二](死刑以外を認めず)降服させないようにと命令した。しばらくして、逃亡した民衆のうち門前に自首した者があった。公は言った。「汝を赦せば法令に違背したことになり、汝を殺せば自首した者を処刑したことになる。奥深く逃げて我が身を隠し、役人に捕まらぬよういたせ。」民は涙を流しながら立ち去ったが、あとで結局逮捕されてしまった。

[一] 『魏書』に言う。公は袁譚を攻撃したが、夜明けから日中に及ぶまで決着が付かなかった。公はそこで自らを手に取って太鼓を叩いた。士卒はみな奮い立ち、あっという間に陥落させた。

[二] 臣裴松之は考える。袁譚を討伐したとき、川や運河の氷が凍結しており、民衆に氷を叩いて船を通させたのだが、民衆は役務を嫌がって逃亡したのである。

夏四月、黒山賊の張燕がその軍勢十万人余りを率いて投降したので、列侯に封じた。故安の趙犢・霍奴らが幽州刺史・涿郡太守を殺害した。三郡の烏丸が獷平において鮮于輔を攻撃した。[一]秋八月、公はこれらを征討し、趙犢らを斬首した。そのあと潞河を渡って獷平を救援すると、烏丸は逃走して塞外(万里長城の外)に出た。

[一] 『続漢書』郡国志に言う。獷平は県名で、漁陽郡に属している。

九月、布令を下して言った。「徒党を組んで悪事をなすのは、先代の聖人の憎むところである。聞くところによると、冀州の風俗では父子が部落を別々にし、互いに毀誉褒貶しあうということだ。むかし直不疑は兄もいないのに、世間からを盗んだと言われ、第五伯魚は親のない女を三たび娶ったが、妻の父を打ったと言われ、王鳳が権力を欲しいままにしていたのに、谷永は彼を申伯になぞらえ、王商は忠義な議論をしたが、張匡はそれを邪道だと言った。これらはみな白を黒とし、天を欺き君をしいるものである。吾は風俗を整えたいと思う。(以上の)四つのものが取り除かれないことを吾は恥ずかしく思う。」冬十月、公は鄴に帰還した。

かつて袁紹は甥の高幹領幷州牧としていたが、公は鄴を陥落させたとき、高幹が降服したのでそのまま刺史とした。(しかし)高幹は公が烏丸を征討していると聞き、州をこぞって叛逆し、上党太守を人質に取り、挙兵して壺関口を守った。楽進・李典を派遣してこれを攻撃させると、高幹は引き返して壺関城に楯籠った。十一年(二〇六)春正月、公は高幹を征討した。高幹はそれを聞くや、その別働隊の将を残して城を守らせ、匈奴に逃げ込んで単于に救援を求めたが、単于は受け入れなかった。公は壺関を包囲すること三月、これを陥落させた。高幹はついに荊州へと逃走したが、上洛都尉王琰が彼を捕らえて斬首した。

秋八月、公は東進して海賊管承を征伐し、淳于に着陣すると、楽進・李典を派遣してこれを撃破させた。管承は海島に逃げ込んだ。東海の襄賁・剡・戚を分割して琅邪に編入し、昌慮郡を廃止した。[一]

[一] 『魏書』に載せる十月乙亥の布令に言う。「そもそも世を治めて民衆を統御し、輔弼を立てる場合、戒めるべきは面従にある。『詩(経)』では『我が計略を用いよ、願わくば大悔なきことを』と言っている。それこそ実に君臣が心底追い求めるものである。吾は重任に充てられ、いつも中庸から外れてしまうことを恐れているのに、毎年毎年、よき計略を聞けないでいる。吾が才人賢者の受け入れに熱心でなかったせいであろうか?自今以後、もろもろの掾属・治中・別駕たちは毎月一日が来るたび、おのおのその失敗について名状せよ。吾はそれを見てやろう。」

三郡の烏丸らは天下の混乱に乗じ、幽州を破壊し、漢の民衆合わせて十万戸余りをさらった。袁紹はその酋長をみな立てて単于とし、家人の子を我が女だといって娶らせた。遼西単于の蹋頓が最も強力で、袁紹に厚遇されていた。そのため袁尚兄弟は彼に身を寄せ、何度も塞内(万里長城の内)に侵入して害をなしたのである。公はこれを征討しようと、運河を掘り、呼から泒水へと水を流し、平虜渠と名付けた。また泃河口から掘り進めて潞河に水を流し、泉州渠と名付け、海に通じさせた。

十二年(二〇七)春二月、公は淳于から鄴に帰還した。丁酉、布令を下して言った。「吾が暴虐乱臣を誅伐せんと義兵を起こしてから、今まで十九年になる。遠征した先では必ず勝利を収めたが、はたして吾の功績であろうか?それは賢士大夫たちの尽力なのである。天下はまだ完全に平定されてはいないが、吾はきっと賢士大夫たちとともに一緒に平定してゆくのだろう。それなのにその報いを独り占めしているのだから、吾はどうして落ち着いていられようか!そこで功績を定めて封侯を行うよう急がせる。」このとき功臣二十人余りが大国に封ぜられ、みな列侯となり、その他の各人も席次に従って封爵を受けた。また殉職者の孤児にもは及び、軽重はおのおの格差があった。[一]

