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原著作者:【むじん書院】

魏書十四 程郭董劉蔣劉伝第十四

程昱伝

程昱仲徳といい、東郡東阿の人である。身の丈八尺三寸、鬚髯うるわしかった。黄巾賊が蜂起したとき、県丞王度が反逆してこれに呼応、倉庫に火を放った。県令は城壁を乗り越えて逃走し、官吏民衆は老幼を背負って東方の渠丘山へと逃げ込んだ。程昱が人をやって王度を偵察させたところ、王度らは空き城を手に入れながら守ることができず、城外に出て西へ五・六里の辺りで駐屯していた。程昱は県内の大姓薛房らに告げた。「いま王度らは城郭を手に入れながら在城できておらず、その勢力のほどが分かります。彼らは財物を略奪したいというだけで、堅固な甲冑と鋭利な武器を手にして攻守するつもりなどありはしないのです。どうして今のうちに連れ立って城へ帰り、それを守ろうとなさらないのですか?しかも城壁は高く厚みもあるし、食糧も豊富です。もし引き返して県令を見付け出し、一緒に固守するとすれば、王度も長くは持たず、攻撃をかけて打ち破ることも可能です。」薛房らはその通りだと思ったが、官吏民衆らは行くことを承知せず、「賊兵が西にいるから、東へ行くしかないんだ」と言う。程昱は薛房らに「愚民どもには計画を定められませぬ」と告げ、密かに数人の騎兵を東山(渠丘山)の頂きへやって旗を揚げさせ、薛房らにはそれを遠望し、大声で「賊軍はもうとっくに到着しているぞ!」と叫びながら山を下り、城へと向かわせると、官吏民衆は慌てふためいてその後を付いてきた。県令を探し当てて一緒に城を固めると、王度らが来襲して城を攻撃してきたが、陥落させられず立ち去ろうとした。程昱は官吏民衆を率いて門を開き、奴らに奇襲攻撃をかけると王度らは潰走した。東阿はこうして全うできたのである。

初平年間(一九〇~一九四)、兗州刺史劉岱が程昱を招聘したが、程昱は応じなかった。そのころ劉岱は袁紹・公孫瓚と手を結んでおり、袁紹は妻子を劉岱のところへ住まわせていたし、公孫瓚もまた従事范方に騎兵を率いさせて劉岱を支援していた。のちに袁紹と公孫瓚の仲は決裂、公孫瓚が袁紹軍を撃破し、袁紹と絶交させるため、使者を通じて、袁紹の妻子を寄越すようにと劉岱に申し入れてきた。同時に范方へも命令を出して「もし劉岱が袁紹の家族を差し出さねば騎兵を連れて帰って参れ。は袁紹を平定してから劉岱にも軍勢を差し向けるつもりだ」と言っていた。劉岱は連日の軍議でも結論を出せず、別駕王彧が劉岱に建白して「程昱は計略の持ち主ですから、深刻な事態でも上手く裁くことができるでしょう」と言うので、劉岱は程昱を召し寄せて計略を訊ねた。程昱は言った。「もし袁紹の身近な支援を棄て、公孫瓚の疎遠な支援を求めるとすれば、それはから人手を借りて溺れる子を救おうとするような議論です。そもそも公孫瓚は袁紹の敵ではありません。いま袁紹軍を崩壊させたとはいっても、最終的には袁紹に生け捕られるばかりです。一時の勢いに乗じて長期的計画を考慮しなければ、将軍を敗北させる結果になりまするぞ。」劉岱はそれを聞き入れた。范方はその騎兵を連れて帰国したのだが、到着せぬうちに、公孫瓚はさんざんに袁紹に打ち破られたのであった。劉岱は上表して程昱を騎都尉に任じようとしたが、程昱は病気を口実に辞退した。

劉岱が黄巾賊に殺害されると、太祖曹操)が兗州に君臨して程昱を招いた。程昱が出かけようとしたとき、郷里の人々は「どうして前後(の行動)が矛盾しているのかね!」と言ったが、程昱は笑うばかりで答えなかった。太祖はともに語り合って彼に満足し、程昱に寿張の県令を守らせた。太祖は徐州へ遠征に出るとき、程昱を荀彧とともに残して鄄城を守らせた。張邈らが叛逆して呂布を迎え入れると、郡県は波紋の広がるが如く呼応し、動かなかったのはただ鄄城・范・東阿だけであった。呂布軍からの投降者が、陳宮は自分で軍勢を率いて東阿を攻略し、同時に汎嶷を出して范を攻略させようとしている、と証言した。官吏民衆はみな恐怖した。荀彧が程昱に告げた。「いま兗州はこぞって反逆し、ただこの三城があるばかりです。陳宮らが重装兵でもって当方に向かってきたとき、心に深い結び付きがなければ三城は必ず動揺してしまうでしょう。君は民衆の希望です。帰国してその地を説得して頂ければ、まず上手くいくでしょう!」程昱はそこで帰郷することにしたが、范を通りがかったとき、そこの県令靳允を説得して述べた。「呂布が君の母や弟、妻子を人質に取ってしまったと聞きました。孝子として誠に心配でならないことでしょう!いま天下は大いに乱れ、英雄どもが並び立っており、(その中には)必ずや命世(の君主)がいて、よく天下の混乱を鎮めるでありましょう。それこそ智者が慎重に選択するところです。君主を得た者は栄え、君主を失った者は亡ぶものです。陳宮が叛逆して呂布を迎え入れると百城はみな呼応し、あたかも何事かを成し遂げられそうに見えます。しかし君自身の目で見て、呂布は如何なる人物でしょうか!呂布というのは内面が粗忽で、親愛することが少なく、強情にして無礼であり、匹夫どものに過ぎません。陳宮らはその場のなりゆきから一時的に合流しただけですから、主君を補佐することなどできますまい。軍勢が多いとはいっても(事業を)最後まで完成させることは絶対にありません。曹使君(曹操)の智略は世に二つとなく、天から授かったも同然です!君が頑として范を固め、我が東阿を守れば、田単の功績は成立いたします。忠義に違背して悪事に荷担し、母子ともども身を亡ぼすのとではどちらがよいでしょうか?ただひたすら君はそのことを熟慮してください!」靳允は涙を流しながら言った。「どうして二心など抱きましょうや。」このとき汎嶷はすでに県内まで来ていた。靳允はそこで汎嶷と面会したが、伏兵を設けてこれを刺殺し、帰城して手勢を率いて守りを固めた。[一]程昱は同時に騎兵を分遣して倉亭津を遮断させていたので、陳宮は到来しても渡ることができなかった。程昱が東阿に到着したとき、東阿の県令棗祗はすでに官吏民衆を励まして城に楯籠り、守りを固めていた。さらに兗州従事薛悌も程昱とともに策謀を立て、ついに三城を守り抜いて太祖(の到着)を待ち受けた。太祖は帰還するなり程昱の手を執り、「の尽力がなければ、吾は帰る場所さえ失うところであった」と言い、程昱を東平国のにしてくれるよう上表し、范に屯させた。[二]

[一] 徐衆の『』に言う。靳允は曹公(曹操)に対して君臣にはなっていなかったし、母は究極の親しき人である。道義的には立ち去るべきであった。むかし王陵の母が項羽に拘束されたとき、母は高祖劉邦)が必ず天下を取るであろうと考え、自殺することによって王陵の志を固めさせた。心を澄ませ、束縛を離れて初めて、他人に仕えて死力を尽くす節義を貫くことができるのである。の公子開方に仕えて長年にわたり帰国することはなかったが、管仲は自分の親を思い出さぬ人が主君を愛せるはずがないと考え、(開方を)宰相とすることに反対した。これこそ忠臣を求めるのに必ず孝子の門を尋ねる理由なのである。靳允は真っ先に究極の親しき人を救うべきであった。徐庶の母が曹公に捕らえられたとき、劉備が徐庶を帰らせたのは、天下を治めようとする者ならば、人の子としての情けを理解しているからである。曹公もまた靳允を送り出すべきであった。

[二] 『魏書』に言う。程昱は若いころ、泰山に登って両手で太陽を掲げるという夢をよく見ていた。程昱は内心それを不思議に思い、荀彧にありのままを語った。兗州が反乱を起こしたとき、程昱のおかげで三城は守られたのであるが、このとき荀彧が程昱の見た夢のことを太祖に告げた。太祖は(程昱に向かって)言った。「は最後まで吾の腹心でいてくれ。」程昱は本名を「」といったが、太祖がその上に「日」の字を付け加え、程昱と改名させたのである。

太祖は濮陽における呂布との戦いで何度も敗北を被ったが、が発生したため、それぞれに引き払うことになった。それを踏まえ、袁紹は人をやって太祖に連合を説き、太祖に家族をへ住まわせようとした。太祖は兗州を失陥したばかりで軍糧も尽き果てており、それを承知しそうになった。そのとき程昱はちょうど使いから帰ってきたところだったので、拝謁したおりに述べた。「密かに聞くところでは、将軍は家族を出して袁紹と連合なさるお考えとのこと。本当にそのような事実があるのでしょうか?」太祖は言った。「その通りだ。」程昱は言った。「察しまするに、将軍は事業に着手されながら臆病風にかられましたな。さもなくば、どうしてかように浅はかなお考えをなさるのでしょう!そもそも袁紹なる者は、燕・趙の地を根拠に天下併合の野心を抱いておりますが、成功を収めるには智力が不足しているのです。将軍はご自身で考えてみて、彼の下風に立つことがおできになりましょうか?将軍は龍虎のごとき威光を備えておりますのに、韓(信)・彭(越)のごとき屈従がおできになりましょうか?ただいま兗州を失ったとはいえ、まだ三つの城が残っており、戦闘に巧みな兵士も一万人は下りません。将軍の神武をもって、文若(荀彧)・程昱らを手に入れて使いこなしておられるのですから、霸王の事業は完成させられます。将軍よ、ご再考を願います!」太祖はようやく取り止めた。[一]

[一] 『魏略』は太祖を説いた程昱の言葉が掲載されている。「むかし田横は斉の名族であって、兄弟三人が次々に王となり、千里の斉を根拠にして百万の軍を所有し、諸侯と並んで南面して孤と称しておりました。その後、高祖が天下を手に入れたとき、田横は一転して降人となりました。そのようなとき、田横はどうして平静を保ちえたでしょうか!」太祖は言った。「いかにも、これはまこと丈夫たる者には最大の屈辱である。」程昱は言う。「程昱は凡愚であり、ご高察を理解できないのでありますが、将軍のご意志は田横に及ばぬものと思われます。田横などは斉の一壮士に過ぎませんが、それでも高祖に臣従することを恥じたのでありました。いま聞くところでは、将軍は家族を出して鄴に住まわせ、北面して袁紹に臣従なさるお考えとのこと。そもそも将軍の聡明神武でもって、あろうことか袁紹の下風に立つことを恥じないとは。勝手ながら将軍のために恥ずかしく思いまするぞ!」これ以後の文句は本伝とほぼ同じである。

天子(劉協)はに遷都すると、程昱を尚書とした。兗州がいまだ安集に苦しんでいたため、改めて程昱を東中郎将とし、済陰太守を領させ、都督兗州事とした。劉備が徐州を失って太祖に身を寄せたとき、程昱は劉備を殺すよう太祖を説得したが、太祖は聞き入れなかった。記載は『武帝紀』にある。のちにまた劉備を徐州に派遣して袁術を迎撃させたとき、程昱は郭嘉とともに太祖を説得して言った。「公が過日、劉備を仕留められなかったことについて、程昱らはまことに力が及びませんでした。ただいま彼に軍勢を委ねましたからには、必ずや異心を抱きましょうぞ。」太祖は後悔して彼を追いかけさせたが、追い付けなかった。ちょうど袁術は病死し、劉備は徐州に到着するとその足で車胄を殺害し、挙兵して太祖に背いたのであった。しばらくして程昱は振威将軍に昇進した。袁紹が黎陽に着陣して(黄河の)南岸へ渉ろうとしたとき、程昱は七百人の軍勢を領して鄄城を固めていた。太祖はそれを聞くと程昱へ人をやり、兵二千人を増派してやろうと告げた。程昱は承知せず、こう言った。「袁紹は十万の軍勢を抱え、行く先々で遮る者はないと自負しておりますゆえ、いま程昱の手勢が少ないのを見れば、まず(程昱を)軽んじて来襲することはありますまい。もし程昱の手勢が増やされれば、(袁紹側とすれば)通過するためには攻撃せざるをえず、攻撃すれば必ず勝ちます。(我が方とすれば)その軍勢を双方むざむざと犬死にさせることになります。公よ、お疑い召されるな!」太祖はそれを採用した。袁紹は程昱の手勢が少ないと聞き、案の定、向かってこなかった。太祖は賈詡に言った。「程昱の大胆さは(孟)賁・(夏)育を上回るものだな。」程昱は戸籍を逃れて山岳や沼沢に潜んでいる者どもを捕まえて精兵数千人を手に入れ、軍勢をまとめて黎陽で太祖に合流し、袁譚・袁尚を討伐した。袁譚・袁尚が潰走すると、程昱は奮武将軍を拝命し、安国亭侯に封ぜられた。太祖が荊州を征討すると、劉備はへと逃亡した。論者は孫権が必ずや劉備を殺すであろうと言ったが、程昱はこれを思料して言った。「孫権は在位したばかりで、海内に畏怖されるまでには至っていない。曹公は天下に敵う者なく、ひとたび荊州を取り上げれば、威光は長江一帯を震え上がらせた。孫権は計略の持ち主ではあるが、単独で対抗することはできないのである。劉備には英名があり、関羽・張飛はいずれも万人之敵であるゆえ、孫権は必ずや彼を支援して我らを防ごうとするはずだ。困難が解消されれば勢力を分かつであろうが、劉備はそれを元手に成功を収め、もはや捕らえて殺すことはできないであろうよ。」孫権は案の定、劉備に多くの軍勢を与え、そうして太祖を防いだのであった。その後、中原は少しづつ平定されていった。太祖は程昱の背を叩きながら、「兗州が敗北したとき、君の言葉を採用しなかったら、吾はどうしてここまで来られたであろうか?」と言った。(程氏の)一門が牛酒を持ち合って盛大な宴会を催したが、(その席上で)程昱は言った。「足るを知れば辱められない。吾は引退すべきだな。」そこで自分から上表して軍勢を返還し、門を閉ざして出てこなくなった。[一]

[一] 『魏書』に言う。太祖が馬超を征討したとき、文帝曹丕)は残って守りを固め、程昱を軍事に参画させた。田銀・蘇伯らが河間郡に反逆すると、将軍賈信を派遣して討伐させたところ、賊軍から千人余りの投降を乞う者があって、提言する者はみな旧法に従うべきと主張した。程昱は言った。「投降者を誅殺するというのは騒乱の時代の考えでございます。天下が雲のごとく沸き立っておりましたゆえ、包囲後に投降した者を許さぬことによって天下に威信を示し、利益への道筋を啓蒙して包囲されずに済むようにしてやったのです。現在、天下はほぼ平定されており、国境内にいるのは、それこそ(討伐すれば敵国に逃げ込むようなことはできず)降服すると決定された賊徒であって、これを殺しても畏怖させることはできませぬ。昔日、投降者を誅殺したときの意味とは違ってきているのであります。は誅殺すべきでないと愚考いたします。たとい誅殺するとしても、まずご報告すべきでありましょう。」提議した者たちが口々に「軍事には専断権があって、問い合わせをしてはならぬのだ」と言うと、程昱は応答できなかった。文帝が立ち上がって(部屋へ)入り、特別に程昱だけを招き入れて「君には言い尽くせなかったことがあるのだろう?」と言うと、程昱は「およそ独断で命令をするというのは、戦時における緊急時、一呼吸ほどの時間しかない場合だけの考え方なのです。いま件の賊徒どもは賈信の手に制御されており、一朝一夕の変事が起こることはございません。それゆえ老臣は将軍がそうなさることを願わないのであります」と言った。文帝は言った。「君の配慮はよろしい。」そこで太祖に報告したところ、太祖はやはり誅殺せよとはしなかった。太祖は帰還してから(その経緯を)聞いて大層喜び、程昱に告げた。「君はただ軍計に明るいばかりでなく、そのうえ他人の父子関係も善処してくれる。」

程昱は反骨的な人柄であったため他人に逆らうことが多く、程昱が反逆を企てていると密告する者もあったが、太祖の恩賜待遇はますます手厚くなっていった。が建国されると衛尉になったが、中尉邢貞と威儀(儀礼上の序列)を争ったため罷免された。文帝が践祚すると、ふたたび衛尉となり、封爵を安郷侯に進められて三百戸を加増され、以前と合わせて八百戸になった。(領国を)分割して末子の程延および孫の程暁を列侯に封じた。三公)に任じようとした矢先、薨去した。帝は彼のために涙を流した。車騎将軍を追贈し、して粛侯と言った。[一]子の程武が後を継ぎ、程武が薨去すると子の程克が後を継いだ。程克が薨去すると子の程良が後を継いだ。

[一] 『魏書』に言う。程昱はときに八十歳であった。 『世語』に言う。むかし太祖が食糧に欠乏していたとき、程昱は本県で略奪を働いて三日分の食糧を提供したが、いささか干した人肉が混入していた。そのことによって朝廷内における声望を失い、そのため官位が公まで昇らなかったのである。

程暁伝

程暁は嘉平年間(二四九~二五四)、黄門侍郎になった。[一]そのころ校事が勝手放題を働いていたので、程暁は上疏して述べた。「『周礼』に『官職を設けて職掌を分担し、それを民衆の規範にする』と言い、『春秋(左氏)伝』に『天には十日のがあり、人には十等の位がある』と言っております。愚人は賢人の前に出られず、賤民は貴族の前に出られないものです。それを踏まえて、聖者哲人を並び立たせ、風習に従って(政治を)樹立するのであります。功労によって明快に試験し、九年ごとに成績を考課することから、各人はその業務に励み、僭越なことはすまいと考えるようになるのです。だからこそ欒書晋侯を救おうとしたのを彼の息子は納得せず、死人が街路に横たわっているのを邴吉は問題にしなかったのであります。上司は職権を離れた功績を督促せず、部下は身分を外れた賞賜を計画せず、官吏は兼官の権勢を持たず、民衆は二事の役務を担わない。これこそが誠に国家の要綱、治乱の根本なのでございます。遠くは経典を閲覧し、近くは秦・漢を観察いたしますれば、官名が改められて職掌も同じでないとはいえ、上位を尊んで下位を抑え、職分を明らかにして先例をはっきりさせるという点において、その趣旨は一致しております。当初、校事の官が庶政に干渉することはございませんでした。むかし武皇帝(曹操)の大事業が草創されたとき、あまたの官職は整備されておらず、そのうえ軍旅の苦労もあって民心は安定せず、そのためささいな罪ではあっても検挙せざるを得ませんでした。ですから校事を設置したのは一時的な状況を優先したものでしかないのです。それでも検察のやり方には節度があって、勝手放題には至りませんでした。これは霸者の便宜であって、王者の正道ではございません。その後、次第に重任を蒙るようになると、かえって害毒になってしまい、それが習いとなって根本を正そうとする者がいなくなりました。とうとう上は宮廟を取り調べ、下は羣官を仕切り、官職としては部署が定められず、職権としては分限が定められず、意図に従い感情に任せて、ただ気分の赴くまま仕事に当たるようになったのです。法律は筆先で捏造されて、憲法や詔勅による根拠がなく、裁判は部内で決定されて、調査や証言は無視されており、彼らが属官を選任する場合でも、慎ましやかな者は粗忽とされ、謥詷なる者が有能とされる有様ですし、彼らが仕事に当たる場合でも、冷酷で乱暴なのを公正で厳格なのだと言い、法理に忠実なのを臆病で柔弱なのだと言っております。表面では天威にかこつけて権勢を振るい、内実では悪党どもを集めて腹心としており、大臣たちは彼らと勢力争いをすることを恥じ、堪え忍んで物言わず、小者たちは彼らの矛先を恐れて、思い詰めて告発もよういたしません。果ては、尹模なる者が公衆の面前でも欲しいままに悪行を働くほどになりました。罪悪は露見して道行く人のだれもが知っておりますのに、ささいな過失でさえ何年ものあいだ報告されていないのであります。『周礼』のいう官職を設ける意義から外れているうえに、さらに『春秋』の十等の道義にも外れてしまいました。ただいま外部には公卿・将校があって各部署を総攬し、内部には侍中・尚書があって万機を統御し、司隷校尉が京都を監督し、御史中丞が宮殿を監察しておりますが、みな賢才から厳選してその職に充て、憲法・詔勅を明らかにして非違を糾しているのでございます。もしこれらの諸賢でさえ力不足であるとすれば、校事のごとき小役人はなおさら信用できないことになりましょう。もしこれらの諸賢がそれぞれに忠勤を尽くすとすれば、校事のごとき微々たる輩がそれ以上に付け足すものはないことになりましょう。もし厳選された国士を校事に異動させるならば、それは中丞・司隷と重複する官職を一つ増やすことでしかなく、もし旧来通りの人選をするならば、尹模のような悪事は今後も再発するでありましょう。どちらを選ぶにしても計算してみれば、これを採用する理由がございません。むかし桑弘羊のために利益を求めましたが、卜式は桑弘羊を釜茹でにするだけで天気を雨降りにできると申しました。もしも政治の善し悪しが必ず天地を感応させるのであれば、臣は、水害や日照りの災難が校事のせいではないと言い切れないのが心配になります。恭公は君子を遠ざけて小人を近付けましたので、『国風』が(詩に)託して諷刺いたしました。献公は大臣を捨てて小者と計画を立てましたので、定姜は有罪だと判断いたしました。たとい校事が国家にとって有益だとしても、礼の見地から言えば、それでも大臣の心を傷付けます。ましてや邪悪さが暴露されたにも関わらず、なおも廃止しないというのは、それこそのほころびを繕わず、道に迷って引き返さないということであります。」こういうことがあって、ついに校事の官を廃止することになった。程暁は汝南太守に昇進し、四十歳余りで薨去した。[二]

