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原著作者:【むじん書院】

武帝紀

太祖武皇帝沛国の人で、姓を孟徳といい、相国曹参の子孫である。[一]桓帝の御代、曹騰中常侍大長秋となり、費亭侯に封ぜられた。[二]養子の曹嵩が跡を嗣ぎ、官位は太尉にまで昇った。彼の出生の一部始終は明らかにできない。[三]曹嵩が太祖を生んだ。

[一] 太祖は一名を吉利といい、小字阿瞞といった。王沈の『魏書』に言う。その祖先は黄帝から出ており、高陽の御代にあたり、陸終の子を陸安と言ったが、彼が曹姓を名乗った。武王に打ち勝つと、先代の子孫を保護し、曹俠に封じた。春秋の時代には会盟に参加し、戦国の時代になってに滅ぼされた。子孫は分流して、ある者がに住まいした。漢の高祖が兵を起こすと、曹参は功績によって平陽侯に封じられた。爵位封土を世襲し、断絶しては復興して、今に至るまで容城で国を受け嗣いできた。

[二] 司馬彪の『続漢書』に言う。曹騰の父曹節は字を元偉といい、日ごろ仁徳温厚によって称えられていた。隣人にうちにを失った者がいて、曹節の豕と同じ種類だった。(隣人は曹家の)門までやって来てそれを誤認したが、曹節は(豕を渡して)彼と争わなかった。後になって、いなくなった豕が彼の家に帰ってきたので、豕の飼い主は大いに恥じ入り、誤認した豕を送り返すとともに曹節に謝罪した。曹節は笑いながらそれを受け取った。これによって郷里の人々は尊敬し歎息した。長子を曹伯興、(その)次の子を曹仲興、(その)次の子を曹叔興といった。曹騰は字を季興といい、若いころ黄門従官に叙任された。永寧元年、鄧太后黄門令に詔勅を下し、中黄門従官のうち年少で温厚謹直な者を選抜させて皇太子の書斎に配置したが、曹騰はそれに選ばれた。太子はとりわけ曹騰を親愛し、飲食も賞賜も人々から差別した。順帝が即位すると小黄門となり、中常侍・大長秋にまで昇進した。省闥にあること三十年余り、四帝代々に仕え、過失を犯すことがなかった。賢者才能を推薦することを好み、最後まで中傷されることはなかった。彼によって称賛推薦された者は、陳留虞放辺韶南陽延固張温弘農張奐潁川堂谿典などがおり、みな官位は公卿にまでなったが、(曹騰は)その善行を誇らなかった。蜀郡太守計吏を通じて曹騰に敬意を表させたが、益州刺史种暠函谷関において彼の手紙を手に入れ、太守(の罪状)をると同時に、曹騰が内臣でありながら外交していることは不当であると奏上し、免官して処罰すべきと請願した。帝は「手紙は外から来たもので、曹騰は手紙を出していない。彼の罪ではないのである」とい、种暠の上奏を取り上げなかった。曹騰は意に介することなく、常々种暠を称歎し、种暠にはお上に仕える節義を弁えていると言っていた。种暠はのちに司徒となったが、「今日になれたのは曹常侍のご恩だな」と人に語っている。曹騰の行動は全てこうした類であった。桓帝が即位すると、曹騰が先帝の旧臣であり、忠義孝心が顕著であることから、費亭侯に封じて特進の官位を加増した。太和三年(二二九)、曹騰を追尊して高皇帝と言った。

[三] 『続漢書』に言う。曹嵩は字を巨高といい、生まれつき性質は敦厚慎重で、どこにいても忠義孝行であった。司隷校尉となったのち、霊帝は抜擢して大司農・大鴻臚に任命し、崔烈に交代させて太尉とした。黄初元年(二二〇)、曹嵩は追尊されて太皇帝と呼ばれた。の人が作った『曹瞞伝』および郭頒の『世語』ではいずれも言う。曹嵩は夏侯氏の子で、夏侯惇の叔父である。太祖は夏侯惇にとっては従父兄弟になる。

太祖は若いころから機転が利き、権謀術数があったが、任俠放蕩で、振る舞いを慎もうとはしなかった。そのため世の人々で彼を評価する者はなかった。[一]ただ梁国橋玄、南陽の何顒だけが評価していた。橋玄は太祖に告げた。「天下は乱れんとしておるが、一世超絶の才でなければ収めることはできまい。これをよく安定させる、それは君次第であろうか!」[二]二十歳のとき孝廉に推挙されてとなり、洛陽北部尉に叙任され、頓丘県令に昇進し、[三]中央に徴し出されて議郎を拝命した。[四]

[一] 『曹瞞伝』に言う。太祖は若いころ鷹を飛ばしたり狗を走らせたりすることを好み、游蕩ぶりは度外れだった。彼の叔父がそのことを何度も曹嵩に報告していたが、太祖はそれをわずらわしく思い、のちに路上で叔父と遭遇したとき、騙そうと思って顔面を崩して口元をじってみせた。叔父は怪しんでその訳を訊くと、太祖が「卒中悪風です」と言ったので、叔父はそれを曹嵩に報告した。曹嵩が驚愕して太祖を呼び寄せると、太祖の口もも普段通りである。曹嵩が「叔父さんは汝が中風にかかったと言っていたが、もう治ったのかい?」と質問すると、太祖は「初めから中風にはかかっておりませんよ。ただ叔父さんの愛を失っているので、でたらめを言われているだけです」と言った。曹嵩はこうして疑いを持ち、以後、叔父が報告してくることがあっても、曹嵩は二度と信じなくなった。太祖はこうしてますます好き勝手することができるようになった。

[二] 『魏書』に言う。太尉橋玄は人を知ることができると世間で称えられ、太祖を見つめて彼を評価し、「吾は天下の名士を多く見てきたが、君ほどの者はいなかったぞ!君はよく自分を守りなさい。吾は年老いた!もしよければ(君に)妻子を為託したいものだが」と言った。これによって名声はますます重くなった。『続漢書』に言う。橋玄は字を公祖といい、厳正公明にして才略があり、人物(を知ること)に長けていた。張璠の『漢紀』に言う。橋玄は内外の官位を歴任し、剛毅果断であると称せられ、目下の者にでもへりくだり、王爵や親類との私情によって関係することはなかった。光和年間(一七八~一八四)に太尉となったが、長らく病気であったため罷免の命令が下り、太中大夫を拝命し、卒去した。家は産業に乏しく、柩がされることはなかった。当時、世間では彼を名臣と称した。『世語』に言う。橋玄は太祖に告げて言った。「君はまだ名を知られておらぬ。許子将と交わるとよかろう。」太祖が許子将のもとへ行くと、許子将は受け入れた。それによって名を知られるようになった。孫盛の『異同雑語』に言う。太祖はそのむかし、密かに中常侍張譲の部屋に侵入し、張譲に勘付かれた。そこで庭で手戟を振り回し、垣根を飛び越えて脱出した。武勇は絶倫で、よく彼に危害を加える者はいなかった。諸書を手広く読んだが、とりわけ兵法を好み、諸家の兵法を要約集成して『接要』と名付けた。また『孫武』十三篇に注を付け、どちらも世間に流行した。かつて許子将に「はいかなる人間でしょうか?」と問うたことがある。許子将は答えなかった。断固として彼に質問すると、許子将は言った。「は治世の能臣、乱世の姦雄である。」太祖は大笑いした。

[三] 『曹瞞伝』に言う。太祖は初めての役所に入ったとき、四方の門を修繕した。五色の棒を作り、門の左右におのおの十枚余りをぶら下げ、禁を犯した者があれば、権勢ある者でも避けることなく、みな棒打ちにして殺した。数ヶ月後、霊帝が愛幸する小黄門蹇碩の叔父が夜中に通行していたので、即座に彼を殺した。京師では行動を引き締め、あえて禁を犯す者はなくなった。近習寵臣たちはみな彼を憎んだが、かといって中傷することもできなかった。そこで一緒になって彼を褒めちぎった。そのため頓丘の県令に昇進することになったのである。

[四] 『魏書』に言う。太祖の従妹の夫イン彊侯宋奇が誅殺され、連坐して免官となった。のちによく古学を明らかにしたということで、ふたたび徴し出されて議郎を拝命した。それ以前のこと、大将軍竇武太傅陳蕃閹官を誅殺せんと計画したが、逆に殺害されたことがあった。太祖は上書し、竇武らは正直でありながら危害に遭い、姦佞邪悪な者どもが朝廷に満ちみちており、善人たちは逼塞しております、と陳述した。その言葉はきわめて厳しかったが、霊帝は用いることができなかった。そののち三府三公の役所)に詔勅が下され、州県のうち統治に功績ない者を検挙奏上し、領民に謡言(で揶揄批判)されている者があれば罷免することになった。(しかし)三公は悪事に傾倒しており、(官吏たちは)みな出世を望んでいたので、詔令が施行されると賄賂が流行し、権勢ある者は恨みを買っても検挙されることはなく、権勢なき者は道義を守っても多くが陥れられた。太祖はそれを憎らしく思った。この歳、災害異変が起こったので広く得失が下問された。その機会にふたたび上書して厳しく諫め、三公が検挙するのは貴族外戚の意向を回避したものだと説明した。奏上によって天子は感悟し、それを三府に見せて彼らを譴責し、謡言によって徴し返された者たちを全て議郎に任命した。(それでも)それ以後は政治教化が日々混乱してゆき、力ある者、狡猾な者はますます燃えさかり、多くの者が毀損されてしまった。太祖は匡正することはできないと悟り、とうとう二度と献言しなくなった。

光和年間(一七八~一八四)の末、黄巾賊が蜂起すると、騎都尉を拝命して潁川の賊を討伐した。昇進して済南国のになった。国には十県余りがあったが、長吏県令・県長)の多くは貴族外戚に阿諛迎合し、賄賂狼藉を働いていたので、そこで八割方を奏上して罷免した。淫祠を禁止すると、姦悪な者は逃げ去って息を潜め、郡の境界内は粛然とした。[一]長らく在任したのち、徴し返されて東郡太守とされたが、就任せず、病気と称して郷里に帰った。[二]

[一] 『魏書』に言う。長吏は収賄することに貪欲で、貴人権勢を後ろ盾にしており、歴代の国相の前任者は検挙していなかった。太祖がみんな検挙罷免してしまったと聞くや、小物も大物も震えおののき、姦悪な者は遁走してよその郡に逃げ込んだ。政治教化は大いに実行され、一郡まるごと清潔平穏になった。むかし、城陽景王劉章漢朝に対して功績があった。そのため彼の国ではを立てたが、青州の諸郡が相継いでそれに倣い、済南は一番盛んで、六百以上もの祠があった。商人の中には二千石(太守)の輿服をまね、従者を教育して芸人による娯楽を興行する者もあり、奢侈は日に日にひどくなっていった。民衆はそのせいで貧困になったが、歴代の長吏にあえて禁止する者はいなかった。太祖は着任すると、祠の社屋を全て破壊し、官吏民衆に禁止を出して祠を祭祀できないようにした。(のちに)政権を掌握してからは、とうとう姦佞邪悪な鬼神のことは排除され、世間の淫らな祭祀は、それ以来すっかり絶滅した。

[二] 『魏書』に言う。こうして権臣が朝政を専断し、貴人外戚が好き勝手に振る舞うようになった。太祖は道義に背いてまで(悪事を)容認することができず、しばしば楯突いたため、一家に災いが降りかかるのを恐れた。そこで宿衛に留めてくれるよう請願し、議郎に任命されたが、いつも病気にかこつけて(出仕せず)、すぐに(辞去を)告げて郷里に帰ってしまった。城外に部屋を築き、春から夏までは書・伝を習読し、秋から冬までは狩猟し、それを自分から娯楽とした。

しばらくすると、冀州刺史王芬・南陽の許攸・沛国の周旌らが豪傑たちと連結し、霊帝を廃して合肥侯を擁立せんと謀議した。それを太祖に告げたが、太祖はそれを拒んだ。王芬らは結局失敗してしまった。[一]

[一] 司馬彪の『九州春秋』に言う。ここにおいて、陳蕃の子陳逸は術士である平原襄楷とともに王芬の宴会に出席した。襄楷が「天文では宦者に不利と出ております。黄門・常侍といった貴人たちは一族滅亡いたします」と言ったので陳逸は喜んだ。王芬は言った。「そういうことならば王芬が駆除させてもらおうか。」こうして許攸らと陰謀を巡らせた。霊帝が北方の河間の旧宅に巡幸しようとしていたので、王芬らはその機会に乗じて変事を起こそうと計画し、黒山賊が郡県を攻撃しているので、軍勢を催すことを許可されたいと上書した。ちょうどそのとき赤い気が北方で起こり、東西に広がって天を覆い隠した。太史が「陰謀がございます。北へ行幸されるべきでありません」と上言したので、帝は(巡幸を)中止した。詔勅を下して王芬らの軍勢を取り上げ、時を置かずして彼らを徴し寄せた。王芬は恐怖して、自殺した。『魏書』に載せる太祖が王芬を拒絶する言葉に言う。「そもそも廃立の仕事というのは、天下の不祥事のうち最もたるもの。古人のうち成功・失敗を調整して軽重を計り、それを実行に移した者といえば、伊尹・霍光がそれにあたります。伊尹は究極の忠誠を懐に抱き、宰相の権勢に依拠し、官僚の上位に位置しておりました。それゆえ進退廃置は、計画が滞ることなく成立させられたのです。霍光ほどになると、国家委託の任命を受け、皇族の位階に身を置き、内向きには太后の政権掌握の重さを頼りとし、外向きには諸卿の同心を願う情勢がありました。昌邑王は即位してから日も浅く、まだ貴族寵臣もおらず、朝廷は直言の臣に乏しく、提議は親密な側近から出されておりました。それゆえ計画は輪が転ぶように実行され、仕事は朽木が砕けるように成立したのです。いま諸君はただ昔日の容易さを見るだけで、当今の難儀さをていないのです。諸君は自ら忖度してごらんなさい。大勢を結集して徒党を連ねた点において、七国と比べてどうか?合肥侯の高貴さという点において、呉・楚と比べてどうか?尋常にあらざることをしようとして、必勝を期待するのは、やはり危険ではありますまいか!」

金城辺章・韓遂刺史・郡守を殺して叛逆し、軍勢十万人余りを集めたので、天下は騒然となった。太祖は徴し出されて典軍校尉になった。ちょうどそのころ霊帝が崩御したので、太子が即位し、太后が朝政に臨んだ。大将軍何進袁紹とともに宦官誅殺を計画したが、太后は許可しなかった。何進はそこで董卓を召し寄せ、太后を脅迫しようと思ったが、[一]董卓が到着せぬうちに何進は殺されてしまった。董卓は到着すると、帝を廃して弘農王とし、献帝を即位させたので京都は大混乱になった。董卓は上表して太祖を驍騎校尉とし、ともに事業を計画しようとしたが、太祖は姓名を変え、間道を縫って東方に帰っていった。[二]関所を出たものの、中牟を通過しようとしたとき、亭長に嫌疑を懸けられ、捕縛されてまで護送された。の中に密かに彼を見分けた者がおり、(その人が)請願したので解放された。[三]董卓はついに太后および弘農王を殺害してしまった。太祖は陳留に到着すると、家財をなげうって義兵を糾合し、それで董卓を誅殺しようとした。冬十二月、初めて己吾において挙兵した。[四]この歳は中平六年(一八九)である。

