利用許諾契約書

このurlで示される文書はGFDLに基づいて利用することができます(GFDL日本語訳)。ただしこの利用許諾契約書そのものは改変できません。

原著作者:【むじん書院】

魏書十四 程郭董劉蔣劉伝第十四

程昱伝

程昱仲徳といい、東郡東阿の人である。身の丈八尺三寸、鬚髯うるわしかった。黄巾賊が蜂起したとき、県丞王度が反逆してこれに呼応、倉庫に火を放った。県令は城壁を乗り越えて逃走し、官吏民衆は老幼を背負って東方の渠丘山へと逃げ込んだ。程昱が人をやって王度を偵察させたところ、王度らは空き城を手に入れながら守ることができず、城外に出て西へ五・六里の辺りで駐屯していた。程昱は県内の大姓薛房らに告げた。「いま王度らは城郭を手に入れながら在城できておらず、その勢力のほどが分かります。彼らは財物を略奪したいというだけで、堅固な甲冑と鋭利な武器を手にして攻守するつもりなどありはしないのです。どうして今のうちに連れ立って城へ帰り、それを守ろうとなさらないのですか?しかも城壁は高く厚みもあるし、食糧も豊富です。もし引き返して県令を見付け出し、一緒に固守するとすれば、王度も長くは持たず、攻撃をかけて打ち破ることも可能です。」薛房らはその通りだと思ったが、官吏民衆らは行くことを承知せず、「賊兵が西にいるから、東へ行くしかないんだ」と言う。程昱は薛房らに「愚民どもには計画を定められませぬ」と告げ、密かに数人の騎兵を東山(渠丘山)の頂きへやって旗を揚げさせ、薛房らにはそれを遠望し、大声で「賊軍はもうとっくに到着しているぞ!」と叫びながら山を下り、城へと向かわせると、官吏民衆は慌てふためいてその後を付いてきた。県令を探し当てて一緒に城を固めると、王度らが来襲して城を攻撃してきたが、陥落させられず立ち去ろうとした。程昱は官吏民衆を率いて門を開き、奴らに奇襲攻撃をかけると王度らは潰走した。東阿はこうして全うできたのである。

初平年間(一九〇~一九四)、兗州刺史劉岱が程昱を招聘したが、程昱は応じなかった。そのころ劉岱は袁紹・公孫瓚と手を結んでおり、袁紹は妻子を劉岱のところへ住まわせていたし、公孫瓚もまた従事范方に騎兵を率いさせて劉岱を支援していた。のちに袁紹と公孫瓚の仲は決裂、公孫瓚が袁紹軍を撃破し、袁紹と絶交させるため、使者を通じて、袁紹の妻子を寄越すようにと劉岱に申し入れてきた。同時に范方へも命令を出して「もし劉岱が袁紹の家族を差し出さねば騎兵を連れて帰って参れ。は袁紹を平定してから劉岱にも軍勢を差し向けるつもりだ」と言っていた。劉岱は連日の軍議でも結論を出せず、別駕王彧が劉岱に建白して「程昱は計略の持ち主ですから、深刻な事態でも上手く裁くことができるでしょう」と言うので、劉岱は程昱を召し寄せて計略を訊ねた。程昱は言った。「もし袁紹の身近な支援を棄て、公孫瓚の疎遠な支援を求めるとすれば、それはから人手を借りて溺れる子を救おうとするような議論です。そもそも公孫瓚は袁紹の敵ではありません。いま袁紹軍を崩壊させたとはいっても、最終的には袁紹に生け捕られるばかりです。一時の勢いに乗じて長期的計画を考慮しなければ、将軍を敗北させる結果になりまするぞ。」劉岱はそれを聞き入れた。范方はその騎兵を連れて帰国したのだが、到着せぬうちに、公孫瓚はさんざんに袁紹に打ち破られたのであった。劉岱は上表して程昱を騎都尉に任じようとしたが、程昱は病気を口実に辞退した。

劉岱が黄巾賊に殺害されると、太祖曹操)が兗州に君臨して程昱を招いた。程昱が出かけようとしたとき、郷里の人々は「どうして前後(の行動)が矛盾しているのかね!」と言ったが、程昱は笑うばかりで答えなかった。太祖はともに語り合って彼に満足し、程昱に寿張の県令を守らせた。太祖は徐州へ遠征に出るとき、程昱を荀彧とともに残して鄄城を守らせた。張邈らが叛逆して呂布を迎え入れると、郡県は波紋の広がるが如く呼応し、動かなかったのはただ鄄城・范・東阿だけであった。呂布軍からの投降者が、陳宮は自分で軍勢を率いて東阿を攻略し、同時に汎嶷を出して范を攻略させようとしている、と証言した。官吏民衆はみな恐怖した。荀彧が程昱に告げた。「いま兗州はこぞって反逆し、ただこの三城があるばかりです。陳宮らが重装兵でもって当方に向かってきたとき、心に深い結び付きがなければ三城は必ず動揺してしまうでしょう。君は民衆の希望です。帰国してその地を説得して頂ければ、まず上手くいくでしょう!」程昱はそこで帰郷することにしたが、范を通りがかったとき、そこの県令靳允を説得して述べた。「呂布が君の母や弟、妻子を人質に取ってしまったと聞きました。孝子として誠に心配でならないことでしょう!いま天下は大いに乱れ、英雄どもが並び立っており、(その中には)必ずや命世(の君主)がいて、よく天下の混乱を鎮めるでありましょう。それこそ智者が慎重に選択するところです。君主を得た者は栄え、君主を失った者は亡ぶものです。陳宮が叛逆して呂布を迎え入れると百城はみな呼応し、あたかも何事かを成し遂げられそうに見えます。しかし君自身の目で見て、呂布は如何なる人物でしょうか!呂布というのは内面が粗忽で、親愛することが少なく、強情にして無礼であり、匹夫どものに過ぎません。陳宮らはその場のなりゆきから一時的に合流しただけですから、主君を補佐することなどできますまい。軍勢が多いとはいっても(事業を)最後まで完成させることは絶対にありません。曹使君(曹操)の智略は世に二つとなく、天から授かったも同然です!君が頑として范を固め、我が東阿を守れば、田単の功績は成立いたします。忠義に違背して悪事に荷担し、母子ともども身を亡ぼすのとではどちらがよいでしょうか?ただひたすら君はそのことを熟慮してください!」靳允は涙を流しながら言った。「どうして二心など抱きましょうや。」このとき汎嶷はすでに県内まで来ていた。靳允はそこで汎嶷と面会したが、伏兵を設けてこれを刺殺し、帰城して手勢を率いて守りを固めた。[一]程昱は同時に騎兵を分遣して倉亭津を遮断させていたので、陳宮は到来しても渡ることができなかった。程昱が東阿に到着したとき、東阿の県令棗祗はすでに官吏民衆を励まして城に楯籠り、守りを固めていた。さらに兗州従事薛悌も程昱とともに策謀を立て、ついに三城を守り抜いて太祖(の到着)を待ち受けた。太祖は帰還するなり程昱の手を執り、「の尽力がなければ、吾は帰る場所さえ失うところであった」と言い、程昱を東平国のにしてくれるよう上表し、范に屯させた。[二]

[一] 徐衆の『』に言う。靳允は曹公(曹操)に対して君臣にはなっていなかったし、母は究極の親しき人である。道義的には立ち去るべきであった。むかし王陵の母が項羽に拘束されたとき、母は高祖劉邦)が必ず天下を取るであろうと考え、自殺することによって王陵の志を固めさせた。心を澄ませ、束縛を離れて初めて、他人に仕えて死力を尽くす節義を貫くことができるのである。の公子開方に仕えて長年にわたり帰国することはなかったが、管仲は自分の親を思い出さぬ人が主君を愛せるはずがないと考え、(開方を)宰相とすることに反対した。これこそ忠臣を求めるのに必ず孝子の門を尋ねる理由なのである。靳允は真っ先に究極の親しき人を救うべきであった。徐庶の母が曹公に捕らえられたとき、劉備が徐庶を帰らせたのは、天下を治めようとする者ならば、人の子としての情けを理解しているからである。曹公もまた靳允を送り出すべきであった。

[二] 『魏書』に言う。程昱は若いころ、泰山に登って両手で太陽を掲げるという夢をよく見ていた。程昱は内心それを不思議に思い、荀彧にありのままを語った。兗州が反乱を起こしたとき、程昱のおかげで三城は守られたのであるが、このとき荀彧が程昱の見た夢のことを太祖に告げた。太祖は(程昱に向かって)言った。「は最後まで吾の腹心でいてくれ。」程昱は本名を「」といったが、太祖がその上に「日」の字を付け加え、程昱と改名させたのである。

太祖は濮陽における呂布との戦いで何度も敗北を被ったが、が発生したため、それぞれに引き払うことになった。それを踏まえ、袁紹は人をやって太祖に連合を説き、太祖に家族をへ住まわせようとした。太祖は兗州を失陥したばかりで軍糧も尽き果てており、それを承知しそうになった。そのとき程昱はちょうど使いから帰ってきたところだったので、拝謁したおりに述べた。「密かに聞くところでは、将軍は家族を出して袁紹と連合なさるお考えとのこと。本当にそのような事実があるのでしょうか?」太祖は言った。「その通りだ。」程昱は言った。「察しまするに、将軍は事業に着手されながら臆病風にかられましたな。さもなくば、どうしてかように浅はかなお考えをなさるのでしょう!そもそも袁紹なる者は、燕・趙の地を根拠に天下併合の野心を抱いておりますが、成功を収めるには智力が不足しているのです。将軍はご自身で考えてみて、彼の下風に立つことがおできになりましょうか?将軍は龍虎のごとき威光を備えておりますのに、韓(信)・彭(越)のごとき屈従がおできになりましょうか?ただいま兗州を失ったとはいえ、まだ三つの城が残っており、戦闘に巧みな兵士も一万人は下りません。将軍の神武をもって、文若(荀彧)・程昱らを手に入れて使いこなしておられるのですから、霸王の事業は完成させられます。将軍よ、ご再考を願います!」太祖はようやく取り止めた。[一]

[一] 『魏略』は太祖を説いた程昱の言葉が掲載されている。「むかし田横は斉の名族であって、兄弟三人が次々に王となり、千里の斉を根拠にして百万の軍を所有し、諸侯と並んで南面して孤と称しておりました。その後、高祖が天下を手に入れたとき、田横は一転して降人となりました。そのようなとき、田横はどうして平静を保ちえたでしょうか!」太祖は言った。「いかにも、これはまこと丈夫たる者には最大の屈辱である。」程昱は言う。「程昱は凡愚であり、ご高察を理解できないのでありますが、将軍のご意志は田横に及ばぬものと思われます。田横などは斉の一壮士に過ぎませんが、それでも高祖に臣従することを恥じたのでありました。いま聞くところでは、将軍は家族を出して鄴に住まわせ、北面して袁紹に臣従なさるお考えとのこと。そもそも将軍の聡明神武でもって、あろうことか袁紹の下風に立つことを恥じないとは。勝手ながら将軍のために恥ずかしく思いまするぞ!」これ以後の文句は本伝とほぼ同じである。

