利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

武帝紀

三年(一九二)春、太祖が頓丘に布陣したところ、于毒らは東武陽を攻撃した。太祖はそこで軍勢を引率して西進して山に入り、于毒らの本拠地を攻撃した。[一]于毒はそれを聞いて、武陽を棄てて撤退した。太祖は眭固を待ち伏せし、また匈奴於夫羅内黄において撃ち、いずれも大破した。[二]

[一] 『魏書』に言う。諸将たちはみな引き揚げて自陣を救うべきと主張したが、太祖は「孫臏を救わんとを攻め、耿弇西安に走らんとして臨菑を攻めた。賊徒どもに我が西進したと聞かせてやって、撤退させれば、武陽は自然と解放されるだろう。撤退しなくとも、我は彼らの本拠地を打ち敗ることも可能だし、盗賊どもが武陽を陥落させられないことは必定だ」と言い、そのまま行軍した。

[二] 『魏書』に言う。於夫羅というのは南単于羌渠)の子である。中平年間、(漢朝は)匈奴兵を徴発したが、於夫羅が統率者となって漢朝を補佐した。ちょうどそのころ本国で反乱があり、南単于が殺された。於夫羅はそのままその軍勢を率いて中国に留まった。天下に擾乱が起こったので、西河白波賊と合流し、太原・河内を破り、諸郡で略奪を働いて害をなした。

夏四月、司徒王允呂布が一緒になって董卓を殺した。董卓の将軍李傕・郭氾らが王允を殺し、呂布を攻めた。呂布は敗北し、武関から東へ出た。李傕らは朝政を欲しいままにした。

青州黄巾賊の軍勢百万人が兗州に侵入し、任城国の相鄭遂を殺害し、転進して東平に入った。劉岱はこれを攻撃しようとしたが、鮑信が諫めて言った。「いま賊の軍勢は百万人にもなり、百姓らはみな恐れおののき、士卒には闘志がございません。敵いますまい。賊軍を観察したところ、群れをなして人々が寄り添い合っているだけで(統率者がおらず)、軍中には輜重もなく、ただ略奪だけに食糧を頼っております。今は軍勢の気力を養い、まずは固守するのが最上。彼らは戦おうと思ってもできず、攻撃しようと思ってもやはりできず、その勢力はきっと離散するでしょう。そののち精鋭を選抜し、要害を占拠して彼らを撃てば、撃破することもできましょう。」劉岱は聞き入れず、そのまま彼らと戦い、案の定殺されてしまった。[一]鮑信はそこで州吏万潜らとともに東郡へ赴き、太祖を領兗州牧に迎えた。(太祖は)そのまま軍勢を進め、寿張の東において黄巾賊を攻撃した。鮑信が奮戦のすえ討死し、やっとのことで撃ち破ることができた。[二]鮑信の亡骸を買い求めたが見付けられず、人々はそこで木を刻んで鮑信の姿に似せ、祭礼を行って哭泣した。黄巾賊を済北まで追撃すると、(賊は)投降を願い出た。冬、投降兵三十万人余り、男女百万人余りを受け入れ、彼らのうち精鋭を選りすぐって「青州兵」と名付けた。

[一] 『世語』に言う。劉岱が死んだのち、陳宮は太祖に告げた。「州にはいま君主なく、そのうえ王命(を伝える街道)も断絶しております。陳宮は州内を説得したいと存じます。明府はすみやかに赴いてこれを(統治)しなされ。それを元手に天下を収めること、これぞ霸王の業であります。」陳宮は別駕・治中を説得して言った。「いま天下は分裂し、州には君主なき有様。曹東郡は命世の才をお持ちです。もし迎え入れて州を牧させれば、きっと民衆を安心させることができましょう。」鮑信らもやはりその通りだと思った。

