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原著作者:【むじん書院】

杜畿伝

杜畿伯侯といい、京兆杜陵の人である。[一]若いころ孤児となり、継母が彼を苦しめたが、孝行によって名を知られた。二十歳で郡の功曹となり、県令を守った(代行した)。県では拘置者数百人を抱えていたが、杜畿は自ら牢獄を見て回り、彼らの罪の軽重を裁き、みんな判決を下してしまった。全てが妥当であるとはいえなかったが、郡中では彼が年少でありながら要点を押さえていることに目を見張った。孝廉に推挙され、漢中府丞に叙任された。ちょうど天下が混乱したので、そのまま官を棄て荊州に仮住まいし、建安年間(一九六~二二〇)になってから帰郷した。荀彧が彼を太祖曹操)に推薦したので、[二]太祖は杜畿を司空司直とし、護羌校尉に転任させ、使持節として西平太守を領(兼任)させた。[三]

[一] 『傅子』に言う。杜畿は御史大夫杜延年の後裔である。杜延年の父杜周南陽から茂陵に移住し、杜延年が杜陵に移住し、子孫は代々(ここに)居住した。

[二] 『傅子』に言う。杜畿は荊州から帰郷したのち、に赴いて侍中耿紀に会い、夜を徹して語り合った。尚書令荀彧と耿紀は屋舎を並べていたが、(荀彧は)夜中に杜畿の言葉を聞いて、彼を立派だと思い、さらに人をやって耿紀に言わせた。「国士がいるのに推薦しないなら、どうして官位に就いているのかね?」杜畿に会ったあと、(荀彧が)彼を理解することは古くからの面識者のようであった。ついに杜畿を朝廷に推薦することになった。

[三] 『魏略』に言う。杜畿は若いころから大志を抱いていた。荊州に数年間いて、継母が亡くなったあと、三輔への道が開通したので、母の遺体を背負って北へと帰郷した。その道中で賊の略奪に遭遇した。人々は逃走したのに杜畿だけは去らなかった。賊は彼を弓で射た。杜畿は賊に請願して「は財物が欲しいのでしょう。いまには荷物がないのに、我を射ようとするのはなぜですか?」と言った。賊はそこで止めた。杜畿が郷里に到着すると、京兆尹張時河東の人であったが、杜畿と旧交があったので署名して(彼を)功曹とした。あるとき(張時は)、彼が闊達で諸事に留意して補佐してくれないことを嫌い、この人は粗野で自分勝手だから功曹にふさわしくない、と言ったことがある。杜畿はひそかに言った。「功曹にはふさわしくないが、河東太守にはふさわしい。」

太祖が河北を平定したのち、高幹幷州をこぞって叛逆した。当時の河東太守王邑は中央に召されたが、河東の人衛固・范先は、表向きには王邑(の在任)を請願して名目とし、しかし内実では高幹と謀議を交わしていた。太祖は荀彧に言った。「関西の諸将は険阻さと馬を頼りにしており、征伐すれば必ず叛乱するだろう。張晟殽・澠一帯を荒らし、南は劉表に通じていて、衛固らは彼を頼みとしているが、は彼らが深刻な損害を起こすことを恐れるのだ。河東は山に囲まれ黄河を持ち、近隣四方では変事が多く、いま天下の要地というべきである。君が我のために蕭何・寇恂を推挙してくれれば、それによって鎮圧しよう。」荀彧は言った。「杜畿がその人です。」[一]これによって杜畿は追って河東太守を授けられた。衛固らが兵数千人をやって陝津を遮断させたので、杜畿は到着しても渡ることができなかった。太祖は夏侯惇を派遣して彼らを討伐させたが、まだ到着しなかった。荀彧が杜畿に言った。「大軍を待つべきだ。」杜畿は言った。「河東には三万戸があるが、皆が混乱を起こそうとしているのではない。いま軍が厳しく迫れば、善を行おうとする者も、主導者がないために必ず恐れて衛固の言いなりになる。衛固らの勢力が一体となれば必ず死に物狂いで戦う。もしこれを討伐して勝てなければ、近隣四方が彼らに呼応し、天下の変事は収拾できなくなってしまう。もしこれを討伐して勝てば、それは一郡の民衆を殺すことになるのだ。それに衛固らはまだ王命を拒絶するとは表明しておらず、表向きでは前任者を要請することを名目にしているのだから、きっと新任者を殺害することはない。吾は一台の車でただちに出かけ、彼らの不意を突こう。衛固の人となりは計略が多いくせに決断力がないので、必ず偽って吾を受け入れるだろう。吾が郡に一月いられれば、計略で彼らを繋ぎ止めるには充分だ。」そのまま裏道を抜けて郖津から黄河を渡った。[二]范先は杜畿を殺して人々を脅そうと思い、[三]まず杜畿の態度を観察したが、城門の下で主簿以下三十人余りを殺しても、杜畿の挙動は泰然自若としていた。そこで衛固は言った。「彼を殺しても損害を与えられず、ただ悪名を得るばかりだ。それに彼を制御しているのは我々なのだ。」こうして彼を推戴することにした。杜畿は衛固・范先に言った。「衛・范は河東の徳望家なのだから、吾は成果を仰ぎみるばかりです。それでも君臣には定まったやり方があり、成功と失敗を同じくするのだから、重大事は一緒に公平な議論をすべきでしょう。」そこで衛固を都督として郡丞の職務を行わせ、功曹を領させた(兼任させた)。将校と官兵三千人余りは全て范先に監督させた。衛固らは喜び、表向き杜畿に仕えたふりをしながら、(杜畿の本心を)意に介さなくなった。衛固が大々的に兵を徴発しようとしたので、杜畿はこれを心配して衛固を説得した。「そもそも非常の事を成し遂げようとするなら、民衆の心を動揺させてはいけません。いま大々的に兵を徴発なさっていますが、民衆は必ず騒ぎ立てます。徐々に金を出して兵を募るのに越したことはありません。」衛固はそうだと思ってそれに従い、とうとう金を出して徴発することになり、数十日で(事業は)決着したが、諸将は貪欲で、募集に応じる者は多かったのに兵士を献上することは少なかった。また(官舎に)入って衛固らを諭して言った。「人情というのは家を思うものです。諸将や属官を分けて休息させるとよいでしょう。危急のときに彼らを召し返すのは難しくありません。」衛固らは民衆の心に逆らうことを嫌い、またもやそれに従った。これによって善人は外にいて密かに自分を助け、悪人は分散してそれぞれの家に帰り、そこで民衆は離ればなれになった。ちょうど(張)白騎東垣を攻撃し、高幹が濩沢に侵入し、上党郡の諸県が長官たちを殺害し、弘農郡が郡太守を人質に執ったが、衛固らは密かに兵を徴発したものの、まだ達せられなかった。杜畿は諸県が自分に味方していることを知っており、そこで出陣して、一人で数十騎を率い、張辟に赴いて防御にあたると、官民の多くが城を挙げて杜畿を援助し、数十日ほどで四千人余りを獲得した。衛固らと高幹・張晟は一緒になって杜畿を攻撃したが、下すことができず、諸県を略奪しても得るところがなかった。そのとき大軍が到着し、高幹・張晟は敗れ、衛固らは誅殺された。彼らの残党はみな赦免し、その生業に戻らせた。