天子(劉協)はに遷都すると、程昱を尚書とした。兗州がいまだ安集に苦しんでいたため、改めて程昱を東中郎将とし、済陰太守を領させ、都督兗州事とした。劉備が徐州を失って太祖に身を寄せたとき、程昱は劉備を殺すよう太祖を説得したが、太祖は聞き入れなかった。記載は『武帝紀』にある。のちにまた劉備を徐州に派遣して袁術を迎撃させたとき、程昱は郭嘉とともに太祖を説得して言った。「公が過日、劉備を仕留められなかったことについて、程昱らはまことに力が及びませんでした。ただいま彼に軍勢を委ねましたからには、必ずや異心を抱きましょうぞ。」太祖は後悔して彼を追いかけさせたが、追い付けなかった。ちょうど袁術は病死し、劉備は徐州に到着するとその足で車胄を殺害し、挙兵して太祖に背いたのであった。しばらくして程昱は振威将軍に昇進した。袁紹が黎陽に着陣して(黄河の)南岸へ渉ろうとしたとき、程昱は七百人の軍勢を領して鄄城を固めていた。太祖はそれを聞くと程昱へ人をやり、兵二千人を増派してやろうと告げた。程昱は承知せず、こう言った。「袁紹は十万の軍勢を抱え、行く先々で遮る者はないと自負しておりますゆえ、いま程昱の手勢が少ないのを見れば、まず(程昱を)軽んじて来襲することはありますまい。もし程昱の手勢が増やされれば、(袁紹側とすれば)通過するためには攻撃せざるをえず、攻撃すれば必ず勝ちます。(我が方とすれば)その軍勢を双方むざむざと犬死にさせることになります。公よ、お疑い召されるな!」太祖はそれを採用した。袁紹は程昱の手勢が少ないと聞き、案の定、向かってこなかった。太祖は賈詡に言った。「程昱の大胆さは(孟)賁・(夏)育を上回るものだな。」程昱は戸籍を逃れて山岳や沼沢に潜んでいる者どもを捕まえて精兵数千人を手に入れ、軍勢をまとめて黎陽で太祖に合流し、袁譚・袁尚を討伐した。袁譚・袁尚が潰走すると、程昱は奮武将軍を拝命し、安国亭侯に封ぜられた。太祖が荊州を征討すると、劉備はへと逃亡した。論者は孫権が必ずや劉備を殺すであろうと言ったが、程昱はこれを思料して言った。「孫権は在位したばかりで、海内に畏怖されるまでには至っていない。曹公は天下に敵う者なく、ひとたび荊州を取り上げれば、威光は長江一帯を震え上がらせた。孫権は計略の持ち主ではあるが、単独で対抗することはできないのである。劉備には英名があり、関羽・張飛はいずれも万人之敵であるゆえ、孫権は必ずや彼を支援して我らを防ごうとするはずだ。困難が解消されれば勢力を分かつであろうが、劉備はそれを元手に成功を収め、もはや捕らえて殺すことはできないであろうよ。」孫権は案の定、劉備に多くの軍勢を与え、そうして太祖を防いだのであった。その後、中原は少しづつ平定されていった。太祖は程昱の背を叩きながら、「兗州が敗北したとき、君の言葉を採用しなかったら、吾はどうしてここまで来られたであろうか?」と言った。(程氏の)一門が牛酒を持ち合って盛大な宴会を催したが、(その席上で)程昱は言った。「足るを知れば辱められない。吾は引退すべきだな。」そこで自分から上表して軍勢を返還し、門を閉ざして出てこなくなった。[一]

[一] 『魏書』に言う。太祖が馬超を征討したとき、文帝曹丕)は残って守りを固め、程昱を軍事に参画させた。田銀・蘇伯らが河間郡に反逆すると、将軍賈信を派遣して討伐させたところ、賊軍から千人余りの投降を乞う者があって、提言する者はみな旧法に従うべきと主張した。程昱は言った。「投降者を誅殺するというのは騒乱の時代の考えでございます。天下が雲のごとく沸き立っておりましたゆえ、包囲後に投降した者を許さぬことによって天下に威信を示し、利益への道筋を啓蒙して包囲されずに済むようにしてやったのです。現在、天下はほぼ平定されており、国境内にいるのは、それこそ(討伐すれば敵国に逃げ込むようなことはできず)降服すると決定された賊徒であって、これを殺しても畏怖させることはできませぬ。昔日、投降者を誅殺したときの意味とは違ってきているのであります。は誅殺すべきでないと愚考いたします。たとい誅殺するとしても、まずご報告すべきでありましょう。」提議した者たちが口々に「軍事には専断権があって、問い合わせをしてはならぬのだ」と言うと、程昱は応答できなかった。文帝が立ち上がって(部屋へ)入り、特別に程昱だけを招き入れて「君には言い尽くせなかったことがあるのだろう?」と言うと、程昱は「およそ独断で命令をするというのは、戦時における緊急時、一呼吸ほどの時間しかない場合だけの考え方なのです。いま件の賊徒どもは賈信の手に制御されており、一朝一夕の変事が起こることはございません。それゆえ老臣は将軍がそうなさることを願わないのであります」と言った。文帝は言った。「君の配慮はよろしい。」そこで太祖に報告したところ、太祖はやはり誅殺せよとはしなかった。太祖は帰還してから(その経緯を)聞いて大層喜び、程昱に告げた。「君はただ軍計に明るいばかりでなく、そのうえ他人の父子関係も善処してくれる。」

程昱は反骨的な人柄であったため他人に逆らうことが多く、程昱が反逆を企てていると密告する者もあったが、太祖の恩賜待遇はますます手厚くなっていった。が建国されると衛尉になったが、中尉邢貞と威儀(儀礼上の序列)を争ったため罷免された。文帝が践祚すると、ふたたび衛尉となり、封爵を安郷侯に進められて三百戸を加増され、以前と合わせて八百戸になった。(領国を)分割して末子の程延および孫の程暁を列侯に封じた。三公)に任じようとした矢先、薨去した。帝は彼のために涙を流した。車騎将軍を追贈し、して粛侯と言った。[一]子の程武が後を継ぎ、程武が薨去すると子の程克が後を継いだ。程克が薨去すると子の程良が後を継いだ。

[一] 『魏書』に言う。程昱はときに八十歳であった。 『世語』に言う。むかし太祖が食糧に欠乏していたとき、程昱は本県で略奪を働いて三日分の食糧を提供したが、いささか干した人肉が混入していた。そのことによって朝廷内における声望を失い、そのため官位が公まで昇らなかったのである。

程暁伝

程暁は嘉平年間(二四九~二五四)、黄門侍郎になった。[一]そのころ校事が勝手放題を働いていたので、程暁は上疏して述べた。「『周礼』に『官職を設けて職掌を分担し、それを民衆の規範にする』と言い、『春秋(左氏)伝』に『天には十日のがあり、人には十等の位がある』と言っております。愚人は賢人の前に出られず、賤民は貴族の前に出られないものです。それを踏まえて、聖者哲人を並び立たせ、風習に従って(政治を)樹立するのであります。功労によって明快に試験し、九年ごとに成績を考課することから、各人はその業務に励み、僭越なことはすまいと考えるようになるのです。だからこそ欒書晋侯を救おうとしたのを彼の息子は納得せず、死人が街路に横たわっているのを邴吉は問題にしなかったのであります。上司は職権を離れた功績を督促せず、部下は身分を外れた賞賜を計画せず、官吏は兼官の権勢を持たず、民衆は二事の役務を担わない。これこそが誠に国家の要綱、治乱の根本なのでございます。遠くは経典を閲覧し、近くは秦・漢を観察いたしますれば、官名が改められて職掌も同じでないとはいえ、上位を尊んで下位を抑え、職分を明らかにして先例をはっきりさせるという点において、その趣旨は一致しております。当初、校事の官が庶政に干渉することはございませんでした。むかし武皇帝(曹操)の大事業が草創されたとき、あまたの官職は整備されておらず、そのうえ軍旅の苦労もあって民心は安定せず、そのためささいな罪ではあっても検挙せざるを得ませんでした。ですから校事を設置したのは一時的な状況を優先したものでしかないのです。それでも検察のやり方には節度があって、勝手放題には至りませんでした。これは霸者の便宜であって、王者の正道ではございません。その後、次第に重任を蒙るようになると、かえって害毒になってしまい、それが習いとなって根本を正そうとする者がいなくなりました。とうとう上は宮廟を取り調べ、下は羣官を仕切り、官職としては部署が定められず、職権としては分限が定められず、意図に従い感情に任せて、ただ気分の赴くまま仕事に当たるようになったのです。法律は筆先で捏造されて、憲法や詔勅による根拠がなく、裁判は部内で決定されて、調査や証言は無視されており、彼らが属官を選任する場合でも、慎ましやかな者は粗忽とされ、謥詷なる者が有能とされる有様ですし、彼らが仕事に当たる場合でも、冷酷で乱暴なのを公正で厳格なのだと言い、法理に忠実なのを臆病で柔弱なのだと言っております。表面では天威にかこつけて権勢を振るい、内実では悪党どもを集めて腹心としており、大臣たちは彼らと勢力争いをすることを恥じ、堪え忍んで物言わず、小者たちは彼らの矛先を恐れて、思い詰めて告発もよういたしません。果ては、尹模なる者が公衆の面前でも欲しいままに悪行を働くほどになりました。罪悪は露見して道行く人のだれもが知っておりますのに、ささいな過失でさえ何年ものあいだ報告されていないのであります。『周礼』のいう官職を設ける意義から外れているうえに、さらに『春秋』の十等の道義にも外れてしまいました。ただいま外部には公卿・将校があって各部署を総攬し、内部には侍中・尚書があって万機を統御し、司隷校尉が京都を監督し、御史中丞が宮殿を監察しておりますが、みな賢才から厳選してその職に充て、憲法・詔勅を明らかにして非違を糾しているのでございます。もしこれらの諸賢でさえ力不足であるとすれば、校事のごとき小役人はなおさら信用できないことになりましょう。もしこれらの諸賢がそれぞれに忠勤を尽くすとすれば、校事のごとき微々たる輩がそれ以上に付け足すものはないことになりましょう。もし厳選された国士を校事に異動させるならば、それは中丞・司隷と重複する官職を一つ増やすことでしかなく、もし旧来通りの人選をするならば、尹模のような悪事は今後も再発するでありましょう。どちらを選ぶにしても計算してみれば、これを採用する理由がございません。むかし桑弘羊のために利益を求めましたが、卜式は桑弘羊を釜茹でにするだけで天気を雨降りにできると申しました。もしも政治の善し悪しが必ず天地を感応させるのであれば、臣は、水害や日照りの災難が校事のせいではないと言い切れないのが心配になります。恭公は君子を遠ざけて小人を近付けましたので、『国風』が(詩に)託して諷刺いたしました。献公は大臣を捨てて小者と計画を立てましたので、定姜は有罪だと判断いたしました。たとい校事が国家にとって有益だとしても、礼の見地から言えば、それでも大臣の心を傷付けます。ましてや邪悪さが暴露されたにも関わらず、なおも廃止しないというのは、それこそのほころびを繕わず、道に迷って引き返さないということであります。」こういうことがあって、ついに校事の官を廃止することになった。程暁は汝南太守に昇進し、四十歳余りで薨去した。[二]

[一] 『世語』に言う。程暁は字を季明といい、通達した見識の持ち主であった。

[二] 『程暁別伝』に言う。程暁は盛んに文章を著したが、多くは散逸してしまい、現存するのは十分の一にも満たない。

郭嘉伝

郭嘉奉孝といい、潁川陽翟の人である。[一]最初、北方へ行って袁紹に拝謁したが、袁紹の謀臣辛評・郭図に「そもそも智者ならばとっくりと主君を観察するものです。そうしてこそ百の行為が百の成功を生み、功名を立てることができるのです。袁公(袁紹)はただ士人にへりくだった周公の真似事がしたいだけで、用人の機微をご存じない。仕事を始めることが多いのに要点を押さえていることは少なく、謀略を好むのに決断することはありません。一緒に天下の大困難を解決し、霸王の事業を完成させようと思っても、難しいでしょうな!」と告げ、そのまま立ち去った。それ以前のこと、潁川の戯志才籌画の士であって、太祖曹操)ははなはだ彼を立派に思っていたが、早くに卒去した。太祖は荀彧に手紙を送って言った。「戯志才が亡くなって以後、一緒に計画を立ててくれる者がおらんでのう。汝(南)・潁(川)にはもともと奇才が多いのだが、どの人物ならば彼のあとを継がせられるだろうか?」荀彧が郭嘉を推薦したので、召し寄せて天下のことを議論してみて、太祖は言った。「に大事業を完成させてくれるのは、きっとこの人物だよ。」郭嘉も退出して、やはり喜んで、「真実、吾がご主君だ」と言った。(太祖は)上表して司空軍祭酒とした。[二]