[二] 『魏書』に言う。太祖は歩騎千人余りを率い、戦場視察に出かけた。突然、賊軍の陣営にぶつかった。戦況は不利となり、死者数百人を出して撤退した。賊軍はすぐに前進してきた。黄巾党は賊徒に身を崩して久しく、しばしば勝利を味わってきたので、兵士はみな精悍であった。太祖(の手元)には古参の兵が少なく、新兵は調練不足であり、軍をこぞってみな恐怖した。太祖は甲冑を身に纏い、親しく将兵を巡察して賞罰を明らかにした。軍勢はそこで再び奮い立ち、隙を見て攻撃をかけたので、賊徒どもは少しづつ打ち砕かれて退いた。賊徒はそこで文書を太祖に送り付けて言った。「むかし(使君が)済南にいらっしゃったとき、神壇を破壊されましたが、その道は中黄太乙と同一でございました。についてご存じかと見えましたのに、今になって錯乱しておいでです。漢の命運はすでに尽きており、黄家が立つべきなのです。天の大いなる運命でございますから、君の才能力量で存続させられるものではございませんぞ。」太祖は檄文を見ると叱咤罵倒し、何度も降服への道を示してやった。けっきょく伏兵を設置し、昼夜にわたって会戦を繰り広げ、戦うたびに捕虜を得たので、賊軍は撤退した。

袁術と袁紹は仲違いしていたので、袁術は公孫瓚に救援を求めた。公孫瓚は劉備高唐に屯させた。単経は平原に屯し、陶謙発干に屯して袁紹を圧迫した。太祖は袁紹と会同し、それらを全て撃ち破った。

四年(一九三)春、鄄城に進駐した。荊州劉表が袁術の糧道を遮断すると、袁術は軍勢を引率して陳留に進入し、封丘に屯した。黒山賊の残党および於夫羅らがそれを支援した。袁術は将軍劉詳匡亭に屯させた。太祖は劉詳を攻撃したが、袁術が彼に救援を出したので合戦となり、彼らを大破した。袁術が撤退して封丘に楯籠ったので、そのままこれを包囲した。まだ(包囲軍が)集合しないうちに袁術は襄邑に逃走したので、太寿まで追撃し、運河を決壊させて(太寿)城を水没させた。(袁術が)寧陵に逃走したので、さらに彼を追撃すると、(袁術は)九江に逃走した。夏、太祖は帰還して定陶に駐留した。

下邳闕宣が軍勢数千人を集め、天子を自称した。徐州牧陶謙は一緒に軍勢を催し、泰山の華・費を奪取し、任城で略奪を働いた。秋、太祖は陶謙を征討して十城余りを下したが、陶謙は城に楯籠り、出てこようとはしなかった。

この歳、孫策が袁術の指示を受けて長江を渡り、数年のあいだで、とうとう江東を領有してしまった。

興平元年(一九四)春、太祖は徐州から帰還した。むかし太祖の父曹嵩は、官職を去ったのち譙に帰郷し、董卓の乱が起こったので琅邪に避難したが、陶謙に殺害されてしまった。そのため太祖は復讐を志して東征したのである。[一]夏、荀彧・程昱に鄄城を守らせ、再び陶謙を征伐し、五つの城を陥落させ、そのまま各地を攻略しつつ東海まで到達した。引き返してを通過したが、陶謙の将軍曹豹と劉備が郯の東に屯し、太祖を迎撃した。太祖は彼らを撃破し、そのまま襄賁を攻撃して陥落させた。(太祖の軍の)通過した場所では多くの人が殺戮された。[二]

[一] 『世語』に言う。曹嵩は泰山の華県にいた。太祖は泰山太守応劭に命じ、家(家族)を兗州まで送らせた。応劭の軍勢がまだ到着しないうちに、陶謙が密かに数千騎を派遣して捕まえてしまった。曹嵩の家では応劭の出迎えだと思い、準備を設けていなかったのだ。陶謙の軍勢はやってきて、太祖の弟曹徳を門内で殺害した。曹嵩は恐怖し、裏手の垣根に穴を開け、まず自分の妾を脱出させようとしたが、妾は肥えていて出ることができなかった。曹嵩は廁へ逃げ込んだが、妾と一緒に殺害され、郷里の一族はみんな死んだ。応劭は恐懼し、官職を棄てて袁紹のもとへ赴いた。のちに太祖が冀州を平定したとき、応劭は当時すでに死んでいた。韋曜の『呉書』に言う。太祖は曹嵩を出迎えるのに、輜重百両余り(を派遣して旅行の費用としたの)であった。陶謙は都尉張闓に騎兵二百人を率いさせて護送させた。張闓は泰山の華・費の境界で曹嵩を殺し、財物を奪い、そのあと淮南に出奔した。太祖は罪咎を陶謙に被せ、それから彼を討伐した。

