利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

武帝紀

十三年(二〇八)春正月、公は鄴に帰還し、玄武池を作って水軍を(調練)した。漢朝は三公の官を廃止して丞相・御史大夫を設置、夏六月に公を丞相とした。[一]

[一] 『献帝起居注』に言う。太常徐璆を使者として(曹公に)印綬を授けた。御史大夫は御史中丞を管轄せず、長史一人を設置した。『先賢行状』に言う。徐璆は字を孟平といい、広陵の人である。若いころから清廉さを実践し、朝廷にあっては折り目正しかった。任城・汝南・東海三郡(の太守)を歴任し、至るところで教化が行き届いた。お召しを受けて帰ろうとしたところ、袁術に拘束されてしまった。袁術は尊号を僭称すると上公の位を授けようとしたが、徐璆は最後まで屈服しなかった。袁術の死後、徐璆は袁術の印璽を手に入れて漢朝に送り、衛尉・太常を拝命した。公は丞相になると、位を徐璆に譲ったのであった。

秋七月、公は南進して劉表を征討した。八月に劉表が卒去し、その子劉琮が跡を継いで襄陽に屯し、劉備がに屯した。九月、公が新野に到達したところで、劉琮はついに降服し、劉備は夏口に逃走した。公は江陵に軍勢を進め、荊州の官吏民衆に布令を下し、ともに改革を始めることとした。そこで荊州帰服の功績を賞したところ、侯に封ぜられた者は十五人であった。劉表の大将文聘江夏太守として元の軍勢を統括させ、荊州の名士韓嵩・鄧義らを登用した。[一]益州牧劉璋が初めて軍役に応じ、軍勢を派遣して人数を補充した。十二月、孫権が劉備に荷担して合肥に攻め上った。公は劉備を征討しつつ江陵から巴丘へと進み、張熹を派遣して合肥を救援させた。孫権は張熹の到着を聞いて逃走した。公は赤壁に着陣したが、劉備との戦いは不利であった。このとき疫病が大流行して官吏・兵士が数多く死んだため、軍勢をまとめて帰還した。劉備はかくて荊州のうち長江南岸の諸郡を領有した。[二]

[一] 衛恒の『四体書勢』の序文に言う。上谷王次仲は隷書に巧みで、楷書を創始した。霊帝が書を好んだことから、世間では巧みな者が多くいた。しかしながら師宜官が最高峰であって、その才能をはなはだ鼻にかけていた。書をなせば、そのつど(筆跡を盗まれないように)札を削ったり燃やしたりした。梁鵠はそこで数多くのを作っておいて彼に酒を呑ませ、彼が酔ったのを見計らってその札を盗み出した。梁鵠はついに書のみさによって選部尚書まで昇った。そのとき公は洛陽の県令になりたく思っていたが、梁鵠は彼を北部尉とした。梁鵠はのちに劉表に身を寄せた。荊州が平定されたとき、公は賞金付きで梁鵠を探させ、梁鵠が恐怖を抱いて自分の身を縛って門前に参詣すると、軍の仮司馬に任命して秘書の職務に就かせ、書に勤めて能力を発揮させることとした。公はいつも(彼の書を)帳の中にけ、壁に釘で打ち付けて鑑賞し、師宜官以上だと言っていた。梁鵠は字を孟黄といい、安定の人である。魏の宮殿にある額面は全て梁鵠の書なのである。皇甫謐の『逸士伝』に言う。汝南の王儁は字を子文といい、若くして范滂・許章の認められ、南陽の岑晊と親しかった。公は布衣であったとき格別に王儁を愛し、王儁もまた公には治世の才能があると称えていた。袁紹と弟袁術が母を失い、汝南に帰って葬儀を行ったとき、王儁は公とともに列席したが、参列する者は三万人もいた。公は外に出て密かに王儁に告げた。「天下は乱れんとしておりますが、混乱の先駆けをなすのは必ずやこの二人でしょう。天下を救済して百姓の延命させたいなら、まずこの二人を誅殺せねば、混乱は今にも起こりましょうぞ。」王儁は言った。「の言葉通りなら、天下を救済する者は卿以外に誰がいようか?」向かい合って笑った。王儁の人となりは外面は静かながら内面は聡明であり、州郡や三府の(お召しの)命令にも応じなかった。公車で徴されても行かず、土地を避けて武陵に住まいしたが、王儁に帰依する者は百家余りもあった。帝が許に遷都したとき、再び尚書として徴されたがやはり就任しなかった。劉表は袁紹の強力さを見て、密かに袁紹と通じていたが、王儁は劉表に言った。「曹公は天下の英雄でありますから、必ずや霸道を興隆させて桓・文の功績を継承されます。いま近い者を捨てて遠い者と結んでおられますが、もし一日にして急変が起こりましたならば、はるばる砂漠の北の救援を待つのはやはり困難でありますまいか!」劉表は聞き入れなかった。王儁は六十四歳のとき武陵において寿命で亡くなった。公はそれを聞いて哀しみに暮れた。荊州を平定したとき、自ら長江まで行ってして亡骸を出迎え、江陵に改葬して先賢として表彰した。