[一] 『傅子』に言う。郭嘉は若いころから遠大な計略を持っていた。漢代末期、天下が混乱しようとしていたので、弱冠のころより足跡をくらましつつ、密かに英俊と交わりを結び、俗世間の付き合いには関わらなかった。そのため当時の人々はほとんど彼のことを知らず、ただ達見ある者だけが彼を奇才であるとしていた。二十七歳のとき司徒(役所)に招かれた。

[二] 『傅子』に言う。太祖が郭嘉に言った。「本初(袁紹)は冀州の軍勢を擁し、青州・幷州が彼に従い、土地は広くて軍兵も強い。それがしばしば不遜を働いておる。はこれを討伐しようと思うのだが、力では敵わない。どうだろう?」答えて言った。「劉(邦)・項(羽)が対等でなかったことは、公もご存じでしょう。漢祖(劉邦)はひたすら智慧によって勝利し、項羽は強力であったとはいえ、結局は捕虜になったのです。郭嘉が密かに思料いたしまするに、袁紹には十の敗北があり、公には十の勝利がありますゆえ、軍兵が強くとも手出しはできないのでございます。袁紹は礼法にうるさく儀式も多いのですが、公はあるがままに任せて自然です。これは道による第一の勝利です。袁紹は逆心に基づいて行動しておりますが、公は正義を奉って天下を率いておられます。これは義による第二の勝利です。漢末の失政は寛容さのせいでありましたが、袁紹は寛容さによって寛容さを克服しようとしておりますので、威厳がございませんが、公はそれを糾すのに猛威を用いておられますので、上下ともによく制御されております。これは治による第三の勝利です。袁紹は外見が寛容に見えても内実は猜疑を抱え、人物を任用しながらその人を疑い、信任されているのはただ親戚の子弟だけでありますが、公は外見が簡略に見えても内実は機微に明るく、人物を任用するにも疑うことはなく、ただ才能だけを根拠とし、遠近によって差別されません。これは度による第四の勝利です。袁紹は謀略を立てることが多いものの決断することは少なく、失敗するのは(いつも)後手を打ったのが原因ですが、公は策略が立てばすぐさま実行され、変化に応じて行き詰まることもございません。これは謀による第五の勝利です。袁紹は代々にわたる資産を抱え、高尚な議論と謙譲とで名誉を手にし、士人のうちでも口達者で上辺ばかりを飾る者が多数、彼に従っておりますが、公は丹誠を込めて人物を待遇し、真心を貫いて行動し、虚栄を働かず、うやうやしい態度でもって部下を率先し、功績を立てた者には惜しみなく与え、士人のうちでも忠義公正で高い見識を持った信実の人はみな、お役に立ちたいと願っております。これは徳による第六の勝利です。袁紹は他人が飢えたり凍えたりしているのを見ると、同情の気持ちを顔色に現しますが、彼から見えない部分では配慮が及ばないことがあり、いわゆる婦人の仁というものでしかございませんが、公は目前のささいな事柄ならばすぐお忘れになり、大きな事柄ならば四海まで達し、お与えになる恩寵はみな相手の望んだ以上でして、ご自身では見えない部分でも配慮が行き届き、取り上げなかったことはございません。これは仁による第七の勝利です。袁紹は大臣どもが権力を争い、讒言によって混乱をきたしておりますが、公は道義によって部下を統御され、(讒言の)浸透することはございません。これは明による第八の勝利です。袁紹は善悪を見ても対処することはありませんが、公は善と思われることを礼によって推進し、善と思われないことを法によって更正されます。これは文による第九の勝利です。袁紹は虚勢を張ることを好んで兵法の精髄を理解しておりませんが、公は少数でもって多数に打ち勝ち、用兵は神のごとく、軍中ではそれを信頼し、敵人はそれを畏怖しております。これは武による第十の勝利です。」太祖は笑いながら言った。「のお言葉に対して、孤はどんな徳を積めば釣り合うだろうか!」郭嘉はさらに言った。「袁紹は北進して公孫瓚を攻撃しようとしておりますゆえ、その遠征を利用し、東進して呂布を攻略するのがよろしゅうございます。最初に呂布を攻略しておかねば、もし袁紹が侵攻してきたとき、呂布がそれを支援いたしましょう。これは深刻な被害となります。」太祖は言った。「もっともだ。」

呂布を征討して三たびの戦いで打ち破ると、呂布は引き下がって守りを固めた。このとき士卒は疲れ果てていたので、太祖は軍をまとめて引き揚げようとしたが、郭嘉が厳しく攻め立てよと太祖を説得し、その結果、呂布を生け捕りにすることができた。記載は『荀攸伝』にある。[一]

[一] 『傅子』に言う。太祖が軍をまとめて引き揚げようとしたとき、郭嘉は言った。「むかし項籍(項羽)は七十度余りの戦いで一度も負けたことがなかったのに、一たび勢いを失うと身は死んで国は亡びました。それは武勇を当てにして計略を持たなかったからなのです。いま呂布は戦いのたびに破れ、気は衰えて力も尽き、内外ともに支えを失っております。呂布の威力は項籍ほどでなく、そのうえ彼以上に困窮しているのですから、もし勝利に乗じて攻撃をかければ、生け捕りにすることができましょう。」太祖は言った。「素晴らしい。」 『魏書』に言う。劉備が逃げ込んで来ると、(太祖は彼を)予州にしてやった。ある人が太祖に言った。「劉備は英雄の志を抱いており、いま早急に手を打たなければ、のちのち必ずや悩みの種となりましょうぞ。」太祖がそれを郭嘉に問うと、郭嘉は言った。「その通りでございます。しかしながら、公は剣を提げて義兵を起こし、百姓たちのために暴虐を取り除こうとして、誠心を貫き、信実に基づいて俊傑を招いておられますが、それでもまだ足りない恐れがございます。ただいま劉備には英雄としての名声があり、逼迫して我らに身を寄せてきたのですから、彼を殺せば、それは賢者に危害を加えたと言い表されることになります。さすれば智士は疑いを持ち、心変わりして主君を選びなおすことになりましょう。公はだれと天下をお定めになりますか?そもそも一人の厄介者を取り除いたがために四海の名望を失っては、安危の(分かれ目の)引き金となります。ご賢察いただかぬわけには参りませんぞ!」太祖は笑いながら言った。「君はよう心得ておるな。」 『傅子』に言う。かつて劉備が降服して来たとき、太祖は賓客の礼でもって待遇し、予州牧にさせてやった。郭嘉は太祖に言上した。「劉備は英雄としての才覚を持ち、はなはだ民衆の心をつかんでおりますし、張飛・関羽はいずれも万人之敵ですが、彼のために生命を抛って仕えております。郭嘉の観察したところ、劉備は結局、他人の下風に立つことはなく、その心中は測りかねます。古人の言葉に『一日、敵を自由にしてやれば、数代にわたる患いとなる』とあります。早急に対処なされませ。」このとき太祖は、天子を奉じて天下に号令し、英雄を懐中に納めて大いなる信義を明らかにしようとしていたので、郭嘉の考えに従うことができなかった。そのころ太祖は劉備を出して袁術を迎撃させようとしていたが、郭嘉は程昱と同乗して馬車で駆け付け、太祖を諫めた。「劉備を放てば変事が起こりまするぞ!」このとき劉備はすでに立ち去っており、そのまま軍勢を挙げて叛逆した。太祖は郭嘉の言葉を採用しなかったことを後悔した。 『魏書』の言っていることを検証すると、『傅子』とは正反対である。

孫策は千里にわたって転戦し、江東長江東岸)を残らず領有していて、太祖と袁紹とが官渡において対峙していると聞くや、長江を渡って北上し、を襲撃せんと企てた。人々は報告を受けてみな恐怖に陥ったが、郭嘉は彼のことを思料して言った。「孫策は江東を併合したばかりで、誅殺したのはみな、他人に死力を尽くさせる英雄豪傑ばかりであった。それなのに孫策は、軽率にも警備を置いておらぬゆえ、百万の軍勢を抱えておっても、ただ独りで中原を行くのと変わりがない。陰から飛び出した刺客にとってみれば、一人を相手にすれば済むのだ。吾の観察したところに拠れば、きっと匹夫の手にかかり死ぬであろう。」孫策は長江を目前にして、まだ渡らぬうち、果たして許貢の食客に殺されたのであった。[一]

[一] 『傅子』に言う。太祖はなるたけ早く劉備を征伐したいと考えていたが、議論する者たちは、軍が出動すれば袁紹が背後を襲撃するであろうから、進んでも戦うことができず、退いても拠り所がなくなってしまうだろうと懸念した。記載は『武帝紀』にある。太祖が迷いを起こして、それを郭嘉に訊ねたところ、郭嘉は太祖にこう勧めた。「袁紹の人柄はのろまで迷いが多く、来襲するとしてもきっと速くはありません。劉備はいま立ち上がったばかりで、人々の心もまだ懐いておらず、早急に攻撃すれば必ず打ち破ることができます。これこそ存亡の契機、失ってはなりませぬぞ。」太祖は言った。「素晴らしい。」かくて東行して劉備を征討した。劉備は敗北して袁紹の元へ逃げ込んだが、袁紹は案の定、出てこなかった。 裴松之が『武帝紀』を調べてみると、劉備征討の計画を決断し、袁紹が出てこないと推量したのは、いずれも太祖の発案とされている。ここでは郭嘉の計略を採用したと述べているが、不同があるということになる。また、本伝ではもとより郭嘉が、孫策は軽佻(軽はずみ)であるゆえ、きっと匹夫の手にかかり死ぬであろうと思料した、と述べており、まこと事実認識に聡明であったと言えよう。しかしながら、上智(聖人の智)でもない以上、彼がどの年に死ぬかまでは知りようがないはずである。今回、ちょうど許を襲撃せんとした年に死んでいるのだが、これはおそらく事件が偶然に重なったものだろう。

袁紹撃破に従軍し、袁紹の死後、また黎陽における袁譚・袁尚討伐に従軍したが、立て続けに戦って何度もの勝利を挙げた。諸将は勝利に乗じてこのまま攻め寄せるつもりだったが、郭嘉は言った。「袁紹は息子二人を愛して嫡子を立てておらず、郭図・逢紀が彼らの謀臣となっておりますから、必ずや両者の間に紛争が起こり、かえって離ればなれになるでありましょう。追い詰められれば助け合い、見逃してやれば争いの心が生じます。荊州へ南進して劉表を征討する風を装い、彼らの異変を待つに越したことはございません。異変が起こってから攻撃すれば、一挙に平定することができまする。」太祖は言った。「素晴らしい。」そこで南征することにした。軍勢が西平まで到達したところで、袁譚・袁尚は案じた通り、冀州をめぐって争い始めた。袁譚が袁尚軍に打ち負かされて平原に逃げ込み、辛毗を遣して降服を申し入れてきたので、太祖は引き返して救援に向かい、(郭嘉も)そのままの平定に従軍した。また南皮における袁譚攻めに従軍し、冀州が平定されると、郭嘉は洧陽亭侯に封ぜられた。[一]