[一] 『傅子』に言う。荀彧は、杜畿の勇気は大きな困難に当たるのに充分で、智慧は変化に応じることができるので、彼を試してみるべきですと称賛した。

[二] 「郖」の音は「豆」である。『魏略』に言う。はじめ杜畿と衛固は、若いころからお互いに侮辱してれあっていて、衛固はいつも杜畿を軽蔑していた。あるとき杜畿は衛固と賭けをして、むかし杜畿が衛固に「仲堅(衛固)、我はいまに河東太守になるぞ」と言ったことを争った。衛固は着物のすそをからげて彼を罵倒した。杜畿が(河東太守の)官に就くに及んで、衛固は郡の功曹になったのである。張時はもともと京兆(尹)に任じられていた。杜畿が司隷校尉鍾繇)を迎えたとき、張時と華陰で遭遇した。張時と杜畿は相まみえ、儀礼によって各々の版(名簿)を手に取った。張時は歎いて言った。「昨日の功曹が、今や郡の将軍になるとは!」

[三] 『傅子』に言う。范先は「虎になろうとしていたのに人間を食らうことを嫌がる。虎になることはできないぞ。いま殺さなければ必ず後々の災いになるだろう」と言った。

このとき天下の郡県ではみな破壊されていたが、河東は最も早く平定されたので消耗が少なかった。杜畿はこれを統治するとき、寛容さと恩恵を第一とし、民衆に関与したりはしなかった。あるとき住民のうちに訴訟を起こし、お互いに告訴しあう者がいたが、杜畿は自ら謁見して大義を述べ、帰って反省するようにし、もし心残りがあれば、また役所に参上するようにさせた。郷邑父老たちはお互いに怒って(原告を)責めた。「ご主君がこんな風なのに、どうしてその教えに従わないのか?」それからは訴訟は少なくなった。管下の属県に孝子・貞婦・順孫(従順な孫)を推挙させ、また彼らの役務を緩和してやり、機会があれば彼らを慰労し励ました。少しづつ住民に牸牛・草馬を育てることを課し、下は鶏・・犬・に及ぶまで、みな規則があった。百姓は農業をめたので、家々は豊かになった。そこで杜畿は言った。「民は富んだ。教えなければいけない。」これより冬季は武器を修めて武術を講義し、また学宮を開いて、自ら教典を手に執って教授したので、郡中はそれに教化された。[一]

[一] 『魏略』に言う。博士楽詳は杜畿によって昇進したのである。今でも河東に儒学者が特に多いのは、杜畿のおかげなのである。

韓遂・馬超が叛逆すると、弘農・馮翊では多くの県邑が挙兵して彼らに呼応した。河東は賊に隣接していたが、住民に異心を抱く者はいなかった。太祖は西征して蒲阪に到着すると、賊と渭水を挟んで軍を構えたが、軍の兵糧はただ河東だけに依存していた。賊が破られたとき、蓄えの余剰は二十万斛余りもあった。太祖は布令を下して言った。「河東太守杜畿は、孔子の言う『について吾は非難することができない』というものである。俸禄を中二千石に加増する。」太祖が漢中を征討したとき、五千人を派遣して運送に当たらせたが、運送する者たちは自分たちを励まして言った。「人生には一つの死があるものだ。我が府君に背くまいぞ。」ついに一人の逃亡者も出なかった。彼が人心を得ていたのはこのような有様であった。[一]国が建てられたとき、杜畿を尚書とした。役職を済ませると、改めて布令があって言った。「むかし蕭何は関中を治め、寇恂は河内を治めたが、卿は彼ら(と同様)の功績があり、先ごろ卿に納言(尚書)の職を授けようとしたが、振り返って思えば河東は我が股肱の郡で、充実した場所であり、天下を制するにも充分だ。そのため、しばらく卿を煩わせることになるが、寝ながらでも鎮定してくれたまえ。」杜畿は河東にあること十六年、常に天下第一(の成果)であった。