[一] 『世語』に言う。程暁は字を季明といい、通達した見識の持ち主であった。

[二] 『程暁別伝』に言う。程暁は盛んに文章を著したが、多くは散逸してしまい、現存するのは十分の一にも満たない。

郭嘉伝

郭嘉奉孝といい、潁川陽翟の人である。[一]最初、北方へ行って袁紹に拝謁したが、袁紹の謀臣辛評・郭図に「そもそも智者ならばとっくりと主君を観察するものです。そうしてこそ百の行為が百の成功を生み、功名を立てることができるのです。袁公(袁紹)はただ士人にへりくだった周公の真似事がしたいだけで、用人の機微をご存じない。仕事を始めることが多いのに要点を押さえていることは少なく、謀略を好むのに決断することはありません。一緒に天下の大困難を解決し、霸王の事業を完成させようと思っても、難しいでしょうな!」と告げ、そのまま立ち去った。それ以前のこと、潁川の戯志才籌画の士であって、太祖曹操)ははなはだ彼を立派に思っていたが、早くに卒去した。太祖は荀彧に手紙を送って言った。「戯志才が亡くなって以後、一緒に計画を立ててくれる者がおらんでのう。汝(南)・潁(川)にはもともと奇才が多いのだが、どの人物ならば彼のあとを継がせられるだろうか?」荀彧が郭嘉を推薦したので、召し寄せて天下のことを議論してみて、太祖は言った。「に大事業を完成させてくれるのは、きっとこの人物だよ。」郭嘉も退出して、やはり喜んで、「真実、吾がご主君だ」と言った。(太祖は)上表して司空軍祭酒とした。[二]

[一] 『傅子』に言う。郭嘉は若いころから遠大な計略を持っていた。漢代末期、天下が混乱しようとしていたので、弱冠のころより足跡をくらましつつ、密かに英俊と交わりを結び、俗世間の付き合いには関わらなかった。そのため当時の人々はほとんど彼のことを知らず、ただ達見ある者だけが彼を奇才であるとしていた。二十七歳のとき司徒(役所)に招かれた。

[二] 『傅子』に言う。太祖が郭嘉に言った。「本初(袁紹)は冀州の軍勢を擁し、青州・幷州が彼に従い、土地は広くて軍兵も強い。それがしばしば不遜を働いておる。はこれを討伐しようと思うのだが、力では敵わない。どうだろう?」答えて言った。「劉(邦)・項(羽)が対等でなかったことは、公もご存じでしょう。漢祖(劉邦)はひたすら智慧によって勝利し、項羽は強力であったとはいえ、結局は捕虜になったのです。郭嘉が密かに思料いたしまするに、袁紹には十の敗北があり、公には十の勝利がありますゆえ、軍兵が強くとも手出しはできないのでございます。袁紹は礼法にうるさく儀式も多いのですが、公はあるがままに任せて自然です。これは道による第一の勝利です。袁紹は逆心に基づいて行動しておりますが、公は正義を奉って天下を率いておられます。これは義による第二の勝利です。漢末の失政は寛容さのせいでありましたが、袁紹は寛容さによって寛容さを克服しようとしておりますので、威厳がございませんが、公はそれを糾すのに猛威を用いておられますので、上下ともによく制御されております。これは治による第三の勝利です。袁紹は外見が寛容に見えても内実は猜疑を抱え、人物を任用しながらその人を疑い、信任されているのはただ親戚の子弟だけでありますが、公は外見が簡略に見えても内実は機微に明るく、人物を任用するにも疑うことはなく、ただ才能だけを根拠とし、遠近によって差別されません。これは度による第四の勝利です。袁紹は謀略を立てることが多いものの決断することは少なく、失敗するのは(いつも)後手を打ったのが原因ですが、公は策略が立てばすぐさま実行され、変化に応じて行き詰まることもございません。これは謀による第五の勝利です。袁紹は代々にわたる資産を抱え、高尚な議論と謙譲とで名誉を手にし、士人のうちでも口達者で上辺ばかりを飾る者が多数、彼に従っておりますが、公は丹誠を込めて人物を待遇し、真心を貫いて行動し、虚栄を働かず、うやうやしい態度でもって部下を率先し、功績を立てた者には惜しみなく与え、士人のうちでも忠義公正で高い見識を持った信実の人はみな、お役に立ちたいと願っております。これは徳による第六の勝利です。袁紹は他人が飢えたり凍えたりしているのを見ると、同情の気持ちを顔色に現しますが、彼から見えない部分では配慮が及ばないことがあり、いわゆる婦人の仁というものでしかございませんが、公は目前のささいな事柄ならばすぐお忘れになり、大きな事柄ならば四海まで達し、お与えになる恩寵はみな相手の望んだ以上でして、ご自身では見えない部分でも配慮が行き届き、取り上げなかったことはございません。これは仁による第七の勝利です。袁紹は大臣どもが権力を争い、讒言によって混乱をきたしておりますが、公は道義によって部下を統御され、(讒言の)浸透することはございません。これは明による第八の勝利です。袁紹は善悪を見ても対処することはありませんが、公は善と思われることを礼によって推進し、善と思われないことを法によって更正されます。これは文による第九の勝利です。袁紹は虚勢を張ることを好んで兵法の精髄を理解しておりませんが、公は少数でもって多数に打ち勝ち、用兵は神のごとく、軍中ではそれを信頼し、敵人はそれを畏怖しております。これは武による第十の勝利です。」太祖は笑いながら言った。「のお言葉に対して、孤はどんな徳を積めば釣り合うだろうか!」郭嘉はさらに言った。「袁紹は北進して公孫瓚を攻撃しようとしておりますゆえ、その遠征を利用し、東進して呂布を攻略するのがよろしゅうございます。最初に呂布を攻略しておかねば、もし袁紹が侵攻してきたとき、呂布がそれを支援いたしましょう。これは深刻な被害となります。」太祖は言った。「もっともだ。」

呂布を征討して三たびの戦いで打ち破ると、呂布は引き下がって守りを固めた。このとき士卒は疲れ果てていたので、太祖は軍をまとめて引き揚げようとしたが、郭嘉が厳しく攻め立てよと太祖を説得し、その結果、呂布を生け捕りにすることができた。記載は『荀攸伝』にある。[一]

[一] 『傅子』に言う。太祖が軍をまとめて引き揚げようとしたとき、郭嘉は言った。「むかし項籍(項羽)は七十度余りの戦いで一度も負けたことがなかったのに、一たび勢いを失うと身は死んで国は亡びました。それは武勇を当てにして計略を持たなかったからなのです。いま呂布は戦いのたびに破れ、気は衰えて力も尽き、内外ともに支えを失っております。呂布の威力は項籍ほどでなく、そのうえ彼以上に困窮しているのですから、もし勝利に乗じて攻撃をかければ、生け捕りにすることができましょう。」太祖は言った。「素晴らしい。」 『魏書』に言う。劉備が逃げ込んで来ると、(太祖は彼を)予州にしてやった。ある人が太祖に言った。「劉備は英雄の志を抱いており、いま早急に手を打たなければ、のちのち必ずや悩みの種となりましょうぞ。」太祖がそれを郭嘉に問うと、郭嘉は言った。「その通りでございます。しかしながら、公は剣を提げて義兵を起こし、百姓たちのために暴虐を取り除こうとして、誠心を貫き、信実に基づいて俊傑を招いておられますが、それでもまだ足りない恐れがございます。ただいま劉備には英雄としての名声があり、逼迫して我らに身を寄せてきたのですから、彼を殺せば、それは賢者に危害を加えたと言い表されることになります。さすれば智士は疑いを持ち、心変わりして主君を選びなおすことになりましょう。公はだれと天下をお定めになりますか?そもそも一人の厄介者を取り除いたがために四海の名望を失っては、安危の(分かれ目の)引き金となります。ご賢察いただかぬわけには参りませんぞ!」太祖は笑いながら言った。「君はよう心得ておるな。」 『傅子』に言う。かつて劉備が降服して来たとき、太祖は賓客の礼でもって待遇し、予州牧にさせてやった。郭嘉は太祖に言上した。「劉備は英雄としての才覚を持ち、はなはだ民衆の心をつかんでおりますし、張飛・関羽はいずれも万人之敵ですが、彼のために生命を抛って仕えております。郭嘉の観察したところ、劉備は結局、他人の下風に立つことはなく、その心中は測りかねます。古人の言葉に『一日、敵を自由にしてやれば、数代にわたる患いとなる』とあります。早急に対処なされませ。」このとき太祖は、天子を奉じて天下に号令し、英雄を懐中に納めて大いなる信義を明らかにしようとしていたので、郭嘉の考えに従うことができなかった。そのころ太祖は劉備を出して袁術を迎撃させようとしていたが、郭嘉は程昱と同乗して馬車で駆け付け、太祖を諫めた。「劉備を放てば変事が起こりまするぞ!」このとき劉備はすでに立ち去っており、そのまま軍勢を挙げて叛逆した。太祖は郭嘉の言葉を採用しなかったことを後悔した。 『魏書』の言っていることを検証すると、『傅子』とは正反対である。

孫策は千里にわたって転戦し、江東長江東岸)を残らず領有していて、太祖と袁紹とが官渡において対峙していると聞くや、長江を渡って北上し、を襲撃せんと企てた。人々は報告を受けてみな恐怖に陥ったが、郭嘉は彼のことを思料して言った。「孫策は江東を併合したばかりで、誅殺したのはみな、他人に死力を尽くさせる英雄豪傑ばかりであった。それなのに孫策は、軽率にも警備を置いておらぬゆえ、百万の軍勢を抱えておっても、ただ独りで中原を行くのと変わりがない。陰から飛び出した刺客にとってみれば、一人を相手にすれば済むのだ。吾の観察したところに拠れば、きっと匹夫の手にかかり死ぬであろう。」孫策は長江を目前にして、まだ渡らぬうち、果たして許貢の食客に殺されたのであった。[一]

[一] 『傅子』に言う。太祖はなるたけ早く劉備を征伐したいと考えていたが、議論する者たちは、軍が出動すれば袁紹が背後を襲撃するであろうから、進んでも戦うことができず、退いても拠り所がなくなってしまうだろうと懸念した。記載は『武帝紀』にある。太祖が迷いを起こして、それを郭嘉に訊ねたところ、郭嘉は太祖にこう勧めた。「袁紹の人柄はのろまで迷いが多く、来襲するとしてもきっと速くはありません。劉備はいま立ち上がったばかりで、人々の心もまだ懐いておらず、早急に攻撃すれば必ず打ち破ることができます。これこそ存亡の契機、失ってはなりませぬぞ。」太祖は言った。「素晴らしい。」かくて東行して劉備を征討した。劉備は敗北して袁紹の元へ逃げ込んだが、袁紹は案の定、出てこなかった。 裴松之が『武帝紀』を調べてみると、劉備征討の計画を決断し、袁紹が出てこないと推量したのは、いずれも太祖の発案とされている。ここでは郭嘉の計略を採用したと述べているが、不同があるということになる。また、本伝ではもとより郭嘉が、孫策は軽佻(軽はずみ)であるゆえ、きっと匹夫の手にかかり死ぬであろうと思料した、と述べており、まこと事実認識に聡明であったと言えよう。しかしながら、上智(聖人の智)でもない以上、彼がどの年に死ぬかまでは知りようがないはずである。今回、ちょうど許を襲撃せんとした年に死んでいるのだが、これはおそらく事件が偶然に重なったものだろう。

袁紹撃破に従軍し、袁紹の死後、また黎陽における袁譚・袁尚討伐に従軍したが、立て続けに戦って何度もの勝利を挙げた。諸将は勝利に乗じてこのまま攻め寄せるつもりだったが、郭嘉は言った。「袁紹は息子二人を愛して嫡子を立てておらず、郭図・逢紀が彼らの謀臣となっておりますから、必ずや両者の間に紛争が起こり、かえって離ればなれになるでありましょう。追い詰められれば助け合い、見逃してやれば争いの心が生じます。荊州へ南進して劉表を征討する風を装い、彼らの異変を待つに越したことはございません。異変が起こってから攻撃すれば、一挙に平定することができまする。」太祖は言った。「素晴らしい。」そこで南征することにした。軍勢が西平まで到達したところで、袁譚・袁尚は案じた通り、冀州をめぐって争い始めた。袁譚が袁尚軍に打ち負かされて平原に逃げ込み、辛毗を遣して降服を申し入れてきたので、太祖は引き返して救援に向かい、(郭嘉も)そのままの平定に従軍した。また南皮における袁譚攻めに従軍し、冀州が平定されると、郭嘉は洧陽亭侯に封ぜられた。[一]

[一] 『傅子』に言う。河北が平定されたのち、太祖は青州・冀州・幽州・幷州の知名の士を多数招き、少しづつ臣従させてゆき(手足として)使いこなし、省事掾属とした。全て郭嘉の計略である。

太祖が袁尚および三郡の烏丸を征伐しようとしたとき、諸下(部下たち)の多くは、劉表が太祖を討伐せんと劉備を出して許を襲撃してくることを恐れた。郭嘉は言った。「公は天下に威光を震わせておいでですが、どもは遠方であることを当て込んで、必ずや防備を設けてはおりますまい。その無防備に乗じて、急遽これを攻撃すれば、破滅させることができます。しかも、袁紹は民衆・夷狄へともに恩沢を施しており、袁尚兄弟も健在なのです。ただいま四州の民衆はただ威厳に屈服しているだけで、恩徳はまだ施されておりませんから、(この地を)捨ておいて南征されれば、袁尚は烏丸の資金を投じ、主君のために死ねる臣下を招くでありましょう。胡人が一たび動けば、民衆・夷狄は一斉に呼応し、蹋頓の野心を刺激して覬覦(不遜)の計画を企図させることになり、青州・冀州は我らの所有ではなくなる恐れがございます。劉表なんぞは坐談の客に過ぎませぬ。劉備を制御する才能に不足していることは自分でも分かっており、重く任用すれば制御できなくなる懸念があり、軽く任用すれば働こうとしなくなる心配があるのです。国許をがら空きにして遠征しても、公はご心配に及びませぬ。」太祖はついに決行した。に到達したところで郭嘉が言った。「兵は神速を貴びます。いま千里(の道を駆けて)人を襲撃しておりますゆえ輜重は多く、有利(の地)へ馳せ付けることは困難です。しかも奴らがそれを聞けば、必ずや備えを固めることでしょう。輜重を残し、軽騎兵を(昼夜)兼行させて突出し、彼らの不意を衝くに越したことはございますまい。」太祖はそこで秘密裏に盧龍塞から出撃し、まっすぐに単于の地を目指した。どもの兵卒は、太祖が到着したと聞くと恐れおののきながら合戦した。(太祖は)彼らを大いに打ち破り、蹋頓および名王以下を斬首した。袁尚および兄袁煕遼東へと逃げていった。

郭嘉は深く計略に通じて情理に明るく、太祖は「ただ奉孝だけが孤の考えを分かってくれる」と言っていた。三十八歳のとき、柳城から帰還すると病気が重くなり、太祖から見舞いの使者が足繁くなった。薨去するに及び、(太祖は)その亡骸に対面して哀しみを極め、荀攸らに言った。「諸君らはみな孤と同年輩であるが、ただ奉孝だけが一段と若く、天下の事業が完成したなら後事を託すつもりであった。それなのに中年で夭折してしまうとは、天命であろうかのう!」そこで上表して言った。「軍祭酒郭嘉は征伐に従事するようになってから十有一年、大会議のあるたび、敵情に対応して変化を制御したものです。臣の計画がまだまとまらないうちに、郭嘉はあっさりと仕上げてしまうほどでした。天下を平定するにあたって計画を立てた功績は多大でありましたが、不幸にも寿命短く、事業を完成させることができませんでした。郭嘉の勲功を思い出せば、実に忘れがたいものです。食邑八百戸を加増し、都合一千戸とするのがよろしゅうございます。」[一]して貞侯と言い、子の郭奕が後を継いだ。[二]

[一] 『魏書』に掲載する太祖の上表に言う。「臣が聞きますには、忠節を賞して賢才を愛する場合、当人の身に限定されず、功労を思い業績を考える場合、恩寵は後継者にも盛んであるとのことです。そのために孫叔(敖)を敬って、その息子を顕彰して封侯し、岑彭が没したときも、爵位は庶家にまで及んだのです。の軍祭酒郭嘉は忠良にして慎み深く、物事に通達しておりました。大会議のあるたび発言は朝廷を満足させ、中道を採って処理に当たり、実行に際しても遺漏はございませんでした。軍旅に携わってから十年余り、行軍するときは同じ馬に跨り、休憩するときは同じ帳に座り、東方では呂布を生け捕り、西方では眭固を攻め取り、袁譚の首を斬り、朔土(河北)の軍を平らげ、険峻な城塞を越えて烏丸を鎮定し、遼東に威信を震わせて袁尚を梟首いたしました。たとい天の威光を持ちまして指図に容易であったとはいえ、敵を目前にして、宣旨を奉じて逆賊を滅ぼしたことにつきましては、その勲功は実に郭嘉によるものなのでございます。にこれから表彰しようとしたとき、短命にして早くに亡くなりました。上は朝廷の御為に良臣を痛惜し、下は自分のために奇才の喪失を恨めしく思うのであります。郭嘉の封地を追って加増し、都合一千戸となさるのがよろしゅうございます。亡き人を賞するのは生者のため、去る人に報いるのは来者を誘うためでございます。」

[二] 『魏書』では、郭奕が道理見識に通達していたと評している。郭奕は字を伯益といい、王昶の『家誡』に見えている。

のちに太祖は荊州征伐から引き揚げるに際し、巴丘で疫病の流行に遭遇したうえ、船を焼失してしまい、歎息しながら言った。「郭奉孝が健在であれば、孤をこうまで落ちぶれさせなかったであろうがのう。」[一]むかし陳羣は、郭嘉が模範的行動を心掛けていないことを非難し、たびたび郭嘉を提訴したのであるが、郭嘉は泰然自若としていた。太祖はいよいよ彼のことを尊重するようになり、その一方、陳羣が公正さをよく貫いているとも思い、やはり彼にも満足したのであった。[二]郭奕は太子文学となったが、早くに薨去した。子の郭深が後を継ぎ、郭深が薨去すると、子の郭猟が後を継いだ。[三]

[一] 『傅子』に言う。太祖はまた言った。「哀しいかな奉孝!痛ましいかな奉孝!惜しいかな奉孝!」

[二] 『傅子』に言う。太祖は荀彧に手紙を送り、郭嘉を追慕して言った。「郭奉孝は齢四十にも満たず、ともに駆けずりまわって十一年になるが、険阻であれ艱難であれ、みな一緒に被ったものであった。また彼の通達ぶりと、世の仕事における滞りのなさを見て、後事を託すつもりであった。思いがけず突然彼を失ってしまい、悲痛さに心が傷む。いま上表して彼の子をちょうど一千戸まで加増してやったところだが、それが死者に対してどんな利益になるだろうか。彼を思い起こしては感傷が深まるのだ。しかも奉孝といえば孤を理解してくれた者なのだ。天下の人々をこぞっても理解してくれる者は少ない。そのことでもまた痛惜される。なんたることぞ、なんたることぞ!」また荀彧に手紙を送って言った。「奉孝を追惜する思いを心から消すことができぬ。かの人の時事や兵事に対する見解は、人倫を超越していた。それに人間というのは大概病気を恐れるものだが、南方で疫病が起こっていても、いつも『吾が南方に行けば、生還することはできまい』と言うだけで、しかしながら一緒に計略を議論しているときには、まず荊州を平定すべきと申しておったのだ。これはただ計略が真心から出ていたというだけでなく、必ずや功績を立て、命を棄ててでも成功させたいと願っておったということなのだ。他人に尽くす心はこれほどであった。どうして人が彼のことを忘れられよう!」