[一] 『魏書』に言う。太祖は聞くと彼らを笑い、「閹豎の官というのは古今ずっとあるもの。ただ歴代の君主が彼らに不当な権力寵愛を与えたため、このような事態になっただけだ。彼らの罪を裁くのであれば、元凶を誅殺するには一獄吏がいれば充分だろう。どうして揉めに揉めた挙げ句、外から部将を召し寄せる必要があるのか?彼らをことごとく誅殺しようとすれば、きっと計画は露見するだろう。にはその失敗が見えるぞ」と言った。

[二] 『魏書』に言う。太祖は董卓が最終的に必ず失敗するとみて、とうとう任務に就かないで郷里に逃げ帰った。数騎を従えて旧知である成皋呂伯奢のもとに立ち寄ったが、呂伯奢は不在であった。彼の子息と賓客たちが一緒になって太祖を脅迫し、乗馬や荷物を奪おうとしたので、太祖は自分自身で刃物をとって数人を撃ち殺した。『世語』に言う。太祖は呂伯奢のもとに立ち寄った。呂伯奢は外出していたが、五人の子はみな在宅していて、賓客と主人の礼を尽くした。太祖は自分が董卓の命令に背いていたことから、彼らが自分(の暗殺)を図っているのではないかと疑い、剣を手に取り、夜中に八人を殺して立ち去った。孫盛の『雑記』に言う。太祖は彼らが食器の音を立てるのを聞き、自分が図られていると思い、そこで夜になって彼らを殺した。あとになってひどく悲しみ、「我が他人にくのは仕方ない、他人が我に負くことのないようにしたいものだな!」と言い残して去った。

[三] 『世語』に言う。中牟では彼を逃亡者ではないかと疑い、(太祖は)県に拘置された。当時のもやはり董卓から書状を受け取っていたが、ただ功曹だけは心密かにそれが太祖と分かり、世が乱れようとしているのだから、天下の雄俊を拘置するのはよくないと思い、そこで県令に告げて彼を釈放した。

[四] 『世語』に言う。陳留の孝廉である衛茲は家財をなげうって太祖を援助し、挙兵させ、軍勢は五千人にもなった。

初平元年(一九〇)春正月、後将軍袁術・冀州韓馥・[一]予州刺史孔伷・[二]兗州刺史劉岱・[三]河内太守王匡・[四]勃海太守袁紹・陳留太守張邈東郡太守橋瑁・[五]山陽太守袁遺・[六]済北国の相鮑信は[七]時を同じくして挙兵し、軍勢はおのおの数万人、袁紹を盟主に擁立した。太祖は奮武将軍を(臨時に)行った。

[一] 『英雄記』に言う。韓馥は字を文節といい、潁川の人である。御史中丞になった。董卓は推挙して冀州牧とした。当時、冀州の人民は繁栄し、兵糧は充足してあり余っていた。袁紹が渤海に赴任すると、韓馥は彼が挙兵することを恐れ、数人の部従事を派遣して彼を見張らせ、身動きできなくした。東郡太守橋瑁が京師の三公の文書を偽作して州郡に配布し、董卓の罪状を列挙して、「逼迫されていて自力救済することができない。義兵が国難から解放してくれることを切望している」と言っていた。韓馥は配布を受けて、従事たちを集めて質問した。「いま氏を助けるべきか。董卓を助けるべきか?」治中従事劉子恵は言った。「いま挙兵するのはお国のため。どうして袁だのだのと言われるのですか!」韓馥は発言が短慮であったと自覚し、そして恥ずかしそうな様子になった。劉子恵はまた言った。「軍事は凶事でありますから、首唱してはなりませぬ。いまは他州の様子を見つつ、動き出す者がいて初めて合流すればよいでしょう。冀州は他州より弱いということはございませぬから、他人の功績が冀州の右に出ることはありますまい。」韓馥はその通りだと思った。韓馥はそこで手紙を書いて袁紹に与え、董卓の悪事について述べ、彼が挙兵することを許可してやった。

[二] 『英雄記』に言う。孔伷は字を公緒といい、陳留の人である。張璠の『漢紀』は鄭泰が董卓を説得した言葉を載せ、「孔公緒は清らかな談議、高邁な議論が得意で、枯木にふっと息をかけたり生木にはっと息をかけたりしております」と言っている(鄭渾伝参照)。

[三] 劉岱は劉繇の兄で、事績は『呉志』に見える。

[四] 『英雄記』に言う。王匡は字を公節といい、泰山の人である。財貨を軽んじて施しを好み、任俠をもって知られていた。大将軍何進の(役所)に招かれたが、何進は割り符をもって王匡を派遣し、徐州において強弩五百を徴発させ、西へと京師に帰ってこさせた。ちょうどそのとき何進が敗北したので、王匡は州里に帰還した。家を出て(無官の身から)河内太守を拝命した。謝承の『後漢書』に言う。王匡は若いころ蔡邕と仲が良かった。その年、董卓軍に敗北すると泰山に逃げ帰り、強く勇ましい者を募集すると数千人を手に入れたので、張邈と合流しようとした。王匡はかつて執金吾胡母班を殺したことがあった。胡母班の親族は憤怒を抑えきれず、太祖と勢力を併せ、一緒に王匡を殺した。

[五] 『英雄記』に言う。橋瑁は字を元偉といい、橋玄の族子である。はじめ兗州刺史となり、極めて威厳と恩恵があった。

[六] 袁遺は字を伯業といい、袁紹の従兄である。長安の県令になった。河間の張超はいつも袁遺を太尉朱儁に推薦し、袁遺を「世間でも一番の懿徳があり、時代の中心となる器量があります。その忠誠正直さは、もとより天の与えたところです。典籍を網羅して諸子百家を総攬し、高みに登って賦を作り、物を見つめて名を知るといったことでは、それを現代に求めても当てにはならず、匹敵する者がございませぬ」と称えていた。記事は『(張)超集』にある。『英雄記』に言う。袁紹はのちに袁遺を任用して揚州刺史にしたが、袁術のために敗北した。太祖が「成長しても学問に勤しむ者は、ただ吾と袁伯業だけだ」と称えていたことは、文帝曹丕)の『典論』に記録がある。

[七] 鮑信のことは子の『(鮑)勛伝』に見える。

二月、董卓は挙兵のことを聞き、天子を遷して長安を都にした。董卓は洛陽に駐留し、とうとう宮殿を燃してしまった。このとき袁紹は河内にし、張邈・劉岱・橋瑁・袁遺は酸棗に屯し、袁術は南陽に屯し、孔伷は潁川に屯し、韓馥はにあった。董卓の軍勢は強力で、袁紹らのうちあえて率先して進む者はなかった。太祖は言った。「義兵を挙げたのは乱暴者を誅するためであった。大軍がすでに集合したというのに、諸君らは何を逡巡するのか?以前、董卓は山東の軍勢が起こったことを聞いて、王室の権威に依りかかり、二周の険阻に拠りかかり、東に向いて天下を見下ろしたが、それが無道に行われたとしても、なお憂慮するに足るものであった。今や宮殿を燃焼し、天子を奪ってお遷ししたのだ。海内は震えおののき、落ち着くよすがも知らない。これこそ天が彼を亡ぼさんとする時である。一戦にして天下は平定できよう。(この好機を)失ってはならない。」こうして軍勢を引率して西進し、成皋を拠点にしようとした。張邈は部将衛茲を派遣し、軍勢を分割して太祖に随行させた。滎陽汴水に到達したとき、董卓の部将徐栄と遭遇し、これと戦闘になって敗北し、士卒の死傷する者は非常に多かった。太祖は流れ矢にってしまい、乗っていた馬もを被った。従弟曹洪が馬を太祖に献じたので、夜間、脱走することができた。徐栄は太祖の率いる軍勢が少なく、(にも関わらず)一日中奮戦し続けたのを見て、「酸棗はまだ容易に攻められないぞ」と言い、やはり軍勢を引率して帰還した。

太祖が酸棗に到着すると、諸軍の軍勢十万人余りは、連日、酒を伴う豪勢な宴会を催しており、進軍攻略のことなど計画さえしていなかった。太祖は彼らを難詰し、さらに(彼らの)ために計略を立ててやった。「諸君よ、吾が計略を聞きたまえ。渤海は河内の軍勢を引率して孟津で対陣し、酸棗の諸将は成皋を守りつつ、敖倉を占拠し、轘轅・太谷を封鎖し、それらの要害を完全征圧する。袁将軍は南陽の軍を統率して丹・析に布陣して武関に入り、それによって三輔地方を震動させるのだ。みな城塁を高く防壁を深くして戦わないようにする。次々に疑兵を増やしていって天下の形勢を示し、順をもって逆を誅すれば即座に平定できよう。いま軍勢は道義によって動員されたのだから、疑心を抱いて進軍しないのであれば、天下の希望を失うことになる。密かに諸君らのために恥ずかしく思うぞ!」張邈らは採用することができなかった。

太祖の軍勢は少なくなったので、夏侯惇らとともに揚州に赴いて募兵した。刺史陳温丹楊太守周昕は軍勢四千人余りを与えた。引き揚げて龍亢まで行ったとき、士卒の多くが叛逆した。[一]銍・建平まで行き、ふたたび募兵をかけて千人余りを手に入れ、進軍して河内に駐屯した。

[一] 『魏書』に言う。兵士が謀叛して、夜間、太祖のを焼いた。太祖が自ら剣を取って数十人を殺すと、残りはみないたので、陣営から脱出することができた。叛逆しなかった者は五百人余りだった。

劉岱と橋瑁は憎しみあい、劉岱が橋瑁を殺し、王肱に東郡太守を領させた。

袁紹と韓馥は幽州劉虞を皇帝に擁立せんと計画したが、太祖はそれを拒否した。[一]袁紹はまた一つの玉印を手に入れ、集会の席で太祖に向かって自分の肘を掲げたことがあった。太祖はそれを見て笑っていたが、(内心では)憎らしく思った。[二]

[一] 『魏書』は太祖の袁紹への答えを載せている。「董卓の罪悪は四海に暴露された。吾らが大軍を結集して義兵を起こせば、遠きも近きも呼応しない者はなかった。これは義によって行動したからだぞ。いま幼主は力弱く、姦臣に制されているとはいえ、昌邑(王)が国を亡ぼしたような過ちがあるわけではない。それなのに一朝にして改易なさるとなれば、天下はそれで安心できようか?諸君らは北面なさい。我は自ら西に向こう。」

[二] 『魏書』に言う。太祖は大笑いして「吾は汝の言いなりにはならぬぞ」と言った。袁紹はまた人をやって太祖を説得させた。「いま袁公の勢力は盛んで軍勢は強く、二人の子はすでに成長しております。天下の羣英たちのうち彼に勝る者はおりましょうや?」太祖は答えなかった。こうしたことから、(太祖は)ますます袁紹が不正であると思い、彼らを誅滅せんと計画するようになった。

二年(一九一)春、袁紹・韓馥はついに劉虞を擁立して皇帝としたが、劉虞は最後まで承知しなかった。

夏四月、董卓は長安に引き揚げた。

秋七月、袁紹は韓馥を脅迫して冀州を奪った。

黒山賊の于毒・白繞・眭固らの十万人余りの軍勢が魏郡・東郡を攻略したが、王肱は防ぐことができなかった。太祖は軍勢を引率して東郡に入り、濮陽において白繞を攻撃し、これを破った。袁紹はそこで上表して太祖を東郡太守とし、東武陽で統治させた。

三年(一九二)春、太祖が頓丘に布陣したところ、于毒らは東武陽を攻撃した。太祖はそこで軍勢を引率して西進して山に入り、于毒らの本拠地を攻撃した。[一]于毒はそれを聞いて、武陽を棄てて撤退した。太祖は眭固を待ち伏せし、また匈奴於夫羅内黄において撃ち、いずれも大破した。[二]

[一] 『魏書』に言う。諸将たちはみな引き揚げて自陣を救うべきと主張したが、太祖は「孫臏を救わんとを攻め、耿弇西安に走らんとして臨菑を攻めた。賊徒どもに我が西進したと聞かせてやって、撤退させれば、武陽は自然と解放されるだろう。撤退しなくとも、我は彼らの本拠地を打ち敗ることも可能だし、盗賊どもが武陽を陥落させられないことは必定だ」と言い、そのまま行軍した。

[二] 『魏書』に言う。於夫羅というのは南単于羌渠)の子である。中平年間、(漢朝は)匈奴兵を徴発したが、於夫羅が統率者となって漢朝を補佐した。ちょうどそのころ本国で反乱があり、南単于が殺された。於夫羅はそのままその軍勢を率いて中国に留まった。天下に擾乱が起こったので、西河白波賊と合流し、太原・河内を破り、諸郡で略奪を働いて害をなした。

夏四月、司徒王允呂布が一緒になって董卓を殺した。董卓の将軍李傕・郭氾らが王允を殺し、呂布を攻めた。呂布は敗北し、武関から東へ出た。李傕らは朝政を欲しいままにした。

青州黄巾賊の軍勢百万人が兗州に侵入し、任城国の相鄭遂を殺害し、転進して東平に入った。劉岱はこれを攻撃しようとしたが、鮑信が諫めて言った。「いま賊の軍勢は百万人にもなり、百姓らはみな恐れおののき、士卒には闘志がございません。敵いますまい。賊軍を観察したところ、群れをなして人々が寄り添い合っているだけで(統率者がおらず)、軍中には輜重もなく、ただ略奪だけに食糧を頼っております。今は軍勢の気力を養い、まずは固守するのが最上。彼らは戦おうと思ってもできず、攻撃しようと思ってもやはりできず、その勢力はきっと離散するでしょう。そののち精鋭を選抜し、要害を占拠して彼らを撃てば、撃破することもできましょう。」劉岱は聞き入れず、そのまま彼らと戦い、案の定殺されてしまった。[一]鮑信はそこで州吏万潜らとともに東郡へ赴き、太祖を領兗州牧に迎えた。(太祖は)そのまま軍勢を進め、寿張の東において黄巾賊を攻撃した。鮑信が奮戦のすえ討死し、やっとのことで撃ち破ることができた。[二]鮑信の亡骸を買い求めたが見付けられず、人々はそこで木を刻んで鮑信の姿に似せ、祭礼を行って哭泣した。黄巾賊を済北まで追撃すると、(賊は)投降を願い出た。冬、投降兵三十万人余り、男女百万人余りを受け入れ、彼らのうち精鋭を選りすぐって「青州兵」と名付けた。

[一] 『世語』に言う。劉岱が死んだのち、陳宮は太祖に告げた。「州にはいま君主なく、そのうえ王命(を伝える街道)も断絶しております。陳宮は州内を説得したいと存じます。明府はすみやかに赴いてこれを(統治)しなされ。それを元手に天下を収めること、これぞ霸王の業であります。」陳宮は別駕・治中を説得して言った。「いま天下は分裂し、州には君主なき有様。曹東郡は命世の才をお持ちです。もし迎え入れて州を牧させれば、きっと民衆を安心させることができましょう。」鮑信らもやはりその通りだと思った。

