利用許諾契約書

このurlで示される文書はGFDLに基づいて利用することができます(GFDL日本語訳)。ただしこの利用許諾契約書そのものは改変できません。

原著作者:【むじん書院】

郭嘉伝

郭嘉奉孝といい、潁川陽翟の人である。[一]最初、北方へ行って袁紹に拝謁したが、袁紹の謀臣辛評・郭図に「そもそも智者ならばとっくりと主君を観察するものです。そうしてこそ百の行為が百の成功を生み、功名を立てることができるのです。袁公(袁紹)はただ士人にへりくだった周公の真似事がしたいだけで、用人の機微をご存じない。仕事を始めることが多いのに要点を押さえていることは少なく、謀略を好むのに決断することはありません。一緒に天下の大困難を解決し、霸王の事業を完成させようと思っても、難しいでしょうな!」と告げ、そのまま立ち去った。それ以前のこと、潁川の戯志才籌画の士であって、太祖曹操)ははなはだ彼を立派に思っていたが、早くに卒去した。太祖は荀彧に手紙を送って言った。「戯志才が亡くなって以後、一緒に計画を立ててくれる者がおらんでのう。汝(南)・潁(川)にはもともと奇才が多いのだが、どの人物ならば彼のあとを継がせられるだろうか?」荀彧が郭嘉を推薦したので、召し寄せて天下のことを議論してみて、太祖は言った。「に大事業を完成させてくれるのは、きっとこの人物だよ。」郭嘉も退出して、やはり喜んで、「真実、吾がご主君だ」と言った。(太祖は)上表して司空軍祭酒とした。[二]

[一] 『傅子』に言う。郭嘉は若いころから遠大な計略を持っていた。漢代末期、天下が混乱しようとしていたので、弱冠のころより足跡をくらましつつ、密かに英俊と交わりを結び、俗世間の付き合いには関わらなかった。そのため当時の人々はほとんど彼のことを知らず、ただ達見ある者だけが彼を奇才であるとしていた。二十七歳のとき司徒(役所)に招かれた。

[二] 『傅子』に言う。太祖が郭嘉に言った。「本初(袁紹)は冀州の軍勢を擁し、青州・幷州が彼に従い、土地は広くて軍兵も強い。それがしばしば不遜を働いておる。はこれを討伐しようと思うのだが、力では敵わない。どうだろう?」答えて言った。「劉(邦)・項(羽)が対等でなかったことは、公もご存じでしょう。漢祖(劉邦)はひたすら智慧によって勝利し、項羽は強力であったとはいえ、結局は捕虜になったのです。郭嘉が密かに思料いたしまするに、袁紹には十の敗北があり、公には十の勝利がありますゆえ、軍兵が強くとも手出しはできないのでございます。袁紹は礼法にうるさく儀式も多いのですが、公はあるがままに任せて自然です。これは道による第一の勝利です。袁紹は逆心に基づいて行動しておりますが、公は正義を奉って天下を率いておられます。これは義による第二の勝利です。漢末の失政は寛容さのせいでありましたが、袁紹は寛容さによって寛容さを克服しようとしておりますので、威厳がございませんが、公はそれを糾すのに猛威を用いておられますので、上下ともによく制御されております。これは治による第三の勝利です。袁紹は外見が寛容に見えても内実は猜疑を抱え、人物を任用しながらその人を疑い、信任されているのはただ親戚の子弟だけでありますが、公は外見が簡略に見えても内実は機微に明るく、人物を任用するにも疑うことはなく、ただ才能だけを根拠とし、遠近によって差別されません。これは度による第四の勝利です。袁紹は謀略を立てることが多いものの決断することは少なく、失敗するのは(いつも)後手を打ったのが原因ですが、公は策略が立てばすぐさま実行され、変化に応じて行き詰まることもございません。これは謀による第五の勝利です。袁紹は代々にわたる資産を抱え、高尚な議論と謙譲とで名誉を手にし、士人のうちでも口達者で上辺ばかりを飾る者が多数、彼に従っておりますが、公は丹誠を込めて人物を待遇し、真心を貫いて行動し、虚栄を働かず、うやうやしい態度でもって部下を率先し、功績を立てた者には惜しみなく与え、士人のうちでも忠義公正で高い見識を持った信実の人はみな、お役に立ちたいと願っております。これは徳による第六の勝利です。袁紹は他人が飢えたり凍えたりしているのを見ると、同情の気持ちを顔色に現しますが、彼から見えない部分では配慮が及ばないことがあり、いわゆる婦人の仁というものでしかございませんが、公は目前のささいな事柄ならばすぐお忘れになり、大きな事柄ならば四海まで達し、お与えになる恩寵はみな相手の望んだ以上でして、ご自身では見えない部分でも配慮が行き届き、取り上げなかったことはございません。これは仁による第七の勝利です。袁紹は大臣どもが権力を争い、讒言によって混乱をきたしておりますが、公は道義によって部下を統御され、(讒言の)浸透することはございません。これは明による第八の勝利です。袁紹は善悪を見ても対処することはありませんが、公は善と思われることを礼によって推進し、善と思われないことを法によって更正されます。これは文による第九の勝利です。袁紹は虚勢を張ることを好んで兵法の精髄を理解しておりませんが、公は少数でもって多数に打ち勝ち、用兵は神のごとく、軍中ではそれを信頼し、敵人はそれを畏怖しております。これは武による第十の勝利です。」太祖は笑いながら言った。「のお言葉に対して、孤はどんな徳を積めば釣り合うだろうか!」郭嘉はさらに言った。「袁紹は北進して公孫瓚を攻撃しようとしておりますゆえ、その遠征を利用し、東進して呂布を攻略するのがよろしゅうございます。最初に呂布を攻略しておかねば、もし袁紹が侵攻してきたとき、呂布がそれを支援いたしましょう。これは深刻な被害となります。」太祖は言った。「もっともだ。」

