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原著作者:【むじん書院】

武帝紀

太祖武皇帝沛国の人で、姓を孟徳といい、相国曹参の子孫である。[一]桓帝の御代、曹騰中常侍大長秋となり、費亭侯に封ぜられた。[二]養子の曹嵩が跡を嗣ぎ、官位は太尉にまで昇った。彼の出生の一部始終は明らかにできない。[三]曹嵩が太祖を生んだ。

[一] 太祖は一名を吉利といい、小字阿瞞といった。王沈の『魏書』に言う。その祖先は黄帝から出ており、高陽の御代にあたり、陸終の子を陸安と言ったが、彼が曹姓を名乗った。武王に打ち勝つと、先代の子孫を保護し、曹俠に封じた。春秋の時代には会盟に参加し、戦国の時代になってに滅ぼされた。子孫は分流して、ある者がに住まいした。漢の高祖が兵を起こすと、曹参は功績によって平陽侯に封じられた。爵位封土を世襲し、断絶しては復興して、今に至るまで容城で国を受け嗣いできた。

[二] 司馬彪の『続漢書』に言う。曹騰の父曹節は字を元偉といい、日ごろ仁徳温厚によって称えられていた。隣人にうちにを失った者がいて、曹節の豕と同じ種類だった。(隣人は曹家の)門までやって来てそれを誤認したが、曹節は(豕を渡して)彼と争わなかった。後になって、いなくなった豕が彼の家に帰ってきたので、豕の飼い主は大いに恥じ入り、誤認した豕を送り返すとともに曹節に謝罪した。曹節は笑いながらそれを受け取った。これによって郷里の人々は尊敬し歎息した。長子を曹伯興、(その)次の子を曹仲興、(その)次の子を曹叔興といった。曹騰は字を季興といい、若いころ黄門従官に叙任された。永寧元年、鄧太后黄門令に詔勅を下し、中黄門従官のうち年少で温厚謹直な者を選抜させて皇太子の書斎に配置したが、曹騰はそれに選ばれた。太子はとりわけ曹騰を親愛し、飲食も賞賜も人々から差別した。順帝が即位すると小黄門となり、中常侍・大長秋にまで昇進した。省闥にあること三十年余り、四帝代々に仕え、過失を犯すことがなかった。賢者才能を推薦することを好み、最後まで中傷されることはなかった。彼によって称賛推薦された者は、陳留虞放辺韶南陽延固張温弘農張奐潁川堂谿典などがおり、みな官位は公卿にまでなったが、(曹騰は)その善行を誇らなかった。蜀郡太守計吏を通じて曹騰に敬意を表させたが、益州刺史种暠函谷関において彼の手紙を手に入れ、太守(の罪状)をると同時に、曹騰が内臣でありながら外交していることは不当であると奏上し、免官して処罰すべきと請願した。帝は「手紙は外から来たもので、曹騰は手紙を出していない。彼の罪ではないのである」とい、种暠の上奏を取り上げなかった。曹騰は意に介することなく、常々种暠を称歎し、种暠にはお上に仕える節義を弁えていると言っていた。种暠はのちに司徒となったが、「今日になれたのは曹常侍のご恩だな」と人に語っている。曹騰の行動は全てこうした類であった。桓帝が即位すると、曹騰が先帝の旧臣であり、忠義孝心が顕著であることから、費亭侯に封じて特進の官位を加増した。太和三年(二二九)、曹騰を追尊して高皇帝と言った。

[三] 『続漢書』に言う。曹嵩は字を巨高といい、生まれつき性質は敦厚慎重で、どこにいても忠義孝行であった。司隷校尉となったのち、霊帝は抜擢して大司農・大鴻臚に任命し、崔烈に交代させて太尉とした。黄初元年(二二〇)、曹嵩は追尊されて太皇帝と呼ばれた。の人が作った『曹瞞伝』および郭頒の『世語』ではいずれも言う。曹嵩は夏侯氏の子で、夏侯惇の叔父である。太祖は夏侯惇にとっては従父兄弟になる。

太祖は若いころから機転が利き、権謀術数があったが、任俠放蕩で、振る舞いを慎もうとはしなかった。そのため世の人々で彼を評価する者はなかった。[一]ただ梁国橋玄、南陽の何顒だけが評価していた。橋玄は太祖に告げた。「天下は乱れんとしておるが、一世超絶の才でなければ収めることはできまい。これをよく安定させる、それは君次第であろうか!」[二]二十歳のとき孝廉に推挙されてとなり、洛陽北部尉に叙任され、頓丘県令に昇進し、[三]中央に徴し出されて議郎を拝命した。[四]

[一] 『曹瞞伝』に言う。太祖は若いころ鷹を飛ばしたり狗を走らせたりすることを好み、游蕩ぶりは度外れだった。彼の叔父がそのことを何度も曹嵩に報告していたが、太祖はそれをわずらわしく思い、のちに路上で叔父と遭遇したとき、騙そうと思って顔面を崩して口元をじってみせた。叔父は怪しんでその訳を訊くと、太祖が「卒中悪風です」と言ったので、叔父はそれを曹嵩に報告した。曹嵩が驚愕して太祖を呼び寄せると、太祖の口もも普段通りである。曹嵩が「叔父さんは汝が中風にかかったと言っていたが、もう治ったのかい?」と質問すると、太祖は「初めから中風にはかかっておりませんよ。ただ叔父さんの愛を失っているので、でたらめを言われているだけです」と言った。曹嵩はこうして疑いを持ち、以後、叔父が報告してくることがあっても、曹嵩は二度と信じなくなった。太祖はこうしてますます好き勝手することができるようになった。

[二] 『魏書』に言う。太尉橋玄は人を知ることができると世間で称えられ、太祖を見つめて彼を評価し、「吾は天下の名士を多く見てきたが、君ほどの者はいなかったぞ!君はよく自分を守りなさい。吾は年老いた!もしよければ(君に)妻子を為託したいものだが」と言った。これによって名声はますます重くなった。『続漢書』に言う。橋玄は字を公祖といい、厳正公明にして才略があり、人物(を知ること)に長けていた。張璠の『漢紀』に言う。橋玄は内外の官位を歴任し、剛毅果断であると称せられ、目下の者にでもへりくだり、王爵や親類との私情によって関係することはなかった。光和年間(一七八~一八四)に太尉となったが、長らく病気であったため罷免の命令が下り、太中大夫を拝命し、卒去した。家は産業に乏しく、柩がされることはなかった。当時、世間では彼を名臣と称した。『世語』に言う。橋玄は太祖に告げて言った。「君はまだ名を知られておらぬ。許子将と交わるとよかろう。」太祖が許子将のもとへ行くと、許子将は受け入れた。それによって名を知られるようになった。孫盛の『異同雑語』に言う。太祖はそのむかし、密かに中常侍張譲の部屋に侵入し、張譲に勘付かれた。そこで庭で手戟を振り回し、垣根を飛び越えて脱出した。武勇は絶倫で、よく彼に危害を加える者はいなかった。諸書を手広く読んだが、とりわけ兵法を好み、諸家の兵法を要約集成して『接要』と名付けた。また『孫武』十三篇に注を付け、どちらも世間に流行した。かつて許子将に「はいかなる人間でしょうか?」と問うたことがある。許子将は答えなかった。断固として彼に質問すると、許子将は言った。「は治世の能臣、乱世の姦雄である。」太祖は大笑いした。

[三] 『曹瞞伝』に言う。太祖は初めての役所に入ったとき、四方の門を修繕した。五色の棒を作り、門の左右におのおの十枚余りをぶら下げ、禁を犯した者があれば、権勢ある者でも避けることなく、みな棒打ちにして殺した。数ヶ月後、霊帝が愛幸する小黄門蹇碩の叔父が夜中に通行していたので、即座に彼を殺した。京師では行動を引き締め、あえて禁を犯す者はなくなった。近習寵臣たちはみな彼を憎んだが、かといって中傷することもできなかった。そこで一緒になって彼を褒めちぎった。そのため頓丘の県令に昇進することになったのである。

[四] 『魏書』に言う。太祖の従妹の夫イン彊侯宋奇が誅殺され、連坐して免官となった。のちによく古学を明らかにしたということで、ふたたび徴し出されて議郎を拝命した。それ以前のこと、大将軍竇武太傅陳蕃閹官を誅殺せんと計画したが、逆に殺害されたことがあった。太祖は上書し、竇武らは正直でありながら危害に遭い、姦佞邪悪な者どもが朝廷に満ちみちており、善人たちは逼塞しております、と陳述した。その言葉はきわめて厳しかったが、霊帝は用いることができなかった。そののち三府三公の役所)に詔勅が下され、州県のうち統治に功績ない者を検挙奏上し、領民に謡言(で揶揄批判)されている者があれば罷免することになった。(しかし)三公は悪事に傾倒しており、(官吏たちは)みな出世を望んでいたので、詔令が施行されると賄賂が流行し、権勢ある者は恨みを買っても検挙されることはなく、権勢なき者は道義を守っても多くが陥れられた。太祖はそれを憎らしく思った。この歳、災害異変が起こったので広く得失が下問された。その機会にふたたび上書して厳しく諫め、三公が検挙するのは貴族外戚の意向を回避したものだと説明した。奏上によって天子は感悟し、それを三府に見せて彼らを譴責し、謡言によって徴し返された者たちを全て議郎に任命した。(それでも)それ以後は政治教化が日々混乱してゆき、力ある者、狡猾な者はますます燃えさかり、多くの者が毀損されてしまった。太祖は匡正することはできないと悟り、とうとう二度と献言しなくなった。

光和年間(一七八~一八四)の末、黄巾賊が蜂起すると、騎都尉を拝命して潁川の賊を討伐した。昇進して済南国のになった。国には十県余りがあったが、長吏県令・県長)の多くは貴族外戚に阿諛迎合し、賄賂狼藉を働いていたので、そこで八割方を奏上して罷免した。淫祠を禁止すると、姦悪な者は逃げ去って息を潜め、郡の境界内は粛然とした。[一]長らく在任したのち、徴し返されて東郡太守とされたが、就任せず、病気と称して郷里に帰った。[二]

[一] 『魏書』に言う。長吏は収賄することに貪欲で、貴人権勢を後ろ盾にしており、歴代の国相の前任者は検挙していなかった。太祖がみんな検挙罷免してしまったと聞くや、小物も大物も震えおののき、姦悪な者は遁走してよその郡に逃げ込んだ。政治教化は大いに実行され、一郡まるごと清潔平穏になった。むかし、城陽景王劉章漢朝に対して功績があった。そのため彼の国ではを立てたが、青州の諸郡が相継いでそれに倣い、済南は一番盛んで、六百以上もの祠があった。商人の中には二千石(太守)の輿服をまね、従者を教育して芸人による娯楽を興行する者もあり、奢侈は日に日にひどくなっていった。民衆はそのせいで貧困になったが、歴代の長吏にあえて禁止する者はいなかった。太祖は着任すると、祠の社屋を全て破壊し、官吏民衆に禁止を出して祠を祭祀できないようにした。(のちに)政権を掌握してからは、とうとう姦佞邪悪な鬼神のことは排除され、世間の淫らな祭祀は、それ以来すっかり絶滅した。

[二] 『魏書』に言う。こうして権臣が朝政を専断し、貴人外戚が好き勝手に振る舞うようになった。太祖は道義に背いてまで(悪事を)容認することができず、しばしば楯突いたため、一家に災いが降りかかるのを恐れた。そこで宿衛に留めてくれるよう請願し、議郎に任命されたが、いつも病気にかこつけて(出仕せず)、すぐに(辞去を)告げて郷里に帰ってしまった。城外に部屋を築き、春から夏までは書・伝を習読し、秋から冬までは狩猟し、それを自分から娯楽とした。

しばらくすると、冀州刺史王芬・南陽の許攸・沛国の周旌らが豪傑たちと連結し、霊帝を廃して合肥侯を擁立せんと謀議した。それを太祖に告げたが、太祖はそれを拒んだ。王芬らは結局失敗してしまった。[一]

[一] 司馬彪の『九州春秋』に言う。ここにおいて、陳蕃の子陳逸は術士である平原襄楷とともに王芬の宴会に出席した。襄楷が「天文では宦者に不利と出ております。黄門・常侍といった貴人たちは一族滅亡いたします」と言ったので陳逸は喜んだ。王芬は言った。「そういうことならば王芬が駆除させてもらおうか。」こうして許攸らと陰謀を巡らせた。霊帝が北方の河間の旧宅に巡幸しようとしていたので、王芬らはその機会に乗じて変事を起こそうと計画し、黒山賊が郡県を攻撃しているので、軍勢を催すことを許可されたいと上書した。ちょうどそのとき赤い気が北方で起こり、東西に広がって天を覆い隠した。太史が「陰謀がございます。北へ行幸されるべきでありません」と上言したので、帝は(巡幸を)中止した。詔勅を下して王芬らの軍勢を取り上げ、時を置かずして彼らを徴し寄せた。王芬は恐怖して、自殺した。『魏書』に載せる太祖が王芬を拒絶する言葉に言う。「そもそも廃立の仕事というのは、天下の不祥事のうち最もたるもの。古人のうち成功・失敗を調整して軽重を計り、それを実行に移した者といえば、伊尹・霍光がそれにあたります。伊尹は究極の忠誠を懐に抱き、宰相の権勢に依拠し、官僚の上位に位置しておりました。それゆえ進退廃置は、計画が滞ることなく成立させられたのです。霍光ほどになると、国家委託の任命を受け、皇族の位階に身を置き、内向きには太后の政権掌握の重さを頼りとし、外向きには諸卿の同心を願う情勢がありました。昌邑王は即位してから日も浅く、まだ貴族寵臣もおらず、朝廷は直言の臣に乏しく、提議は親密な側近から出されておりました。それゆえ計画は輪が転ぶように実行され、仕事は朽木が砕けるように成立したのです。いま諸君はただ昔日の容易さを見るだけで、当今の難儀さをていないのです。諸君は自ら忖度してごらんなさい。大勢を結集して徒党を連ねた点において、七国と比べてどうか?合肥侯の高貴さという点において、呉・楚と比べてどうか?尋常にあらざることをしようとして、必勝を期待するのは、やはり危険ではありますまいか!」

金城辺章・韓遂刺史・郡守を殺して叛逆し、軍勢十万人余りを集めたので、天下は騒然となった。太祖は徴し出されて典軍校尉になった。ちょうどそのころ霊帝が崩御したので、太子が即位し、太后が朝政に臨んだ。大将軍何進袁紹とともに宦官誅殺を計画したが、太后は許可しなかった。何進はそこで董卓を召し寄せ、太后を脅迫しようと思ったが、[一]董卓が到着せぬうちに何進は殺されてしまった。董卓は到着すると、帝を廃して弘農王とし、献帝を即位させたので京都は大混乱になった。董卓は上表して太祖を驍騎校尉とし、ともに事業を計画しようとしたが、太祖は姓名を変え、間道を縫って東方に帰っていった。[二]関所を出たものの、中牟を通過しようとしたとき、亭長に嫌疑を懸けられ、捕縛されてまで護送された。の中に密かに彼を見分けた者がおり、(その人が)請願したので解放された。[三]董卓はついに太后および弘農王を殺害してしまった。太祖は陳留に到着すると、家財をなげうって義兵を糾合し、それで董卓を誅殺しようとした。冬十二月、初めて己吾において挙兵した。[四]この歳は中平六年(一八九)である。

[一] 『魏書』に言う。太祖は聞くと彼らを笑い、「閹豎の官というのは古今ずっとあるもの。ただ歴代の君主が彼らに不当な権力寵愛を与えたため、このような事態になっただけだ。彼らの罪を裁くのであれば、元凶を誅殺するには一獄吏がいれば充分だろう。どうして揉めに揉めた挙げ句、外から部将を召し寄せる必要があるのか?彼らをことごとく誅殺しようとすれば、きっと計画は露見するだろう。にはその失敗が見えるぞ」と言った。

[二] 『魏書』に言う。太祖は董卓が最終的に必ず失敗するとみて、とうとう任務に就かないで郷里に逃げ帰った。数騎を従えて旧知である成皋呂伯奢のもとに立ち寄ったが、呂伯奢は不在であった。彼の子息と賓客たちが一緒になって太祖を脅迫し、乗馬や荷物を奪おうとしたので、太祖は自分自身で刃物をとって数人を撃ち殺した。『世語』に言う。太祖は呂伯奢のもとに立ち寄った。呂伯奢は外出していたが、五人の子はみな在宅していて、賓客と主人の礼を尽くした。太祖は自分が董卓の命令に背いていたことから、彼らが自分(の暗殺)を図っているのではないかと疑い、剣を手に取り、夜中に八人を殺して立ち去った。孫盛の『雑記』に言う。太祖は彼らが食器の音を立てるのを聞き、自分が図られていると思い、そこで夜になって彼らを殺した。あとになってひどく悲しみ、「我が他人にくのは仕方ない、他人が我に負くことのないようにしたいものだな!」と言い残して去った。

[三] 『世語』に言う。中牟では彼を逃亡者ではないかと疑い、(太祖は)県に拘置された。当時のもやはり董卓から書状を受け取っていたが、ただ功曹だけは心密かにそれが太祖と分かり、世が乱れようとしているのだから、天下の雄俊を拘置するのはよくないと思い、そこで県令に告げて彼を釈放した。

[四] 『世語』に言う。陳留の孝廉である衛茲は家財をなげうって太祖を援助し、挙兵させ、軍勢は五千人にもなった。

初平元年(一九〇)春正月、後将軍袁術・冀州韓馥・[一]予州刺史孔伷・[二]兗州刺史劉岱・[三]河内太守王匡・[四]勃海太守袁紹・陳留太守張邈東郡太守橋瑁・[五]山陽太守袁遺・[六]済北国の相鮑信は[七]時を同じくして挙兵し、軍勢はおのおの数万人、袁紹を盟主に擁立した。太祖は奮武将軍を(臨時に)行った。

[一] 『英雄記』に言う。韓馥は字を文節といい、潁川の人である。御史中丞になった。董卓は推挙して冀州牧とした。当時、冀州の人民は繁栄し、兵糧は充足してあり余っていた。袁紹が渤海に赴任すると、韓馥は彼が挙兵することを恐れ、数人の部従事を派遣して彼を見張らせ、身動きできなくした。東郡太守橋瑁が京師の三公の文書を偽作して州郡に配布し、董卓の罪状を列挙して、「逼迫されていて自力救済することができない。義兵が国難から解放してくれることを切望している」と言っていた。韓馥は配布を受けて、従事たちを集めて質問した。「いま氏を助けるべきか。董卓を助けるべきか?」治中従事劉子恵は言った。「いま挙兵するのはお国のため。どうして袁だのだのと言われるのですか!」韓馥は発言が短慮であったと自覚し、そして恥ずかしそうな様子になった。劉子恵はまた言った。「軍事は凶事でありますから、首唱してはなりませぬ。いまは他州の様子を見つつ、動き出す者がいて初めて合流すればよいでしょう。冀州は他州より弱いということはございませぬから、他人の功績が冀州の右に出ることはありますまい。」韓馥はその通りだと思った。韓馥はそこで手紙を書いて袁紹に与え、董卓の悪事について述べ、彼が挙兵することを許可してやった。

[二] 『英雄記』に言う。孔伷は字を公緒といい、陳留の人である。張璠の『漢紀』は鄭泰が董卓を説得した言葉を載せ、「孔公緒は清らかな談議、高邁な議論が得意で、枯木にふっと息をかけたり生木にはっと息をかけたりしております」と言っている(鄭渾伝参照)。

[三] 劉岱は劉繇の兄で、事績は『呉志』に見える。

[四] 『英雄記』に言う。王匡は字を公節といい、泰山の人である。財貨を軽んじて施しを好み、任俠をもって知られていた。大将軍何進の(役所)に招かれたが、何進は割り符をもって王匡を派遣し、徐州において強弩五百を徴発させ、西へと京師に帰ってこさせた。ちょうどそのとき何進が敗北したので、王匡は州里に帰還した。家を出て(無官の身から)河内太守を拝命した。謝承の『後漢書』に言う。王匡は若いころ蔡邕と仲が良かった。その年、董卓軍に敗北すると泰山に逃げ帰り、強く勇ましい者を募集すると数千人を手に入れたので、張邈と合流しようとした。王匡はかつて執金吾胡母班を殺したことがあった。胡母班の親族は憤怒を抑えきれず、太祖と勢力を併せ、一緒に王匡を殺した。

[五] 『英雄記』に言う。橋瑁は字を元偉といい、橋玄の族子である。はじめ兗州刺史となり、極めて威厳と恩恵があった。

[六] 袁遺は字を伯業といい、袁紹の従兄である。長安の県令になった。河間の張超はいつも袁遺を太尉朱儁に推薦し、袁遺を「世間でも一番の懿徳があり、時代の中心となる器量があります。その忠誠正直さは、もとより天の与えたところです。典籍を網羅して諸子百家を総攬し、高みに登って賦を作り、物を見つめて名を知るといったことでは、それを現代に求めても当てにはならず、匹敵する者がございませぬ」と称えていた。記事は『(張)超集』にある。『英雄記』に言う。袁紹はのちに袁遺を任用して揚州刺史にしたが、袁術のために敗北した。太祖が「成長しても学問に勤しむ者は、ただ吾と袁伯業だけだ」と称えていたことは、文帝曹丕)の『典論』に記録がある。

[七] 鮑信のことは子の『(鮑)勛伝』に見える。

二月、董卓は挙兵のことを聞き、天子を遷して長安を都にした。董卓は洛陽に駐留し、とうとう宮殿を燃してしまった。このとき袁紹は河内にし、張邈・劉岱・橋瑁・袁遺は酸棗に屯し、袁術は南陽に屯し、孔伷は潁川に屯し、韓馥はにあった。董卓の軍勢は強力で、袁紹らのうちあえて率先して進む者はなかった。太祖は言った。「義兵を挙げたのは乱暴者を誅するためであった。大軍がすでに集合したというのに、諸君らは何を逡巡するのか?以前、董卓は山東の軍勢が起こったことを聞いて、王室の権威に依りかかり、二周の険阻に拠りかかり、東に向いて天下を見下ろしたが、それが無道に行われたとしても、なお憂慮するに足るものであった。今や宮殿を燃焼し、天子を奪ってお遷ししたのだ。海内は震えおののき、落ち着くよすがも知らない。これこそ天が彼を亡ぼさんとする時である。一戦にして天下は平定できよう。(この好機を)失ってはならない。」こうして軍勢を引率して西進し、成皋を拠点にしようとした。張邈は部将衛茲を派遣し、軍勢を分割して太祖に随行させた。滎陽汴水に到達したとき、董卓の部将徐栄と遭遇し、これと戦闘になって敗北し、士卒の死傷する者は非常に多かった。太祖は流れ矢にってしまい、乗っていた馬もを被った。従弟曹洪が馬を太祖に献じたので、夜間、脱走することができた。徐栄は太祖の率いる軍勢が少なく、(にも関わらず)一日中奮戦し続けたのを見て、「酸棗はまだ容易に攻められないぞ」と言い、やはり軍勢を引率して帰還した。

太祖が酸棗に到着すると、諸軍の軍勢十万人余りは、連日、酒を伴う豪勢な宴会を催しており、進軍攻略のことなど計画さえしていなかった。太祖は彼らを難詰し、さらに(彼らの)ために計略を立ててやった。「諸君よ、吾が計略を聞きたまえ。渤海は河内の軍勢を引率して孟津で対陣し、酸棗の諸将は成皋を守りつつ、敖倉を占拠し、轘轅・太谷を封鎖し、それらの要害を完全征圧する。袁将軍は南陽の軍を統率して丹・析に布陣して武関に入り、それによって三輔地方を震動させるのだ。みな城塁を高く防壁を深くして戦わないようにする。次々に疑兵を増やしていって天下の形勢を示し、順をもって逆を誅すれば即座に平定できよう。いま軍勢は道義によって動員されたのだから、疑心を抱いて進軍しないのであれば、天下の希望を失うことになる。密かに諸君らのために恥ずかしく思うぞ!」張邈らは採用することができなかった。

太祖の軍勢は少なくなったので、夏侯惇らとともに揚州に赴いて募兵した。刺史陳温丹楊太守周昕は軍勢四千人余りを与えた。引き揚げて龍亢まで行ったとき、士卒の多くが叛逆した。[一]銍・建平まで行き、ふたたび募兵をかけて千人余りを手に入れ、進軍して河内に駐屯した。

[一] 『魏書』に言う。兵士が謀叛して、夜間、太祖のを焼いた。太祖が自ら剣を取って数十人を殺すと、残りはみないたので、陣営から脱出することができた。叛逆しなかった者は五百人余りだった。

劉岱と橋瑁は憎しみあい、劉岱が橋瑁を殺し、王肱に東郡太守を領させた。

袁紹と韓馥は幽州劉虞を皇帝に擁立せんと計画したが、太祖はそれを拒否した。[一]袁紹はまた一つの玉印を手に入れ、集会の席で太祖に向かって自分の肘を掲げたことがあった。太祖はそれを見て笑っていたが、(内心では)憎らしく思った。[二]

[一] 『魏書』は太祖の袁紹への答えを載せている。「董卓の罪悪は四海に暴露された。吾らが大軍を結集して義兵を起こせば、遠きも近きも呼応しない者はなかった。これは義によって行動したからだぞ。いま幼主は力弱く、姦臣に制されているとはいえ、昌邑(王)が国を亡ぼしたような過ちがあるわけではない。それなのに一朝にして改易なさるとなれば、天下はそれで安心できようか?諸君らは北面なさい。我は自ら西に向こう。」

[二] 『魏書』に言う。太祖は大笑いして「吾は汝の言いなりにはならぬぞ」と言った。袁紹はまた人をやって太祖を説得させた。「いま袁公の勢力は盛んで軍勢は強く、二人の子はすでに成長しております。天下の羣英たちのうち彼に勝る者はおりましょうや?」太祖は答えなかった。こうしたことから、(太祖は)ますます袁紹が不正であると思い、彼らを誅滅せんと計画するようになった。

二年(一九一)春、袁紹・韓馥はついに劉虞を擁立して皇帝としたが、劉虞は最後まで承知しなかった。

夏四月、董卓は長安に引き揚げた。

秋七月、袁紹は韓馥を脅迫して冀州を奪った。

黒山賊の于毒・白繞・眭固らの眭は申随の反切(スイ)。十万人余りの軍勢が魏郡・東郡を攻略したが、王肱は防ぐことができなかった。太祖は軍勢を引率して東郡に入り、濮陽において白繞を攻撃し、これを破った。袁紹はそこで上表して太祖を東郡太守とし、東武陽で統治させた。

三年(一九二)春、太祖が頓丘に布陣したところ、于毒らは東武陽を攻撃した。太祖はそこで軍勢を引率して西進して山に入り、于毒らの本拠地を攻撃した。[一]于毒はそれを聞いて、武陽を棄てて撤退した。太祖は眭固を待ち伏せし、また匈奴於夫羅内黄において撃ち、いずれも大破した。[二]

[一] 『魏書』に言う。諸将たちはみな引き揚げて自陣を救うべきと主張したが、太祖は「孫臏を救わんとを攻め、耿弇西安に走らんとして臨菑を攻めた。賊徒どもに我が西進したと聞かせてやって、撤退させれば、武陽は自然と解放されるだろう。撤退しなくとも、我は彼らの本拠地を打ち敗ることも可能だし、盗賊どもが武陽を陥落させられないことは必定だ」と言い、そのまま行軍した。

[二] 『魏書』に言う。於夫羅というのは南単于羌渠)の子である。中平年間、(漢朝は)匈奴兵を徴発したが、於夫羅が統率者となって漢朝を補佐した。ちょうどそのころ本国で反乱があり、南単于が殺された。於夫羅はそのままその軍勢を率いて中国に留まった。天下に擾乱が起こったので、西河白波賊と合流し、太原・河内を破り、諸郡で略奪を働いて害をなした。

夏四月、司徒王允呂布が一緒になって董卓を殺した。董卓の将軍李傕・郭氾らが王允を殺し、呂布を攻めた。呂布は敗北し、武関から東へ出た。李傕らは朝政を欲しいままにした。