[二] 『魏書』に言う。太祖は歩騎千人余りを率い、戦場視察に出かけた。突然、賊軍の陣営にぶつかった。戦況は不利となり、死者数百人を出して撤退した。賊軍はすぐに前進してきた。黄巾党は賊徒に身を崩して久しく、しばしば勝利を味わってきたので、兵士はみな精悍であった。太祖(の手元)には古参の兵が少なく、新兵は調練不足であり、軍をこぞってみな恐怖した。太祖は甲冑を身に纏い、親しく将兵を巡察して賞罰を明らかにした。軍勢はそこで再び奮い立ち、隙を見て攻撃をかけたので、賊徒どもは少しづつ打ち砕かれて退いた。賊徒はそこで文書を太祖に送り付けて言った。「むかし(使君が)済南にいらっしゃったとき、神壇を破壊されましたが、その道は中黄太乙と同一でございました。についてご存じかと見えましたのに、今になって錯乱しておいでです。漢の命運はすでに尽きており、黄家が立つべきなのです。天の大いなる運命でございますから、君の才能力量で存続させられるものではございませんぞ。」太祖は檄文を見ると叱咤罵倒し、何度も降服への道を示してやった。けっきょく伏兵を設置し、昼夜にわたって会戦を繰り広げ、戦うたびに捕虜を得たので、賊軍は撤退した。

袁術と袁紹は仲違いしていたので、袁術は公孫瓚に救援を求めた。公孫瓚は劉備高唐に屯させた。単経は平原に屯し、陶謙発干に屯して袁紹を圧迫した。太祖は袁紹と会同し、それらを全て撃ち破った。

四年(一九三)春、鄄城に進駐した。荊州劉表が袁術の糧道を遮断すると、袁術は軍勢を引率して陳留に進入し、封丘に屯した。黒山賊の残党および於夫羅らがそれを支援した。袁術は将軍劉詳匡亭に屯させた。太祖は劉詳を攻撃したが、袁術が彼に救援を出したので合戦となり、彼らを大破した。袁術が撤退して封丘に楯籠ったので、そのままこれを包囲した。まだ(包囲軍が)集合しないうちに袁術は襄邑に逃走したので、太寿まで追撃し、運河を決壊させて(太寿)城を水没させた。(袁術が)寧陵に逃走したので、さらに彼を追撃すると、(袁術は)九江に逃走した。夏、太祖は帰還して定陶に駐留した。

下邳闕宣が軍勢数千人を集め、天子を自称した。徐州牧陶謙は一緒に軍勢を催し、泰山の華・費を奪取し、任城で略奪を働いた。秋、太祖は陶謙を征討して十城余りを下したが、陶謙は城に楯籠り、出てこようとはしなかった。

この歳、孫策が袁術の指示を受けて長江を渡り、数年のあいだで、とうとう江東を領有してしまった。

興平元年(一九四)春、太祖は徐州から帰還した。むかし太祖の父曹嵩は、官職を去ったのち譙に帰郷し、董卓の乱が起こったので琅邪に避難したが、陶謙に殺害されてしまった。そのため太祖は復讐を志して東征したのである。[一]夏、荀彧・程昱に鄄城を守らせ、再び陶謙を征伐し、五つの城を陥落させ、そのまま各地を攻略しつつ東海まで到達した。引き返してを通過したが、陶謙の将軍曹豹と劉備が郯の東に屯し、太祖を迎撃した。太祖は彼らを撃破し、そのまま襄賁を攻撃して陥落させた。(太祖の軍の)通過した場所では多くの人が殺戮された。[二]

[一] 『世語』に言う。曹嵩は泰山の華県にいた。太祖は泰山太守応劭に命じ、家(家族)を兗州まで送らせた。応劭の軍勢がまだ到着しないうちに、陶謙が密かに数千騎を派遣して捕まえてしまった。曹嵩の家では応劭の出迎えだと思い、準備を設けていなかったのだ。陶謙の軍勢はやってきて、太祖の弟曹徳を門内で殺害した。曹嵩は恐怖し、裏手の垣根に穴を開け、まず自分の妾を脱出させようとしたが、妾は肥えていて出ることができなかった。曹嵩は廁へ逃げ込んだが、妾と一緒に殺害され、郷里の一族はみんな死んだ。応劭は恐懼し、官職を棄てて袁紹のもとへ赴いた。のちに太祖が冀州を平定したとき、応劭は当時すでに死んでいた。韋曜の『呉書』に言う。太祖は曹嵩を出迎えるのに、輜重百両余り(を派遣して旅行の費用としたの)であった。陶謙は都尉張闓に騎兵二百人を率いさせて護送させた。張闓は泰山の華・費の境界で曹嵩を殺し、財物を奪い、そのあと淮南に出奔した。太祖は罪咎を陶謙に被せ、それから彼を討伐した。

[二] 孫盛は言う。罪人を伐ち、民衆を慰めるのが古代の規範である。罪は陶謙にあるのに、彼の配下を殺してしまったのは過ちである。

ちょうどそのとき張邈が陳宮とともに叛逆し、呂布を迎え入れた。郡県はみな呼応した。荀彧・程昱は鄄城に楯籠り、范・東阿の二県も固守した。太祖はそこで軍勢を引率して帰還した。呂布がやってきて鄄城を攻撃したが、陥落させられず、西進して濮陽に屯した。太祖は言った。「呂布は一日にして一州を得たものだが、東平を占拠して亢父・泰山の道を遮断し、要害を利用して我を迎え撃つことができず、とうとう濮陽に屯してしまった。吾は彼の無能が分かったよ。」こうして進軍して彼を攻撃した。呂布は軍勢を押し出して戦い、真っ先に騎兵でもって青州兵を襲った。青州兵が逃げ去り、太祖の布陣は混乱してしまった。(太祖は)馬を走らせて火炎から脱出したが、落馬し、左手の手のひらに火傷を負った。司馬楼異が太祖の手を引いて馬に乗せ、そのまま撤退した。[一](太祖が)陣営に到着する以前、諸将は太祖の姿が見えないため、みな恐れを抱いた。太祖はそこで自ら励んで軍勢を慰労し、軍中に攻城用兵器を作って進軍し、び彼を攻撃するようにと督促した。呂布と対峙すること百日余りになった。蝗虫が発生して百姓は大いに餓え、呂布の糧食もやはり底をついたので、おのおの撤退した。

[一] 袁暐の『献帝春秋』に言う。太祖が濮陽を包囲したとき、濮陽の大姓氏が反間となったので、太祖は入城することができた。(太祖は)その東門を焼き、引き返す意志のないことを示した。戦闘に及んだが、軍勢は敗北した。呂布の騎兵が太祖を捕まえたが、彼であるとは知らずに尋問した。「曹操はいづくにおるか?」太祖は言った。「黄色い馬に乗って逃げていくのが、その方です。」呂布の騎兵はそこで太祖を釈放し、黄色い馬の者を追跡した。門の火はまだ燃えさかっていたが、太祖は火炎を突き抜けて脱出した。

秋九月、太祖は鄄城に帰還した。呂布は乗氏に着陣したが、その県の人李進に撃破され、東進して山陽に屯した。ここにおいて、袁紹は人をやって曹操を説得し、和睦しようと望んだ。太祖は兗州を失ったばかりで、軍勢も食糧が底を突いており、それを承知しようとした。程昱が太祖を諫止したので、太祖はそれを聞き入れ(取り止め)た。冬十月、太祖は東阿に着陣した。

この歳、穀物が一斛あたり五十万銭余りに上り、人々は互いの肉を食らい合った。そこで官吏・兵士の新たな募集は中止した。陶謙が死去し、劉備が彼に交代した。

二年(一九五)春、定陶を襲撃した。済陰太守呉資南城に楯籠り、陥落させられなかった。ちょうどそこへ呂布が着陣したので、また彼を撃破した。夏、呂布の将軍薛蘭・李封鉅野に屯していたので、太祖はこれを攻撃した。呂布は薛蘭を救援したが、薛蘭が敗北すると呂布も逃走した。かくて薛蘭らを斬った。呂布は再び東緡から陳宮に合流し、一万人余りを率いて来襲してきた。当時、太祖の軍勢は少なかったので、伏兵を設け、奇兵を放って攻撃し、彼らを大破した。[一]呂布が夜間逃走すると、太祖はまた攻勢に出て定陶を陥落させ、軍勢を分けて諸県を平定した。呂布は東方へ行き劉備のもとに出奔した。張邈は呂布に随従し、その弟張超に家族を率いさせて雍丘に楯籠らせた。秋八月、雍丘を包囲した。冬十月、天子は太祖を兗州牧に任命した。十二月、雍丘は潰滅し、張超は自殺した。張邈の三族をにした。張邈は袁術に救援を求めに行ったが、彼の人数に殺されてしまった。兗州が平定されたので、そのまま東進しての地を攻略した。

[一] 『魏書』に言う。このとき軍勢はみな麦を取りに出ており、残っている者は千人にもせず、陣営も堅固でなかった。太祖はそこで婦人たちにを守らせ、軍勢をかき集めて防衛した。陣営の西側に大きな堤があり、その南側は樹木が鬱蒼としていた。呂布は伏兵があるのではないかと疑い、そこで「曹操は詐術が多い。伏兵の中に入るなよ」と(左右の者と)言い合い、軍勢を引率して南十里余りのところに屯した。翌日、再びやってきたが、太祖は軍勢を堤の裏側に潜ませ、半数の軍勢を堤の外に出した。呂布がますます前進してきたので、軽装の兵士に挑戦させた。ぶつかったとき、伏兵が一斉に堤に乗り、歩兵と騎兵とがならんで突き進んで彼らを大破し、その鼓車を鹵獲した。彼らの陣営まで追撃し、そののち帰還した。

この歳、長安が混乱し、天子は東方に遷したが、曹陽において敗北した。黄河を渡って安邑に行幸した。

建安元年(一九六)春正月、太祖が進軍して武平に臨むと、袁術の配置した陳国の相袁嗣は降服した。

太祖が天子を迎え入れようとしたとき、諸将の中には疑う者もあったが、荀彧・程昱はそれを勧めた。そこで曹洪に軍勢を率いさせて西に迎えさせたが、衛将軍董承が袁術の将軍萇奴とともに険阻に拒んだため、曹洪は進むことができなかった。

汝南・潁川の黄巾賊の何儀・劉辟・黄邵・何曼らは、軍勢おのおの数万人であり、かつては袁術に呼応したり、また孫堅に附属したりしていた。二月、太祖は進軍して彼らを討ち破り、劉辟・黄邵らを斬首すると、何儀および彼らの軍勢はみな降服した。天子は太祖を建徳将軍に任命し、夏六月、鎮東将軍に昇進させ、費亭侯に封じた。秋七月、楊奉・韓暹が天子を奉じて洛陽に帰還し、[一]楊奉は別途、に屯した。太祖がそのまま洛陽へ赴いて京都を守護すると、韓暹は遁走した。天子は太祖に節鉞し、録尚書事とした。[二]洛陽は破滅しており、董昭らは太祖にへの遷都を勧めた。九月、御車は轘轅を出て東下し、太祖を大将軍とし、武平侯に封じた。天子が西方に遷都してからというもの、朝廷は日ごとに混乱していたが、このときになって宗廟・社稷の制度が初めて確立された。[三]

[一] 『献帝春秋』に言う。天子は初めて洛陽に到着したとき、城西にあるの中常侍趙忠の邸宅に行幸した。張楊に宮殿を修繕させて、殿舎を「楊安殿」と名付け、八月、帝はそこで居を遷した。

[二] 『献帝紀』に言う。また司隷校尉を領した。

[三] 張璠の『漢紀』に言う。むかし天子は曹陽において敗北したとき、黄河に船を浮かべて東下しようと考えた。侍中・太史令王立は言った。「昨春より太白(金星)が牛宿(やぎ座)・斗宿(いて座)において鎮星(土星?)を犯して天津(はくちょう座)をよぎり、熒惑(火星)もまた逆行して北河(ふたご座)を守っており、犯すことができません。」そのため天子はついに黄河を北岸へと渡らず、軹関から東方に出ようとした。王立はまた宗正劉艾に告げた。「以前、太白が天関を守り、熒惑と遭遇しておりました。金と火が交わり遭遇するのは革命のでございます。漢の祚は尽き果て、晋・魏に必ず興隆する者がありましょう。」王立はその後もしばしば帝に言上する。「天命には去就があり、五行は常時盛んなわけではありません。火に代わる者は土、漢を承ける者は魏、よく天下を安んずる者は曹姓でございます。ただただ曹氏にご委任なさるばかりです。」公はそれを聞いて、人をやって王立に伝えさせた。「公が朝廷に対して忠義なのは存じておる。さりとて天道は深遠たるもの。他言なさらぬのが幸いである。」

天子が東下したとき、楊奉は梁を出てそれを待ち構えようとしたが、追い付けなかった。冬十月、公は楊奉を征伐し、楊奉が南に袁術のもとへと出奔したので、そのまま彼の梁の屯所を攻撃し、それを陥落させた。ここにおいて袁紹を太尉としたが、袁紹は席次が公の下になることを恥じ、拝命を承諾しなかった。公はそこで固辞して、大将軍(の官職)を袁紹に譲った。天子は公を司空に任命し、車騎将軍(の職務)を行わせた。この歳、棗祗・韓浩らの建議を採用し、初めて屯田を興した。[一]

[一] 『魏書』に言う。騒乱(の時代)に遭遇してからというもの、大抵は食糧が欠乏していた。諸軍はならんで決起したが、年越しの計略もなく、飢えれば略奪して飽きれば残り物を棄てており、(その結果)瓦解して流浪して、敵もいないのに自滅する者が数え切れないほどだった。袁紹は河北にあったが、軍人は桑椹に食物を仰いでいた。袁術は江・淮にあったが、蒲蠃を給するのが手だった。人民は互いに食らいあい、州里はひっそりと静まりかえった。公は言った。「国家安定の術は、軍備の強化と食糧の充足にあるものだ。秦人は農業を急務として天下を兼併し、孝武は屯田によって西域を平定した。これこそ先代の良き模範である。」この歳、民衆から募集して許の城下で屯田を行い、百万の穀物を収穫した。こうして州郡への田官配置を定めると、いたるところで穀物が積み上げられた。四方を征伐するにも食糧搬送の苦労がなく、ついに羣賊を兼併して滅ぼし、よく天下を平定した。

呂布が劉備を襲撃して下邳を奪い取ったので、劉備が脱走して来降してきた。程昱が公を説得して「劉備を観察してみるに、英雄の才覚を持ち、はなはだ人々の心をつかんでおります。最後まで人の下についていないでしょう。早々にもこれを図るのが最上です」と言った。公は「いまは英雄を迎え入れたいときである。一個の人間を殺して天下の心を失ってはならんのだ」と言った。