[三] 『世語』に言う。郭嘉の孫郭敞は字を泰中といい、才能見識があり、官位は散騎常侍であった。

董昭伝

董昭公仁といい、済陰定陶の人である。孝廉に推挙されたのち、廮陶県長柏人県令に任じられ、袁紹参軍事とした。袁紹が界橋において公孫瓚を迎撃したとき、鉅鹿太守李邵および郡の実力者たちは、公孫瓚の軍勢が強力だとて、みな公孫瓚に荷担しようとしていた。袁紹はそれを聞いて董昭に鉅鹿を領させ、訊ねた。「なんとして防ぐ?」答えて言う。「一人の微力さでは大勢の企てを消すことができませんから、彼らの心を誘うため、同調して謀議に加わろうかと思います。奴らの実情をつかんでから、その場の判断によって制御するだけのことです。計略はその場に居合わせてこそ出てくるものですから、まだ申し上げることはできませぬ。」ときに郡の右姓(豪族)孫伉ら数十人が勝手に指導者面をして、官吏民衆を煽動していた。董昭は郡に到着すると、袁紹の郡への檄文を偽作して宣言した。「賊の斥候である安平張吉の供述を得られた。(公孫瓚が)鉅鹿を攻撃するに際して、賊のの孝廉孫伉らが内応する手筈とのことである。檄文が届いたならば軍法を執行せよ。罪悪は当事者の身に留め、妻子を連座させることのないように。」董昭は檄文を根拠として命令を下し、みなを即座に斬首した。郡内はこぞって恐慌状態になったが、それから次第に落ち着いてゆき、最後にはすっかり平穏になった。仕事が片付いてから袁紹に報告すると、袁紹も素晴らしいものだと称えた。そのころ魏郡太守栗攀栗成)が兵士に殺害されたため、袁紹は董昭に魏郡太守を領させた。このとき領内では大規模な反乱が起こっており、賊徒は万単位で数えられた。(彼らは)使者を往来させて市場で交易していたので、董昭はそれを手厚く待遇し、そのまま利用して間者となした。虚に乗じて奇襲をかけると、あっけなく撃破して大勝利を収めた。二日のうちに羽檄(捷報?)は三たびも届けられた。

董昭の弟董訪張邈の軍中にいた。張邈と袁紹とは仲が悪かったため、袁紹は讒言を信じて董昭を処刑しようとした。董昭は(逃亡して)献帝劉協)の元に参詣しようとしたが、河内まで来たところで張楊に抑留された。張楊を通じて印綬を返上し、騎都尉を拝命した。当時、太祖曹操)が兗州を領しており、使者を張楊の元に派遣して、長安に西上するので道を貸して欲しいと申し入れていたが、張楊は承知しなかった。董昭は張楊を説得して言った。「袁・曹は一家族のようになっておりますが、情勢からいって永久に仲間ではいられませぬ。曹はいま劣勢ではございますが、しかし実のところは天下の英雄であります。彼と手を結ぶ故になりましょう。ましてや、いま機会ができたのですから、彼に(天子への)ご挨拶を通じさせてやり、同時に上表して彼を推薦なさるのがよろしゅうございます。もし事業が完成いたしますれば、親密な関係は永久に続きましょう。」張楊はそれを承けて太祖の挨拶を通じさせてやり、上表して太祖を推薦した。董昭は太祖のために長安の諸将李傕・郭氾らに手紙を送り、それぞれの身分に従って慇懃な礼を尽くした。張楊もまた太祖の元に使者を派遣した。太祖は犬・馬・金・絹を張楊に贈り、こうして西方と往来するようになった。天子の安邑に行在されたとき、董昭は河内から出かけてゆき、詔勅により議郎を拝命した。

建安元年(一九六)、太祖はにおいて黄巾賊を平定すると、使者を河東へと派遣した。ちょうど天子は洛陽に帰還したところであったが、韓暹・楊奉・董承および張楊はそれぞれに後ろ暗いところがあり仲が悪かった。楊奉が最強の兵馬を抱えながら支援してくれる仲間が少なかったことから、董昭は太祖の手紙を(代わりに)書いて楊奉に送った。「は将軍が名誉を求め、正義を慕う方であると信じ、こうして真心をお伝えします。いま将軍は万乗(の君主)を艱難から救い出し、旧都へと戻されました。補佐翼賛の功績は一世に超越して比肩する者はありません。なんとめでたきことでしょうか!いまや群れなす凶徒どもがさんとしており、天下は未だ静謐ならず、この上なく尊い神器は、補佐の如何に掛かっております。あまたの賢者を迎えて王道を清める必要があり、真実、一人の独力でもって成し遂げられるものではありません。心、腹、四肢は実際のところ支え合っているもので、一つでも不足していれば欠陥があるということになります。将軍は内部で主導してください。吾が外部で支援しましょう。ただいま吾には食糧があり、将軍には軍兵があり、互いに欠けているものを融通し合えば、ともに充足することができます。死生の契闊をともに分かち合いましょう。」楊奉は手紙を受け取って喜び、将軍たちに語った。「兗州諸軍がすぐ近くの許にあり、軍勢も食糧も抱えておる。国家が頼りにすべき相手だ。」こうして連名で上表して太祖を鎮東将軍とし、父の爵位を継がせて費亭侯とした。董昭は符節令に昇進した。

太祖は洛陽に上って天子に拝謁すると、董昭を招き、傍らに座らせて訊ねた。「いまはここまでやって来たわけだが、いかなる計略を実施すべきであろうか?」董昭は言った。「将軍が義兵を挙げて暴虐を誅し、天子に拝謁して王室を翼賛されたのは、これぞ(春秋の)五伯の功績でございます。ここに控えおる諸将は一人ひとり意見が違っており、必ずしも服従しているわけではありません。いま(洛陽に)留まって輔弼なさるのは、成り行きによっては不便を被ることになりますから、ただ御車を移して許に行幸させるだけです。とはいえ、朝廷は流浪のすえ、ようやく旧京に帰ってきたばかりですので、遠きも近きも、首を長くして朝廷挙げての平安を願っております。ここでまたもや御車をお移しするとなれば、人々の心を満足させられますまい。そもそも尋常でない仕事を行ってこそ、初めて尋常でない功績が立てられるのです。願わくば将軍よ、その多い方を計算してくださいませ。」太祖は言った。「それこそ孤の本望だ。(しかし)楊奉がすぐ近くのにおって、その軍勢は精強であると聞く。孤の足手まといにはならぬだろうか?」董昭は言った。「楊奉は支援する仲間が少なく、単独で(将軍に)臣従しようとさえしているのです。鎮東・費亭の一件も、全て楊奉が決めたことなのです。それに、文書を交わした契約は信頼を置くのに充分である、とも申します。事あるごとに手厚い贈り物で返礼して彼を安心させるとともに、『京都には食糧がないので、車駕をひとまず魯陽に行幸させたい。魯陽は許に近く、輸送も少しはやりやすくなり、遠方ゆえに欠乏するという心配をなくすことができる』と説得するのがよろしゅうございます。楊奉の人となりは勇敢でありますが思慮は浅く、必ずや疑われることはありますまい。使者が往来している間にも計画を定めることができましょう。楊奉なんぞがどうして足を引っ張れましょうや!」太祖は言った。「素晴らしい。」すぐさま使者を楊奉の元にやり、御車をして許に到着した。楊奉はそれからというもの希望を失い、韓暹らとともに定陵へ行って略奪を働いた。太祖は応戦せず、梁まで密行して彼らの陣営を攻撃し、降服させたり誅殺したりして、即日平定した。楊奉・韓暹は人数を失い、東行して袁術に帰参した。三年、董昭は河南尹に昇進した。そのころ、張楊が配下の将楊醜に殺され、張楊の長史薛洪河内太守繆尚が城を固めて袁紹の救援を待ち望んでいた。太祖の命により董昭が単身入城して薛洪・繆尚らを説得すると、(薛洪らは)その日のうちに軍勢を挙げて降服した。董昭を冀州とした。

太祖が劉備に命じて袁術を防がせたとき、董昭は言った。「劉備は勇敢にして野心大きく、関羽・張飛が彼のために羽翼となっております。劉備の心はまだ測りかねまするぞ!」太祖は言った。「吾はもう決めてしまったのだ。」劉備は下邳に到着すると、徐州刺史車胄を殺して反逆した。太祖は自身で劉備を征討し、董昭を徐州牧に転任させた。袁紹が将顔良を派遣して東郡を攻撃したとき、また董昭を魏郡太守に転任させて顔良討伐に従軍させた。顔良の死後、進軍して城を包囲する。袁紹一門の袁春卿が魏郡太守として城中にあり、その父袁元長揚州にあったため、太祖は人をやって彼を迎え入れた。董昭は袁春卿に手紙を送って言った。「思いまするに、孝子は利益のため親に背かず、仁者は私欲のため君を忘れず、志士は幸運を望んで乱を願わず、智者は自己を危険に陥れてまで邪道を行わない、と聞き及んでおります。足下大君が、往昔、内地の災難を避けて南方は百越の地に遊ばれたのは、骨肉を疎まれたのではなく、かの呉会を願われたからでした。智者の深い見識があって初めて、そのように決断できるのでしょう。その志を貫いたことと高潔さによって仲間と離ればなれになったことを、曹公(曹操)は憐れみ、それゆえ格別に使者を江東へ遣され、迎える者もあれば送る者もあって、今にでも到着しそうな様子です。たとい足下が偏平の地(平和な地方)に立ち、徳義の主に仕え、泰山の固きに拠り、喬松(長寿の仙人王子喬・赤松子)の友に加わろうとも、道義的に言えば、それでもそちらに背いてこちらへ向かい、民草を捨てて父親にすがるものでしょう。しかも、儀父が初めて隠公と会盟したとき、の人々はそれを歓迎しつつも爵位を記さなかったことがありますが、さすれば王がまだ任命していなければ、爵位の尊貴さは完成しないというのが春秋の道義なのです。ましてや、足下が今日(身を)託しておられるのは危険の国、受けているのは虚偽の命なのですから、なおさらのことでしょう?もし不逞の輩と付き合って、自分の父を思いやらないのであれば、孝と言うことはできませんし、祖先のおわします本朝を忘れて、未だ正式でない奸職に就かれるのであれば、忠と言うことはむつかしく、忠・孝ともにお捨てになるのであれば、智とは言い難いのです。それに足下は昔日、曹公から鄭重に招聘されました。そもそも一族とは親しんで生みの親を疎んじ、仮住まいを内として王室を外とし、不正な禄をもらって知己の恩に背き、幸福を遠ざけて危険を近づけ、高らかな道義を棄てて大きな恥辱を拾われる。なんと勿体ないことではありませんか!もし翻然と態度を改め、帝を奉じて父を養い、我が身を曹公に委ねられますれば、忠孝は失われず、栄誉は高められましょう。深く計算を徹底し、速やかに良策を決行してください。」鄴が平定されると、董昭を諫議大夫とした。のちに袁尚烏丸蹋頓に身を寄せたので、太祖はこれを征伐しようとしたが、軍糧の輸送が困難であろうと懸念された。平虜・泉州の二つの運河を掘って海へ引き、運送を通じさせたのは董昭が建議したものである。太祖は上表して(董昭を)千秋亭侯に封じ、転任して司空軍祭酒を拝命した。

のちに董昭は建議した。「古代に倣って五等の封爵を建設するのがよろしゅうございましょう。」太祖は言った。「五等を建設するのは聖人である。それに人臣の制定するものではない。吾なんぞがどうして応えられようか?」董昭は言う。「古代以来、人臣として世を正すのに、今日ほど功績を立てた者はありませんでした。今日ほど功績を立てていても、長らく人臣の姿勢を保ち続けた者はありませんでした。いま明公は徳の薄さと善行の不充分さを恥とし、名誉節義を保ちつつ大きな過失を犯さぬよう願っておられますが、盛徳のうるわしさは伊(尹)・周(公)(古代の名臣)を上回り、これこそ至高の徳義を極めたものでございます。さりとて太甲・成王(伊・周の主君)は必ずしも出会えるとは限りませぬ。いま民衆が教化を受け入れざる有様は殷・周よりもひどく、大臣の姿勢を保つのは他人から大それた意図を疑われることになり、誠に熟慮せずにはいられませぬ。明公は威厳恩徳に高らか、法律政治に明らかではございますが、それでも、その基礎を定めなければ、万世の計略を立てようとしても達成いたしかねましょう。基礎固めの要諦は、地と人とにございます。少しづつ建立を進めてゆき、ご自身の藩塀となさるのがよろしゅうございましょう。明公の忠義は歴然、天の威光がお顔に現れておりますゆえ、耿弇の牀の下での言葉、朱英の思いがけぬことについての議論でさえ、お耳に入ることはできますまいが、董昭は非凡の恩義を受けており、あえて言上せずにはいられないのでございます。」[一]のちに太祖はついに魏公・魏王の号を拝受したが、みな董昭が口火を切ったものである。

[一] 『献帝春秋』に言う。董昭は列侯・諸将と議論し、丞相(曹操)の爵位を進めて国公とし、九錫を持たせることで殊勲を表彰すべきだと考え、荀彧に手紙を送って言った。「むかし周旦・呂望周公旦・太公望呂尚)は氏の最盛期に直面し、二聖(文王・武王)の偉業を足がかりに成王の幼時を助けました。このような(達成しやすい)勲功であっても、なお高い爵位を拝受し、領土を賜って建国できたのです。末世の田単も強力な軍を駆って、衰弱したへの恨みを晴らし、七十城を回復して襄王を呼び戻しました。襄王は田単に褒美を取らせ、東では掖邑の領土を、西では菑上の娯楽(?)を与えたのです。過去においては、これほど手厚く功績に報いたのでございます。ただいま曹公は、海内の転覆と宗廟の焼失に遭遇され、甲冑に身を固めて征伐に駆けずりまわり、風でくしけずり雨を浴びること三十年にならんとしており、群れなす凶徒どもを刈って百姓たちのために害を除き、漢室を復旧して劉氏に祭祀を行わせられました。それを過去の方々と比較するのは泰山と小さな丘とを比較するようなものであって、どうして同日に論じられるものでありましょうか?今、考えもなく諸将・功臣とともに一県に封じているばかりですが、それが果たして天下の希望に沿ったものでしょうか!」

関羽が曹仁を包囲したとき、孫権が使者を派遣して「軍兵を西上させて関羽を襲撃いたしたく存じまする。江陵・公安は重鎮でありますので、関羽は二城を失えば必ずや自分の方から敗走いたし、樊軍の包囲も救わずして自ずと解けるというものです。関羽に備えさせぬため、なにとぞご内密にしてお漏らしなきよう」と言ってきた。太祖が羣臣に諮ったところ、羣臣もみな内密にすべきだと言った。董昭は言った。「軍事は権謀を尊び、(その時々の)都合に合わせるものです。孫権には内密にすると答えておきつつ、一方ではこっそり知らせておくのがよろしゅうございます。関羽が孫権の進軍を聞いて、もし引き揚げて自衛に努めたならば、包囲は速やかに解け、その利益はすぐにでも得られますし、賊軍双方にをかませて対峙させておけば、彼らの疲弊を座ったまま待つばかりです。内密にして知らせないというのは、孫権の野心を満たしてやることになり、上計ではございませぬ。また、包囲内の将兵が救援あることを知らなければ、食糧を計算するたびに恐怖を抱き、万一、二心を抱いて小さからぬ困難を起こすこともありましょう。これを知らせるのが都合に適っております。それに、関羽の人となりは強情でありますゆえ、二城の守備の堅固さを自負して、決してすぐには引き返さないことでしょう。」太祖は言った。「素晴らしい。」すぐさま救援軍の将徐晃に命じ、孫権の書状を包囲内および関羽陣内に射込ませた。包囲内ではそれを知って志気百倍である。関羽はやはり猶予した。孫権軍が到来して彼の二城を手に入れると、関羽は破滅した。

文帝曹丕)は王位に就くと、董昭を将作大匠に任じた。践祚したとき大鴻臚に昇進、封爵を右郷侯に進められた。(黄初)二年(二二一)、食邑から百戸を分割して、董昭の弟董訪に関内侯の爵位を賜い、董昭を侍中に異動させた。三年、征東大将軍曹休洞浦口に在陣し、長江に睨みをきかせつつ上表した。「精兵を率いて江南をのし歩きたく存じまする。そうして敵の物資を奪ってゆけば計画は必ず成功いたしましょう。もしが無くとも、ご懸念には及びませぬ。」帝は曹休が不用意に長江を渡るのを恐れ、駅馬を走らせて中止の詔勅を下した。そのとき董昭はお側に侍っていたので、そこで言った。「恐れながら陛下のご憂慮の色を拝察いたしました。曹休が長江を渡ることだけが問題なのでしょうか?ただいま長江を渡ることは人情として従いにくく、たとい曹休にそのつもりがあったとしても、実状からいえば単独で行くことはできず、諸将(の支持)が必要になります。臧霸らはすでに富貴の身であり、それ以上に望みはなく、ただ天寿を全うすること、俸禄を保持することだけを願っております。どうして危険を冒して死地に身を投じ、幸運を求めることを承知いたしましょう?もし臧霸らが賛成しなければ、曹休の気持ちも自然と落ち着くことでしょう。臣が恐れますのは、陛下が渡河を命ずる詔勅を下されても、なお思惑を深めて、すぐにはご命令に従わないことでございます。」それから間もなく、暴風が賊の艦船に吹き付け、残らず曹休らの陣営まで漂流させた。斬首したり捕虜にしたりすると賊兵どもは逃げ散った。詔勅を下して諸軍の渡河を督促したが、軍がすぐさま進発しなかったため、賊軍の救援船が到着してしまった。

御車がに行幸したとき、征南大将軍夏侯尚らは江陵を攻撃していたが、まだ陥落させられずにいた。そのとき長江は(水量が少なかったため)浅くて狭く、夏侯尚は歩騎を率いて乗船し、渚に入って屯所を構え、浮き橋を作って南北に往来できるようにしたいと考えた。論者の多くは(そうすれば)城を必ず陥落させられるだろうと言った。董昭は上疏して言った。「武皇帝(曹操)の智勇は人並みに外れ、用兵は敵軍を恐怖させるほどでしたが、このように(敵を)軽んじることはございませんでした。そもそも軍事において進軍を尊んで撤退を卑しむのは当然の理でございますが、土地が平らで険阻でない場合においてさえ困難があるくらいですから、深く進入するに当たっては退路をよくよく整備しておくことが必要です。軍事には進退が付き物で、思った通りにはなりません。いま渚に駐屯するというのは深さの極み、浮き橋で渡るというのは脆さの極み、道一つで通行するというのは狭さの極みであります。三つとも兵家の戒めるところですが、ただいま、それを実行しているのです。賊兵が何度も橋を攻撃するうち、万が一にも失陥するようなことがあれば、渚の精鋭はの所有ではなくなり、一転してのものに変化いたしましょう。臣は密かにそれを心配して寝食を忘れるほどですのに、論者たちが満悦して憂慮を抱いていないのは迷妄ではありますまいか!しかも長江の水量は増えつつあります。もし一日でどっと急増したなら、どうやって防ぐのでございましょうか?たとい賊軍を破れずとも自身は完全であるべきです。どうして危険を冒しながら恐怖せずにいられましょう?事態は危険に迫りつつあります。陛下、これをお察しくださいますよう!」帝は董昭の言葉にはっと気が付き、すぐさま詔勅を下して夏侯尚らに撤退するよう督促した。賊軍が二手に分かれて進んできたのに対し、官軍は道一つで撤退することになったため、すぐにはることができず、将軍石建・高遷などは自力でようよう落ち延びたほどであった。軍兵が撤退して十日ばかりで長江の水量は激増した。帝は言った。「この一件についての君の議論は、なんと明瞭であったことか!いま張(良)・陳(平)に関わらせたとしても、何を付け加えることがあろう。」五年、成都郷侯に移封され、太常を拝命した。その年、光禄大夫・給事中に転任した。御車の東征に随従して、七年に帰還、太僕を拝命した。明帝曹叡)が即位すると、爵位を楽平侯に進められて食邑千戸となり、衛尉に転任した。食邑百戸を分割して、子一人に関内侯の爵位を賜った。