[二] 『山陽公載記』に言う。公の艦船が劉備に焼かれたとき、(公は)軍勢をまとめて華容道から徒歩で帰ったが、泥濘にぶつかって道路は通ぜず、天候はそのうえ強風が吹いていた。総動員をかけての兵に草を背負わせて埋め、騎馬武者はやっと通過することができた。羸の兵は人馬に踏み付けられて泥の中に沈み、極めて多くの死者を出した。軍勢が脱出できたとき、公は大変に喜んだ。諸将がその理由を問うと、公は言った。「劉備は吾の同類であるが、ただ計略を思い付くのが少しばかり遅かったな。あらかじめ先手を打って放火しておけば、吾等は全滅するところであったぞ。」劉備はすぐに放火したが間に合わなかった。孫盛の『異同評』に言う。『呉志』を調べてみると、劉備がまず公の軍勢を打ち破り、そのあと孫権が合肥を攻撃したとある。しかしこの『』では、孫権がまず合肥を攻撃し、あとに赤壁の記事を置く。両者は同じでないが『呉志』が正しい。

十四年(二〇九)春三月、軍は譙に着陣し、足の軽い舟を作って水軍を調練した。秋七月、渦水から淮水に入って肥水に出、合肥に着陣した。辛未、布令を下して言う。「近年以来、軍はしばしば征討に出ており、ある者は疫病にかかるなどして官吏・兵士は死亡して帰らず、家族の恨みは広まり、百姓たちは離散しておる。仁者ならばどうしてそうなることを願うであろうか?やむを得ないことであった。そこで死者の家族のうち生業を失って自活できない者があれば、県官は扶持米を絶やさず、長吏は慰労訪問することとして、吾が気持ちに応えてくれ。」揚州の郡県に長吏を配置し、芍陂を開拓して屯田を行った。十二月、軍は譙に帰還した。

十五年(二一〇)春、布令を下して言った。「古代より、受命および中興の君主のうち、かつて賢人・君子を得て彼らとともに天下を治めぬ者はあっただろうか!彼らが賢者を手に入れるに際して、一度も村里を出でずしてどんな幸運があって出会うことができるものか?上に立つ人はそれを求めなかったのである。いま天下はなお平定されておらず、それゆえとりわけ賢者を求めるべき緊急時なのである。『孟公綽趙・魏となるのは易しいが、滕・薛大夫を務めることはできない』という。もし廉直の士であることを条件にしたうえで任用するならば、斉の桓公とてどうして世に霸を称えられよう!いま天下に褐衣を羽織って玉を懐き、渭水の川辺で釣りをしている者がいないといえようか?また嫂を犯して金を取り、いまだ無知に遭遇していない者がいないといえようか?さあ諸君よ、我を支援して仄陋(卑賤の人)を明揚してくれたまえ。ただ才能によってのみ推挙を評価し、吾はその者を手に入れて任用する。」冬、銅爵台を建造した。[一]