[一] 『杜氏新書』に言う。平虜将軍劉勲は太祖に親しまれ、貴さは朝廷を震わせた。あるとき杜畿に大きなを所望したことがあったが、杜畿は他のことにかこつけて拒んだ。のちに劉勲は法に服し、太祖は彼の手紙を得て感歎した。「杜畿は『に媚びない』者と言うべきである。」杜畿の功績を称え、それを州郡に示して言った。「むかし仲尼(孔子)は顔子顔回)について言葉を発するたびに感歎しないではいられなかった。心中に情愛が発してから、また馬を牽くためには駿馬をもってすべきである。いま吾はまた、人々が高山を仰いで善行を慕うのを願うのである。」

文帝曹丕)は王位に即くと、関内侯の爵を賜い、召し返して尚書とした。践祚すると豊楽亭侯に進めて、所領百戸とし、[一]司隷校尉を守らせた(代行させた)。帝はを征討したとき、杜畿を尚書僕射として留守の事を統制させた。そののち帝は許昌に行幸したが、杜畿は再び留守を守った。詔勅を受けて御楼船(矢倉のある船)を作り、陶河において船を試験運航したが、たまたま風が吹いて沈没した。帝は彼のために涙を流した。[二]詔勅に言う。「むかしはその職務を勤めて水中で死んだ。は百穀(の栽培)に勤めて山中で死んだ。[三]の尚書僕射杜畿は孟津で船を試験運航し、ついに転覆して沈没するにいたった。忠心の極みである。朕ははなはだ憐れむものである。」太僕(の官職)を追贈し、して戴侯と言った。子の杜恕が嗣いだ。[四]

[一] 『魏略』に言う。はじめ杜畿が郡にいたころ、(命令)書を受けて寡婦を召し上げた。このとき他の郡では、既に配偶者がいる者でも、書をたてに全て奪い取って召し上げたので、(奪われた者は)道路で泣き声をあげた。杜畿だけは寡婦を取り、そのため(都に)送ることが少なかった。趙儼が杜畿に代わるに及び、送ることが多くなった。文帝は杜畿に質問した。「以前に君が送ることはなぜ少なかったのだろう。今はなぜ多いのだろう?」杜畿は答えて言った。「が以前に召し上げたのは全て亡くなった者の妻でしたが、いま趙儼が送るのは生きた人のなのです。」帝と左右の者は顔を見合わせて色を失った。

[二] 『魏氏春秋』に言う。むかし、杜畿は童子に出会ったことがある。(童子は)彼に言った。「司命(の神)が我を遣わしてをお召しになったのです。」杜畿が強く命乞いをすると、童子は言った。「今から君のために身代わりを捜してきます。君は慎みをもって言わないでください!」言葉が終わるなり忽然として見えなくなってしまった。これまで二十年が経過しており、杜畿はそのことを(人に)言ったところ、その日のうちに卒去した。時に六十二歳であった。

[三] 韋昭の『国語』の注に『毛詩伝』を引用して言う。「冥はの六世の孫である。水官となり、その職務を勤めて水中で死んだ。稷はである。百穀の種まきに勤め、黒水の山で死んだ。」

[四] 『傅子』に言う。杜畿と太僕李恢東安太守郭智は交際があった。李恢の子李豊も俊英たちと交わりを結び、才智によって天下に知られていた。郭智の子郭沖は内実はあったものの外観がよくなかったので、州里では称賛する者がなかった。杜畿が尚書僕射になったとき、二人はそれぞれ子孫の礼を執って杜畿に会見した。(二人が)退出したのち杜畿は歎いて言った。「孝懿には子がない。ただ子がないだけではなく、おそらく家もなくなるだろう。君謀は不死である。その子は彼の業績を継ぐのに充分だ。」当時の人々はみな杜畿が間違いをしたと言った。李恢の死後、李豊は中書令となったが、父子兄弟はみな誅殺された。郭沖は代郡太守となり、ついには父の業績を継いだ。世間ではようやく杜畿が人を知ることに感服した。『魏略』は李豊の父の名を李義と言っており、これと同じでない。李義はおそらく李恢の別名なのだろう。

杜恕伝

杜恕の字は務伯といい、太和年間(二二七~二三三)に散騎・黄門侍郎となった。[一]杜恕は実質をもって真心を尽くし、上辺を飾ることはしなかったので、若いころは誉められることがなかった。朝廷に出仕しても(有力者たちと)交際を結ぼうとせず、公務に専念した。政治上の利害の議論があるたび、いつも国法を引いて正論を主張し、そのため侍中辛毗らは彼の器量を重視した。

[一] 『杜氏新書』に言う。杜恕は若いころ馮翊の李豊とともに父に信任され、総角のころから仲が良かった。二人は成人すると、李豊が名声と行動を研鑽して世俗の名誉を求めたのに対し、杜恕は自由気ままで気持ちに逆らわず、李豊とは趣が異なっていた。李豊はついに一時代に名声を馳せ、京師の士人の多くは彼のために遊説してまわった。要職にある者の中には、李豊の名声が彼の実質を上回っており、一方杜恕は(粗末な衣服)を着て玉を抱いているようなものだ(『老子』)と考える者があった。こうしたことから李豊に恨まれることになった。また杜恕は自然な気持ちに任せ、時流に迎合するための努力は払わなかった。李豊は朝廷に出仕して出世したが、杜恕はまだ家を出ないで泰然自若としていた。明帝曹叡)は杜恕が大臣の子であることから、抜擢して散騎侍郎の官を授け、数ヶ月で黄門侍郎に転任させた。

当時、公卿以下(の諸官)は国益について大いに議論した。杜恕は「古代の刺史は六ヶ条の勅旨を奉り、清らかで落ち着いていることを名誉とし、威風は明らかに称賛されていた。今は(刺史に)兵を率いさせず、民事に専念すべきだ」と主張した。にわかに鎮北将軍呂昭がまた冀州(刺史)を領することとなった。[一]そこで上疏して言った。