呂布を征討して三たびの戦いで打ち破ると、呂布は引き下がって守りを固めた。このとき士卒は疲れ果てていたので、太祖は軍をまとめて引き揚げようとしたが、郭嘉が厳しく攻め立てよと太祖を説得し、その結果、呂布を生け捕りにすることができた。記載は『荀攸伝』にある。[一]

[一] 『傅子』に言う。太祖が軍をまとめて引き揚げようとしたとき、郭嘉は言った。「むかし項籍(項羽)は七十度余りの戦いで一度も負けたことがなかったのに、一たび勢いを失うと身は死んで国は亡びました。それは武勇を当てにして計略を持たなかったからなのです。いま呂布は戦いのたびに破れ、気は衰えて力も尽き、内外ともに支えを失っております。呂布の威力は項籍ほどでなく、そのうえ彼以上に困窮しているのですから、もし勝利に乗じて攻撃をかければ、生け捕りにすることができましょう。」太祖は言った。「素晴らしい。」 『魏書』に言う。劉備が逃げ込んで来ると、(太祖は彼を)予州にしてやった。ある人が太祖に言った。「劉備は英雄の志を抱いており、いま早急に手を打たなければ、のちのち必ずや悩みの種となりましょうぞ。」太祖がそれを郭嘉に問うと、郭嘉は言った。「その通りでございます。しかしながら、公は剣を提げて義兵を起こし、百姓たちのために暴虐を取り除こうとして、誠心を貫き、信実に基づいて俊傑を招いておられますが、それでもまだ足りない恐れがございます。ただいま劉備には英雄としての名声があり、逼迫して我らに身を寄せてきたのですから、彼を殺せば、それは賢者に危害を加えたと言い表されることになります。さすれば智士は疑いを持ち、心変わりして主君を選びなおすことになりましょう。公はだれと天下をお定めになりますか?そもそも一人の厄介者を取り除いたがために四海の名望を失っては、安危の(分かれ目の)引き金となります。ご賢察いただかぬわけには参りませんぞ!」太祖は笑いながら言った。「君はよう心得ておるな。」 『傅子』に言う。かつて劉備が降服して来たとき、太祖は賓客の礼でもって待遇し、予州牧にさせてやった。郭嘉は太祖に言上した。「劉備は英雄としての才覚を持ち、はなはだ民衆の心をつかんでおりますし、張飛・関羽はいずれも万人之敵ですが、彼のために生命を抛って仕えております。郭嘉の観察したところ、劉備は結局、他人の下風に立つことはなく、その心中は測りかねます。古人の言葉に『一日、敵を自由にしてやれば、数代にわたる患いとなる』とあります。早急に対処なされませ。」このとき太祖は、天子を奉じて天下に号令し、英雄を懐中に納めて大いなる信義を明らかにしようとしていたので、郭嘉の考えに従うことができなかった。そのころ太祖は劉備を出して袁術を迎撃させようとしていたが、郭嘉は程昱と同乗して馬車で駆け付け、太祖を諫めた。「劉備を放てば変事が起こりまするぞ!」このとき劉備はすでに立ち去っており、そのまま軍勢を挙げて叛逆した。太祖は郭嘉の言葉を採用しなかったことを後悔した。 『魏書』の言っていることを検証すると、『傅子』とは正反対である。