[一] 『魏武故事』に記載する十二月己亥の公の布令に言う。「孤が初めに孝廉に推挙されたときは年少で、自分がもともと巌穴知名の士ではなかったので、海内の人々に凡愚と見なされることを恐れ、一郡守にでもなってよき政治教化を敷き、そうして名を建てて誉れを立て、世の人士におのれをはっきりと示したいと思っていた。それゆえ済南にあっては最初から残忍汚穢の者を除去し、真っ直ぐな気持ちで選任推挙を行い、常侍連中に楯突いたのだ。(しかし)強豪たちの怒りを買ってしまい、家族に災禍が降りかかることを恐れて病気を口実に帰郷した。退官後でも年齢はまだ若く、同歳の仲間を思い出してみても、五十歳の者がいたが老人とは呼ばれていなかった。自分では内心、今から二十年かけて天下の静謐を待ったとしても、ようやく(彼の)推挙されたばかりの同歳と同じになるだけのことだ、と考えた。そこで四時をもって郷里に帰り、譙の東五十里に精舎を築き、秋と夏は読書、冬と春は狩猟をすることにして、底辺の地を探して自ら泥水をかぶり、賓客が往来してくれるような希望を断ち切ることにした。しかし、ことは思い通りに運ばなかった。のちに中央に徴されて都尉になり、典軍校尉に昇進したのだ。ついに気持ちを切り替えて国家のために賊徒討伐の功績を立て、征西将軍として侯に封ぜられればと思うようになった。そして後々は『漢の故の征西将軍曹公の墓』とでも墓に題してくれ、というのが私の志だったのだ。ところが董卓の難に遭遇したため、義兵を挙げることになった。このとき軍勢を集めるにあたっては多数手に入れるのがよいと考えられていたが、しかしながらいつも自然と損耗することになるので、それを増やそうとは思わなくなった。というのは、軍勢を増やせば意気盛んになって強敵と争うようになり、ともすれば却って災難を招くことになるからだ。それゆえ汴水の戦いでは数千だったし、のちに揚州へ引き揚げて追加募兵したときも三千人以上は取らなかった。これは我が志に限度があった証拠である。のちに兗州を領して黄巾賊三十万の軍勢を打ち破り降服させた。また袁術が九江において帝号を僭称したとき、部下はみな臣と称し、門は建号門と名付けられ、衣服はみな天子の制度にならい、二人の妻は皇后になろうと先を争った。野心も計画もすでに決定し、ある人が袁術にそのまま皇帝に即位して天下に宣布すべきと勧めたところ、(袁術は)『曹公がおるからまだ駄目だ』と答えた。のちに孤は彼の四人の将を討伐して捕虜とし、その軍勢を手に入れた。そうして袁術を追い詰めて意気阻喪させ、病死するに至らしめたのである。袁紹が河北を占拠して軍勢が盛強になったとき、孤は自分の勢力と比較してみても全く歯が立たないと思ったが、(それでも戦ったのは)国家のために命を投げ出し、義心によって身を滅ぼすならば、後世の手本になるだろうと考えたのだ。袁紹を打ち破り、その二人の子を梟首できたのは幸運であった。また劉表は宗室であることを自負して邪悪な心を隠し持ち、進んだりいたりしながら世情を観測し、当州を占拠していた。孤はこれもまた鎮定し、とうとう天下を平定したのだ。身は宰相の地位に昇り、人臣としての尊貴さは極まり、希望していたものからは行き過ぎである。いま孤がこう言うのは自負しているようにも見えるが、人々の噂話が絶えることを願って(?)包み隠さず話すのである。もし国家に孤がいなければ、幾人が帝を称し、幾人が王を称したか見当も付かない。