張済関中から南陽に走っていたが、張済が死ぬと、従子の張繡がその軍勢を宰領した。二年(一九七)春正月、公はに着陣した。張繡は降服したが、あとになってそれを後悔し、再び反抗した。公はそれと戦ったが軍勢は敗北し、流れ矢に当たり、長子曹昂や弟の子曹安民が殺害された。[一]公はそこで軍勢を引き払って舞陰に帰還し、張繡が騎兵を率いて略奪に来ると、公はそれを撃破した。張繡はに遁走し、劉表と合流した。公は諸将に言った。「吾は張繡らを降しながら、すぐさま人質を取らぬ失敗を犯し、かような羽目になってしまった。吾はどうして敗北したのか分かった。諸卿はこれを見ていてくれ。今後はもう失敗しないぞ。」かくて許に帰還した。[二]

[一] 『魏書』に言う。公の乗馬は名を「絶影」といい、流れ矢に当たって頬と足とを傷付けた。同時に公の右臂にも命中した。『世語』に言う。曹昂は(怪我のため)騎乗することができず、公に馬を捧げた。公はそれで逃げ延びられたのだが、曹昂は殺害されてしまった。

[二] 『世語』に言う。旧制では、三公が軍勢を領して入朝した際、いつも戟を交わして(その人の)頸部を挟んでから御前に出ることになっていた。はじめ公が張繡を討伐しようとしたとき、(勅許を得るため)天子に朝覲したが、ちょうどその制度が復活されたばかりだった。公はそれ以来、再び朝見しようとしなくなった。

袁術は淮南において帝を称したいと思い、人をやって呂布に告げさせた。呂布はその使者を収監し、その文書を呈上した。袁術は怒って呂布を攻撃したが、呂布に破られてしまった。秋九月、袁術が陳に侵攻したので、公はこれを東征した。袁術は公自らやってきたと聞き、軍勢を棄てて逃走し、その将軍橋蕤・李豊・梁綱・楽就を残留させた。公は到着すると、橋蕤らを撃破し、これらを全て斬首した。袁術は逃走して淮水を渡った。公は許に帰還した。

公が舞陰から引き揚げたとき、南陽・章陵の諸県が再び叛逆して張繡に荷担していた。公は曹洪を派遣してそれらを攻撃させたが、不利となった。(曹洪は)引き揚げてに屯したが、しばしば張繡・劉表の侵害を被った。冬十一月、公は自ら南征して宛に着陣した。[一]劉表の将軍鄧済湖陽に楯籠っていたが、これを攻撃して陥落させ、鄧済を生け捕りにして湖陽を降服させた。舞陰を攻撃してこれを陥落させた。

[一] 『魏書』に言う。淯水に臨むと、亡くなった将兵を祀り、涙を流してむせび泣いた。人々はみな感動した。

三年(一九八)春正月、公は許に帰還すると、初めて軍師祭酒を設置した。三月、公は穣において張繡を包囲した。夏五月、劉表が軍勢を派遣して張繡を救援し、(公の)軍の背後を断絶しようとした。[一]公は引き揚げようとしたが、張繡の軍勢がやって来て、公の軍勢は進むことができなくなり、陣営を連ねて少しづつ進むことになった。公は荀彧に手紙を送って言った。「賊どもがやって来て吾を追撃し、一日に数里も行軍しているとはいえ、吾の計算では、安衆に到達するころには張繡の破滅すること必定である。」安衆に到達すると、張繡は劉表の軍勢と合流して要害を守り、公の軍勢は前後から敵を受けた。公はそこで、夜中に要害を掘鑿して坑道を作り、輜重を残らず送り出してから伏兵を設けた。ちょうど夜明けになったが、賊どもは公が遁走したのだと思い、全軍こぞって追撃してきた。そこで伏兵を放って歩兵と騎兵とで挟み撃ちにし、彼らを大破した。秋七月、公は許に帰還した。荀彧は公に訊ねた。「以前、賊が必ず破れると計算されたのは、どうしてですか?」公は言った。「奴らは我が帰還軍を圧迫し、吾を死地に置いて戦わせた。吾はこれこそ知力をもって勝利することだと思ったのだ。」

[一] 『献帝春秋』に言う。袁紹の叛逆した兵卒が公のもとに参詣して言った。「速やかに許を襲撃し、天子を擁して諸侯に命令するならば、四海は指差すだけで平定できましょう、と田豊が袁紹を使嗾しております。」公はそこで張繡包囲を解いた。

呂布はまたもや袁術に荷担して高順に劉備を攻撃させた。公は夏侯惇を派遣して彼を救援させたが、不利になった。劉備は高順に敗北した。九月、公は呂布を東征した。冬十月、彭城り、その相の侯諧を捕らえた。下邳まで進軍すると、呂布が自ら騎兵を率いて反撃してきた。(公は)それを大いに打ち破り、彼の驍将成廉を捕らえた。追撃して城下に至ると、呂布は恐怖を抱いて降服しようと思った。陳宮らはその計略を押しとどめ、袁術に救援を求める一方、呂布に出戦を勧めた。戦闘にはまた敗れ、引き返して固守した。(公が)これを攻撃しても陥落させられなかった。当時、公は連戦を重ねて士卒が疲弊していたため、引き揚げようと考えたが、荀攸・郭嘉の計略を用い、そのまま泗水・沂水を決壊させて城を水浸しにした。一ヶ月余りで、呂布の将軍宋憲・魏続らが陳宮を縛りあげて、城をこぞって降服してきた。呂布・陳宮を生け捕りにしたが、これらを全て殺した。太山臧霸・孫観呉敦・尹礼・昌豨はおのおの軍勢を集めていた。呂布が劉備を破ったとき、臧霸らはことごとく呂布に服従した。呂布が敗北すると臧霸らを捕らえたが、公は手厚く迎えて待遇し、そのまま青・徐二州を分割して海に付けて(?)委任し、琅邪・東海・北海を分割して城陽・利城・昌慮郡を立てた。

むかし公が兗州(牧)になったとき、東平の畢諶を別駕としていた。張邈が叛逆したとき、張邈は畢諶の母・弟・妻子を人質に取った。公は別れの挨拶をし、彼を行かせようとして言った。「卿の老母があちらにいる。行ってください。」畢諶は二心は抱きませぬと頓首した。公はそれを憎からず思い、彼のために涙を流した。(畢諶は)退出すると、そのまま逃亡してしまった。呂布が破滅したとき、畢諶は生け捕りにされた。人々は畢諶の身を案じて心配したが、公は「人間たるもの、その肉親に対して孝行な者が、主君に対してまた忠義でないということがあろうか!吾が求めるところである」と言い、(彼を)魯国の相とした。[一]

[一] 『魏書』に言う。袁紹はかねてより故の太尉楊彪・大長秋梁紹少府孔融と仲違いしており、公に指図して他事にかこつけて誅殺させようとした。公は言った。「いまは天下が土崩瓦解し、雄豪が並びつときに当たっており、補佐の宰相も頭立つ長官も、人々は怏々とした気持ちを懐き、おのおの自己保身の心を持つばかりです。これこそ上下の者が疑いあうです。疑念を抜きに待遇したとして、それでも信頼されない恐れがあるのです。もし排除される者があれば、誰が自分の危険を感じないでいられましょう?しかも、丈夫たる者が布衣(無官)の身から起ち上がって塵芥にまみれておりますのに、凡人に威張ったりみ付けにしたりされたなら、怨みに堪えられましょうか!高祖が雍歯へのを容赦すると、羣情(羣衆の心情)は安らぎました。どうしてそれを忘れられましょうや?」袁紹は、公が外見では公義にかこつけながら、内心では離叛異心を含んでいるのだと思い、深く怨恨を懐いた。臣裴松之が思うに、楊彪もまたかつて魏武(曹操)に困窮させられ、もうすぐ死ぬところだったし、孔融はとうとう誅戮を免れなかった。どうして、いわゆる「まずその言葉を行い、そののちこれに従う」といえようか!知ることが困難なのではなく、(問題は)それを行うことにあるのだというが、である。

四年(一九九)春二月、公は引き揚げて昌邑に到達した。張楊の将軍楊醜が張楊を殺したが、眭固がさらに楊醜を殺し、その軍勢を挙げて袁紹に属し、射犬に屯した。夏四月、軍勢を進めて黄河に臨み、史渙・曹仁に渡河させて彼を撃たせた。眭固は張楊の故の長史薛洪・河内太守繆尚に留守させ、自分は軍勢を率い、袁紹を北方で出迎えて救援軍を求めたが、(射)犬城で史渙・曹仁と遭遇した。(史渙らは)交戦のすえこれを大破し、眭固を斬った。公は、かくて黄河を渡って射犬を包囲した。薛洪・繆尚が軍勢を率いて投降したので、列侯に封じ、引き揚げて敖倉に着陣した。魏种を河内太守とし、河北の事務を属させた。

むかし公は魏种を孝廉に推挙したことがある。兗州が叛逆したとき、公は「ただ魏种だけは、まあを棄てたりすまい」と言った。魏种が逃走したと聞いて、公は怒って言った。「魏种よ、南はに、北はに走らねば、を置いておかぬぞ!」射犬が陥落したとき、魏种を生け捕りにした。公は言った。「ただその才能のみ!」その縛めを解いて彼を任用した。

このとき袁紹はすでに公孫瓚を併呑し、四州の地を兼有しており、軍勢は十万人余りになり、進軍して許を攻撃しようとしていた。諸将は敵わないと思ったが、公は「吾は袁紹の人となりを知っておるが、志は大きくとも智は小さく、色は激しくとも胆は薄く、強きを憎むとも威は少ない。(また)軍勢は多くとも分別がはっきりしておらず、将軍は驕るとも政令は一定しておらぬ。土地広く、糧食豊かであるとはいえ、まったく吾への捧げものになるばかりだ」と言った。秋八月、公は軍勢を黎陽に進め、臧霸らには青州に進入させて斉・北海・東安を破らせ、于禁を黄河のほとりに駐留させた。九月、公は許に帰還すると、軍勢を分遣して官渡を守らせた。冬十一月、張繡が軍勢を率いて投降してきたので、列侯に封じた。十二月、公は官渡に布陣した。

袁術は陳で敗れてからというもの、次第に困窮してきており、袁譚が青州から彼を迎え入れた。袁術が下邳から北方に突き抜けようとしたので、公は劉備・朱霊を派遣してそれを待ち受けさせた。ちょうどそのとき袁術は病死した。程昱・郭嘉は公が劉備を派遣したと聞き、公に言上した。「劉備を放ってはなりませぬ。」公は後悔し、彼を追いかけたが間に合わなかった。劉備は東に行かぬうち、密かに董承らの謀反に荷担していた。下邳に到達すると、そのまま徐州刺史車胄を殺し、挙兵して沛に屯した。(公は)劉岱・王忠を派遣してそれを攻撃させたが、勝つことはできなかった。[一]

[一] 『献帝春秋』に言う。劉備は劉岱らに言った。「汝らが百人来ようとも、それでは我をどうともできやしないぞ。曹公(曹操)が自分で来ようとも、まだ分からないくらいだ!」『魏武故事』に言う。劉岱は字を公山といい、沛国の人である。司空長史として征伐に従軍し、功績を立てて列侯に封ぜられた。『魏略』に言う。王忠は扶風の人で、若いころ亭長となった。三輔が擾乱すると、王忠は飢えに苦しんで人をった。朋輩とともに南方は武関に向かった。ちょうど婁子伯婁圭)が荊州(刺史)となっており、北方の客人を迎えにやっていた。王忠は行きたくないと思い、そこで等伍を率いて彼に反撃してその軍兵を奪い取り、人数千人余りを集めて公に帰順した。王忠は中郎将に任じられ、征討に従軍した。五官将(曹丕)は王忠がかつて人を噉ったことがあると知り、そこで車駕に従って出陣したとき、のあいだの髑髏を取ってきて王忠の馬の鞍に繋がせ、笑い種にした。

廬江太守劉勲が軍勢を率いて投降してきたので、封じて列侯とした。

五年(二〇〇)春正月、董承らの陰謀が泄れ、みな誅に伏した。公が自ら東進して劉備を征伐しようとすると、諸将はみな言った。「公と天下を争っているのは袁紹であります。いま袁紹がやってきているのに、それを棄ておいて東進なさるならば、袁紹が背後に乗じてきた場合いかがなさいますか?」公は言った。「劉備は人傑である。いま撃たねば必ずや後の患いとなろう。[一]袁紹は大志を持っているとはいえ、時機を見付けるのが遅いから、きっと動くまいよ。」郭嘉もまた公に勧めたので、かくて東進し、劉備を攻撃してこれを破り、その将軍夏侯博を生け捕りにした。劉備は袁紹のもとへと遁走し、その妻子を捕獲した。劉備の将軍関羽が下邳に屯しており、再び進軍してそれを攻めると、関羽は投降した。昌豨が叛逆して劉備に荷担したので、またこれを攻め破った。公は官渡に帰還したが、袁紹はとうとう出てこなかった。

[一] 孫盛の『魏氏春秋』に言う。諸将に答えて言った。「劉備は人傑である。将来寡人を憂えさせるだろう。」臣裴松之は思う。史書は事柄を記録する段階で、すでに多くの潤色をしており、そのため過去の記述には事実でないものがある。後世の作者がさらに作意を起こして改竄する。事実を失うということにおいて、いよいよ遠くなるではないか!だいたい孫盛は書物を作るとき『左氏』を利用して旧来の文章を改変することが多く、こうした例は一つに止まらない。ああ、後世の学者はどれを信ずればよいのか?しかも魏武はまさに天下に向かって大志を逞しくしているときだ。それなのに(呉王の)夫差が死を覚悟したときの言葉を用いている。その類比の間違いは最も(ひどいもの)だ。

二月、袁紹は郭図淳于瓊顔良を派遣して東郡太守劉延白馬で攻撃させ、袁紹は軍勢を率いて黎陽に着陣し、黄河を渡ろうとした。夏四月、公は北進して劉延を救援した。荀攸は公を説得して言った。「いま軍勢は少なく敵いません。彼らの勢力を分断して初めて可能になります。公が延津に着陣なさり、軍勢を渡して彼らの背後を衝こうとすれば、袁紹は必ず西行して対応しようとします。そののち軽騎兵によって白馬を襲撃し、彼らの不備を突けば顔良を生け捕りにできましょう。」公はそれに従った。袁紹は(公の)軍勢が(延津から)渡ったと聞くや、すぐさま軍勢を分け、西進して対応した。公はそこで軍勢を引き揚げて(昼夜)兼行で白馬にき、十里余り手前まで来たところ、顔良は大いに驚き、やってきて迎撃しようとした。(公は)張遼・関羽に前登させて撃破し、顔良を斬った。こうして白馬の包囲は解かれた。その住民を黄河沿いに西方へ移した。袁紹はそこで黄河を渡って公の軍勢を追跡し、延津の南岸までやってきた。公は軍勢を率いて南阪の麓に駐屯していたが、(兵士に)塁を登らせて彼らを望見させると、「五・六百騎ほどでございます」とのことであった。しばらくしてまた報告があった。「騎兵が次第に増え、歩兵は数えきれません。」公は言った。「もう報告はしてくれるな。」そこで鞍を外して馬を自由にしてやれと騎兵たちに命じた。そのとき白馬からの輜重車は路上にあった。諸将たちは、敵の騎兵が多いから引き返して陣中に楯籠るが上策だと言った。荀攸は言った。「これは敵を釣る餌なのだ。どうしてどけてしまうのだ!」袁紹の騎将文醜は劉備とともに五・六千騎を率い、前後しつつやってきた。諸将はまた建白した。「馬に乗るべきでしょう。」公は言った。「まだだ。」しばらくして騎兵の到着は次第に増えていき、ある者は輜重車に趣いていった。公は言った。「いいぞ。」そこで皆は馬に乗った。ときに騎兵は六百に満たなかったが、そのまま軍勢を放って攻撃し、大いに彼らを打ち破って文醜を斬った。顔良・文醜はいずれも袁紹の名将であったが、二度の戦いでことごとく捕らえられたので、袁紹軍は大層震え上がった。公は引き返して官渡に布陣し、袁紹は進軍して陽武を拠点とした。関羽は逃亡して劉備のもとへ帰った。