孫策は千里にわたって転戦し、江東長江東岸)を残らず領有していて、太祖と袁紹とが官渡において対峙していると聞くや、長江を渡って北上し、を襲撃せんと企てた。人々は報告を受けてみな恐怖に陥ったが、郭嘉は彼のことを思料して言った。「孫策は江東を併合したばかりで、誅殺したのはみな、他人に死力を尽くさせる英雄豪傑ばかりであった。それなのに孫策は、軽率にも警備を置いておらぬゆえ、百万の軍勢を抱えておっても、ただ独りで中原を行くのと変わりがない。陰から飛び出した刺客にとってみれば、一人を相手にすれば済むのだ。吾の観察したところに拠れば、きっと匹夫の手にかかり死ぬであろう。」孫策は長江を目前にして、まだ渡らぬうち、果たして許貢の食客に殺されたのであった。[一]

[一] 『傅子』に言う。太祖はなるたけ早く劉備を征伐したいと考えていたが、議論する者たちは、軍が出動すれば袁紹が背後を襲撃するであろうから、進んでも戦うことができず、退いても拠り所がなくなってしまうだろうと懸念した。記載は『武帝紀』にある。太祖が迷いを起こして、それを郭嘉に訊ねたところ、郭嘉は太祖にこう勧めた。「袁紹の人柄はのろまで迷いが多く、来襲するとしてもきっと速くはありません。劉備はいま立ち上がったばかりで、人々の心もまだ懐いておらず、早急に攻撃すれば必ず打ち破ることができます。これこそ存亡の契機、失ってはなりませぬぞ。」太祖は言った。「素晴らしい。」かくて東行して劉備を征討した。劉備は敗北して袁紹の元へ逃げ込んだが、袁紹は案の定、出てこなかった。 裴松之が『武帝紀』を調べてみると、劉備征討の計画を決断し、袁紹が出てこないと推量したのは、いずれも太祖の発案とされている。ここでは郭嘉の計略を採用したと述べているが、不同があるということになる。また、本伝ではもとより郭嘉が、孫策は軽佻(軽はずみ)であるゆえ、きっと匹夫の手にかかり死ぬであろうと思料した、と述べており、まこと事実認識に聡明であったと言えよう。しかしながら、上智(聖人の智)でもない以上、彼がどの年に死ぬかまでは知りようがないはずである。今回、ちょうど許を襲撃せんとした年に死んでいるのだが、これはおそらく事件が偶然に重なったものだろう。

袁紹撃破に従軍し、袁紹の死後、また黎陽における袁譚・袁尚討伐に従軍したが、立て続けに戦って何度もの勝利を挙げた。諸将は勝利に乗じてこのまま攻め寄せるつもりだったが、郭嘉は言った。「袁紹は息子二人を愛して嫡子を立てておらず、郭図・逢紀が彼らの謀臣となっておりますから、必ずや両者の間に紛争が起こり、かえって離ればなれになるでありましょう。追い詰められれば助け合い、見逃してやれば争いの心が生じます。荊州へ南進して劉表を征討する風を装い、彼らの異変を待つに越したことはございません。異変が起こってから攻撃すれば、一挙に平定することができまする。」太祖は言った。「素晴らしい。」そこで南征することにした。軍勢が西平まで到達したところで、袁譚・袁尚は案じた通り、冀州をめぐって争い始めた。袁譚が袁尚軍に打ち負かされて平原に逃げ込み、辛毗を遣して降服を申し入れてきたので、太祖は引き返して救援に向かい、(郭嘉も)そのままの平定に従軍した。また南皮における袁譚攻めに従軍し、冀州が平定されると、郭嘉は洧陽亭侯に封ぜられた。[一]

[一] 『傅子』に言う。河北が平定されたのち、太祖は青州・冀州・幽州・幷州の知名の士を多数招き、少しづつ臣従させてゆき(手足として)使いこなし、省事掾属とした。全て郭嘉の計略である。