太和四年(二三〇)に行司徒事(司徒職の代行)となり、六年には正規に任官された。董昭は上疏して末世の風俗の弊害について陳述した。「およそ天下を握った者のうち、質朴忠実の士を尊ばぬ者はありませんでした。虚偽不実の人を深く憎んだのは、彼らが政治を混乱させたり風俗を損壊したりするからです。近くは魏諷が建安年間(一九六~二二〇)末期に誅殺され、曹偉が黄初年間(二二〇~二二七)初期に処刑されました。伏して思いまするに、前後にわたる詔勅では軽薄さと偽りとを深く憎まれ、邪悪な一党をぶちのめしたいものだと、いつも歯軋りしておられました。ところが法律を扱う役人たちはみな彼らの威勢を恐れ、糾弾摘発する者がなかったのでございます。風俗の破壊は次第次第にひどくなりつつあります。密かに現代の若者たちを観察いたしますれば、学問を根本であるとは思わず、その替わりに交遊することばかりに専念し、国士でさえ孝行清潔を第一とはせず、なんと権勢にすり寄って利益追求を優先する有様でございます。徒党を組んで群れを連ね、お互いを褒め合い、誹謗中傷によって処罰代わりにしたり、徒党の評判でもって賞賜代わりにしたりして、自分たちに味方する者には歎じて言葉をれさせ、味方せぬ者には瑕釁(難癖)を付けております。その挙げ句、『この時代、どうして世渡りできぬことを心配することがあろう、(もし失敗するとすれば、その理由は)ただ人脈作りに励まぬせいで顔の広くないことだけである。またどうして己の知られないことを心配することがあろう矣、ただ薬を飲ませて懐柔するだけである』と言い合うまでになりました。また聞いたところでは、ある人物が子飼いの食客に官僚の家人だと名乗らせ、それを出入りの口実として禁中にまで往来させており、行き交う公文書が検閲されている場合があるとのこと。大体このような行為は、みな法の摘発せぬところ、刑の容赦せぬところであって、魏諷・曹偉の罪でさえもこれ以上ではありますまい。」帝はこのことから問責の詔勅を発し、諸葛誕・鄧颺らを罷免することとした。董昭は八十一歳で薨去し、定侯された。子の董胄が後を継いだ。董胄は郡守・九卿の官位を歴任した。

劉曄伝

劉曄子揚といい、淮南成悳の人であり、悳の音は徳(トク)。光武帝劉秀)の子阜陵王劉延の子孫である。父は劉普、母はといい、劉渙と劉曄を産んだ。劉渙が九歳、劉曄が七歳のとき、母は病気にかかり、臨終のとき劉渙・劉曄に注意を与えた。「劉普の側近には、おべっかを使って他人を陥れるような性質があります。が死んだあと、我が家をきっと混乱させるでしょうから気がかりです。お前たちが大きくなってあれを取り除いてくれたら、には思い残すことはありません。」劉曄は十三歳になったとき、兄劉渙に告げた。「亡き母の言葉を実行しましょう。」劉渙は言った。「そんなことはできないよ!」劉曄はすぐさま部屋に入って側近を殺し、その足で家を出て墓参りをした。家中の者が大いに驚いて劉普に報告すると、劉普は腹を立て、人をやって劉曄を追いかけさせた。劉曄は帰ってくると謝罪して言った。「亡き母のご遺言です。勝手な振る舞いに対するご処罰は覚悟しています。」劉普は内心奇特なことだと思い、結局、責め立てることはなかった。汝南許劭は人物評価で知られていたが、揚州に避難してきたとき、劉曄には一世(の英雄)を補佐する才能を有していると称えた。

揚州の士人には狡猾な任俠気取りが多く、鄭宝・張多・許乾といった連中がいて、それぞれに部曲を擁していた。鄭宝がとりわけ勇壮果敢で、才能実力が人並み以上であったため、その地方では畏怖されていた。(鄭宝は)百姓たちを駆り立てて江表(長江南岸)へ渡ろうと考えていて、劉曄が皇族出身の名士であったので、この計画の仮の指導者になるよう強要しようとした。劉曄はこのとき二十歳余りであったが、内心それを疎ましく思ったものの、なかなか機会に恵まれなかった。ちょうどそのころ太祖曹操)が使者を派遣して州へ行かせ、検分させていた。劉曄は会いに行って状勢を論じ、一緒に連れて行ってくれと頼み込んだが、数日間、足止めをくらった。案の定、鄭宝が数百人を連れ、牛酒を提げて使者への挨拶をしにきた。劉曄は、家僮(家で雇った使用人)に命じて手勢とともに中門の外側に座らせ、彼らのために酒食を設け、鄭宝と一緒に(外門の)内側で酒宴をさせた。密かに命知らずの若者に言い含め、酌をするふりをして鄭宝を切らせることにしたが、鄭宝は生まれつきの下戸であったため、様子を窺ってみても意識ははっきりしていて、酌をした者も決行することができなかった。劉曄はそこで自分から佩刀を抜いて鄭宝を切り殺し、その首を斬ってから彼の軍兵に向かって宣言した。「曹公のご命令だ。行動を起こす者あらば鄭宝と同罪であるぞ。」人々はみな肝をつぶし、陣営へと逃げ帰った。陣営には督将と精兵数千人がいたため、彼らが騒ぎを起こすことを恐れた劉曄は、すぐさま鄭宝の馬に跨り、家僮数人を連れて鄭宝陣営の門まで行き、その渠帥たちを怒鳴りつけて利害を説得したところ、みな平伏しつつ開門して劉曄を入れた。劉曄が慰撫を加えて落ち着かせると、みな残らず帰服を願い、劉曄を推し立てて主君に仰いだ。劉曄は、漢室が次第に衰退しつつあり、自分がその支流であることを鑑みて、軍勢を抱えることを望まず、そのままその部曲を廬江太守劉勲に委ねた。劉勲がその理由を訝しがると、劉曄は言った。「鄭宝には統制がなく、その手勢は日ごろ略奪によって利益を上げておりました。にはもともと資金力がありませぬゆえ、彼らを厳正に取り締まるとすれば、必ずや恨みを買うことになり、長続きはいたしますまい。それゆえ譲渡いたしたまでです。」そのころ劉勲の軍勢は長江・淮水一帯で精強を誇っていた。孫策はそれを不快に思い、使者をやって慇懃な言葉とともに手厚い贈り物をし、手紙を書いて劉勲を説得した。「上繚宗民どもはしばしば下国を裏切りましたので、彼らに対して積年の恨みを持っております。これを撃ちたくとも道路が通じておりませぬゆえ、願わくば貴国より討伐していただきたく存じます。上繚はきわめて裕福でありますから、それを押さえれば貴国を富裕にすることができます。どうか軍勢を催され、国外の支援者となってくださいますよう。」劉勲はそれを信用し、しかも孫策の真珠・宝玉・葛越を手に入れたことを喜んだ。外内はみな祝賀を述べたが、劉曄だけが賛同しなかった。劉勲がその理由を訊ねると、答えて言った。「上繚は小さいながら、城は堅くて堀は深く、攻めるに難く、守るに易いところです。十日以内に(成果を)挙げられなければ、外では兵士を疲労させ、国内は空っぽになります。孫策が虚に乗じて我らを襲撃したならば、後方では単独で守りきることはできますまい。このことは将軍が前進しても敵軍に挫かれ、後退しても帰るべき場所がなくなるということです。もし軍勢をどうしても進発させるとなれば、災禍は今にも到来いたしましょうぞ。」劉勲は聞き入れず、軍勢を催して上繚を討伐した。孫策は案の定、その後方に襲いかかった。劉勲は切羽詰まり、そのまま太祖のもとへ出奔した。

太祖が寿春まで来たときのこと、廬江の境界あたりでは山賊の陳策陳蘭?)が軍勢数万人を抱え、要害を楯にして守りを固めていた。以前、偏将(部将)をやって誅伐させたときは、捕まえて勝利することができなかった。征伐することができるであろうかと太祖が訊ねたところ、部下たちはみな「山は高く険しく、谷は狭く深い。守るに易く、攻めるに難きところでございます。しかも失っても損害というほどでもなく、手に入れても利益というほどではございませぬ」と言った。劉曄は言った。「陳策らの小わっぱどもは混乱に乗じて要害に拠り、互いに依存し合うことで強がっているだけで、爵位命令の威信によって帰伏させているわけではありませぬ。以前は偏将の身分が軽かったこと、そして中国がまだ平定されていなかったがために、陳策はあえて要害に入って楯籠ったのであります。いま天下はほぼ平定され、後で降伏した者から先に誅伐されます。そもそも死を恐れて褒美に走るのは、愚者も賢者も同じであり、それゆえ広武君李左車)は韓信のために画策し、その威名をもってすれば宣伝を先にして実行を後にすれば隣国を服従させることができると述べたのであります。そのうえ明公の恩徳は、東方を征討すれば西方が残念がるほどであります。まずは(降服するよう)賞金付きで招いてやり、大軍でもって威圧をかければ、宣言を出したその日のうちに軍門は開かれ、賊軍は自壊するでありましょう。」太祖は笑いながら言った。「の言葉の方が優れておる!」かくて猛将を先鋒とし、本軍は後詰めとしたところ、到着するなり陳策に打ち勝つことができた。劉曄の予測した通りになったのである。太祖は引き揚げてから、劉曄を招いて司空倉曹掾とした。[一]

[一] 『傅子』に言う。太祖は劉曄および蔣済・胡質らの五人を徴し寄せたが、いずれも揚州の名士であった。亭伝(駅舎)で休息を取るたびに議論を交わさぬことはなく、そうして尊重の意を示したのである。内政面では国々の先達たち、盗賊に対する防備、軍勢を進退させる機微について、外事面では敵軍の変化を察知する方法、彼我の実状と虚勢、戦争の手立てなど、朝から晩まで夢中になった。ところが劉曄だけはひとり車内で横になり、結局、一言もしゃべらなかった。蔣済が不思議に思って訊ねてみると、劉曄は答えた。「明主と分かり合うには精神をもってする以外にはありえない。精神は人真似によって得られるものであろうか?」太祖と(正式に)会うことになったが、太祖はこのときも揚州の先達たち、賊徒どもの状況について訊ねた。四人は先を争って答えようとし、(後に回された者でも)順番が来るなりすぐさま発言した。そのようにして二度の会見が行われ、太祖はいずれの場合にも満足げであった。しかし劉曄は結局、一言もしゃべらぬままであったので、四人は彼のことを笑いものにした。後日、また会見する機会があって、太祖がふと沈黙して次の質問を出すまでのあいだ、劉曄ははじめて深遠なる言葉を示して太祖を揺り動かし、太祖も、はたと悟るものがあって黙り込んだ。こうしたことが三たびくり返された。その趣旨は、深遠なる言葉は精神から導きだすものであるから、単独会見によってその精密な議論を語り尽くすべきであって、多数の入り交じる座上で語るべきでない、というものであった。太祖はとくと彼の心意を察し、会見を終えたのち、ほどなく四人を県令とし、劉曄には腹心の任務を委ねたのである。職務上の問題があれば、そのつど手紙を出して劉曄に質問し、一晩のうちに督促が十回来ることもあった。

太祖は張魯を征討するにあたり、劉曄を主簿に異動させた。漢中に着陣したとき、山が険しくて登るのも難しく、兵糧はかなり乏しくなっていた。太祖は言った。「これはまやかしの国だ。どうやって虚無と現実を見定められよう?我が軍は食糧が不足しておるから、速やかに帰還するに越したことはない。」ただちに自分は(軍勢を)まとめて引き返し、劉曄には後方の諸軍を監督させ、順次、引き揚げさせることにした。劉曄は、張魯に打ち勝つことは可能であるし、しかも食糧輸送の道が絶たれている以上、引き揚げたとしても軍勢を十分に全うすることはできないと考え、太祖のもとへ駆け付けて「攻撃をかける方がよろしゅうございます」と言上した。こうして進軍することになり、数多くのを持ち出して彼らの陣営に浴びせかけると、張魯は逃走し、漢中はすっかり平定された。劉曄が進み出て言った。「明公は歩卒五千でもって董卓を誅伐せんとされ、北は袁紹を破り、南は劉表を征せられ、九州百郡のうち十中の八を併合されました。威光は天下を震わし、勢力は海外を恐れさせております。いま漢中を落とされましたので、の人々は噂を聞いただけで胆をつぶし、落ち着きを失っております。これに乗じて進軍なされば、蜀は檄文を飛ばすだけで平定できましょう。劉備は人傑でございまして、度量は大きいのですがのろまでもあり、蜀を手に入れてから日も浅く、蜀の人々はまだみとしておりませぬ。いま漢中を落とされますと、蜀の人々は恐怖に打ち震え、みずから倒れようとしているのが実状です。公の神明でもって、その倒れように乗じて圧力を加えるのですから、勝てないはずがありませぬ。もし少しでも緩めてやれば、諸葛亮が統治の明るさでもって宰相を務め、関羽・張飛が三軍に冠たる勇ましさでもって将帥を務めておりますから、蜀の民衆がひとたび安定して、険阻要害に楯籠るようなこととなれば、手を着けられなくなります。いま攻略せねば必ずや後日の憂いとなりましょうぞ。」太祖は聞き入れず、[一]大軍はそのまま引き返した。劉曄は漢中から引き揚げるにあたって行軍長史を務め、領軍を兼ねた。延康元年(二二〇)、蜀将孟達が軍勢を率いて降服してきた。孟達は容姿に秀でて才能見識の持ち主であったので、文帝曹丕)ははなはだ敬愛して孟達を新城太守とし、散騎常侍の官を加えた。劉曄は「孟達は強欲な心を持ち、才能を当て込んで術策を好みますゆえ、きっと恩義に感謝することはありますまい。新城は呉・蜀に隣接しておりますゆえ、もし態度を変えるようなことがあれば国家の患いが生じましょうぞ」と言ったが、文帝は結局改めることなく、後年、孟達は叛乱に失敗して死んだのであった。[二]

[一] 『傅子』に言う。在陣して七日、蜀からの降人が「蜀の地では一日に数十回もの騒動が起こり、劉備がその者を斬っても落ち着かせられないでいます」と証言した。太祖が劉曄を呼んで「今ならまだ攻撃できるのではないか?」と訊ねると、劉曄は「今ではもう少し安定しましたので、攻撃することはできません」と答えた。

[二] 『傅子』に言う。かつて太祖の時代、魏諷には重々しい名声があり、九卿・宰相以下、みな熱心に交わりを持とうとした。その後、孟達が劉備のもとを去って文帝に身を寄せたときも、論者の多くが楽毅の器量を備えていると称えた。劉曄は魏諷・孟達を一目見ただけで、必ずや反逆するであろうと言い、結局、その言葉通りになった。

黄初元年(二二〇)、劉曄を侍中とし、関内侯の爵位を賜った。関羽のために劉備が出征して呉に報復するであろうか予測せよとの詔勅による諮問が羣臣に下された。人々の議論はみなこうであった。「蜀は小国に過ぎず、名将といえば関羽のみ。関羽が死んで軍勢は破られ、国内は憂い、恐れております。もう出征する余裕もありますまい。」劉曄だけがこう言った。「蜀は狭く弱いとはいえ、しかしながら劉備の考えでは、武威でもって自分たちを強く見せかけたいはずで、自然、軍勢を用いてその余裕あるところを誇示するであろうことは必定でございます。そのうえ関羽と劉備は、義において君臣であり、恩においても父子のようなもの。関羽が死んでも軍勢を催して復讐できなければ、永遠の誓いを全うできないのでございます。」後年、劉備は果たして出兵して呉を攻撃をかけ、呉は国家を挙げてこれに対応するとともに、(魏へ)使者を派遣してを称してきた。朝臣はみな祝賀したが、ただ一人、劉曄は言った。「呉は長江・漢水の向こう岸で屹立しており、入朝し、臣従する心は久しくありませんでした。陛下は有虞に等しき徳を備えておられますのに、それでも醜悪な奴らの性質は、いまだに感悟するところがございませぬ。災難のために臣従を求めているのであって、必ずしも信用いたしがたいのであります。彼らは外圧に苦しみを感じ、そこまできて初めて、この使者を出したに過ぎませぬ。彼らの困窮に乗じて襲いかかり、これを攻略するのがよろしゅうございましょう。そもそも、一日敵を見逃せば、数世代にわたる患いとなるもの。ご明察いただかぬわけには参りませぬ。」劉備が戦いに敗れて撤退すると、呉はその途端、拝礼・表敬をやめてしまった。帝は軍勢を催して討伐せんと企て、劉曄が「彼らは念願を遂げたばかりですから、上下がともに心を合わせております。しかも江湖を抱えて抵抗いたしますゆえ、必定、早急に片付けるのは困難でございましょう」と言っても、帝は聞き入れなかった。[一]五年、広陵泗口に行幸し、荊州・揚州の諸軍に同時進攻を命じた。羣臣を集めて「孫権は自分で来るだろうか?」と下問すると、みな「陛下がご親征遊ばされたうえは、孫権は恐怖して国家を挙げて対応するのは必定でございます。それに(寝返りを恐れて)大軍を臣下に預けることもできますまいから、必ずや自分で統率して参るはずでございます」と言った。劉曄は言った。「彼らの考えでは、陛下が万乗の重みでもって自分たちを牽制しつつ、江湖を越えてくるのは別将の役目だ、ということになります。きっと軍兵を押さえて時機を待ち、まだ進退することはありますまい。」大駕が停留して日を重ねたが、孫権は果たして到来せず、帝はようやく軍勢を返して、言った。「卿はこのことを正しく計算しておった。ただ敵情を知るのみならず、吾のために二賊を滅ぼすことを考えてくれ。」

[一] 『傅子』に言う。孫権が使者を出して降服を求めてきたとき、帝はそれを劉曄に諮問した。劉曄は答えた。「孫権が理由もなく降服を求めてきたのは、きっと国内において非常事態が発生したからでしょう。孫権は以前、関羽を襲撃して殺し、荊州の四郡を奪いましたので、劉備は腹を立て、きっと盛大に討伐軍を起こすに違いありません。国外に強敵があって人々の心は不安になり、そのうえ中国がその隙を突いて征伐してくるのではないかと恐れ、それゆえ土地を捨てて降服を求めておるのでございます。第一に中国の軍兵を退け、第二に中国の援軍を借り、それにより自軍を強めて敵兵を惑わそうとしているのです。孫権は用兵に巧みであり、策略変化を知っておりますゆえ、その計略は必ずやそうした理由から出たものでありましょう。いま天下は三分され、中国がその十分の八を占めておりますが、呉・蜀はそれぞれが一州を保有し、山を楯にして川を堀とし、危急時には互いに助け合います。それが小国にとって利益になるからです。ところが現在、自分たちで攻撃しあっているのは、天が彼らを亡ぼそうとしているからです。なにとぞ大軍を催し、ただちに長江を渡って彼らの懐のうちを襲撃されますよう。蜀がその外側から攻め、我らがその内側から襲いかかれば、呉の滅亡は一ヶ月とかかりますまい。呉が滅亡すれば蜀は孤立いたします。もし呉の半分づつを切り取ったとしても、蜀はそれでさえ長続きできなくなるのです。ましてや蜀がその外側を取り、我らがその内側を取ったならばなおさらです!」帝は言った。「他人が臣と称して降服しておるのに、それを討伐するならば、天下のうちの降参を望む者どもの心を疑わせ、必ずや恐怖させることになるだろう。それはず駄目だ!はいったん呉の降服を受け入れてやり、それから蜀の背後を襲撃しようと思うがどうか?」答えて言った。「蜀は遠くて呉は近くでありますし、しかも中国が彼らを討伐すると聞けば、(彼らは)すぐに軍勢を引き返すでありましょうが、(我らはそれを)制止することができませぬ。いま劉備は腹を立てており、それゆえ軍勢を催して呉を攻撃しておるのでございますから、我らが呉を討伐すると聞けば、呉の滅亡は間違いなしと悟り、喜んで進軍し、我らと呉の土地を奪い合おうとするのは必定です。計画を改め、怒りを抑えて呉を救援することは決してないのは、必然の勢いなのでございます。」帝は聞き入れず、ついに呉の降服を受け入れ、すぐさま孫権を呉王に任じた。劉曄はまたも進みでて言った。「なりませぬ。先帝(曹操)は征伐のすえ天下の八分を兼併され、威光を海内を震わせられました。陛下は禅譲をお受けになって真の位に就かれ、聖徳は天地に合致し、声望は四方に到達しております。これは現実であり、佞臣の甘言ではございませぬ。孫権は英雄たる才能の持ち主ではありますが、元はと言えば驃騎将軍・南昌侯に過ぎず、官位が軽いため権勢も弱く、官民ともに中国を畏怖しておりますので、力ずくで陰謀に加担させようとしても不可能なのでございます。やむを得ず降服を受け入れるとしても、その将軍号を高めて十万戸の侯に封ずればよく、にわかに王に取り立ててはなりませぬ。そもそも王の位は天子と一段しか違いがなく、その格式・衣服・車馬は似通っております。彼はたかだか侯に過ぎず、長江南岸の官民たちに君臣としての義理があるわけではございませぬ。我らがあの偽りの降服を信じて封殖し、その爵位称号を高めてやり、その君臣の役割を決めてやるのは、それこそ虎に翼を添えてやるようなものです。孫権は王位を授かって蜀軍を追い払ったのち、表面では中国に礼を尽くして仕え、自国領内にそれを知らしめておき、影では無礼を働いて陛下を怒らせるでありましょう。陛下が勃然とお怒りを発せられ、軍勢を催してこれを討伐するならば、そこで自国の領民に向かって静かに告げるのでございます。『は身を尽くして中国に仕え、財貨珍宝を惜しむことなく季節ごとに献上し、あえて臣下の礼を忘れることはなかった。理由もなく我を討伐するのは、きっと我らが国家を滅ぼし、我らが男女民衆を捕まえて奴隷にするつもりなのであろう』、と。呉の民衆がその言葉を信用しないはずがございませぬ。その言葉を信じるならば、怒りを覚えて上下が心を合わせ、戦力は十倍いたしましょう。」やはり聞き入れられず、とうとう孫権は呉王に拝命された。孫権の将陸遜が劉備を大破し、その軍勢八万人余りを殺し、劉備はようよう逃げ延びた。孫権は表面では礼を尽くしてますます卑屈に振るまい、しかし影では不遜な態度を取り、案の定、劉曄の言葉通りであった。

