利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

任峻伝

任俊伯達といい、河南中牟の人である。漢末の擾乱で関東が震動すると、中牟の県令楊原は憂い恐れ、官を棄てて逃げようとした。任峻は楊原を説得して言った。「董卓が混乱を主導していますが、天下では横目で睨み付けない者はおりません。それなのに先発する者がいないのは、その心がないからではなく、まだ状勢が許さないからです。明府がもし彼らをよく導くなら、必ず呼応する者がありましょう。」楊原は言った。「そのためにはどうすれば?」任峻は言った。「いま関東には十余りの県があり、兵になれる者は一万人を下りません。もし独断で河南尹の職務を代行し、彼らを総括して用いれば、解決しないことはないでしょう。」楊原はその計略に従い、任峻を主簿とした。任峻は楊原のために河南尹の職務を代行することを上表し、諸県に堅守させて兵を挙げた。ちょうど太祖曹操)が関東で挙兵して中牟の県境に入ったが、人々は誰に従うべきかわからなかった。任峻だけは同郡の張奮とともに、郡を挙げて太祖に帰服すべきだと提議した。また任峻は一族と賓客の家子郎党数百人を別に集め、太祖に従うことを願い出た。太祖は大いに喜んで、上表して任峻を騎都尉とし、従妹を嫁がせ、非常に目をかけて信頼した。太祖が征伐に出るたび、任峻はいつも留守を守って軍の補給にあたった。そのころ飢饉・旱魃の年にあたり、兵糧が不足したので、羽林監潁川棗祗屯田を置くことを建議した。太祖が任峻を典農中郎将に任じると、数年のうちに至る所で粟が積み上げられ、倉庫はいっぱいになった。官渡の戦いで、太祖は任峻に軍の武器・兵糧の輸送をさせたが、賊はしばしば輸送路を遮断して略奪を行った。そこで輜重車千台を一部隊とし、横十列に並んで行軍し、また二重の陣形を組んでこれを警護したので、賊は近付くことができなくなった。軍や国がたらふく食えたのは、棗祗が立案して任峻が実行したからである。[一]太祖は任峻の功績が多大であったので、上表して都亭侯に封じて所領三百戸とし、長水校尉に転任させた。

[一] 『魏武故事』に載せる布令に言う。「陳留太守棗祗は、天性の忠臣・才覚者であった。はじめ一緒に義兵を挙げ、征討に携わった。のち袁紹冀州にいて棗祗を欲しがり、彼を得ようとしたが、棗祗は深くを頼りにしたので、東阿県令を領(兼務)させた。呂布の乱では、兗州はみな叛逆したが、ただと東阿だけが無事だったのは、棗祗が軍勢でもって城を守った尽力によるものだった。のちに大軍の兵糧が欠乏したとき、東阿でもって食いつなぐことができたのは棗祗の功績である。黄巾賊を破ってを平定するに及び、賊の物資を手に入れた(ので食糧難は解決した)。屯田事業を興すにあたって、当時の論者はみな牛を数えて穀物を輸送すべきだと言ったので、(そのように)「佃科」(屯田に関する法律)を定めた。施行後、棗祗は建白して、牛を賃借して穀物を輸送する場合、収穫が多いときでも(輸送ができないために)穀物を増やせず、水害や旱魃などの災害が起こったときも大いに不便であると言った。繰り返し言ってきたが、それでも孤は従来通りにすべきで、収穫が多いときでも(方針を)変えることはないと考えた。棗祗はなおもこのことを取り上げたが、孤はどうすればよいか分からなかったので、荀令君荀彧)と一緒に議論させた。そのころ故の軍祭酒侯声は言っていた。『佃科に従って官牛を扱い、官田の計算をしましょう。棗祗の提案では、官にとって都合がよくとも、(屯田に従事する)客にとっては不都合であります。』侯声はこの自説をもって云々し、荀令君を悩ませた。それでもなお棗祗は自信を持ち、計画に基づいて再び建白し、田地を分ける方法を取り上げた。孤はそこで彼に賛成し、屯田都尉にしてやり、農業を施行させた。その年は収穫が多く、のちにそれによってついに田地を増大させたので、軍需を充足させ、群がる叛逆者どもを破滅させて天下を平定し、王室を興隆させた。棗祗はその功業を樹立したが、不幸にも早く没してしまったので、郡守の官を追贈したが、(その報酬は)まだ功績に相当していない。いま重ねてそれを思うと、棗祗は封土を受けるべきだったのに、今までなおざりにしていたのは孤の過ちであった。棗祗の子棗処中に封土と爵位を加え、棗祗を祀ることで不朽の事業とすべきである。」『文士伝』に言う。棗祗のもともとの姓はであったが、祖先が難を避けて、棗と改めたのである。孫の棗拠は字を道彦といい、冀州刺史である。棗拠の子棗嵩は字を台産といい、散騎常侍である。いずれも才覚と名声があり、著述した物も多い。棗嵩の兄棗腆は字を玄方といい、襄城太守で、また文章には華やかさを持っていた。

任峻は寛容・温厚で度量があり、物事の道理を会得し、意見を陳述するごとに、太祖はそれを評価することが多かった。飢饉の際でも、朋友の孤児を引き取って憐れみをかけ、内(任氏)でも外(妻の家)でも一族に貧しい者があれば、急場を救って不足を補ってやり、信義は称賛された。建安九年(二〇四)に薨じ、太祖は長いあいだ涙を流し続けた。子の任先が嗣ぎ、任先が薨じると、子がなかったので国(所領)は解除された。文帝曹丕)はさかのぼって功臣を記録し、任峻にして成侯と言った。また任峻の次子任覧関内侯とした。