[二] 孫盛は言う。罪人を伐ち、民衆を慰めるのが古代の規範である。罪は陶謙にあるのに、彼の配下を殺してしまったのは過ちである。

ちょうどそのとき張邈が陳宮とともに叛逆し、呂布を迎え入れた。郡県はみな呼応した。荀彧・程昱は鄄城に楯籠り、范・東阿の二県も固守した。太祖はそこで軍勢を引率して帰還した。呂布がやってきて鄄城を攻撃したが、陥落させられず、西進して濮陽に屯した。太祖は言った。「呂布は一日にして一州を得たものだが、東平を占拠して亢父・泰山の道を遮断し、要害を利用して我を迎え撃つことができず、とうとう濮陽に屯してしまった。吾は彼の無能が分かったよ。」こうして進軍して彼を攻撃した。呂布は軍勢を押し出して戦い、真っ先に騎兵でもって青州兵を襲った。青州兵が逃げ去り、太祖の布陣は混乱してしまった。(太祖は)馬を走らせて火炎から脱出したが、落馬し、左手の手のひらに火傷を負った。司馬楼異が太祖の手を引いて馬に乗せ、そのまま撤退した。[一](太祖が)陣営に到着する以前、諸将は太祖の姿が見えないため、みな恐れを抱いた。太祖はそこで自ら励んで軍勢を慰労し、軍中に攻城用兵器を作って進軍し、び彼を攻撃するようにと督促した。呂布と対峙すること百日余りになった。蝗虫が発生して百姓は大いに餓え、呂布の糧食もやはり底をついたので、おのおの撤退した。

[一] 袁暐の『献帝春秋』に言う。太祖が濮陽を包囲したとき、濮陽の大姓氏が反間となったので、太祖は入城することができた。(太祖は)その東門を焼き、引き返す意志のないことを示した。戦闘に及んだが、軍勢は敗北した。呂布の騎兵が太祖を捕まえたが、彼であるとは知らずに尋問した。「曹操はいづくにおるか?」太祖は言った。「黄色い馬に乗って逃げていくのが、その方です。」呂布の騎兵はそこで太祖を釈放し、黄色い馬の者を追跡した。門の火はまだ燃えさかっていたが、太祖は火炎を突き抜けて脱出した。

秋九月、太祖は鄄城に帰還した。呂布は乗氏に着陣したが、その県の人李進に撃破され、東進して山陽に屯した。ここにおいて、袁紹は人をやって曹操を説得し、和睦しようと望んだ。太祖は兗州を失ったばかりで、軍勢も食糧が底を突いており、それを承知しようとした。程昱が太祖を諫止したので、太祖はそれを聞き入れ(取り止め)た。冬十月、太祖は東阿に着陣した。

この歳、穀物が一斛あたり五十万銭余りに上り、人々は互いの肉を食らい合った。そこで官吏・兵士の新たな募集は中止した。陶謙が死去し、劉備が彼に交代した。

二年(一九五)春、定陶を襲撃した。済陰太守呉資南城に楯籠り、陥落させられなかった。ちょうどそこへ呂布が着陣したので、また彼を撃破した。夏、呂布の将軍薛蘭・李封鉅野に屯していたので、太祖はこれを攻撃した。呂布は薛蘭を救援したが、薛蘭が敗北すると呂布も逃走した。かくて薛蘭らを斬った。呂布は再び東緡から陳宮に合流し、一万人余りを率いて来襲してきた。当時、太祖の軍勢は少なかったので、伏兵を設け、奇兵を放って攻撃し、彼らを大破した。[一]呂布が夜間逃走すると、太祖はまた攻勢に出て定陶を陥落させ、軍勢を分けて諸県を平定した。呂布は東方へ行き劉備のもとに出奔した。張邈は呂布に随従し、その弟張超に家族を率いさせて雍丘に楯籠らせた。秋八月、雍丘を包囲した。冬十月、天子は太祖を兗州牧に任命した。十二月、雍丘は潰滅し、張超は自殺した。張邈の三族をにした。張邈は袁術に救援を求めに行ったが、彼の人数に殺されてしまった。兗州が平定されたので、そのまま東進しての地を攻略した。