明帝曹叡)が即位すると、爵位は東亭侯に進み、食邑三百戸となった。詔勅に言う。「父祖を尊重するのは孝行を顕彰するためであり、始祖を崇敬するのは教化を重視するためである。だからこそ成湯・文王・武王商・周の事実上の創業者としながら、『詩経』『尚書』の本義では稷・契までさかのぼって尊崇し、有娀・姜嫄のことを歌い称え、盛徳の源流、天命を授かる発端を明らかにするのである。わが魏室は天の秩序を継承し、足跡は高皇・太皇帝曹騰・曹嵩)が発せられ、功業は武皇・文皇帝(曹操・曹丕)が高められた。高皇の父の処士君曹萌)については、密かに人徳謙譲を修め、行動は神業のごとく、これこそ天地の祝福を受け、神霊の由来するところである。しかるに精神は暗く遠きところにあり、称号は記されておらず、孝行を尊んで根本を重んずることにはならない。そこで公卿以下に命ずる。会議のうえ諡号を定めよ。」劉曄は提議した。「聖帝として、孝心深い子孫として祖先を崇敬したいとの願いは、まことに計り知れないものでございます。しかしながら、親近と疎遠の違いが礼法に定められているのは、私情を断ち切って公法を成り立たせ、万世の模範とするためでありましょう。周王が祖先を后稷まで求めている理由は、その人が)を補佐して功績を立て、その名が祭祀の経典に記載されているからです。漢氏の初めから、追諡の本義はその父親を越えることがなくなりました。上に周室と比べれば、大魏の発祥は高皇からの始まりとなりますし、下に漢氏を論ずれば、追諡の礼はその祖父に及ばないことになります。これはまことに過去の定まった法律であり、現代の明らかな本義なのでございます。陛下の孝心が心底から溢れ出すのは、まことに仕方のないことでございます。しかしながら君主の挙動はかならず記録されるものですから、礼法に対しては慎重であるべきです。愚考いたしまするに、追尊の本義は高皇までに留めるのがよろしゅうございます。」尚書衛臻も劉曄の意見に賛同したので、この案件はその通りに施行された。遼東太守公孫淵が叔父(公孫恭)の地位を奪って勝手に官職に就き、使者を送って状況を説明してきた。劉曄はこう主張した。「公孫氏は漢の時代に任用されてから、ずっと代々にわたり官職を世襲してきた。水路では海の向こう、陸路では山の向こうにいて、そのため胡夷は遠くかけはなれて制御しがたく、それが代々にわたり権力を握って久しくなる。いま誅伐せねば、後日、かならず災禍を引き起こすであろう。もし(彼らが)二心を抱いて軍備を固めるならば、それから誅伐しようとしても作戦遂行は困難である。官職に就いたばかりで党派や仇敵が存在しているうちに先手を打って彼らの不意を突き、軍事力で威圧をかけつつ賞金を設けて(降服を)誘ってやれば、軍勢を煩わせずとも平定できるであろう。」後年、公孫淵はやはり反逆した。

劉曄は朝廷にあって、当時の人々とはほとんど交遊しなかった。ある人がその理由を訊ねると、劉曄はこう答えた。「魏室は践祚したばかりであって、智者は天命を理解していても、俗人はみな全てがそうではない。は漢に対しては皇族の端くれ、魏に対しては腹心であり、仲間の少ない方が現状では都合が悪くないのだ。」太和六年(二三二)、病気にかかって太中大夫を拝命した。しばらくして大鴻臚となり、二年のあいだ在職して官位を辞退、ふたたび太中大夫となった。薨去して、景侯された。子の劉寓が後を継いだ。[一]末子の劉陶も才能に秀でていたが、品行が悪く、官位は平原太守まで昇った。[二]

[一] 『傅子』に言う。劉曄は明皇帝に仕えて、やはり大層な親愛と尊敬をもって遇された。帝が蜀を討伐しようとしたとき、朝臣たちは内閣・外台ともにみな「なりませぬ」と主張した。劉曄は参内して帝に相談されたときは「討伐すべきです」と答え、退出して朝臣たちには「討伐すべきでない」と言った。劉曄は大胆さと智力の持ち主であって、その発言にはどちらも筋が通っていた。中領軍楊曁は帝の寵臣であり、彼もまた劉曄を尊重していた。蜀討伐の議論においては最も強硬な反対派であり、禁裏から退出するたび劉曄のもとへ行き、劉曄はそのつど反対の理由を述べていた。のちに楊曁が御車に従って天淵池に出かけたとき、帝は蜀討伐について語った。楊曁が厳しく諫言するので、帝が「卿は書生であって、どうして軍事が理解できよう!」と言うと、楊曁は陳謝しながら言った。「はもともと儒者の末席の出身ですが、うっかりと陛下のお認めを賜り、群衆の中から臣を抜擢して六軍の上に立ててくださいました。(そのご恩顧に報いるため)臣は些細なことでも言葉を尽くさぬわけには参らぬのです。臣の言葉はまこと取るに足らぬものでございますが、侍中劉曄は先帝の謀臣でありまして、つねづね蜀を討伐すべきでないと申しております。」帝は言った。「劉曄は蜀を討伐すべきだと吾に申したぞ。」楊曁が言った。「劉曄を召し寄せてすのがよろしゅうございます。」詔勅により劉曄を召し寄せ、帝が劉曄に質問しても決して口を開かなかった。のちに単独で拝謁したとき、劉曄は帝を責めて言った。「他国討伐は重大なる計画でございます。臣は大計画をお聞かせ頂いたとき、昧夢で漏らして臣の罪科を増やしはせぬかとずっと心配しておりました。どうしてわざわざ他人にそれを申しましょうか?そもそも軍事というのは詭道(詐術)でございます。軍事計画が実行されるまではその機密性をないがしろにはいたしません。陛下がはっきりとこれを公言されましたので、臣は敵国がすでに察知しているのではと懸念いたしております。」そこでようやく帝は陳謝した。劉曄は退出してから楊曁を咎めて言った。「そもそも釣人が大きな魚を引き当てたとき、まずは緩めてやってその自由に任せ、制御できるようになってから引き揚げるものです。そうすれば手に入れられぬことはない。君主の威光はただの大魚ほどのことでしょうか!はまこと直言の臣ですが、しかしながら計略は大したことがない。熟慮せねばなりませんぞ。」楊曁もまた陳謝した。劉曄がよく変化に応じて双方に対処した有様は、この通りであった。或悪曄於帝曰:「曄不尽忠,善伺上意所趨而合之.陛下試与曄言,皆反意而問之,若皆与所問反者,是曄常与聖意合也.復毎問皆同者,曄之情必無所逃矣.」帝如言以験之,果得其情,従此疏焉.曄遂発狂,出為大鴻臚,以憂死.諺曰「巧詐不如拙誠」,信矣.以曄之明智権計,若居之以徳義,行之以忠信,古之上賢,何以加諸?独任才智,不与世士相経緯,内不推心事上,外困於俗,卒不能自安於天下,豈不惜哉!

[二] 王弼伝曰:淮南人劉陶,善論縦横,為当時所推.傅子曰:陶字季冶,善名称,有大弁.曹爽時為選部郎,鄧颺之徒称之以為伊呂.当此之時,其人意陵青雲,謂玄曰:「仲尼不聖.何以知其然?智者図国;天下羣愚,如弄一丸于掌中,而不能得天下.」玄以其言大惑,不復詳難也.謂之曰:「天下之質,変無常也.今見卿窮!」爽之敗,退居里舎,乃謝其言之過. 干宝晋紀曰:毌丘倹之起也,大将軍以問陶,陶答依違.大将軍怒曰:「卿平生与吾論天下事,至于今日而更不尽乎?」乃出為平原太守,又追殺之.

蔣済伝

劉放伝

孫資伝

評曰:程昱?郭嘉?董昭?劉曄??済才策謀略,世之奇士,雖清治徳業,殊於荀攸,而籌画所料,是其倫也.劉放文翰,孫資勤慎,並管喉舌,権聞当時,雅亮非体,是故譏諛之声,?過其実矣.

魏書十四 程郭董劉蔣劉傳第十四

程昱傳

程昱字仲德,東郡東阿人也.長八尺三寸,美鬚髯.黃巾起,縣丞王度反應之,燒倉庫.縣令踰城走,吏民負老幼東奔渠丘山.昱使人偵視度,度等得空城不能守,出城西五六里止屯.昱謂縣中大姓薛房等曰:「今度等得城郭不能居,其勢可知.此不過欲虜掠財物,非有堅甲利兵攻守之志也.今何不相率還城而守之?且城高厚,多穀米,今若還求令,共堅守,度必不能久,攻可破也.」房等以為然.吏民不肯從,曰:「賊在西,但有東耳.」昱謂房等:「愚民不可計事.」乃密遣數騎擧幡于東山上,令房等望見,大呼言「賊已至」,便下山趣城,吏民奔走隨之,求得縣令,遂共城守.度等來攻城,不能下,欲去.昱率吏民開城門急擊之,度等破走.東阿由此得全.

初平中,兗州刺史劉岱辟昱,昱不應.是時岱與袁紹﹑公孫瓚和親,紹令妻子居岱所,瓚亦遣從事范方將騎助岱.後紹與瓚有隙.瓚擊破紹軍,乃遣使語岱,令遣紹妻子,使與紹絕.別勅范方:「若岱不遣紹家,將騎還.吾定紹,將加兵于岱.」岱議連日不決,別駕王彧白岱:「程昱有謀,能斷大事.」岱乃召見昱,問計,昱曰:「若棄紹近援而求瓚遠助,此假人於越以救溺子之說也.夫公孫瓚,非袁紹之敵也.今雖壞紹軍,然終為紹所禽.夫趣一朝之權而不慮遠計,將軍終敗.」岱從之.范方將其騎歸,未至,瓚大為紹所破.岱表昱為騎都尉,昱辭以疾.

劉岱為黃巾所殺.太祖臨兗州,辟昱.昱將行,其鄕人謂曰:「何前後之相背也!」昱笑而不應.太祖與語,說之,以昱守壽張令.太祖征徐州,使昱與荀彧留守鄄城.張邈等叛迎呂布,郡縣響應,唯鄄城﹑范﹑東阿不動.布軍降者,言陳宮欲自將兵取東阿,又使汎嶷取范,吏民皆恐.彧謂昱曰:「今兗州反,唯有此三城.宮等以重兵臨之,非有以深結其心,三城必動.君,民之望也,歸而說之,殆可!」昱乃歸,過范,說其令靳允曰:「聞呂布執君母弟妻子,孝子誠不可為心!今天下大亂,英雄並起,必有命世,能息天下之亂者,此智者所詳擇也.得主者昌,失主者亡.陳宮叛迎呂布而百城皆應,似能有為,然以君觀之,布何如人哉!夫布,麤中少親,剛而無禮,匹夫之雄耳.宮等以勢假合,不能相君也.兵雖眾,終必無成.曹使君智略不世出,殆天所授!君必固范,我守東阿,則田單之功可立也.孰與違忠從惡而母子俱亡乎?唯君詳慮之!」允流涕曰:「不敢有二心.」時汎嶷已在縣,允乃見嶷,伏兵刺殺之,歸勒兵守.[一]昱又遣別騎絕倉亭津,陳宮至,不得渡.昱至東阿,東阿令棗祗已率厲吏民,拒城堅守.又兗州從事薛悌與昱協謀,卒完三城,以待太祖.太祖還,執昱手曰:「微子之力,吾無所歸矣.」乃表昱為東平相,屯范.[二]

[一] 徐眾評曰:允於曹公,未成君臣.母,至親也,於義應去.昔王陵母為項羽所拘,母以高祖必得天下,因自殺以固陵志.明心無所係,然後可得成事人盡死之節.衞公子開方仕齊,積年不歸,管仲以為不懷其親,安能愛君,不可以為相.是以求忠臣必於孝子之門,允宜先救至親.徐庶母為曹公所得,劉備乃遣庶歸,欲為天下者恕人子之情也.曹公亦宜遣允.

[二] 魏書曰:昱少時常夢上泰山,兩手捧日.昱私異之,以語荀彧.及兗州反,賴昱得完三城.於是彧以昱夢白太祖.太祖曰:「卿當終為吾腹心.」昱本名立,太祖乃加其上「日」,更名昱也.

太祖與呂布戰于濮陽,數不利.蝗蟲起,乃各引去.於是袁紹使人說太祖連和,欲使太祖遷家居鄴.太祖新失兗州,軍食盡,將許之.時昱使適還,引見,因言曰:「竊聞將軍欲遣家,與袁紹連和,誠有之乎?」太祖曰:「然.」昱曰:「意者將軍殆臨事而懼,不然何慮之不深也!夫袁紹據燕﹑趙之地,有幷天下之心,而智不能濟也.將軍自度能為之下乎?將軍以龍虎之威,可為韓﹑彭之事邪?今兗州雖殘,尚有三城.能戰之士,不下萬人.以將軍之神武,與文若﹑昱等,收而用之,霸王之業可成也.願將軍更慮之!」太祖乃止.[一]

[一] 魏略載昱說太祖曰:「昔田橫,齊之世族,兄弟三人更王,據千里之齊,擁百萬之眾,與諸侯並南面稱孤.旣而高祖得天下,而橫顧為降虜.當此之時,橫豈可為心哉!」太祖曰:「然.此誠丈夫之至辱也.」昱曰:「昱愚,不識大旨,以為將軍之志,不如田橫.田橫,齊一壯士耳,猶羞為高祖臣.今聞將軍欲遣家往鄴,將北面而事袁紹.夫以將軍之聰明神武,而反不羞為袁紹之下,竊為將軍恥之!」其後語與本傳略同.

天子都許,以昱為尚書.兗州未苦安集,復以昱為東中郞將,領濟陰太守,都督兗州事.劉備失徐州,來歸太祖.昱說太祖殺備,太祖不聽.語在武紀.後又遣備至徐州要擊袁術,昱與郭嘉說太祖曰:「公前日不圖備,昱等誠不及也.今借之以兵,必有異心.」太祖悔,追之不及.會術病死,備至徐州,遂殺車胄,擧兵背太祖.頃之,昱遷振威將軍.袁紹在黎陽,將南渡.時昱有七百兵守鄄城,太祖聞之,使人吿昱,欲益二千兵.昱不肯,曰:「袁紹擁十萬眾,自以所向無前.今見昱兵少,必輕易不來攻.若益昱兵,過則不可不攻,攻之必克,徒兩損其勢.願公無疑!」太祖從之.紹聞昱兵少,果不往.太祖謂賈詡曰:「程昱之膽,過于賁﹑育.」昱收山澤亡命,得精兵數千人,乃引軍與太祖會黎陽,討袁譚﹑袁尚.譚﹑尚破走,拜昱奮武將軍,封安國亭侯.太祖征荊州,劉備奔吳.論者以為孫權必殺備,昱料之曰:「孫權新在位,未為海內所憚.曹公無敵於天下,初擧荊州,威震江表,權雖有謀,不能獨當也.劉備有英名,關羽﹑張飛皆萬人之敵也,權必資之以禦我.難解勢分,備資以成,又不可得而殺也.」權果多與備兵,以禦太祖.是後中夏漸平,太祖拊昱背曰:「兗州之敗,不用君言,吾何以至此?」宗人奉牛酒大會,昱曰:「知足不辱,吾可以退矣.」乃自表歸兵,闔門不出.[一]

[一] 魏書曰:太祖征馬超,文帝留守,使昱參軍事.田銀﹑蘇伯等反河閒,遣將軍賈信討之.賊有千餘人請降,議者皆以為宜如舊法,昱曰:「誅降者,謂在擾攘之時,天下雲起,故圍而後降者不赦,以示威天下,開其利路,使不至於圍也.今天下略定,在邦域之中,此必降之賊,殺之無所威懼,非前日誅降之意.臣以為不可誅也;縱誅之,宜先啓聞.」眾議者曰:「軍事有專,無請.」昱不答.文帝起入,特引見昱曰:「君有所不盡邪?」昱曰:「凡專命者,謂有臨時之急,呼吸之閒者耳.今此賊制在賈信之手,無朝夕之變.故老臣不願將軍行之也.」文帝曰:「君慮之善.」卽白太祖,太祖果不誅.太祖還,聞之甚說,謂昱曰:「君非徒明於軍計,又善處人父子之閒.」

昱性剛戾,與人多迕.人有吿昱謀反,太祖賜待益厚.魏國旣建,為衞尉,與中尉邢貞爭威儀,免.文帝踐阼,復為衞尉,進封安鄕侯,增邑三百戶,幷前八百戶.分封少子延及孫曉列侯.方欲以為公,會薨,帝為流涕,追贈車騎將軍,諡曰肅侯.[一]子武嗣.武薨,子克嗣.克薨,子良嗣.

[一] 魏書曰:昱時年八十.世語曰:初,太祖乏食,昱略其本縣,供三日糧,頗雜以人脯,由是失朝望,故位不至公.

程曉傳

曉,嘉平中為黃門侍郞.[一]時校事放橫,曉上疏曰:「周禮云:『設官分職,以為民極.』春秋傳曰:『天有十日,人有十等.』愚不得臨賢,賤不得臨貴.於是並建聖哲,樹之風聲.明試以功,九載考績.各脩厥業,思不出位.故欒書欲拯晉侯,其子不聽;死人橫於街路,邴吉不問.上不責非職之功,下不務分外之賞,吏無兼統之勢,民無二事之役,斯誠為國要道,治亂所由也.遠覽典志,近觀秦漢,雖官名改易,職司不同,至於崇上抑下,顯分明例,其致一也.初無校事之官干與庶政者也.昔武皇帝大業草創,眾官未備,而軍旅勤苦,民心不安,乃有小罪,不可不察,故置校事,取其一切耳,然檢御有方,不至縱恣也.此霸世之權宜,非帝王之正典.其後漸蒙見任,復為疾病,轉相因仍,莫正其本.遂令上察宮廟,下攝眾司,官無局業,職無分限,隨意任情,唯心所適.法造於筆端,不依科詔;獄成於門下,不顧覆訊.其選官屬,以謹愼為粗疏,以謥詷為賢能.其治事,以刻暴為公嚴,以循理為怯弱.外則託天威以為聲勢,內則聚羣姦以為腹心.大臣恥與分埶,含忍而不言,小人畏其鋒芒,鬱結而無吿.至使尹模公於目下肆其奸慝;罪惡之著,行路皆知,纖惡之過,積年不聞.旣非周禮設官之意,又非春秋十等之義也.今外有公卿將校總統諸署,內有侍中尚書綜理萬機,司隸校尉督察京輦,御史中丞董攝宮殿,皆高選賢才以充其職,申明科詔以督其違.若此諸賢猶不足任,校事小吏,益不可信.若此諸賢各思盡忠,校事區區,亦復無益.若更高選國士以為校事,則是中丞司隸重增一官耳.若如舊選,尹模之奸今復發矣.進退推算,無所用之.昔桑弘羊為漢求利,卜式以為獨烹弘羊,天乃可雨.若使政治得失必感天地,臣恐水旱之災,未必非校事之由也.曹恭公遠君子,近小人,國風託以為刺.衞獻公舍大臣,與小臣謀,定姜謂之有罪.縱令校事有益於國,以禮義言之,尚傷大臣之心,況姦囘暴露,而復不罷,是袞闕不補,迷而不返也.」於是遂罷校事官.曉遷汝南太守,年四十餘薨.[二]

[一] 世語曰:曉字季明,有通識.

[二] 曉別傳曰:曉大著文章多亡失,今之存者不能十分之一.