それに天命のことを信じない性格の者がいて、孤の繁栄を見たとしたら、おそらくは心の中で計算して不遜の志を持っているのだと言ったり、勝手な忖度をしていつも耿耿としていたりするだろう。斉桓・晋文が今日まで称賛され続けている理由は、軍事的強大さを持ちながら飽くまでも周室を奉戴したからである。『論語』の言葉に『天下の三分の二を有しながら殷に服従したのだから、周の徳は至徳と言うべきか』とあるが、それは大国をもって小国によく臣従したからなのだ。むかし楽毅が趙に亡命したとき、趙王は彼とともにを攻略しようとしたが、楽毅は平伏して涙を流し、『臣が(燕の)昭王にお仕えしたのは大王にお仕えするのと同じです。臣がもし罪を問われて他国に追放されたといたしましても、世を去るだけのことで、趙の徒刑囚に対する裏切りさえ忍びないことです。ましてや燕の跡継ぎに対してはなおさらです!』と答えた。胡亥蒙恬を殺したとき、蒙恬は『吾が先祖から子孫に至るまで、秦の三世代にわたって忠信を重ねてきた。いま臣は軍勢三十万人余りを率いており、叛逆をなすには充分な情勢である。しかし自分が必ず死ぬことを知りながら義心を守るのは、先祖の教えを辱めて以て先王(の恩義)を忘れたくないからである』と言った。孤はこの二人の伝記を読むたびに愴然として涙を流さなかったことはない。孤の祖父から孤自身に至るまで、みな側近重職の任務を充てられてきた。信頼されていたと言えるだろう。子桓(曹丕)兄弟に及べば三世代を越えることになる。孤がこうして説明するのはただ諸君に対してだけではなく、つねづね妻妾たちにも語ってみなに深くその気持ちを知らせてある。孤はこれらに『我の死後のことを思えば、汝たちはみな嫁いで行くことになる。(そこで)我が心を伝えさせて他人にみな知らしめたいと思っているのだ』と言ってきた。孤がこうして言うのはみな肝鬲の要である。懇々切々と心中を述べる理由は、周公金縢の書によって自分(の本心)を証明したことに鑑みて、他人が信じないことを恐れるからである。さりとて、孤がただちに宰領する軍勢を捨てて担当者に返還し、武平侯国に帰ろうと思っても、実際には不可能である。なぜか?自分が軍勢を手放せば他人によって災禍を受けることを心底恐れるからだ。すでに子孫の計画を立ててあるが、さらに自分が敗北して国家が危殆に傾くことになるとすれば、それなら虚名を求めて実害に遭うわけにはいかぬし、これは実行できないものである。さきに朝恩において息子三人が侯に封ぜられたが固辞して受けなかった。いま改めてこれを受けようと思うのは、重ねて栄誉を得たいからではなく、外部の支援として万全の計としたいからだ。孤は介推の封爵を避けて申胥が楚の賞賜から逃れたと聞いて、書物を置いて歎息し、自省しないことはなかった。国家の威霊を奉じて鉞を杖ついて征伐し、弱きをもって強きに勝ち、狭きをもって広きを捕らえ、意中で計画したことを行動で失敗することなく、心中で配慮したことを完遂させないではおかず、ついに天下を平定して君命を辱めずにおれた。天が漢室を助けたと言うべきであって人為のなせる業ではないのである。それなのに四県にまたがって封ぜられ、三万戸を食んでいる。どんな功徳があってそれに相当しようか!江湖はまだ鎮定されておらず、官位を返上するわけにもいかぬが、土地であれば辞退することが可能である。いま陽夏・柘・苦の三県二万戸を返還し、ただ武平一万戸だけを食むこととし、ひとまず誹謗を回避して孤の責任を軽減させることにする。」