青州黄巾賊の軍勢百万人が兗州に侵入し、任城国の相鄭遂を殺害し、転進して東平に入った。劉岱はこれを攻撃しようとしたが、鮑信が諫めて言った。「いま賊の軍勢は百万人にもなり、百姓らはみな恐れおののき、士卒には闘志がございません。敵いますまい。賊軍を観察したところ、群れをなして人々が寄り添い合っているだけで(統率者がおらず)、軍中には輜重もなく、ただ略奪だけに食糧を頼っております。今は軍勢の気力を養い、まずは固守するのが最上。彼らは戦おうと思ってもできず、攻撃しようと思ってもやはりできず、その勢力はきっと離散するでしょう。そののち精鋭を選抜し、要害を占拠して彼らを撃てば、撃破することもできましょう。」劉岱は聞き入れず、そのまま彼らと戦い、案の定殺されてしまった。[一]鮑信はそこで州吏万潜らとともに東郡へ赴き、太祖を領兗州牧に迎えた。(太祖は)そのまま軍勢を進め、寿張の東において黄巾賊を攻撃した。鮑信が奮戦のすえ討死し、やっとのことで撃ち破ることができた。[二]鮑信の亡骸を買い求めたが見付けられず、人々はそこで木を刻んで鮑信の姿に似せ、祭礼を行って哭泣した。黄巾賊を済北まで追撃すると、(賊は)投降を願い出た。冬、投降兵三十万人余り、男女百万人余りを受け入れ、彼らのうち精鋭を選りすぐって「青州兵」と名付けた。

[一] 『世語』に言う。劉岱が死んだのち、陳宮は太祖に告げた。「州にはいま君主なく、そのうえ王命(を伝える街道)も断絶しております。陳宮は州内を説得したいと存じます。明府はすみやかに赴いてこれを(統治)しなされ。それを元手に天下を収めること、これぞ霸王の業であります。」陳宮は別駕・治中を説得して言った。「いま天下は分裂し、州には君主なき有様。曹東郡は命世の才をお持ちです。もし迎え入れて州を牧させれば、きっと民衆を安心させることができましょう。」鮑信らもやはりその通りだと思った。

[二] 『魏書』に言う。太祖は歩騎千人余りを率い、戦場視察に出かけた。突然、賊軍の陣営にぶつかった。戦況は不利となり、死者数百人を出して撤退した。賊軍はすぐに前進してきた。黄巾党は賊徒に身を崩して久しく、しばしば勝利を味わってきたので、兵士はみな精悍であった。太祖(の手元)には古参の兵が少なく、新兵は調練不足であり、軍をこぞってみな恐怖した。太祖は甲冑を身に纏い、親しく将兵を巡察して賞罰を明らかにした。軍勢はそこで再び奮い立ち、隙を見て攻撃をかけたので、賊徒どもは少しづつ打ち砕かれて退いた。賊徒はそこで文書を太祖に送り付けて言った。「むかし(使君が)済南にいらっしゃったとき、神壇を破壊されましたが、その道は中黄太乙と同一でございました。についてご存じかと見えましたのに、今になって錯乱しておいでです。漢の命運はすでに尽きており、黄家が立つべきなのです。天の大いなる運命でございますから、君の才能力量で存続させられるものではございませんぞ。」太祖は檄文を見ると叱咤罵倒し、何度も降服への道を示してやった。けっきょく伏兵を設置し、昼夜にわたって会戦を繰り広げ、戦うたびに捕虜を得たので、賊軍は撤退した。

袁術と袁紹は仲違いしていたので、袁術は公孫瓚に救援を求めた。公孫瓚は劉備高唐に屯させた。単経は平原に屯し、陶謙発干に屯して袁紹を圧迫した。太祖は袁紹と会同し、それらを全て撃ち破った。

四年(一九三)春、鄄城に進駐した。荊州劉表が袁術の糧道を遮断すると、袁術は軍勢を引率して陳留に進入し、封丘に屯した。黒山賊の残党および於夫羅らがそれを支援した。袁術は将軍劉詳匡亭に屯させた。太祖は劉詳を攻撃したが、袁術が彼に救援を出したので合戦となり、彼らを大破した。袁術が撤退して封丘に楯籠ったので、そのままこれを包囲した。まだ(包囲軍が)集合しないうちに袁術は襄邑に逃走したので、太寿まで追撃し、運河を決壊させて(太寿)城を水没させた。(袁術が)寧陵に逃走したので、さらに彼を追撃すると、(袁術は)九江に逃走した。夏、太祖は帰還して定陶に駐留した。

下邳闕宣が軍勢数千人を集め、天子を自称した。徐州牧陶謙は一緒に軍勢を催し、泰山の華・費を奪取し、任城で略奪を働いた。秋、太祖は陶謙を征討して十城余りを下したが、陶謙は城に楯籠り、出てこようとはしなかった。

この歳、孫策が袁術の指示を受けて長江を渡り、数年のあいだで、とうとう江東を領有してしまった。

興平元年(一九四)春、太祖は徐州から帰還した。むかし太祖の父曹嵩は、官職を去ったのち譙に帰郷し、董卓の乱が起こったので琅邪に避難したが、陶謙に殺害されてしまった。そのため太祖は復讐を志して東征したのである。[一]夏、荀彧・程昱に鄄城を守らせ、再び陶謙を征伐し、五つの城を陥落させ、そのまま各地を攻略しつつ東海まで到達した。引き返してを通過したが、陶謙の将軍曹豹と劉備が郯の東に屯し、太祖を迎撃した。太祖は彼らを撃破し、そのまま襄賁を攻撃して陥落させた。(太祖の軍の)通過した場所では多くの人が殺戮された。[二]

[一] 『世語』に言う。曹嵩は泰山の華県にいた。太祖は泰山太守応劭に命じ、家(家族)を兗州まで送らせた。応劭の軍勢がまだ到着しないうちに、陶謙が密かに数千騎を派遣して捕まえてしまった。曹嵩の家では応劭の出迎えだと思い、準備を設けていなかったのだ。陶謙の軍勢はやってきて、太祖の弟曹徳を門内で殺害した。曹嵩は恐怖し、裏手の垣根に穴を開け、まず自分の妾を脱出させようとしたが、妾は肥えていて出ることができなかった。曹嵩は廁へ逃げ込んだが、妾と一緒に殺害され、郷里の一族はみんな死んだ。応劭は恐懼し、官職を棄てて袁紹のもとへ赴いた。のちに太祖が冀州を平定したとき、応劭は当時すでに死んでいた。韋曜の『呉書』に言う。太祖は曹嵩を出迎えるのに、輜重百両余り(を派遣して旅行の費用としたの)であった。陶謙は都尉張闓に騎兵二百人を率いさせて護送させた。張闓は泰山の華・費の境界で曹嵩を殺し、財物を奪い、そのあと淮南に出奔した。太祖は罪咎を陶謙に被せ、それから彼を討伐した。

[二] 孫盛は言う。罪人を伐ち、民衆を慰めるのが古代の規範である。罪は陶謙にあるのに、彼の配下を殺してしまったのは過ちである。

ちょうどそのとき張邈が陳宮とともに叛逆し、呂布を迎え入れた。郡県はみな呼応した。荀彧・程昱は鄄城に楯籠り、范・東阿の二県も固守した。太祖はそこで軍勢を引率して帰還した。呂布がやってきて鄄城を攻撃したが、陥落させられず、西進して濮陽に屯した。太祖は言った。「呂布は一日にして一州を得たものだが、東平を占拠して亢父・泰山の道を遮断し、要害を利用して我を迎え撃つことができず、とうとう濮陽に屯してしまった。吾は彼の無能が分かったよ。」こうして進軍して彼を攻撃した。呂布は軍勢を押し出して戦い、真っ先に騎兵でもって青州兵を襲った。青州兵が逃げ去り、太祖の布陣は混乱してしまった。(太祖は)馬を走らせて火炎から脱出したが、落馬し、左手の手のひらに火傷を負った。司馬楼異が太祖の手を引いて馬に乗せ、そのまま撤退した。[一](太祖が)陣営に到着する以前、諸将は太祖の姿が見えないため、みな恐れを抱いた。太祖はそこで自ら励んで軍勢を慰労し、軍中に攻城用兵器を作って進軍し、び彼を攻撃するようにと督促した。呂布と対峙すること百日余りになった。蝗虫が発生して百姓は大いに餓え、呂布の糧食もやはり底をついたので、おのおの撤退した。

[一] 袁暐の『献帝春秋』に言う。太祖が濮陽を包囲したとき、濮陽の大姓氏が反間となったので、太祖は入城することができた。(太祖は)その東門を焼き、引き返す意志のないことを示した。戦闘に及んだが、軍勢は敗北した。呂布の騎兵が太祖を捕まえたが、彼であるとは知らずに尋問した。「曹操はいづくにおるか?」太祖は言った。「黄色い馬に乗って逃げていくのが、その方です。」呂布の騎兵はそこで太祖を釈放し、黄色い馬の者を追跡した。門の火はまだ燃えさかっていたが、太祖は火炎を突き抜けて脱出した。

秋九月、太祖は鄄城に帰還した。呂布は乗氏に着陣したが、その県の人李進に撃破され、東進して山陽に屯した。ここにおいて、袁紹は人をやって曹操を説得し、和睦しようと望んだ。太祖は兗州を失ったばかりで、軍勢も食糧が底を突いており、それを承知しようとした。程昱が太祖を諫止したので、太祖はそれを聞き入れ(取り止め)た。冬十月、太祖は東阿に着陣した。

この歳、穀物が一斛あたり五十万銭余りに上り、人々は互いの肉を食らい合った。そこで官吏・兵士の新たな募集は中止した。陶謙が死去し、劉備が彼に交代した。

二年(一九五)春、定陶を襲撃した。済陰太守呉資南城に楯籠り、陥落させられなかった。ちょうどそこへ呂布が着陣したので、また彼を撃破した。夏、呂布の将軍薛蘭・李封鉅野に屯していたので、太祖はこれを攻撃した。呂布は薛蘭を救援したが、薛蘭が敗北すると呂布も逃走した。かくて薛蘭らを斬った。呂布は再び東緡から陳宮に合流し、一万人余りを率いて来襲してきた。当時、太祖の軍勢は少なかったので、伏兵を設け、奇兵を放って攻撃し、彼らを大破した。[一]呂布が夜間逃走すると、太祖はまた攻勢に出て定陶を陥落させ、軍勢を分けて諸県を平定した。呂布は東方へ行き劉備のもとに出奔した。張邈は呂布に随従し、その弟張超に家族を率いさせて雍丘に楯籠らせた。秋八月、雍丘を包囲した。冬十月、天子は太祖を兗州牧に任命した。十二月、雍丘は潰滅し、張超は自殺した。張邈の三族をにした。張邈は袁術に救援を求めに行ったが、彼の人数に殺されてしまった。兗州が平定されたので、そのまま東進しての地を攻略した。

[一] 『魏書』に言う。このとき軍勢はみな麦を取りに出ており、残っている者は千人にもせず、陣営も堅固でなかった。太祖はそこで婦人たちにを守らせ、軍勢をかき集めて防衛した。陣営の西側に大きな堤があり、その南側は樹木が鬱蒼としていた。呂布は伏兵があるのではないかと疑い、そこで「曹操は詐術が多い。伏兵の中に入るなよ」と(左右の者と)言い合い、軍勢を引率して南十里余りのところに屯した。翌日、再びやってきたが、太祖は軍勢を堤の裏側に潜ませ、半数の軍勢を堤の外に出した。呂布がますます前進してきたので、軽装の兵士に挑戦させた。ぶつかったとき、伏兵が一斉に堤に乗り、歩兵と騎兵とがならんで突き進んで彼らを大破し、その鼓車を鹵獲した。彼らの陣営まで追撃し、そののち帰還した。

この歳、長安が混乱し、天子は東方に遷したが、曹陽において敗北した。黄河を渡って安邑に行幸した。

建安元年(一九六)春正月、太祖が進軍して武平に臨むと、袁術の配置した陳国の相袁嗣は降服した。

太祖が天子を迎え入れようとしたとき、諸将の中には疑う者もあったが、荀彧・程昱はそれを勧めた。そこで曹洪に軍勢を率いさせて西に迎えさせたが、衛将軍董承が袁術の将軍萇奴とともに険阻に拒んだため、曹洪は進むことができなかった。

汝南・潁川の黄巾賊の何儀・劉辟・黄邵・何曼らは、軍勢おのおの数万人であり、かつては袁術に呼応したり、また孫堅に附属したりしていた。二月、太祖は進軍して彼らを討ち破り、劉辟・黄邵らを斬首すると、何儀および彼らの軍勢はみな降服した。天子は太祖を建徳将軍に任命し、夏六月、鎮東将軍に昇進させ、費亭侯に封じた。秋七月、楊奉・韓暹が天子を奉じて洛陽に帰還し、[一]楊奉は別途、に屯した。太祖がそのまま洛陽へ赴いて京都を守護すると、韓暹は遁走した。天子は太祖に節鉞し、録尚書事とした。[二]洛陽は破滅しており、董昭らは太祖にへの遷都を勧めた。九月、御車は轘轅を出て東下し、太祖を大将軍とし、武平侯に封じた。天子が西方に遷都してからというもの、朝廷は日ごとに混乱していたが、このときになって宗廟・社稷の制度が初めて確立された。[三]

[一] 『献帝春秋』に言う。天子は初めて洛陽に到着したとき、城西にあるの中常侍趙忠の邸宅に行幸した。張楊に宮殿を修繕させて、殿舎を「楊安殿」と名付け、八月、帝はそこで居を遷した。

[二] 『献帝紀』に言う。また司隷校尉を領した。

[三] 張璠の『漢紀』に言う。むかし天子は曹陽において敗北したとき、黄河に船を浮かべて東下しようと考えた。侍中・太史令王立は言った。「昨春より太白(金星)が牛宿(やぎ座)・斗宿(いて座)において鎮星(土星?)を犯して天津(はくちょう座)をよぎり、熒惑(火星)もまた逆行して北河(ふたご座)を守っており、犯すことができません。」そのため天子はついに黄河を北岸へと渡らず、軹関から東方に出ようとした。王立はまた宗正劉艾に告げた。「以前、太白が天関を守り、熒惑と遭遇しておりました。金と火が交わり遭遇するのは革命のでございます。漢の祚は尽き果て、晋・魏に必ず興隆する者がありましょう。」王立はその後もしばしば帝に言上する。「天命には去就があり、五行は常時盛んなわけではありません。火に代わる者は土、漢を承ける者は魏、よく天下を安んずる者は曹姓でございます。ただただ曹氏にご委任なさるばかりです。」公はそれを聞いて、人をやって王立に伝えさせた。「公が朝廷に対して忠義なのは存じておる。さりとて天道は深遠たるもの。他言なさらぬのが幸いである。」

天子が東下したとき、楊奉は梁を出てそれを待ち構えようとしたが、追い付けなかった。冬十月、公は楊奉を征伐し、楊奉が南に袁術のもとへと出奔したので、そのまま彼の梁の屯所を攻撃し、それを陥落させた。ここにおいて袁紹を太尉としたが、袁紹は席次が公の下になることを恥じ、拝命を承諾しなかった。公はそこで固辞して、大将軍(の官職)を袁紹に譲った。天子は公を司空に任命し、車騎将軍(の職務)を行わせた。この歳、棗祗・韓浩らの建議を採用し、初めて屯田を興した。[一]

[一] 『魏書』に言う。騒乱(の時代)に遭遇してからというもの、大抵は食糧が欠乏していた。諸軍はならんで決起したが、年越しの計略もなく、飢えれば略奪して飽きれば残り物を棄てており、(その結果)瓦解して流浪して、敵もいないのに自滅する者が数え切れないほどだった。袁紹は河北にあったが、軍人は桑椹に食物を仰いでいた。袁術は江・淮にあったが、蒲蠃を給するのが手だった。人民は互いに食らいあい、州里はひっそりと静まりかえった。公は言った。「国家安定の術は、軍備の強化と食糧の充足にあるものだ。秦人は農業を急務として天下を兼併し、孝武は屯田によって西域を平定した。これこそ先代の良き模範である。」この歳、民衆から募集して許の城下で屯田を行い、百万の穀物を収穫した。こうして州郡への田官配置を定めると、いたるところで穀物が積み上げられた。四方を征伐するにも食糧搬送の苦労がなく、ついに羣賊を兼併して滅ぼし、よく天下を平定した。

呂布が劉備を襲撃して下邳を奪い取ったので、劉備が脱走して来降してきた。程昱が公を説得して「劉備を観察してみるに、英雄の才覚を持ち、はなはだ人々の心をつかんでおります。最後まで人の下についていないでしょう。早々にもこれを図るのが最上です」と言った。公は「いまは英雄を迎え入れたいときである。一個の人間を殺して天下の心を失ってはならんのだ」と言った。

張済関中から南陽に走っていたが、張済が死ぬと、従子の張繡がその軍勢を宰領した。二年(一九七)春正月、公はに着陣した。張繡は降服したが、あとになってそれを後悔し、再び反抗した。公はそれと戦ったが軍勢は敗北し、流れ矢に当たり、長子曹昂や弟の子曹安民が殺害された。[一]公はそこで軍勢を引き払って舞陰に帰還し、張繡が騎兵を率いて略奪に来ると、公はそれを撃破した。張繡はに遁走し、劉表と合流した。公は諸将に言った。「吾は張繡らを降しながら、すぐさま人質を取らぬ失敗を犯し、かような羽目になってしまった。吾はどうして敗北したのか分かった。諸卿はこれを見ていてくれ。今後はもう失敗しないぞ。」かくて許に帰還した。[二]

[一] 『魏書』に言う。公の乗馬は名を「絶影」といい、流れ矢に当たって頬と足とを傷付けた。同時に公の右臂にも命中した。『世語』に言う。曹昂は(怪我のため)騎乗することができず、公に馬を捧げた。公はそれで逃げ延びられたのだが、曹昂は殺害されてしまった。

[二] 『世語』に言う。旧制では、三公が軍勢を領して入朝した際、いつも戟を交わして(その人の)頸部を挟んでから御前に出ることになっていた。はじめ公が張繡を討伐しようとしたとき、(勅許を得るため)天子に朝覲したが、ちょうどその制度が復活されたばかりだった。公はそれ以来、再び朝見しようとしなくなった。

袁術は淮南において帝を称したいと思い、人をやって呂布に告げさせた。呂布はその使者を収監し、その文書を呈上した。袁術は怒って呂布を攻撃したが、呂布に破られてしまった。秋九月、袁術が陳に侵攻したので、公はこれを東征した。袁術は公自らやってきたと聞き、軍勢を棄てて逃走し、その将軍橋蕤・李豊・梁綱・楽就を残留させた。公は到着すると、橋蕤らを撃破し、これらを全て斬首した。袁術は逃走して淮水を渡った。公は許に帰還した。

公が舞陰から引き揚げたとき、南陽・章陵の諸県が再び叛逆して張繡に荷担していた。公は曹洪を派遣してそれらを攻撃させたが、不利となった。(曹洪は)引き揚げてに屯したが、しばしば張繡・劉表の侵害を被った。冬十一月、公は自ら南征して宛に着陣した。[一]劉表の将軍鄧済湖陽に楯籠っていたが、これを攻撃して陥落させ、鄧済を生け捕りにして湖陽を降服させた。舞陰を攻撃してこれを陥落させた。

[一] 『魏書』に言う。淯水に臨むと、亡くなった将兵を祀り、涙を流してむせび泣いた。人々はみな感動した。

三年(一九八)春正月、公は許に帰還すると、初めて軍師祭酒を設置した。三月、公は穣において張繡を包囲した。夏五月、劉表が軍勢を派遣して張繡を救援し、(公の)軍の背後を断絶しようとした。[一]公は引き揚げようとしたが、張繡の軍勢がやって来て、公の軍勢は進むことができなくなり、陣営を連ねて少しづつ進むことになった。公は荀彧に手紙を送って言った。「賊どもがやって来て吾を追撃し、一日に数里も行軍しているとはいえ、吾の計算では、安衆に到達するころには張繡の破滅すること必定である。」安衆に到達すると、張繡は劉表の軍勢と合流して要害を守り、公の軍勢は前後から敵を受けた。公はそこで、夜中に要害を掘鑿して坑道を作り、輜重を残らず送り出してから伏兵を設けた。ちょうど夜明けになったが、賊どもは公が遁走したのだと思い、全軍こぞって追撃してきた。そこで伏兵を放って歩兵と騎兵とで挟み撃ちにし、彼らを大破した。秋七月、公は許に帰還した。荀彧は公に訊ねた。「以前、賊が必ず破れると計算されたのは、どうしてですか?」公は言った。「奴らは我が帰還軍を圧迫し、吾を死地に置いて戦わせた。吾はこれこそ知力をもって勝利することだと思ったのだ。」

[一] 『献帝春秋』に言う。袁紹の叛逆した兵卒が公のもとに参詣して言った。「速やかに許を襲撃し、天子を擁して諸侯に命令するならば、四海は指差すだけで平定できましょう、と田豊が袁紹を使嗾しております。」公はそこで張繡包囲を解いた。

呂布はまたもや袁術に荷担して高順に劉備を攻撃させた。公は夏侯惇を派遣して彼を救援させたが、不利になった。劉備は高順に敗北した。九月、公は呂布を東征した。冬十月、彭城り、その相の侯諧を捕らえた。下邳まで進軍すると、呂布が自ら騎兵を率いて反撃してきた。(公は)それを大いに打ち破り、彼の驍将成廉を捕らえた。追撃して城下に至ると、呂布は恐怖を抱いて降服しようと思った。陳宮らはその計略を押しとどめ、袁術に救援を求める一方、呂布に出戦を勧めた。戦闘にはまた敗れ、引き返して固守した。(公が)これを攻撃しても陥落させられなかった。当時、公は連戦を重ねて士卒が疲弊していたため、引き揚げようと考えたが、荀攸・郭嘉の計略を用い、そのまま泗水・沂水を決壊させて城を水浸しにした。一ヶ月余りで、呂布の将軍宋憲・魏続らが陳宮を縛りあげて、城をこぞって降服してきた。呂布・陳宮を生け捕りにしたが、これらを全て殺した。太山臧霸・孫観呉敦・尹礼・昌豨はおのおの軍勢を集めていた。呂布が劉備を破ったとき、臧霸らはことごとく呂布に服従した。呂布が敗北すると臧霸らを捕らえたが、公は手厚く迎えて待遇し、そのまま青・徐二州を分割して海に付けて(?)委任し、琅邪・東海・北海を分割して城陽・利城・昌慮郡を立てた。

むかし公が兗州(牧)になったとき、東平の畢諶を別駕としていた。張邈が叛逆したとき、張邈は畢諶の母・弟・妻子を人質に取った。公は別れの挨拶をし、彼を行かせようとして言った。「卿の老母があちらにいる。行ってください。」畢諶は二心は抱きませぬと頓首した。公はそれを憎からず思い、彼のために涙を流した。(畢諶は)退出すると、そのまま逃亡してしまった。呂布が破滅したとき、畢諶は生け捕りにされた。人々は畢諶の身を案じて心配したが、公は「人間たるもの、その肉親に対して孝行な者が、主君に対してまた忠義でないということがあろうか!吾が求めるところである」と言い、(彼を)魯国の相とした。[一]

[一] 『魏書』に言う。袁紹はかねてより故の太尉楊彪・大長秋梁紹少府孔融と仲違いしており、公に指図して他事にかこつけて誅殺させようとした。公は言った。「いまは天下が土崩瓦解し、雄豪が並びつときに当たっており、補佐の宰相も頭立つ長官も、人々は怏々とした気持ちを懐き、おのおの自己保身の心を持つばかりです。これこそ上下の者が疑いあうです。疑念を抜きに待遇したとして、それでも信頼されない恐れがあるのです。もし排除される者があれば、誰が自分の危険を感じないでいられましょう?しかも、丈夫たる者が布衣(無官)の身から起ち上がって塵芥にまみれておりますのに、凡人に威張ったりみ付けにしたりされたなら、怨みに堪えられましょうか!高祖が雍歯へのを容赦すると、羣情(羣衆の心情)は安らぎました。どうしてそれを忘れられましょうや?」袁紹は、公が外見では公義にかこつけながら、内心では離叛異心を含んでいるのだと思い、深く怨恨を懐いた。臣裴松之が思うに、楊彪もまたかつて魏武(曹操)に困窮させられ、もうすぐ死ぬところだったし、孔融はとうとう誅戮を免れなかった。どうして、いわゆる「まずその言葉を行い、そののちこれに従う」といえようか!知ることが困難なのではなく、(問題は)それを行うことにあるのだというが、である。

四年(一九九)春二月、公は引き揚げて昌邑に到達した。張楊の将軍楊醜が張楊を殺したが、眭固がさらに楊醜を殺し、その軍勢を挙げて袁紹に属し、射犬に屯した。夏四月、軍勢を進めて黄河に臨み、史渙・曹仁に渡河させて彼を撃たせた。眭固は張楊の故の長史薛洪・河内太守繆尚に留守させ、自分は軍勢を率い、袁紹を北方で出迎えて救援軍を求めたが、(射)犬城で史渙・曹仁と遭遇した。(史渙らは)交戦のすえこれを大破し、眭固を斬った。公は、かくて黄河を渡って射犬を包囲した。薛洪・繆尚が軍勢を率いて投降したので、列侯に封じ、引き揚げて敖倉に着陣した。魏种を河内太守とし、河北の事務を属させた。

むかし公は魏种を孝廉に推挙したことがある。兗州が叛逆したとき、公は「ただ魏种だけは、まあを棄てたりすまい」と言った。魏种が逃走したと聞いて、公は怒って言った。「魏种よ、南はに、北はに走らねば、を置いておかぬぞ!」射犬が陥落したとき、魏种を生け捕りにした。公は言った。「ただその才能のみ!」その縛めを解いて彼を任用した。

このとき袁紹はすでに公孫瓚を併呑し、四州の地を兼有しており、軍勢は十万人余りになり、進軍して許を攻撃しようとしていた。諸将は敵わないと思ったが、公は「吾は袁紹の人となりを知っておるが、志は大きくとも智は小さく、色は激しくとも胆は薄く、強きを憎むとも威は少ない。(また)軍勢は多くとも分別がはっきりしておらず、将軍は驕るとも政令は一定しておらぬ。土地広く、糧食豊かであるとはいえ、まったく吾への捧げものになるばかりだ」と言った。秋八月、公は軍勢を黎陽に進め、臧霸らには青州に進入させて斉・北海・東安を破らせ、于禁を黄河のほとりに駐留させた。九月、公は許に帰還すると、軍勢を分遣して官渡を守らせた。冬十一月、張繡が軍勢を率いて投降してきたので、列侯に封じた。十二月、公は官渡に布陣した。

袁術は陳で敗れてからというもの、次第に困窮してきており、袁譚が青州から彼を迎え入れた。袁術が下邳から北方に突き抜けようとしたので、公は劉備・朱霊を派遣してそれを待ち受けさせた。ちょうどそのとき袁術は病死した。程昱・郭嘉は公が劉備を派遣したと聞き、公に言上した。「劉備を放ってはなりませぬ。」公は後悔し、彼を追いかけたが間に合わなかった。劉備は東に行かぬうち、密かに董承らの謀反に荷担していた。下邳に到達すると、そのまま徐州刺史車胄を殺し、挙兵して沛に屯した。(公は)劉岱・王忠を派遣してそれを攻撃させたが、勝つことはできなかった。[一]

[一] 『献帝春秋』に言う。劉備は劉岱らに言った。「汝らが百人来ようとも、それでは我をどうともできやしないぞ。曹公(曹操)が自分で来ようとも、まだ分からないくらいだ!」『魏武故事』に言う。劉岱は字を公山といい、沛国の人である。司空長史として征伐に従軍し、功績を立てて列侯に封ぜられた。『魏略』に言う。王忠は扶風の人で、若いころ亭長となった。三輔が擾乱すると、王忠は飢えに苦しんで人をった。朋輩とともに南方は武関に向かった。ちょうど婁子伯婁圭)が荊州(刺史)となっており、北方の客人を迎えにやっていた。王忠は行きたくないと思い、そこで等伍を率いて彼に反撃してその軍兵を奪い取り、人数千人余りを集めて公に帰順した。王忠は中郎将に任じられ、征討に従軍した。五官将(曹丕)は王忠がかつて人を噉ったことがあると知り、そこで車駕に従って出陣したとき、のあいだの髑髏を取ってきて王忠の馬の鞍に繋がせ、笑い種にした。