[一] 『傅子』に言う。河北が平定されたのち、太祖は青州・冀州・幽州・幷州の知名の士を多数招き、少しづつ臣従させてゆき(手足として)使いこなし、省事掾属とした。全て郭嘉の計略である。

太祖が袁尚および三郡の烏丸を征伐しようとしたとき、諸下(部下たち)の多くは、劉表が太祖を討伐せんと劉備を出して許を襲撃してくることを恐れた。郭嘉は言った。「公は天下に威光を震わせておいでですが、どもは遠方であることを当て込んで、必ずや防備を設けてはおりますまい。その無防備に乗じて、急遽これを攻撃すれば、破滅させることができます。しかも、袁紹は民衆・夷狄へともに恩沢を施しており、袁尚兄弟も健在なのです。ただいま四州の民衆はただ威厳に屈服しているだけで、恩徳はまだ施されておりませんから、(この地を)捨ておいて南征されれば、袁尚は烏丸の資金を投じ、主君のために死ねる臣下を招くでありましょう。胡人が一たび動けば、民衆・夷狄は一斉に呼応し、蹋頓の野心を刺激して覬覦(不遜)の計画を企図させることになり、青州・冀州は我らの所有ではなくなる恐れがございます。劉表なんぞは坐談の客に過ぎませぬ。劉備を制御する才能に不足していることは自分でも分かっており、重く任用すれば制御できなくなる懸念があり、軽く任用すれば働こうとしなくなる心配があるのです。国許をがら空きにして遠征しても、公はご心配に及びませぬ。」太祖はついに決行した。に到達したところで郭嘉が言った。「兵は神速を貴びます。いま千里(の道を駆けて)人を襲撃しておりますゆえ輜重は多く、有利(の地)へ馳せ付けることは困難です。しかも奴らがそれを聞けば、必ずや備えを固めることでしょう。輜重を残し、軽騎兵を(昼夜)兼行させて突出し、彼らの不意を衝くに越したことはございますまい。」太祖はそこで秘密裏に盧龍塞から出撃し、まっすぐに単于の地を目指した。どもの兵卒は、太祖が到着したと聞くと恐れおののきながら合戦した。(太祖は)彼らを大いに打ち破り、蹋頓および名王以下を斬首した。袁尚および兄袁煕遼東へと逃げていった。

郭嘉は深く計略に通じて情理に明るく、太祖は「ただ奉孝だけが孤の考えを分かってくれる」と言っていた。三十八歳のとき、柳城から帰還すると病気が重くなり、太祖から見舞いの使者が足繁くなった。薨去するに及び、(太祖は)その亡骸に対面して哀しみを極め、荀攸らに言った。「諸君らはみな孤と同年輩であるが、ただ奉孝だけが一段と若く、天下の事業が完成したなら後事を託すつもりであった。それなのに中年で夭折してしまうとは、天命であろうかのう!」そこで上表して言った。「軍祭酒郭嘉は征伐に従事するようになってから十有一年、大会議のあるたび、敵情に対応して変化を制御したものです。臣の計画がまだまとまらないうちに、郭嘉はあっさりと仕上げてしまうほどでした。天下を平定するにあたって計画を立てた功績は多大でありましたが、不幸にも寿命短く、事業を完成させることができませんでした。郭嘉の勲功を思い出せば、実に忘れがたいものです。食邑八百戸を加増し、都合一千戸とするのがよろしゅうございます。」[一]して貞侯と言い、子の郭奕が後を継いだ。[二]

[一] 『魏書』に掲載する太祖の上表に言う。「臣が聞きますには、忠節を賞して賢才を愛する場合、当人の身に限定されず、功労を思い業績を考える場合、恩寵は後継者にも盛んであるとのことです。そのために孫叔(敖)を敬って、その息子を顕彰して封侯し、岑彭が没したときも、爵位は庶家にまで及んだのです。の軍祭酒郭嘉は忠良にして慎み深く、物事に通達しておりました。大会議のあるたび発言は朝廷を満足させ、中道を採って処理に当たり、実行に際しても遺漏はございませんでした。軍旅に携わってから十年余り、行軍するときは同じ馬に跨り、休憩するときは同じ帳に座り、東方では呂布を生け捕り、西方では眭固を攻め取り、袁譚の首を斬り、朔土(河北)の軍を平らげ、険峻な城塞を越えて烏丸を鎮定し、遼東に威信を震わせて袁尚を梟首いたしました。たとい天の威光を持ちまして指図に容易であったとはいえ、敵を目前にして、宣旨を奉じて逆賊を滅ぼしたことにつきましては、その勲功は実に郭嘉によるものなのでございます。にこれから表彰しようとしたとき、短命にして早くに亡くなりました。上は朝廷の御為に良臣を痛惜し、下は自分のために奇才の喪失を恨めしく思うのであります。郭嘉の封地を追って加増し、都合一千戸となさるのがよろしゅうございます。亡き人を賞するのは生者のため、去る人に報いるのは来者を誘うためでございます。」

[二] 『魏書』では、郭奕が道理見識に通達していたと評している。郭奕は字を伯益といい、王昶の『家誡』に見えている。

のちに太祖は荊州征伐から引き揚げるに際し、巴丘で疫病の流行に遭遇したうえ、船を焼失してしまい、歎息しながら言った。「郭奉孝が健在であれば、孤をこうまで落ちぶれさせなかったであろうがのう。」[一]むかし陳羣は、郭嘉が模範的行動を心掛けていないことを非難し、たびたび郭嘉を提訴したのであるが、郭嘉は泰然自若としていた。太祖はいよいよ彼のことを尊重するようになり、その一方、陳羣が公正さをよく貫いているとも思い、やはり彼にも満足したのであった。[二]郭奕は太子文学となったが、早くに薨去した。子の郭深が後を継ぎ、郭深が薨去すると、子の郭猟が後を継いだ。[三]

[一] 『傅子』に言う。太祖はまた言った。「哀しいかな奉孝!痛ましいかな奉孝!惜しいかな奉孝!」

[二] 『傅子』に言う。太祖は荀彧に手紙を送り、郭嘉を追慕して言った。「郭奉孝は齢四十にも満たず、ともに駆けずりまわって十一年になるが、険阻であれ艱難であれ、みな一緒に被ったものであった。また彼の通達ぶりと、世の仕事における滞りのなさを見て、後事を託すつもりであった。思いがけず突然彼を失ってしまい、悲痛さに心が傷む。いま上表して彼の子をちょうど一千戸まで加増してやったところだが、それが死者に対してどんな利益になるだろうか。彼を思い起こしては感傷が深まるのだ。しかも奉孝といえば孤を理解してくれた者なのだ。天下の人々をこぞっても理解してくれる者は少ない。そのことでもまた痛惜される。なんたることぞ、なんたることぞ!」また荀彧に手紙を送って言った。「奉孝を追惜する思いを心から消すことができぬ。かの人の時事や兵事に対する見解は、人倫を超越していた。それに人間というのは大概病気を恐れるものだが、南方で疫病が起こっていても、いつも『吾が南方に行けば、生還することはできまい』と言うだけで、しかしながら一緒に計略を議論しているときには、まず荊州を平定すべきと申しておったのだ。これはただ計略が真心から出ていたというだけでなく、必ずや功績を立て、命を棄ててでも成功させたいと願っておったということなのだ。他人に尽くす心はこれほどであった。どうして人が彼のことを忘れられよう!」

[三] 『世語』に言う。郭嘉の孫郭敞は字を泰中といい、才能見識があり、官位は散騎常侍であった。

董昭伝

董昭公仁といい、済陰定陶の人である。孝廉に推挙されたのち、廮陶県長柏人県令に任じられ、袁紹参軍事とした。袁紹が界橋において公孫瓚を迎撃したとき、鉅鹿太守李邵および郡の実力者たちは、公孫瓚の軍勢が強力だとて、みな公孫瓚に荷担しようとしていた。袁紹はそれを聞いて董昭に鉅鹿を領させ、訊ねた。「なんとして防ぐ?」答えて言う。「一人の微力さでは大勢の企てを消すことができませんから、彼らの心を誘うため、同調して謀議に加わろうかと思います。奴らの実情をつかんでから、その場の判断によって制御するだけのことです。計略はその場に居合わせてこそ出てくるものですから、まだ申し上げることはできませぬ。」ときに郡の右姓(豪族)孫伉ら数十人が勝手に指導者面をして、官吏民衆を煽動していた。董昭は郡に到着すると、袁紹の郡への檄文を偽作して宣言した。「賊の斥候である安平張吉の供述を得られた。(公孫瓚が)鉅鹿を攻撃するに際して、賊のの孝廉孫伉らが内応する手筈とのことである。檄文が届いたならば軍法を執行せよ。罪悪は当事者の身に留め、妻子を連座させることのないように。」董昭は檄文を根拠として命令を下し、みなを即座に斬首した。郡内はこぞって恐慌状態になったが、それから次第に落ち着いてゆき、最後にはすっかり平穏になった。仕事が片付いてから袁紹に報告すると、袁紹も素晴らしいものだと称えた。そのころ魏郡太守栗攀栗成)が兵士に殺害されたため、袁紹は董昭に魏郡太守を領させた。このとき領内では大規模な反乱が起こっており、賊徒は万単位で数えられた。(彼らは)使者を往来させて市場で交易していたので、董昭はそれを手厚く待遇し、そのまま利用して間者となした。虚に乗じて奇襲をかけると、あっけなく撃破して大勝利を収めた。二日のうちに羽檄(捷報?)は三たびも届けられた。

董昭の弟董訪張邈の軍中にいた。張邈と袁紹とは仲が悪かったため、袁紹は讒言を信じて董昭を処刑しようとした。董昭は(逃亡して)献帝劉協)の元に参詣しようとしたが、河内まで来たところで張楊に抑留された。張楊を通じて印綬を返上し、騎都尉を拝命した。当時、太祖曹操)が兗州を領しており、使者を張楊の元に派遣して、長安に西上するので道を貸して欲しいと申し入れていたが、張楊は承知しなかった。董昭は張楊を説得して言った。「袁・曹は一家族のようになっておりますが、情勢からいって永久に仲間ではいられませぬ。曹はいま劣勢ではございますが、しかし実のところは天下の英雄であります。彼と手を結ぶ故になりましょう。ましてや、いま機会ができたのですから、彼に(天子への)ご挨拶を通じさせてやり、同時に上表して彼を推薦なさるのがよろしゅうございます。もし事業が完成いたしますれば、親密な関係は永久に続きましょう。」張楊はそれを承けて太祖の挨拶を通じさせてやり、上表して太祖を推薦した。董昭は太祖のために長安の諸将李傕・郭氾らに手紙を送り、それぞれの身分に従って慇懃な礼を尽くした。張楊もまた太祖の元に使者を派遣した。太祖は犬・馬・金・絹を張楊に贈り、こうして西方と往来するようになった。天子の安邑に行在されたとき、董昭は河内から出かけてゆき、詔勅により議郎を拝命した。