帝王の道は民衆を安んじるほど尊いことはありません。民衆を安んじる術は財貨を豊かにすることにあります。財貨を豊かにするというのは本業(農耕)を務めて費用を節約することです。今はまさに二賊が滅びておらず、戦車はしばしば駆り出されておりますが、これは熊虎の士たちが力を発揮するなのです。しかしながら搢紳の(礼装をした)儒者たちは、無理矢理に栄誉が加えられることを望んで、扼腕しながら討論し、『孫呉』(の兵法)を第一としており、州郡の牧守もみな民衆を憐れむ方法を気にかけず、(軍勢を)統率することを行っております。農耕・養蚕の民も干戈の技を競っております。本業を務めているとは言えません。国庫は歳ごとに空虚となっているのに制度は歳ごとに広汎になっており、民力は歳ごとに衰えているのに賦役は歳ごとに盛んになっています。費用を節約しているとは言えません。いま大いなるは十州の地を完全に領有しているのに、騒乱の疲弊を受けて、その戸数を数えても昔の一州の民衆に及びません。それなのに二方面(西の蜀と東の呉)が僭称・叛逆し、北方のはまだ来朝しておらず、三辺で困難に遭遇していることは、天を取り巻いてほぼ繁茂したようなものです。一州の民衆を統治することによって九州の地を経営するのですから、その困難を譬えれば、痩せ馬に鞭打って街道を行くようなもので、その力を愛惜することに不注意でいられましょうか?武皇帝(曹操)の倹約によって国庫は充実しましたが、それでも十州で兵を擁することはできません。郡はまず二十なのです(?)。いま荊・揚・青・徐・幽・幷・雍・涼の辺境諸州ではみな兵を持っております。内に国庫を充実させて外に四方の敵を制する頼りになるのは、ただ兗・予・司・冀に過ぎません。臣は以前、州郡が軍兵を統率すると、軍功ばかりに専心して民事を勤めなくなってしまうので、将軍を別に置いて統治の義務を尽くさせるべき(と申し上げました)。ところが陛下はまた冀州をもって呂昭へのご褒美としました。冀州は戸数が最も多く、田地は多く開墾され、また桑や棗の豊かさがあります。国家が尋ね求めるところには、誠に再び兵事をもって任ずるべきではありません。もし北方に鎮守が必要とされるのでしたら、大将を配備してその鎮定に専念させるべきです。(二人の)官吏を配備する費用を計算すると、(刺史と将軍を)兼官する場合と違いがありません。しかし呂昭は人才においてまだ復易(?)です。我が朝はまことに人材に乏しく、(刺史と将軍の)才能を兼ね備える者は状勢からいって単に多くはないものです。ここから推測すると、国家は人物によって官職を選んでおり、官職のために人物を選んでないことが分かります。官職がその人物を得られれば政治は安定して訴訟は治まります。政治が安定すれば民衆は富み栄え、訴訟が治まれば牢獄は空っぽになります。陛下の践祚されたころ天下の裁決は百数十人でしたが、歳ごとに増加して五百人余りまで上っています。民衆の数は増えておらず、法律の厳しさも増えてはおりません。ここから推測すると、政治・教化が衰退しているのではなく、牧守が(職務に)相応しくないことの明らかな結果でしょうか?先年(穀物を輸送する)牛が死んだおり、天下を通じておよそ十分の二の損害がでました。麦の収穫は半数に及ばず、秋の種まきもまだ始まっておりません。もし二賊が国境地帯に心を動かすことがあれば、を飛ばせて粟を輸送しても千里(の彼方)には届きません。こうした術策に考えを尽くせば、どうして(採るべき政策が)強兵にあると言えましょうか?勇ましい士・強い兵はますます増えておりますが、ますます増えればますます病むばかりです。そもそも天下は人間の体のようなもので、腹心が充実していれば、四肢が病気になっても大きな患いとはならないものです。いま兗・予・司・冀はまた天下の腹心です。これが愚かなる臣が心配し(?)、四州の牧守がひたすら本業を務めて四肢の重荷を支えることを、心から願うところです。さりながら少数意見は支持しがたく、欲望を抑えることは成立しがたく、人々の恨みは放置しがたく、まがい物は分別しがたいもので、それゆえ長年にわたり明君の察するところにはならなかったのです。大体このことを言うのは、ほぼ全てが疎んじられ賎しい者でしたが、疎んじられ賎しい者の言葉は、まことに聴き入れやすくはないものです。もし優れた策を親しまれ貴い者に進言させようとしても、もともと四つの困難は犯しがたいので、忠心・愛情を求めてしまいますが、これは古代から当代まで常に問題となっていることです。

[一] 『世語』に言う。呂昭は字を子展といい、東平の人である。長子の呂巽は字を長悌といい、相国となり、司馬文王司馬昭)の寵愛を受けた。次子の呂安は字を仲悌といい、嵆康と仲が良く、嵆康とともに誅殺された。次子(?)の呂粋は字を季悌といい、河南尹である。呂粋の子呂預は字を景虞といい、御史中丞である。

当時また(人事)考課の制度について大議論をして、内外の諸官について考察することになった。杜恕は、その人物を充分に用いることができなければ、才能があったとしてもまずは無益であり、身に付いたもの(才能)が発揮できないし、発揮できても時代の需要にはあたらないと考えた。上疏して言った。