郭嘉傳

郭嘉字奉孝,潁川陽翟人也.[一]初,北見袁紹,謂紹謀臣辛評﹑郭圖曰:「夫智者審於量主,故百擧百全而功名可立也.袁公徒欲效周公之下士,而未知用人之機.多端寡要,好謀無決,欲與共濟天下大難,定霸王之業,難矣!」於是遂去之.先是時,潁川戲志才,籌畫士也,太祖甚器之.早卒.太祖與荀彧書曰:「自志才亡後,莫可與計事者.汝﹑潁固多奇士,誰可以繼之?」彧薦嘉.召見,論天下事.太祖曰:「使孤成大業者,必此人也.」嘉出,亦喜曰:「眞吾主也.」表為司空軍祭酒.[二]

[一] 傅子曰:嘉少有遠量.漢末天下將亂.自弱冠匿名迹,密交結英雋,不與俗接,故時人多莫知,惟識達者奇之.年二十七,辟司徒府.

[二] 傅子曰:太祖謂嘉曰:「本初擁冀州之眾,靑﹑幷從之,地廣兵彊,而數為不遜.吾欲討之,力不敵,如何?」對曰:「劉﹑項之不敵,公所知也.漢祖唯智勝;項羽雖彊,終為所禽.嘉竊料之,紹有十敗,公有十勝,雖兵彊,無能為也.紹繁禮多儀,公體任自然,此道勝一也.紹以逆動,公奉順以率天下,此義勝二也.漢末政失於寬,紹以寬濟寬,故不懾,公糾之以猛而上下知制,此治勝三也.紹外寬內忌,用人而疑之,所任唯親戚子弟,公外易簡而內機明,用人無疑,唯才所宜,不閒遠近,此度勝四也.紹多謀少決,失在後事,公策得輒行,應變無窮,此謀勝五也.紹因累世之資,高議揖讓以收名譽,士之好言飾外者多歸之,公以至心待人,推誠而行,不為虛美,以儉率下,與有功者無所吝,士之忠正遠見而有實者皆願為用,此德勝六也.紹見人飢寒,恤念之形於顏色,其所不見,慮或不及也,所謂婦人之仁耳,公於目前小事,時有所忽,至於大事,與四海接,恩之所加,皆過其望,雖所不見,慮之所周,無不濟也,此仁勝七也.紹大臣爭權,讒言惑亂,公御下以道,浸潤不行,此明勝八也.紹是非不可知,公所是進之以禮,所不是正之以法,此文勝九也.紹好為虛勢,不知兵要,公以少克眾,用兵如神,軍人恃之,敵人畏之,此武勝十也.」太祖笑曰:「如卿所言,孤何德以堪之也!」嘉又曰:「紹方北擊公孫瓚,可因其遠征,東取呂布.不先取布,若紹為寇,布為之援,此深害也.」太祖曰:「然.」

征呂布,三戰破之,布退固守.時士卒疲倦,太祖欲引軍還,嘉說太祖急攻之,遂禽布.語在荀攸傳.[一]

[一] 傅子曰:太祖欲引軍還,嘉曰:「昔項籍七十餘戰,未嘗敗北,一朝失勢而身死國亡者,恃勇無謀故也.今布每戰輒破,氣衰力盡,內外失守.布之威力不及項籍,而困敗過之,若乘勝攻之,此成禽也.」太祖曰:「善.」 魏書曰:劉備來奔,以為豫州牧.或謂太祖曰:「備有英雄志,今不早圖,後必為患.」太祖以問嘉,嘉曰:「有是.然公提劍起義兵,為百姓除暴,推誠仗信以招俊傑,猶懼其未也.今備有英雄名,以窮歸己而害之,是以害賢為名,則智士將自疑,囘心擇主,公誰與定天下?夫除一人之患,以沮四海之望,安危之機,不可不察!」太祖笑曰:「君得之矣.」 傅子曰:初,劉備來降,太祖以客禮待之,使為豫州牧.嘉言于太祖曰:「備有雄才而甚得眾心.張飛﹑關羽者,皆萬人之敵也,為之死用.嘉觀之,備終不為人下,其謀未可測也.古人有言:『一日縱敵,數世之患.』宜早為之所.」是時,太祖奉天子以號令天下,方招懷英雄以明大信,未得從嘉謀.會太祖使備要擊袁術,嘉與程昱俱駕而諫太祖曰:「放備,變作矣!」時備已去,遂擧兵以叛.太祖恨不用嘉之言. 案魏書所云,與傅子正反也.

孫策轉鬭千里,盡有江東,聞太祖與袁紹相持於官渡,將渡江北襲許.眾聞皆懼,嘉料之曰:「策新幷江東,所誅皆英豪雄傑,能得人死力者也.然策輕而無備,雖有百萬之眾,無異於獨行中原也.若刺客伏起,一人之敵耳.以吾觀之,必死於匹夫之手.」策臨江未濟,果為許貢客所殺.[一]

[一] 傅子曰:太祖欲速征劉備,議者懼軍出,袁紹襲其後,進不得戰而退失所據.語在武紀.太祖疑,以問嘉.嘉勸太祖曰:「紹性遲而多疑,來必不速.備新起,眾心未附,急擊之必敗.此存亡之機,不可失也.」太祖曰:「善.」遂東征備.備敗奔紹,紹果不出. 臣松之案武紀,決計征備,量紹不出,皆出自太祖.此云用嘉計,則為不同.又本傳稱自嘉料孫策輕佻,必死於匹夫之手,誠為明於見事.然自非上智,無以知其死在何年也.今正以襲許年死,此蓋事之偶合.

從破袁紹,紹死,又從討譚﹑尚於黎陽,連戰數克.諸將欲乘勝遂攻之,嘉曰:「袁紹愛此二子,莫適立也.有郭圖﹑逢紀為之謀臣,必交鬭其閒,還相離也.急之則相持,緩之而後爭心生.不如南向荊州若征劉表者,以待其變;變成而後擊之,可一擧定也.」太祖曰:「善.」乃南征.軍至西平,譚﹑尚果爭冀州.譚為尚軍所敗,走保平原,遣辛毗乞降.太祖還救之,遂從定鄴.又從攻譚於南皮,冀州平.封嘉洧陽亭侯.[一]

[一] 傅子曰:河北旣平,太祖多辟召靑﹑冀﹑幽﹑幷知名之士,漸臣使之,以為省事掾屬.皆嘉之謀也.

太祖將征袁尚及三郡烏丸,諸下多懼劉表使劉備襲許以討太祖,嘉曰:「公雖威震天下,胡恃其遠,必不設備.因其無備,卒然擊之,可破滅也.且袁紹有恩於民夷,而尚兄弟生存.今四州之民,徒以威附,德施未加,舍而南征,尚因烏丸之資,招其死主之臣,胡人一動,民夷俱應,以生蹋頓之心,成覬覦之計,恐靑﹑冀非己之有也.表,坐談客耳,自知才不足以御備,重任之則恐不能制,輕任之則備不為用,雖虛國遠征,公無憂矣.」太祖遂行.至易,嘉言曰:「兵貴神速.今千里襲人,輜重多,難以趣利,且彼聞之,必為備;不如留輜重,輕兵兼道以出,掩其不意.」太祖乃密出盧龍塞,直指單于庭.虜卒聞太祖至,惶怖合戰.大破之,斬蹋頓及名王已下.尚及兄熙走遼東.

嘉深通有算略,達於事情.太祖曰:「唯奉孝為能知孤意.」年三十八,自柳城還,疾篤,太祖問疾者交錯.及薨,臨其喪,哀甚,謂荀攸等曰:「諸君年皆孤輩也,唯奉孝最少.天下事竟,欲以後事屬之,而中年夭折,命也夫!」乃表曰:「軍祭酒郭嘉,自從征伐,十有一年.每有大議,臨敵制變.臣策未決,嘉輒成之.平定天下,謀功為高.不幸短命,事業未終.追思嘉勳,實不可忘.可增邑八百戶,幷前千戶.」[一]諡曰貞侯.子奕嗣.[二]

[一] 魏書載太祖表曰:「臣聞襃忠寵賢,未必當身,念功惟績,恩隆後嗣.是以楚宗孫叔,顯封厥子;岑彭旣沒,爵及支庶.故軍祭酒郭嘉,忠良淵淑,體通性達.每有大議,發言盈庭,執中處理,動無遺策.自在軍旅,十有餘年,行同騎乘,坐共幄席,東禽呂布,西取眭固,斬袁譚之首,平朔土之眾,踰越險塞,盪定烏丸,震威遼東,以梟袁尚.雖假天威,易為指麾,至於臨敵,發揚誓命,凶逆克殄,勳實由嘉.方將表顯,短命早終.上為朝廷悼惜良臣,下自毒恨喪失奇佐.宜追增嘉封,幷前千戶,襃亡為存,厚往勸來也.」

[二] 魏書稱奕通達見理.奕字伯益,見王昶家誡.

後太祖征荊州還,於巴丘遇疾疫,燒船,歎曰:「郭奉孝在,不使孤至此.」[一]初,陳羣非嘉不治行檢,數廷訴嘉,嘉意自若.太祖愈益重之,然以羣能持正,亦悅焉.[二]奕為太子文學,早薨.子深嗣.深薨,子獵嗣.[三]

[一] 傅子曰:太祖又云:「哀哉奉孝!痛哉奉孝!惜哉奉孝!」

[二] 傅子曰:太祖與荀彧書,追傷嘉曰:「郭奉孝年不滿四十,相與周旋十一年,阻險艱難,皆共罹之.又以其通達,見世事無所凝滯,欲以後事屬之,何意卒爾失之,悲痛傷心.今表增其子滿千戶,然何益亡者,追念之感深.且奉孝乃知孤者也;天下人相知者少,又以此痛惜.柰何柰何!」又與彧書曰:「追惜奉孝,不能去心.其人見時事兵事,過絕於人.又人多畏病,南方有疫,常言『吾往南方,則不生還』.然與共論計,云當先定荊.此為不但見計之忠厚,必欲立功分,棄命定.事人心乃爾,何得使人忘之!」

[三] 世語曰:嘉孫敞,字泰中,有才識,位散騎常侍.

董昭傳

董昭字公仁,濟陰定陶人也.擧孝廉,除廮陶長﹑柏人令,袁紹以為參軍事.紹逆公孫瓚於界橋,鉅鹿太守李邵及郡冠蓋,以瓚兵彊,皆欲屬瓚.紹聞之,使昭領鉅鹿.問:「禦以何術?」對曰:「一人之微,不能消眾謀,欲誘致其心,唱與同議,及得其情,乃當權以制之耳.計在臨時,未可得言.」時郡右姓孫伉等數十人專為謀主,驚動吏民.昭至郡,僞作紹檄吿郡云:「得賊羅候安平張吉辭,當攻鉅鹿,賊故孝廉孫伉等為應,檄到收行軍法,惡止其身,妻子勿坐.」昭案檄吿令,皆卽斬之.一郡惶恐,乃以次安慰,遂皆平集.事訖白紹,紹稱善.會魏郡太守栗攀為兵所害,紹以昭領魏郡太守.時郡界大亂,賊以萬數,遣使往來,交易市買.昭厚待之,因用為閒,乘虛掩討,輒大克破.二日之中,羽檄三至.

昭弟訪,在張邈軍中.邈與紹有隙,紹受讒將致罪於昭.昭欲詣漢獻帝,至河內,為張楊所留.因楊上還印綬,拜騎都尉.時太祖領兗州,遣使詣楊,欲令假塗西至長安,楊不聽.昭說楊曰:「袁﹑曹雖為一家,勢不久羣.曹今雖弱,然實天下之英雄也,當故結之.況今有緣,宜通其上事,幷表薦之;若事有成,永為深分.」楊於是通太祖上事,表薦太祖.昭為太祖作書與長安諸將李傕﹑郭氾等,各隨輕重致殷勤.楊亦遣使詣太祖.太祖遺楊犬馬金帛,遂與西方往來.天子在安邑,昭從河內往,詔拜議郞.

建安元年,太祖定黃巾于許,遣使詣河東.會天子還洛陽,韓暹﹑楊奉﹑董承及楊各違戾不和.昭以奉兵馬最彊而少黨援,作太祖書與奉曰:「吾與將軍聞名慕義,便推赤心.今將軍拔萬乘之艱難,反之舊都,翼佐之功,超世無疇,何其休哉!方今羣凶猾夏,四海未寧,神器至重,事在維輔;必須眾賢以清王軌,誠非一人所能獨建.心腹四支,實相恃賴,一物不備,則有闕焉.將軍當為內主,吾為外援.今吾有糧,將軍有兵,有無相通,足以相濟,死生契闊,相與共之.」奉得書喜悅,語諸將軍曰:「兗州諸軍近在許耳,有兵有糧,國家所當依仰也.」遂共表太祖為鎭東將軍,襲父爵費亭侯;昭遷符節令.

太祖朝天子於洛陽,引昭並坐,問曰:「今孤來此,當施何計?」昭曰:「將軍興義兵以誅暴亂,入朝天子,輔翼王室,此五伯之功也.此下諸將,人殊意異,未必服從,今留匡弻,事勢不便,惟有移駕幸許耳.然朝廷播越,新還舊京,遠近跂望,冀一朝獲安.今復徙駕,不厭眾心.夫行非常之事,乃有非常之功,願將軍算其多者.」太祖曰:「此孤本志也.楊奉近在梁耳,聞其兵精,得無為孤累乎?」昭曰:「奉少黨援,將獨委質.鎭東﹑費亭之事,皆奉所定,又聞書命申束,足以見信.宜時遣使厚遺答謝,以安其意.說『京都無糧,欲車駕暫幸魯陽,魯陽近許,轉運稍易,可無縣乏之憂』.奉為人勇而寡慮,必不見疑,比使往來,足以定計.奉何能為累!」太祖曰:「善.」卽遣使詣奉.徙大駕至許.奉由是失望,與韓暹等到定陵鈔暴.太祖不應,密往攻其梁營,降誅卽定.奉﹑暹失眾,東降袁術.三年,昭遷河南尹.時張楊為其將楊醜所殺,楊長史薛洪﹑河內太守繆尚城守待紹救.太祖令昭單身入城,吿喩洪﹑尚等,卽日擧眾降.以昭為冀州牧.

太祖令劉備拒袁術,昭曰:「備勇而志大,關羽﹑張飛為之羽翼,恐備之心未可得論也!」太祖曰:「吾已許之矣.」備到下邳,殺徐州刺史車胄,反.太祖自征備,徙昭為徐州牧.袁紹遣將顏良攻東郡,又徙昭為魏郡太守,從討良.良死後,進圍鄴城.袁紹同族春卿為魏郡太守,在城中,其父元長在揚州,太祖遣人迎之.昭書與春卿曰:「蓋聞孝者不背親以要利,仁者不忘君以徇私,志士不探亂以徼幸,智者不詭道以自危.足下大君,昔避內難,南游百越,非疏骨肉,樂彼吳會,智者深識,獨或宜然.曹公愍其守志清恪,離羣寡儔,故特遣使江東,或迎或送,今將至矣.就令足下處偏平之地,依德義之主,居有泰山之固,身為喬松之偶,以義言之,猶宜背彼向此,舍民趣父也.且邾儀父始與隱公盟,魯人嘉之,而不書爵,然則王所未命,爵尊不成,春秋之義也.況足下今日之所託者乃危亂之國,所受者乃矯誣之命乎?苟不逞之與羣,而厥父之不恤,不可以言孝.忘祖宗所居之本朝,安未正之姧職,難可以言忠.忠孝並替,難以言智.又足下昔日為曹公所禮辟,夫戚族人而疏所生,內所寓而外王室,懷邪祿而叛知己,遠福祚而近危亡,棄明義而收大恥,不亦可惜邪!若能翻然易節,奉帝養父,委身曹公,忠孝不墜,榮名彰矣.宜深留計,早決良圖.」鄴旣定,以昭為諫議大夫.後袁尚依烏丸蹋頓,太祖將征之.患軍糧難致,鑿平虜﹑泉州二渠入海通運,昭所建也.太祖表封千秋亭侯,轉拜司空軍祭酒.

後昭建議:「宜脩古建封五等.」太祖曰:「建設五等者,聖人也,又非人臣所制,吾何以堪之?」昭曰:「自古以來,人臣匡世,未有今日之功.有今日之功,未有久處人臣之勢者也.今明公恥有慚德而未盡善,樂保名節而無大責,德美過於伊﹑周,此至德之所極也.然太甲﹑成王未必可遭,今民難化,甚於殷﹑周,處大臣之勢,使人以大事疑己,誠不可不重慮也.明公雖邁威德,明法術,而不定其基,為萬世計,猶未至也.定基之本,在地與人,宜稍建立,以自藩衞.明公忠節穎露,天威在顏,耿弇牀下之言,朱英無妄之論,不得過耳.昭受恩非凡,不敢不陳.」[一]後太祖遂受魏公﹑魏王之號,皆昭所創.

[一] 獻帝春秋曰:昭與列侯諸將議,以丞相宜進爵國公,九錫備物,以彰殊勳;書與荀彧曰:「昔周旦﹑呂望,當姬氏之盛,因二聖之業,輔翼成王之幼,功勳若彼,猶受上爵,錫土開宇.末世田單,驅彊齊之眾,報弱燕之怨,收城七十,迎復襄王;襄王加賞于單,使東有掖邑之封,西有菑上之虞.前世錄功,濃厚如此.今曹公遭海內傾覆,宗廟焚滅,躬擐甲冑,周旋征伐,櫛風沐雨,且三十年,芟夷羣凶,為百姓除害,使漢室復存,劉氏奉祀.方之曩者數公,若太山之與丘垤,豈同日而論乎?今徒與列將功臣,並侯一縣,此豈天下所望哉!」

及關羽圍曹仁於樊,孫權遣使辭以「遣兵西上,欲掩取羽.江陵﹑公安累重,羽失二城,必自奔走,樊軍之圍,不救自解.乞密不漏,令羽有備.」太祖詰羣臣,羣臣咸言宜當密之.昭曰:「軍事尚權,期於合宜.宜應權以密,而內露之.羽聞權上,若還自護,圍則速解,便獲其利.可使兩賊相對銜持,坐待其弊.祕而不露,使權得志,非計之上.又,圍中將吏不知有救,計糧怖懼,儻有他意,為難不小.露之為便.且羽為人彊梁,自恃二城守固,必不速退.」太祖曰:「善.」卽勑救將徐晃以權書射著圍裏及羽屯中,圍裏聞之,志氣百倍.羽果猶豫.權軍至,得其二城,羽乃破敗.

文帝卽王位,拜昭將作大匠.及踐阼,遷大鴻臚,進封右鄕侯.二年,分邑百戶,賜昭弟訪爵關內侯,徙昭為侍中.三年,征東大將軍曹休臨江在洞浦口,自表:「願將銳卒虎步江南,因敵取資,事必克捷;若其無臣,不須為念.」帝恐休便渡江,驛馬詔止.時昭侍側,因曰:「竊見陛下有憂色,獨以休濟江故乎?今者渡江,人情所難,就休有此志,勢不獨行,當須諸將.臧霸等旣富且貴,無復他望,但欲終其天年,保守祿祚而已,何肯乘危自投死地,以求徼倖?苟霸等不進,休意自沮.臣恐陛下雖有勑渡之詔,猶必沈吟,未便從命也.」是後無幾,暴風吹賊船,悉詣休等營下,斬首獲生,賊遂迸散.詔勑諸軍促渡.軍未時進,賊救船遂至.

大駕幸宛,征南大將軍夏侯尚等攻江陵,未拔.時江水淺狹,尚欲乘船將步騎入渚中安屯,作浮橋,南北往來,議者多以為城必可拔.昭上疏曰:「武皇帝智勇過人,而用兵畏敵,不敢輕之若此也.夫兵好進惡退,常然之數.平地無險,猶尚艱難,就當深入,還道宜利,兵有進退,不可如意.今屯渚中,至深也;浮橋而濟,至危也;一道而行,至狹也:三者兵家所忌,而今行之.賊頻攻橋,誤有漏失,渚中精銳,非魏之有,將轉化為吳矣.臣私慼之,忘寢與食,而議者怡然不以為憂,豈不惑哉!加江水向長,一旦暴增,何以防禦?就不破賊,尚當自完.柰何乘危,不以為懼?事將危矣,惟陛下察之!」帝悟昭言,卽詔尚等促出.賊兩頭並進,官兵一道引去,不時得泄,將軍石建﹑高遷僅得自免.軍出旬日,江水暴長.帝曰:「君論此事,何其審也!正使張﹑陳當之,何以復加.」五年,徙封成都鄕侯,拜太常.其年,徙光祿大夫﹑給事中.從大駕東征,七年還,拜太僕.明帝卽位,進爵樂平侯,邑千戶,轉衞尉.分邑百戶,賜一子爵關內侯.