建安元年(一九六)、太祖はにおいて黄巾賊を平定すると、使者を河東へと派遣した。ちょうど天子は洛陽に帰還したところであったが、韓暹・楊奉・董承および張楊はそれぞれに後ろ暗いところがあり仲が悪かった。楊奉が最強の兵馬を抱えながら支援してくれる仲間が少なかったことから、董昭は太祖の手紙を(代わりに)書いて楊奉に送った。「は将軍が名誉を求め、正義を慕う方であると信じ、こうして真心をお伝えします。いま将軍は万乗(の君主)を艱難から救い出し、旧都へと戻されました。補佐翼賛の功績は一世に超越して比肩する者はありません。なんとめでたきことでしょうか!いまや群れなす凶徒どもがさんとしており、天下は未だ静謐ならず、この上なく尊い神器は、補佐の如何に掛かっております。あまたの賢者を迎えて王道を清める必要があり、真実、一人の独力でもって成し遂げられるものではありません。心、腹、四肢は実際のところ支え合っているもので、一つでも不足していれば欠陥があるということになります。将軍は内部で主導してください。吾が外部で支援しましょう。ただいま吾には食糧があり、将軍には軍兵があり、互いに欠けているものを融通し合えば、ともに充足することができます。死生の契闊をともに分かち合いましょう。」楊奉は手紙を受け取って喜び、将軍たちに語った。「兗州諸軍がすぐ近くの許にあり、軍勢も食糧も抱えておる。国家が頼りにすべき相手だ。」こうして連名で上表して太祖を鎮東将軍とし、父の爵位を継がせて費亭侯とした。董昭は符節令に昇進した。

太祖は洛陽に上って天子に拝謁すると、董昭を招き、傍らに座らせて訊ねた。「いまはここまでやって来たわけだが、いかなる計略を実施すべきであろうか?」董昭は言った。「将軍が義兵を挙げて暴虐を誅し、天子に拝謁して王室を翼賛されたのは、これぞ(春秋の)五伯の功績でございます。ここに控えおる諸将は一人ひとり意見が違っており、必ずしも服従しているわけではありません。いま(洛陽に)留まって輔弼なさるのは、成り行きによっては不便を被ることになりますから、ただ御車を移して許に行幸させるだけです。とはいえ、朝廷は流浪のすえ、ようやく旧京に帰ってきたばかりですので、遠きも近きも、首を長くして朝廷挙げての平安を願っております。ここでまたもや御車をお移しするとなれば、人々の心を満足させられますまい。そもそも尋常でない仕事を行ってこそ、初めて尋常でない功績が立てられるのです。願わくば将軍よ、その多い方を計算してくださいませ。」太祖は言った。「それこそ孤の本望だ。(しかし)楊奉がすぐ近くのにおって、その軍勢は精強であると聞く。孤の足手まといにはならぬだろうか?」董昭は言った。「楊奉は支援する仲間が少なく、単独で(将軍に)臣従しようとさえしているのです。鎮東・費亭の一件も、全て楊奉が決めたことなのです。それに、文書を交わした契約は信頼を置くのに充分である、とも申します。事あるごとに手厚い贈り物で返礼して彼を安心させるとともに、『京都には食糧がないので、車駕をひとまず魯陽に行幸させたい。魯陽は許に近く、輸送も少しはやりやすくなり、遠方ゆえに欠乏するという心配をなくすことができる』と説得するのがよろしゅうございます。楊奉の人となりは勇敢でありますが思慮は浅く、必ずや疑われることはありますまい。使者が往来している間にも計画を定めることができましょう。楊奉なんぞがどうして足を引っ張れましょうや!」太祖は言った。「素晴らしい。」すぐさま使者を楊奉の元にやり、御車をして許に到着した。楊奉はそれからというもの希望を失い、韓暹らとともに定陵へ行って略奪を働いた。太祖は応戦せず、梁まで密行して彼らの陣営を攻撃し、降服させたり誅殺したりして、即日平定した。楊奉・韓暹は人数を失い、東行して袁術に帰参した。三年、董昭は河南尹に昇進した。そのころ、張楊が配下の将楊醜に殺され、張楊の長史薛洪河内太守繆尚が城を固めて袁紹の救援を待ち望んでいた。太祖の命により董昭が単身入城して薛洪・繆尚らを説得すると、(薛洪らは)その日のうちに軍勢を挙げて降服した。董昭を冀州とした。

太祖が劉備に命じて袁術を防がせたとき、董昭は言った。「劉備は勇敢にして野心大きく、関羽・張飛が彼のために羽翼となっております。劉備の心はまだ測りかねまするぞ!」太祖は言った。「吾はもう決めてしまったのだ。」劉備は下邳に到着すると、徐州刺史車胄を殺して反逆した。太祖は自身で劉備を征討し、董昭を徐州牧に転任させた。袁紹が将顔良を派遣して東郡を攻撃したとき、また董昭を魏郡太守に転任させて顔良討伐に従軍させた。顔良の死後、進軍して城を包囲する。袁紹一門の袁春卿が魏郡太守として城中にあり、その父袁元長揚州にあったため、太祖は人をやって彼を迎え入れた。董昭は袁春卿に手紙を送って言った。「思いまするに、孝子は利益のため親に背かず、仁者は私欲のため君を忘れず、志士は幸運を望んで乱を願わず、智者は自己を危険に陥れてまで邪道を行わない、と聞き及んでおります。足下大君が、往昔、内地の災難を避けて南方は百越の地に遊ばれたのは、骨肉を疎まれたのではなく、かの呉会を願われたからでした。智者の深い見識があって初めて、そのように決断できるのでしょう。その志を貫いたことと高潔さによって仲間と離ればなれになったことを、曹公(曹操)は憐れみ、それゆえ格別に使者を江東へ遣され、迎える者もあれば送る者もあって、今にでも到着しそうな様子です。たとい足下が偏平の地(平和な地方)に立ち、徳義の主に仕え、泰山の固きに拠り、喬松(長寿の仙人王子喬・赤松子)の友に加わろうとも、道義的に言えば、それでもそちらに背いてこちらへ向かい、民草を捨てて父親にすがるものでしょう。しかも、儀父が初めて隠公と会盟したとき、の人々はそれを歓迎しつつも爵位を記さなかったことがありますが、さすれば王がまだ任命していなければ、爵位の尊貴さは完成しないというのが春秋の道義なのです。ましてや、足下が今日(身を)託しておられるのは危険の国、受けているのは虚偽の命なのですから、なおさらのことでしょう?もし不逞の輩と付き合って、自分の父を思いやらないのであれば、孝と言うことはできませんし、祖先のおわします本朝を忘れて、未だ正式でない奸職に就かれるのであれば、忠と言うことはむつかしく、忠・孝ともにお捨てになるのであれば、智とは言い難いのです。それに足下は昔日、曹公から鄭重に招聘されました。そもそも一族とは親しんで生みの親を疎んじ、仮住まいを内として王室を外とし、不正な禄をもらって知己の恩に背き、幸福を遠ざけて危険を近づけ、高らかな道義を棄てて大きな恥辱を拾われる。なんと勿体ないことではありませんか!もし翻然と態度を改め、帝を奉じて父を養い、我が身を曹公に委ねられますれば、忠孝は失われず、栄誉は高められましょう。深く計算を徹底し、速やかに良策を決行してください。」鄴が平定されると、董昭を諫議大夫とした。のちに袁尚烏丸蹋頓に身を寄せたので、太祖はこれを征伐しようとしたが、軍糧の輸送が困難であろうと懸念された。平虜・泉州の二つの運河を掘って海へ引き、運送を通じさせたのは董昭が建議したものである。太祖は上表して(董昭を)千秋亭侯に封じ、転任して司空軍祭酒を拝命した。

のちに董昭は建議した。「古代に倣って五等の封爵を建設するのがよろしゅうございましょう。」太祖は言った。「五等を建設するのは聖人である。それに人臣の制定するものではない。吾なんぞがどうして応えられようか?」董昭は言う。「古代以来、人臣として世を正すのに、今日ほど功績を立てた者はありませんでした。今日ほど功績を立てていても、長らく人臣の姿勢を保ち続けた者はありませんでした。いま明公は徳の薄さと善行の不充分さを恥とし、名誉節義を保ちつつ大きな過失を犯さぬよう願っておられますが、盛徳のうるわしさは伊(尹)・周(公)(古代の名臣)を上回り、これこそ至高の徳義を極めたものでございます。さりとて太甲・成王(伊・周の主君)は必ずしも出会えるとは限りませぬ。いま民衆が教化を受け入れざる有様は殷・周よりもひどく、大臣の姿勢を保つのは他人から大それた意図を疑われることになり、誠に熟慮せずにはいられませぬ。明公は威厳恩徳に高らか、法律政治に明らかではございますが、それでも、その基礎を定めなければ、万世の計略を立てようとしても達成いたしかねましょう。基礎固めの要諦は、地と人とにございます。少しづつ建立を進めてゆき、ご自身の藩塀となさるのがよろしゅうございましょう。明公の忠義は歴然、天の威光がお顔に現れておりますゆえ、耿弇の牀の下での言葉、朱英の思いがけぬことについての議論でさえ、お耳に入ることはできますまいが、董昭は非凡の恩義を受けており、あえて言上せずにはいられないのでございます。」[一]のちに太祖はついに魏公・魏王の号を拝受したが、みな董昭が口火を切ったものである。

[一] 『献帝春秋』に言う。董昭は列侯・諸将と議論し、丞相(曹操)の爵位を進めて国公とし、九錫を持たせることで殊勲を表彰すべきだと考え、荀彧に手紙を送って言った。「むかし周旦・呂望周公旦・太公望呂尚)は氏の最盛期に直面し、二聖(文王・武王)の偉業を足がかりに成王の幼時を助けました。このような(達成しやすい)勲功であっても、なお高い爵位を拝受し、領土を賜って建国できたのです。末世の田単も強力な軍を駆って、衰弱したへの恨みを晴らし、七十城を回復して襄王を呼び戻しました。襄王は田単に褒美を取らせ、東では掖邑の領土を、西では菑上の娯楽(?)を与えたのです。過去においては、これほど手厚く功績に報いたのでございます。ただいま曹公は、海内の転覆と宗廟の焼失に遭遇され、甲冑に身を固めて征伐に駆けずりまわり、風でくしけずり雨を浴びること三十年にならんとしており、群れなす凶徒どもを刈って百姓たちのために害を除き、漢室を復旧して劉氏に祭祀を行わせられました。それを過去の方々と比較するのは泰山と小さな丘とを比較するようなものであって、どうして同日に論じられるものでありましょうか?今、考えもなく諸将・功臣とともに一県に封じているばかりですが、それが果たして天下の希望に沿ったものでしょうか!」

関羽が曹仁を包囲したとき、孫権が使者を派遣して「軍兵を西上させて関羽を襲撃いたしたく存じまする。江陵・公安は重鎮でありますので、関羽は二城を失えば必ずや自分の方から敗走いたし、樊軍の包囲も救わずして自ずと解けるというものです。関羽に備えさせぬため、なにとぞご内密にしてお漏らしなきよう」と言ってきた。太祖が羣臣に諮ったところ、羣臣もみな内密にすべきだと言った。董昭は言った。「軍事は権謀を尊び、(その時々の)都合に合わせるものです。孫権には内密にすると答えておきつつ、一方ではこっそり知らせておくのがよろしゅうございます。関羽が孫権の進軍を聞いて、もし引き揚げて自衛に努めたならば、包囲は速やかに解け、その利益はすぐにでも得られますし、賊軍双方にをかませて対峙させておけば、彼らの疲弊を座ったまま待つばかりです。内密にして知らせないというのは、孫権の野心を満たしてやることになり、上計ではございませぬ。また、包囲内の将兵が救援あることを知らなければ、食糧を計算するたびに恐怖を抱き、万一、二心を抱いて小さからぬ困難を起こすこともありましょう。これを知らせるのが都合に適っております。それに、関羽の人となりは強情でありますゆえ、二城の守備の堅固さを自負して、決してすぐには引き返さないことでしょう。」太祖は言った。「素晴らしい。」すぐさま救援軍の将徐晃に命じ、孫権の書状を包囲内および関羽陣内に射込ませた。包囲内ではそれを知って志気百倍である。関羽はやはり猶予した。孫権軍が到来して彼の二城を手に入れると、関羽は破滅した。