(尚)書』に「功績によってはっきりと試験し、三度の考課で昇進・降格させた」とありますが、誠に帝王の偉大な制度であります。有能な者をその官職に当て、功績ある者にその俸禄を受けさせることは、譬えていえばちょうど烏獲が千鈞を持ち上げ、(王)良・(伯)楽が駿馬を選び分けるようなものです。六代を重ねたとはいえ実績考課の法律は著されず、七聖人を経ても試験考課の制度は示されませんでした。臣は誠にその法律には大まかに依拠するべきと考えます。その詳細をつぶさに挙げるのが困難だからです。に「世に乱れた人がいても乱れた法はない」と言います。もし法律にばかり任せることができるのなら、唐(堯)・虞(舜)稷・契の補佐を待たなくてもよかったでしょうし、殷・周伊(尹)・呂(尚)の輔弼を貴ばなかったでしょう。いま実績考課について奏上する者たちは、周・漢の法律・為政を陳述し、京房の主旨を綴っておりますが、考課の要点を明らかにしていると言ってよいでしょう。(しかし)謙譲の美風を尊び、澄み渡った治世を興すためには、臣はまだ最善を尽くしていないと考えます。州郡に士を考課させようとした場合、必ず四科によって行うものですが、みな職務で功績を立てたのち観察して推挙し、試験的に三公の府(役所)に招いて民衆に親しむ長官とし、功績の順次に従って転任させて郡守に補任しますが、あるいは俸禄を増やして爵位を賜うこともありまして、これが考課の急務の最もたるところです。臣は考えますに、その身を顕官にあて、その言葉を用いる際には、州郡の法律を課すことを準備とさせ(?)、法律を細かく施行し、必ず賞する信頼を確立し、必ず罰する行政を施します。三公九卿や内務担当の大臣についても、またみながそれぞれの職務をもって考課されるべきです。

古代の三公は坐って道を論じ、内務担当の大臣は提言を納めて欠を補い、記録されない善はなく、検挙されない過ちはありませんでした。そのうえ天下は極めて大きく、万機(政治的なさまざまな職務)は極めて数多く、まことに一つの灯明によってあまねく照らすことはできるものではありません。だから君主を元首とし、臣下を股肱として、それらが一体となり助け合って成立していることは明らかなのです。これを古人は「廊廟の材は一本の木の枝によるものではなく、帝王の業は一人の士の計略によるものではない。」と言っているのです。このことから言えば、大臣が職務を守って考課を取り仕切ることで、平和で輝いた世を築くことができるものでしょうか!そのうえ布衣(無官の者)の交わりでさえ、なお信義・誓約に務めて水火に踏み込み、知己に感激して肝胆を開き、名声を求めて節義を立てるものです。ましてや帯を締めて朝廷に参内し、官位が九卿や宰相に到達するのであれば、務めはただ匹夫の信義に留まらず、感ずるのはただ知己の恩恵に留まらず、求めるのはただ名声に留めて充分でありましょうか!

 もろもろの恩寵を被り重任を受ける者は、ただ明君を唐・虞の上に挙げただけで満足するのではありません。(我が)身もまた稷・契の列に仲間入りすることを望んでいるのです。これは古人が、治世への思いが遂げられなかったことを心配せず、責任を負う意志が不足していたことを心配しましたが、それはまことに人主が彼らをそうさせたのでした。唐・虞といった君主は、稷・契・虁・龍に委任して成功をうながし、罪を追求する場合にはを処刑して四凶を追放しました。いま大臣は親しく詔書を奉って眼前にお仕えしておりますが、朝から夜まで公務につとめ、謹厳として自立し、職務に当たっては貴人や権勢に尻込みせず、公平さを心がけて私的な関係におもねらず、高潔な言行でもって朝廷に出仕する者は、おのずと明君の察するところとなります。もし俸禄をもらいながら仕事を怠ることを高尚とし、手をこまねいて沈黙することを智慧とし、職務に当たっては責任逃れの態度をとり、朝廷に出ても保身することを忘れず、清潔な行動やへりくだった言葉で朝廷に出仕する者も、また明君の察するところとなります。まことに、我が身を守って官位を保つ者が追放の罪とならず、節義を尽くして公務につとめる者が疑われる情勢があるなら、公的な義務は修められず、私的な議論が習俗となってしまい、仲尼(孔子)が計略を立てたとしても、一人の才能さえ尽くさせることはできません。ましてや世俗の人間であってはなおさらです!今の学者は商子・韓非子を師として法学を尊び、競って儒家を迂闊なものとして世の需要には不充分だとしております。これが風俗の古くからの弊害の最もたるところであり、創業者の慎みを尽くすところであります。

のちに考課はとうとう行われなくなった。[一]

[一] 『杜氏新書』に言う。当時、李豊は常侍となり、黄門郎袁侃は転任して吏部郎となり、荀俁は出向して東郡太守となっていたが、三人はみな杜恕の(黄門侍郎時代の)同僚で仲が良かった。

楽安廉昭は才能によって抜擢され、政事をうことが非常に好きだった。杜恕は上疏して口を極めて諫めた。

伏して見ますと、尚書郎の廉昭は上奏して、(尚書)左丞曹璠は罰するにあたって関(報告)すべきなのに詔勅に従わなかったとして、即座に判問(判断と問責)をしております。また「連坐している者どもについては別途上奏いたします」とも言っております。尚書令陳矯は自ら上奏して、あえて処罰を辞さない、また重んじられているからといってあえて恭しい態度は摂らないと言っており、意志は誠実を極めています。臣は密かに哀れに思い、朝廷のために彼を惜しむものです!そもそも聖人は時代を選ばずに興隆させ、民衆を代えずに統治するものですが、立ち現れてから必ず賢者・智者の補佐があるのは、思うにそれを推進するとき道義をもってし、それを統率するとき礼儀をもってするからでしょう。古代の帝王がよく時代を助けて民衆を治められた理由は、遠くは百姓の歓心を得、近くは羣臣の智力を尽くさせたことに他なりません。誠に、本朝において職を任された臣が全て天下の人選であったとしても、その力を尽くさせることができなければ、よく人を使役したと言うことはできません。もし天下の人選でないとすれば、やはりよく人を任用したと言うことはできません。陛下は万機に御心を傾けられ、あるときは灯火に親しんで(夜もお勤めになって)おられますが、物事全てを解決することはできず、規則は日に日に弛緩しております。(補佐する者が)股肱に相応しくないことの明証でないでしょうか?その理由を推し量ると、ただ臣下が忠節を尽くさないだけでなく、君主もまたよく使役できないことにもあります。百里奚で愚者でしたがで智者となり、予譲中行にはおざなりに寛容でしたが智伯には節義を顕しました。これが古人による明証です。いま臣が朝廷あげてみな不忠であると言えば、それは朝廷の誣告になります。しかしそうした類のこと(みな不忠であること)は、推察すれば得られる(結論な)のです。陛下には国庫が充実していないのに軍事が終息しないことをお感じになり、そこで四季に割り当てられた御服をお断ちになり、御蔵に御私蔵の穀物を薄くされました。(それらは羣臣の意見ではなく)聖意の思し召しによるものであり、朝廷を挙げて明断であると称賛されております。(それなのに)政事に従う側近の大臣のうち、それ(国庫の不足)について心から憂慮する者があったでしょうか?