太祖が袁尚および三郡の烏丸を征伐しようとしたとき、諸下(部下たち)の多くは、劉表が太祖を討伐せんと劉備を出して許を襲撃してくることを恐れた。郭嘉は言った。「公は天下に威光を震わせておいでですが、どもは遠方であることを当て込んで、必ずや防備を設けてはおりますまい。その無防備に乗じて、急遽これを攻撃すれば、破滅させることができます。しかも、袁紹は民衆・夷狄へともに恩沢を施しており、袁尚兄弟も健在なのです。ただいま四州の民衆はただ威厳に屈服しているだけで、恩徳はまだ施されておりませんから、(この地を)捨ておいて南征されれば、袁尚は烏丸の資金を投じ、主君のために死ねる臣下を招くでありましょう。胡人が一たび動けば、民衆・夷狄は一斉に呼応し、蹋頓の野心を刺激して覬覦(不遜)の計画を企図させることになり、青州・冀州は我らの所有ではなくなる恐れがございます。劉表なんぞは坐談の客に過ぎませぬ。劉備を制御する才能に不足していることは自分でも分かっており、重く任用すれば制御できなくなる懸念があり、軽く任用すれば働こうとしなくなる心配があるのです。国許をがら空きにして遠征しても、公はご心配に及びませぬ。」太祖はついに決行した。に到達したところで郭嘉が言った。「兵は神速を貴びます。いま千里(の道を駆けて)人を襲撃しておりますゆえ輜重は多く、有利(の地)へ馳せ付けることは困難です。しかも奴らがそれを聞けば、必ずや備えを固めることでしょう。輜重を残し、軽騎兵を(昼夜)兼行させて突出し、彼らの不意を衝くに越したことはございますまい。」太祖はそこで秘密裏に盧龍塞から出撃し、まっすぐに単于の地を目指した。どもの兵卒は、太祖が到着したと聞くと恐れおののきながら合戦した。(太祖は)彼らを大いに打ち破り、蹋頓および名王以下を斬首した。袁尚および兄袁煕遼東へと逃げていった。

郭嘉は深く計略に通じて情理に明るく、太祖は「ただ奉孝だけが孤の考えを分かってくれる」と言っていた。三十八歳のとき、柳城から帰還すると病気が重くなり、太祖から見舞いの使者が足繁くなった。薨去するに及び、(太祖は)その亡骸に対面して哀しみを極め、荀攸らに言った。「諸君らはみな孤と同年輩であるが、ただ奉孝だけが一段と若く、天下の事業が完成したなら後事を託すつもりであった。それなのに中年で夭折してしまうとは、天命であろうかのう!」そこで上表して言った。「軍祭酒郭嘉は征伐に従事するようになってから十有一年、大会議のあるたび、敵情に対応して変化を制御したものです。臣の計画がまだまとまらないうちに、郭嘉はあっさりと仕上げてしまうほどでした。天下を平定するにあたって計画を立てた功績は多大でありましたが、不幸にも寿命短く、事業を完成させることができませんでした。郭嘉の勲功を思い出せば、実に忘れがたいものです。食邑八百戸を加増し、都合一千戸とするのがよろしゅうございます。」[一]して貞侯と言い、子の郭奕が後を継いだ。[二]

[一] 『魏書』に掲載する太祖の上表に言う。「臣が聞きますには、忠節を賞して賢才を愛する場合、当人の身に限定されず、功労を思い業績を考える場合、恩寵は後継者にも盛んであるとのことです。そのために孫叔(敖)を敬って、その息子を顕彰して封侯し、岑彭が没したときも、爵位は庶家にまで及んだのです。の軍祭酒郭嘉は忠良にして慎み深く、物事に通達しておりました。大会議のあるたび発言は朝廷を満足させ、中道を採って処理に当たり、実行に際しても遺漏はございませんでした。軍旅に携わってから十年余り、行軍するときは同じ馬に跨り、休憩するときは同じ帳に座り、東方では呂布を生け捕り、西方では眭固を攻め取り、袁譚の首を斬り、朔土(河北)の軍を平らげ、険峻な城塞を越えて烏丸を鎮定し、遼東に威信を震わせて袁尚を梟首いたしました。たとい天の威光を持ちまして指図に容易であったとはいえ、敵を目前にして、宣旨を奉じて逆賊を滅ぼしたことにつきましては、その勲功は実に郭嘉によるものなのでございます。にこれから表彰しようとしたとき、短命にして早くに亡くなりました。上は朝廷の御為に良臣を痛惜し、下は自分のために奇才の喪失を恨めしく思うのであります。郭嘉の封地を追って加増し、都合一千戸となさるのがよろしゅうございます。亡き人を賞するのは生者のため、去る人に報いるのは来者を誘うためでございます。」