八月、袁紹は陣営を連ねて少しづつ前進し、砂丘を占拠して屯営とし、東西数十里に展開した。公もまた陣営を分割して当たったが、合戦では不利となった。[一]時に公の軍勢は一万人にも満たず、負傷者は十人中の二・三人であった。[二]袁紹はふたたび進軍して官渡に臨み、土山と坑道を掘り起こした。公の方でも内側でそれを作って対応した。袁紹は陣営内に矢を射込み、矢は雨の如く降り注いだ。行く者はみな楯を被り、人々は大いに恐怖した。このとき公の食糧は少なく、荀彧に手紙を送って、許へ帰還したいと相談した。荀彧は言った。「袁紹は軍勢をこぞって官渡に集めており、公と勝敗を決せんと願っております。公は至弱をもって至強にぶつかっておられ、もし制することができなければ、必ずや勢いに乗じさせる羽目となりましょう。これこそ天下(分け目)の大いなる時機なのであります。まず袁紹は布衣の英雄に過ぎず、人々を集めることはできても用いることはできませぬ。公の神武・明哲をもってして(天子推戴の)大順を補佐なさるのですから、どうして向かう先々で成功しないことがありましょうや!」公はそれに従った。

[一] 習鑿歯の『漢晋春秋』に言う。許攸は袁紹を説得して言った。「公は曹操と攻撃しあってはなりませぬ。速やかに諸軍を分割して対峙され、その一方で他の道から直進して天子をお迎えになれば、事業はたちどころに完成いたしましょうぞ。」袁紹は聞き入れないで言った。「吾はまず彼を包囲して攻め取らねばならぬ。」許攸は憤怒した。

[二] 臣裴松之は思う。魏武は初めに挙兵したとき、すでに軍勢五千人を持っていた。以後、百戦百勝し、負けたのは十中の二・三に過ぎない。ただ一度黄巾賊を撃破しただけで、降服した兵卒三十万人余りを受け入れており、その他の併呑したものは全てを書き記すことができない(ほど多い)。征討戦で損傷したといっても、これほど少なくなったはずはないのである。陣営を構築して守備するというのは、矛先をぶつけて決戦することとは違うものだ。『本紀(武帝紀)』では「袁紹の軍勢は十万人余りになり、屯営は東西数十里に展開された」と言っている。魏の太祖の臨機応変が無限で、武略が不世出であったとしても、どうして数千の軍勢を持つだけで長時間に渡って拮抗できようか?理屈をもって言うならば、おそらくそうではなかっただろうと思われる。袁紹の屯営は数十里にもなるのに、公がよく陣営を分割して当たることができたが、これこそ軍勢がさほど少なくはなかった(証拠の)第一である。袁紹がもし十倍の人数を持っていたのであれば、理屈からいって全力で守備兵を包囲し、出入りを遮断したはずだ。それなのに公は徐晃らをやってその輸送車を攻撃させており、公もまた自ら出てきて淳于瓊らを攻撃しているが、を掲げて往来しているのにまるで抵抗がなかった。袁紹の兵力では牽制することができなかったのは明らかであって、これこそ(公の軍勢が)さほど少なくはなかった(証拠の)第二である。諸書ではみな公が袁紹の軍勢八万人をにしたと言っており、ある本では七万と言っている。八万もの人間が逃げ散れば、八千人で捕縛することなどできるものではない。それなのに袁紹の大軍はみな手を拱いて殺戮されたのだという。一体どんな力で彼らを制御したというのか?これこそ(公の軍勢が)さほど少なくはなかった(証拠の)第三である。記述しようとした者が、少なく見積もることによって奇抜さを示そうとしたものであり、その事実を記録したものではないのである。『鍾繇伝』を調べてみると、「公が袁紹と対峙しているとき、鍾繇は司隷となり、馬二千匹余りを送って軍に供給した」と言っているが、『本紀』および『世語』ではいずれも、公はそのとき騎馬六百匹余りを持っていたと言っている。鍾繇の馬はどこにいると言うのか?

孫策は公が袁紹と対峙していると聞き、そこで許を襲撃せんと企てた。まだ進発しないうち、刺客に殺された。

汝南の投降した賊である劉辟らが叛逆して袁紹に呼応し、許の城下を攻略した。袁紹は劉備をやって劉辟を支援させ、公は曹仁をやって彼らを撃破させた。劉備が逃走したので、そのまま劉辟の屯営を打ち破った。

袁紹の食糧輸送車数千乗が来たので、公は荀攸の計略を採用して徐晃・史渙に迎撃させ、それらを大破し、その車両を焼き尽くした。公は袁紹と対峙してから幾月にもなり、近ごろの戦いで将軍を斬ったりはしたものの、それでも軍勢は少なく食糧は尽き果て、士卒は疲労していた。公は輸送要員たちに告げた。「十五日もすれば汝のために袁紹を破る。もう汝に苦労はさせないよ。」冬十月、袁紹は車両を派遣して食糧を運ばせたが、淳于瓊ら五人に軍勢一万人余りを率いさせてそれを護送させ、袁紹陣営の北四十里に宿営させた。袁紹の謀臣許攸は財貨を貪っていたが、袁紹が(彼を)満足させられなかったので脱走して来て、そこで公に淳于瓊らを攻撃せよと説得した。左右の者はそれを疑ったが、荀攸・賈詡は公に勧めた。公はそこで曹洪を守りに留め、自ら歩騎五千人を率いて夜行し、ちょうど明け方に到着した。淳于瓊らは遠くから眺めて公の軍勢が少ないとみるや、陣門の外へと出てきた。公はいきなり彼らに突撃し、淳于瓊が逃走して陣営に楯籠ると、そのままそれを攻めた。袁紹は騎兵隊を派遣して淳于瓊を救援した。左右に言う者があった。「賊の騎兵が段々と近付いて参ります。手を分けて防がれますよう。」公は怒りを込めて言った。「賊が背後に来てから申せ!」士卒はみな決死の覚悟で戦い、淳于瓊らを大破し、それを全て斬った。[一]袁紹は初めに公が淳于瓊を攻撃したと聞いたとき、長子袁譚に「彼が淳于瓊らを攻めるのであれば、吾はその陣営を攻め陥としてやろう。やつめ帰る場所を無くしてしまうぞ!」と告げ、そこで張郃・高覧をやって曹洪を攻撃させていた。(しかし)張郃らは淳于瓊が破られたと聞くと、そのまま来降した。袁紹の軍勢は大潰滅し、袁紹および袁譚は軍を棄てて逃走し、黄河を渡った。(公は)それを追いかけたものの手が届かず、彼らの輜重・図書・珍宝をことごとく手に入れ、その軍勢を捕虜にした。[二]公の手に落ちた袁紹の書簡の中には、許の城下および軍中の人々の手紙もあったが、(中身を確認せず)すべて焼き尽くした。[三]冀州諸郡には城邑をこぞって降服する者が多数あった。

[一] 『曹瞞伝』に言う。公は許攸がやって来たと聞くと、裸足で飛び出して彼を迎え入れ、手のひらを撫でつつ笑いながら言った。「子卿が遠来したからには、吾が事業は完成だ!」(許攸は)座中に入るなり公に言った。「袁氏の軍勢は盛強ですのに、どうやって彼らと対峙なさるのですか?いま食糧はいかほどありますか?」公は言った。「まだ一年は支えられるよ。」許攸は言った。「左様なことはございますまい。もう一度おっしゃってください!」また言った。「半年は支えられる。」許攸は言った。「足下は袁氏を打ち破りたくはないのですか。どうして事実でないことを言うのでしょう!」公は言った。「さっきの言葉はただの戯れだ。その実、一ヶ月までなのだが、この点どうすればいいのだろう?」許攸は言った。「公は孤立した軍で独り守っておられ、外に救援はなく、そのうえ食糧はすでに尽き果ており、これこそ危急のでございます。いま袁氏の輜重車は一万乗もあり、故市・烏巣におりますが、駐屯軍には厳重な警戒がございません。いま軽騎兵によってそれを襲撃し、不意を突いて出て、その集積物資を焼けば、三日もせぬうちに袁氏は自壊いたしましょう。」公は大いに喜び、そこで歩騎の精鋭を選りすぐり、みな袁軍の旗幟を用い、を含み馬の口を縛り、夜、間道に沿って出陣した。一人づつ薪の束を抱え持ち、道中で尋問する者があれば「袁公は曹操が後詰めを略奪することを恐れられ、軍勢を派遣して守備を増やされたのでございます」と語った。聞いた者はその通りなのだろうと信じ込み、誰もが平然としていた。到着するなり屯営を包囲し、大いに火を放つと、陣中では驚いて混乱をきたした。これを大破し、その食糧・財宝を焼き尽くし、督将眭元進騎督韓莒子・呂威璜・趙叡らの首を斬り、将軍淳于仲簡の鼻を削ぎ落としたが、まだ死ななかった。士卒千人余りを殺して鼻をすべてもぎ取り、牛馬の唇や舌を削ぎ落とし、それを袁紹軍に誇示した。(袁紹の)将士はみな哀しみ恐れた。このとき夜中に仲簡を捕らえ、(仲簡を)引っ張って麾下に参詣した者がいた。公は告げて言った。「どうしてこんな有様になったのかね?」仲簡は言った。「勝負は天に従うもの。どうして質問することがあろうか!」公は心底から殺すまいと思っていた。許攸は言った。「明朝、鏡を見れば、こいつはいよいよ他人(への恨み)を忘れますまいぞ。」そこで彼を殺した。

[二] 『献帝起居注』に言う。公は上表して言った。「大将軍・鄴侯の袁紹は、かつて冀州牧韓馥とともに故の大司馬劉虞を擁立し、金璽を彫り上げ、故のの県長畢瑜を劉虞のもとへ祗候させて命運の法則を説明させました。また袁紹は臣に手紙を送ってきて『鄄城を都にすべきだ。擁立される方がいらっしゃらねばならぬ』と言い、勝手に金銀の印章を鋳造し、孝廉や計吏たちはみな袁紹のもとへと参詣いたしました。従弟である済陰太守袁叙は袁紹に手紙を送って言いました。『いま海内は崩壊しており、天意は実に我らが家にあります。神秘的な働きにはがあるものですが、まず尊兄に注がれるでありましょう。南兄の臣下が(彼を)即位させようといたしましたが、南兄は言いました。年齢では北兄が長け、位階では北兄が重い、と。すぐさま御璽を送ろうとしましたが、ちょうどそのとき曹操が道を遮ったのであります』、と。袁紹一門は代々国家の重恩を受けておりながら、凶逆無道さは、とうとうこれほどまでになったのです。すぐさま兵馬を率いて官渡で戦いましたが、聖朝の威光のおかげで袁紹の大将淳于瓊ら八人の首を斬ることができ、(袁紹軍は)ついに大破潰滅いたしました。袁紹と子息袁譚は甲冑も着けずに遁走しております。およそ斬った首は七万級余り、輜重・財物は巨億にもなりました。」

[三] 『魏氏春秋』に言う。公は言った。「袁紹の強大さにぶつかったときは、孤でさえ自信を保てなかった。まして衆人ならばなおさら!」

むかし桓帝の時代、黄星楚・宋の分野に現れたことがあり、遼東殷馗は天文が得意だったが、「五十年後に梁・沛の一帯から真人が立ち上がり、その矛先を遮ることはできまい」と言っていた。このときまでおよそ五十年、こうして公が袁紹を破り、天下に対抗できる者がなくなった。

六年(二〇一)夏四月、軍勢を黄河ほとりまで催して、袁紹の倉亭の軍を攻撃し、それを撃破した。袁紹は帰国すると再び敗残兵をかき集め、叛逆した諸郡県を攻撃平定した。九月、公は許に帰還した。袁紹は敗北する以前、劉備をやって汝南を攻略させており、汝南の賊共都らが彼に呼応していた。(公は)蔡揚を派遣して共都を攻撃させたが、不利となり、共都に撃破された。公は南進して劉備を征討した。劉備は公が自らやってきたと聞き、劉表のもとへと遁走し、共都らはみな四散した。

七年(二〇二)春正月、公は譙に着陣した。布令を下して言った。「吾は義兵を起こし、天下のために暴乱を取り除いてきた。故郷の人民はあらかた死滅してしまい、国中を丸一日歩き続けても顔見知りに会うことがなく、吾を悽愴沈痛な気分にさせた。義兵を挙げて以来、将士のうち跡継ぎが絶えた者には、親戚を探し出して継がせ、田畑を授けて耕牛を支給し、学者を配置して教育させよ。(跡継ぎが)生存している者には廟を立ててやり、その祖先を祀らせよ。死者の魂にも心があるならば、吾は百年後になっても何を恨むものか!」そのまま浚儀に赴き、睢陽渠(運河)を整備し、使者を派遣して太牢(の礼)をもって橋玄を祀らせた。[一]進行して官渡に着陣した。

[一] 『褒賞令』所載の公の祭文に言う。「故の太尉橋玄は明徳を大いに施し、博愛寛容であった。国家は明らかな訓戒を念じ、士人はうるわしき謨訓を思っている。心霊はく肉体はか、かなるかなげなるかな!吾は幼年のころ(橋公の)堂室(表座敷と部屋)に升ることができ、とりわけ頑迷鄙陋の性質でありながらも、大君子に受け入れられることになった。栄誉が増し注目が益したのは、みな推奨や助力のおかげであり、あたかも仲尼孔子)が顔淵顔回)には及ばないと称し、李生賈復に厚く感歎したかのようであった。士は己を知る者のために死すというが、それを思って忘れたことはない。それにゆったりとしたときに誓約の言葉を頂戴したものだ。『(我が)殂逝(死ぬこと)したのち道中通りかかることがあったとして、一斗の酒と一羽の鶏をもって訪れ、酒を地に注いでくれなければ、車が三歩行くだけで腹痛になっても怪しく思わないでくれよ!』とっさの戯れの言葉ではあったが、よほどの親密さからの真心こもった好意でなければ、どうしてこんな言葉が出てくることを納得できようか?霊魂が怒りを抱き、残された己に病気をもたらしうると思っている訳ではないが、昔を懐かしみ惟顧すれば、そのことを思い出して悽愴とした気持ちになる。命を奉じて東征し、郷里に宿営したとき、北に貴国を望んで陵墓を心に浮かべた。わずかな祭礼、わずかな供物だが、公よ、請い願わくば受けよ!」