廬江太守劉勲が軍勢を率いて投降してきたので、封じて列侯とした。

五年(二〇〇)春正月、董承らの陰謀が泄れ、みな誅に伏した。公が自ら東進して劉備を征伐しようとすると、諸将はみな言った。「公と天下を争っているのは袁紹であります。いま袁紹がやってきているのに、それを棄ておいて東進なさるならば、袁紹が背後に乗じてきた場合いかがなさいますか?」公は言った。「劉備は人傑である。いま撃たねば必ずや後の患いとなろう。[一]袁紹は大志を持っているとはいえ、時機を見付けるのが遅いから、きっと動くまいよ。」郭嘉もまた公に勧めたので、かくて東進し、劉備を攻撃してこれを破り、その将軍夏侯博を生け捕りにした。劉備は袁紹のもとへと遁走し、その妻子を捕獲した。劉備の将軍関羽が下邳に屯しており、再び進軍してそれを攻めると、関羽は投降した。昌豨が叛逆して劉備に荷担したので、またこれを攻め破った。公は官渡に帰還したが、袁紹はとうとう出てこなかった。

[一] 孫盛の『魏氏春秋』に言う。諸将に答えて言った。「劉備は人傑である。将来寡人を憂えさせるだろう。」臣裴松之は思う。史書は事柄を記録する段階で、すでに多くの潤色をしており、そのため過去の記述には事実でないものがある。後世の作者がさらに作意を起こして改竄する。事実を失うということにおいて、いよいよ遠くなるではないか!だいたい孫盛は書物を作るとき『左氏』を利用して旧来の文章を改変することが多く、こうした例は一つに止まらない。ああ、後世の学者はどれを信ずればよいのか?しかも魏武はまさに天下に向かって大志を逞しくしているときだ。それなのに(呉王の)夫差が死を覚悟したときの言葉を用いている。その類比の間違いは最も(ひどいもの)だ。

二月、袁紹は郭図淳于瓊顔良を派遣して東郡太守劉延白馬で攻撃させ、袁紹は軍勢を率いて黎陽に着陣し、黄河を渡ろうとした。夏四月、公は北進して劉延を救援した。荀攸は公を説得して言った。「いま軍勢は少なく敵いません。彼らの勢力を分断して初めて可能になります。公が延津に着陣なさり、軍勢を渡して彼らの背後を衝こうとすれば、袁紹は必ず西行して対応しようとします。そののち軽騎兵によって白馬を襲撃し、彼らの不備を突けば顔良を生け捕りにできましょう。」公はそれに従った。袁紹は(公の)軍勢が(延津から)渡ったと聞くや、すぐさま軍勢を分け、西進して対応した。公はそこで軍勢を引き揚げて(昼夜)兼行で白馬にき、十里余り手前まで来たところ、顔良は大いに驚き、やってきて迎撃しようとした。(公は)張遼・関羽に前登させて撃破し、顔良を斬った。こうして白馬の包囲は解かれた。その住民を黄河沿いに西方へ移した。袁紹はそこで黄河を渡って公の軍勢を追跡し、延津の南岸までやってきた。公は軍勢を率いて南阪の麓に駐屯していたが、(兵士に)塁を登らせて彼らを望見させると、「五・六百騎ほどでございます」とのことであった。しばらくしてまた報告があった。「騎兵が次第に増え、歩兵は数えきれません。」公は言った。「もう報告はしてくれるな。」そこで鞍を外して馬を自由にしてやれと騎兵たちに命じた。そのとき白馬からの輜重車は路上にあった。諸将たちは、敵の騎兵が多いから引き返して陣中に楯籠るが上策だと言った。荀攸は言った。「これは敵を釣る餌なのだ。どうしてどけてしまうのだ!」袁紹の騎将文醜は劉備とともに五・六千騎を率い、前後しつつやってきた。諸将はまた建白した。「馬に乗るべきでしょう。」公は言った。「まだだ。」しばらくして騎兵の到着は次第に増えていき、ある者は輜重車に趣いていった。公は言った。「いいぞ。」そこで皆は馬に乗った。ときに騎兵は六百に満たなかったが、そのまま軍勢を放って攻撃し、大いに彼らを打ち破って文醜を斬った。顔良・文醜はいずれも袁紹の名将であったが、二度の戦いでことごとく捕らえられたので、袁紹軍は大層震え上がった。公は引き返して官渡に布陣し、袁紹は進軍して陽武を拠点とした。関羽は逃亡して劉備のもとへ帰った。

八月、袁紹は陣営を連ねて少しづつ前進し、砂丘を占拠して屯営とし、東西数十里に展開した。公もまた陣営を分割して当たったが、合戦では不利となった。[一]時に公の軍勢は一万人にも満たず、負傷者は十人中の二・三人であった。[二]袁紹はふたたび進軍して官渡に臨み、土山と坑道を掘り起こした。公の方でも内側でそれを作って対応した。袁紹は陣営内に矢を射込み、矢は雨の如く降り注いだ。行く者はみな楯を被り、人々は大いに恐怖した。このとき公の食糧は少なく、荀彧に手紙を送って、許へ帰還したいと相談した。荀彧は言った。「袁紹は軍勢をこぞって官渡に集めており、公と勝敗を決せんと願っております。公は至弱をもって至強にぶつかっておられ、もし制することができなければ、必ずや勢いに乗じさせる羽目となりましょう。これこそ天下(分け目)の大いなる時機なのであります。まず袁紹は布衣の英雄に過ぎず、人々を集めることはできても用いることはできませぬ。公の神武・明哲をもってして(天子推戴の)大順を補佐なさるのですから、どうして向かう先々で成功しないことがありましょうや!」公はそれに従った。

[一] 習鑿歯の『漢晋春秋』に言う。許攸は袁紹を説得して言った。「公は曹操と攻撃しあってはなりませぬ。速やかに諸軍を分割して対峙され、その一方で他の道から直進して天子をお迎えになれば、事業はたちどころに完成いたしましょうぞ。」袁紹は聞き入れないで言った。「吾はまず彼を包囲して攻め取らねばならぬ。」許攸は憤怒した。

[二] 臣裴松之は思う。魏武は初めに挙兵したとき、すでに軍勢五千人を持っていた。以後、百戦百勝し、負けたのは十中の二・三に過ぎない。ただ一度黄巾賊を撃破しただけで、降服した兵卒三十万人余りを受け入れており、その他の併呑したものは全てを書き記すことができない(ほど多い)。征討戦で損傷したといっても、これほど少なくなったはずはないのである。陣営を構築して守備するというのは、矛先をぶつけて決戦することとは違うものだ。『本紀(武帝紀)』では「袁紹の軍勢は十万人余りになり、屯営は東西数十里に展開された」と言っている。魏の太祖の臨機応変が無限で、武略が不世出であったとしても、どうして数千の軍勢を持つだけで長時間に渡って拮抗できようか?理屈をもって言うならば、おそらくそうではなかっただろうと思われる。袁紹の屯営は数十里にもなるのに、公がよく陣営を分割して当たることができたが、これこそ軍勢がさほど少なくはなかった(証拠の)第一である。袁紹がもし十倍の人数を持っていたのであれば、理屈からいって全力で守備兵を包囲し、出入りを遮断したはずだ。それなのに公は徐晃らをやってその輸送車を攻撃させており、公もまた自ら出てきて淳于瓊らを攻撃しているが、を掲げて往来しているのにまるで抵抗がなかった。袁紹の兵力では牽制することができなかったのは明らかであって、これこそ(公の軍勢が)さほど少なくはなかった(証拠の)第二である。諸書ではみな公が袁紹の軍勢八万人をにしたと言っており、ある本では七万と言っている。八万もの人間が逃げ散れば、八千人で捕縛することなどできるものではない。それなのに袁紹の大軍はみな手を拱いて殺戮されたのだという。一体どんな力で彼らを制御したというのか?これこそ(公の軍勢が)さほど少なくはなかった(証拠の)第三である。記述しようとした者が、少なく見積もることによって奇抜さを示そうとしたものであり、その事実を記録したものではないのである。『鍾繇伝』を調べてみると、「公が袁紹と対峙しているとき、鍾繇は司隷となり、馬二千匹余りを送って軍に供給した」と言っているが、『本紀』および『世語』ではいずれも、公はそのとき騎馬六百匹余りを持っていたと言っている。鍾繇の馬はどこにいると言うのか?

孫策は公が袁紹と対峙していると聞き、そこで許を襲撃せんと企てた。まだ進発しないうち、刺客に殺された。

汝南の投降した賊である劉辟らが叛逆して袁紹に呼応し、許の城下を攻略した。袁紹は劉備をやって劉辟を支援させ、公は曹仁をやって彼らを撃破させた。劉備が逃走したので、そのまま劉辟の屯営を打ち破った。

袁紹の食糧輸送車数千乗が来たので、公は荀攸の計略を採用して徐晃・史渙に迎撃させ、それらを大破し、その車両を焼き尽くした。公は袁紹と対峙してから幾月にもなり、近ごろの戦いで将軍を斬ったりはしたものの、それでも軍勢は少なく食糧は尽き果て、士卒は疲労していた。公は輸送要員たちに告げた。「十五日もすれば汝のために袁紹を破る。もう汝に苦労はさせないよ。」冬十月、袁紹は車両を派遣して食糧を運ばせたが、淳于瓊ら五人に軍勢一万人余りを率いさせてそれを護送させ、袁紹陣営の北四十里に宿営させた。袁紹の謀臣許攸は財貨を貪っていたが、袁紹が(彼を)満足させられなかったので脱走して来て、そこで公に淳于瓊らを攻撃せよと説得した。左右の者はそれを疑ったが、荀攸・賈詡は公に勧めた。公はそこで曹洪を守りに留め、自ら歩騎五千人を率いて夜行し、ちょうど明け方に到着した。淳于瓊らは遠くから眺めて公の軍勢が少ないとみるや、陣門の外へと出てきた。公はいきなり彼らに突撃し、淳于瓊が逃走して陣営に楯籠ると、そのままそれを攻めた。袁紹は騎兵隊を派遣して淳于瓊を救援した。左右に言う者があった。「賊の騎兵が段々と近付いて参ります。手を分けて防がれますよう。」公は怒りを込めて言った。「賊が背後に来てから申せ!」士卒はみな決死の覚悟で戦い、淳于瓊らを大破し、それを全て斬った。[一]袁紹は初めに公が淳于瓊を攻撃したと聞いたとき、長子袁譚に「彼が淳于瓊らを攻めるのであれば、吾はその陣営を攻め陥としてやろう。やつめ帰る場所を無くしてしまうぞ!」と告げ、そこで張郃・高覧をやって曹洪を攻撃させていた。(しかし)張郃らは淳于瓊が破られたと聞くと、そのまま来降した。袁紹の軍勢は大潰滅し、袁紹および袁譚は軍を棄てて逃走し、黄河を渡った。(公は)それを追いかけたものの手が届かず、彼らの輜重・図書・珍宝をことごとく手に入れ、その軍勢を捕虜にした。[二]公の手に落ちた袁紹の書簡の中には、許の城下および軍中の人々の手紙もあったが、(中身を確認せず)すべて焼き尽くした。[三]冀州諸郡には城邑をこぞって降服する者が多数あった。

[一] 『曹瞞伝』に言う。公は許攸がやって来たと聞くと、裸足で飛び出して彼を迎え入れ、手のひらを撫でつつ笑いながら言った。「子卿が遠来したからには、吾が事業は完成だ!」(許攸は)座中に入るなり公に言った。「袁氏の軍勢は盛強ですのに、どうやって彼らと対峙なさるのですか?いま食糧はいかほどありますか?」公は言った。「まだ一年は支えられるよ。」許攸は言った。「左様なことはございますまい。もう一度おっしゃってください!」また言った。「半年は支えられる。」許攸は言った。「足下は袁氏を打ち破りたくはないのですか。どうして事実でないことを言うのでしょう!」公は言った。「さっきの言葉はただの戯れだ。その実、一ヶ月までなのだが、この点どうすればいいのだろう?」許攸は言った。「公は孤立した軍で独り守っておられ、外に救援はなく、そのうえ食糧はすでに尽き果ており、これこそ危急のでございます。いま袁氏の輜重車は一万乗もあり、故市・烏巣におりますが、駐屯軍には厳重な警戒がございません。いま軽騎兵によってそれを襲撃し、不意を突いて出て、その集積物資を焼けば、三日もせぬうちに袁氏は自壊いたしましょう。」公は大いに喜び、そこで歩騎の精鋭を選りすぐり、みな袁軍の旗幟を用い、を含み馬の口を縛り、夜、間道に沿って出陣した。一人づつ薪の束を抱え持ち、道中で尋問する者があれば「袁公は曹操が後詰めを略奪することを恐れられ、軍勢を派遣して守備を増やされたのでございます」と語った。聞いた者はその通りなのだろうと信じ込み、誰もが平然としていた。到着するなり屯営を包囲し、大いに火を放つと、陣中では驚いて混乱をきたした。これを大破し、その食糧・財宝を焼き尽くし、督将眭元進騎督韓莒子・呂威璜・趙叡らの首を斬り、将軍淳于仲簡の鼻を削ぎ落としたが、まだ死ななかった。士卒千人余りを殺して鼻をすべてもぎ取り、牛馬の唇や舌を削ぎ落とし、それを袁紹軍に誇示した。(袁紹の)将士はみな哀しみ恐れた。このとき夜中に仲簡を捕らえ、(仲簡を)引っ張って麾下に参詣した者がいた。公は告げて言った。「どうしてこんな有様になったのかね?」仲簡は言った。「勝負は天に従うもの。どうして質問することがあろうか!」公は心底から殺すまいと思っていた。許攸は言った。「明朝、鏡を見れば、こいつはいよいよ他人(への恨み)を忘れますまいぞ。」そこで彼を殺した。

[二] 『献帝起居注』に言う。公は上表して言った。「大将軍・鄴侯の袁紹は、かつて冀州牧韓馥とともに故の大司馬劉虞を擁立し、金璽を彫り上げ、故のの県長畢瑜を劉虞のもとへ祗候させて命運の法則を説明させました。また袁紹は臣に手紙を送ってきて『鄄城を都にすべきだ。擁立される方がいらっしゃらねばならぬ』と言い、勝手に金銀の印章を鋳造し、孝廉や計吏たちはみな袁紹のもとへと参詣いたしました。従弟である済陰太守袁叙は袁紹に手紙を送って言いました。『いま海内は崩壊しており、天意は実に我らが家にあります。神秘的な働きにはがあるものですが、まず尊兄に注がれるでありましょう。南兄の臣下が(彼を)即位させようといたしましたが、南兄は言いました。年齢では北兄が長け、位階では北兄が重い、と。すぐさま御璽を送ろうとしましたが、ちょうどそのとき曹操が道を遮ったのであります』、と。袁紹一門は代々国家の重恩を受けておりながら、凶逆無道さは、とうとうこれほどまでになったのです。すぐさま兵馬を率いて官渡で戦いましたが、聖朝の威光のおかげで袁紹の大将淳于瓊ら八人の首を斬ることができ、(袁紹軍は)ついに大破潰滅いたしました。袁紹と子息袁譚は甲冑も着けずに遁走しております。およそ斬った首は七万級余り、輜重・財物は巨億にもなりました。」

[三] 『魏氏春秋』に言う。公は言った。「袁紹の強大さにぶつかったときは、孤でさえ自信を保てなかった。まして衆人ならばなおさら!」

むかし桓帝の時代、黄星楚・宋の分野に現れたことがあり、遼東殷馗馗は古代の逵の字で、『三蒼』に見える。天文が得意だったが、「五十年後に梁・沛の一帯から真人が立ち上がり、その矛先を遮ることはできまい」と言っていた。このときまでおよそ五十年、こうして公が袁紹を破り、天下に対抗できる者がなくなった。

六年(二〇一)夏四月、軍勢を黄河ほとりまで催して、袁紹の倉亭の軍を攻撃し、それを撃破した。袁紹は帰国すると再び敗残兵をかき集め、叛逆した諸郡県を攻撃平定した。九月、公は許に帰還した。袁紹は敗北する以前、劉備をやって汝南を攻略させており、汝南の賊共都らが彼に呼応していた。(公は)蔡揚を派遣して共都を攻撃させたが、不利となり、共都に撃破された。公は南進して劉備を征討した。劉備は公が自らやってきたと聞き、劉表のもとへと遁走し、共都らはみな四散した。

七年(二〇二)春正月、公は譙に着陣した。布令を下して言った。「吾は義兵を起こし、天下のために暴乱を取り除いてきた。故郷の人民はあらかた死滅してしまい、国中を丸一日歩き続けても顔見知りに会うことがなく、吾を悽愴沈痛な気分にさせた。義兵を挙げて以来、将士のうち跡継ぎが絶えた者には、親戚を探し出して継がせ、田畑を授けて耕牛を支給し、学者を配置して教育させよ。(跡継ぎが)生存している者には廟を立ててやり、その祖先を祀らせよ。死者の魂にも心があるならば、吾は百年後になっても何を恨むものか!」そのまま浚儀に赴き、睢陽渠(運河)を整備し、使者を派遣して太牢(の礼)をもって橋玄を祀らせた。[一]進行して官渡に着陣した。

[一] 『褒賞令』所載の公の祭文に言う。「故の太尉橋玄は明徳を大いに施し、博愛寛容であった。国家は明らかな訓戒を念じ、士人はうるわしき謨訓を思っている。心霊はく肉体はか、かなるかなげなるかな!吾は幼年のころ(橋公の)堂室(表座敷と部屋)に升ることができ、とりわけ頑迷鄙陋の性質でありながらも、大君子に受け入れられることになった。栄誉が増し注目が益したのは、みな推奨や助力のおかげであり、あたかも仲尼孔子)が顔淵顔回)には及ばないと称し、李生賈復に厚く感歎したかのようであった。士は己を知る者のために死すというが、それを思って忘れたことはない。それにゆったりとしたときに誓約の言葉を頂戴したものだ。『(我が)殂逝(死ぬこと)したのち道中通りかかることがあったとして、一斗の酒と一羽の鶏をもって訪れ、酒を地に注いでくれなければ、車が三歩行くだけで腹痛になっても怪しく思わないでくれよ!』とっさの戯れの言葉ではあったが、よほどの親密さからの真心こもった好意でなければ、どうしてこんな言葉が出てくることを納得できようか?霊魂が怒りを抱き、残された己に病気をもたらしうると思っている訳ではないが、昔を懐かしみ惟顧すれば、そのことを思い出して悽愴とした気持ちになる。命を奉じて東征し、郷里に宿営したとき、北に貴国を望んで陵墓を心に浮かべた。わずかな祭礼、わずかな供物だが、公よ、請い願わくば受けよ!」

袁紹は軍が破滅したのち、病気にかかって血を吐き、夏五月に死んだ。末子の袁尚が交代し、袁譚は車騎将軍を自称して(二人で)黎陽に屯した。秋九月、公は彼らを征討して連戦した。袁譚・袁尚はしばしば敗退したので、守備を固めた。

八年(二〇三)春三月、その城郭を攻めると、(袁譚らが)戦いに出てきたので、撃ち、大いに打ち破った。袁譚・袁尚は夜中に遁走した。夏四月、軍を鄴に進めた。五月、許に帰還し、賈信を留めて黎陽に屯させた。

己酉、布令を下した。「『司馬法』に『将軍はに死す』とある。[一]それゆえ趙括の母は、趙括に連坐しないよう請願したのである。これは古代の将軍が外部で軍勢を破滅させたとき、家族が内部で罪を被ったということである。将に命じて征討に行かせるとき、ただ功績を賞するだけで罪過を罰しないのは、もとより国典に沿うものではない。そこで諸将に出征を命じたとき、軍勢を破滅させた者は罪過に抵触するものとし、勝機を逃した者は官爵を罷免する。」[二]

[一] 『魏書』に言う。綏とは退却のことである。一尺の前進はあっても一寸の退却はない。

[二] 『魏書』に載せる庚申の布令に言う。「提議する者のなかには、軍吏に功能があったとしても、郡国委任の人選には徳行の点で堪えられないという者がある。いわゆる『ともに道をくべきも、いまだをともにすべからず』(『論語』)である。管仲は言っている。『賢者を能力によって食わせれば、お上は尊くなり、闘士を功績によって食わせれば、兵卒は死を軽んずる。この二つが国家に備われば、天下は治まる』と。無能の人、不闘の士がそろって俸禄賞賜を受け、それによって功績を立てて国を興すことができた者など聞いたことがない。それゆえ明君は功績なき臣下に官職を与えず、戦わざる兵士に賞賜を与えないのだ。治平の世では徳行を尊び、有事の世では功能を賞するもの。論者の言葉は、まことで虎を窺うようなものであろうか!」

秋七月、布令を下した。「騒乱の世が到来してから十五年、若者たちは仁義礼譲の気風を体験していない。吾ははなはだ残念に思う。そこで郡国に命令を下しておのおの文学を修めさせることとし、県が五百戸以上であれば校官を設置し、その郷里の俊英・造士を選抜して学問を授けよ。願わくば先王の道を廃れさせず、天下に益あらんことを。」

八月、公は劉表を征討し、西平に布陣した。公が鄴を引き払って南に向かったとき、袁譚・袁尚は冀州を争い、袁譚が袁尚に敗れて逃走し、平原に楯籠った。袁尚はそれを厳しく攻め立てたが、袁譚は辛毗を派遣して(公に)降服を乞い、救援軍を求めた。諸将はみな逡巡したが、荀攸はそれを許可してやるよう公に勧めた。[一]公はそこで軍勢をまとめて帰還した。冬十月、黎陽に着陣し、子の曹整を袁譚と縁組みさせた。[二]袁尚は公が北進してきたと聞き、平原(の包囲)を解いて鄴に帰還した。東平の呂曠・呂詳は袁尚に叛いて陽平に屯し、その軍勢を率いて(公に)投降し、列侯に封ぜられた。[三]

[一] 『魏書』に言う。公は言った。「我が呂布を攻めたとき、劉表は侵害してこなかったし、官渡の役でも袁紹を救援しなかった。こやつは保身の賊であって攻略は後回しでよい。袁譚・袁尚は狡猾であり、彼らの混乱に乗じるべきだ。たとい袁譚が詐術を用い、最後まで手を束ねてはいないとしても、我が袁尚を打ち破り、彼らの土地のうち半分を手に入れられるならば利益は自然と多くなる。」そこでこれを許可した。

[二] 臣裴松之は考える。袁紹が死んでから、このときまで一周忌と五ヶ月を経過しただけである。袁譚は家を出て伯父(袁基)の後を継いだとはいえ、袁紹のために三年の喪に服さず、そのくせ二年のうちに吉礼を行うのは悖徳である。魏武はあるいは便宜的に彼と約束したもので、いま結婚と言っているのは、必ずしもこの年に婚礼を済ませたとは限らない、ということだろうか。

[三] 『魏書』に言う。袁譚は包囲から解放されたとき、密かに将軍の印綬を呂曠にした。呂曠は印を受け取り、それを(公に)送った。公は言った。「我は最初から袁譚が小細工を弄していることは知っていた。(袁譚は)我に袁尚を攻めさせ、その隙に民衆を誘拐して軍勢を集め、袁尚が破られれば、自分が強くなって我の疲弊に乗じるつもりなのだ。袁尚が破られれば我が盛強になるのだから、どうして疲弊に乗じることができようか?」

九年(二〇四)春正月、黄河を渡り、淇水を堰き止めて白溝に流し、食糧輸送路を通じさせた。二月、袁尚は再び袁譚を攻撃し、蘇由・審配を鄴の守備に残した。公が軍勢を進めて洹水に着陣すると、蘇由は投降してきた。到着するなり鄴を攻撃にかかり、土山・地道を掘った。武安県長の尹楷毛城に屯し、上党と糧道を繋いでいた。夏四月、曹洪を残して鄴を攻撃させ、公は尹楷攻撃(の軍勢)を自ら率い、彼を撃破して帰還した。袁尚の将沮鵠邯鄲を守っていたが、[一]またも攻撃してこれを陥落させた。易陽県令の韓範県長の梁岐が県を挙げて投降したので、関内侯の爵位を賜った。五月、土山・地道を壊して包囲の壍壕を作り、漳水を決壊させて城を水没させた。城内で餓死する者は半数を越えた。秋七月、袁尚は鄴救援のために引き返してきた。諸将たちはみな言った。「これは『帰師』(帰還する軍勢)というもので、一人ひとりが自ら戦おうといたします。これを避けるに越したことはありますまい。」公は言った。「袁尚が大道から来るならば避けるべきだ。もし西山に沿って来るならば、奴めは擒になるだけだ。」袁尚は果たして西山に沿って来て、滏水に臨んで陣営を築いた。[二]夜中、(袁尚が)軍勢をやって包囲陣を襲ってきたので、公は迎え撃って潰走させ、そのまま彼らの陣営を包囲した。まだ(包囲陣が)完成せぬうち、袁尚は恐怖を抱き、故の予州刺史陰夔および陳琳が投降を願い出たが、公は許さず、包囲をますます厳しくした。袁尚が夜中に遁走して祁山に楯籠ったので、それを追撃した。その将馬延・張顗らが戦闘を前にして降ったので、軍勢は大潰滅し、袁尚は中山に逃走した。彼らの輜重をことごとく獲得し、袁尚の印綬・節鉞を手に入れ、袁尚からの降人をその家族への見せしめにさせると、(鄴の)城内の者は意気沮喪した。八月、審配の兄の子審栄が、夜中、守っていた城の東門を開いて軍勢をれた。審配は迎撃のすえ敗北した。審配を生け捕りにして、これを斬首し、鄴は平定された。公は袁紹の墓に赴いて祭祀を行い、彼のために大声で泣いて涙を流した。袁紹の妻を慰労し、その家人や宝物を返してやり、色違いの絹や綿を賜い、食糧を官より支給した。[三]

[一] 沮の音は菹(ソ)で、河北のあたりでは今なおこの姓がある。沮鵠は沮授の子である。

[二] 『曹瞞伝』に言う。斥候をやると、いくつかの部隊が前後して馳せ参じ、どれもが「間違いなく西道を通っており、すでに邯鄲に着きました」と言っていた。公は大いに喜び、諸将を集めて言った。「孤はもう冀州を手に入れてしまったぞ。諸君らにはそれが分かるかね?」みな言った。「分かりません。」公は言った。「諸君らは間もなく目の当たりにするだろう。」

[三] 孫盛は言う。むかし先代の王者が誅伐と褒賞を行ったのは、悪を懲らしめ善を勧め、末永く戒めを明らかにするためであった。袁紹は世の中の危難を利用し、ついには叛逆の企てを抱き、上は神聖なる器物を狙い、下は国家の風紀を犯した。社に奉って宅を汚すのが古代の制度である。それなのに逆臣の冢で哀悼を尽くし、貪欲な家に恩寵を加えるとは。政治を行う道はここにつまづいた。そもそも恨みを隠しつつ他人と友達付き合いするのは、前代の哲人たちが恥じるところであり、旧宅に馬車馬を休ませるとしても、空涙を流さないのが義理というもので、いやしくも道義に外れ友好を絶ったのであれば、どうして彼のために大声で泣くなどということがあろうか!むかし漢の高祖が氏に対してその失敗をし、魏武はこの行為で誤謬を踏襲してしまった。百慮の一失でないといえようか。

むかし袁紹が公とともに挙兵したとき、袁紹は公に訊ねたことがある。「もし計画がうまく行かなかったら、どの場所に向かって根拠とすべきでしょうか?」公は言った。「足下のお考えはどのようなものですか?」袁紹は言った。「吾は、南は黄河を拠点にして北は燕・代を頼み、戎狄の人数を兼併します。南に向かって天下を争うならば、まあ成功できそうですが?」公は言った。「吾は天下の智力に任せ、道義によって彼らを統御します。不可能はありますまい。」[一]

[一] 『傅子』に言う。太祖はこうも言った。「湯・武の王者は、はたして土地を同じくしたでしょうか?もし険固さを元手にしたならば、時機に対応して変化することができませんぞ。」

九月、布令を下して言った。「河北では袁氏の災難にかかった。そこで今年の租税賦役は供出させないように!」豪強が兼併する(のを制限する)法律を厳重にしたので、百姓たちは喜悦した。[一]天子が公を領冀州牧とすると、公は兗州を辞退返上した。