文帝曹丕)は王位に就くと、董昭を将作大匠に任じた。践祚したとき大鴻臚に昇進、封爵を右郷侯に進められた。(黄初)二年(二二一)、食邑から百戸を分割して、董昭の弟董訪に関内侯の爵位を賜い、董昭を侍中に異動させた。三年、征東大将軍曹休洞浦口に在陣し、長江に睨みをきかせつつ上表した。「精兵を率いて江南をのし歩きたく存じまする。そうして敵の物資を奪ってゆけば計画は必ず成功いたしましょう。もしが無くとも、ご懸念には及びませぬ。」帝は曹休が不用意に長江を渡るのを恐れ、駅馬を走らせて中止の詔勅を下した。そのとき董昭はお側に侍っていたので、そこで言った。「恐れながら陛下のご憂慮の色を拝察いたしました。曹休が長江を渡ることだけが問題なのでしょうか?ただいま長江を渡ることは人情として従いにくく、たとい曹休にそのつもりがあったとしても、実状からいえば単独で行くことはできず、諸将(の支持)が必要になります。臧霸らはすでに富貴の身であり、それ以上に望みはなく、ただ天寿を全うすること、俸禄を保持することだけを願っております。どうして危険を冒して死地に身を投じ、幸運を求めることを承知いたしましょう?もし臧霸らが賛成しなければ、曹休の気持ちも自然と落ち着くことでしょう。臣が恐れますのは、陛下が渡河を命ずる詔勅を下されても、なお思惑を深めて、すぐにはご命令に従わないことでございます。」それから間もなく、暴風が賊の艦船に吹き付け、残らず曹休らの陣営まで漂流させた。斬首したり捕虜にしたりすると賊兵どもは逃げ散った。詔勅を下して諸軍の渡河を督促したが、軍がすぐさま進発しなかったため、賊軍の救援船が到着してしまった。

御車がに行幸したとき、征南大将軍夏侯尚らは江陵を攻撃していたが、まだ陥落させられずにいた。そのとき長江は(水量が少なかったため)浅くて狭く、夏侯尚は歩騎を率いて乗船し、渚に入って屯所を構え、浮き橋を作って南北に往来できるようにしたいと考えた。論者の多くは(そうすれば)城を必ず陥落させられるだろうと言った。董昭は上疏して言った。「武皇帝(曹操)の智勇は人並みに外れ、用兵は敵軍を恐怖させるほどでしたが、このように(敵を)軽んじることはございませんでした。そもそも軍事において進軍を尊んで撤退を卑しむのは当然の理でございますが、土地が平らで険阻でない場合においてさえ困難があるくらいですから、深く進入するに当たっては退路をよくよく整備しておくことが必要です。軍事には進退が付き物で、思った通りにはなりません。いま渚に駐屯するというのは深さの極み、浮き橋で渡るというのは脆さの極み、道一つで通行するというのは狭さの極みであります。三つとも兵家の戒めるところですが、ただいま、それを実行しているのです。賊兵が何度も橋を攻撃するうち、万が一にも失陥するようなことがあれば、渚の精鋭はの所有ではなくなり、一転してのものに変化いたしましょう。臣は密かにそれを心配して寝食を忘れるほどですのに、論者たちが満悦して憂慮を抱いていないのは迷妄ではありますまいか!しかも長江の水量は増えつつあります。もし一日でどっと急増したなら、どうやって防ぐのでございましょうか?たとい賊軍を破れずとも自身は完全であるべきです。どうして危険を冒しながら恐怖せずにいられましょう?事態は危険に迫りつつあります。陛下、これをお察しくださいますよう!」帝は董昭の言葉にはっと気が付き、すぐさま詔勅を下して夏侯尚らに撤退するよう督促した。賊軍が二手に分かれて進んできたのに対し、官軍は道一つで撤退することになったため、すぐにはることができず、将軍石建・高遷などは自力でようよう落ち延びたほどであった。軍兵が撤退して十日ばかりで長江の水量は激増した。帝は言った。「この一件についての君の議論は、なんと明瞭であったことか!いま張(良)・陳(平)に関わらせたとしても、何を付け加えることがあろう。」五年、成都郷侯に移封され、太常を拝命した。その年、光禄大夫・給事中に転任した。御車の東征に随従して、七年に帰還、太僕を拝命した。明帝曹叡)が即位すると、爵位を楽平侯に進められて食邑千戸となり、衛尉に転任した。食邑百戸を分割して、子一人に関内侯の爵位を賜った。

太和四年(二三〇)に行司徒事(司徒職の代行)となり、六年には正規に任官された。董昭は上疏して末世の風俗の弊害について陳述した。「およそ天下を握った者のうち、質朴忠実の士を尊ばぬ者はありませんでした。虚偽不実の人を深く憎んだのは、彼らが政治を混乱させたり風俗を損壊したりするからです。近くは魏諷が建安年間(一九六~二二〇)末期に誅殺され、曹偉が黄初年間(二二〇~二二七)初期に処刑されました。伏して思いまするに、前後にわたる詔勅では軽薄さと偽りとを深く憎まれ、邪悪な一党をぶちのめしたいものだと、いつも歯軋りしておられました。ところが法律を扱う役人たちはみな彼らの威勢を恐れ、糾弾摘発する者がなかったのでございます。風俗の破壊は次第次第にひどくなりつつあります。密かに現代の若者たちを観察いたしますれば、学問を根本であるとは思わず、その替わりに交遊することばかりに専念し、国士でさえ孝行清潔を第一とはせず、なんと権勢にすり寄って利益追求を優先する有様でございます。徒党を組んで群れを連ね、お互いを褒め合い、誹謗中傷によって処罰代わりにしたり、徒党の評判でもって賞賜代わりにしたりして、自分たちに味方する者には歎じて言葉をれさせ、味方せぬ者には瑕釁(難癖)を付けております。その挙げ句、『この時代、どうして世渡りできぬことを心配することがあろう、(もし失敗するとすれば、その理由は)ただ人脈作りに励まぬせいで顔の広くないことだけである。またどうして己の知られないことを心配することがあろう矣、ただ薬を飲ませて懐柔するだけである』と言い合うまでになりました。また聞いたところでは、ある人物が子飼いの食客に官僚の家人だと名乗らせ、それを出入りの口実として禁中にまで往来させており、行き交う公文書が検閲されている場合があるとのこと。大体このような行為は、みな法の摘発せぬところ、刑の容赦せぬところであって、魏諷・曹偉の罪でさえもこれ以上ではありますまい。」帝はこのことから問責の詔勅を発し、諸葛誕・鄧颺らを罷免することとした。董昭は八十一歳で薨去し、定侯された。子の董胄が後を継いだ。董胄は郡守・九卿の官位を歴任した。

劉曄伝

劉曄子揚といい、淮南成悳の人であり、光武帝劉秀)の子阜陵王劉延の子孫である。父は劉普、母はといい、劉渙と劉曄を産んだ。劉渙が九歳、劉曄が七歳のとき、母は病気にかかり、臨終のとき劉渙・劉曄に注意を与えた。「劉普の側近には、おべっかを使って他人を陥れるような性質があります。が死んだあと、我が家をきっと混乱させるでしょうから気がかりです。お前たちが大きくなってあれを取り除いてくれたら、には思い残すことはありません。」劉曄は十三歳になったとき、兄劉渙に告げた。「亡き母の言葉を実行しましょう。」劉渙は言った。「そんなことはできないよ!」劉曄はすぐさま部屋に入って側近を殺し、その足で家を出て墓参りをした。家中の者が大いに驚いて劉普に報告すると、劉普は腹を立て、人をやって劉曄を追いかけさせた。劉曄は帰ってくると謝罪して言った。「亡き母のご遺言です。勝手な振る舞いに対するご処罰は覚悟しています。」劉普は内心奇特なことだと思い、結局、責め立てることはなかった。汝南許劭は人物評価で知られていたが、揚州に避難してきたとき、劉曄には一世(の英雄)を補佐する才能を有していると称えた。

揚州の士人には狡猾な任俠気取りが多く、鄭宝・張多・許乾といった連中がいて、それぞれに部曲を擁していた。鄭宝がとりわけ勇壮果敢で、才能実力が人並み以上であったため、その地方では畏怖されていた。(鄭宝は)百姓たちを駆り立てて江表(長江南岸)へ渡ろうと考えていて、劉曄が皇族出身の名士であったので、この計画の仮の指導者になるよう強要しようとした。劉曄はこのとき二十歳余りであったが、内心それを疎ましく思ったものの、なかなか機会に恵まれなかった。ちょうどそのころ太祖曹操)が使者を派遣して州へ行かせ、検分させていた。劉曄は会いに行って状勢を論じ、一緒に連れて行ってくれと頼み込んだが、数日間、足止めをくらった。案の定、鄭宝が数百人を連れ、牛酒を提げて使者への挨拶をしにきた。劉曄は、家僮(家で雇った使用人)に命じて手勢とともに中門の外側に座らせ、彼らのために酒食を設け、鄭宝と一緒に(外門の)内側で酒宴をさせた。密かに命知らずの若者に言い含め、酌をするふりをして鄭宝を切らせることにしたが、鄭宝は生まれつきの下戸であったため、様子を窺ってみても意識ははっきりしていて、酌をした者も決行することができなかった。劉曄はそこで自分から佩刀を抜いて鄭宝を切り殺し、その首を斬ってから彼の軍兵に向かって宣言した。「曹公のご命令だ。行動を起こす者あらば鄭宝と同罪であるぞ。」人々はみな肝をつぶし、陣営へと逃げ帰った。陣営には督将と精兵数千人がいたため、彼らが騒ぎを起こすことを恐れた劉曄は、すぐさま鄭宝の馬に跨り、家僮数人を連れて鄭宝陣営の門まで行き、その渠帥たちを怒鳴りつけて利害を説得したところ、みな平伏しつつ開門して劉曄を入れた。劉曄が慰撫を加えて落ち着かせると、みな残らず帰服を願い、劉曄を推し立てて主君に仰いだ。劉曄は、漢室が次第に衰退しつつあり、自分がその支流であることを鑑みて、軍勢を抱えることを望まず、そのままその部曲を廬江太守劉勲に委ねた。劉勲がその理由を訝しがると、劉曄は言った。「鄭宝には統制がなく、その手勢は日ごろ略奪によって利益を上げておりました。にはもともと資金力がありませぬゆえ、彼らを厳正に取り締まるとすれば、必ずや恨みを買うことになり、長続きはいたしますまい。それゆえ譲渡いたしたまでです。」そのころ劉勲の軍勢は長江・淮水一帯で精強を誇っていた。孫策はそれを不快に思い、使者をやって慇懃な言葉とともに手厚い贈り物をし、手紙を書いて劉勲を説得した。「上繚宗民どもはしばしば下国を裏切りましたので、彼らに対して積年の恨みを持っております。これを撃ちたくとも道路が通じておりませぬゆえ、願わくば貴国より討伐していただきたく存じます。上繚はきわめて裕福でありますから、それを押さえれば貴国を富裕にすることができます。どうか軍勢を催され、国外の支援者となってくださいますよう。」劉勲はそれを信用し、しかも孫策の真珠・宝玉・葛越を手に入れたことを喜んだ。外内はみな祝賀を述べたが、劉曄だけが賛同しなかった。劉勲がその理由を訊ねると、答えて言った。「上繚は小さいながら、城は堅くて堀は深く、攻めるに難く、守るに易いところです。十日以内に(成果を)挙げられなければ、外では兵士を疲労させ、国内は空っぽになります。孫策が虚に乗じて我らを襲撃したならば、後方では単独で守りきることはできますまい。このことは将軍が前進しても敵軍に挫かれ、後退しても帰るべき場所がなくなるということです。もし軍勢をどうしても進発させるとなれば、災禍は今にも到来いたしましょうぞ。」劉勲は聞き入れず、軍勢を催して上繚を討伐した。孫策は案の定、その後方に襲いかかった。劉勲は切羽詰まり、そのまま太祖のもとへ出奔した。