十六年春正月、[一]天子は命令を下して公の世嗣曹丕を五官中郎将に任じ、属官を置き、丞相の補佐を務めさせた。太原の商曜らが大陵をこぞって叛逆したので、夏侯淵・徐晃を派遣して包囲撃破させた。張魯漢中を占拠していたので、三月、鍾繇を派遣してこれを討伐させた。公は夏侯淵らを河東から出して鍾繇と合流させた。

[一] 『魏書』に言う。庚辰、天子は返答して、五千戸を減封し、返上された三県一万五千戸を分割して子息三人を封じ、曹植を平原侯、曹拠范陽侯曹豹饒陽侯、食邑はそれぞれ五千戸とした。

このとき関中諸将は鍾繇が自分たちを襲撃するつもりではないかと疑い、馬超はついに韓遂・楊秋・李〓・成宜らとともに叛逆した。曹仁を派遣してこれを討伐させたところ、馬超らは潼関に屯した。公は「関西の軍勢は精悍であるゆえ、塁壁を固めて戦ってはならぬぞ」と諸将に命じた。秋七月、公は西征して[一]関所を挟んで馬超らと対峙した。公は厳重に彼らを見張りつつ、密かに徐晃・朱霊らを派遣して夜中に蒲阪津を渡らせ、黄河西岸に陣取らせた。公が潼関から北へ渡ろうとして渡りきらぬうち、馬超が(公の)船へと攻め寄せてきて激しい戦いとなった。校尉丁斐が牛馬を放って賊軍を引き付けると、賊徒どもは足並みを乱して牛馬を捕獲しようとしたので、公はようやく渡ることができた。[二]黄河沿いに甬道を築きつつ南進すると、賊軍は引き退いて渭口で対抗した。公はそこで多くの疑兵を設けつつ、密かに兵士を載せた舟を渭水に入れて浮橋とした。夜中、軍勢を分けて渭水南岸に陣営を築いたところ、賊軍が陣営に夜襲をかけてきたが、伏兵がそれを撃破した。馬超らは渭水南岸に屯し、を寄越してきて黄河以西の割譲を条件に和睦を訴えたが、公は聞き入れなかった。九月、軍を進めて渭水を渡った。[三]馬超らは何度か戦いを挑んできたが、やはり受け付けなかった。(馬超が)断固として土地割譲を要求し、息子を人質に出そうと申し入れてきたので、公は賈詡の計略を採用して、それを認めるふりをした。韓遂が公との会見を要求してきたが、公は韓遂の父と同歳の孝廉であり、また韓遂とも同世代の間柄であったので、馬を交えて長いあいだ語り合ったが、軍事には言及せず、ただ京都の昔話ばかりをして、手をって笑い楽しんだ。終わってから、馬超らは韓遂に訊ねた。「公は何と申しておりました?」韓遂は言った。「何も言わなかったが。」馬超らは彼を疑った。[四]別の日、公はまた韓遂に手紙を送り、あちこち塗り潰したり書き直したりして、韓遂が改定したように見せかけた。馬超らはますます韓遂を疑うようになった。公は彼らと克日して会戦を行ったが、まず軽装兵を出して挑発し、戦いがしばらく続いてから虎騎を放ち、挟み撃ちにして彼らを大破、成宜・李堪らを斬った。韓遂・馬超らは涼州へ、楊秋は安定へ逃走し、関中は平定された。諸将のうち公に問う者があった。「はじめ賊徒どもは潼関を守って渭水北岸の道を欠いておりましたが、(公が)河東から馮翊を攻撃なさらず、反対に潼関を守られ、日にちが経ってから北岸に渡られたのは何故でしょうか?」公は言った。「賊が潼関を守っておるとき、もし吾が河東に入ったならば、賊は必ずや引き返してもろもろの渡し場を守ったであろう。さすれば西河へは渡れなくなってしまう。吾はそれゆえ軍勢を興して潼関へ向かったのだ。賊が総勢を挙げて南方を守ったので西河の備えは空っぽになった。だから二将は思うがままに西河を取ることができたのだ。そののち軍を返して北岸に渡ったのだが、賊が吾らと西河を争うことができなかったのは二将の軍勢があったればこそである。車を連ねて柵を立て、甬道を築きつつ南進したのは、[五]まず勝てない状況を作っておいてから、そのうえで弱点を見せつけたのだ。渭水を渡って塁壁を固め、敵が来ても出撃しなかったのは、彼らを油断させるためである。それゆえ賊は軍営塁壁を築くことなく土地の割譲を求めたのだ。吾が言い分を聞き入れてそれを許可してやったのは、やつらの気持ちを受け入れてやることで安心させ、守備をさせないためだ。そこで士卒の力を蓄えておき、一朝にしてやつらを撃破した。疾雷、耳を掩うに及ばず、というものだ。兵の変化というのは、本来、一つの方法に限られないのである。」はじめ賊軍が一部づつ到着すると、公はそのつど喜びの表情を見せた。賊軍が敗れたのちに諸将がその理由を訊ねると、公は答えて言った。「関中ははるばると遠いゆえ、もし賊徒どもがおのおの険阻に拠ったならば、これを征討しても一・二年かけなければ平定できまい。今回はみなが来集したので、その人数がたとい多いとしても、互いに帰服することなく軍に適主がいなければ(烏合の衆に過ぎず)、一挙に滅ぼすことができ、仕事は多少やりやすくなる。吾はそれで喜んだのだ。」