[一] 『魏書』に載せる公の布令に言う。「国があり、家があれば、少ないことを心配せず不平等であることを心配し、貧しいことを心配せず不安定であることを心配するものだ。袁氏の統治では、豪強には好き勝手させ、親戚には兼併させていた。下層の民衆は貧弱なのに租税賦役の供出を肩代わりし、家財を路上で売りに出しても命令に応じるには不足した。審配一門は罪人どもを隠匿し、逃亡者の君主になるまでに至った。百姓たちを懐かせて武装兵を盛強にしたいと思っても、どうして可能であろうか!そこで一畝あたり四升の田租を徴収し、一戸あたり絹二匹・綿二斤づつを供出させるに留め、それ以外には勝手に徴発させないようにする。郡国の守相ははっきりとこれを検察し、強き民に隠匿させたり、弱き民から賦役を二重に取ったりさせぬようにせよ。」

公が鄴を包囲したとき、袁譚は甘陵・安平・勃海・河間を攻略していた。袁尚が敗走して中山に引き揚げると、袁譚はそれを攻撃して袁尚を故安に駆逐し、そのまま彼の軍勢を併合してしまった。公は袁譚に手紙を送って違約を責め、彼との婚姻を絶った。(袁譚の)女を帰し、そのあとで進軍した。袁譚は恐怖し、平原が陥落すると、逃走して南皮に楯籠った。十二月、公は平原に入城し、諸県を攻略平定した。

十年(二〇五)春正月、袁譚を攻撃してこれを打ち破り、袁譚を斬首し、その妻子を誅殺した。冀州は平定された。[一]布令を下して言った。「さあ袁氏とともに悪事を行っていた者たちよ、一緒に革新しよう。」民衆には私怨による復讐をさせず、手厚い葬礼を禁止するよう命じ、全て法律によって一元化した。同月、袁煕の大将焦触・張南らが寝返って袁煕・袁尚を攻撃したので、袁煕・袁尚は三郡の烏丸のもとへと遁走した。焦触らがその県をこぞって投降したので、列侯に封じた。はじめ袁譚を討伐したとき、民衆が氷を叩く仕事から逃亡したので、[二](死刑以外を認めず)降服させないようにと命令した。しばらくして、逃亡した民衆のうち門前に自首した者があった。公は言った。「汝を赦せば法令に違背したことになり、汝を殺せば自首した者を処刑したことになる。奥深く逃げて我が身を隠し、役人に捕まらぬよういたせ。」民は涙を流しながら立ち去ったが、あとで結局逮捕されてしまった。

[一] 『魏書』に言う。公は袁譚を攻撃したが、夜明けから日中に及ぶまで決着が付かなかった。公はそこで自らを手に取って太鼓を叩いた。士卒はみな奮い立ち、あっという間に陥落させた。

[二] 臣裴松之は考える。袁譚を討伐したとき、川や運河の氷が凍結しており、民衆に氷を叩いて船を通させたのだが、民衆は役務を嫌がって逃亡したのである。

夏四月、黒山賊の張燕がその軍勢十万人余りを率いて投降したので、列侯に封じた。故安の趙犢・霍奴らが幽州刺史・涿郡太守を殺害した。三郡の烏丸が獷平において鮮于輔を攻撃した。[一]秋八月、公はこれらを征討し、趙犢らを斬首した。そのあと潞河を渡って獷平を救援すると、烏丸は逃走して塞外(万里長城の外)に出た。

[一] 『続漢書』郡国志に言う。獷平は県名で、漁陽郡に属している。

九月、布令を下して言った。「徒党を組んで悪事をなすのは、先代の聖人の憎むところである。聞くところによると、冀州の風俗では父子が部落を別々にし、互いに毀誉褒貶しあうということだ。むかし直不疑は兄もいないのに、世間からを盗んだと言われ、第五伯魚は親のない女を三たび娶ったが、妻の父を打ったと言われ、王鳳が権力を欲しいままにしていたのに、谷永は彼を申伯になぞらえ、王商は忠義な議論をしたが、張匡はそれを邪道だと言った。これらはみな白を黒とし、天を欺き君をしいるものである。吾は風俗を整えたいと思う。(以上の)四つのものが取り除かれないことを吾は恥ずかしく思う。」冬十月、公は鄴に帰還した。

かつて袁紹は甥の高幹領幷州牧としていたが、公は鄴を陥落させたとき、高幹が降服したのでそのまま刺史とした。(しかし)高幹は公が烏丸を征討していると聞き、州をこぞって叛逆し、上党太守を人質に取り、挙兵して壺関口を守った。楽進・李典を派遣してこれを攻撃させると、高幹は引き返して壺関城に楯籠った。十一年(二〇六)春正月、公は高幹を征討した。高幹はそれを聞くや、その別働隊の将を残して城を守らせ、匈奴に逃げ込んで単于に救援を求めたが、単于は受け入れなかった。公は壺関を包囲すること三月、これを陥落させた。高幹はついに荊州へと逃走したが、上洛都尉王琰が彼を捕らえて斬首した。

秋八月、公は東進して海賊管承を征伐し、淳于に着陣すると、楽進・李典を派遣してこれを撃破させた。管承は海島に逃げ込んだ。東海の襄賁・剡・戚を分割して琅邪に編入し、昌慮郡を廃止した。[一]

[一] 『魏書』に載せる十月乙亥の布令に言う。「そもそも世を治めて民衆を統御し、輔弼を立てる場合、戒めるべきは面従にある。『詩(経)』では『我が計略を用いよ、願わくば大悔なきことを』と言っている。それこそ実に君臣が心底追い求めるものである。吾は重任に充てられ、いつも中庸から外れてしまうことを恐れているのに、毎年毎年、よき計略を聞けないでいる。吾が才人賢者の受け入れに熱心でなかったせいであろうか?自今以後、もろもろの掾属・治中・別駕たちは毎月一日が来るたび、おのおのその失敗について名状せよ。吾はそれを見てやろう。」

三郡の烏丸らは天下の混乱に乗じ、幽州を破壊し、漢の民衆合わせて十万戸余りをさらった。袁紹はその酋長をみな立てて単于とし、家人の子を我が女だといって娶らせた。遼西単于の蹋頓が最も強力で、袁紹に厚遇されていた。そのため袁尚兄弟は彼に身を寄せ、何度も塞内(万里長城の内)に侵入して害をなしたのである。公はこれを征討しようと、運河を掘り、呼から泒水へと水を流し、泒の音は孤(コ)。平虜渠と名付けた。また泃河口から泃の音は句(コウ)。掘り進めて潞河に水を流し、泉州渠と名付け、海に通じさせた。

十二年(二〇七)春二月、公は淳于から鄴に帰還した。丁酉、布令を下して言った。「吾が暴虐乱臣を誅伐せんと義兵を起こしてから、今まで十九年になる。遠征した先では必ず勝利を収めたが、はたして吾の功績であろうか?それは賢士大夫たちの尽力なのである。天下はまだ完全に平定されてはいないが、吾はきっと賢士大夫たちとともに一緒に平定してゆくのだろう。それなのにその報いを独り占めしているのだから、吾はどうして落ち着いていられようか!そこで功績を定めて封侯を行うよう急がせる。」このとき功臣二十人余りが大国に封ぜられ、みな列侯となり、その他の各人も席次に従って封爵を受けた。また殉職者の孤児にもは及び、軽重はおのおの格差があった。[一]

[一] 『魏書』に載せる公の布令に言う。「むかし趙奢・竇嬰は将になると、千金を賜っても一日で使い果たし、そのため大きな功績を完成させ、永世の名声を得ることになった。吾はその文を読むと、ずっとその人となりを慕わずにはいられなかった。諸将・士大夫と一緒に軍事に従事し、幸いなことに、賢人たちがその計略を惜しむことなく、諸士がその力量を残すことのないのを頼みにでき、それによって険阻をらげ、混乱を収めることができたのだ。そして吾は大それたご褒美を盗み、食邑は三万戸になっている。竇嬰が黄金を使い果たした義挙を追慕し、いまお受けしている租税を分割し、諸将・掾属および古くから陳・蔡を守っていた者たちに与え、みなの労苦に報い、大いなる恩恵を独り占めしないようにしたい。殉職者の孤児を差別し、年貢米を彼らに支給するように。もし豊年となって費用をまかない、租税をすっかりご奉納できたら、大いに民衆たちをこぞって、それを一緒に享受しようぞ。」

北進して三郡の烏丸を征伐しようとしたが、諸将たちはみな言った。「袁尚がどもに身を寄せたまでのことです。夷狄どもが(彼を)利用したとしても親しくなることはなく、どうして袁尚のために働いたりいたしましょう?(もう中国を侵略することはありますまい。)いま深く侵入して彼らを征討するならば、劉備はきっと劉表を説得して許を襲撃させるでしょう。万一変事が起こったならば後悔しても及びませんぞ。」ただ郭嘉だけは、劉表はきっと劉備を任用できまいと計算し、公に行軍を勧めた。夏五月、無終に到着した。秋七月、洪水となり、海岸沿いの道は不通になった。田疇郷導(道案内)したいと申し出たので、公はそれを聞き入れた。軍勢を率いて盧龍塞を出たが、塞外の道は断絶して不通であったため、山をって谷をぐこと五百里余り、白檀を経過し、平岡を通過し、鮮卑の地を渉り、東へと柳城を目指した。二百里手前まで来て、虜どもはやっとそれに気付いた。袁尚・袁煕は蹋頓・遼西単于楼班右北平単于能臣抵之らとともに数万騎を率いて迎え撃つ。八月、(公は)白狼山に登ったが、卒然として虜どもに遭遇した。(敵の)軍勢は極めて盛強である。公の車重は後方にあり、具足を身に着けている者は少なく、左右の者はみな恐怖した。公は高みに登り、虜どもの陣列が整っていないのを見やると、兵を放って攻撃し、張遼を先鋒とすると、虜どもの軍勢は大いに崩れた。蹋頓および名王以下を斬り、降服した胡人・漢人は二十万人余りになった。遼東単于速僕丸および遼西・北平のもろもろの豪勇たちは、その種族の人々を棄てて袁尚・袁煕とともに遼東へと遁走し、軍勢はまだ数千騎が残されていた。むかし遼東太守公孫康は、遠方であるのを頼みとして服従しなかった。公が烏丸を破ったとき、ある者が「そのまま彼を征討すれば袁尚兄弟をにすることができます」と公を説得した。公は言った。「吾はこれから公孫康に袁尚・袁煕の首を斬って送らせよう。軍隊を煩わせることはない。」九月、公が軍勢をまとめて柳城から帰還すると、[一]公孫康はすぐさま袁尚・袁煕および速僕丸らを斬り、その首を送ってきた。諸将のうち問う者があった。「公が帰還なさると、公孫康は袁尚・袁煕を斬って送って参りました。なぜでしょうか?」公は言った。「彼は平素より袁尚らを恐れておった。吾がそれを締め付ければ力を合わせるが、それを緩めてやれば自分から争い合う。その勢いから当然なのである。」十一月、易水に到着すると、代郡烏丸の行単于普富盧上郡烏丸の行単于那楼がその名王を引き連れて祝賀に馳せ参じた。

[一] 『曹瞞伝』に言う。ときに寒中であるうえ旱にもなり、二百里にわたって水がなく、軍はそのうえ食糧にも欠乏しており、馬数千匹を殺して軍糧とし、地面を掘り、三十丈余りも潜ってようやく水を得ていた。帰還するなり以前に諫言した者たちについて科問した。軍中でその理由を知る者はなく、人々はみな恐怖した。公は彼らをみな手厚く賞して言った。「孤が以前に行軍したとき、危険を乗り越えられたのは僥倖であり、うまくいったとはいえ天祐あればこそであった。それゆえ通常のこととする訳にはいかぬ。諸君の諫言は万全の計略であり、それゆえ恩賞を取らせるのだ。今後もそうした発言を渋らないでくれよ。」

十三年(二〇八)春正月、公は鄴に帰還し、玄武池を作って水軍を(調練)した。肄は以四の反切(イ)。『三蒼』に言う。「肄とは習うことである。」漢朝は三公の官を廃止して丞相・御史大夫を設置、夏六月に公を丞相とした。[一]

[一] 『献帝起居注』に言う。太常徐璆を使者として(曹公に)印綬を授けた。御史大夫は御史中丞を管轄せず、長史一人を設置した。『先賢行状』に言う。徐璆は字を孟平といい、広陵の人である。若いころから清廉さを実践し、朝廷にあっては折り目正しかった。任城・汝南・東海三郡(の太守)を歴任し、至るところで教化が行き届いた。お召しを受けて帰ろうとしたところ、袁術に拘束されてしまった。袁術は尊号を僭称すると上公の位を授けようとしたが、徐璆は最後まで屈服しなかった。袁術の死後、徐璆は袁術の印璽を手に入れて漢朝に送り、衛尉・太常を拝命した。公は丞相になると、位を徐璆に譲ったのであった。

秋七月、公は南進して劉表を征討した。八月に劉表が卒去し、その子劉琮が跡を継いで襄陽に屯し、劉備がに屯した。九月、公が新野に到達したところで、劉琮はついに降服し、劉備は夏口に逃走した。公は江陵に軍勢を進め、荊州の官吏民衆に布令を下し、ともに改革を始めることとした。そこで荊州帰服の功績を賞したところ、侯に封ぜられた者は十五人であった。劉表の大将文聘江夏太守として元の軍勢を統括させ、荊州の名士韓嵩・鄧義らを登用した。[一]益州牧劉璋が初めて軍役に応じ、軍勢を派遣して人数を補充した。十二月、孫権が劉備に荷担して合肥に攻め上った。公は劉備を征討しつつ江陵から巴丘へと進み、張熹を派遣して合肥を救援させた。孫権は張熹の到着を聞いて逃走した。公は赤壁に着陣したが、劉備との戦いは不利であった。このとき疫病が大流行して官吏・兵士が数多く死んだため、軍勢をまとめて帰還した。劉備はかくて荊州のうち長江南岸の諸郡を領有した。[二]

[一] 衛恒の『四体書勢』の序文に言う。上谷王次仲は隷書に巧みで、楷書を創始した。霊帝が書を好んだことから、世間では巧みな者が多くいた。しかしながら師宜官が最高峰であって、その才能をはなはだ鼻にかけていた。書をなせば、そのつど(筆跡を盗まれないように)札を削ったり燃やしたりした。梁鵠はそこで数多くのを作っておいて彼に酒を呑ませ、彼が酔ったのを見計らってその札を盗み出した。梁鵠はついに書のみさによって選部尚書まで昇った。そのとき公は洛陽の県令になりたく思っていたが、梁鵠は彼を北部尉とした。梁鵠はのちに劉表に身を寄せた。荊州が平定されたとき、公は賞金付きで梁鵠を探させ、梁鵠が恐怖を抱いて自分の身を縛って門前に参詣すると、軍の仮司馬に任命して秘書の職務に就かせ、書に勤めて能力を発揮させることとした。公はいつも(彼の書を)帳の中にけ、壁に釘で打ち付けて鑑賞し、師宜官以上だと言っていた。梁鵠は字を孟黄といい、安定の人である。魏の宮殿にある額面は全て梁鵠の書なのである。皇甫謐の『逸士伝』に言う。汝南の王儁は字を子文といい、若くして范滂・許章の認められ、南陽の岑晊と親しかった。公は布衣であったとき格別に王儁を愛し、王儁もまた公には治世の才能があると称えていた。袁紹と弟袁術が母を失い、汝南に帰って葬儀を行ったとき、王儁は公とともに列席したが、参列する者は三万人もいた。公は外に出て密かに王儁に告げた。「天下は乱れんとしておりますが、混乱の先駆けをなすのは必ずやこの二人でしょう。天下を救済して百姓の延命させたいなら、まずこの二人を誅殺せねば、混乱は今にも起こりましょうぞ。」王儁は言った。「の言葉通りなら、天下を救済する者は卿以外に誰がいようか?」向かい合って笑った。王儁の人となりは外面は静かながら内面は聡明であり、州郡や三府の(お召しの)命令にも応じなかった。公車で徴されても行かず、土地を避けて武陵に住まいしたが、王儁に帰依する者は百家余りもあった。帝が許に遷都したとき、再び尚書として徴されたがやはり就任しなかった。劉表は袁紹の強力さを見て、密かに袁紹と通じていたが、王儁は劉表に言った。「曹公は天下の英雄でありますから、必ずや霸道を興隆させて桓・文の功績を継承されます。いま近い者を捨てて遠い者と結んでおられますが、もし一日にして急変が起こりましたならば、はるばる砂漠の北の救援を待つのはやはり困難でありますまいか!」劉表は聞き入れなかった。王儁は六十四歳のとき武陵において寿命で亡くなった。公はそれを聞いて哀しみに暮れた。荊州を平定したとき、自ら長江まで行ってして亡骸を出迎え、江陵に改葬して先賢として表彰した。

[二] 『山陽公載記』に言う。公の艦船が劉備に焼かれたとき、(公は)軍勢をまとめて華容道から徒歩で帰ったが、泥濘にぶつかって道路は通ぜず、天候はそのうえ強風が吹いていた。総動員をかけての兵に草を背負わせて埋め、騎馬武者はやっと通過することができた。羸の兵は人馬に踏み付けられて泥の中に沈み、極めて多くの死者を出した。軍勢が脱出できたとき、公は大変に喜んだ。諸将がその理由を問うと、公は言った。「劉備は吾の同類であるが、ただ計略を思い付くのが少しばかり遅かったな。あらかじめ先手を打って放火しておけば、吾等は全滅するところであったぞ。」劉備はすぐに放火したが間に合わなかった。孫盛の『異同評』に言う。『呉志』を調べてみると、劉備がまず公の軍勢を打ち破り、そのあと孫権が合肥を攻撃したとある。しかしこの『』では、孫権がまず合肥を攻撃し、あとに赤壁の記事を置く。両者は同じでないが『呉志』が正しい。

十四年(二〇九)春三月、軍は譙に着陣し、足の軽い舟を作って水軍を調練した。秋七月、渦水から淮水に入って肥水に出、合肥に着陣した。辛未、布令を下して言う。「近年以来、軍はしばしば征討に出ており、ある者は疫病にかかるなどして官吏・兵士は死亡して帰らず、家族の恨みは広まり、百姓たちは離散しておる。仁者ならばどうしてそうなることを願うであろうか?やむを得ないことであった。そこで死者の家族のうち生業を失って自活できない者があれば、県官は扶持米を絶やさず、長吏は慰労訪問することとして、吾が気持ちに応えてくれ。」揚州の郡県に長吏を配置し、芍陂を開拓して屯田を行った。十二月、軍は譙に帰還した。

十五年(二一〇)春、布令を下して言った。「古代より、受命および中興の君主のうち、かつて賢人・君子を得て彼らとともに天下を治めぬ者はあっただろうか!彼らが賢者を手に入れるに際して、一度も村里を出でずしてどんな幸運があって出会うことができるものか?上に立つ人はそれを求めなかったのである。いま天下はなお平定されておらず、それゆえとりわけ賢者を求めるべき緊急時なのである。『孟公綽趙・魏となるのは易しいが、滕・薛大夫を務めることはできない』という。もし廉直の士であることを条件にしたうえで任用するならば、斉の桓公とてどうして世に霸を称えられよう!いま天下に褐衣を羽織って玉を懐き、渭水の川辺で釣りをしている者がいないといえようか?また嫂を犯して金を取り、いまだ無知に遭遇していない者がいないといえようか?さあ諸君よ、我を支援して仄陋(卑賤の人)を明揚してくれたまえ。ただ才能によってのみ推挙を評価し、吾はその者を手に入れて任用する。」冬、銅爵台を建造した。[一]

[一] 『魏武故事』に記載する十二月己亥の公の布令に言う。「孤が初めに孝廉に推挙されたときは年少で、自分がもともと巌穴知名の士ではなかったので、海内の人々に凡愚と見なされることを恐れ、一郡守にでもなってよき政治教化を敷き、そうして名を建てて誉れを立て、世の人士におのれをはっきりと示したいと思っていた。それゆえ済南にあっては最初から残忍汚穢の者を除去し、真っ直ぐな気持ちで選任推挙を行い、常侍連中に楯突いたのだ。(しかし)強豪たちの怒りを買ってしまい、家族に災禍が降りかかることを恐れて病気を口実に帰郷した。退官後でも年齢はまだ若く、同歳の仲間を思い出してみても、五十歳の者がいたが老人とは呼ばれていなかった。自分では内心、今から二十年かけて天下の静謐を待ったとしても、ようやく(彼の)推挙されたばかりの同歳と同じになるだけのことだ、と考えた。そこで四時をもって郷里に帰り、譙の東五十里に精舎を築き、秋と夏は読書、冬と春は狩猟をすることにして、底辺の地を探して自ら泥水をかぶり、賓客が往来してくれるような希望を断ち切ることにした。しかし、ことは思い通りに運ばなかった。のちに中央に徴されて都尉になり、典軍校尉に昇進したのだ。ついに気持ちを切り替えて国家のために賊徒討伐の功績を立て、征西将軍として侯に封ぜられればと思うようになった。そして後々は『漢の故の征西将軍曹公の墓』とでも墓に題してくれ、というのが私の志だったのだ。ところが董卓の難に遭遇したため、義兵を挙げることになった。このとき軍勢を集めるにあたっては多数手に入れるのがよいと考えられていたが、しかしながらいつも自然と損耗することになるので、それを増やそうとは思わなくなった。というのは、軍勢を増やせば意気盛んになって強敵と争うようになり、ともすれば却って災難を招くことになるからだ。それゆえ汴水の戦いでは数千だったし、のちに揚州へ引き揚げて追加募兵したときも三千人以上は取らなかった。これは我が志に限度があった証拠である。のちに兗州を領して黄巾賊三十万の軍勢を打ち破り降服させた。また袁術が九江において帝号を僭称したとき、部下はみな臣と称し、門は建号門と名付けられ、衣服はみな天子の制度にならい、二人の妻は皇后になろうと先を争った。野心も計画もすでに決定し、ある人が袁術にそのまま皇帝に即位して天下に宣布すべきと勧めたところ、(袁術は)『曹公がおるからまだ駄目だ』と答えた。のちに孤は彼の四人の将を討伐して捕虜とし、その軍勢を手に入れた。そうして袁術を追い詰めて意気阻喪させ、病死するに至らしめたのである。袁紹が河北を占拠して軍勢が盛強になったとき、孤は自分の勢力と比較してみても全く歯が立たないと思ったが、(それでも戦ったのは)国家のために命を投げ出し、義心によって身を滅ぼすならば、後世の手本になるだろうと考えたのだ。袁紹を打ち破り、その二人の子を梟首できたのは幸運であった。また劉表は宗室であることを自負して邪悪な心を隠し持ち、進んだりいたりしながら世情を観測し、当州を占拠していた。孤はこれもまた鎮定し、とうとう天下を平定したのだ。身は宰相の地位に昇り、人臣としての尊貴さは極まり、希望していたものからは行き過ぎである。いま孤がこう言うのは自負しているようにも見えるが、人々の噂話が絶えることを願って(?)包み隠さず話すのである。もし国家に孤がいなければ、幾人が帝を称し、幾人が王を称したか見当も付かない。それに天命のことを信じない性格の者がいて、孤の繁栄を見たとしたら、おそらくは心の中で計算して不遜の志を持っているのだと言ったり、勝手な忖度をしていつも耿耿としていたりするだろう。斉桓・晋文が今日まで称賛され続けている理由は、軍事的強大さを持ちながら飽くまでも周室を奉戴したからである。『論語』の言葉に『天下の三分の二を有しながら殷に服従したのだから、周の徳は至徳と言うべきか』とあるが、それは大国をもって小国によく臣従したからなのだ。むかし楽毅が趙に亡命したとき、趙王は彼とともにを攻略しようとしたが、楽毅は平伏して涙を流し、『臣が(燕の)昭王にお仕えしたのは大王にお仕えするのと同じです。臣がもし罪を問われて他国に追放されたといたしましても、世を去るだけのことで、趙の徒刑囚に対する裏切りさえ忍びないことです。ましてや燕の跡継ぎに対してはなおさらです!』と答えた。胡亥蒙恬を殺したとき、蒙恬は『吾が先祖から子孫に至るまで、秦の三世代にわたって忠信を重ねてきた。いま臣は軍勢三十万人余りを率いており、叛逆をなすには充分な情勢である。しかし自分が必ず死ぬことを知りながら義心を守るのは、先祖の教えを辱めて以て先王(の恩義)を忘れたくないからである』と言った。孤はこの二人の伝記を読むたびに愴然として涙を流さなかったことはない。孤の祖父から孤自身に至るまで、みな側近重職の任務を充てられてきた。信頼されていたと言えるだろう。子桓(曹丕)兄弟に及べば三世代を越えることになる。孤がこうして説明するのはただ諸君に対してだけではなく、つねづね妻妾たちにも語ってみなに深くその気持ちを知らせてある。孤はこれらに『我の死後のことを思えば、汝たちはみな嫁いで行くことになる。(そこで)我が心を伝えさせて他人にみな知らしめたいと思っているのだ』と言ってきた。孤がこうして言うのはみな肝鬲の要である。懇々切々と心中を述べる理由は、周公金縢の書によって自分(の本心)を証明したことに鑑みて、他人が信じないことを恐れるからである。さりとて、孤がただちに宰領する軍勢を捨てて担当者に返還し、武平侯国に帰ろうと思っても、実際には不可能である。なぜか?自分が軍勢を手放せば他人によって災禍を受けることを心底恐れるからだ。すでに子孫の計画を立ててあるが、さらに自分が敗北して国家が危殆に傾くことになるとすれば、それなら虚名を求めて実害に遭うわけにはいかぬし、これは実行できないものである。さきに朝恩において息子三人が侯に封ぜられたが固辞して受けなかった。いま改めてこれを受けようと思うのは、重ねて栄誉を得たいからではなく、外部の支援として万全の計としたいからだ。孤は介推の封爵を避けて申胥が楚の賞賜から逃れたと聞いて、書物を置いて歎息し、自省しないことはなかった。国家の威霊を奉じて鉞を杖ついて征伐し、弱きをもって強きに勝ち、狭きをもって広きを捕らえ、意中で計画したことを行動で失敗することなく、心中で配慮したことを完遂させないではおかず、ついに天下を平定して君命を辱めずにおれた。天が漢室を助けたと言うべきであって人為のなせる業ではないのである。それなのに四県にまたがって封ぜられ、三万戸を食んでいる。どんな功徳があってそれに相当しようか!江湖はまだ鎮定されておらず、官位を返上するわけにもいかぬが、土地であれば辞退することが可能である。いま陽夏・柘・苦の三県二万戸を返還し、ただ武平一万戸だけを食むこととし、ひとまず誹謗を回避して孤の責任を軽減させることにする。」

十六年春正月、[一]天子は命令を下して公の世嗣曹丕を五官中郎将に任じ、属官を置き、丞相の補佐を務めさせた。太原の商曜らが大陵をこぞって叛逆したので、夏侯淵・徐晃を派遣して包囲撃破させた。張魯漢中を占拠していたので、三月、鍾繇を派遣してこれを討伐させた。公は夏侯淵らを河東から出して鍾繇と合流させた。

[一] 『魏書』に言う。庚辰、天子は返答して、五千戸を減封し、返上された三県一万五千戸を分割して子息三人を封じ、曹植を平原侯、曹拠范陽侯曹豹饒陽侯、食邑はそれぞれ五千戸とした。