[一] 『魏書』に言う。このとき軍勢はみな麦を取りに出ており、残っている者は千人にもせず、陣営も堅固でなかった。太祖はそこで婦人たちにを守らせ、軍勢をかき集めて防衛した。陣営の西側に大きな堤があり、その南側は樹木が鬱蒼としていた。呂布は伏兵があるのではないかと疑い、そこで「曹操は詐術が多い。伏兵の中に入るなよ」と(左右の者と)言い合い、軍勢を引率して南十里余りのところに屯した。翌日、再びやってきたが、太祖は軍勢を堤の裏側に潜ませ、半数の軍勢を堤の外に出した。呂布がますます前進してきたので、軽装の兵士に挑戦させた。ぶつかったとき、伏兵が一斉に堤に乗り、歩兵と騎兵とがならんで突き進んで彼らを大破し、その鼓車を鹵獲した。彼らの陣営まで追撃し、そののち帰還した。

この歳、長安が混乱し、天子は東方に遷したが、曹陽において敗北した。黄河を渡って安邑に行幸した。

武帝紀

三年春,太祖軍頓丘,毒等攻東武陽.太祖乃引兵西入山,攻毒等本屯.[一]毒聞之,棄武陽還.太祖要擊眭固,又擊匈奴於夫羅於內黃,皆大破之.[二]

[一] 魏書曰:諸將皆以為當還自救.太祖曰:「孫臏救趙而攻魏,耿弇欲走西安攻臨菑.使賊聞我西而還,武陽自解也;不還,我能敗其本屯,虜不能拔武陽必矣.」遂乃行.

[二] 魏書曰:於夫羅者,南單于子也.中平中,發匈奴兵,於夫羅率以助漢.會本國反,殺南單于,於夫羅遂將其眾留中國.因天下撓亂,與西河白波賊合,破太原﹑河內,抄略諸郡為寇.

夏四月,司徒王允與呂布共殺卓.卓將李傕﹑郭氾等殺允攻布,布敗,東出武關.傕等擅朝政.

靑州黃巾眾百萬入兗州,殺任城相鄭遂,轉入東平.劉岱欲擊之,鮑信諫曰:「今賊眾百萬,百姓皆震恐,士卒無鬭志,不可敵也.觀賊眾羣輩相隨,軍無輜重,唯以鈔略為資,今不若畜士眾之力,先為固守.彼欲戰不得,攻又不能,其勢必離散,後選精銳,據其要害,擊之可破也.」岱不從,遂與戰,果為所殺.[一]信乃與州吏萬潛等至東郡迎太祖領兗州牧.遂進兵擊黃巾于壽張東.信力戰鬭死,僅而破之.[二]購求信喪不得,眾乃刻木如信形狀,祭而哭焉.追黃巾至濟北.乞降.冬,受降卒三十餘萬,男女百餘萬口,收其精銳者,號為靑州兵.

[一] 世語曰:岱旣死,陳宮謂太祖曰:「州今無主,而王命斷絕,宮請說州中,明府尋往牧之,資之以收天下,此霸王之業也.」宮說別駕﹑治中曰:「今天下分裂而州無主;曹東郡,命世之才也,若迎以牧州,必寧生民.」鮑信等亦謂之然.

[二] 魏書曰:太祖將步騎千餘人,行視戰地,卒抵賊營,戰不利,死者數百人,引還.賊尋前進.黃巾為賊久,數乘勝,兵皆精悍.太祖舊兵少,新兵不習練,擧軍皆懼.太祖被甲嬰冑,親巡將士,明勸賞罰,眾乃復奮,承閒討擊,賊稍折退.賊乃移書太祖曰:「昔在濟南,毀壞神壇,其道乃與中黃太乙同,似若知道,今更迷惑.漢行已盡,黃家當立.天之大運,非君才力所能存也.」太祖見檄書,呵罵之,數開示降路;遂設奇伏,晝夜會戰,戰輒禽獲,賊乃退走.

袁術與紹有隙,術求援於公孫瓚,瓚使劉備屯高唐,單經屯平原,陶謙屯發干,以逼紹.太祖與紹會擊,皆破之.

四年春,軍鄄城.荊州牧劉表斷術糧道,術引軍入陳留,屯封丘,黑山餘賊及於夫羅等佐之.術使將劉詳屯匡亭.太祖擊詳,術救之,與戰,大破之.術退保封丘,遂圍之,未合,術走襄邑,追到太壽,決渠水灌城.走寧陵,又追之,走九江.夏,太祖還軍定陶.