[二] 『魏書』では、郭奕が道理見識に通達していたと評している。郭奕は字を伯益といい、王昶の『家誡』に見えている。

のちに太祖は荊州征伐から引き揚げるに際し、巴丘で疫病の流行に遭遇したうえ、船を焼失してしまい、歎息しながら言った。「郭奉孝が健在であれば、孤をこうまで落ちぶれさせなかったであろうがのう。」[一]むかし陳羣は、郭嘉が模範的行動を心掛けていないことを非難し、たびたび郭嘉を提訴したのであるが、郭嘉は泰然自若としていた。太祖はいよいよ彼のことを尊重するようになり、その一方、陳羣が公正さをよく貫いているとも思い、やはり彼にも満足したのであった。[二]郭奕は太子文学となったが、早くに薨去した。子の郭深が後を継ぎ、郭深が薨去すると、子の郭猟が後を継いだ。[三]

[一] 『傅子』に言う。太祖はまた言った。「哀しいかな奉孝!痛ましいかな奉孝!惜しいかな奉孝!」

[二] 『傅子』に言う。太祖は荀彧に手紙を送り、郭嘉を追慕して言った。「郭奉孝は齢四十にも満たず、ともに駆けずりまわって十一年になるが、険阻であれ艱難であれ、みな一緒に被ったものであった。また彼の通達ぶりと、世の仕事における滞りのなさを見て、後事を託すつもりであった。思いがけず突然彼を失ってしまい、悲痛さに心が傷む。いま上表して彼の子をちょうど一千戸まで加増してやったところだが、それが死者に対してどんな利益になるだろうか。彼を思い起こしては感傷が深まるのだ。しかも奉孝といえば孤を理解してくれた者なのだ。天下の人々をこぞっても理解してくれる者は少ない。そのことでもまた痛惜される。なんたることぞ、なんたることぞ!」また荀彧に手紙を送って言った。「奉孝を追惜する思いを心から消すことができぬ。かの人の時事や兵事に対する見解は、人倫を超越していた。それに人間というのは大概病気を恐れるものだが、南方で疫病が起こっていても、いつも『吾が南方に行けば、生還することはできまい』と言うだけで、しかしながら一緒に計略を議論しているときには、まず荊州を平定すべきと申しておったのだ。これはただ計略が真心から出ていたというだけでなく、必ずや功績を立て、命を棄ててでも成功させたいと願っておったということなのだ。他人に尽くす心はこれほどであった。どうして人が彼のことを忘れられよう!」

[三] 『世語』に言う。郭嘉の孫郭敞は字を泰中といい、才能見識があり、官位は散騎常侍であった。

郭嘉傳

郭嘉字奉孝,潁川陽翟人也.[一]初,北見袁紹,謂紹謀臣辛評﹑郭圖曰:「夫智者審於量主,故百擧百全而功名可立也.袁公徒欲效周公之下士,而未知用人之機.多端寡要,好謀無決,欲與共濟天下大難,定霸王之業,難矣!」於是遂去之.先是時,潁川戲志才,籌畫士也,太祖甚器之.早卒.太祖與荀彧書曰:「自志才亡後,莫可與計事者.汝﹑潁固多奇士,誰可以繼之?」彧薦嘉.召見,論天下事.太祖曰:「使孤成大業者,必此人也.」嘉出,亦喜曰:「眞吾主也.」表為司空軍祭酒.[二]

[一] 傅子曰:嘉少有遠量.漢末天下將亂.自弱冠匿名迹,密交結英雋,不與俗接,故時人多莫知,惟識達者奇之.年二十七,辟司徒府.