このとき関中諸将は鍾繇が自分たちを襲撃するつもりではないかと疑い、馬超はついに韓遂・楊秋・李〓・成宜らとともに叛逆した。曹仁を派遣してこれを討伐させたところ、馬超らは潼関に屯した。公は「関西の軍勢は精悍であるゆえ、塁壁を固めて戦ってはならぬぞ」と諸将に命じた。秋七月、公は西征して[一]関所を挟んで馬超らと対峙した。公は厳重に彼らを見張りつつ、密かに徐晃・朱霊らを派遣して夜中に蒲阪津を渡らせ、黄河西岸に陣取らせた。公が潼関から北へ渡ろうとして渡りきらぬうち、馬超が(公の)船へと攻め寄せてきて激しい戦いとなった。校尉丁斐が牛馬を放って賊軍を引き付けると、賊徒どもは足並みを乱して牛馬を捕獲しようとしたので、公はようやく渡ることができた。[二]黄河沿いに甬道を築きつつ南進すると、賊軍は引き退いて渭口で対抗した。公はそこで多くの疑兵を設けつつ、密かに兵士を載せた舟を渭水に入れて浮橋とした。夜中、軍勢を分けて渭水南岸に陣営を築いたところ、賊軍が陣営に夜襲をかけてきたが、伏兵がそれを撃破した。馬超らは渭水南岸に屯し、を寄越してきて黄河以西の割譲を条件に和睦を訴えたが、公は聞き入れなかった。九月、軍を進めて渭水を渡った。[三]馬超らは何度か戦いを挑んできたが、やはり受け付けなかった。(馬超が)断固として土地割譲を要求し、息子を人質に出そうと申し入れてきたので、公は賈詡の計略を採用して、それを認めるふりをした。韓遂が公との会見を要求してきたが、公は韓遂の父と同歳の孝廉であり、また韓遂とも同世代の間柄であったので、馬を交えて長いあいだ語り合ったが、軍事には言及せず、ただ京都の昔話ばかりをして、手をって笑い楽しんだ。終わってから、馬超らは韓遂に訊ねた。「公は何と申しておりました?」韓遂は言った。「何も言わなかったが。」馬超らは彼を疑った。[四]別の日、公はまた韓遂に手紙を送り、あちこち塗り潰したり書き直したりして、韓遂が改定したように見せかけた。馬超らはますます韓遂を疑うようになった。公は彼らと克日して会戦を行ったが、まず軽装兵を出して挑発し、戦いがしばらく続いてから虎騎を放ち、挟み撃ちにして彼らを大破、成宜・李堪らを斬った。韓遂・馬超らは涼州へ、楊秋は安定へ逃走し、関中は平定された。諸将のうち公に問う者があった。「はじめ賊徒どもは潼関を守って渭水北岸の道を欠いておりましたが、(公が)河東から馮翊を攻撃なさらず、反対に潼関を守られ、日にちが経ってから北岸に渡られたのは何故でしょうか?」公は言った。「賊が潼関を守っておるとき、もし吾が河東に入ったならば、賊は必ずや引き返してもろもろの渡し場を守ったであろう。さすれば西河へは渡れなくなってしまう。吾はそれゆえ軍勢を興して潼関へ向かったのだ。賊が総勢を挙げて南方を守ったので西河の備えは空っぽになった。だから二将は思うがままに西河を取ることができたのだ。そののち軍を返して北岸に渡ったのだが、賊が吾らと西河を争うことができなかったのは二将の軍勢があったればこそである。車を連ねて柵を立て、甬道を築きつつ南進したのは、[五]まず勝てない状況を作っておいてから、そのうえで弱点を見せつけたのだ。渭水を渡って塁壁を固め、敵が来ても出撃しなかったのは、彼らを油断させるためである。それゆえ賊は軍営塁壁を築くことなく土地の割譲を求めたのだ。吾が言い分を聞き入れてそれを許可してやったのは、やつらの気持ちを受け入れてやることで安心させ、守備をさせないためだ。そこで士卒の力を蓄えておき、一朝にしてやつらを撃破した。疾雷、耳を掩うに及ばず、というものだ。兵の変化というのは、本来、一つの方法に限られないのである。」はじめ賊軍が一部づつ到着すると、公はそのつど喜びの表情を見せた。賊軍が敗れたのちに諸将がその理由を訊ねると、公は答えて言った。「関中ははるばると遠いゆえ、もし賊徒どもがおのおの険阻に拠ったならば、これを征討しても一・二年かけなければ平定できまい。今回はみなが来集したので、その人数がたとい多いとしても、互いに帰服することなく軍に適主がいなければ(烏合の衆に過ぎず)、一挙に滅ぼすことができ、仕事は多少やりやすくなる。吾はそれで喜んだのだ。」

[一] 『魏書』に言う。提議する者の多くは「関西の軍勢は強く長矛に習熟しておりますゆえ、先鋒は選り抜きの精鋭でなければ対抗できますまい」と言ったが、公は「戦い(の主導権)は我軍にあって賊軍にはない。賊徒がたとい長矛に習熟していようとも、それで刺すことができないようにしてやろう。諸君はただそれを見ていたまえ」と諸将に告げた。

[二] 『曹瞞伝』に言う。公が黄河を渡ろうとしたとき、先発部隊がちょうど渡り終えたところで馬超らが突然襲いかかってきた。公はゆったりと胡牀に腰掛けたまま立ち上がろうとしなかった。張郃らは事態の切迫を見て、一緒に公を引っ張って船に乗せた。黄河の流れは急であったので、渡り終えたときには四・五里も流されていた。馬超らは騎馬で追いかけて弓を射て、降り注ぐ矢は雨のようであった。諸将は軍の崩壊を見たうえに公の所在も分からず、みな恐れおののき、(公が)到着して再会できると悲喜こもごも、涙を流す者さえあった。公は大笑いしながら言った。「今日はつまらぬ賊兵どもに追い詰められるところであったわ!」

[三] 『曹瞞伝』に言う。このとき公の軍勢が渭水を渡るたび、そのつど馬超の騎兵に突撃を受けて陣営を築くことができなかった。地質はそのうえ砂が多くて塁壁を築くには適さなかった。婁子伯が公を説得した。「いま寒い時期にあたりますので、砂を盛って城郭を作り、水を注げばよろしゅうございます。一夜にして完成させることができましょう。」公はそれに従い、絹製の袋を数多く作って水を運び、夜中に兵士を渡して城郭を作った。夜明けごろには城が完成し、それによって公の軍勢は残らず渭水を渡ることができた。 ある人が、当時は九月であって水はまだ凍るはずがないと疑っている。臣裴松之が『魏書』を調べたところ、公の軍勢は八月になって潼関に到着し、閏月に黄河北岸に渡ったとある。これはその年の閏八月のことである。それならば厳しい寒さになることなどあり得ようか!

[四] 『魏書』に言う。公は後日また韓遂らと会談することになったが、諸将が「公が賊と言葉を交わされるからには軽率であってはなりません。木で行馬(馬防柵)を作って防壁とすべきです」と言うと、公はその通りだと思った。賊将は公にお目見えしたとき、みな馬上のまま拝礼した。秦人胡族の見物人が前後して重沓したので、公は笑いながら賊徒どもに語りかけた。「は曹公を見たいのか?やはり人間のようだぞ。四つの目に二つの口があるわけではない。ただ智慧が多いだけなのだよ!」胡族は前後して大勢で見物した。また鉄騎五千が連なって十重の陣をなし、鋭い光が太陽に輝いたので、賊兵たちはいよいよ恐れおののいた。

[五] 臣裴松之が勘案するに、漢の高祖二年、滎陽の(南方の)京・索のあたりで楚と戦ったとき、黄河沿いに甬道を築いて敖倉の食糧を奪取した。応劭は「敵が輜重を襲うのを恐れ、それゆえ垣根を築いて街路のようにするのである」と言っている。このとき魏武は垣根を築かず、ただ車を連ねて柵を立てるだけで両面を防いだのである。

冬十月、軍は長安から北進して楊秋を征討し、安定を包囲した。楊秋が降服したのでその爵位に復帰させ、(その地に)留めて領民を慰撫させた。[一]十二月、安定から引き揚げ、夏侯淵を残して長安に屯させた。

[一] 『魏略』に言う。楊秋は黄初年間(二二〇~二二七)に討寇将軍へ昇進して位は特進となり、臨涇侯に封ぜられた。寿命で亡くなった。

武帝紀

太祖武皇帝,沛國譙人也,姓曹,諱操,字孟德,漢相國參之後.[一]桓帝世,曹騰為中常侍大長秋,封費亭侯.[二]養子嵩嗣,官至太尉,莫能審其生出本末.[三]嵩生太祖.

[一] 太祖一名吉利,小字阿瞞.王沈魏書曰:其先出於黃帝.當高陽世,陸終之子曰安,是為曹姓.周武王克殷,存先世之後,封曹俠於邾.春秋之世,與於盟會,逮至戰國,為楚所滅.子孫分流,或家於沛.漢高祖之起,曹參以功封平陽侯,世襲爵土,絕而復紹,至今適嗣國於容城.

[二] 司馬彪續漢書曰:騰父節,字元偉,素以仁厚稱.鄰人有亡豕者,與節豕相類,詣門認之,節不與爭;後所亡豕自還其家,豕主人大慚,送所認豕,幷辭謝節,節笑而受之.由是鄕黨貴歎焉.長子伯興,次子仲興,次子叔興.騰字季興,少除黃門從官.永寧元年,鄧太后詔黃門令選中黃門從官年少溫謹者配皇太子書,騰應其選.太子特親愛騰,飲食賞賜與眾有異.順帝卽位,為小黃門,遷至中常侍大長秋.在省闥三十餘年,歷事四帝,未嘗有過.好進達賢能,終無所毀傷.其所稱薦,若陳留虞放﹑邊韶﹑南陽延固﹑張溫﹑弘農張奐﹑潁川堂谿典等,皆致位公卿,而不伐其善.蜀郡太守因計吏修敬於騰,益州刺史种暠於函谷關搜得其牋,上太守,幷奏騰內臣外交,所不當為,請免官治罪.帝曰:「牋自外來,騰書不出,非其罪也.」乃寢暠奏.騰不以介意,常稱歎暠,以為暠得事上之節.暠後為司徒,語人曰:「今日為公,乃曹常侍恩也.」騰之行事,皆此類也.桓帝卽位,以騰先帝舊臣,忠孝彰著,封費亭侯,加位特進.太和三年,追尊騰曰高皇帝.

[三] 續漢書曰:嵩字巨高.質性敦愼,所在忠孝.為司隸校尉,靈帝擢拜大司農﹑大鴻臚,代崔烈為太尉.黃初元年,追尊嵩曰太皇帝.吳人作曹瞞傳及郭頒世語並云:嵩,夏侯氏之子,夏侯惇之叔父.太祖於惇為從父兄弟.

太祖少機警,有權數,而任俠放蕩,不治行業,故世人未之奇也;[一]惟梁國橋玄﹑南陽何顒異焉.玄謂太祖曰:「天下將亂,非命世之才不能濟也,能安之者,其在君乎!」[二]年二十,擧孝廉為郞,除洛陽北部尉,遷頓丘令,[三]徵拜議郞.[四]

[一] 曹瞞傳云:太祖少好飛鷹走狗,游蕩無度,其叔父數言之於嵩.太祖患之,後逢叔父於路,乃陽敗面喎口;叔父怪而問其故,太祖曰:「卒中惡風.」叔父以吿嵩.嵩驚愕,呼太祖,太祖口貌如故.嵩問曰:「叔父言汝中風,已差乎?」太祖曰:「初不中風,但失愛於叔父,故見罔耳.」嵩乃疑焉.自後叔父有所吿,嵩終不復信,太祖於是益得肆意矣.

[二] 魏書曰:太尉橋玄,世名知人,覩太祖而異之,曰:「吾見天下名士多矣,未有若君者也!君善自持.吾老矣!願以妻子為託.」由是声名益重.續漢書曰:玄字公祖,嚴明有才略,長於人物.張璠漢紀曰:玄歷位中外,以剛斷稱,謙儉下士,不以王爵私親.光和中為太尉,以久病策罷,拜太中大夫,卒,家貧乏産業,柩無所殯.當世以此稱為名臣.世語曰:玄謂太祖曰:「君未有名,可交許子將.」太祖乃造子將,子將納焉,由是知名.孫盛異同雜語云:太祖嘗私入中常侍張讓室,讓覺之;乃舞手戟於庭,踰垣而出.才武絕人,莫之能害.博覽羣書,特好兵法,抄集諸家兵法,名曰接要,又注孫武十三篇,皆傳於世.嘗問許子將:「我何如人?」子將不答.固問之,子將曰:「子治世之能臣,亂世之姦雄.」太祖大笑.

[三] 曹瞞傳曰:太祖初入尉廨,繕治四門.造五色棒,縣門左右各十餘枚,有犯禁,不避豪彊,皆棒殺之.後數月,靈帝愛幸小黃門蹇碩叔父夜行,卽殺之.京師斂迹,莫敢犯者.近習寵臣咸疾之,然不能傷,於是共稱薦之,故遷為頓丘令.

[四] 魏書曰:太祖從妹夫イン彊侯宋奇被誅,從坐免官.後以能明古學,復徵拜議郞.先是大將軍竇武﹑太傅陳蕃謀誅閹官,反為所害.太祖上書陳武等正直而見陷害,姦邪盈朝,善人壅塞,其言甚切;靈帝不能用.是後詔書勅三府:擧奏州縣政理無效,民為作謡言者免罷之.三公傾邪,皆希世見詔用,貨賂並行,彊者為怨,不見擧奏,弱者守道,多被陷毀.太祖疾之.是歲以災異博問得失,因此復上書切諫,說三公所擧奏專回避貴戚之意.奏上,天子感悟,以示三府責讓之,諸以謡言徵者皆拜議郞.是後政教日亂,豪猾益熾,多所摧毀;太祖知不可匡正,遂不復獻言.

光和末,黃巾起.拜騎都尉,討潁川賊.遷為濟南相,國有十餘縣,長吏多阿附貴戚,贓汙狼藉,於是奏免其八;禁斷淫祀,姦宄逃竄,郡界肅然.[一]久之,徵還為東郡太守;不就,稱疾歸鄕里.[二]

[一] 魏書曰:長吏受取貪饕,依倚貴勢,歷前相不見擧;聞太祖至,咸皆擧免,小大震怖,姦宄遁逃,竄入他郡.政教大行,一郡清平.初,城陽景王劉章以有功于漢,故其國為立祠,靑州諸郡轉相倣效,濟南尤盛,至六百餘祠.賈人或假二千石輿服導從作倡樂,奢侈日甚,民坐貧窮,歷世長吏無敢禁絕者.太祖到,皆毀壞祠屋,止絕官吏民不得祠祀.及至秉政,遂除姦邪鬼神之事,世之淫祀由此遂絕.

[二] 魏書曰:於是權臣專朝,貴戚橫恣.太祖不能違道取容.數數干忤,恐為家禍,遂乞留宿衞.拜議郞,常託疾病,輒吿歸鄕里;築室城外,春夏習讀書傳,秋冬弋獵,以自娛樂.

頃之,冀州刺史王芬﹑南陽許攸﹑沛國周旌等連結豪傑,謀廢靈帝,立合肥侯,以吿太祖,太祖拒之.芬等遂敗.[一]

[一] 司馬彪九州春秋曰:於是陳蕃子逸與術士平原襄楷會于芬坐,楷曰:「天文不利宦者,黃門﹑常侍貴族滅矣.」逸喜.芬曰:「若然者,芬願驅除.」於是與攸等結謀.靈帝欲北巡河閒舊宅,芬等謀因此作難,上書言黑山賊攻劫郡縣,求得起兵.會北方有赤氣,東西竟天,太史上言「當有陰謀,不宜北行」,帝乃止.勅芬罷兵,俄而徵之.芬懼,自殺.魏書載太祖拒芬辭曰:「夫廢立之事,天下之至不祥也.古人有權成敗﹑計輕重而行之者,伊尹﹑霍光是也.伊尹懷至忠之誠,據宰臣之勢,處官司之上,故進退廢置,計從事立.及至霍光受託國之任,藉宗臣之位,內因太后秉政之重,外有羣卿同欲之勢,昌邑卽位日淺,未有貴寵,朝乏讜臣,議出密近,故計行如轉圜,事成如摧朽.今諸君徒見曩者之易,未覩當今之難.諸君自度,結眾連黨,何若七國?合肥之貴,孰若吳﹑楚?而造作非常,欲望必克,不亦危乎!」

金城邊章﹑韓遂殺刺史郡守以叛,眾十餘萬,天下騷動.徵太祖為典軍校尉.會靈帝崩,太子卽位,太后臨朝.大將軍何進與袁紹謀誅宦官,太后不聽.進乃召董卓,欲以脅太后,[一]卓未至而進見殺.卓到,廢帝為弘農王而立獻帝,京都大亂.卓表太祖為驍騎校尉,欲與計事.太祖乃變易姓名,閒行東歸.[二]出關,過中牟,為亭長所疑,執詣縣,邑中或竊識之,為請得解.[三]卓遂殺太后及弘農王.太祖至陳留,散家財,合義兵,將以誅卓.冬十二月,始起兵於己吾,[四]是歲中平六年也.

[一] 魏書曰:太祖聞而笑之曰:「閹豎之官,古今宜有,但世主不當假之權寵,使至于此.旣治其罪,當誅元惡,一獄吏足矣,何必紛紛召外將乎?欲盡誅之,事必宣露,吾見其敗也.」

[二] 魏書曰:太祖以卓終必覆敗,遂不就拜,逃歸鄕里.從數騎過故人成皋呂伯奢;伯奢不在,其子與賓客共劫太祖,取馬及物,太祖手刃擊殺數人.世語曰:太祖過伯奢.伯奢出行,五子皆在,備賓主禮.太祖自以背卓命,疑其圖己,手剣夜殺八人而去.孫盛雜記曰:太祖聞其食器声,以為圖己,遂夜殺之.旣而悽愴曰:「寧我負人,毋人負我!」遂行.

[三] 世語曰:中牟疑是亡人,見拘于縣.時掾亦已被卓書;唯功曹心知是太祖,以世方亂,不宜拘天下雄儁,因白令釋之.

[四] 世語曰:陳留孝廉衞茲以家財資太祖,使起兵,眾有五千人.

初平元年春正月,後將軍袁術﹑冀州牧韓馥﹑[一]豫州刺史孔伷﹑[二]兗州刺史劉岱﹑[三]河內太守王匡﹑[四]勃海太守袁紹﹑陳留太守張邈﹑東郡太守橋瑁﹑[五]山陽太守袁遺﹑[六]濟北相鮑信[七]同時倶起兵,眾各數萬,推紹為盟主.太祖行奮武將軍.

[一] 英雄記曰:馥字文節,潁川人.為御史中丞.董卓擧為冀州牧.于時冀州民人殷盛,兵糧優足.袁紹之在勃海,馥恐其興兵,遣數部從事守之,不得動搖.東郡太守橋瑁詐作京師三公移書與州郡,陳卓罪惡,云「見逼迫,無以自救,企望義兵,解國患難.」馥得移,請諸從事問曰:「今當助袁氏邪,助董卓邪?」治中從事劉子惠曰:「今興兵為國,何謂袁﹑董!」馥自知言短而有慙色.子惠復言:「兵者凶事,不可為首;今宜往視他州,有發動者,然後和之.冀州於他州不為弱也,他人功未有在冀州之右者也.」馥然之.馥乃作書與紹,道卓之惡,聽其擧兵.

[二] 英雄記曰:伷字公緒,陳留人.張璠漢紀載鄭泰說卓云:「孔公緒能清談高論,嘘枯吹生.」

[三] 岱,劉繇之兄,事見吳志.

[四] 英雄記曰:匡字公節,泰山人.輕財好施,以任俠聞.辟大將軍何進府進符使,匡於徐州發彊弩五百西詣京師.會進敗,匡還州里.起家,拜河內太守.謝承後漢書曰:匡少與蔡邕善.其年為卓軍所敗,走還泰山,收集勁勇得數千人,欲與張邈合.匡先殺執金吾胡母班.班親屬不勝憤怒,與太祖幷勢,共殺匡.

[五] 英雄記曰:瑁字元偉,玄族子.先為兗州刺史,甚有威惠.

[六] 遺字伯業,紹從兄.為長安令.河閒張超嘗薦遺于太尉朱儁,稱遺「有冠世之懿,幹時之量.其忠允亮直,固天所縱;若乃包羅載籍,管綜百氏,登高能賦,覩物知名,求之今日,邈焉靡儔.」事在超集.英雄記曰:紹後用遺為揚州刺史,為袁術所敗.太祖稱「長大而能勤學者,惟吾與袁伯業耳.」語在文帝典論.

[七] 信事見子勛傳.

二月,卓聞兵起,乃徙天子都長安.卓留屯洛陽,遂焚宮室.是時紹屯河內,邈﹑岱﹑瑁﹑遺屯酸棗,術屯南陽,伷屯潁川,馥在鄴.卓兵彊,紹等莫敢先進.太祖曰:「擧義兵以誅暴亂,大眾已合,諸君何疑?向使董卓聞山東兵起,倚王室之重,據二周之險,東向以臨天下;雖以無道行之,猶足為患.今焚燒宮室,劫遷天子,海內震動,不知所歸,此天亡之時也.一戰而天下定矣,不可失也.」遂引兵西,將據成皋.邈遣將衞茲分兵隨太祖.到滎陽汴水,遇卓將徐榮,與戰不利,士卒死傷甚多.太祖為流矢所中,所乘馬被創,從弟洪以馬與太祖,得夜遁去.榮見太祖所將兵少,力戰盡日,謂酸棗未易攻也,亦引兵還.

太祖到酸棗,諸軍兵十餘萬,日置酒高會,不圖進取.太祖責讓之,因為謀曰:「諸君聽吾計,使勃海引河內之眾臨孟津,酸棗諸將守成皋,據敖倉,塞轘轅﹑太谷,全制其險;使袁將軍率南陽之軍軍丹﹑析,入武關,以震三輔:皆高壘深壁,勿與戰,益為疑兵,示天下形勢,以順誅逆,可立定也.今兵以義動,持疑而不進,失天下之望,竊為諸君恥之!」邈等不能用.

太祖兵少,乃與夏侯惇等詣揚州募兵,刺史陳溫﹑丹楊太守周昕與兵四千餘人.還到龍亢,士卒多叛.[一]至銍﹑建平,復收兵得千餘人,進屯河內.

[一] 魏書曰:兵謀叛,夜燒太祖帳,太祖手剣殺數十人,餘皆披靡,乃得出營;其不叛者五百餘人.

劉岱與橋瑁相惡,岱殺瑁,以王肱領東郡太守.

袁紹與韓馥謀立幽州牧劉虞為帝,太祖拒之.[一]紹又嘗得一玉印,於太祖坐中擧向其肘,太祖由是笑而惡焉.[二]

[一] 魏書載太祖答紹曰:「董卓之罪,暴於四海,吾等合大眾﹑興義兵而遠近莫不響應,此以義動故也.今幼主微弱,制于姦臣,未有昌邑亡國之釁,而一旦改易,天下其孰安之?諸君北面,我自西向.」

[二] 魏書曰:太祖大笑曰:「吾不聽汝也.」紹復使人說太祖曰:「今袁公勢盛兵彊,二子已長,天下羣英,孰踰於此?」太祖不應.由是益不直紹,圖誅滅之.

二年春,紹﹑馥遂立虞為帝,虞終不敢當.

夏四月,卓還長安.

秋七月,袁紹脅韓馥,取冀州.

黑山賊于毒﹑白繞﹑眭固等,眭申隨反.十餘萬眾略魏郡﹑東郡,王肱不能禦,太祖引兵入東郡,擊白繞於濮陽,破之.袁紹因表太祖為東郡太守,治東武陽.

三年春,太祖軍頓丘,毒等攻東武陽.太祖乃引兵西入山,攻毒等本屯.[一]毒聞之,棄武陽還.太祖要擊眭固,又擊匈奴於夫羅於內黃,皆大破之.[二]

[一] 魏書曰:諸將皆以為當還自救.太祖曰:「孫臏救趙而攻魏,耿弇欲走西安攻臨菑.使賊聞我西而還,武陽自解也;不還,我能敗其本屯,虜不能拔武陽必矣.」遂乃行.

[二] 魏書曰:於夫羅者,南單于子也.中平中,發匈奴兵,於夫羅率以助漢.會本國反,殺南單于,於夫羅遂將其眾留中國.因天下撓亂,與西河白波賊合,破太原﹑河內,抄略諸郡為寇.

夏四月,司徒王允與呂布共殺卓.卓將李傕﹑郭氾等殺允攻布,布敗,東出武關.傕等擅朝政.

靑州黃巾眾百萬入兗州,殺任城相鄭遂,轉入東平.劉岱欲擊之,鮑信諫曰:「今賊眾百萬,百姓皆震恐,士卒無鬭志,不可敵也.觀賊眾羣輩相隨,軍無輜重,唯以鈔略為資,今不若畜士眾之力,先為固守.彼欲戰不得,攻又不能,其勢必離散,後選精銳,據其要害,擊之可破也.」岱不從,遂與戰,果為所殺.[一]信乃與州吏萬潛等至東郡迎太祖領兗州牧.遂進兵擊黃巾于壽張東.信力戰鬭死,僅而破之.[二]購求信喪不得,眾乃刻木如信形狀,祭而哭焉.追黃巾至濟北.乞降.冬,受降卒三十餘萬,男女百餘萬口,收其精銳者,號為靑州兵.

[一] 世語曰:岱旣死,陳宮謂太祖曰:「州今無主,而王命斷絕,宮請說州中,明府尋往牧之,資之以收天下,此霸王之業也.」宮說別駕﹑治中曰:「今天下分裂而州無主;曹東郡,命世之才也,若迎以牧州,必寧生民.」鮑信等亦謂之然.

[二] 魏書曰:太祖將步騎千餘人,行視戰地,卒抵賊營,戰不利,死者數百人,引還.賊尋前進.黃巾為賊久,數乘勝,兵皆精悍.太祖舊兵少,新兵不習練,擧軍皆懼.太祖被甲嬰冑,親巡將士,明勸賞罰,眾乃復奮,承閒討擊,賊稍折退.賊乃移書太祖曰:「昔在濟南,毀壞神壇,其道乃與中黃太乙同,似若知道,今更迷惑.漢行已盡,黃家當立.天之大運,非君才力所能存也.」太祖見檄書,呵罵之,數開示降路;遂設奇伏,晝夜會戰,戰輒禽獲,賊乃退走.

袁術與紹有隙,術求援於公孫瓚,瓚使劉備屯高唐,單經屯平原,陶謙屯發干,以逼紹.太祖與紹會擊,皆破之.

四年春,軍鄄城.荊州牧劉表斷術糧道,術引軍入陳留,屯封丘,黑山餘賊及於夫羅等佐之.術使將劉詳屯匡亭.太祖擊詳,術救之,與戰,大破之.術退保封丘,遂圍之,未合,術走襄邑,追到太壽,決渠水灌城.走寧陵,又追之,走九江.夏,太祖還軍定陶.

下邳闕宣聚眾數千人,自稱天子;徐州牧陶謙與共擧兵,取泰山華﹑費,略任城.秋,太祖征陶謙,下十餘城,謙守城不敢出.

是歲,孫策受袁術使渡江,數年閒遂有江東.

興平元年春,太祖自徐州還,初,太祖父嵩,去官後還譙,董卓之亂,避難琅邪,為陶謙所害,故太祖志在復讎東伐.[一]夏,使荀彧﹑程昱守鄄城,復征陶謙,拔五城,遂略地至東海.還過郯,謙將曹豹與劉備屯郯東,要太祖.太祖擊破之,遂攻拔襄賁,所過多所殘戮.[二]

[一] 世語曰:嵩在泰山華縣.太祖令泰山太守應劭送家詣兗州,劭兵未至,陶謙密遣數千騎掩捕.嵩家以為劭迎,不設備.謙兵至,殺太祖弟德于門中.嵩懼,穿後垣,先出其妾,妾肥,不能得出;嵩逃于廁,與妾倶被害,闔門皆死.劭懼,棄官赴袁紹.後太祖定冀州,劭時已死.韋曜吳書曰:太祖迎嵩,輜重百餘兩.陶謙遣都尉張闓將騎二百衞送,闓於泰山華﹑費閒殺嵩,取財物,因奔淮南.太祖歸咎於陶謙,故伐之.

[二] 孫盛曰:夫伐罪弔民,古之令軌;罪謙之由,而殘其屬部,過矣.

會張邈與陳宮叛迎呂布,郡縣皆應.荀彧﹑程昱保鄄城,范﹑東阿二縣固守,太祖乃引軍還.布到,攻鄄城不能下,西屯濮陽.太祖曰:「布一旦得一州,不能據東平,斷亢父﹑泰山之道乘險要我,而乃屯濮陽,吾知其無能為也.」遂進軍攻之.布出兵戰,先以騎犯靑州兵.靑州兵奔,太祖陳亂,馳突火出,墜馬,燒左手掌.司馬樓異扶太祖上馬,遂引去.[一]未至營止,諸將未與太祖相見,皆怖.太祖乃自力勞軍,令軍中促為攻具,進復攻之,與布相守百餘日.蝗虫起,百姓大餓,布糧食亦盡,各引去.