[一] 『魏書』に載せる公の布令に言う。「むかし趙奢・竇嬰は将になると、千金を賜っても一日で使い果たし、そのため大きな功績を完成させ、永世の名声を得ることになった。吾はその文を読むと、ずっとその人となりを慕わずにはいられなかった。諸将・士大夫と一緒に軍事に従事し、幸いなことに、賢人たちがその計略を惜しむことなく、諸士がその力量を残すことのないのを頼みにでき、それによって険阻をらげ、混乱を収めることができたのだ。そして吾は大それたご褒美を盗み、食邑は三万戸になっている。竇嬰が黄金を使い果たした義挙を追慕し、いまお受けしている租税を分割し、諸将・掾属および古くから陳・蔡を守っていた者たちに与え、みなの労苦に報い、大いなる恩恵を独り占めしないようにしたい。殉職者の孤児を差別し、年貢米を彼らに支給するように。もし豊年となって費用をまかない、租税をすっかりご奉納できたら、大いに民衆たちをこぞって、それを一緒に享受しようぞ。」

北進して三郡の烏丸を征伐しようとしたが、諸将たちはみな言った。「袁尚がどもに身を寄せたまでのことです。夷狄どもが(彼を)利用したとしても親しくなることはなく、どうして袁尚のために働いたりいたしましょう?(もう中国を侵略することはありますまい。)いま深く侵入して彼らを征討するならば、劉備はきっと劉表を説得して許を襲撃させるでしょう。万一変事が起こったならば後悔しても及びませんぞ。」ただ郭嘉だけは、劉表はきっと劉備を任用できまいと計算し、公に行軍を勧めた。夏五月、無終に到着した。秋七月、洪水となり、海岸沿いの道は不通になった。田疇郷導(道案内)したいと申し出たので、公はそれを聞き入れた。軍勢を率いて盧龍塞を出たが、塞外の道は断絶して不通であったため、山をって谷をぐこと五百里余り、白檀を経過し、平岡を通過し、鮮卑の地を渉り、東へと柳城を目指した。二百里手前まで来て、虜どもはやっとそれに気付いた。袁尚・袁煕は蹋頓・遼西単于楼班右北平単于能臣抵之らとともに数万騎を率いて迎え撃つ。八月、(公は)白狼山に登ったが、卒然として虜どもに遭遇した。(敵の)軍勢は極めて盛強である。公の車重は後方にあり、具足を身に着けている者は少なく、左右の者はみな恐怖した。公は高みに登り、虜どもの陣列が整っていないのを見やると、兵を放って攻撃し、張遼を先鋒とすると、虜どもの軍勢は大いに崩れた。蹋頓および名王以下を斬り、降服した胡人・漢人は二十万人余りになった。遼東単于速僕丸および遼西・北平のもろもろの豪勇たちは、その種族の人々を棄てて袁尚・袁煕とともに遼東へと遁走し、軍勢はまだ数千騎が残されていた。むかし遼東太守公孫康は、遠方であるのを頼みとして服従しなかった。公が烏丸を破ったとき、ある者が「そのまま彼を征討すれば袁尚兄弟をにすることができます」と公を説得した。公は言った。「吾はこれから公孫康に袁尚・袁煕の首を斬って送らせよう。軍隊を煩わせることはない。」九月、公が軍勢をまとめて柳城から帰還すると、[一]公孫康はすぐさま袁尚・袁煕および速僕丸らを斬り、その首を送ってきた。諸将のうち問う者があった。「公が帰還なさると、公孫康は袁尚・袁煕を斬って送って参りました。なぜでしょうか?」公は言った。「彼は平素より袁尚らを恐れておった。吾がそれを締め付ければ力を合わせるが、それを緩めてやれば自分から争い合う。その勢いから当然なのである。」十一月、易水に到着すると、代郡烏丸の行単于普富盧上郡烏丸の行単于那楼がその名王を引き連れて祝賀に馳せ参じた。

[一] 『曹瞞伝』に言う。ときに寒中であるうえ旱にもなり、二百里にわたって水がなく、軍はそのうえ食糧にも欠乏しており、馬数千匹を殺して軍糧とし、地面を掘り、三十丈余りも潜ってようやく水を得ていた。帰還するなり以前に諫言した者たちについて科問した。軍中でその理由を知る者はなく、人々はみな恐怖した。公は彼らをみな手厚く賞して言った。「孤が以前に行軍したとき、危険を乗り越えられたのは僥倖であり、うまくいったとはいえ天祐あればこそであった。それゆえ通常のこととする訳にはいかぬ。諸君の諫言は万全の計略であり、それゆえ恩賞を取らせるのだ。今後もそうした発言を渋らないでくれよ。」