太祖が寿春まで来たときのこと、廬江の境界あたりでは山賊の陳策陳蘭?)が軍勢数万人を抱え、要害を楯にして守りを固めていた。以前、偏将(部将)をやって誅伐させたときは、捕まえて勝利することができなかった。征伐することができるであろうかと太祖が訊ねたところ、部下たちはみな「山は高く険しく、谷は狭く深い。守るに易く、攻めるに難きところでございます。しかも失っても損害というほどでもなく、手に入れても利益というほどではございませぬ」と言った。劉曄は言った。「陳策らの小わっぱどもは混乱に乗じて要害に拠り、互いに依存し合うことで強がっているだけで、爵位命令の威信によって帰伏させているわけではありませぬ。以前は偏将の身分が軽かったこと、そして中国がまだ平定されていなかったがために、陳策はあえて要害に入って楯籠ったのであります。いま天下はほぼ平定され、後で降伏した者から先に誅伐されます。そもそも死を恐れて褒美に走るのは、愚者も賢者も同じであり、それゆえ広武君李左車)は韓信のために画策し、その威名をもってすれば宣伝を先にして実行を後にすれば隣国を服従させることができると述べたのであります。そのうえ明公の恩徳は、東方を征討すれば西方が残念がるほどであります。まずは(降服するよう)賞金付きで招いてやり、大軍でもって威圧をかければ、宣言を出したその日のうちに軍門は開かれ、賊軍は自壊するでありましょう。」太祖は笑いながら言った。「の言葉の方が優れておる!」かくて猛将を先鋒とし、本軍は後詰めとしたところ、到着するなり陳策に打ち勝つことができた。劉曄の予測した通りになったのである。太祖は引き揚げてから、劉曄を招いて司空倉曹掾とした。[一]

[一] 『傅子』に言う。太祖は劉曄および蔣済・胡質らの五人を徴し寄せたが、いずれも揚州の名士であった。亭伝(駅舎)で休息を取るたびに議論を交わさぬことはなく、そうして尊重の意を示したのである。内政面では国々の先達たち、盗賊に対する防備、軍勢を進退させる機微について、外事面では敵軍の変化を察知する方法、彼我の実状と虚勢、戦争の手立てなど、朝から晩まで夢中になった。ところが劉曄だけはひとり車内で横になり、結局、一言もしゃべらなかった。蔣済が不思議に思って訊ねてみると、劉曄は答えた。「明主と分かり合うには精神をもってする以外にはありえない。精神は人真似によって得られるものであろうか?」太祖と(正式に)会うことになったが、太祖はこのときも揚州の先達たち、賊徒どもの状況について訊ねた。四人は先を争って答えようとし、(後に回された者でも)順番が来るなりすぐさま発言した。そのようにして二度の会見が行われ、太祖はいずれの場合にも満足げであった。しかし劉曄は結局、一言もしゃべらぬままであったので、四人は彼のことを笑いものにした。後日、また会見する機会があって、太祖がふと沈黙して次の質問を出すまでのあいだ、劉曄ははじめて深遠なる言葉を示して太祖を揺り動かし、太祖も、はたと悟るものがあって黙り込んだ。こうしたことが三たびくり返された。その趣旨は、深遠なる言葉は精神から導きだすものであるから、単独会見によってその精密な議論を語り尽くすべきであって、多数の入り交じる座上で語るべきでない、というものであった。太祖はとくと彼の心意を察し、会見を終えたのち、ほどなく四人を県令とし、劉曄には腹心の任務を委ねたのである。職務上の問題があれば、そのつど手紙を出して劉曄に質問し、一晩のうちに督促が十回来ることもあった。

太祖は張魯を征討するにあたり、劉曄を主簿に異動させた。漢中に着陣したとき、山が険しくて登るのも難しく、兵糧はかなり乏しくなっていた。太祖は言った。「これはまやかしの国だ。どうやって虚無と現実を見定められよう?我が軍は食糧が不足しておるから、速やかに帰還するに越したことはない。」ただちに自分は(軍勢を)まとめて引き返し、劉曄には後方の諸軍を監督させ、順次、引き揚げさせることにした。劉曄は、張魯に打ち勝つことは可能であるし、しかも食糧輸送の道が絶たれている以上、引き揚げたとしても軍勢を十分に全うすることはできないと考え、太祖のもとへ駆け付けて「攻撃をかける方がよろしゅうございます」と言上した。こうして進軍することになり、数多くのを持ち出して彼らの陣営に浴びせかけると、張魯は逃走し、漢中はすっかり平定された。劉曄が進み出て言った。「明公は歩卒五千でもって董卓を誅伐せんとされ、北は袁紹を破り、南は劉表を征せられ、九州百郡のうち十中の八を併合されました。威光は天下を震わし、勢力は海外を恐れさせております。いま漢中を落とされましたので、の人々は噂を聞いただけで胆をつぶし、落ち着きを失っております。これに乗じて進軍なされば、蜀は檄文を飛ばすだけで平定できましょう。劉備は人傑でございまして、度量は大きいのですがのろまでもあり、蜀を手に入れてから日も浅く、蜀の人々はまだみとしておりませぬ。いま漢中を落とされますと、蜀の人々は恐怖に打ち震え、みずから倒れようとしているのが実状です。公の神明でもって、その倒れように乗じて圧力を加えるのですから、勝てないはずがありませぬ。もし少しでも緩めてやれば、諸葛亮が統治の明るさでもって宰相を務め、関羽・張飛が三軍に冠たる勇ましさでもって将帥を務めておりますから、蜀の民衆がひとたび安定して、険阻要害に楯籠るようなこととなれば、手を着けられなくなります。いま攻略せねば必ずや後日の憂いとなりましょうぞ。」太祖は聞き入れず、[一]大軍はそのまま引き返した。劉曄は漢中から引き揚げるにあたって行軍長史を務め、領軍を兼ねた。延康元年(二二〇)、蜀将孟達が軍勢を率いて降服してきた。孟達は容姿に秀でて才能見識の持ち主であったので、文帝曹丕)ははなはだ敬愛して孟達を新城太守とし、散騎常侍の官を加えた。劉曄は「孟達は強欲な心を持ち、才能を当て込んで術策を好みますゆえ、きっと恩義に感謝することはありますまい。新城は呉・蜀に隣接しておりますゆえ、もし態度を変えるようなことがあれば国家の患いが生じましょうぞ」と言ったが、文帝は結局改めることなく、後年、孟達は叛乱に失敗して死んだのであった。[二]

[一] 『傅子』に言う。在陣して七日、蜀からの降人が「蜀の地では一日に数十回もの騒動が起こり、劉備がその者を斬っても落ち着かせられないでいます」と証言した。太祖が劉曄を呼んで「今ならまだ攻撃できるのではないか?」と訊ねると、劉曄は「今ではもう少し安定しましたので、攻撃することはできません」と答えた。

[二] 『傅子』に言う。かつて太祖の時代、魏諷には重々しい名声があり、九卿・宰相以下、みな熱心に交わりを持とうとした。その後、孟達が劉備のもとを去って文帝に身を寄せたときも、論者の多くが楽毅の器量を備えていると称えた。劉曄は魏諷・孟達を一目見ただけで、必ずや反逆するであろうと言い、結局、その言葉通りになった。

黄初元年(二二〇)、劉曄を侍中とし、関内侯の爵位を賜った。関羽のために劉備が出征して呉に報復するであろうか予測せよとの詔勅による諮問が羣臣に下された。人々の議論はみなこうであった。「蜀は小国に過ぎず、名将といえば関羽のみ。関羽が死んで軍勢は破られ、国内は憂い、恐れております。もう出征する余裕もありますまい。」劉曄だけがこう言った。「蜀は狭く弱いとはいえ、しかしながら劉備の考えでは、武威でもって自分たちを強く見せかけたいはずで、自然、軍勢を用いてその余裕あるところを誇示するであろうことは必定でございます。そのうえ関羽と劉備は、義において君臣であり、恩においても父子のようなもの。関羽が死んでも軍勢を催して復讐できなければ、永遠の誓いを全うできないのでございます。」後年、劉備は果たして出兵して呉を攻撃をかけ、呉は国家を挙げてこれに対応するとともに、(魏へ)使者を派遣してを称してきた。朝臣はみな祝賀したが、ただ一人、劉曄は言った。「呉は長江・漢水の向こう岸で屹立しており、入朝し、臣従する心は久しくありませんでした。陛下は有虞に等しき徳を備えておられますのに、それでも醜悪な奴らの性質は、いまだに感悟するところがございませぬ。災難のために臣従を求めているのであって、必ずしも信用いたしがたいのであります。彼らは外圧に苦しみを感じ、そこまできて初めて、この使者を出したに過ぎませぬ。彼らの困窮に乗じて襲いかかり、これを攻略するのがよろしゅうございましょう。そもそも、一日敵を見逃せば、数世代にわたる患いとなるもの。ご明察いただかぬわけには参りませぬ。」劉備が戦いに敗れて撤退すると、呉はその途端、拝礼・表敬をやめてしまった。帝は軍勢を催して討伐せんと企て、劉曄が「彼らは念願を遂げたばかりですから、上下がともに心を合わせております。しかも江湖を抱えて抵抗いたしますゆえ、必定、早急に片付けるのは困難でございましょう」と言っても、帝は聞き入れなかった。[一]五年、広陵泗口に行幸し、荊州・揚州の諸軍に同時進攻を命じた。羣臣を集めて「孫権は自分で来るだろうか?」と下問すると、みな「陛下がご親征遊ばされたうえは、孫権は恐怖して国家を挙げて対応するのは必定でございます。それに(寝返りを恐れて)大軍を臣下に預けることもできますまいから、必ずや自分で統率して参るはずでございます」と言った。劉曄は言った。「彼らの考えでは、陛下が万乗の重みでもって自分たちを牽制しつつ、江湖を越えてくるのは別将の役目だ、ということになります。きっと軍兵を押さえて時機を待ち、まだ進退することはありますまい。」大駕が停留して日を重ねたが、孫権は果たして到来せず、帝はようやく軍勢を返して、言った。「卿はこのことを正しく計算しておった。ただ敵情を知るのみならず、吾のために二賊を滅ぼすことを考えてくれ。」