[一] 袁暐獻帝春秋曰:太祖圍濮陽,濮陽大姓田氏為反閒,太祖得入城.燒其東門,示無反意.及戰,軍敗.布騎得太祖而不知是,問曰:「曹操何在?」太祖曰:「乘黃馬走者是也.」布騎乃釋太祖而追黃馬者.門火猶盛,太祖突火而出.

秋九月,太祖還鄄城.布到乘氏,為其縣人李進所破,東屯山陽.於是紹使人說太祖,欲連和.太祖新失兗州,軍食盡,將許之.程昱止太祖,太祖從之.冬十月,太祖至東阿.

是歲穀一斛五十餘萬錢,人相食,乃罷吏兵新募者.陶謙死,劉備代之.

二年春,襲定陶.濟陰太守吳資保南城,未拔.會呂布至,又擊破之.夏,布將薛蘭﹑李封屯鉅野,太祖攻之,布救蘭,蘭敗,布走,遂斬蘭等.布復從東緡與陳宮將萬餘人來戰,時太祖兵少,設伏,縱奇兵擊,大破之.[一]布夜走,太祖復攻,拔定陶,分兵平諸縣.布東奔劉備,張邈從布,使其弟超將家屬保雍丘.秋八月,圍雍丘.冬十月,天子拜太祖兗州牧.十二月,雍丘潰,超自殺.夷邈三族.邈詣袁術請救,為其眾所殺,兗州平,遂東略陳地.

[一] 魏書曰:於是兵皆出取麥,在者不能千人,屯營不固.太祖乃令婦人守陴,悉兵拒之.屯西有大隄,其南樹木幽深.布疑有伏,乃相謂曰:「曹操多譎,勿入伏中.」引軍屯南十餘里.明日復來,太祖隱兵隄裏,出半兵隄外.布益進,乃令輕兵挑戰,旣合,伏兵乃悉乘隄,步騎並進,大破之,獲其鼓車,追至其營而還.

是歲,長安亂,天子東遷,敗于曹陽,渡河幸安邑.

建安元年春正月,太祖軍臨武平,袁術所置陳相袁嗣降.

太祖將迎天子,諸將或疑,荀彧﹑程昱勸之,乃遣曹洪將兵西迎,衞將軍董承與袁術將萇奴拒險,洪不得進.

汝南﹑潁川黃巾何儀﹑劉辟﹑黃邵﹑何曼等,眾各數萬,初應袁術,又附孫堅.二月,太祖進軍討破之,斬辟﹑邵等,儀及其眾皆降.天子拜太祖建德將軍,夏六月,遷鎮東將軍,封費亭侯.秋七月,楊奉﹑韓暹以天子還洛陽,[一]奉別屯梁.太祖遂至洛陽,衞京都,暹遁走.天子假太祖節鉞,錄尚書事.[二]洛陽殘破,董昭等勸太祖都許.九月,車駕出轘轅而東,以太祖為大將軍,封武平侯.自天子西遷,朝廷日亂,至是宗廟社稷制度始立.[三]

[一] 獻帝春秋曰:天子初至洛陽,幸城西故中常侍趙忠宅.使張楊繕治宮室,名殿曰楊安殿,八月,帝乃遷居.

[二] 獻帝紀曰:又領司隸校尉.

[三] 張璠漢紀曰:初,天子敗於曹陽,欲浮河東下.侍中太史令王立曰:「自去春太白犯鎮星於牛斗,過天津,熒惑又逆行守北河,不可犯也.」由是天子遂不北渡河,將自軹關東出.立又謂宗正劉艾曰:「前太白守天關,與熒惑會;金火交會,革命之象也.漢祚終矣,晉﹑魏必有興者.」立後數言于帝曰:「天命有去就,五行不常盛,代火者土也,承漢者魏也,能安天下者,曹姓也,唯委任曹氏而已.」公聞之,使人語立曰:「知公忠于朝廷,然天道深遠,幸勿多言.」

天子之東也,奉自梁欲要之,不及.冬十月,公征奉,奉南奔袁術,遂攻其梁屯,拔之.於是以袁紹為太尉,紹恥班在公下,不肯受.公乃固辭,以大將軍讓紹.天子拜公司空,行車騎將軍.是歲用棗祗﹑韓浩等議,始興屯田.[一]

[一] 魏書曰:自遭荒亂,率乏糧穀.諸軍並起,無終歲之計,飢則寇略,飽則棄餘,瓦解流離,無敵自破者不可勝數.袁紹之在河北,軍人仰食桑椹.袁術在江﹑淮,取給蒲蠃.民人相食,州里蕭條.公曰:「夫定國之術,在于彊兵足食,秦人以急農兼天下,孝武以屯田定西域,此先代之良式也.」是歲乃募民屯田許下,得穀百萬斛.於是州郡例置田官,所在積穀.征伐四方,無運糧之勞,遂兼滅羣賊,克平天下.

呂布襲劉備,取下邳.備來奔.程昱說公曰:「觀劉備有雄才而甚得眾心,終不為人下,不如早圖之.」公曰:「方今收英雄時也,殺一人而失天下之心,不可.」

張濟自關中走南陽.濟死,從子繡領其眾.二年春正月,公到宛.張繡降,旣而悔之,復反.公與戰,軍敗,為流矢所中,長子昂﹑弟子安民遇害.[一]公乃引兵還舞陰,繡將騎來鈔,公擊破之.繡奔穰,與劉表合.公謂諸將曰:「吾降張繡等,失不便取其質,以至於此.吾知所以敗.諸卿觀之,自今已後不復敗矣.」遂還許.[二]

[一] 魏書曰:公所乘馬名絕影,為流矢所中,傷頬及足,幷中公右臂.世語曰:昂不能騎,進馬于公,公故免,而昂遇害.

[二] 世語曰:舊制,三公領兵入見,皆交戟叉頸而前.初,公將討張繡,入覲天子,時始復此制.公自此不復朝見.

袁術欲稱帝於淮南,使人吿呂布.布收其使,上其書.術怒,攻布,為布所破.秋九月,術侵陳,公東征之.術聞公自來,棄軍走,留其將橋蕤﹑李豐﹑梁綱﹑樂就;公到,擊破蕤等,皆斬之.術走渡淮.公還許.

公之自舞陰還也,南陽﹑章陵諸縣復叛為繡,公遣曹洪擊之,不利,還屯葉,數為繡﹑表所侵.冬十一月,公自南征,至宛.[一]表將鄧濟據湖陽.攻拔之,生禽濟,湖陽降.攻舞陰,下之.

[一] 魏書曰:臨淯水,祠亡將士,歔欷流涕,眾皆感慟.

三年春正月,公還許,初置軍師祭酒.三月,公圍張繡於穰.夏五月,劉表遣兵救繡,以絕軍後.[一]公將引還,繡兵來,公軍不得進,連營稍前.公與荀彧書曰:「賊來追吾,雖日行數里,吾策之,到安眾,破繡必矣.」到安眾,繡與表兵合守險,公軍前後受敵.公乃夜鑿險為地道,悉過輜重,設奇兵.會明,賊謂公為遁也,悉軍來追.乃縱奇兵步騎夾攻,大破之.秋七月,公還許.荀彧問公:「前以策賊必破,何也?」公曰:「虜遏吾歸師,而與吾死地戰,吾是以知勝矣.」

[一] 獻帝春秋曰:袁紹叛卒詣公云:「田豐使紹早襲許,若挾天子以令諸侯,四海可指麾而定.」公乃解繡圍.

呂布復為袁術使高順攻劉備,公遣夏侯惇救之,不利.備為順所敗.九月,公東征布.冬十月,屠彭城,獲其相侯諧.進至下邳,布自將騎逆擊.大破之,獲其驍將成廉.追至城下,布恐,欲降.陳宮等沮其計,求救于術,勸布出戰,戰又敗,乃還固守,攻之不下.時公連戰,士卒罷,欲還,用荀攸﹑郭嘉計,遂決泗﹑沂水以灌城.月餘,布將宋憲﹑魏續等執陳宮,擧城降,生禽布﹑宮,皆殺之.太山臧霸﹑孫觀﹑吳敦﹑尹禮﹑昌豨各聚眾.布之破劉備也,霸等悉從布.布敗,獲霸等,公厚納待,遂割靑﹑徐二州附於海以委焉,分琅邪﹑東海﹑北海為城陽﹑利城﹑昌慮郡.

初,公為兗州,以東平畢諶為別駕.張邈之叛也,邈劫諶母弟妻子;公謝遣之,曰:「卿老母在彼,可去.」諶頓首無二心,公嘉之,為之流涕.旣出,遂亡歸.及布破,諶生得,眾為諶懼,公曰:「夫人孝於其親者,豈不亦忠於君乎!吾所求也.」以為魯相.[一]

[一] 魏書曰:袁紹宿與故太尉楊彪﹑大長秋梁紹﹑少府孔融有隙,欲使公以他過誅之.公曰:「當今天下土崩瓦解,雄豪並起,輔相君長,人懷怏怏,各有自為之心,此上下相疑之秋也,雖以無嫌待之,猶懼未信;如有所除,則誰不自危?且夫起布衣,在塵垢之閒,為庸人之所陵蹈,可勝怨乎!高祖赦雍齒之讎而羣情以安,如何忘之?」紹以為公外託公義,內實離異,深懷怨望.臣松之以為楊彪亦曾為魏武所困,幾至于死,孔融竟不免於誅戮,豈所謂先行其言而後從之哉!非知之難,其在行之,信矣.

四年春二月,公還至昌邑.張楊將楊醜殺楊,眭固又殺醜,以其眾屬袁紹,屯射犬.夏四月,進軍臨河,使史渙﹑曹仁渡河擊之.固使楊故長史薛洪﹑河內太守繆尚留守,自將兵北迎紹求救,與渙﹑仁相遇犬城.交戰,大破之,斬固.公遂濟河,圍射犬.洪﹑尚率眾降,封為列侯,還軍敖倉.以魏种為河內太守,屬以河北事.

初,公擧种孝廉.兗州叛,公曰:「唯魏种且不棄孤也.」及聞种走,公怒曰:「种不南走越﹑北走胡,不置汝也!」旣下射犬,生禽种,公曰:「唯其才也!」釋其縛而用之.

是時袁紹旣幷公孫瓚,兼四州之地,眾十餘萬,將進軍攻許,諸將以為不可敵,公曰:「吾知紹之為人,志大而智小,色厲而膽薄,忌克而少威,兵多而分畫不明,將驕而政令不一,土地雖廣,糧食雖豐,適足以為吾奉也.」秋八月,公進軍黎陽,使臧霸等入靑州破齊﹑北海﹑東安,留于禁屯河上.九月,公還許,分兵守官渡.冬十一月,張繡率眾降,封列侯.十二月,公軍官渡.

袁術自敗於陳,稍困,袁譚自靑州遣迎之.術欲從下邳北過,公遣劉備﹑朱靈要之.會術病死.程昱﹑郭嘉聞公遣備,言於公曰:「劉備不可縱.」公悔,追之不及.備之未東也,陰與董承等謀反,至下邳,遂殺徐州刺史車胄,擧兵屯沛.遣劉岱﹑王忠擊之,不克.[一]

[一] 獻帝春秋曰:備謂岱等曰:「使汝百人來,其無如我何;曹公自來,未可知耳!」魏武故事曰:岱字公山,沛國人.以司空長史從征伐有功,封列侯.魏略曰:王忠,扶風人,少為亭長.三輔亂,忠飢乏噉人,隨輩南向武關.値婁子伯為荊州遣迎北方客人;忠不欲去,因率等伍逆擊之,奪其兵,聚眾千餘人以歸公.拜忠中郞將,從征討.五官將知忠嘗噉人,因從駕出行,令俳取冢閒髑髏繫著忠馬鞍,以為歡笑.

廬江太守劉勳率眾降,封為列侯.

五年春正月,董承等謀泄,皆伏誅.公將自東征備,諸將皆曰:「與公爭天下者,袁紹也.今紹方來而棄之東,紹乘人後,若何?」公曰:「夫劉備,人傑也,今不擊,必為後患.[一]袁紹雖有大志,而見事遲,必不動也.」郭嘉亦勸公,遂東擊備,破之,生禽其將夏侯博.備走奔紹,獲其妻子.備將關羽屯下邳,復進攻之,羽降.昌豨叛為備,又攻破之.公還官渡,紹卒不出.

[一] 孫盛魏氏春秋云:答諸將曰:「劉備,人傑也,將生憂寡人.」臣松之以為史之記言,旣多潤色,故前載所述有非實者矣,後之作者又生意改之,于失實也,不亦彌遠乎!凡孫盛製書,多用左氏以易舊文,如此者非一.嗟乎,後之學者將何取信哉?且魏武方以天下勵志,而用夫差分死之言,尤非其類.

二月,紹遣郭圖﹑淳于瓊﹑顏良攻東郡太守劉延於白馬,紹引兵至黎陽,將渡河.夏四月,公北救延.荀攸說公曰:「今兵少不敵,分其勢乃可.公到延津,若將渡兵向其後者,紹必西應之,然後輕兵襲白馬,掩其不備,顏良可禽也.」公從之.紹聞兵渡,卽分兵西應之.公乃引軍兼行趣白馬,未至十餘里,良大驚,來逆戰.使張遼﹑關羽前登,擊破,斬良.遂解白馬圍,徙其民,循河而西.紹於是渡河追公軍,至延津南.公勒兵駐營南阪下,使登壘望之,曰;「可五六百騎.」有頃,復白:「騎稍多,步兵不可勝數.」公曰:「勿復白.」乃令騎解鞍放馬.是時,白馬輜重就道.諸將以為敵騎多,不如還保營.荀攸曰:「此所以餌敵,如何去之!」紹騎將文醜與劉備將五六千騎前後至.諸將復白:「可上馬.」公曰:「未也.」有頃,騎至稍多,或分趣輜重.公曰:「可矣.」乃皆上馬.時騎不滿六百,遂縱兵擊,大破之,斬醜.良﹑醜皆紹名將也,再戰,悉禽,紹軍大震.公還軍官渡.紹進保陽武.關羽亡歸劉備.

八月,紹連營稍前,依沙塠為屯,東西數十里.公亦分營與相當,合戰不利.[一]時公兵不滿萬,傷者十二三.[二]紹復進臨官渡,起土山地道.公亦於內作之,以相應.紹射營中,矢如雨下,行者皆蒙楯,眾大懼.時公糧少,與荀彧書,議欲還許.彧以為「紹悉眾聚官渡,欲與公決勝敗.公以至弱當至彊,若不能制,必為所乘,是天下之大機也.且紹,布衣之雄耳,能聚人而不能用.夫以公之神武明哲而輔以大順,何向而不濟!」公從之.

[一] 習鑿齒漢晉春秋曰:許攸說紹曰:「公無與操相攻也.急分諸軍持之,而徑從他道迎天子,則事立濟矣.」紹不從,曰:「吾要當先圍取之.」攸怒.

[二] 臣松之以為魏武初起兵,已有眾五千,自後百戰百勝,敗者十二三而已矣.但一破黃巾,受降卒三十餘萬,餘所呑幷,不可悉紀;雖征戰損傷,未應如此之少也.夫結營相守,異於摧鋒決戰.本紀云:「紹眾十餘萬,屯營東西數十里.」魏太祖雖機變無方,略不世出,安有以數千之兵,而得逾時相抗者哉?以理而言,竊謂不然.紹為屯數十里,公能分營與相當,此兵不得甚少,一也.紹若有十倍之眾,理應當悉力圍守,使出入斷絕,而公使徐晃等擊其運車,公又自出擊淳于瓊等,揚旌往還,曾無抵閡,明紹力不能制,是不得甚少,二也.諸書皆云公坑紹眾八萬,或云七萬.夫八萬人奔散,非八千人所能縛,而紹之大眾皆拱手就戮,何緣力能制之?是不得甚少,三也.將記述者欲以少見奇,非其實錄也.案鍾繇傳云:「公與紹相持,繇為司隸,送馬二千餘匹以給軍.」本紀及世語並云公時有騎六百餘匹,繇馬為安在哉?

孫策聞公與紹相持,乃謀襲許,未發,為刺客所殺.

汝南降賊劉辟等叛應紹,略許下.紹使劉備助辟,公使曹仁擊破之.備走,遂破辟屯.

袁紹運穀車數千乘至,公用荀攸計,遣徐晃﹑史渙邀擊,大破之,盡燒其車.公與紹相拒連月,雖比戰斬將,然眾少糧盡,士卒疲乏.公謂運者曰:「卻十五日為汝破紹,不復勞汝矣.」冬十月,紹遣車運穀,使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之,宿紹營北四十里.紹謀臣許攸貪財,紹不能足,來奔,因說公擊瓊等.左右疑之,荀攸﹑賈詡勸公.公乃留曹洪守,自將步騎五千人夜往,會明至.瓊等望見公兵少,出陳門外.公急擊之,瓊退保營,遂攻之.紹遣騎救瓊.左右或言「賊騎稍近,請分兵拒之.」公怒曰:「賊在背後,乃白!」士卒皆殊死戰,大破瓊等,皆斬之.[一]紹初聞公之擊瓊,謂長子譚曰:「就彼攻瓊等,吾攻拔其營,彼固無所歸矣!」乃使張郃﹑高覽攻曹洪.郃等聞瓊破,遂來降.紹眾大潰,紹及譚棄軍走,渡河.追之不及,盡收其輜重圖書珍寶,虜其眾.[二]公收紹書中,得許下及軍中人書,皆焚之.[三]冀州諸郡多擧城邑降者.

[一] 曹瞞傳曰:公聞攸來,跣出迎之,撫掌笑曰:「子卿遠來,吾事濟矣!」旣入坐,謂公曰:「袁氏軍盛,何以待之?今有幾糧乎?」公曰:「尚可支一歲.」攸曰:「無是,更言之!」又曰:「可支半歲.」攸曰:「足下不欲破袁氏邪,何言之不實也!」公曰:「向言戲之耳.其實可一月,為之奈何?」攸曰:「公孤軍獨守,外無救援而糧穀已盡,此危急之日也.今袁氏輜重有萬餘乘,在故市﹑烏巣,屯軍無嚴備;今以輕兵襲之,不意而至,燔其積聚,不過三日,袁氏自敗也.」公大喜,乃選精銳步騎,皆用袁軍旗幟,銜枚縛馬口,夜從閒道出,人抱束薪,所歷道有問者,語之曰:「袁公恐曹操鈔略後軍,遣兵以益備.」聞者信以為然,皆自若.旣至,圍屯,大放火,營中驚亂.大破之,盡燔其糧穀寶貨,斬督將眭元進﹑騎督韓莒子﹑呂威璜﹑趙叡等首,割得將軍淳于仲簡鼻,未死,殺士卒千餘人,皆取鼻,牛馬割唇舌,以示紹軍.將士皆怛懼.時有夜得仲簡,將以詣麾下,公謂曰:「何為如是?」仲簡曰:「勝負自天,何用為問乎!」公意欲不殺.許攸曰:「明旦鑒于鏡,此益不忘人.」乃殺之.

[二] 獻帝起居注曰:公上言「大將軍鄴侯袁紹前與冀州牧韓馥立故大司馬劉虞,刻作金璽,遣故任長畢瑜詣虞,為說命錄之數.又紹與臣書云:『可都鄄城,當有所立.』擅鑄金銀印,孝廉計吏,皆往詣紹.從弟濟陰太守敘與紹書云:『今海內喪敗,天意實在我家,神應有徵,當在尊兄.南兄臣下欲使卽位,南兄言,以年則北兄長,以位則北兄重.便欲送璽,會曹操斷道.』紹宗族累世受國重恩,而凶逆無道,乃至于此.輒勒兵馬,與戰官渡,乘聖朝之威,得斬紹大將淳于瓊等八人首,遂大破潰.紹與子譚輕身迸走.凡斬首七萬餘級,輜重財物巨億.」

[三] 魏氏春秋曰:公云:「當紹之彊,孤猶不能自保,而況眾人乎!」

初,桓帝時有黃星見于楚﹑宋之分,遼東殷馗馗古逵字,見三蒼.善天文,言後五十歲當有眞人起于梁﹑沛之閒,其鋒不可當.至是凡五十年,而公破紹,天下莫敵矣.

六年夏四月,揚兵河上,擊紹倉亭軍,破之.紹歸,復收散卒,攻定諸叛郡縣.九月,公還許.紹之未破也,使劉備略汝南,汝南賊共都等應之.遣蔡揚擊都,不利,為都所破.公南征備.備聞公自行,走奔劉表,都等皆散.

七年春正月,公軍譙,令曰:「吾起義兵,為天下除暴亂.舊土人民,死喪略盡,國中終日行,不見所識,使吾悽愴傷懷.其擧義兵已來,將士絕無後者,求其親戚以後之,授土田,官給耕牛,置學師以教之.為存者立廟,使祀其先人,魂而有靈,吾百年之後何恨哉!」遂至浚儀,治睢陽渠,遣使以太牢祀橋玄.[一]進軍官渡.

[一] 褒賞令載公祀文曰:「故太尉橋玄,誕敷明德,汎愛博容.國念明訓,士思令謨.靈幽體翳,邈哉晞矣!吾以幼年,逮升堂室,特以頑鄙之姿,為大君子所納.增榮益觀,皆由獎助,猶仲尼稱不如顏淵,李生之厚歎賈復.士死知己,懷此無忘.又承從容約誓之言:『殂逝之後,路有經由,不以斗酒隻雞過相沃ライ,車過三步,腹痛勿怪!』雖臨時戲笑之言,非至親之篤好,胡肯為此辭乎?匪謂靈忿,能詒己疾,懷舊惟顧,念之悽愴.奉命東征,屯次鄕里,北望貴土,乃心陵墓.裁致薄奠,公其尚饗!」

紹自軍破後,發病歐血,夏五月死.小子尚代,譚自號車騎將軍,屯黎陽.秋九月,公征之,連戰.譚﹑尚數敗退,固守.

八年春三月,攻其郭,乃出戰,擊,大破之,譚﹑尚夜遁.夏四月,進軍鄴.五月還許,留賈信屯黎陽.

己酉,令曰:「司馬法『將軍死綏』,[一]故趙括之母,乞不坐括.是古之將者,軍破于外,而家受罪於內也.自命將征行,但賞功而不罰罪,非國典也.其令諸將出征,敗軍者抵罪,失利者免官爵.」[二]

[一] 魏書曰:綏,卻也.有前一尺,無卻一寸.

[二] 魏書載庚申令曰:「議者或以軍吏雖有功能,德行不足堪任郡國之選,所謂『可與適道,未可與權』.管仲曰:『使賢者食於能則上尊,鬭士食於功則卒輕於死,二者設於國則天下治.』未聞無能之人,不鬭之士,並受祿賞,而可以立功興國者也.故明君不官無功之臣,不賞不戰之士;治平尚德行,有事賞功能.論者之言,一似管窺虎歟!」

秋七月,令曰:「喪亂已來,十有五年,後生者不見仁義禮讓之風,吾甚傷之.其令郡國各脩文學,縣滿五百戶置校官,選其鄕之俊造而教學之,庶幾先王之道不廢,而有以益於天下.」

八月,公征劉表,軍西平.公之去鄴而南也,譚﹑尚爭冀州,譚為尚所敗,走保平原.尚攻之急,譚遣辛毗乞降請救.諸將皆疑,荀攸勸公許之,[一]公乃引軍還.冬十月,到黎陽,為子整與譚結婚.[二]尚聞公北,乃釋平原還鄴.東平呂曠﹑呂詳叛尚,屯陽平,率其眾降,封為列侯.[三]

[一] 魏書曰:公云:「我攻呂布,表不為寇,官渡之役,不救袁紹,此自守之賊也,宜為後圖.譚﹑尚狡猾,當乘其亂.縱譚挾詐,不終束手,使我破尚,偏收其地,利自多矣.」乃許之.

[二] 臣松之案:紹死至此,過周五月耳.譚雖出後其伯,不為紹服三年,而於再朞之內以行吉禮,悖矣.魏武或以權宜與之約言;今云結婚,未必便以此年成禮.

[三] 魏書曰:譚之圍解,陰以將軍印綬假曠.曠受印送之,公曰:「我固知譚之有小計也.欲使我攻尚,得以其閒略民聚眾,尚之破,可得自彊以乘我弊也.尚破我盛,何弊之乘乎?」

九年春正月,濟河,遏淇水入白溝以通糧道.二月,尚復攻譚,留蘇由﹑審配守鄴.公進軍到洹水,由降.旣至,攻鄴,為土山﹑地道.武安長尹楷屯毛城,通上黨糧道.夏四月,留曹洪攻鄴,公自將擊楷,破之而還.尚將沮鵠守邯鄲,[一]又擊拔之.易陽令韓範﹑涉長梁岐擧縣降,賜爵關內侯.五月,毀土山﹑地道,作圍壍,決漳水灌城;城中餓死者過半.秋七月,尚還救鄴,諸將皆以為「此歸師,人自為戰,不如避之.」公曰:「尚從大道來,當避之;若循西山來者,此成禽耳.」尚果循西山來,臨滏水為營.[二]夜遣兵犯圍,公逆擊破走之,遂圍其營.未合,尚懼,故豫州刺史陰夔及陳琳乞降,公不許,為圍益急.尚夜遁,保祁山,追擊之.其將馬延﹑張顗等臨陳降,眾大潰,尚走中山.盡獲其輜重,得尚印綬節鉞,使尚降人示其家,城中崩沮.八月,審配兄子榮夜開所守城東門內兵.配逆戰,敗,生禽配,斬之,鄴定.公臨祀紹墓,哭之流涕;慰勞紹妻,還其家人寶物,賜雜繒絮,廩食之.[三]

[一] 沮音菹,河朔閒今猶有此姓.鵠,沮授子也.

[二] 曹瞞傳曰:遣候者數部前後參之,皆曰「定從西道,已在邯鄲」.公大喜,會諸將曰:「孤已得冀州,諸君知之乎?」皆曰:「不知.」公曰:「諸君方見不久也.」

[三] 孫盛云:昔者先王之為誅賞也,將以懲惡勸善,永彰鑒戒.紹因世艱危,遂懷逆謀,上議神器,下干國紀.薦社汙宅,古之制也,而乃盡哀于逆臣之冢,加恩于饕餮之室,為政之道,於斯躓矣.夫匿怨友人,前哲所恥,税驂舊館,義無虛涕,苟道乖好絕,何哭之有!昔漢高失之於項氏,魏武遵謬於此擧,豈非百慮之一失也.

初,紹與公共起兵,紹問公曰:「若事不輯,則方面何所可據?」公曰:「足下意以為何如?」紹曰:「吾南據河,北阻燕﹑代,兼戎狄之眾,南向以爭天下,庶可以濟乎?」公曰:「吾任天下之智力,以道御之,無所不可.」[一]

[一] 傅子曰:太祖又云:「湯﹑武之王,豈同土哉?若以險固為資,則不能應機而變化也.」

九月,令曰:「河北罹袁氏之難,其令無出今年租賦!」重豪彊兼幷之法,百姓喜悅.[一]天子以公領冀州牧,公讓還兗州.

[一] 魏書載公令曰:「有國有家者,不患寡而患不均,不患貧而患不安.袁氏之治也,使豪彊擅恣,親戚兼幷;下民貧弱,代出租賦,衒鬻家財,不足應命;審配宗族,至乃藏匿罪人,為逋逃主.欲望百姓親附,甲兵彊盛,豈可得邪!其收田租畝四升,戶出絹二匹﹑綿二斤而已,他不得擅興發.郡國守相明檢察之,無令彊民有所隱藏,而弱民兼賦也.」

公之圍鄴也,譚略取甘陵﹑安平﹑勃海﹑河閒.尚敗,還中山.譚攻之,尚奔故安,遂幷其眾.公遺譚書,責以負約,與之絕婚,女還,然後進軍.譚懼,拔平原,走保南皮.十二月,公入平原,略定諸縣.

十年春正月,攻譚,破之,斬譚,誅其妻子,冀州平.[一]下令曰:「其與袁氏同惡者,與之更始.」令民不得復私讎,禁厚葬,皆一之於法.是月,袁熙大將焦觸﹑張南等叛攻熙﹑尚,熙﹑尚奔三郡烏丸.觸等擧其縣降,封為列侯.初討譚時,民亡椎冰,[二]令不得降.頃之,亡民有詣門首者,公謂曰:「聽汝則違令,殺汝則誅首,歸深自藏,無為吏所獲.」民垂泣而去;後竟捕得.