[二] 傅子曰:太祖謂嘉曰:「本初擁冀州之眾,靑﹑幷從之,地廣兵彊,而數為不遜.吾欲討之,力不敵,如何?」對曰:「劉﹑項之不敵,公所知也.漢祖唯智勝;項羽雖彊,終為所禽.嘉竊料之,紹有十敗,公有十勝,雖兵彊,無能為也.紹繁禮多儀,公體任自然,此道勝一也.紹以逆動,公奉順以率天下,此義勝二也.漢末政失於寬,紹以寬濟寬,故不懾,公糾之以猛而上下知制,此治勝三也.紹外寬內忌,用人而疑之,所任唯親戚子弟,公外易簡而內機明,用人無疑,唯才所宜,不閒遠近,此度勝四也.紹多謀少決,失在後事,公策得輒行,應變無窮,此謀勝五也.紹因累世之資,高議揖讓以收名譽,士之好言飾外者多歸之,公以至心待人,推誠而行,不為虛美,以儉率下,與有功者無所吝,士之忠正遠見而有實者皆願為用,此德勝六也.紹見人飢寒,恤念之形於顏色,其所不見,慮或不及也,所謂婦人之仁耳,公於目前小事,時有所忽,至於大事,與四海接,恩之所加,皆過其望,雖所不見,慮之所周,無不濟也,此仁勝七也.紹大臣爭權,讒言惑亂,公御下以道,浸潤不行,此明勝八也.紹是非不可知,公所是進之以禮,所不是正之以法,此文勝九也.紹好為虛勢,不知兵要,公以少克眾,用兵如神,軍人恃之,敵人畏之,此武勝十也.」太祖笑曰:「如卿所言,孤何德以堪之也!」嘉又曰:「紹方北擊公孫瓚,可因其遠征,東取呂布.不先取布,若紹為寇,布為之援,此深害也.」太祖曰:「然.」

征呂布,三戰破之,布退固守.時士卒疲倦,太祖欲引軍還,嘉說太祖急攻之,遂禽布.語在荀攸傳.[一]

[一] 傅子曰:太祖欲引軍還,嘉曰:「昔項籍七十餘戰,未嘗敗北,一朝失勢而身死國亡者,恃勇無謀故也.今布每戰輒破,氣衰力盡,內外失守.布之威力不及項籍,而困敗過之,若乘勝攻之,此成禽也.」太祖曰:「善.」 魏書曰:劉備來奔,以為豫州牧.或謂太祖曰:「備有英雄志,今不早圖,後必為患.」太祖以問嘉,嘉曰:「有是.然公提劍起義兵,為百姓除暴,推誠仗信以招俊傑,猶懼其未也.今備有英雄名,以窮歸己而害之,是以害賢為名,則智士將自疑,囘心擇主,公誰與定天下?夫除一人之患,以沮四海之望,安危之機,不可不察!」太祖笑曰:「君得之矣.」 傅子曰:初,劉備來降,太祖以客禮待之,使為豫州牧.嘉言于太祖曰:「備有雄才而甚得眾心.張飛﹑關羽者,皆萬人之敵也,為之死用.嘉觀之,備終不為人下,其謀未可測也.古人有言:『一日縱敵,數世之患.』宜早為之所.」是時,太祖奉天子以號令天下,方招懷英雄以明大信,未得從嘉謀.會太祖使備要擊袁術,嘉與程昱俱駕而諫太祖曰:「放備,變作矣!」時備已去,遂擧兵以叛.太祖恨不用嘉之言. 案魏書所云,與傅子正反也.

孫策轉鬭千里,盡有江東,聞太祖與袁紹相持於官渡,將渡江北襲許.眾聞皆懼,嘉料之曰:「策新幷江東,所誅皆英豪雄傑,能得人死力者也.然策輕而無備,雖有百萬之眾,無異於獨行中原也.若刺客伏起,一人之敵耳.以吾觀之,必死於匹夫之手.」策臨江未濟,果為許貢客所殺.[一]

[一] 傅子曰:太祖欲速征劉備,議者懼軍出,袁紹襲其後,進不得戰而退失所據.語在武紀.太祖疑,以問嘉.嘉勸太祖曰:「紹性遲而多疑,來必不速.備新起,眾心未附,急擊之必敗.此存亡之機,不可失也.」太祖曰:「善.」遂東征備.備敗奔紹,紹果不出. 臣松之案武紀,決計征備,量紹不出,皆出自太祖.此云用嘉計,則為不同.又本傳稱自嘉料孫策輕佻,必死於匹夫之手,誠為明於見事.然自非上智,無以知其死在何年也.今正以襲許年死,此蓋事之偶合.