太和四年,行司徒事,六年,拜眞.昭上疏陳末流之弊曰:「凡有天下者,莫不貴尚敦樸忠信之士,深疾虛僞不眞之人者,以其毀教亂治,敗俗傷化也.近魏諷則伏誅建安之末,曹偉則斬戮黃初之始.伏惟前後聖詔,深疾浮僞,欲以破散邪黨,常用切齒;而執法之吏皆畏其威埶,莫能糾擿,毀壞風俗,侵欲滋甚.竊見當今年少,不復以學問為本,專更以交游為業;國士不以孝悌清脩為首,乃以趨勢游利為先.合黨連羣,互相襃歎,以毀訾為罰戮,用黨譽為爵賞,附己者則歎之盈言,不附者則為作瑕釁.至乃相謂『今世何憂不度邪,但求人道不勤,羅之不博耳;又何患其不知己矣,但當呑之以藥而柔調耳.』又聞或有使奴客名作在職家人,冒之出入,往來禁奧,交通書疏,有所探問.凡此諸事,皆法之所不取,刑之所不赦,雖諷﹑偉之罪,無以加也.」帝於是發切詔,斥免諸葛誕﹑鄧颺等.昭年八十一薨,諡曰定侯.子胄嗣.胄歷位郡守﹑九卿.

劉曄傳

劉曄字子揚,淮南成悳人也,悳音德.漢光武子阜陵王延後也.父普,母脩,產渙及曄.渙九歲,曄七歲,而母病困.臨終,戒渙﹑曄以「普之侍人,有諂害之性.身死之後,懼必亂家.汝長大能除之,則吾無恨矣.」曄年十三,謂兄渙曰:「亡母之言,可以行矣.」渙曰:「那可爾!」曄卽入室殺侍者,徑出拜墓.舍內大驚,白普.普怒,遣人追曄.曄還拜謝曰:「亡母顧命之言,敢受不請擅行之罰.」普心異之,遂不責也.汝南許劭名知人,避地揚州,稱曄有佐世之才.

揚士多輕俠狡桀,有鄭寶﹑張多﹑許乾之屬,各擁部曲.寶最驍果,才力過人,一方所憚.欲驅略百姓越赴江表,以曄高族名人,欲彊逼使便唱導此謀.曄時年二十餘,心內憂之,而未有緣.會太祖遣使詣州,有所案問.曄往見,為論事勢,要將與歸,駐止數日.寶果從數百人齎牛酒來候使,曄令家僮將其眾坐中門外,為設酒飯;與寶於內宴飲.密勒健兒,令因行觴而斫寶.寶性不甘酒,視候甚明,觴者不敢發.曄因自引取佩刀斫殺寶,斬其首以令其軍,云:「曹公有令,敢有動者,與寶同罪.」眾皆驚怖,走還營.營有督將精兵數千,懼其為亂,曄卽乘寶馬,將家僮數人,詣寶營門,呼其渠帥,喩以禍福,皆叩頭開門內曄.曄撫慰安懷,咸悉悅服,推曄為主.曄覩漢室漸微,己為支屬,不欲擁兵,遂委其部曲與廬江太守劉勳.勳怪其故,曄曰:「寶無法制,其眾素以鈔略為利,僕宿無資,而整齊之,必懷怨難久,故相與耳.」時勳兵彊於江﹑淮之閒.孫策惡之,遣使卑辭厚幣,以書說勳曰:「上繚宗民,數欺下國,忿之有年矣.擊之,路不便,願因大國伐之.上繚甚實,得之可以富國,請出兵為外援.」勳信之,又得策珠寶﹑葛越,喜悅.外內盡賀,而曄獨否.勳問其故,對曰:「上繚雖小,城堅池深,攻難守易,不可旬日而擧,則兵疲於外,而國內虛.策乘虛而襲我,則後不能獨守.是將軍進屈於敵,退無所歸.若軍必出,禍今至矣.」勳不從.興兵伐上繚,策果襲其後.勳窮踧,遂奔太祖.

太祖至壽春,時廬江界有山賊陳策,眾數萬人,臨險而守.先時遣偏將致誅,莫能禽克.太祖問羣下,可伐與不?咸云:「山峻高而谿谷深隘,守易攻難;又無之不足為損,得之不足為益.」曄曰:「策等小豎,因亂赴險,遂相依為彊耳,非有爵命威信相伏也.往者偏將資輕,而中國未夷,故策敢據險以守.今天下略定,後伏先誅.夫畏死趨賞,愚知所同,故廣武君為韓信畫策,謂其威名足以先聲後實而服鄰國也.而況明公之德,東征西怨,先開賞募,大兵臨之,令宣之日,軍門啓而虜自潰矣.」太祖笑曰:「卿言近之!」遂遣猛將在前,大軍在後,至則克策,如曄所度.太祖還,辟曄為司空倉曹掾.[一]

[一] 傅子曰:太祖徵曄及蔣濟﹑胡質等五人,皆揚州名士.每舍亭傳,未曾不講,所以見重;內論國邑先賢﹑禦賊固守﹑行軍進退之宜,外料敵之變化﹑彼我虛實﹑戰爭之術,夙夜不解.而曄獨臥車中,終不一言.濟怪而問之,曄答曰:「對明主非精神不接,精神可學而得乎?」及見太祖,太祖果問揚州先賢,賊之形勢.四人爭對,待次而言,再見如此,太祖每和悅,而曄終不一言.四人笑之.後一見太祖止無所復問,曄乃設遠言以動太祖,太祖適知便止.若是者三.其旨趣以為遠言宜徵精神,獨見以盡其機,不宜於猥坐說也.太祖已探見其心矣,坐罷,尋以四人為令,而授曄以心腹之任;每有疑事,輒以函問曄,至一夜數十至耳.

太祖征張魯,轉曄為主簿.旣至漢中,山峻難登,軍食頗乏.太祖曰:「此妖妄之國耳,何能為有無?吾軍少食,不如速還.」便自引歸,令曄督後諸軍,使以次出.曄策魯可克,加糧道不繼,雖出,軍猶不能皆全,馳白太祖:「不如致攻.」遂進兵,多出弩以射其營.魯奔走,漢中遂平.曄進曰:「明公以步卒五千,將誅董卓,北破袁紹,南征劉表,九州百郡,十並其八,威震天下,勢慴海外.今擧漢中,蜀人望風,破膽失守,推此而前,蜀可傳檄而定.劉備,人傑也,有度而遲,得蜀日淺,蜀人未恃也.今擧漢中,蜀人震恐,其勢自傾.以公之神明,因其傾而壓之,無不克也.若小緩之,諸葛亮明於治而為相,關羽﹑張飛勇冠三軍而為將,蜀民旣定,據險守要,則不可犯矣.今不取,必為後憂.」太祖不從,[一]大軍遂還.曄自漢中還,為行軍長史,兼領軍.延康元年,蜀將孟達率眾降.達有容止才觀,文帝甚器愛之,使達為新城太守,加散騎常侍.曄以為「達有苟得之心,而恃才好術,必不能感恩懷義.新城與吳﹑蜀接連,若有變態,為國生患.」文帝竟不易,後達終于叛敗.[二]

[一] 傅子曰:居七日,蜀降者說:「蜀中一日數十驚,備雖斬之而不能安也.」太祖延問曄曰:「今尚可擊不?」曄曰:「今已小定,未可擊也.」

[二] 傅子曰:初,太祖時,魏諷有重名,自卿相以下皆傾心交之.其後孟達去劉備歸文帝,論者多稱有樂毅之量.曄一見諷﹑達而皆云必反,卒如其言.

黃初元年,以曄為侍中,賜爵關內侯.詔問羣臣令料劉備當為關羽出報吳不.眾議咸云:「蜀,小國耳,名將唯羽.羽死軍破,國內憂懼,無緣復出.」曄獨曰:「蜀雖狹弱,而備之謀欲以威武自彊,勢必用眾以示其有餘.且關羽與備,義為君臣,恩猶父子;羽死不能為興軍報敵,於終始之分不足.」後備果出兵擊吳.吳悉國應之,而遣使稱藩.朝臣皆賀,獨曄曰:「吳絕在江﹑漢之表,無內臣之心久矣.陛下雖齊德有虞,然醜虜之性,未有所感.因難求臣,必難信也.彼必外迫感困,然後發此使耳,可因其窮,襲而取之.夫一日縱敵,數世之患,不可不察也.」備軍敗退,吳禮敬轉廢,帝欲興眾伐之,曄以為「彼新得志,上下齊心,而阻帶江湖,必難倉卒.」帝不聽.[一]五年,幸廣陵泗口,命荊﹑揚州諸軍並進.會羣臣,問:「權當自來不?」咸曰:「陛下親征,權恐怖,必擧國而應.又不敢以大眾委之臣下,必自將而來.」曄曰:「彼謂陛下欲以萬乘之重牽己,而超越江湖者在於別將,必勒兵待事,未有進退也.」大駕停住積日,權果不至,帝乃旋師.云:「卿策之是也.當念為吾滅二賊,不可但知其情而已.」

[一] 傅子曰:孫權遣使求降,帝以問曄.曄對曰:「權無故求降,必內有急.權前襲殺關羽,取荊州四郡,備怒,必大興師伐之.外有彊寇,眾心不安,又恐中國承其釁而伐之,故委地求降,一以卻中國之兵,二則假中國之援,以彊其眾而疑敵人.權善用兵,見策知變,其計必出於此.今天下三分,中國十有其八.吳﹑蜀各保一州,阻山依水,有急相救,此小國之利也.今還自相攻,天亡之也.宜大興師,徑渡江襲其內.蜀攻其外,我襲其內,吳之亡不出旬月矣.吳亡則蜀孤.若割吳半,蜀固不能久存,況蜀得其外,我得其內乎!」帝曰:「人稱臣降而伐之,疑天下欲來者心,必以為懼,其一不可!孤何不且受吳降,而襲蜀之後乎?」對曰:「蜀遠吳近,又聞中國伐之,便還軍,不能止也.今備已怒,故興兵擊吳,聞我伐吳,知吳必亡,必喜而進與我爭割吳地,必不改計抑怒救吳,必然之勢也.」帝不聽,遂受吳降,卽拜權為吳王.曄又進曰:「不可.先帝征伐,天下兼其八,威震海內,陛下受禪卽眞,德合天地,聲曁四遠,此實然之勢,非卑臣頌言也.權雖有雄才,故漢驃騎將軍﹑南昌侯耳,官輕勢卑.士民有畏中國心,不可彊迫與成所謀也.不得已受其降,可進其將軍號,封十萬戶侯,不可卽以為王也.夫王位,去天子一階耳,其禮秩服御相亂也.彼直為侯,江南士民未有君臣之義也.我信其僞降,就封殖之,崇其位號,定其君臣,是為虎傅翼也.權旣受王位,卻蜀兵之後,外盡禮事中國,使其國內皆聞之,內為無禮以怒陛下.陛下赫然發怒,興兵討之,乃徐吿其民曰:『我委身事中國,不愛珍貨重寶,隨時貢獻,不敢失臣禮也,無故伐我,必欲殘我國家,俘我民人子女以為僮隸僕妾.』吳民無緣不信其言也.信其言而感怒,上下同心,戰加十倍矣.」又不從.遂卽拜權為吳王.權將陸遜大敗劉備,殺其兵八萬餘人,備僅以身免.權外禮愈卑,而內行不順,果如曄言.

明帝卽位,進爵東亭侯,邑三百戶.詔曰:「尊嚴祖考,所以崇孝表行也;追本敬始,所以篤教流化也.是以成湯﹑文﹑武,實造商﹑周,詩﹑書之義,追尊稷﹑契,歌頌有娀﹑姜嫄之事,明盛德之源流,受命所由興也.自我魏室之承天序,旣發迹於高皇﹑太皇帝,而功隆於武皇﹑文皇帝.至於高皇之父處士君,潛脩德讓,行動神明,斯乃乾坤所福饗,光靈所從來也.而精神幽遠,號稱罔記,非所謂崇孝重本也.其令公卿已下,會議號諡.」曄議曰:「聖帝孝孫之欲襃崇先祖,誠無量已.然親疏之數,遠近之降,蓋有禮紀,所以割斷私情,克成公法,為萬世式也.周王所以上祖后稷者,以其佐唐有功,名在祀典故也.至於漢氏之初,追諡之義,不過其父.上比周室,則大魏發迹自高皇始;下論漢氏,則追諡之禮不及其祖.此誠往代之成法,當今之明義也.陛下孝思中發,誠無已已,然君擧必書,所以愼於禮制也.以為追尊之義,宜齊高皇而已.」尚書衞臻與曄議同,事遂施行.遼東太守公孫淵奪叔父位,擅自立,遣使表狀.曄以為公孫氏漢時所用,遂世官相承,水則由海,陸則阻山,故胡夷絕遠難制,而世權日久.今若不誅,後必生患.若懷貳阻兵,然後致誅,於事為難.不如因其新立,有黨有仇,先其不意,以兵臨之,開設賞募,可不勞師而定也.後淵竟反.

曄在朝,略不交接時人.或問其故,曄答曰:「魏室卽阼尚新,智者知命,俗或未咸.僕在漢為支葉,於魏備腹心,寡偶少徒,於宜未失也.」太和六年,以疾拜太中大夫.有閒,為大鴻臚,在位二年遜位,復為太中大夫,薨.諡曰景侯.子寓嗣.[一]少子陶,亦高才而薄行,官至平原太守.[二]

[一] 傅子曰:曄事明皇帝,又大見親重.帝將伐蜀,朝臣內外皆曰「不可」.曄入與帝議,因曰「可伐」;出與朝臣言,因曰「不可伐」.曄有膽智,言之皆有形.中領軍楊曁,帝之親臣,又重曄,持不可伐蜀之議最堅,每從內出,輒過曄,曄講不可之意.後曁從駕行天淵池,帝論伐蜀事,曁切諫.帝曰:「卿書生,焉知兵事!」曁謙謝曰:「臣出自儒生之末,陛下過聽,拔臣羣萃之中,立之六軍之上,臣有微心,不敢不盡言.臣言誠不足采,侍中劉曄先帝謀臣,常曰蜀不可伐.」帝曰:「曄與吾言蜀可伐.」曁曰:「曄可召質也.」詔召曄至,帝問曄,終不言.後獨見,曄責帝曰:「伐國,大謀也,臣得與聞大謀,常恐昧夢漏泄以益臣罪,焉敢向人言之?夫兵,詭道也,軍事未發,不厭其密也.陛下顯然露之,臣恐敵國已聞之矣.」於是帝謝之.曄見出,責曁曰:「夫釣者中大魚,則縱而隨之,須可制而後牽,則無不得也.人主之威,豈徒大魚而已!子誠直臣,然計不足采,不可不精思也.」曁亦謝之.曄能應變持兩端如此.或惡曄於帝曰:「曄不盡忠,善伺上意所趨而合之.陛下試與曄言,皆反意而問之,若皆與所問反者,是曄常與聖意合也.復每問皆同者,曄之情必無所逃矣.」帝如言以驗之,果得其情,從此疏焉.曄遂發狂,出為大鴻臚,以憂死.諺曰「巧詐不如拙誠」,信矣.以曄之明智權計,若居之以德義,行之以忠信,古之上賢,何以加諸?獨任才智,不與世士相經緯,內不推心事上,外困於俗,卒不能自安於天下,豈不惜哉!

[二] 王弻傳曰:淮南人劉陶,善論縱橫,為當時所推.傅子曰:陶字季冶,善名稱,有大辨.曹爽時為選部郞,鄧颺之徒稱之以為伊呂.當此之時,其人意陵靑雲,謂玄曰:「仲尼不聖.何以知其然?智者圖國;天下羣愚,如弄一丸于掌中,而不能得天下.」玄以其言大惑,不復詳難也.謂之曰:「天下之質,變無常也.今見卿窮!」爽之敗,退居里舍,乃謝其言之過. 干寶晉紀曰:毌丘儉之起也,大將軍以問陶,陶答依違.大將軍怒曰:「卿平生與吾論天下事,至于今日而更不盡乎?」乃出為平原太守,又追殺之.

蔣濟傳

?濟字子通,楚國平阿人也.仕郡計吏?州別駕.建安十三年,孫權率?圍合肥.時大軍征荊州,遇疾疫,唯遣將軍張喜單將千騎,過領汝南兵以解圍,頗復疾疫.濟乃密白刺史僞得喜書,云?騎四萬已到?婁,遣主簿迎喜.三部使齎書語城中守將,一部得入城,二部為賊所得.權信之,遽燒圍走,城用得全.明年使於?,太祖問濟曰:「昔孤與●袁本初對官渡,徙燕?白馬民,民不得走,賊亦不敢鈔.今欲徙淮南民,何如?」濟對曰:「是時兵弱賊彊,不徙必失之.自破袁紹,北拔柳城,南向江?漢,荊州交臂,威震天下,民無他志.然百姓懷土,實不樂徙,懼必不安.」太祖不從,而江?淮閒十餘●萬?,皆驚走?.後濟使詣?,太祖迎見大笑曰:「本但欲使避賊,乃更驅盡之.」拜濟丹陽太守.大軍南征還,以?恢為揚州刺史,濟為別駕.令曰:「季子為臣,?宜有君.今君還州,吾無憂矣.」民有誣吿濟為謀叛主率者,太祖聞之,指前令與●左將軍于禁?沛相封仁等曰:「?濟寧有此事!有此事,吾為不知人也.此必愚民樂亂,妄引之耳.」促理出之.辟為丞相主簿西曹屬.令曰:「舜擧皋陶,不仁者遠;臧否得中,望于賢屬矣.」關羽圍樊?襄陽.太祖以漢帝在許,近賊,欲徙都.司馬宣王及濟?太祖曰:「于禁等為水所沒,非戰攻之失,於國家大計未足有損.劉備?孫權,外親??,關羽得志,權必不願也.可遣人勸躡其後,許割江南以封權,則樊圍自解.」太祖如其言.權聞之,卽引兵西襲公安?江陵.羽遂見禽.

文帝卽王位,轉為相國長史.及踐?,出為東中郞將.濟請留,詔曰:「高祖歌曰『安得猛士守四方』!天下未寧,要須良臣以鎭邊境.如其無事,乃還鳴玉,未為後也.」濟上萬機論,帝善之.入為散騎常侍.時有詔,詔征南將軍夏侯尚曰:「卿腹心重將,特當任使.恩施足死,惠愛可懷.作威作福,殺人活人.」尚以示濟.濟旣至,帝問曰;「卿所聞見天下風教何如?」濟對曰:「未有他善,但見亡國之語耳.」帝忿然作色而問其故,濟具以答,因曰:「夫『作威作福』,書之明誡.『天子無戲言』,古人所愼.惟陛下察之!」於是帝意解,遣追取前詔.?初三年,與●大司馬曹仁征?,濟別襲羨谿.仁欲攻濡須洲中,濟曰:「賊據西岸,列船上流,而兵入洲中,是為自?地獄,危亡之道也.」仁不從,果敗.仁薨,復以濟為東中郞將,代領其兵.詔曰:「卿兼資文武,志節慷慨,常有超越江湖??會之志,故復授將率之任.」頃之,?為尚書.車駕幸廣陵,濟表水道難通,又上三州論以諷帝.帝不從,於是戰船數千皆滯不得行.議者欲就留兵屯田,濟以為東近湖,北臨淮,若水盛時,賊易為寇,不可安屯.帝從之,車駕卽發.還到精湖,水稍盡,盡留船付濟.船本?適數百里中,濟更鑿地作四五道,蹴船令聚;豫●作土豚遏斷湖水,皆引後船,一時開遏入淮中.帝還洛陽,謂濟曰:「事不可不曉.吾前決謂分半燒船于山陽池中,卿於後致之,略與●吾?至?.又?得所陳,實入吾意.自今討賊計畫,善思論之.」

明帝卽位,賜爵關?侯.大司馬曹休帥軍向皖,濟表以為「深入虜地,與●權精兵對,而朱然等在上流,乘休後,臣未見其利也.」軍至皖,?出兵安陸,濟又上疏曰:「今賊示形於西,必欲幷兵圖東,宜急詔諸軍往救之.」會休軍已敗,盡棄器仗輜重退還.?欲塞夾石,遇救兵至,是以官軍得不沒.遷為中護軍.時中書監?令號為專任,濟上疏曰:「大臣太重者國危,左右太親者身蔽,古之至戒也.往者大臣秉事,外?扇動.陛下卓然自覽萬機,莫不祗肅.夫大臣非不忠也,然威權在下,則?心慢上,勢之常也.陛下旣已察之於大臣,願無忘於左右.左右忠正遠慮,未必賢於大臣,至於便辟取合,或能工之.今外所言,輒云中書,雖使恭愼不敢外交,但有此名,猶惑世俗.況實握事要,日在目前,儻因疲倦之閒有所割制,?臣見其能推移於事,卽亦因時而向之.一有此端,因當?設自完,以此?語,私招所交,為之?援.若此,臧否毀譽,必有所興,功負賞罰,必有所易;直道而上者或壅,曲附左右者反達.因微而入,?形而出,意所狎信,不復猜覺.此宜聖智所當早聞,外以經意,則形際自見.或恐朝臣畏言不合而受左右之怨,莫適以聞.臣竊亮陛下潛神默思,公聽並觀,若事有未盡於理而物有未周於用,將改曲易調,遠與●??唐角功,近昭武?文之?,豈近習而已哉!然人君猶不可悉天下事以適己明,當有所付.三官任一臣,非周公旦之忠,又非管夷吾之公,則有弄機敗官之弊.當今柱石之士雖少,至于行稱一州,智效一官,忠信竭命,各奉其職,可並驅策,不使聖明之朝有專吏之名也.」詔曰:「夫骨?之臣,人主之所仗也.濟才兼文武,服勤盡節,?軍國大事,輒有奏議,忠誠奮發,吾甚壯之.」就遷為護軍將軍,加散騎常侍.[一]

[一] 司馬彪戰略曰:太和六年,明帝遣平州刺史田豫●乘海渡,幽州刺史王雄陸道,幷攻遼東.?濟諫曰:「凡非相?之國,不侵叛之臣,不宜輕伐.伐之而不制,是驅使為賊.故曰『虎狼當路,不治狐狸.先除大害,小害自已』.今海表之地,累世委質,?選計考,不乏職貢.議者先之,正使一擧便克,得其民不足益國,得其財不足為富;儻不如意,是為結怨失信也.」帝不聽,豫●行竟無成而還.