袁紹は軍が破滅したのち、病気にかかって血を吐き、夏五月に死んだ。末子の袁尚が交代し、袁譚は車騎将軍を自称して(二人で)黎陽に屯した。秋九月、公は彼らを征討して連戦した。袁譚・袁尚はしばしば敗退したので、守備を固めた。

八年(二〇三)春三月、その城郭を攻めると、(袁譚らが)戦いに出てきたので、撃ち、大いに打ち破った。袁譚・袁尚は夜中に遁走した。夏四月、軍を鄴に進めた。五月、許に帰還し、賈信を留めて黎陽に屯させた。

己酉、布令を下した。「『司馬法』に『将軍はに死す』とある。[一]それゆえ趙括の母は、趙括に連坐しないよう請願したのである。これは古代の将軍が外部で軍勢を破滅させたとき、家族が内部で罪を被ったということである。将に命じて征討に行かせるとき、ただ功績を賞するだけで罪過を罰しないのは、もとより国典に沿うものではない。そこで諸将に出征を命じたとき、軍勢を破滅させた者は罪過に抵触するものとし、勝機を逃した者は官爵を罷免する。」[二]

[一] 『魏書』に言う。綏とは退却のことである。一尺の前進はあっても一寸の退却はない。

[二] 『魏書』に載せる庚申の布令に言う。「提議する者のなかには、軍吏に功能があったとしても、郡国委任の人選には徳行の点で堪えられないという者がある。いわゆる『ともに道をくべきも、いまだをともにすべからず』(『論語』)である。管仲は言っている。『賢者を能力によって食わせれば、お上は尊くなり、闘士を功績によって食わせれば、兵卒は死を軽んずる。この二つが国家に備われば、天下は治まる』と。無能の人、不闘の士がそろって俸禄賞賜を受け、それによって功績を立てて国を興すことができた者など聞いたことがない。それゆえ明君は功績なき臣下に官職を与えず、戦わざる兵士に賞賜を与えないのだ。治平の世では徳行を尊び、有事の世では功能を賞するもの。論者の言葉は、まことで虎を窺うようなものであろうか!」

秋七月、布令を下した。「騒乱の世が到来してから十五年、若者たちは仁義礼譲の気風を体験していない。吾ははなはだ残念に思う。そこで郡国に命令を下しておのおの文学を修めさせることとし、県が五百戸以上であれば校官を設置し、その郷里の俊英・造士を選抜して学問を授けよ。願わくば先王の道を廃れさせず、天下に益あらんことを。」

八月、公は劉表を征討し、西平に布陣した。公が鄴を引き払って南に向かったとき、袁譚・袁尚は冀州を争い、袁譚が袁尚に敗れて逃走し、平原に楯籠った。袁尚はそれを厳しく攻め立てたが、袁譚は辛毗を派遣して(公に)降服を乞い、救援軍を求めた。諸将はみな逡巡したが、荀攸はそれを許可してやるよう公に勧めた。[一]公はそこで軍勢をまとめて帰還した。冬十月、黎陽に着陣し、子の曹整を袁譚と縁組みさせた。[二]袁尚は公が北進してきたと聞き、平原(の包囲)を解いて鄴に帰還した。東平の呂曠・呂詳は袁尚に叛いて陽平に屯し、その軍勢を率いて(公に)投降し、列侯に封ぜられた。[三]

[一] 『魏書』に言う。公は言った。「我が呂布を攻めたとき、劉表は侵害してこなかったし、官渡の役でも袁紹を救援しなかった。こやつは保身の賊であって攻略は後回しでよい。袁譚・袁尚は狡猾であり、彼らの混乱に乗じるべきだ。たとい袁譚が詐術を用い、最後まで手を束ねてはいないとしても、我が袁尚を打ち破り、彼らの土地のうち半分を手に入れられるならば利益は自然と多くなる。」そこでこれを許可した。

[二] 臣裴松之は考える。袁紹が死んでから、このときまで一周忌と五ヶ月を経過しただけである。袁譚は家を出て伯父(袁基)の後を継いだとはいえ、袁紹のために三年の喪に服さず、そのくせ二年のうちに吉礼を行うのは悖徳である。魏武はあるいは便宜的に彼と約束したもので、いま結婚と言っているのは、必ずしもこの年に婚礼を済ませたとは限らない、ということだろうか。

[三] 『魏書』に言う。袁譚は包囲から解放されたとき、密かに将軍の印綬を呂曠にした。呂曠は印を受け取り、それを(公に)送った。公は言った。「我は最初から袁譚が小細工を弄していることは知っていた。(袁譚は)我に袁尚を攻めさせ、その隙に民衆を誘拐して軍勢を集め、袁尚が破られれば、自分が強くなって我の疲弊に乗じるつもりなのだ。袁尚が破られれば我が盛強になるのだから、どうして疲弊に乗じることができようか?」

九年(二〇四)春正月、黄河を渡り、淇水を堰き止めて白溝に流し、食糧輸送路を通じさせた。二月、袁尚は再び袁譚を攻撃し、蘇由・審配を鄴の守備に残した。公が軍勢を進めて洹水に着陣すると、蘇由は投降してきた。到着するなり鄴を攻撃にかかり、土山・地道を掘った。武安県長の尹楷毛城に屯し、上党と糧道を繋いでいた。夏四月、曹洪を残して鄴を攻撃させ、公は尹楷攻撃(の軍勢)を自ら率い、彼を撃破して帰還した。袁尚の将沮鵠邯鄲を守っていたが、[一]またも攻撃してこれを陥落させた。易陽県令の韓範県長の梁岐が県を挙げて投降したので、関内侯の爵位を賜った。五月、土山・地道を壊して包囲の壍壕を作り、漳水を決壊させて城を水没させた。城内で餓死する者は半数を越えた。秋七月、袁尚は鄴救援のために引き返してきた。諸将たちはみな言った。「これは『帰師』(帰還する軍勢)というもので、一人ひとりが自ら戦おうといたします。これを避けるに越したことはありますまい。」公は言った。「袁尚が大道から来るならば避けるべきだ。もし西山に沿って来るならば、奴めは擒になるだけだ。」袁尚は果たして西山に沿って来て、滏水に臨んで陣営を築いた。[二]夜中、(袁尚が)軍勢をやって包囲陣を襲ってきたので、公は迎え撃って潰走させ、そのまま彼らの陣営を包囲した。まだ(包囲陣が)完成せぬうち、袁尚は恐怖を抱き、故の予州刺史陰夔および陳琳が投降を願い出たが、公は許さず、包囲をますます厳しくした。袁尚が夜中に遁走して祁山に楯籠ったので、それを追撃した。その将馬延・張顗らが戦闘を前にして降ったので、軍勢は大潰滅し、袁尚は中山に逃走した。彼らの輜重をことごとく獲得し、袁尚の印綬・節鉞を手に入れ、袁尚からの降人をその家族への見せしめにさせると、(鄴の)城内の者は意気沮喪した。八月、審配の兄の子審栄が、夜中、守っていた城の東門を開いて軍勢をれた。審配は迎撃のすえ敗北した。審配を生け捕りにして、これを斬首し、鄴は平定された。公は袁紹の墓に赴いて祭祀を行い、彼のために大声で泣いて涙を流した。袁紹の妻を慰労し、その家人や宝物を返してやり、色違いの絹や綿を賜い、食糧を官より支給した。[三]

[一] 沮の音は菹(ソ)で、河北のあたりでは今なおこの姓がある。沮鵠は沮授の子である。

[二] 『曹瞞伝』に言う。斥候をやると、いくつかの部隊が前後して馳せ参じ、どれもが「間違いなく西道を通っており、すでに邯鄲に着きました」と言っていた。公は大いに喜び、諸将を集めて言った。「孤はもう冀州を手に入れてしまったぞ。諸君らにはそれが分かるかね?」みな言った。「分かりません。」公は言った。「諸君らは間もなく目の当たりにするだろう。」

[三] 孫盛は言う。むかし先代の王者が誅伐と褒賞を行ったのは、悪を懲らしめ善を勧め、末永く戒めを明らかにするためであった。袁紹は世の中の危難を利用し、ついには叛逆の企てを抱き、上は神聖なる器物を狙い、下は国家の風紀を犯した。社に奉って宅を汚すのが古代の制度である。それなのに逆臣の冢で哀悼を尽くし、貪欲な家に恩寵を加えるとは。政治を行う道はここにつまづいた。そもそも恨みを隠しつつ他人と友達付き合いするのは、前代の哲人たちが恥じるところであり、旧宅に馬車馬を休ませるとしても、空涙を流さないのが義理というもので、いやしくも道義に外れ友好を絶ったのであれば、どうして彼のために大声で泣くなどということがあろうか!むかし漢の高祖が氏に対してその失敗をし、魏武はこの行為で誤謬を踏襲してしまった。百慮の一失でないといえようか。

むかし袁紹が公とともに挙兵したとき、袁紹は公に訊ねたことがある。「もし計画がうまく行かなかったら、どの場所に向かって根拠とすべきでしょうか?」公は言った。「足下のお考えはどのようなものですか?」袁紹は言った。「吾は、南は黄河を拠点にして北は燕・代を頼み、戎狄の人数を兼併します。南に向かって天下を争うならば、まあ成功できそうですが?」公は言った。「吾は天下の智力に任せ、道義によって彼らを統御します。不可能はありますまい。」[一]

[一] 『傅子』に言う。太祖はこうも言った。「湯・武の王者は、はたして土地を同じくしたでしょうか?もし険固さを元手にしたならば、時機に対応して変化することができませんぞ。」

九月、布令を下して言った。「河北では袁氏の災難にかかった。そこで今年の租税賦役は供出させないように!」豪強が兼併する(のを制限する)法律を厳重にしたので、百姓たちは喜悦した。[一]天子が公を領冀州牧とすると、公は兗州を辞退返上した。

[一] 『魏書』に載せる公の布令に言う。「国があり、家があれば、少ないことを心配せず不平等であることを心配し、貧しいことを心配せず不安定であることを心配するものだ。袁氏の統治では、豪強には好き勝手させ、親戚には兼併させていた。下層の民衆は貧弱なのに租税賦役の供出を肩代わりし、家財を路上で売りに出しても命令に応じるには不足した。審配一門は罪人どもを隠匿し、逃亡者の君主になるまでに至った。百姓たちを懐かせて武装兵を盛強にしたいと思っても、どうして可能であろうか!そこで一畝あたり四升の田租を徴収し、一戸あたり絹二匹・綿二斤づつを供出させるに留め、それ以外には勝手に徴発させないようにする。郡国の守相ははっきりとこれを検察し、強き民に隠匿させたり、弱き民から賦役を二重に取ったりさせぬようにせよ。」

公が鄴を包囲したとき、袁譚は甘陵・安平・勃海・河間を攻略していた。袁尚が敗走して中山に引き揚げると、袁譚はそれを攻撃して袁尚を故安に駆逐し、そのまま彼の軍勢を併合してしまった。公は袁譚に手紙を送って違約を責め、彼との婚姻を絶った。(袁譚の)女を帰し、そのあとで進軍した。袁譚は恐怖し、平原が陥落すると、逃走して南皮に楯籠った。十二月、公は平原に入城し、諸県を攻略平定した。

十年(二〇五)春正月、袁譚を攻撃してこれを打ち破り、袁譚を斬首し、その妻子を誅殺した。冀州は平定された。[一]布令を下して言った。「さあ袁氏とともに悪事を行っていた者たちよ、一緒に革新しよう。」民衆には私怨による復讐をさせず、手厚い葬礼を禁止するよう命じ、全て法律によって一元化した。同月、袁煕の大将焦触・張南らが寝返って袁煕・袁尚を攻撃したので、袁煕・袁尚は三郡の烏丸のもとへと遁走した。焦触らがその県をこぞって投降したので、列侯に封じた。はじめ袁譚を討伐したとき、民衆が氷を叩く仕事から逃亡したので、[二](死刑以外を認めず)降服させないようにと命令した。しばらくして、逃亡した民衆のうち門前に自首した者があった。公は言った。「汝を赦せば法令に違背したことになり、汝を殺せば自首した者を処刑したことになる。奥深く逃げて我が身を隠し、役人に捕まらぬよういたせ。」民は涙を流しながら立ち去ったが、あとで結局逮捕されてしまった。

[一] 『魏書』に言う。公は袁譚を攻撃したが、夜明けから日中に及ぶまで決着が付かなかった。公はそこで自らを手に取って太鼓を叩いた。士卒はみな奮い立ち、あっという間に陥落させた。

[二] 臣裴松之は考える。袁譚を討伐したとき、川や運河の氷が凍結しており、民衆に氷を叩いて船を通させたのだが、民衆は役務を嫌がって逃亡したのである。

夏四月、黒山賊の張燕がその軍勢十万人余りを率いて投降したので、列侯に封じた。故安の趙犢・霍奴らが幽州刺史・涿郡太守を殺害した。三郡の烏丸が獷平において鮮于輔を攻撃した。[一]秋八月、公はこれらを征討し、趙犢らを斬首した。そのあと潞河を渡って獷平を救援すると、烏丸は逃走して塞外(万里長城の外)に出た。

[一] 『続漢書』郡国志に言う。獷平は県名で、漁陽郡に属している。

九月、布令を下して言った。「徒党を組んで悪事をなすのは、先代の聖人の憎むところである。聞くところによると、冀州の風俗では父子が部落を別々にし、互いに毀誉褒貶しあうということだ。むかし直不疑は兄もいないのに、世間からを盗んだと言われ、第五伯魚は親のない女を三たび娶ったが、妻の父を打ったと言われ、王鳳が権力を欲しいままにしていたのに、谷永は彼を申伯になぞらえ、王商は忠義な議論をしたが、張匡はそれを邪道だと言った。これらはみな白を黒とし、天を欺き君をしいるものである。吾は風俗を整えたいと思う。(以上の)四つのものが取り除かれないことを吾は恥ずかしく思う。」冬十月、公は鄴に帰還した。

かつて袁紹は甥の高幹領幷州牧としていたが、公は鄴を陥落させたとき、高幹が降服したのでそのまま刺史とした。(しかし)高幹は公が烏丸を征討していると聞き、州をこぞって叛逆し、上党太守を人質に取り、挙兵して壺関口を守った。楽進・李典を派遣してこれを攻撃させると、高幹は引き返して壺関城に楯籠った。十一年(二〇六)春正月、公は高幹を征討した。高幹はそれを聞くや、その別働隊の将を残して城を守らせ、匈奴に逃げ込んで単于に救援を求めたが、単于は受け入れなかった。公は壺関を包囲すること三月、これを陥落させた。高幹はついに荊州へと逃走したが、上洛都尉王琰が彼を捕らえて斬首した。

秋八月、公は東進して海賊管承を征伐し、淳于に着陣すると、楽進・李典を派遣してこれを撃破させた。管承は海島に逃げ込んだ。東海の襄賁・剡・戚を分割して琅邪に編入し、昌慮郡を廃止した。[一]