[一] 『傅子』に言う。孫権が使者を出して降服を求めてきたとき、帝はそれを劉曄に諮問した。劉曄は答えた。「孫権が理由もなく降服を求めてきたのは、きっと国内において非常事態が発生したからでしょう。孫権は以前、関羽を襲撃して殺し、荊州の四郡を奪いましたので、劉備は腹を立て、きっと盛大に討伐軍を起こすに違いありません。国外に強敵があって人々の心は不安になり、そのうえ中国がその隙を突いて征伐してくるのではないかと恐れ、それゆえ土地を捨てて降服を求めておるのでございます。第一に中国の軍兵を退け、第二に中国の援軍を借り、それにより自軍を強めて敵兵を惑わそうとしているのです。孫権は用兵に巧みであり、策略変化を知っておりますゆえ、その計略は必ずやそうした理由から出たものでありましょう。いま天下は三分され、中国がその十分の八を占めておりますが、呉・蜀はそれぞれが一州を保有し、山を楯にして川を堀とし、危急時には互いに助け合います。それが小国にとって利益になるからです。ところが現在、自分たちで攻撃しあっているのは、天が彼らを亡ぼそうとしているからです。なにとぞ大軍を催し、ただちに長江を渡って彼らの懐のうちを襲撃されますよう。蜀がその外側から攻め、我らがその内側から襲いかかれば、呉の滅亡は一ヶ月とかかりますまい。呉が滅亡すれば蜀は孤立いたします。もし呉の半分づつを切り取ったとしても、蜀はそれでさえ長続きできなくなるのです。ましてや蜀がその外側を取り、我らがその内側を取ったならばなおさらです!」帝は言った。「他人が臣と称して降服しておるのに、それを討伐するならば、天下のうちの降参を望む者どもの心を疑わせ、必ずや恐怖させることになるだろう。それはず駄目だ!はいったん呉の降服を受け入れてやり、それから蜀の背後を襲撃しようと思うがどうか?」答えて言った。「蜀は遠くて呉は近くでありますし、しかも中国が彼らを討伐すると聞けば、(彼らは)すぐに軍勢を引き返すでありましょうが、(我らはそれを)制止することができませぬ。いま劉備は腹を立てており、それゆえ軍勢を催して呉を攻撃しておるのでございますから、我らが呉を討伐すると聞けば、呉の滅亡は間違いなしと悟り、喜んで進軍し、我らと呉の土地を奪い合おうとするのは必定です。計画を改め、怒りを抑えて呉を救援することは決してないのは、必然の勢いなのでございます。」帝は聞き入れず、ついに呉の降服を受け入れ、すぐさま孫権を呉王に任じた。劉曄はまたも進みでて言った。「なりませぬ。先帝(曹操)は征伐のすえ天下の八分を兼併され、威光を海内を震わせられました。陛下は禅譲をお受けになって真の位に就かれ、聖徳は天地に合致し、声望は四方に到達しております。これは現実であり、佞臣の甘言ではございませぬ。孫権は英雄たる才能の持ち主ではありますが、元はと言えば驃騎将軍・南昌侯に過ぎず、官位が軽いため権勢も弱く、官民ともに中国を畏怖しておりますので、力ずくで陰謀に加担させようとしても不可能なのでございます。やむを得ず降服を受け入れるとしても、その将軍号を高めて十万戸の侯に封ずればよく、にわかに王に取り立ててはなりませぬ。そもそも王の位は天子と一段しか違いがなく、その格式・衣服・車馬は似通っております。彼はたかだか侯に過ぎず、長江南岸の官民たちに君臣としての義理があるわけではございませぬ。我らがあの偽りの降服を信じて封殖し、その爵位称号を高めてやり、その君臣の役割を決めてやるのは、それこそ虎に翼を添えてやるようなものです。孫権は王位を授かって蜀軍を追い払ったのち、表面では中国に礼を尽くして仕え、自国領内にそれを知らしめておき、影では無礼を働いて陛下を怒らせるでありましょう。陛下が勃然とお怒りを発せられ、軍勢を催してこれを討伐するならば、そこで自国の領民に向かって静かに告げるのでございます。『は身を尽くして中国に仕え、財貨珍宝を惜しむことなく季節ごとに献上し、あえて臣下の礼を忘れることはなかった。理由もなく我を討伐するのは、きっと我らが国家を滅ぼし、我らが男女民衆を捕まえて奴隷にするつもりなのであろう』、と。呉の民衆がその言葉を信用しないはずがございませぬ。その言葉を信じるならば、怒りを覚えて上下が心を合わせ、戦力は十倍いたしましょう。」やはり聞き入れられず、とうとう孫権は呉王に拝命された。孫権の将陸遜が劉備を大破し、その軍勢八万人余りを殺し、劉備はようよう逃げ延びた。孫権は表面では礼を尽くしてますます卑屈に振るまい、しかし影では不遜な態度を取り、案の定、劉曄の言葉通りであった。

明帝曹叡)が即位すると、爵位は東亭侯に進み、食邑三百戸となった。詔勅に言う。「父祖を尊重するのは孝行を顕彰するためであり、始祖を崇敬するのは教化を重視するためである。だからこそ成湯・文王・武王商・周の事実上の創業者としながら、『詩経』『尚書』の本義では稷・契までさかのぼって尊崇し、有娀・姜嫄のことを歌い称え、盛徳の源流、天命を授かる発端を明らかにするのである。わが魏室は天の秩序を継承し、足跡は高皇・太皇帝曹騰・曹嵩)が発せられ、功業は武皇・文皇帝(曹操・曹丕)が高められた。高皇の父の処士君曹萌)については、密かに人徳謙譲を修め、行動は神業のごとく、これこそ天地の祝福を受け、神霊の由来するところである。しかるに精神は暗く遠きところにあり、称号は記されておらず、孝行を尊んで根本を重んずることにはならない。そこで公卿以下に命ずる。会議のうえ諡号を定めよ。」劉曄は提議した。「聖帝として、孝心深い子孫として祖先を崇敬したいとの願いは、まことに計り知れないものでございます。しかしながら、親近と疎遠の違いが礼法に定められているのは、私情を断ち切って公法を成り立たせ、万世の模範とするためでありましょう。周王が祖先を后稷まで求めている理由は、その人が)を補佐して功績を立て、その名が祭祀の経典に記載されているからです。漢氏の初めから、追諡の本義はその父親を越えることがなくなりました。上に周室と比べれば、大魏の発祥は高皇からの始まりとなりますし、下に漢氏を論ずれば、追諡の礼はその祖父に及ばないことになります。これはまことに過去の定まった法律であり、現代の明らかな本義なのでございます。陛下の孝心が心底から溢れ出すのは、まことに仕方のないことでございます。しかしながら君主の挙動はかならず記録されるものですから、礼法に対しては慎重であるべきです。愚考いたしまするに、追尊の本義は高皇までに留めるのがよろしゅうございます。」尚書衛臻も劉曄の意見に賛同したので、この案件はその通りに施行された。遼東太守公孫淵が叔父(公孫恭)の地位を奪って勝手に官職に就き、使者を送って状況を説明してきた。劉曄はこう主張した。「公孫氏は漢の時代に任用されてから、ずっと代々にわたり官職を世襲してきた。水路では海の向こう、陸路では山の向こうにいて、そのため胡夷は遠くかけはなれて制御しがたく、それが代々にわたり権力を握って久しくなる。いま誅伐せねば、後日、かならず災禍を引き起こすであろう。もし(彼らが)二心を抱いて軍備を固めるならば、それから誅伐しようとしても作戦遂行は困難である。官職に就いたばかりで党派や仇敵が存在しているうちに先手を打って彼らの不意を突き、軍事力で威圧をかけつつ賞金を設けて(降服を)誘ってやれば、軍勢を煩わせずとも平定できるであろう。」後年、公孫淵はやはり反逆した。

劉曄は朝廷にあって、当時の人々とはほとんど交遊しなかった。ある人がその理由を訊ねると、劉曄はこう答えた。「魏室は践祚したばかりであって、智者は天命を理解していても、俗人はみな全てがそうではない。は漢に対しては皇族の端くれ、魏に対しては腹心であり、仲間の少ない方が現状では都合が悪くないのだ。」太和六年(二三二)、病気にかかって太中大夫を拝命した。しばらくして大鴻臚となり、二年のあいだ在職して官位を辞退、ふたたび太中大夫となった。薨去して、景侯された。子の劉寓が後を継いだ。[一]末子の劉陶も才能に秀でていたが、品行が悪く、官位は平原太守まで昇った。[二]

[一] 『傅子』に言う。劉曄は明皇帝に仕えて、やはり大層な親愛と尊敬をもって遇された。帝が蜀を討伐しようとしたとき、朝臣たちは内閣・外台ともにみな「なりませぬ」と主張した。劉曄は参内して帝に相談されたときは「討伐すべきです」と答え、退出して朝臣たちには「討伐すべきでない」と言った。劉曄は大胆さと智力の持ち主であって、その発言にはどちらも筋が通っていた。中領軍楊曁は帝の寵臣であり、彼もまた劉曄を尊重していた。蜀討伐の議論においては最も強硬な反対派であり、禁裏から退出するたび劉曄のもとへ行き、劉曄はそのつど反対の理由を述べていた。のちに楊曁が御車に従って天淵池に出かけたとき、帝は蜀討伐について語った。楊曁が厳しく諫言するので、帝が「卿は書生であって、どうして軍事が理解できよう!」と言うと、楊曁は陳謝しながら言った。「はもともと儒者の末席の出身ですが、うっかりと陛下のお認めを賜り、群衆の中から臣を抜擢して六軍の上に立ててくださいました。(そのご恩顧に報いるため)臣は些細なことでも言葉を尽くさぬわけには参らぬのです。臣の言葉はまこと取るに足らぬものでございますが、侍中劉曄は先帝の謀臣でありまして、つねづね蜀を討伐すべきでないと申しております。」帝は言った。「劉曄は蜀を討伐すべきだと吾に申したぞ。」楊曁が言った。「劉曄を召し寄せてすのがよろしゅうございます。」詔勅により劉曄を召し寄せ、帝が劉曄に質問しても決して口を開かなかった。のちに単独で拝謁したとき、劉曄は帝を責めて言った。「他国討伐は重大なる計画でございます。臣は大計画をお聞かせ頂いたとき、昧夢で漏らして臣の罪科を増やしはせぬかとずっと心配しておりました。どうしてわざわざ他人にそれを申しましょうか?そもそも軍事というのは詭道(詐術)でございます。軍事計画が実行されるまではその機密性をないがしろにはいたしません。陛下がはっきりとこれを公言されましたので、臣は敵国がすでに察知しているのではと懸念いたしております。」そこでようやく帝は陳謝した。劉曄は退出してから楊曁を咎めて言った。「そもそも釣人が大きな魚を引き当てたとき、まずは緩めてやってその自由に任せ、制御できるようになってから引き揚げるものです。そうすれば手に入れられぬことはない。君主の威光はただの大魚ほどのことでしょうか!はまこと直言の臣ですが、しかしながら計略は大したことがない。熟慮せねばなりませんぞ。」楊曁もまた陳謝した。劉曄がよく変化に応じて双方に対処した有様は、この通りであった。或悪曄於帝曰:「曄不尽忠,善伺上意所趨而合之.陛下試与曄言,皆反意而問之,若皆与所問反者,是曄常与聖意合也.復毎問皆同者,曄之情必無所逃矣.」帝如言以験之,果得其情,従此疏焉.曄遂発狂,出為大鴻臚,以憂死.諺曰「巧詐不如拙誠」,信矣.以曄之明智権計,若居之以徳義,行之以忠信,古之上賢,何以加諸?独任才智,不与世士相経緯,内不推心事上,外困於俗,卒不能自安於天下,豈不惜哉!

[二] 王弼伝曰:淮南人劉陶,善論縦横,為当時所推.傅子曰:陶字季冶,善名称,有大弁.曹爽時為選部郎,鄧颺之徒称之以為伊呂.当此之時,其人意陵青雲,謂玄曰:「仲尼不聖.何以知其然?智者図国;天下羣愚,如弄一丸于掌中,而不能得天下.」玄以其言大惑,不復詳難也.謂之曰:「天下之質,変無常也.今見卿窮!」爽之敗,退居里舎,乃謝其言之過. 干宝晋紀曰:毌丘倹之起也,大将軍以問陶,陶答依違.大将軍怒曰:「卿平生与吾論天下事,至于今日而更不尽乎?」乃出為平原太守,又追殺之.

蔣済伝

劉放伝

孫資伝

評曰:程昱?郭嘉?董昭?劉曄??済才策謀略,世之奇士,雖清治徳業,殊於荀攸,而籌画所料,是其倫也.劉放文翰,孫資勤慎,並管喉舌,権聞当時,雅亮非体,是故譏諛之声,?過其実矣.