[一] 魏書曰:公攻譚,旦及日中不決;公乃自執桴鼓,士卒咸奮,應時破陷.

[二] 臣松之以為討譚時,川渠冰凍,使民椎冰以通船,民憚役而亡.

夏四月,黑山賊張燕率其眾十餘萬降,封為列侯.故安趙犢﹑霍奴等殺幽州刺史﹑涿郡太守.三郡烏丸攻鮮于輔於獷平.[一]秋八月,公征之,斬犢等,乃渡潞河救獷平,烏丸奔走出塞.

[一] 續漢書郡國志曰:獷平,縣名,屬漁陽郡.

九月,令曰:「阿黨比周,先聖所疾也.聞冀州俗,父子異部,更相毀譽.昔直不疑無兄,世人謂之盜嫂;第五伯魚三娶孤女,謂之撾婦翁;王鳳擅權,谷永比之申伯,王商忠議,張匡謂之左道:此皆以白為黑,欺天罔君者也.吾欲整齊風俗,四者不除,吾以為羞.」冬十月,公還鄴.

初,袁紹以甥高幹領幷州牧,公之拔鄴,幹降,遂以為刺史.幹聞公討烏丸,乃以州叛,執上黨太守,擧兵守壺關口.遣樂進﹑李典擊之,幹還守壺關城.十一年春正月,公征幹.幹聞之,乃留其別將守城,走入匈奴,求救於單于,單于不受.公圍壺關三月,拔之.幹遂走荊州,上洛都尉王琰捕斬之.

秋八月,公東征海賊管承,至淳于,遣樂進﹑李典擊破之,承走入海島.割東海之襄賁﹑剡﹑戚以益琅邪,省昌慮郡.[一]

[一] 魏書載十月乙亥令曰:「夫治世御眾,建立輔弻,誡在面從,詩稱『聽用我謀,庶無大悔』,斯實君臣懇懇之求也.吾充重任,每懼失中,頻年已來,不聞嘉謀,豈吾開延不勤之咎邪?自今以後,諸掾屬﹑治中﹑別駕,常以月旦各名其失,吾將覽焉.」

三郡烏丸承天下亂,破幽州,略有漢民合十餘萬戶.袁紹皆立其酋豪為單于,以家人子為己女,妻焉.遼西單于蹋頓尤彊,為紹所厚,故尚兄弟歸之,數入塞為害.公將征之,鑿渠,自呼入泒水,泒音孤.名平虜渠;又從泃河口泃音句.鑿入潞河,名泉州渠,以通海.

十二年春二月,公自淳于還鄴.丁酉,令曰:「吾起義兵誅暴亂,於今十九年,所征必克,豈吾功哉?乃賢士大夫之力也.天下雖未悉定,吾當要與賢士大夫共定之;而專饗其勞,吾何以安焉!其促定功行封.」於是大封功臣二十餘人,皆為列侯,其餘各以次受封,及復死事之孤,輕重各有差.[一]

[一] 魏書載公令曰:「昔趙奢﹑竇嬰之為將也,受賜千金,一朝散之,故能濟成大功,永世流声.吾讀其文,未嘗不慕其為人也.與諸將士大夫共從戎事,幸賴賢人不愛其謀,羣士不遺其力,是夷險平亂,而吾得竊大賞,戶邑三萬.追思竇嬰散金之義,今分所受租與諸將掾屬及故戍于陳﹑蔡者,庶以疇答眾勞,不擅大惠也.宜差死事之孤,以租穀及之.若年殷用足,租奉畢入,將大與眾人悉共饗之.」

將北征三郡烏丸,諸將皆曰:「袁尚,亡虜耳,夷狄貪而無親,豈能為尚用?今深入征之,劉備必說劉表以襲許.萬一為變,事不可悔.」惟郭嘉策表必不能任備,勸公行.夏五月,至無終.秋七月,大水,傍海道不通,田疇請為鄕導,公從之.引軍出盧龍塞,塞外道絕不通,乃壍山堙谷五百餘里,經白檀,歷平岡,涉鮮卑庭,東指柳城.未至二百里,虜乃知之.尚﹑熙與蹋頓﹑遼西單于樓班﹑右北平單于能臣抵之等將數萬騎逆軍.八月,登白狼山,卒與虜遇,眾甚盛.公車重在後,被甲者少,左右皆懼.公登高,望虜陳不整,乃縱兵擊之,使張遼為先鋒,虜眾大崩,斬蹋頓及名王以下,胡﹑漢降者二十餘萬口.遼東單于速僕丸及遼西﹑北平諸豪,棄其種人,與尚﹑熙奔遼東,眾尚有數千騎.初,遼東太守公孫康恃遠不服.及公破烏丸,或說公遂征之,尚兄弟可禽也.公曰:「吾方使康斬送尚﹑熙首,不煩兵矣.」九月,公引兵自柳城還,[一]康卽斬尚﹑熙及速僕丸等,傳其首.諸將或問:「公還而康斬送尚﹑熙,何也?」公曰:「彼素畏尚等,吾急之則幷力,緩之則自相圖,其勢然也.」十一月至易水,代郡烏丸行單于普富盧﹑上郡烏丸行單于那樓將其名王來賀.

[一] 曹瞞傳曰:時寒且旱,二百里無復水,軍又乏食,殺馬數千匹以為糧,鑿地入三十餘丈乃得水.旣還,科問前諫者,眾莫知其故,人人皆懼.公皆厚賞之,曰:「孤前行,乘危以徼倖,雖得之,天所佐也,故不可以為常.諸君之諫,萬安之計,是以相賞,後勿難言之.」

十三年春正月,公還鄴,作玄武池以肄舟師.肄,以四反.三蒼曰:「肄,習也.」漢罷三公官,置丞相﹑御史大夫.夏六月,以公為丞相.[一]

[一] 獻帝起居注曰:使太常徐璆卽授印綬.御史大夫不領中丞,置長史一人.先賢行狀曰:璆字孟平,廣陵人.少履清爽,立朝正色.歷任城﹑汝南﹑東海三郡,所在化行.被徵當還,為袁術所劫.術僭號,欲授以上公之位,璆終不為屈.術死後,璆得術璽,致之漢朝,拜衞尉﹑太常;公為丞相,以位讓璆焉.

秋七月,公南征劉表.八月,表卒,其子琮代,屯襄陽,劉備屯樊.九月,公到新野,琮遂降,備走夏口.公進軍江陵,下令荊州吏民,與之更始.乃論荊州服從之功,侯者十五人,以劉表大將文聘為江夏太守,使統本兵,引用荊州名士韓嵩﹑鄧義等.[一]益州牧劉璋始受徵役,遣兵給軍.十二月,孫權為備攻合肥.公自江陵征備,至巴丘,遣張熹救合肥.權聞熹至,乃走.公至赤壁,與備戰,不利.於是大疫,吏士多死者,乃引軍還.備遂有荊州﹑江南諸郡.[二]

[一] 衞恆四體書勢序曰:上谷王次仲善隸書,始為楷法.至靈帝好書,世多能者.而師宜官為最,甚矜其能,每書,輒削焚其札.梁鵠乃益為版而飲之酒,候其醉而竊其札,鵠卒以攻書至選部尚書.於是公欲為洛陽令,鵠以為北部尉.鵠後依劉表.及荊州平,公募求鵠,鵠懼,自縛詣門,署軍假司馬,使在祕書,以勤書自效.公嘗縣著帳中,及以釘壁玩之,謂勝宜官.鵠字孟黃,安定人.魏宮殿題署,皆鵠書也.皇甫謐逸士傳曰:汝南王儁,字子文,少為范滂﹑許章所識,與南陽岑晊善.公之為布衣,特愛儁;儁亦稱公有治世之具.及袁紹與弟術喪母,歸葬汝南,儁與公會之,會者三萬人.公於外密語儁曰:「天下將亂,為亂魁者必此二人也.欲濟天下,為百姓請命,不先誅此二子,亂今作矣.」儁曰:「如卿之言,濟天下者,舍卿復誰?」相對而笑.儁為人外靜而內明,不應州郡三府之命.公車徵,不到,避地居武陵,歸儁者一百餘家.帝之都許,復徵為尚書,又不就.劉表見紹彊,陰與紹通,儁謂表曰:「曹公,天下之雄也,必能興霸道,繼桓﹑文之功者也.今乃釋近而就遠,如有一朝之急,遙望漠北之救,不亦難乎!」表不從.儁年六十四,以壽終于武陵,公聞而哀傷.及平荊州,自臨江而迎喪,改葬于江陵,表為先賢也.

[二] 山陽公載記曰:公船艦為備所燒,引軍從華容道步歸,遇泥濘,道不通,天又大風,悉使羸兵負草填之,騎乃得過.羸兵為人馬所蹈藉,陷泥中,死者甚眾.軍旣得出,公大喜,諸將問之,公曰:「劉備,吾儔也.但得計少晚;向使早放火,吾徒無類矣.」備尋亦放火而無所及. 孫盛異同評曰:按吳志,劉備先破公軍,然後權攻合肥,而此記云權先攻合肥,後有赤壁之事.二者不同,吳志為是.

十四年春三月,軍至譙,作輕舟,治水軍.秋七月,自渦入淮,出肥水,軍合肥.辛未,令曰:「自頃已來,軍數征行,或遇疫氣,吏士死亡不歸,家室怨曠,百姓流離,而仁者豈樂之哉?不得已也.其令死者家無基業不能自存者,縣官勿絕廩,長吏存恤撫循,以稱吾意.」置揚州郡縣長吏,開芍陂屯田.十二月,軍還譙.

十五年春,下令曰:「自古受命及中興之君,曷嘗不得賢人君子與之共治天下者乎!及其得賢也,曾不出閭巷,豈幸相遇哉?上之人不求之耳.今天下尚未定,此特求賢之急時也.『孟公綽為趙﹑魏老則優,不可以為滕﹑薛大夫.』若必廉士而後可用,則齊桓其何以霸世!今天下得無有被褐懷玉而釣于渭濱者乎?又得無盜嫂受金而未遇無知者乎?二三子其佐我明揚仄陋,唯才是擧,吾得而用之.」冬,作銅爵臺.[一]

[一] 魏武故事載公十二月己亥令曰:「孤始擧孝廉,年少,自以本非巖穴知名之士,恐為海內人之所見凡愚,欲為一郡守,好作政教,以建名立譽,使世士明知之;故在濟南,始除殘去穢,平心選擧,違迕諸常侍.以為彊豪所忿,恐致家禍,故以病還.去官之後,年紀尚少,顧視同歲中,年有五十,未名為老,內自圖之,從此卻去二十年,待天下清,乃與同歲中始擧者等耳.故以四時歸鄉里,於譙東五十里築精舍,欲秋夏讀書,冬春射獵,求底下之地,欲以泥水自蔽,絕賓客往來之望,然不能得如意.後徵為都尉,遷典軍校尉,意遂更欲為國家討賊立功,欲望封侯作征西將軍,然後題墓道言『漢故征西將軍曹侯之墓』,此其志也.而遭值董卓之難,興擧義兵.是時合兵能多得耳,然常自損,不欲多之;所以然者,多兵意盛,與彊敵爭,倘更為禍始.故汴水之戰數千,後還到揚州更募,亦復不過三千人,此其本志有限也.後領兗州,破降黃巾三十萬眾.又袁術僭號於九江,下皆稱臣,名門曰建號門,衣被皆為天子之制,兩婦預爭為皇后.志計已定,人有勸術使遂卽帝位,露布天下,答言『曹公尚在,未可也』.後孤討禽其四將,獲其人眾,遂使術窮亡解沮,發病而死.及至袁紹據河北,兵勢彊盛,孤自度勢,實不敵之,但計投死為國,以義滅身,足垂於後.幸而破紹,梟其二子.又劉表自以為宗室,包藏姦心,乍前乍卻,以觀世事,據有當州,孤復定之,遂平天下.身為宰相,人臣之貴已極,意望已過矣.今孤言此,若為自大,欲人言盡,故無諱耳.設使國家無有孤,不知當幾人稱帝,幾人稱王.或者人見孤彊盛,又性不信天命之事,恐私心相評,言有不遜之志,妄相忖度,每用耿耿.齊桓﹑晉文所以垂稱至今日者,以其兵勢廣大,猶能奉事周室也.論語云『三分天下有其二,以服事殷,周之德可謂至德矣』,夫能以大事小也.昔樂毅走趙,趙王欲與之圖燕,樂毅伏而垂泣,對曰:『臣事昭王,猶事大王;臣若獲戾,放在他國,沒世然後已,不忍謀趙之徒隸,況燕後嗣乎!』胡亥之殺蒙恬也,恬曰:『自吾先人及至子孫,積信於秦三世矣;今臣將兵三十餘萬,其勢足以背叛,然自知必死而守義者,不敢辱先人之教以忘先王也.』孤每讀此二人書,未嘗不愴然流涕也.孤祖父以至孤身,皆當親重之任,可謂見信者矣,以及子桓兄弟,過於三世矣.孤非徒對諸君說此也,常以語妻妾,皆令深知此意.孤謂之言:『顧我萬年之後,汝曹皆當出嫁,欲令傳道我心,使他人皆知之.』孤此言皆肝鬲之要也.所以勤勤懇懇敘心腹者,見周公有金縢之書以自明,恐人不信之故.然欲孤便爾委捐所典兵眾以還執事,歸就武平侯國,實不可也.何者?誠恐己離兵為人所禍也.旣為子孫計,又己敗則國家傾危,是以不得慕虛名而處實禍,此所不得為也.前朝恩封三子為侯,固辭不受,今更欲受之,非欲復以為榮,欲以為外援,為萬安計.孤聞介推之避晉封.申胥之逃楚賞,未嘗不舍書而歎,有以自省也.奉國威靈,仗鉞征伐,推弱以克彊,處小而禽大,意之所圖,動無違事,心之所慮,何向不濟,遂蕩平天下,不辱主命,可謂天助漢室,非人力也.然封兼四縣,食戶三萬,何德堪之!江湖未靜,不可讓位;至於邑土,可得而辭.今上還陽夏﹑柘﹑苦三縣戶二萬,但食武平萬戶,且以分損謗議,少減孤之責也.」

十六年春正月,[一]天子命公世子丕為五官中郞將,置官屬,為丞相副.太原商曜等以大陵叛,遣夏侯淵﹑徐晃圍破之.張魯據漢中,三月,遣鍾繇討之.公使淵等出河東與繇會.

[一] 魏書曰:庚辰,天子報:減戶五千,分所讓三縣萬五千封三子,植為平原侯,據為范陽侯,豹為饒陽侯,食邑各五千戶.

是時關中諸將疑繇欲自襲,馬超遂與韓遂﹑楊秋﹑李〓﹑成宜等叛.遣曹仁討之.超等屯潼關,公敕諸將:「關西兵精悍,堅壁勿與戰.」秋七月,公西征,[一]與超等夾關而軍.公急持之,而潛遣徐晃﹑朱靈等夜渡蒲阪津,據河西為營.公自潼關北渡,未濟,超赴船急戰.校尉丁斐因放牛馬以餌賊,賊亂取牛馬,公乃得渡,[二]循河為甬道而南.賊退,拒渭口,公乃多設疑兵,潛以舟載兵入渭,為浮橋,夜,分兵結營於渭南.賊夜攻營,伏兵擊破之.超等屯渭南,遣信求割河以西請和,公不許.九月,進軍渡渭.[三]超等數挑戰,又不許;固請割地,求送任子,公用賈詡計,僞許之.韓遂請與公相見,公與遂父同歲孝廉,又與遂同時儕輩,於是交馬語移時,不及軍事,但說京都舊故,拊手歡笑.旣罷,超等問遂:「公何言?」遂曰:「無所言也.」超等疑之.[四]他日,公又與遂書,多所點竄,如遂改定者;超等愈疑遂.公乃與克日會戰,先以輕兵挑之,戰良久,乃縱虎騎夾擊,大破之,斬成宜﹑李堪等.遂﹑超等走涼州,楊秋奔安定,關中平.諸將或問公曰:「初,賊守潼關,渭北道缺,不從河東擊馮翊而反守潼關,引日而後北渡,何也?」公曰:「賊守潼關,若吾入河東,賊必引守諸津,則西河未可渡,吾故盛兵向潼關;賊悉眾南守,西河之備虛,故二將得擅取西河;然後引軍北渡,賊不能與吾爭西河者,以有二將之軍也.連車樹柵,為甬道而南,[五]旣為不可勝,且以示弱.渡渭為堅壘,虜至不出,所以驕之也;故賊不為營壘而求割地.吾順言許之,所以從其意,使自安而不為備,因畜士卒之力,一旦擊之,所謂疾雷不及掩耳,兵之變化,固非一道也.」始,賊每一部到,公輒有喜色.賊破之後,諸將問其故.公答曰:「關中長遠,若賊各依險阻,征之,不一二年不可定也.今皆來集,其眾雖多,莫相歸服,軍無適主,一擧可滅,為功差易,吾是以喜.」

[一] 魏書曰:議者多言「關西兵彊,習長矛,非精選前鋒,則不可以當也」.公謂諸將曰:「戰在我,非在賊也.賊雖習長矛,將使不得以刺,諸君但觀之耳.」

[二] 曹瞞傳曰:公將過河,前隊適渡,超等奄至,公猶坐胡牀不起.張郃等見事急,共引公入船.河水急,比渡,流四五里,超等騎追射之,矢下如雨.諸將見軍敗,不知公所在,皆惶懼,至見,乃悲喜,或流涕.公大笑曰:「今日幾為小賊所困乎!」

[三] 曹瞞傳曰:時公軍每渡渭,輒為超騎所衝突,營不得立,地又多沙,不可築壘.婁子伯說公曰:「今天寒,可起沙為城,以水灌之,可一夜而成.」公從之,乃多作縑囊以運水,夜渡兵作城,比明,城立,由是公軍盡得渡渭. 或疑于時九月,水未應凍.臣松之按魏書:公軍八月至潼關,閏月北渡河,則其年閏八月也,至此容可大寒邪!

[四] 魏書曰:公後日復與遂等會語,諸將曰:「公與虜交語,不宜輕脫,可為木行馬以為防遏.」公然之.賊將見公,悉於馬上拜,秦﹑胡觀者,前後重沓,公笑謂賊曰:「爾欲觀曹公邪?亦猶人也,非有四目兩口,但多智耳!」胡前後大觀.又列鐵騎五千為十重陳,精光耀日,賊益震懼.

[五] 臣松之案:漢高祖二年,與楚戰滎陽京﹑索之閒,築甬道屬河以取敖倉粟.應劭曰:「恐敵鈔輜重,故築垣牆如街巷也.」今魏武不築垣牆,但連車樹柵以扞兩面.

冬十月,軍自長安北征楊秋,圍安定.秋降,復其爵位,使留撫其民人.[一]十二月,自安定還,留夏侯淵屯長安.

[一] 魏略曰:楊秋,黃初中遷討寇將軍,位特進,封臨涇侯,以壽終.

十七年春正月,公還鄴.天子命公贊拜不名,入朝不趨,劍履上殿,如蕭何故事.馬超餘眾梁興等屯藍田,使夏侯淵擊平之.割河內之蕩陰﹑朝歌﹑林慮,東郡之衞國﹑頓丘﹑東武陽﹑發干,鉅鹿之廮陶﹑曲周﹑南和,廣平之任城,趙之襄國﹑邯鄲﹑易陽以益魏郡.

冬十月,公征孫權.

十八年春正月,進軍濡須口,攻破權江西營,獲權都督公孫陽,乃引軍還.詔書幷十四州,復為九州.夏四月,至鄴.

五月丙申,天子使御史大夫郗慮持節策命公為魏公[一]曰:

朕以不德,少遭愍凶,越在西土,遷於唐﹑�s.當此之時,若綴旒然,[二]宗廟乏祀,社稷無位;��凶覬覦,分裂諸夏,率土之民,朕無獲焉,卽我高祖之命將墜於地.朕用夙興假寐,震悼於厥心,曰「惟祖惟父,股肱先正,[三]其孰能恤朕躬」?乃誘天衷,誕育丞相,保乂我皇家,弘濟於艱難,朕實賴之.今將授君典禮,其敬聽朕命.

昔者董卓初興國難,��后釋位以謀王室,[四]君則攝進,首啟戎行,此君之忠於本朝也.後及黃巾反易天常,侵我三州,延及平民,君又翦之以寧東夏,此又君之功也.韓暹﹑楊奉專用威命,君則致討,克黜其難,遂遷許都,造我京畿,設官兆祀,不失舊物,天地鬼神於是獲乂,此又君之功也.袁術僭逆,肆於淮南,懾憚君靈,用丕顯謀,蘄陽之役,橋蕤授首,稜威南邁,術以隕潰,此又君之功也.迴戈東征,呂布就戮,乘轅將返,張楊殂斃,眭固伏罪,張繡稽服,此又君之功也.袁紹逆亂天常,謀危社稷,憑恃其�q,稱兵內侮,當此之時,王師寡弱,天下寒心,莫有固志,君執大節,精貫白日,奮其武怒,運其神策,致屆官渡,大殲醜類,[五]俾我國家拯于危墜,此又君之功也.濟師洪河,拓定四州,袁譚﹑高幹,咸梟其首,海盜奔迸,黑山順軌,此又君之功也.烏丸三種,崇亂二世,袁尚因之,逼據塞北,束馬縣車,一征而滅,此又君之功也.劉表背誕,不供貢職,王師首路,威風先逝,百城八郡,交臂屈膝,此又君之功也.馬超﹑成宜,同惡相濟,濱據河﹑潼,求逞所欲,殄之渭南,獻馘萬計,遂定邊境,撫和戎狄,此又君之功也.鮮卑﹑丁零,重譯而至,(單于)[箄于]﹑白屋,請吏率職,此又君之功也.君有定天下之功,重之以明德,班�u海內,宣美風俗,旁施勤教,恤愼刑獄,吏無苛政,民無懷慝;敦崇帝族,表繼絕世,舊德前功,罔不咸秩;雖伊尹格于皇天,周公光于四海,方之蔑如也.

 朕聞先王並建明德,胙之以土,分之以民,崇其寵章,備其禮物,所以藩�s王室,左右厥世也.其在周成,管﹑蔡不靜,懲難念功,乃使邵康公賜齊太公履,東至於海,西至於河,南至於穆陵,北至於無棣,五侯九伯,實得征之,世祚太師,以表東海;爰及襄王,亦有楚人不供王職,又命晉文登為侯伯,錫以二輅﹑虎賁﹑鈇鉞﹑秬鬯﹑弓矢,大啟南陽,世作盟主.故周室之不壞,繄二國是賴.今君稱丕顯德,明保朕躬,奉答天命,導揚弘烈,緩爰九域,莫不率俾,[六]功高於伊﹑周,而賞卑於齊﹑晉,朕甚恧焉.朕以眇眇之身,託於兆民之上,永思厥艱,若涉淵冰,非君攸濟,朕無任焉.今以冀州之河東﹑河內﹑魏郡﹑趙國﹑中山﹑常山﹑鉅鹿﹑安平﹑甘陵﹑平原凡十郡,封君為魏公.錫君玄土,苴以白茅;爰契爾龜,用建�R社.昔在周室,畢公﹑毛公入為卿佐,周﹑邵師保出為二伯,外內之任,君實宜之,其以丞相領冀州牧如故.又加君九錫,其敬聽朕命.以君經緯禮律,為民軌儀,使安職業,無或遷志,是用錫君大輅﹑戎輅各一,玄牡二駟.君勸分務本,穡人昏作,[七]粟帛滯積,大業惟興,是用錫君袞冕之服,赤舄副焉.君敦尚謙讓,俾民興行,少長有禮,上下咸和,是用錫君軒縣之樂,六佾之舞.君翼宣風化,爰發四方,遠人革面,華夏充實,是用錫君朱戶以居.君研其明哲,思帝所難,官才任賢,��善必擧,是用錫君納陛以登.君秉國之鈞,正色處中,纖毫之惡,靡不抑退,是用錫君虎賁之士三百人.君糾虔天刑,章厥有罪,[八]犯關干紀,莫不誅殛,是用錫君鈇鉞各一.君龍驤虎視,旁眺八維,掩討逆節,折衝四海,是用錫君彤弓一,彤矢百,玈弓十,玈矢千.君以溫恭為基,孝友為德,明允篤誠,感于朕思,是用錫君秬鬯一卣,珪瓚副焉.魏國置丞相已下��卿百寮,皆如漢初諸侯王之制.往欽哉,敬服朕命!簡恤爾�q,時亮庶功,用終爾顯德,對揚我高祖之休命![九]

[一]續漢書曰:慮字鴻豫,山陽高平人.少受業于鄭玄,建安初為侍中.虞溥江表傳曰:獻帝嘗特見慮及少府孔融,問融曰:「鴻豫何所優長?」融曰:「可與適道,未可與權.」慮擧笏曰:「融昔宰北海,政散民流,其權安在也!」遂與融互相長短,以至不睦.公以書和解之.慮從光祿勳遷為大夫.

[二]公羊傳曰:「君若贅旒然.」何休云:「贅猶綴也.旒,旂旒也.以旒譬者,言為下所執持東西也.」

[三]文侯之命曰:「亦惟先正.」鄭玄云:「先正,先臣.謂公卿大夫也.」

[四]左氏傳曰:「諸侯釋位以閒王政.」服虔曰:「言諸侯釋其私政而佐王室.」

[五]詩曰:「致天之屆,于牧之野.」鄭玄云:「屆,極也.」鴻範曰:「鯀則殛死.」

[六]盤庚曰:「綏爰有�q.」鄭玄曰:「爰,於也,安隱於其�q也.」君奭曰:「海隅出日,罔不率俾.」率,循也.俾,使也.四海之隅,日出所照,無不循度而可使也.