景初中,外勤征役,?務宮室,怨曠者多,而年穀饑儉.濟上疏曰:「陛下方當恢崇前緒,光濟遺業,誠未得高枕而治也.今雖有十二州,至于民數,不過漢時一大郡.二賊未誅,宿兵邊陲,且耕且戰,怨曠積年.宗廟宮室,百事草創,農桑者少,衣食者多,今其所急,唯當息耗百姓,不至甚弊.弊?之民,儻有水旱,百萬之?,不為國用.凡使民必須農隙,不奪其時.夫欲大興功之君,先料其民力而燠休之.句踐養胎以待用,昭王恤病以雪仇,故能以弱燕服彊齊,羸越滅勁?.今二敵不攻不滅,不事卽侵,當身不除,百世之責也.以陛下聖明神武之略,舍其緩者,專心討賊,臣以為無難矣.又歡?之?,害于精爽;神太用則竭,形太勞則弊.願大簡賢妙,足以充『百斯男』者.其冗散未齒,且悉分出,務在清靜.」詔曰:「微護軍,吾弗聞斯言也.」[一]

[一] 漢晉春秋曰:公孫淵聞魏將來討,復稱臣于孫權,乞兵自救.帝問濟:「孫權其救遼東乎?」濟曰:「彼知官備以固,利不可得,深入則非力所能,淺入則勞而無獲;權雖子弟在危,猶將不動,況異域之人,兼以往者之辱乎!今所以外揚此聲者,譎其行人疑於我,我之不克,冀折後事已耳.然沓渚之閒,去淵尚遠,若大軍相持,事不速決,則權之淺規,或能輕兵掩襲,未可測也.」

齊王卽位,徙為領軍將軍,進爵昌陵亭侯,[一]遷太尉.初,侍中高堂隆論郊祀事,以魏為舜後,推舜配天.濟以為舜本姓?,其苗曰田,非曹之先,著文以追詰隆.[二]是時,曹爽專政,丁謐?鄧?等輕改法度.會有日蝕變,詔?臣問其得失,濟上疏曰:「昔大舜佐治,戒在比周;周公輔政,愼于其朋;齊侯問災,晏嬰對以布惠;魯君問異,臧孫答以緩役.應天塞變,乃實人事.今二賊未滅,將士暴露已數十年,男女怨曠,百姓貧苦.夫為國法度,惟命世大才,乃能張其綱維以垂于後,豈中下之吏所宜改易哉?終無益于治,適足傷民,望宜使文武之臣各守其職,率以清平,則和氣祥瑞可感而致也.」以隨太傅司馬宣王屯洛水浮橋,誅曹爽等,進封都?侯,邑七百?.濟上疏曰:「臣忝寵上司,而爽敢苞藏禍心,此臣之無任也.太傅奮獨斷之策,陛下明其忠節,罪人伏誅,社稷之福也.夫封寵慶賞,必加有功.今論謀則臣不先知,語戰則非臣所率,而上失其制,下受其弊.臣備宰司,民所具瞻,誠恐冒賞之漸自此而興,推讓之風由此而廢.」固辭,不許.[三]是?薨,諡曰景侯.[四]子秀嗣.秀薨,子凱嗣.咸熙中,開建五等,以濟著勳前朝,改封凱為下蔡子.

[一] 列異傳曰:濟為領軍,其婦夢見亡兒涕泣曰:「死生異路,我生時為卿相子孫,今在地下為泰山伍伯,憔悴困辱,不可復言.今太廟西謳士孫阿,今見召為泰山令,願母為白侯,屬阿令轉我得樂處.」言訖,母忽然驚寤,明日以白濟.濟曰:「夢為爾耳,不足怪也.」明日暮,復夢曰:「我來迎新君,止在廟下.未發之頃,暫得來歸.新君明日日中當發,臨發多事,不復得歸,永辭於此.侯氣彊,難感悟,故自訴於母,願重?侯,何惜不一試驗之?」遂道阿之形?,言甚備悉.天明,母重?侯:「雖云夢不足怪,此何太適?適亦何惜不一驗之?」濟乃遣人詣太廟下,推問孫阿,果得之,形?證驗悉如兒言.濟涕泣曰:「幾負吾兒!」於是乃見孫阿,具語其事.阿不懼當死,而喜得為泰山令,惟恐濟言不信也.曰:「若如節下言,阿之願也.不知賢子欲得何職?」濟曰:「隨地下樂者與●之.」阿曰:「輒當奉教.」乃厚賞之,言訖遣還.濟欲速知其驗,從領軍門至廟下,十?安一人,以傳阿消息.辰時傳阿心痛,巳時傳阿劇,日中傳阿亡.濟泣曰:「雖哀吾兒之不幸,且喜亡者有知.」後月餘●,兒復來語母曰:「已得轉為?事矣.」

[二] 臣松之案?濟立郊議稱曹騰碑文云「曹氏族出自?」,魏書述曹氏胤緒亦如之.魏武作家傳,自云曹叔振鐸之後.故陳思王作武帝誄曰:「於穆武皇,胄稷胤周.」此其不同者也.及至景初,明帝從高堂隆議,謂魏為舜後,後魏為禪晉文,稱「昔我皇祖有虞」,則其異彌甚.尋濟難隆,及與●尚書繆襲往反,並有理據,文多不載.濟亦未能定氏族所出,但謂「魏非舜後而橫祀非族,降黜太祖,不配正天,皆為繆妄」.然于時竟莫能正.濟又難:鄭玄注祭法云「有虞以上尚德,?郊祖宗,配用有德,自夏已下,稍用其姓氏」.濟曰:「夫?龍神於獺,獺自祭其先,不祭?龍也.騏驎白虎仁於豺,豺自祭其先,不祭騏虎也.如玄之?,有虞已上,豺獺之不若邪?臣以為祭法所云,見疑學者久矣,鄭玄不考正其違而就通其義.」濟豺獺之譬,雖似俳諧,然其義旨,有可求焉.

[三] 孫盛曰:?濟之辭邑,可謂不負心矣.語曰「不為利囘,不為義疚」,?濟其有焉.

[四] 世語曰:初,濟隨司馬宣王屯洛水浮橋,濟書與●曹爽,言宣王旨「惟免官而已」,爽遂誅滅.濟病其言之失信,發病卒.

劉放傳

劉放字子棄,?郡人,漢廣陽順王子西?侯宏後也.?郡綱紀,擧孝廉.遭世大亂,時漁陽王松據其土,放往依之.太祖克冀州,放?松曰:「往者董卓作逆,英雄並起,阻兵擅命,人自封殖,惟曹公能拔拯危亂,翼戴天子,奉辭伐罪,所向必克.以二袁之彊,守則淮南冰消,戰則官渡大敗;乘勝席卷,將清河朔,威刑旣合,大勢以見.速至者漸福,後服者先亡,此乃不俟終日馳?之時也.昔黥布棄南面之尊,仗劍歸漢,誠識廢興之理,審去就之分也.將軍宜投身委命,厚自結納.」松然之.會太祖討袁譚於南皮,以書招松,松擧雍奴?泉州?安次以附之.放為松答太祖書,其文甚麗.太祖旣善之,又聞其?,由是遂辟放.建安十年,與●松?至.太祖大悅,謂放曰:「昔班彪依竇融而有河西之功,今一何相似也!」乃以放參司空軍事,?主簿記室,出為?陽?????音都活反.?音?.贊令.

孫資傳

魏國旣建,與●太原孫資?為祕書郞.先是,資亦?縣令,參丞相軍事.[一]文帝卽位,放?資轉為左右丞.數月,放徙為令.?初初,改祕書為中書,以放為監,資為令,各加給事中;放賜爵關?侯,資為關中侯,遂掌機密.三年,放進爵魏壽亭侯,資關?侯.明帝卽位,尤見寵任,同加散騎常侍;進放爵西?侯,資樂陽亭侯.[二]太和末,?遣將周賀浮海詣遼東,招誘公孫淵.帝欲邀討之,朝議多以為不可.惟資決行策,果大破之,進爵左?侯.[三]放善為書檄,三祖詔命有所招?,多放所為.靑龍初,孫權與●諸葛亮連和,欲?出為寇.邊候得權書,放乃改易其辭,往往換其本文而傅合之,與●征東將軍滿寵,若欲歸化,封以示亮.亮騰與●?大將??等,?等以見權.權懼亮自疑,深自解?.是?,?加侍中?光祿大夫.[四]景初二年,遼東平定,以參謀之功,各進爵,封本縣,放方城侯,資中都侯.

[一] 資別傳曰:資字?龍.幼而岐嶷,三?喪二親,長於兄嫂.講業太學,博覽傳記,同郡王允一見而奇之.太祖為司空,又辟資.會兄為?人所害,資手刃報讎,乃將家屬避地河東,故遂不應命.尋復為本郡所命,以疾辭.友人河東賈逵謂資曰:「足下抱逸?之才,?舊邦傾覆,主將殷勤,千里延頸,宜崇古賢桑梓之義.而久盤桓,拒違君命,斯猶曜和璧於秦王之庭,而塞以連城之價耳.竊為足下不取也!」資感其言,遂往應之.到署功曹,擧計吏.尚書令荀彧見資,嘆曰:「北州承喪亂已久,謂其賢智零落,今日乃復見孫計君乎!」表留以為尚書郞.辭以家難,得還河東.

[二] 資別傳曰:諸葛亮出在南鄭,時議者以為可因發大兵,就討之,帝意亦然,以問資.資曰:「昔武皇帝征南鄭,取張魯,陽平之役,危而後濟.又自往拔出夏侯淵軍,數言『南鄭直為天獄,中斜谷道為五百里石穴耳』,言其深險,喜出淵軍之辭也.又武皇帝聖於用兵,察蜀賊棲於山巖,視?虜竄於江湖,皆橈而避之,不責將士之力,不爭一朝之忿,誠所謂見勝而戰,知難而退也.今若進軍就南鄭討亮,道旣險阻,計用精兵又轉運鎭守南方四州遏禦水賊,凡用十五六萬人,必當復更有所發興.天下騷動,費力廣大,此誠陛下所宜深慮.夫守戰之力,力役參倍.但以今日見兵,分命大將據諸要險,威足以震攝彊寇,鎭靜疆?,將士虎睡,百姓無事.數年之閒,中國日盛,?蜀二虜必自罷弊.」帝由是止.時?人彭綺又擧義江南,議者以為因此伐之,必有所克.帝問資,資曰:「?陽宗人前後數有擧義者,?弱謀淺,旋輒乖散.昔文皇帝嘗密論賊形勢,言洞浦殺萬人,得船千萬,數日閒船人復會;江陵被圍?月,權裁以千數百兵住東門,而其土地無崩解者.是有法禁,上下相奉持之明驗也.以此推綺,懼未能為權腹心大疾也.」綺果尋敗亡.

[三] 魏氏春秋曰:烏丸校尉田豫●帥西部鮮卑泄歸尼等出塞,討軻比能?智鬱築?,破之,還至馬邑故城,比能帥三萬騎圍豫●.帝聞之,計未有所出,如中書省以問監?令.令孫資對曰:「上谷太守閻志,柔弟也,為比能素所歸信.令馳詔使?比能,可不勞師而自解矣.」帝從之,比能果釋豫●而還.

[四] 資別傳曰:是時,孫權?諸葛亮號稱劇賊,無?不有軍征.而帝總攝?下,?圖禦寇之計,外規廟勝之畫,資皆管之.然自以受腹心,常讓事於帝曰:「動大?,擧大事,宜與●?下共之;旣以示明,且於探求為廣.」旣朝臣會議,資奏當其是非,擇其善者推成之,終不顯己之德也.若?人有譴過及愛憎之?,輒復為請解,以塞譖潤之端.如征東將軍滿寵?涼州刺史徐?,並有譖毀之者,資皆盛陳其素行,使卒無纖介.寵??得保其功名者,資之力也.初,資在邦邑,名出同類之右.?人司空掾田豫●?梁相宗?皆?害之,而楊豐黨附豫●等,專為資構造謗端,怨隙甚重.資旣不以為言,而終無恨意.豫●等慚服,求釋宿憾,結為婚姻.資謂之曰:「吾無憾心,不知所釋.此為卿自薄之,卿自厚之耳!」乃為長子宏取其女.及當顯位,而田豫●老疾在家.資遇之甚厚,又致其子於本郡,以為孝廉.而楊豐子後為尚方吏,帝以職事譴怒,欲致之法,資請活之.其不念舊惡如此.

其年,帝寢疾,欲以燕王宇為大將軍,及領軍將軍夏侯獻?武?將軍曹爽?屯騎校尉曹肇?驍騎將軍秦朗共輔政.宇性恭良,陳誠固辭.帝引見放?資,入臥?,問曰:「燕王正爾為?」放?資對曰:「燕王實自知不堪大任故耳.」帝曰:「曹爽可代宇不?」放?資因贊成之.又深陳宜速召太尉司馬宣王,以綱維皇室.帝納其言,卽以?紙授放作詔.放?資旣出,帝意復變,詔止宣王勿使來.尋更見放﹑資曰:「我自召太尉,而曹肇等反使吾止之,幾敗吾事!」命更為詔,帝獨召爽與●放?資?受詔命,遂免宇?獻?肇?朗官.太尉亦至,登?受詔,然後帝崩.[一]齊王卽位,以放?資決定大謀,增邑三百,放幷前千一百,資千?;封愛子一人亭侯,次子騎都尉,餘●子皆郞中.正始元年,更加放左光祿大夫,資右光祿大夫,金印紫綬,儀同三司.六年,放轉驃騎,資?將軍,領監?令如故.七年,復封子一人亭侯,各年老遜位,以列侯朝朔望,位特進.[二]曹爽誅後,復以資為侍中,領中書令.嘉平二年,放薨,諡曰敬侯.子正嗣.[三]資復遜位歸第,就拜驃騎將軍,轉侍中,特進如故.三年薨,諡曰貞侯.子宏嗣.

[一] 世語曰:放﹑資久典機任,獻?肇心?不平.殿中有?棲樹,二人相謂:「此亦久矣,其能復幾?」指謂放?資.放?資懼,乃勸帝召宣王.帝作手詔,令給使辟邪至,以授宣王.宣王在汲,獻等先詔令於?關西還長安,辟邪又至,宣王疑有變,呼辟邪具問,乃乘追鋒車馳至京師.帝問放?資:「誰可與●太尉對者?」放曰:「曹爽.」帝曰:「堪其事不?」爽在左右,流汗不能對.放躡其足,耳之曰:「臣以死奉社稷.」曹肇弟纂為大將軍司馬,燕王頗失指.肇出,纂見,驚曰:「上不安,云何悉共出?宜還.」已暮,放?資宣詔宮門,不得復?肇等,罷燕王.肇明日至門,不得入,懼,詣延尉,以處事失宜免.帝謂獻曰:「吾已差,便出.」獻流涕而出,亦免.案世語所云樹置先後,與●本傳不同.資別傳曰:帝詔資曰:「吾年稍長,又?觀書傳中,皆歎息無所不念.圖萬年後計,莫過使親人廣據職勢,兵任又重.今射聲校尉缺●,久欲得親人,誰可用者?」資曰:「陛下思深慮遠,誠非愚臣所及.書傳所載,皆聖聽所究,向使漢高不知平?勃能安劉氏,孝武不識金?霍付屬以事,殆不可言!文皇帝始召曹眞還時,親詔臣以重慮,及至晏駕,陛下卽?,猶有曹休外?之望,賴遭日月,御勒不傾,使各守分職,纖介不閒.以此推之,親臣貴戚,雖當據勢握兵,宜使輕重素定.若諸侯典兵,力均衡平,寵齊愛等,則不相為服;不相為服,則意有異同.今五營所領見兵,常不過數百,選授校尉,如其輩類,為有疇匹.至於重大之任,能有所維綱者,宜以聖恩簡擇,如平?勃?金?霍?劉章等一二人,漸殊其威重,使相鎭固,於事為善.」帝曰:「然.如卿言,當為吾遠慮所圖.今日可參平?勃,侔金?霍,雙劉章者,其誰哉?」資曰:「臣聞知人則哲,惟帝難之.唐虞之聖,凡所進用,明試以功.陳平初事漢祖,絳?灌等謗平有受金盜嫂之罪.周勃以吹簫引彊,始事高祖,亦未知名也;高祖察其行跡,然後知可付以大事.霍光給事中二十餘●年,小心謹愼,乃見親信.日?夷狄,以至孝質直,特見擢用,左右尚曰『妄得一胡兒而重貴之』.平?勃雖安漢嗣,其終,勃被反名,平劣自免於呂須之讒.上官桀?桑弘羊與●霍光爭權,幾成禍亂.此誠知人之不易,為臣之難也.又所簡擇,當得陛下所親,當得陛下所信,誠非愚臣之所能識別.」臣松之以為孫?劉于時號為專任,制斷機密,政事無不綜.資?放被託付之問,當安危所斷,而更依違其對,無有適莫.受人親任,理豈得然?案本傳及諸書並云放?資稱贊曹爽,勸召宣王,魏室之亡,禍基於此.資之別傳,出自其家,欲以是言掩其大失,然恐負國之?,終莫能磨也.

[二] 資別傳曰:大將軍爽專事,多變易舊章.資歎曰:「吾累世蒙寵,加以豫●聞屬託,今縱不能匡弻時事,可以坐受素餐之祿邪?」遂固稱疾.九年二月,乃賜詔曰:「君掌機密三十餘●年,經營庶事,勳著前朝.?朕統位,動賴良謀.是以曩者增崇寵章,同之三事,外帥?官,?望?言.屬以年耆疾篤,上還印綬,前後鄭重,辭旨懇切.天地以大順成德,君子以善恕成仁,重以職事,違奪君志;今聽所執,賜錢百萬,使兼光祿勳少府親策詔君養疾于第.君其勉進醫藥,頤神和氣,以永無疆之祚.置舍人官騎,加以日秩肴酒之膳焉.」

[三] 臣松之案頭責子羽曰:士卿劉許字文生,正之弟也.與●張華六人,並稱文辭可觀,意思詳序.晉惠帝世,許為越騎校尉.

放才計優資,而自脩不如也.放?資旣善承順主上,又未嘗顯言得失,抑辛?而助王思,以是獲譏於世.然時因?臣諫諍,扶贊其義,幷時密陳損益,不專導諛言云.及咸熙中,開建五等,以放?資著勳前朝,改封正方城子,宏離石子.[一]

[一] 案孫氏譜:宏為南陽太守.宏子楚,字子荊.晉陽秋曰:楚?人王濟,豪俊公子也,為本州大中正.訪問關求楚品?,濟曰:「此人非卿所能名.」自?之曰:「天才英博,亮拔不?.」楚位至討虜護軍?馮翊太守.楚子洵,潁川太守.洵子盛,字安國,給事中,祕書監.盛從父弟綽,字興公,廷尉正.楚及盛?綽,並有文藻,盛又善言名理,諸所論著,並傳於世.

評曰:程昱?郭嘉?董昭?劉曄??濟才策謀略,世之奇士,雖清治德業,殊於荀攸,而籌畫所料,是其倫也.劉放文翰,孫資勤愼,並管喉舌,權聞當時,雅亮非體,是故譏諛之聲,?過其實矣.