[一] 『魏書』に載せる十月乙亥の布令に言う。「そもそも世を治めて民衆を統御し、輔弼を立てる場合、戒めるべきは面従にある。『詩(経)』では『我が計略を用いよ、願わくば大悔なきことを』と言っている。それこそ実に君臣が心底追い求めるものである。吾は重任に充てられ、いつも中庸から外れてしまうことを恐れているのに、毎年毎年、よき計略を聞けないでいる。吾が才人賢者の受け入れに熱心でなかったせいであろうか?自今以後、もろもろの掾属・治中・別駕たちは毎月一日が来るたび、おのおのその失敗について名状せよ。吾はそれを見てやろう。」

三郡の烏丸らは天下の混乱に乗じ、幽州を破壊し、漢の民衆合わせて十万戸余りをさらった。袁紹はその酋長をみな立てて単于とし、家人の子を我が女だといって娶らせた。遼西単于の蹋頓が最も強力で、袁紹に厚遇されていた。そのため袁尚兄弟は彼に身を寄せ、何度も塞内(万里長城の内)に侵入して害をなしたのである。公はこれを征討しようと、運河を掘り、呼から泒水へと水を流し、平虜渠と名付けた。また泃河口から掘り進めて潞河に水を流し、泉州渠と名付け、海に通じさせた。

十二年(二〇七)春二月、公は淳于から鄴に帰還した。丁酉、布令を下して言った。「吾が暴虐乱臣を誅伐せんと義兵を起こしてから、今まで十九年になる。遠征した先では必ず勝利を収めたが、はたして吾の功績であろうか?それは賢士大夫たちの尽力なのである。天下はまだ完全に平定されてはいないが、吾はきっと賢士大夫たちとともに一緒に平定してゆくのだろう。それなのにその報いを独り占めしているのだから、吾はどうして落ち着いていられようか!そこで功績を定めて封侯を行うよう急がせる。」このとき功臣二十人余りが大国に封ぜられ、みな列侯となり、その他の各人も席次に従って封爵を受けた。また殉職者の孤児にもは及び、軽重はおのおの格差があった。[一]

[一] 『魏書』に載せる公の布令に言う。「むかし趙奢・竇嬰は将になると、千金を賜っても一日で使い果たし、そのため大きな功績を完成させ、永世の名声を得ることになった。吾はその文を読むと、ずっとその人となりを慕わずにはいられなかった。諸将・士大夫と一緒に軍事に従事し、幸いなことに、賢人たちがその計略を惜しむことなく、諸士がその力量を残すことのないのを頼みにでき、それによって険阻をらげ、混乱を収めることができたのだ。そして吾は大それたご褒美を盗み、食邑は三万戸になっている。竇嬰が黄金を使い果たした義挙を追慕し、いまお受けしている租税を分割し、諸将・掾属および古くから陳・蔡を守っていた者たちに与え、みなの労苦に報い、大いなる恩恵を独り占めしないようにしたい。殉職者の孤児を差別し、年貢米を彼らに支給するように。もし豊年となって費用をまかない、租税をすっかりご奉納できたら、大いに民衆たちをこぞって、それを一緒に享受しようぞ。」

北進して三郡の烏丸を征伐しようとしたが、諸将たちはみな言った。「袁尚がどもに身を寄せたまでのことです。夷狄どもが(彼を)利用したとしても親しくなることはなく、どうして袁尚のために働いたりいたしましょう?(もう中国を侵略することはありますまい。)いま深く侵入して彼らを征討するならば、劉備はきっと劉表を説得して許を襲撃させるでしょう。万一変事が起こったならば後悔しても及びませんぞ。」ただ郭嘉だけは、劉表はきっと劉備を任用できまいと計算し、公に行軍を勧めた。夏五月、無終に到着した。秋七月、洪水となり、海岸沿いの道は不通になった。田疇郷導(道案内)したいと申し出たので、公はそれを聞き入れた。軍勢を率いて盧龍塞を出たが、塞外の道は断絶して不通であったため、山をって谷をぐこと五百里余り、白檀を経過し、平岡を通過し、鮮卑の地を渉り、東へと柳城を目指した。二百里手前まで来て、虜どもはやっとそれに気付いた。袁尚・袁煕は蹋頓・遼西単于楼班右北平単于能臣抵之らとともに数万騎を率いて迎え撃つ。八月、(公は)白狼山に登ったが、卒然として虜どもに遭遇した。(敵の)軍勢は極めて盛強である。公の車重は後方にあり、具足を身に着けている者は少なく、左右の者はみな恐怖した。公は高みに登り、虜どもの陣列が整っていないのを見やると、兵を放って攻撃し、張遼を先鋒とすると、虜どもの軍勢は大いに崩れた。蹋頓および名王以下を斬り、降服した胡人・漢人は二十万人余りになった。遼東単于速僕丸および遼西・北平のもろもろの豪勇たちは、その種族の人々を棄てて袁尚・袁煕とともに遼東へと遁走し、軍勢はまだ数千騎が残されていた。むかし遼東太守公孫康は、遠方であるのを頼みとして服従しなかった。公が烏丸を破ったとき、ある者が「そのまま彼を征討すれば袁尚兄弟をにすることができます」と公を説得した。公は言った。「吾はこれから公孫康に袁尚・袁煕の首を斬って送らせよう。軍隊を煩わせることはない。」九月、公が軍勢をまとめて柳城から帰還すると、[一]公孫康はすぐさま袁尚・袁煕および速僕丸らを斬り、その首を送ってきた。諸将のうち問う者があった。「公が帰還なさると、公孫康は袁尚・袁煕を斬って送って参りました。なぜでしょうか?」公は言った。「彼は平素より袁尚らを恐れておった。吾がそれを締め付ければ力を合わせるが、それを緩めてやれば自分から争い合う。その勢いから当然なのである。」十一月、易水に到着すると、代郡烏丸の行単于普富盧上郡烏丸の行単于那楼がその名王を引き連れて祝賀に馳せ参じた。

[一] 『曹瞞伝』に言う。ときに寒中であるうえ旱にもなり、二百里にわたって水がなく、軍はそのうえ食糧にも欠乏しており、馬数千匹を殺して軍糧とし、地面を掘り、三十丈余りも潜ってようやく水を得ていた。帰還するなり以前に諫言した者たちについて科問した。軍中でその理由を知る者はなく、人々はみな恐怖した。公は彼らをみな手厚く賞して言った。「孤が以前に行軍したとき、危険を乗り越えられたのは僥倖であり、うまくいったとはいえ天祐あればこそであった。それゆえ通常のこととする訳にはいかぬ。諸君の諫言は万全の計略であり、それゆえ恩賞を取らせるのだ。今後もそうした発言を渋らないでくれよ。」

十三年(二〇八)春正月、公は鄴に帰還し、玄武池を作って水軍を(調練)した。漢朝は三公の官を廃止して丞相・御史大夫を設置、夏六月に公を丞相とした。[一]

[一] 『献帝起居注』に言う。太常徐璆を使者として(曹公に)印綬を授けた。御史大夫は御史中丞を管轄せず、長史一人を設置した。『先賢行状』に言う。徐璆は字を孟平といい、広陵の人である。若いころから清廉さを実践し、朝廷にあっては折り目正しかった。任城・汝南・東海三郡(の太守)を歴任し、至るところで教化が行き届いた。お召しを受けて帰ろうとしたところ、袁術に拘束されてしまった。袁術は尊号を僭称すると上公の位を授けようとしたが、徐璆は最後まで屈服しなかった。袁術の死後、徐璆は袁術の印璽を手に入れて漢朝に送り、衛尉・太常を拝命した。公は丞相になると、位を徐璆に譲ったのであった。

秋七月、公は南進して劉表を征討した。八月に劉表が卒去し、その子劉琮が跡を継いで襄陽に屯し、劉備がに屯した。九月、公が新野に到達したところで、劉琮はついに降服し、劉備は夏口に逃走した。公は江陵に軍勢を進め、荊州の官吏民衆に布令を下し、ともに改革を始めることとした。そこで荊州帰服の功績を賞したところ、侯に封ぜられた者は十五人であった。劉表の大将文聘江夏太守として元の軍勢を統括させ、荊州の名士韓嵩・鄧義らを登用した。[一]益州牧劉璋が初めて軍役に応じ、軍勢を派遣して人数を補充した。十二月、孫権が劉備に荷担して合肥に攻め上った。公は劉備を征討しつつ江陵から巴丘へと進み、張熹を派遣して合肥を救援させた。孫権は張熹の到着を聞いて逃走した。公は赤壁に着陣したが、劉備との戦いは不利であった。このとき疫病が大流行して官吏・兵士が数多く死んだため、軍勢をまとめて帰還した。劉備はかくて荊州のうち長江南岸の諸郡を領有した。[二]

[一] 衛恒の『四体書勢』の序文に言う。上谷王次仲は隷書に巧みで、楷書を創始した。霊帝が書を好んだことから、世間では巧みな者が多くいた。しかしながら師宜官が最高峰であって、その才能をはなはだ鼻にかけていた。書をなせば、そのつど(筆跡を盗まれないように)札を削ったり燃やしたりした。梁鵠はそこで数多くのを作っておいて彼に酒を呑ませ、彼が酔ったのを見計らってその札を盗み出した。梁鵠はついに書のみさによって選部尚書まで昇った。そのとき公は洛陽の県令になりたく思っていたが、梁鵠は彼を北部尉とした。梁鵠はのちに劉表に身を寄せた。荊州が平定されたとき、公は賞金付きで梁鵠を探させ、梁鵠が恐怖を抱いて自分の身を縛って門前に参詣すると、軍の仮司馬に任命して秘書の職務に就かせ、書に勤めて能力を発揮させることとした。公はいつも(彼の書を)帳の中にけ、壁に釘で打ち付けて鑑賞し、師宜官以上だと言っていた。梁鵠は字を孟黄といい、安定の人である。魏の宮殿にある額面は全て梁鵠の書なのである。皇甫謐の『逸士伝』に言う。汝南の王儁は字を子文といい、若くして范滂・許章の認められ、南陽の岑晊と親しかった。公は布衣であったとき格別に王儁を愛し、王儁もまた公には治世の才能があると称えていた。袁紹と弟袁術が母を失い、汝南に帰って葬儀を行ったとき、王儁は公とともに列席したが、参列する者は三万人もいた。公は外に出て密かに王儁に告げた。「天下は乱れんとしておりますが、混乱の先駆けをなすのは必ずやこの二人でしょう。天下を救済して百姓の延命させたいなら、まずこの二人を誅殺せねば、混乱は今にも起こりましょうぞ。」王儁は言った。「の言葉通りなら、天下を救済する者は卿以外に誰がいようか?」向かい合って笑った。王儁の人となりは外面は静かながら内面は聡明であり、州郡や三府の(お召しの)命令にも応じなかった。公車で徴されても行かず、土地を避けて武陵に住まいしたが、王儁に帰依する者は百家余りもあった。帝が許に遷都したとき、再び尚書として徴されたがやはり就任しなかった。劉表は袁紹の強力さを見て、密かに袁紹と通じていたが、王儁は劉表に言った。「曹公は天下の英雄でありますから、必ずや霸道を興隆させて桓・文の功績を継承されます。いま近い者を捨てて遠い者と結んでおられますが、もし一日にして急変が起こりましたならば、はるばる砂漠の北の救援を待つのはやはり困難でありますまいか!」劉表は聞き入れなかった。王儁は六十四歳のとき武陵において寿命で亡くなった。公はそれを聞いて哀しみに暮れた。荊州を平定したとき、自ら長江まで行ってして亡骸を出迎え、江陵に改葬して先賢として表彰した。

[二] 『山陽公載記』に言う。公の艦船が劉備に焼かれたとき、(公は)軍勢をまとめて華容道から徒歩で帰ったが、泥濘にぶつかって道路は通ぜず、天候はそのうえ強風が吹いていた。総動員をかけての兵に草を背負わせて埋め、騎馬武者はやっと通過することができた。羸の兵は人馬に踏み付けられて泥の中に沈み、極めて多くの死者を出した。軍勢が脱出できたとき、公は大変に喜んだ。諸将がその理由を問うと、公は言った。「劉備は吾の同類であるが、ただ計略を思い付くのが少しばかり遅かったな。あらかじめ先手を打って放火しておけば、吾等は全滅するところであったぞ。」劉備はすぐに放火したが間に合わなかった。孫盛の『異同評』に言う。『呉志』を調べてみると、劉備がまず公の軍勢を打ち破り、そのあと孫権が合肥を攻撃したとある。しかしこの『』では、孫権がまず合肥を攻撃し、あとに赤壁の記事を置く。両者は同じでないが『呉志』が正しい。

十四年(二〇九)春三月、軍は譙に着陣し、足の軽い舟を作って水軍を調練した。秋七月、渦水から淮水に入って肥水に出、合肥に着陣した。辛未、布令を下して言う。「近年以来、軍はしばしば征討に出ており、ある者は疫病にかかるなどして官吏・兵士は死亡して帰らず、家族の恨みは広まり、百姓たちは離散しておる。仁者ならばどうしてそうなることを願うであろうか?やむを得ないことであった。そこで死者の家族のうち生業を失って自活できない者があれば、県官は扶持米を絶やさず、長吏は慰労訪問することとして、吾が気持ちに応えてくれ。」揚州の郡県に長吏を配置し、芍陂を開拓して屯田を行った。十二月、軍は譙に帰還した。

十五年(二一〇)春、布令を下して言った。「古代より、受命および中興の君主のうち、かつて賢人・君子を得て彼らとともに天下を治めぬ者はあっただろうか!彼らが賢者を手に入れるに際して、一度も村里を出でずしてどんな幸運があって出会うことができるものか?上に立つ人はそれを求めなかったのである。いま天下はなお平定されておらず、それゆえとりわけ賢者を求めるべき緊急時なのである。『孟公綽趙・魏となるのは易しいが、滕・薛大夫を務めることはできない』という。もし廉直の士であることを条件にしたうえで任用するならば、斉の桓公とてどうして世に霸を称えられよう!いま天下に褐衣を羽織って玉を懐き、渭水の川辺で釣りをしている者がいないといえようか?また嫂を犯して金を取り、いまだ無知に遭遇していない者がいないといえようか?さあ諸君よ、我を支援して仄陋(卑賤の人)を明揚してくれたまえ。ただ才能によってのみ推挙を評価し、吾はその者を手に入れて任用する。」冬、銅爵台を建造した。[一]