從破袁紹,紹死,又從討譚﹑尚於黎陽,連戰數克.諸將欲乘勝遂攻之,嘉曰:「袁紹愛此二子,莫適立也.有郭圖﹑逢紀為之謀臣,必交鬭其閒,還相離也.急之則相持,緩之而後爭心生.不如南向荊州若征劉表者,以待其變;變成而後擊之,可一擧定也.」太祖曰:「善.」乃南征.軍至西平,譚﹑尚果爭冀州.譚為尚軍所敗,走保平原,遣辛毗乞降.太祖還救之,遂從定鄴.又從攻譚於南皮,冀州平.封嘉洧陽亭侯.[一]

[一] 傅子曰:河北旣平,太祖多辟召靑﹑冀﹑幽﹑幷知名之士,漸臣使之,以為省事掾屬.皆嘉之謀也.

太祖將征袁尚及三郡烏丸,諸下多懼劉表使劉備襲許以討太祖,嘉曰:「公雖威震天下,胡恃其遠,必不設備.因其無備,卒然擊之,可破滅也.且袁紹有恩於民夷,而尚兄弟生存.今四州之民,徒以威附,德施未加,舍而南征,尚因烏丸之資,招其死主之臣,胡人一動,民夷俱應,以生蹋頓之心,成覬覦之計,恐靑﹑冀非己之有也.表,坐談客耳,自知才不足以御備,重任之則恐不能制,輕任之則備不為用,雖虛國遠征,公無憂矣.」太祖遂行.至易,嘉言曰:「兵貴神速.今千里襲人,輜重多,難以趣利,且彼聞之,必為備;不如留輜重,輕兵兼道以出,掩其不意.」太祖乃密出盧龍塞,直指單于庭.虜卒聞太祖至,惶怖合戰.大破之,斬蹋頓及名王已下.尚及兄熙走遼東.

嘉深通有算略,達於事情.太祖曰:「唯奉孝為能知孤意.」年三十八,自柳城還,疾篤,太祖問疾者交錯.及薨,臨其喪,哀甚,謂荀攸等曰:「諸君年皆孤輩也,唯奉孝最少.天下事竟,欲以後事屬之,而中年夭折,命也夫!」乃表曰:「軍祭酒郭嘉,自從征伐,十有一年.每有大議,臨敵制變.臣策未決,嘉輒成之.平定天下,謀功為高.不幸短命,事業未終.追思嘉勳,實不可忘.可增邑八百戶,幷前千戶.」[一]諡曰貞侯.子奕嗣.[二]

[一] 魏書載太祖表曰:「臣聞襃忠寵賢,未必當身,念功惟績,恩隆後嗣.是以楚宗孫叔,顯封厥子;岑彭旣沒,爵及支庶.故軍祭酒郭嘉,忠良淵淑,體通性達.每有大議,發言盈庭,執中處理,動無遺策.自在軍旅,十有餘年,行同騎乘,坐共幄席,東禽呂布,西取眭固,斬袁譚之首,平朔土之眾,踰越險塞,盪定烏丸,震威遼東,以梟袁尚.雖假天威,易為指麾,至於臨敵,發揚誓命,凶逆克殄,勳實由嘉.方將表顯,短命早終.上為朝廷悼惜良臣,下自毒恨喪失奇佐.宜追增嘉封,幷前千戶,襃亡為存,厚往勸來也.」

[二] 魏書稱奕通達見理.奕字伯益,見王昶家誡.

後太祖征荊州還,於巴丘遇疾疫,燒船,歎曰:「郭奉孝在,不使孤至此.」[一]初,陳羣非嘉不治行檢,數廷訴嘉,嘉意自若.太祖愈益重之,然以羣能持正,亦悅焉.[二]奕為太子文學,早薨.子深嗣.深薨,子獵嗣.[三]

[一] 傅子曰:太祖又云:「哀哉奉孝!痛哉奉孝!惜哉奉孝!」

[二] 傅子曰:太祖與荀彧書,追傷嘉曰:「郭奉孝年不滿四十,相與周旋十一年,阻險艱難,皆共罹之.又以其通達,見世事無所凝滯,欲以後事屬之,何意卒爾失之,悲痛傷心.今表增其子滿千戶,然何益亡者,追念之感深.且奉孝乃知孤者也;天下人相知者少,又以此痛惜.柰何柰何!」又與彧書曰:「追惜奉孝,不能去心.其人見時事兵事,過絕於人.又人多畏病,南方有疫,常言『吾往南方,則不生還』.然與共論計,云當先定荊.此為不但見計之忠厚,必欲立功分,棄命定.事人心乃爾,何得使人忘之!」

[三] 世語曰:嘉孫敞,字泰中,有才識,位散騎常侍.