[一] 『魏書』に言う。提議する者の多くは「関西の軍勢は強く長矛に習熟しておりますゆえ、先鋒は選り抜きの精鋭でなければ対抗できますまい」と言ったが、公は「戦い(の主導権)は我軍にあって賊軍にはない。賊徒がたとい長矛に習熟していようとも、それで刺すことができないようにしてやろう。諸君はただそれを見ていたまえ」と諸将に告げた。

[二] 『曹瞞伝』に言う。公が黄河を渡ろうとしたとき、先発部隊がちょうど渡り終えたところで馬超らが突然襲いかかってきた。公はゆったりと胡牀に腰掛けたまま立ち上がろうとしなかった。張郃らは事態の切迫を見て、一緒に公を引っ張って船に乗せた。黄河の流れは急であったので、渡り終えたときには四・五里も流されていた。馬超らは騎馬で追いかけて弓を射て、降り注ぐ矢は雨のようであった。諸将は軍の崩壊を見たうえに公の所在も分からず、みな恐れおののき、(公が)到着して再会できると悲喜こもごも、涙を流す者さえあった。公は大笑いしながら言った。「今日はつまらぬ賊兵どもに追い詰められるところであったわ!」

[三] 『曹瞞伝』に言う。このとき公の軍勢が渭水を渡るたび、そのつど馬超の騎兵に突撃を受けて陣営を築くことができなかった。地質はそのうえ砂が多くて塁壁を築くには適さなかった。婁子伯が公を説得した。「いま寒い時期にあたりますので、砂を盛って城郭を作り、水を注げばよろしゅうございます。一夜にして完成させることができましょう。」公はそれに従い、絹製の袋を数多く作って水を運び、夜中に兵士を渡して城郭を作った。夜明けごろには城が完成し、それによって公の軍勢は残らず渭水を渡ることができた。 ある人が、当時は九月であって水はまだ凍るはずがないと疑っている。臣裴松之が『魏書』を調べたところ、公の軍勢は八月になって潼関に到着し、閏月に黄河北岸に渡ったとある。これはその年の閏八月のことである。それならば厳しい寒さになることなどあり得ようか!

[四] 『魏書』に言う。公は後日また韓遂らと会談することになったが、諸将が「公が賊と言葉を交わされるからには軽率であってはなりません。木で行馬(馬防柵)を作って防壁とすべきです」と言うと、公はその通りだと思った。賊将は公にお目見えしたとき、みな馬上のまま拝礼した。秦人胡族の見物人が前後して重沓したので、公は笑いながら賊徒どもに語りかけた。「は曹公を見たいのか?やはり人間のようだぞ。四つの目に二つの口があるわけではない。ただ智慧が多いだけなのだよ!」胡族は前後して大勢で見物した。また鉄騎五千が連なって十重の陣をなし、鋭い光が太陽に輝いたので、賊兵たちはいよいよ恐れおののいた。

[五] 臣裴松之が勘案するに、漢の高祖二年、滎陽の(南方の)京・索のあたりで楚と戦ったとき、黄河沿いに甬道を築いて敖倉の食糧を奪取した。応劭は「敵が輜重を襲うのを恐れ、それゆえ垣根を築いて街路のようにするのである」と言っている。このとき魏武は垣根を築かず、ただ車を連ねて柵を立てるだけで両面を防いだのである。

冬十月、軍は長安から北進して楊秋を征討し、安定を包囲した。楊秋が降服したのでその爵位に復帰させ、(その地に)留めて領民を慰撫させた。[一]十二月、安定から引き揚げ、夏侯淵を残して長安に屯させた。

[一] 『魏略』に言う。楊秋は黄初年間(二二〇~二二七)に討寇将軍へ昇進して位は特進となり、臨涇侯に封ぜられた。寿命で亡くなった。