[一] 『魏武故事』に記載する十二月己亥の公の布令に言う。「孤が初めに孝廉に推挙されたときは年少で、自分がもともと巌穴知名の士ではなかったので、海内の人々に凡愚と見なされることを恐れ、一郡守にでもなってよき政治教化を敷き、そうして名を建てて誉れを立て、世の人士におのれをはっきりと示したいと思っていた。それゆえ済南にあっては最初から残忍汚穢の者を除去し、真っ直ぐな気持ちで選任推挙を行い、常侍連中に楯突いたのだ。(しかし)強豪たちの怒りを買ってしまい、家族に災禍が降りかかることを恐れて病気を口実に帰郷した。退官後でも年齢はまだ若く、同歳の仲間を思い出してみても、五十歳の者がいたが老人とは呼ばれていなかった。自分では内心、今から二十年かけて天下の静謐を待ったとしても、ようやく(彼の)推挙されたばかりの同歳と同じになるだけのことだ、と考えた。そこで四時をもって郷里に帰り、譙の東五十里に精舎を築き、秋と夏は読書、冬と春は狩猟をすることにして、底辺の地を探して自ら泥水をかぶり、賓客が往来してくれるような希望を断ち切ることにした。しかし、ことは思い通りに運ばなかった。のちに中央に徴されて都尉になり、典軍校尉に昇進したのだ。ついに気持ちを切り替えて国家のために賊徒討伐の功績を立て、征西将軍として侯に封ぜられればと思うようになった。そして後々は『漢の故の征西将軍曹公の墓』とでも墓に題してくれ、というのが私の志だったのだ。ところが董卓の難に遭遇したため、義兵を挙げることになった。このとき軍勢を集めるにあたっては多数手に入れるのがよいと考えられていたが、しかしながらいつも自然と損耗することになるので、それを増やそうとは思わなくなった。というのは、軍勢を増やせば意気盛んになって強敵と争うようになり、ともすれば却って災難を招くことになるからだ。それゆえ汴水の戦いでは数千だったし、のちに揚州へ引き揚げて追加募兵したときも三千人以上は取らなかった。これは我が志に限度があった証拠である。のちに兗州を領して黄巾賊三十万の軍勢を打ち破り降服させた。また袁術が九江において帝号を僭称したとき、部下はみな臣と称し、門は建号門と名付けられ、衣服はみな天子の制度にならい、二人の妻は皇后になろうと先を争った。野心も計画もすでに決定し、ある人が袁術にそのまま皇帝に即位して天下に宣布すべきと勧めたところ、(袁術は)『曹公がおるからまだ駄目だ』と答えた。のちに孤は彼の四人の将を討伐して捕虜とし、その軍勢を手に入れた。そうして袁術を追い詰めて意気阻喪させ、病死するに至らしめたのである。袁紹が河北を占拠して軍勢が盛強になったとき、孤は自分の勢力と比較してみても全く歯が立たないと思ったが、(それでも戦ったのは)国家のために命を投げ出し、義心によって身を滅ぼすならば、後世の手本になるだろうと考えたのだ。袁紹を打ち破り、その二人の子を梟首できたのは幸運であった。また劉表は宗室であることを自負して邪悪な心を隠し持ち、進んだりいたりしながら世情を観測し、当州を占拠していた。孤はこれもまた鎮定し、とうとう天下を平定したのだ。身は宰相の地位に昇り、人臣としての尊貴さは極まり、希望していたものからは行き過ぎである。いま孤がこう言うのは自負しているようにも見えるが、人々の噂話が絶えることを願って(?)包み隠さず話すのである。もし国家に孤がいなければ、幾人が帝を称し、幾人が王を称したか見当も付かない。それに天命のことを信じない性格の者がいて、孤の繁栄を見たとしたら、おそらくは心の中で計算して不遜の志を持っているのだと言ったり、勝手な忖度をしていつも耿耿としていたりするだろう。斉桓・晋文が今日まで称賛され続けている理由は、軍事的強大さを持ちながら飽くまでも周室を奉戴したからである。『論語』の言葉に『天下の三分の二を有しながら殷に服従したのだから、周の徳は至徳と言うべきか』とあるが、それは大国をもって小国によく臣従したからなのだ。むかし楽毅が趙に亡命したとき、趙王は彼とともにを攻略しようとしたが、楽毅は平伏して涙を流し、『臣が(燕の)昭王にお仕えしたのは大王にお仕えするのと同じです。臣がもし罪を問われて他国に追放されたといたしましても、世を去るだけのことで、趙の徒刑囚に対する裏切りさえ忍びないことです。ましてや燕の跡継ぎに対してはなおさらです!』と答えた。胡亥蒙恬を殺したとき、蒙恬は『吾が先祖から子孫に至るまで、秦の三世代にわたって忠信を重ねてきた。いま臣は軍勢三十万人余りを率いており、叛逆をなすには充分な情勢である。しかし自分が必ず死ぬことを知りながら義心を守るのは、先祖の教えを辱めて以て先王(の恩義)を忘れたくないからである』と言った。孤はこの二人の伝記を読むたびに愴然として涙を流さなかったことはない。孤の祖父から孤自身に至るまで、みな側近重職の任務を充てられてきた。信頼されていたと言えるだろう。子桓(曹丕)兄弟に及べば三世代を越えることになる。孤がこうして説明するのはただ諸君に対してだけではなく、つねづね妻妾たちにも語ってみなに深くその気持ちを知らせてある。孤はこれらに『我の死後のことを思えば、汝たちはみな嫁いで行くことになる。(そこで)我が心を伝えさせて他人にみな知らしめたいと思っているのだ』と言ってきた。孤がこうして言うのはみな肝鬲の要である。懇々切々と心中を述べる理由は、周公金縢の書によって自分(の本心)を証明したことに鑑みて、他人が信じないことを恐れるからである。さりとて、孤がただちに宰領する軍勢を捨てて担当者に返還し、武平侯国に帰ろうと思っても、実際には不可能である。なぜか?自分が軍勢を手放せば他人によって災禍を受けることを心底恐れるからだ。すでに子孫の計画を立ててあるが、さらに自分が敗北して国家が危殆に傾くことになるとすれば、それなら虚名を求めて実害に遭うわけにはいかぬし、これは実行できないものである。さきに朝恩において息子三人が侯に封ぜられたが固辞して受けなかった。いま改めてこれを受けようと思うのは、重ねて栄誉を得たいからではなく、外部の支援として万全の計としたいからだ。孤は介推の封爵を避けて申胥が楚の賞賜から逃れたと聞いて、書物を置いて歎息し、自省しないことはなかった。国家の威霊を奉じて鉞を杖ついて征伐し、弱きをもって強きに勝ち、狭きをもって広きを捕らえ、意中で計画したことを行動で失敗することなく、心中で配慮したことを完遂させないではおかず、ついに天下を平定して君命を辱めずにおれた。天が漢室を助けたと言うべきであって人為のなせる業ではないのである。それなのに四県にまたがって封ぜられ、三万戸を食んでいる。どんな功徳があってそれに相当しようか!江湖はまだ鎮定されておらず、官位を返上するわけにもいかぬが、土地であれば辞退することが可能である。いま陽夏・柘・苦の三県二万戸を返還し、ただ武平一万戸だけを食むこととし、ひとまず誹謗を回避して孤の責任を軽減させることにする。」

十六年春正月、[一]天子は命令を下して公の世嗣曹丕を五官中郎将に任じ、属官を置き、丞相の補佐を務めさせた。太原の商曜らが大陵をこぞって叛逆したので、夏侯淵・徐晃を派遣して包囲撃破させた。張魯漢中を占拠していたので、三月、鍾繇を派遣してこれを討伐させた。公は夏侯淵らを河東から出して鍾繇と合流させた。

[一] 『魏書』に言う。庚辰、天子は返答して、五千戸を減封し、返上された三県一万五千戸を分割して子息三人を封じ、曹植を平原侯、曹拠范陽侯曹豹饒陽侯、食邑はそれぞれ五千戸とした。

このとき関中諸将は鍾繇が自分たちを襲撃するつもりではないかと疑い、馬超はついに韓遂・楊秋・李〓・成宜らとともに叛逆した。曹仁を派遣してこれを討伐させたところ、馬超らは潼関に屯した。公は「関西の軍勢は精悍であるゆえ、塁壁を固めて戦ってはならぬぞ」と諸将に命じた。秋七月、公は西征して[一]関所を挟んで馬超らと対峙した。公は厳重に彼らを見張りつつ、密かに徐晃・朱霊らを派遣して夜中に蒲阪津を渡らせ、黄河西岸に陣取らせた。公が潼関から北へ渡ろうとして渡りきらぬうち、馬超が(公の)船へと攻め寄せてきて激しい戦いとなった。校尉丁斐が牛馬を放って賊軍を引き付けると、賊徒どもは足並みを乱して牛馬を捕獲しようとしたので、公はようやく渡ることができた。[二]黄河沿いに甬道を築きつつ南進すると、賊軍は引き退いて渭口で対抗した。公はそこで多くの疑兵を設けつつ、密かに兵士を載せた舟を渭水に入れて浮橋とした。夜中、軍勢を分けて渭水南岸に陣営を築いたところ、賊軍が陣営に夜襲をかけてきたが、伏兵がそれを撃破した。馬超らは渭水南岸に屯し、を寄越してきて黄河以西の割譲を条件に和睦を訴えたが、公は聞き入れなかった。九月、軍を進めて渭水を渡った。[三]馬超らは何度か戦いを挑んできたが、やはり受け付けなかった。(馬超が)断固として土地割譲を要求し、息子を人質に出そうと申し入れてきたので、公は賈詡の計略を採用して、それを認めるふりをした。韓遂が公との会見を要求してきたが、公は韓遂の父と同歳の孝廉であり、また韓遂とも同世代の間柄であったので、馬を交えて長いあいだ語り合ったが、軍事には言及せず、ただ京都の昔話ばかりをして、手をって笑い楽しんだ。終わってから、馬超らは韓遂に訊ねた。「公は何と申しておりました?」韓遂は言った。「何も言わなかったが。」馬超らは彼を疑った。[四]別の日、公はまた韓遂に手紙を送り、あちこち塗り潰したり書き直したりして、韓遂が改定したように見せかけた。馬超らはますます韓遂を疑うようになった。公は彼らと克日して会戦を行ったが、まず軽装兵を出して挑発し、戦いがしばらく続いてから虎騎を放ち、挟み撃ちにして彼らを大破、成宜・李堪らを斬った。韓遂・馬超らは涼州へ、楊秋は安定へ逃走し、関中は平定された。諸将のうち公に問う者があった。「はじめ賊徒どもは潼関を守って渭水北岸の道を欠いておりましたが、(公が)河東から馮翊を攻撃なさらず、反対に潼関を守られ、日にちが経ってから北岸に渡られたのは何故でしょうか?」公は言った。「賊が潼関を守っておるとき、もし吾が河東に入ったならば、賊は必ずや引き返してもろもろの渡し場を守ったであろう。さすれば西河へは渡れなくなってしまう。吾はそれゆえ軍勢を興して潼関へ向かったのだ。賊が総勢を挙げて南方を守ったので西河の備えは空っぽになった。だから二将は思うがままに西河を取ることができたのだ。そののち軍を返して北岸に渡ったのだが、賊が吾らと西河を争うことができなかったのは二将の軍勢があったればこそである。車を連ねて柵を立て、甬道を築きつつ南進したのは、[五]まず勝てない状況を作っておいてから、そのうえで弱点を見せつけたのだ。渭水を渡って塁壁を固め、敵が来ても出撃しなかったのは、彼らを油断させるためである。それゆえ賊は軍営塁壁を築くことなく土地の割譲を求めたのだ。吾が言い分を聞き入れてそれを許可してやったのは、やつらの気持ちを受け入れてやることで安心させ、守備をさせないためだ。そこで士卒の力を蓄えておき、一朝にしてやつらを撃破した。疾雷、耳を掩うに及ばず、というものだ。兵の変化というのは、本来、一つの方法に限られないのである。」はじめ賊軍が一部づつ到着すると、公はそのつど喜びの表情を見せた。賊軍が敗れたのちに諸将がその理由を訊ねると、公は答えて言った。「関中ははるばると遠いゆえ、もし賊徒どもがおのおの険阻に拠ったならば、これを征討しても一・二年かけなければ平定できまい。今回はみなが来集したので、その人数がたとい多いとしても、互いに帰服することなく軍に適主がいなければ(烏合の衆に過ぎず)、一挙に滅ぼすことができ、仕事は多少やりやすくなる。吾はそれで喜んだのだ。」

[一] 『魏書』に言う。提議する者の多くは「関西の軍勢は強く長矛に習熟しておりますゆえ、先鋒は選り抜きの精鋭でなければ対抗できますまい」と言ったが、公は「戦い(の主導権)は我軍にあって賊軍にはない。賊徒がたとい長矛に習熟していようとも、それで刺すことができないようにしてやろう。諸君はただそれを見ていたまえ」と諸将に告げた。

[二] 『曹瞞伝』に言う。公が黄河を渡ろうとしたとき、先発部隊がちょうど渡り終えたところで馬超らが突然襲いかかってきた。公はゆったりと胡牀に腰掛けたまま立ち上がろうとしなかった。張郃らは事態の切迫を見て、一緒に公を引っ張って船に乗せた。黄河の流れは急であったので、渡り終えたときには四・五里も流されていた。馬超らは騎馬で追いかけて弓を射て、降り注ぐ矢は雨のようであった。諸将は軍の崩壊を見たうえに公の所在も分からず、みな恐れおののき、(公が)到着して再会できると悲喜こもごも、涙を流す者さえあった。公は大笑いしながら言った。「今日はつまらぬ賊兵どもに追い詰められるところであったわ!」

[三] 『曹瞞伝』に言う。このとき公の軍勢が渭水を渡るたび、そのつど馬超の騎兵に突撃を受けて陣営を築くことができなかった。地質はそのうえ砂が多くて塁壁を築くには適さなかった。婁子伯が公を説得した。「いま寒い時期にあたりますので、砂を盛って城郭を作り、水を注げばよろしゅうございます。一夜にして完成させることができましょう。」公はそれに従い、絹製の袋を数多く作って水を運び、夜中に兵士を渡して城郭を作った。夜明けごろには城が完成し、それによって公の軍勢は残らず渭水を渡ることができた。 ある人が、当時は九月であって水はまだ凍るはずがないと疑っている。臣裴松之が『魏書』を調べたところ、公の軍勢は八月になって潼関に到着し、閏月に黄河北岸に渡ったとある。これはその年の閏八月のことである。それならば厳しい寒さになることなどあり得ようか!

[四] 『魏書』に言う。公は後日また韓遂らと会談することになったが、諸将が「公が賊と言葉を交わされるからには軽率であってはなりません。木で行馬(馬防柵)を作って防壁とすべきです」と言うと、公はその通りだと思った。賊将は公にお目見えしたとき、みな馬上のまま拝礼した。秦人胡族の見物人が前後して重沓したので、公は笑いながら賊徒どもに語りかけた。「は曹公を見たいのか?やはり人間のようだぞ。四つの目に二つの口があるわけではない。ただ智慧が多いだけなのだよ!」胡族は前後して大勢で見物した。また鉄騎五千が連なって十重の陣をなし、鋭い光が太陽に輝いたので、賊兵たちはいよいよ恐れおののいた。

[五] 臣裴松之が勘案するに、漢の高祖二年、滎陽の(南方の)京・索のあたりで楚と戦ったとき、黄河沿いに甬道を築いて敖倉の食糧を奪取した。応劭は「敵が輜重を襲うのを恐れ、それゆえ垣根を築いて街路のようにするのである」と言っている。このとき魏武は垣根を築かず、ただ車を連ねて柵を立てるだけで両面を防いだのである。

冬十月、軍は長安から北進して楊秋を征討し、安定を包囲した。楊秋が降服したのでその爵位に復帰させ、(その地に)留めて領民を慰撫させた。[一]十二月、安定から引き揚げ、夏侯淵を残して長安に屯させた。

[一] 『魏略』に言う。楊秋は黄初年間(二二〇~二二七)に討寇将軍へ昇進して位は特進となり、臨涇侯に封ぜられた。寿命で亡くなった。