騎都尉王才とご寵愛の楽人孟思は不法を働き、京都を震動させました。しかし彼らの罪状を告発したのは小役人に過ぎず、公卿の大臣ははじめ一言もなかったのです。陛下の践祚以来というもの、司隷校尉・御史中丞が国法を掲げて犯罪者を取り締まり、朝廷を粛然とさせたことがあったでしょうか?もし陛下におかれて、当世に良才がおらず、朝廷に賢臣が乏しいと思し召されるとしても、どうして稷・契の足跡を遙かに追慕し、坐したままで来世の儁英をお待ちでいられましょうか!いま賢者と呼ばれている者は、全て高官に就いて高禄を享受しておりますのに、お上を奉る忠節はいまだ成し遂げられておらず、公務に向かう心も専一でありません。それは委任の重責に専念せず、そのうえ風俗に禁忌が多いためです。臣は愚考いたしますに、忠臣は必ずしも寵愛されておらず、寵臣は必ずしも忠勤しておりません。なぜでしょうか?彼ら(寵臣)が嫌疑のない立場にあって仕事では存分に振る舞えるからです。いま遠ざけられている者があって、人を貶しながらその嫌疑が事実でなかったら、必ずや私情によって憎んでいる者に仕返しをしたと言われるでしょうし、人を誉めながらその栄誉が事実でなかったら、必ずや私情によって親しい者に目を掛けたと言われるでしょう。左右の者のなかには、これにかこつけて愛憎の説を進言してくることでしょう。それはただ貶したり誉めたりすることだけでなく、政事の利害について(語るとき)も、やはりみな嫌疑を掛けられてしまうのです。陛下の思し召されるべきは、朝臣の心情をはっきりと広げ、有道の節義を手厚く励まして、彼らが進んで古人に倣い、竹帛をともにすること(古人とともに歴史書に名を記されること)を望むようにさせるだけです。かえって廉昭のごとき者に(君臣の)間を混乱させますのは、しまいに大臣たちが身体と官位の保存に努めて、坐ったまま得失を傍観することとなり、それが(悪い例として)来世の戒めとなることを臣は恐れるのでございます!

むかし周公魯侯を戒めて「大臣たちが用いられないと恨むことのないように」と言いましたが、(大臣の)賢愚について言わないのは、明らかにみなが当世に役立ったからです。の功績を数え上げ、四凶を取り除いたことを称えましたが、(功績の)大小について言わないのは、罪ある者が(自分で)去っていくからです。いま朝臣は自分に能力がないとは考えず、陛下にご任用されないのだとし、自分に智慧がないとは考えず、陛下にご下問されないのだとしています。陛下にはなぜ周公のなさった任用や大舜のなさった除去に従われないのですか?侍中や尚書たちを使って、坐っているときには帷幄に侍らせ、行くときには御車に従わせ、親しくご対面のうえご下問なさり、陳情するところが必ず上聞に達せられれば、そうなると羣臣の行いは、みな優劣が知られるようになります。忠義で能力ある者は進められ、暗愚で劣っている者は退けられ、あえて誰が曖昧な態度を執って存分に振る舞えないことがありましょうか?陛下の聖明さをもちまして、親しく羣臣と政事を議論なさり、羣臣をして人に自分の推進することを叶えさせれば、人は自分が寵愛されてると考え、人は(ご恩に)報いることを思い、賢愚や優劣は、陛下の用いられるがままになります。これによって統治を行えば、この功績を成し遂げるのに何事の不弁別がありましょう。軍事あるごとに何事の不成功がありましょう。詔書ではいつも言っております。「誰がこれを憂えるべき者か?吾が自ら憂えるべきのみなのだ。」近詔でもまた言っております。「公務に心配して私事を忘れるというのは必ずしも当たっていない。ただ公務を先にして私事を後にするだけだ。そうすれば自ずと弁別できるものだ。」伏して明詔を読みますれば、聖思が下々の情勢に行き届いていることが知られました。しかしまた陛下がその根本をご存じなく、末節を心配なさっておられることを不審に思いました。人の優劣は実に本性に基づくもので、臣でさえも、また朝臣が全てが職務に相応しいわけではないと考えるのです。明君が人を用いることは、有能な者にはあえて実力を残させず、そして能力乏しい者には耐えられない任務に就けないようにします。(現在の状況では)その(職務に相応しい)人物でない者を選んだとしても、まだ必ずしも有罪とはされません。朝廷をこぞって相応しくない人物を容認して、それでやっと怪しからんことだとするのです。陛下は、彼が尽力しないことをご存じになったとき、彼を交替させてその職務について心配され、彼の能力が乏しいことをご存じになったとき、彼を教育してその事案を治めておられますが、どうして主君だけが苦心して臣下がのんびりしていられるのでしょうか?聖人・賢者が世に並び現れたとしても、こうしたことではついに統治することは不可能なのです。