下邳闕宣聚眾數千人,自稱天子;徐州牧陶謙與共擧兵,取泰山華﹑費,略任城.秋,太祖征陶謙,下十餘城,謙守城不敢出.

是歲,孫策受袁術使渡江,數年閒遂有江東.

興平元年春,太祖自徐州還,初,太祖父嵩,去官後還譙,董卓之亂,避難琅邪,為陶謙所害,故太祖志在復讎東伐.[一]夏,使荀彧﹑程昱守鄄城,復征陶謙,拔五城,遂略地至東海.還過郯,謙將曹豹與劉備屯郯東,要太祖.太祖擊破之,遂攻拔襄賁,所過多所殘戮.[二]

[一] 世語曰:嵩在泰山華縣.太祖令泰山太守應劭送家詣兗州,劭兵未至,陶謙密遣數千騎掩捕.嵩家以為劭迎,不設備.謙兵至,殺太祖弟德于門中.嵩懼,穿後垣,先出其妾,妾肥,不能得出;嵩逃于廁,與妾倶被害,闔門皆死.劭懼,棄官赴袁紹.後太祖定冀州,劭時已死.韋曜吳書曰:太祖迎嵩,輜重百餘兩.陶謙遣都尉張闓將騎二百衞送,闓於泰山華﹑費閒殺嵩,取財物,因奔淮南.太祖歸咎於陶謙,故伐之.

[二] 孫盛曰:夫伐罪弔民,古之令軌;罪謙之由,而殘其屬部,過矣.

會張邈與陳宮叛迎呂布,郡縣皆應.荀彧﹑程昱保鄄城,范﹑東阿二縣固守,太祖乃引軍還.布到,攻鄄城不能下,西屯濮陽.太祖曰:「布一旦得一州,不能據東平,斷亢父﹑泰山之道乘險要我,而乃屯濮陽,吾知其無能為也.」遂進軍攻之.布出兵戰,先以騎犯靑州兵.靑州兵奔,太祖陳亂,馳突火出,墜馬,燒左手掌.司馬樓異扶太祖上馬,遂引去.[一]未至營止,諸將未與太祖相見,皆怖.太祖乃自力勞軍,令軍中促為攻具,進復攻之,與布相守百餘日.蝗虫起,百姓大餓,布糧食亦盡,各引去.

[一] 袁暐獻帝春秋曰:太祖圍濮陽,濮陽大姓田氏為反閒,太祖得入城.燒其東門,示無反意.及戰,軍敗.布騎得太祖而不知是,問曰:「曹操何在?」太祖曰:「乘黃馬走者是也.」布騎乃釋太祖而追黃馬者.門火猶盛,太祖突火而出.

秋九月,太祖還鄄城.布到乘氏,為其縣人李進所破,東屯山陽.於是紹使人說太祖,欲連和.太祖新失兗州,軍食盡,將許之.程昱止太祖,太祖從之.冬十月,太祖至東阿.

是歲穀一斛五十餘萬錢,人相食,乃罷吏兵新募者.陶謙死,劉備代之.

二年春,襲定陶.濟陰太守吳資保南城,未拔.會呂布至,又擊破之.夏,布將薛蘭﹑李封屯鉅野,太祖攻之,布救蘭,蘭敗,布走,遂斬蘭等.布復從東緡與陳宮將萬餘人來戰,時太祖兵少,設伏,縱奇兵擊,大破之.[一]布夜走,太祖復攻,拔定陶,分兵平諸縣.布東奔劉備,張邈從布,使其弟超將家屬保雍丘.秋八月,圍雍丘.冬十月,天子拜太祖兗州牧.十二月,雍丘潰,超自殺.夷邈三族.邈詣袁術請救,為其眾所殺,兗州平,遂東略陳地.

[一] 魏書曰:於是兵皆出取麥,在者不能千人,屯營不固.太祖乃令婦人守陴,悉兵拒之.屯西有大隄,其南樹木幽深.布疑有伏,乃相謂曰:「曹操多譎,勿入伏中.」引軍屯南十餘里.明日復來,太祖隱兵隄裏,出半兵隄外.布益進,乃令輕兵挑戰,旣合,伏兵乃悉乘隄,步騎並進,大破之,獲其鼓車,追至其營而還.

是歲,長安亂,天子東遷,敗于曹陽,渡河幸安邑.