[七]盤庚曰:「墮農自安,不昏作勞.」鄭玄云:「昏,勉也.」

[八]「糾虔天刑」語出國語,韋昭注曰:「糾,察也.虔,敬也.刑,法也.」

[九]後漢尚書左丞潘勗之辭也.勗字元茂,陳留中牟人.魏書載公令曰:「夫受九錫,廣開土宇,周公其人也.漢之異姓八王者,與高祖俱起布衣,�u定王業,其功至大,吾何可比之?」前後三讓.於是中軍師(王)陸樹亭侯荀攸﹑前軍師東武亭侯鍾繇﹑左軍師涼茂﹑右軍師毛玠﹑平虜將軍華鄉侯劉勳﹑建武將軍清苑亭侯劉若﹑伏波將軍高安侯夏侯惇﹑揚武將軍都亭侯王忠﹑奮威將軍樂鄉侯劉展﹑建忠將軍昌鄉亭侯鮮于輔﹑奮武將軍安國亭侯程昱﹑太中大夫都鄉侯賈詡﹑軍師祭酒千秋亭侯董昭﹑都亭侯薛洪﹑南鄉亭侯董蒙﹑關內侯王粲﹑傅巽﹑祭酒王選﹑袁渙﹑王朗﹑張承﹑任藩﹑杜襲﹑中護軍國明亭侯曹洪﹑中領軍萬歲亭侯韓浩﹑行驍騎將軍安平亭侯曹仁﹑領護軍將軍王圖﹑長史萬潛﹑謝奐﹑袁霸等勸進曰:「自古三代,胙臣以土,受命中興,封秩輔佐,皆所以襃功賞德,為國藩�s也.往者天下崩亂,��凶豪起,顛越跋扈之險,不可忍言.明公奮身出命以徇其難,誅二袁篡盜之逆,滅黃巾賊亂之類,殄夷首逆,芟撥荒穢,沐浴霜露二十餘年,書契已來,未有若此功者.昔周公承文﹑武之��,受已成之業,高枕墨筆,拱揖��后,商﹑奄之勤,不過二年,呂望因三分有二之形,據八百諸侯之勢,暫把旄鉞,一時指麾,然皆大啟土宇,跨州兼國.周公八子,並為侯伯,白牡騂剛,郊祀天地,典策備物,擬則王室,榮章寵盛如此之弘也.逮至漢興,佐命之臣,張耳﹑吳芮,其功至薄,亦連城開地,南面稱孤.此皆明君達主行之於上,賢臣聖宰受之於下,三代令典,漢帝明制.今比勞則周﹑呂逸,計功則張﹑吳微,論制則齊﹑魯重,言地則長沙多;然則魏國之封,九錫之榮,況於舊賞,猶懷玉而被褐也.且列侯諸將,幸攀龍驥,得竊微勞,佩紫懷黃,蓋以百數,亦將因此傳之萬世,而明公獨辭賞於上,將使其下懷不自安,上違聖朝歡心,下失冠帶至望,忘輔弻之大業,信匹夫之細行,攸等所大懼也.」於是公敕外為章,但受魏郡.攸等復曰:「伏見魏國初封,聖朝發慮,稽謀��寮,然後策命;而明公久違上指,不卽大禮.今旣虔奉詔命,副順�q望,又欲辭多當少,讓九受一,是猶漢朝之賞不行,而攸等之請未許也.昔齊﹑魯之封,奄有東海,疆域井賦,四百萬家,基隆業廣,易以立功,故能成翼戴之勳,立一匡之績.今魏國雖有十郡之名,猶減于曲阜,計其戶數,不能參半,以藩�s王室,立垣樹屏,猶未足也.且聖上覽亡秦無輔之禍,懲曩日震蕩之艱,託建忠賢,廢墜是為,願明公恭承帝命,無或拒違.」公乃受命.魏略載公上書謝曰:「臣蒙先帝厚恩,致位郞署,受性疲怠,意望畢足,非敢希望高位,庶幾顯達.會董卓作亂,義當死難,故敢奮身出命,摧鋒率�q,遂值千載之運,奉役目下.當二袁炎沸侵侮之際,陛下與臣寒心同憂,顧瞻京師,進受猛敵,常恐君臣俱陷虎口,誠不自意能全首領.賴祖宗靈祐,醜類夷滅,得使微臣竊名其閒.陛下加恩,授以上相,封爵寵祿,豐大弘厚,生平之願,實不望也.口與心計,幸且待罪,保持列侯,遺付子孫,自託聖世,永無憂責.不意陛下乃發盛意,開國備錫,以貺愚臣,地比齊﹑魯,禮同藩王,非臣無功所宜膺據.歸情上聞,不蒙聽許,嚴詔切至,誠使臣心俯仰逼迫.伏自惟省,列在大臣,命制王室,身非己有,豈敢自私,遂其愚意,亦將黜退,令就初服.今奉疆土,備數藩翰,非敢遠期,慮有後世;至於父子相誓終身,灰軀盡命,報塞厚恩.天威在顏,悚懼受詔.」

秋七月,始建魏社稷宗廟.天子聘公三女為貴人,少者待年于國.[一]九月,作金虎臺,鑿渠引漳水入白溝以通河.冬十月,分魏郡為東西部,置都尉.十一月,初置尚書﹑侍中﹑六卿.[二]

[一]獻帝起居注曰:使使持節行太常大司農安陽亭侯王邑,齎璧﹑帛﹑玄纁﹑絹五萬匹之鄴納聘,介者五人,皆以議郞行大夫事,副介一人.

[二]魏氏春秋曰:以荀攸為尚書令,涼茂為僕射,毛玠﹑崔琰﹑常林﹑徐奕﹑何夔為尚書,王粲﹑杜襲﹑�s覬﹑和洽為侍中.

馬超在漢陽,復因羌﹑胡為害,氐王千萬叛應超,屯興國.使夏侯淵討之.

十九年春正月,始耕籍田.南安趙衢﹑漢陽尹奉等討超,梟其妻子,超奔漢中.韓遂徙金城,入氐王千萬部,率羌﹑胡萬餘騎與夏侯淵戰,擊,大破之,遂走西平.淵與諸將攻興國,屠之.省安東﹑永陽郡.

安定太守�f丘興將之官,公戒之曰:「羌,胡欲與中國通,自當遣人來,愼勿遣人往.善人難得,必將教羌﹑胡妄有所請求,因欲以自利;不從便為失異俗意,從之則無益事.」興至,遣校尉范陵至羌中,陵果教羌,使自請為屬國都尉.公曰:「吾預知當爾,非聖也,但更事多耳.」[一]

[一]獻帝起居注曰:使行太常事大司農安陽亭侯王邑與宗正劉艾,皆持節,介者五人,齎束帛駟馬,及給事黃門侍郞﹑掖庭丞﹑中常侍二人,迎二貴人于魏公國.二月癸亥,又於魏公宗廟授二貴人印綬.甲子,詣魏公宮延秋門,迎貴人升車.魏遣郞中令﹑少府﹑博士﹑御府乘黃廄令﹑丞相掾屬侍送貴人.癸酉,二貴人至洧倉中,遣侍中丹將冗從虎賁前後駱驛往迎之.乙亥,二貴人入宮,御史大夫﹑中二千石將大夫﹑議郞會殿中,魏國二卿及侍中﹑中郞二人,與漢公卿並升殿宴.

三月,天子使魏公位在諸侯王上,改授金璽,赤紱﹑遠遊冠.[一]

[一]獻帝起居注曰:使左中郞將楊宣﹑亭侯裴茂持節﹑印授之.

秋七月,公征孫權.[一]

[一]九州春秋曰:參軍傅幹諫曰:「治天下之大具有二,文與武也;用武則先威,用文則先德,威德足以相濟,而後王道備矣.往者天下大亂,上下失序,明公用武攘之,十平其九.今未承王命者,吳與蜀也,吳有長江之險,蜀有崇山之阻,難以威服,易以德懷.愚以為可且按甲寢兵,息軍養士,分土定封,論功行賞,若此則內外之心固,有功者勸,而天下知制矣.然後漸興學校,以導其善性而長其義節.公神武震於四海,若脩文以濟之,則普天之下,無思不服矣.今擧十萬之�q,頓之長江之濱,若賊負固深藏,則士馬不能逞其能,奇變無所用其權,則大威有屈而敵心未能服矣.唯明公思虞舜舞干戚之義,全威養德,以道制勝.」公不從,軍遂無功.幹字彥材,北地人,終於丞相倉曹屬.有子曰玄.

初,隴西宋建自稱河首平漢王,聚�q枹罕,改元,置百官,三十餘年.遣夏侯淵自興國討之.冬十月,屠枹罕,斬建,涼州平.

公自合肥還.

十一月,漢皇后伏氏坐昔與父故屯騎校尉完書,云帝以董承被誅怨恨公,辭甚醜惡,發聞,后廢黜死,兄弟皆伏法.[一]

[一]曹瞞傳曰:公遣華歆勒兵入宮收后,后閉戶匿壁中.歆壞戶發壁,牽后出.帝時與御史大夫郗慮坐,后被髮徒跣過,執帝手曰:「不能復相活邪?」帝曰:「我亦不自知命在何時也.」帝謂慮曰:「郗公,天下寧有是邪!」遂將后殺之,完及宗族死者數百人.

十二月,公至孟津.天子命公置旄頭,宮殿設鍾虡.乙未,令曰:「夫有行之士未必能進取,進取之士未必能有行也.陳平豈篤行,蘇秦豈守信邪?而陳平定漢業,蘇秦濟弱燕.由此言之,士有偏短,庸可廢乎!有司明思此義,則士無遺滯,官無廢業矣.」又曰:「夫刑,百姓之命也,而軍中典獄者或非其人,而任以三軍死生之事,吾甚懼之.其選明達法理者,使持典刑.」於是置理曹掾屬.

二十年春正月,天子立公中女為皇后.省雲中﹑定襄﹑五原﹑朔方郡,郡置一縣領其民,合以為新興郡.

三月,公西征張魯,至陳倉,將自武都入氐;氐人塞道,先遣張郃﹑朱靈等攻破之.夏四月,公自陳倉以出散關,至河池.氐王竇茂�q萬餘人,恃險不服,五月,公攻屠之.西平﹑金城諸將麴演﹑蔣石等共斬送韓遂首.[一]秋七月,公至陽平.張魯使弟�s與將楊昂等據陽平關,橫山築城十餘里,攻之不能拔,乃引軍還.賊見大軍退,其守備解散.公乃密遣解��﹑高祚等乘險夜襲,大破之,斬其將楊任,進攻�s,�s等夜遁,魯潰奔巴中.公軍入南鄭,盡得魯府庫珍寶.[二]巴﹑漢皆降.復漢寧郡為漢中;分漢中之安陽﹑西城為西城郡,置太守;分錫﹑上庸郡,置都尉.

[一]典略曰:遂字文約,始與同郡邊章俱著名西州.章為督軍從事.遂奉計詣京師,何進宿聞其名,特與相見,遂說進使誅諸閹人,進不從,乃求歸.會涼州宋揚﹑北宮玉等反,擧章﹑遂為主,章尋病卒,遂為揚等所劫,不得已,遂阻兵為亂,積三十二年,至是乃死,年七十餘矣.劉艾靈帝紀曰:章,一名(元)[允].

[二]魏書曰:軍自武都山行千里,升降險阻,軍人勞苦;公於是大饗,莫不忘其勞.

八月,孫權圍合肥,張遼﹑李典擊破之.

九月,巴七姓夷王朴胡﹑賨邑侯杜濩擧巴夷﹑賨民來附,[一]於是分巴郡,以胡為巴東太守,濩為巴西太守,皆封列侯.天子命公承制封拜諸侯守相.[二]

[一]孫盛曰:朴音浮.濩音戶.

[二]孔衍漢魏春秋曰:天子以公典任於外,臨事之賞,或宜速疾,乃命公得承制封拜諸侯守相,詔曰:「夫軍之大事,在茲賞罰,勸善懲惡,宜不旋時,故司馬法曰『賞不逾日』者,欲民速��為善之利也.昔在中興,鄧禹入關,承制拜軍祭酒李文為河東太守,來歙又承制拜高峻為通路將軍,察其本傳,皆非先請,明臨事刻印也,斯則世祖神明,權達損益,蓋所用速示威懷而著鴻勳也.其春秋之義,大夫出疆,有專命之事,苟所以利社稷安國家而已.況君秉任二伯,師尹九有,實征夷夏,軍行藩甸之外,失得在於斯須之閒,停賞俟詔以滯世務,固非朕之所圖也.自今已後,臨事所甄,當加寵號者,其便刻印章假授,咸使忠義得相��勵,勿有疑焉.」

冬十月,始置名號侯至五大夫,與舊列侯﹑關內侯凡六等,以賞軍功.[一]

[一]魏書曰:置名號侯爵十八級,關中侯爵十七級,皆金印紫綬;又置關內外侯十六級,銅印龜紐墨綬;五大夫十五級,銅印環紐,亦墨綬,皆不食租,與舊列侯關內侯凡六等.臣松之以為今之虛封蓋自此始.

十一月,魯自巴中將其餘�q降.封魯及五子皆為列侯.劉備襲劉璋,取益州,遂據巴中;遣張郃擊之.

十二月,公自南鄭還,留夏侯淵屯漢中.[一]

[一]是行也,侍中王粲作五言詩以美其事曰:「從軍有苦樂,但問所從誰.所從神且武,安得久勞師?相公征關右,赫怒振天威,一擧滅獯虜,再擧服羌夷,西收邊地賊,忽若俯拾遺.陳賞越山嶽,酒肉踰川坻,軍中多饒飫,人馬皆溢肥,徒行兼乘還,空出有餘資.拓土三千里,往反速如飛,歌舞入鄴城,所願獲無違.」

二十一年春二月,公還鄴.[一]三月壬寅,公親耕籍田.[二]夏五月,天子進公爵為魏王.[三]代郡烏丸行單于普富盧與其侯王來朝.天子命王女為公主,食湯沐邑.秋七月,匈奴南單于呼廚泉將其名王來朝,待以客禮,遂留魏,使右賢王去卑監其國.八月,以大理鍾繇為相國.[四]

[一]魏書曰:辛未,有司以太牢吿至,策勳于廟,甲午始春祠,令曰:「議者以為祠廟上殿當解履.吾受錫命,帶劍不解履上殿.今有事於廟而解履,是尊先公而替王命,敬父祖而簡君主,故吾不敢解履上殿也.又臨祭就洗,以手擬水而不盥.夫盥以潔為敬,未聞擬(向)[而]不盥之禮,且『祭神如神在』,故吾親受水而盥也.又降神禮訖,下階就幕而立,須奏樂畢竟,似若不(愆)[衎]烈祖,遲祭(不)速訖也,故吾坐俟樂闋送神乃起也.受胙納(神)[袖],以授侍中,此為敬恭不終實也,古者親執祭事,故吾親納于(神)[袖],終抱而歸也.仲尼曰『雖違�q,吾從下』,誠哉斯言也.」

[二]魏書曰:有司奏:「四時講武於農隙.漢承秦制,三時不講,唯十月都試車馬,幸長水南門,會五營士為八陳進退,名曰乘之.今金革未偃,士民素習,自今已後,可無四時講武,但以立秋擇吉日大朝車騎,號曰治兵,上合禮名,下承漢制.」奏可.

[三]獻帝傳載詔曰:「自古帝王,雖號稱相變,爵等不同,至乎襃崇元勳,建立功德,光啟氏姓,延於子孫,庶姓之與親,豈有殊焉.昔我聖祖受命,�u業肇基,造我區夏,鑒古今之制,通爵等之差,盡封山川以立藩屏,使異姓親戚,並列土地,據國而王,所以保乂天命,安固萬嗣.歷世承平,臣主無事.世祖中興而時有難易,是以曠年數百,無異姓諸侯王之位.朕以不德,繼序弘業,遭率土分崩,��兇縱毒,自西徂東,辛苦卑約.當此之際,唯恐溺入于難,以羞先帝之聖德.賴皇天之靈,俾君秉義奮身,震迅神武,捍朕于艱難,獲保宗廟,華夏遺民,含氣之倫,莫不蒙焉.君勤過稷﹑禹,忠侔伊﹑周,而掩之以謙讓,守之以彌恭,是以往者初開魏國,錫君土宇,懼君之違命,慮君之固辭,故且懷志屈意,封君為上公,欲以欽順高義,須俟勳績.韓遂﹑宋建,南結巴﹑蜀,��逆合從,圖危社稷,君復命將,龍驤虎奮,梟其元首,屠其窟栖.暨至西征,陽平之役,親擐甲冑,深入險阻,芟夷蝥賊,殄其兇醜,盪定西陲,懸旌萬里,聲教遠振,寧我區夏.蓋唐﹑虞之盛,三后樹功,文﹑武之興,旦﹑奭作輔,二祖成業,英豪佐命;夫以聖哲之君,事為己任,猶錫土班瑞以報功臣,豈有如朕寡德,仗君以濟,而賞典不豐,將何以答神祇慰萬方哉?今進君爵為魏王,使使持節行御史大夫﹑宗正劉艾奉策璽玄土之社,苴以白茅,金虎符第一至第五,竹使符第一至十.君其正王位,以丞相領冀州牧如故.其上魏公璽綬符冊.敬服朕命,簡恤爾�q,克綏庶績,以揚我祖宗之休命.」魏王上書三辭,詔三報不許.又手詔曰:「大聖以功德為高美,以忠和為典訓,故�u業垂名,使百世可希,行道制義,使力行可效,是以勳烈無窮,休光茂著.稷﹑契載元首之聰明,周﹑邵因文﹑武之智用,雖經營庶官,仰歎俯思,其對豈有若君者哉?朕惟古人之功,美之如彼,思君忠勤之績,茂之如此,是以每將鏤符析瑞,陳禮命冊,寤寐慨然,自忘守文之不德焉.今君重違朕命,固辭懇切,非所以稱朕心而訓後世也.其抑志撙節,勿復固辭.」四體書勢序曰:梁鵠以公為北部尉.曹瞞傳曰:為尚書右丞司馬建公所擧.及公為王,召建公到鄴,與歡飲,謂建公曰:「孤今日可復作尉否?」建公曰:「昔擧大王時,適可作尉耳.」王大笑.建公名防,司馬宣王之父.臣松之案司馬彪序傳,建公不為右丞,疑此不然,而王隱晉書云趙王篡位,欲尊祖為帝,博士馬平議稱京兆府君昔擧魏武帝為北部尉,賊不犯界,如此則為有徵.

[四]魏書曰:始置奉常宗正官.

冬十月,治兵,[一]遂征孫權,十一月至譙.

[一]魏書曰:王親執金鼓以令進退.

二十二年春正月,王軍居巢,二月,進軍屯江西郝谿.權在濡須口築城拒守,遂逼攻之,權退走.三月,王引軍還,留夏侯惇﹑曹仁﹑張遼等屯居巢.

夏四月,天子命王設天子旌旗,出入稱警蹕.五月,作泮宮.六月,以軍師華歆為御史大夫.[一]冬十月,天子命王冕十有二旒,乘金根車,駕六馬,設五時副車,以五官中郞將丕為魏太子.

[一]魏書曰:初置�s尉官.秋八月,令曰:「昔伊摯﹑傅說出於賤人,管仲,桓公賊也,皆用之以興.蕭何﹑曹參,縣吏也,韓﹑陳平負汙辱之名,有見笑之恥,卒能成就王業,聲著千載.吳起貪將,殺妻自信,散金求官,母死不歸,然在魏,奏人不敢東向,在楚則三晉不敢南謀.今天下得無有至德之人放在民閒,及果勇不顧,臨敵力戰;若文俗之吏,高才異質,或堪為將守;負汙辱之名,見笑之行,或不仁不孝而有治國用兵之術:其各擧所知,勿有所遺.」

劉備遣張飛﹑馬超﹑吳蘭等屯下辯;遣曹洪拒之.

二十三年春正月,漢太醫令吉本與少府耿紀﹑司直韋晃等反,攻許,燒丞相長史王必營,[一]必與潁川典農中郞將嚴匡討斬之.[二]

[一]魏武故事載令曰:「領長史王必,是吾披荊棘時吏也.忠能勤事,心如鐵石,國之良吏也.蹉跌久未辟之,捨騏驥而弗乘,焉遑遑而更求哉?故教辟之,已署所宜,便以領長史統事如故.」

[二]三輔決錄注曰:時有京兆金禕字德禕,自以世為漢臣,自日磾討莽何羅,忠誠顯著,名節累葉.��漢祚將移,謂可季興,乃喟然發憤,遂與耿紀﹑韋晃﹑吉本﹑本子邈﹑邈弟穆等結謀.紀字季行,少有美名,為丞相掾,王甚敬異之,遷侍中,守少府.邈字文然,穆字思然,以禕慷慨有日磾之風,又與王必善,因以閒之,若殺必,欲挾天子以攻魏,南援劉備.時關羽彊盛,而王在鄴,留必典兵督許中事.文然等率雜人及家僮千餘人夜燒門攻必,禕遣人為內應,射必中肩.必不知攻者為誰,以素與禕善,走投禕,夜喚德禕,禕家不知是必,謂為文然等,錯應曰:「王長史已死乎?卿曹事立矣!」必乃更他路奔.一曰:必欲投禕,其帳下督謂必曰:「今日事竟知誰門而投入乎?」扶必奔南城.會天明,必猶在,文然等�q散,故敗.後十餘日,必竟以創死.獻帝春秋曰:收紀﹑晃等,將斬之,紀呼魏王名曰:「恨吾不自生意,竟為��兒所誤耳!」晃頓首搏頰,以至於死.山陽公載記曰:王聞王必死,盛怒,召漢百官詣鄴,令救火者左,不救火者右.�q人以為救火者必無罪,皆附左;王以為「不救火者非助亂,救火乃實賊也」.皆殺之.

曹洪破吳蘭,斬其將任夔等.三月,張飛﹑馬超走漢中,陰平氐強端斬吳蘭,傳其首.

夏四月,代郡﹑上谷烏丸無臣氐等叛,遣鄢陵侯彰討破之.[一]

[一]魏書載王令曰:「去冬天降疫癘,民有凋傷,軍興於外,墾田損少,吾甚憂之.其令吏民男女:女年七十已上無夫子,若年十二已下無父母兄弟,及目無所見,手不能作,足不能行,而無妻子父兄產業者,廩食終身.幼者至十二止,貧窮不能自贍者,隨口給貸.老耄須待養者,年九十已上,復不事,家一人.」

六月,令曰:「古之葬者,必居瘠薄之地.其規西門豹祠西原上為壽陵,因高為基,不封不樹.周禮�R人掌公墓之地,凡諸侯居左右以前,卿大夫居後,漢制亦謂之陪陵.其公卿大臣列將有功者,宜陪壽陵,其廣為兆域,使足相容.」

秋七月,治兵,遂西征劉備,九月,至長安.

冬十月,宛守將侯音等反,執南陽太守,劫略吏民,保宛.初,曹仁討關羽,屯樊城,是月使仁圍宛.

二十四年春正月,仁屠宛,斬音.[一]

[一]曹瞞傳曰:是時南陽閒苦繇役,音於是執太守(東里�U)[東里袞],與吏民共反,與關羽連和.南陽功曹宗子卿往說音曰:「足下順民心,擧大事,遠近莫不望風;然執郡將,逆而無益,何不遣之.吾與子共�e力,比曹公軍來,關羽兵亦至矣.」音從之,卽釋遣太守.子卿因夜踰城亡出,遂與太守收餘民圍音,會曹仁軍至,共滅之.

夏侯淵與劉備戰於陽平,為備所殺.三月,王自長安出斜谷,軍遮要以臨漢中,遂至陽平.備因險拒守.[一]

[一]九州春秋曰:時王欲還,出令曰「雞肋」,官屬不知所謂.主簿楊脩便自嚴裝,人驚問脩:「何以知之?」脩曰:「夫雞肋,棄之如可惜,食之無所得,以比漢中,知王欲還也.」

夏五月,引軍還長安.

秋七月,以夫人卞氏為王后.遣于禁助曹仁擊關羽.八月,漢水溢,灌禁軍,軍沒,羽獲禁,遂圍仁.使徐晃救之.

九月,相國鍾繇坐西曹掾魏諷反免.[一]

[一]世語曰:諷字子京,沛人,有惑�q才,傾動鄴都,鍾繇由是辟焉.大軍未反,諷潛結徒黨,又與長樂�s尉陳禕謀襲鄴.未及期,禕懼,吿之太子,誅諷,坐死者數十人.王昶家誡曰「濟陰魏諷」,而此云沛人,未詳.

冬十月,軍還洛陽.[一]孫權遣使上書,以討關羽自效.王自洛陽南征羽,未至,晃攻羽,破之,羽走,仁圍解.王軍摩陂.[二]

[一]曹瞞傳曰:王更脩治北部尉廨,令過于舊.

[二]魏略曰:孫權上書稱臣,稱說天命.王以權書示外曰:「是兒欲踞吾著爐火上邪!」侍中陳��﹑尚書桓階奏曰:「漢自安帝已來,政去公室,國統數絕,至於今者,唯有名號,尺土一民,皆非漢有,期運久已盡,曆數久已終,非適今日也.是以桓﹑靈之閒,諸明圖緯者,皆言『漢行氣盡,黃家當興』.殿下應期,十分天下而有其九,以服事漢,��生注望,,遐邇怨歎,是故孫權在遠稱臣,此天人之應,異氣齊聲.臣愚以為虞﹑夏不以謙辭,殷﹑周不吝誅放,畏天知命,無所與讓也.」魏氏春秋曰:夏侯惇謂王曰:「天下咸知漢祚已盡,異代方起.自古已來,能除民害為百姓所歸者,卽民主也.今殿下卽戎三十餘年,功德著於黎庶,為天下所依歸,應天順民,復何疑哉!」王曰:「『施于有政,是亦為政』.若天命在吾,吾為周文王矣.」曹瞞傳及世語並云桓階勸王正位,夏侯惇以為宜先滅蜀,蜀亡則吳服,二方旣定,然後遵舜﹑禹之軌,王從之.及至王薨,惇追恨前言,發病卒.孫盛評曰:夏侯惇恥為漢官,求受魏印,桓階方惇,有義直之節;考其傳記,世語為妄矣.

二十五年春正月,至洛陽.權擊斬羽,傳其首.

庚子,王崩于洛陽,年六十六.[一]遺令曰:「天下尚未安定,未得遵古也.葬畢,皆除服.其將兵屯戍者,皆不得離屯部.有司各率乃職.斂以時服,無藏金玉珍寶.」諡曰武王.二月丁卯,葬高陵.[二]

[一]世語曰:太祖自漢中至洛陽,起建始殿,伐濯龍祠而樹血出.曹瞞傳曰:王使工蘇越徙美梨,掘之,根傷盡出血.越白狀,王躬自視而惡之,以為不祥,還遂寢疾.

[二]魏書曰:太祖自統御海內,芟夷��醜,其行軍用師,大較依孫﹑吳之法,而因事設奇,譎敵制勝,變化如神.自作兵書十萬餘言,諸將征伐,皆以新書從事.臨事又手為節度,從令者克捷,違教者負敗.與虜對陳,意思安閒,如不欲戰,然及至決機乘勝,氣勢盈溢,故每戰必克,軍無幸勝.知人善察,難眩以偽,拔于禁﹑樂進於行陳之閒,取張遼﹑徐晃於亡虜之內,皆佐命立功,列為名將;其餘拔出細微,登為牧守者,不可勝數.是以�u造大業,文武並施,御軍三十餘年,手不捨書,晝則講武策,夜則思經傳,登高必賦,及造新詩,被之管絃,皆成樂章.才力絕人,手射飛鳥,躬禽猛獸,嘗于南皮一日射雉獲六十三頭.及造作宮室,繕治器械,無不為之法則,皆盡其意.雅性節儉,不好華麗,後宮衣不錦繡,侍御履不二采,帷帳屏風,壞則補納,茵蓐取溫,無有緣飾.攻城拔邑,得美麗之物,則悉以賜有功,勳勞宜賞,不吝千金,無功望施,分毫不與,四方獻御,與��下共之.常以送終之制,襲稱之數,繁而無益,俗又過之,故預自制終亡衣服,四篋而已.傅子曰:太祖愍嫁取之奢僭,公女適人,皆以皁帳,從婢不過十人.張華博物志曰:漢世,安平崔瑗﹑瑗子寔﹑弘農張芝﹑芝弟昶並善草書,而太祖亞之.桓譚﹑蔡邕善音樂,馮翊山子道﹑王九眞﹑郭凱等善圍��,太祖皆與埒能.又好養性法,亦解方藥,招引方術之士,廬江左慈﹑譙郡華佗﹑甘陵甘始﹑陽城��儉無不畢至,又習啖野葛至一尺,亦得少多飲鴆酒.傅子曰:漢末王公,多委王服,以幅巾為雅,是以袁紹﹑(崔豹)[崔鈞]之徒,雖為將帥,皆著縑巾.魏太祖以天下凶荒,資財乏匱,擬古皮辨●,裁縑帛以為帢,合于簡易隨時之義,以色別其貴賤,于今施行,可謂軍容,非國容也.曹瞞傳曰:太祖為人佻易無威重,好音樂,倡優在側,常以日達夕.被服輕綃,身自佩小鞶囊,以盛手巾細物,時或冠帢帽以見賓客.每與人談論,戲弄言誦,盡無所隱,及歡悅大笑,至以頭沒杯案中,肴膳皆沾汙巾幘,其輕易如此.然持法峻刻,諸將有計畫勝出己者,隨以法誅之,及故人舊怨,亦皆無餘.其所刑殺,輒對之垂涕嗟痛之,終無所活.初,袁忠為沛相,嘗欲以法治太祖,沛國桓邵亦輕之,及在兗州,陳留邊讓言議頗侵太祖,太祖殺讓,族其家,忠﹑邵俱避難交州,太祖遣使就太守士燮盡族之.桓邵得出首,拜謝於庭中,太祖謂曰:「跪可解死邪!」遂殺之.常出軍,行經麥中,令「士卒無敗麥,犯者死」.騎士皆下馬,付麥以相持,於是太祖馬騰入麥中,��主簿議罪;主簿對以春秋之義,罰不加於尊.太祖曰:「制法而自犯之,何以帥下?然孤為軍帥,不可自殺,請自刑.」因援劍割髮以置地.又有幸姬常從晝寢,枕之臥,吿之曰:「須臾覺我.」姬見太祖臥安,未卽寤,及自覺,棒殺之.常討賊,廩穀不足,私謂主者曰:「如何?」主者曰:「可以小斛以足之.」太祖曰:「善.」後軍中言太祖欺�q,太祖謂主者曰:「特當借君死以厭�q,不然事不解.」乃斬之,取首題徇曰:「行小斛,盜官穀,斬之軍門.」其酷虐變詐,皆此類也.