陛下にはまた外台・内閣の禁令が綿密でないことや、人事がそれを嘱託することが絶えないことをご憂慮され、伊尹(?)にお聴きになって来客の接待や出入りの制度を作り、司徒の選任と汚吏の更迭によって寺門を守らせ、威令・禁制はこれを頼みとしておりますが、実際に禁令の根本とするにはまだ不充分です。むかし安帝の御代、少府竇嘉廷尉郭躬の無罪の兄の子を招聘したとき、それでもなお上奏文が挙げられ、文章による弾劾は紛々としておりました。近くは司隷校尉孔羨大将軍の狂ったように身勝手な弟を招聘したとき、担当者は沈黙するばかりで、命令を待って指図されることを願い、嘱託を受けたときよりひどくなっておりました。選任推挙が実力をもってなされないのは人事の大問題です。[一]竇嘉には親戚の恩寵があり、郭躬は社稷の重臣ではありませんでしたが、それでもなおこうした有様だったのです。現在の状況を古代にあてはめてみますと、処罰徹底を督促して阿諛迎合する輩の根源を断ち切ることを、陛下ご自身ではなさらなかったということになります。伊尹の制度(前出)が、汚吏に門を守ることを許すのは、治世の備えではありません。臣の言葉が少しでもお聞き入れ下されたなら、どうして悪事が削減されないことを心配して、廉昭ごとき連中を養ってやることがありましょうか!

 そもそも悪事を摘発することは、忠義なことです。しかし小人(廉昭ら)がそれを行うことを世間が憎むのは、彼らが道理を顧みず、いやしくも保身栄達を求めているからです。もし陛下におかれて一部始終をふたたびご考慮なされず、必ず人々に背いたり世間に逆らったりすることを公務を奉ることだとなさり、密かに行って人に報告することを節義を尽くすことだとなさるのであれば、どうして精通した人物の偉大な才能があるのに、さらにこれを行えないことがありましょうか?誠に道理を顧みてそれをしないだけなのです。天下の人々をみな道理に背かせ、利益に走らせてしまうのは、人主の最も心配することなのに、陛下は何を願っておられるのでしょうか。どうしてその萌芽を絶とうとはなさらないのですか!そもそも、御心に先んじて勅旨を承り、それによって受け入れられたり誉められたりするのは、ほとんど全てが天下の浅薄で道義を行わない者たちです。彼らの意図は人主の御心に適うことのみを務めとし、天下を治めて百姓を安んじようと願ってはおりません。陛下におかれては、どうして事業の転換を試みてそれを示そうとはなさらないのですか。彼らが守ろうとしていることに固執して聖意を違えることなどありましょうか?そもそも人臣が人主の心を得ようとするのは保身であり、尊貴な官に就くことは栄達であり、千鍾の俸禄を食ませることは充実です。人臣が愚かであるとはいっても、これらを願わずに逆らうことを喜びとする者は未だにおりません。道義に迫られて自ら努めるだけです。誠に愚考されますのは、陛下にはご憐憫されて彼らを手助けされ、少しは委任なさるべきです。それを却って廉昭らの傾いた意図を気にかけておられますが、どうしてこのような人物をお忘れにならないのですか?いま外には隙を窺う賊があり、内には貧しい民があります。陛下におかれては天下の損益、政事の得失を大いに計られるべきであり、誠に懈怠すべからざることであります。

杜恕は朝廷にあること八年、その議論の剛直さは、みなこうした類であった。

[一] 臣裴松之は考える。大将軍とは司馬宣王司馬懿)のことである。『晋書』に言う。「宣王の第五の弟は名を司馬通といい、司隷従事となった。」杜恕の言う「狂ったように身勝手な者」であろうと疑われる。司馬通の子司馬順龍陽亭侯に封ぜられた。が初めて受禅したとき、天命を悟らず、節義を守って心を変えなかったため、爵位・封土を削減されて武威に転封された。

出向して弘農太守となり、数年で趙国に転任したが、[一]病気のため官を去った。[二]家を出て(平民から)河東太守となり、一年余りで淮北都督護軍に昇進したが、また病気のため去った。杜恕は在職するにあたり、大体のことを務める以上はせず、その恩恵を樹立して、いよいよと百姓の歓心を得ることでは杜畿に及ばなかった。しばらくして御史中丞の官を授けられた。杜恕は朝廷にいるとき、「当世の和」に適合せず、そのためにしばしば外の任務に出されることになった。また出向して幽州刺史となり、建威将軍の官を加えられ、使持節護烏丸校尉となった。当時、征北将軍程喜に駐屯していたが、尚書袁侃らは杜恕を戒めて言った。「程申伯(程喜)は先帝の御代にあって、青州田国譲(田予)を失脚させたことがある。いま足下はともにを杖突き、ともに一つの城に駐屯することになったが、よくよく慎重にして彼を待遇すべきですぞ。」しかし杜恕は意に介さなかった。官に就いて一年にならぬうち、鮮卑の大人の子供が関塞(関所)に立ち寄らず、数十騎を率いてそのまま州役所に出頭したことがあった。州(刺史の杜恕)はやってきた幼い子供一人を斬ったが、上表して言上することはしなかった。そのため程喜は上奏して杜恕を弾劾した。(杜恕は)廷尉に下され、死罪に相当したが、父杜畿が職務に殉じて水死したことを理由に赦免され、庶民として章武郡に流された。この歳は嘉平元年(二四九)である。[三]杜恕は自由気ままに振る舞い、災いを防ごうとしない考えだったので、とうとうこの失敗に陥ったのである。

[一] 『魏略』に言う。杜恕は弘農にあって寛容さと恩恵を施していた。転任することになると、孟康が杜恕に代わって弘農(太守)となった。孟康は字を公休といい、安平の人である。黄初年間(二二〇~二二七)、后にとって外属(姉妹方の親戚)の関係を持っていたことから、一緒に九親の待遇を受け、そのまま転じて散騎侍郎となった。当時、散騎の官はみな高い才能・秀でた儒者によって人選していたが、孟康だけは女房衆との縁によって彼らの中に混じっていたので、当時の人々はみな彼を軽蔑して「阿九」と呼んでいた。孟康はすでに才敏なく、暇な官職だったので、手広く書伝を読み、のちに批判弾劾することがあったが、彼の文章が雅やかであるうえ要点を押さえていたので、そこで人々は改めて敬意を深めた。正始年間(二四〇~二四九)に出向して弘農(太守)となり、典農校尉を領(兼務)した。孟康は官職に就くと、自己を清らかにして職務を奉り、善行を評価する一方、それができない者に憐れみをかけ、訴訟沙汰を減らし、住民の欲望に寄り添い、それによって彼らに利益を与えた。郡では二百人余りの役人を抱えていたが、春になると休暇をやり、いつも四分の一に(休暇を)やっていた。職務にあたって決断をなおざりにせず、ときに外出して巡察するときも、いつもあらかじめ督郵に命じて水を治めさせ、属官たちが使者を出してご機嫌伺いをしたり、無理に敬意を繕うようなことはさせなかった。また官吏・人民が煩うことを望まず、いつも役人たちには事前に命令して、巡行のさいは各自が鎌を持参し、道中は自分たちで馬草を刈ることとし、駅舎には宿泊せず樹木の下で野宿した。また従者はいつも十人余りを越えることはなかった。郡は街道に面していたが、そこを通過する賓客たちに、公法の範囲を超えて(路銀を)支給することはなく、旧知が彼のもとにやって来たときも、彼の家計から出費し(て路銀の足しにし)た。孟康が初めて(太守に)就任したとき、人々は、彼が志と器量を持っていることは知っていたが、彼が宰相・州牧を経験したことがなかったので、能力を保証することはできなかった。しかし孟康の恩沢と統治はこうした有様だったので、官吏・人民は歌にして称えた。嘉平年間(二四九~二五四)末期、渤海太守であったが中央に召されて中書令となり、のち(中書)監に転任した。

[二] 『杜氏新書』に言う。杜恕はそのまま京師を去り、(弘農郡の)宜陽県に一泉塢という砦を築いたが、その城壁塹壕が堅固であったので、大小の家々ができた。明帝が崩御したとき、人々の多くが杜恕のために発言してやった。

[三] 『杜氏新書』に言う。程喜は杜恕が意志を曲げて自分に謝るように望み、それを司馬宋権にほのめかしてそれとなく意向を表した。杜恕は宋権に答えて手紙で言った。「委曲を尽くして頂いた趣であります。そもそも天下の事に従うなら、善意をもって待遇すれば快楽の至らぬことはありませんし、悪意をもって待遇すれば仲違いしないことはありません。それなのに議論する者たちは言います。おおよそ人間は生まれつき皆が善人ではなく、善意で待遇してさらに彼らの術中に陥るべきでない、と。僕はこうした輩に出会うと、すぐさま青海原を踏み越え、に乗って帰りたいと思うだけで、彼らの間にいて自ら打ち解けるようなことはできません。しかし五十二歳になって見捨てられることもなく、不公平ながら、また明達した君子に遭遇すればその本心を明らかにしております。もしお察し頂けないとすれば、他人に心臓をえぐられて地面に捨てられ、正に数斤の肉と似たようなもので、どうして明らかにすることができましょうか。だからこそ結局は自分からは(本心を)解説しないのです。程征北(征北将軍程喜)の功名は長年顕著であり、僕の先を行くことは非常に多大であって、征北を出し抜く人がありましょうか!案件の大小を問わず、もし部下が相談したあと実行するなら、それは上司による制御の意志から外れますし、もし相談したのに従わないのなら、やはりまた上下相互の順応という便宜に外れます。だからこそ一心を推進して一意に任せ(独断によって)、ただちにそれを実行したまでです。を殺した事についてですが、天下がそれを「是」と言うのであれば、それが僕の喜びです。声を挙げて「非」を打ち鳴らすのであれば、僕は自らそれを受け入れ、怨んだり咎めたりはいたしません。程征北がこれを明らかにするのもよいでしょうし、明らかにしないのもまたよいでしょう。諸々の君子たちが自ずとその心に同調してくれるでしょう。僕の言葉(は問題)ではありません。」程喜はこれによって、とうとう厳しく文書によって杜恕を弾劾することになった。

むかし杜恕が趙郡から帰還したとき、陳留阮武もまた清河太守から召し返され、一緒になって自分から廷尉に迫った。(阮武は)杜恕に言った。「お姿を拝見すると、才覚・性質は公の道に従うことができますのに、それを保持して磨かれておりません。器量・能力は高い官に就くことができますのに、それをお求めになるのは順当でありません。才知・学識は古今を述べることができますのに、それを志すにあたって専心なさっておりません。これはいわゆる才能がありながら実用にならないというものです。いま暇な時間ができそうですから、試みとして思索に耽り、一家言を成し遂げてみるべきでしょう。」(配所の)章武にいたとき、ついに『体論』八篇を著した。[一]また『興性論』一篇を著したが、おそらく自己を成り立たせている(本質の)ものを勃興させたのである。(嘉平)四年、配所で卒去した。

[一] 『杜氏新書』に言う。思うに、人倫のおおもとは君臣ほど重いものはなく、立身出世の基本は言動ほど大きいものはなく、お上を安んじて民を治めるには政治・法律ほど精密なものはなく、破壊に打ち勝ち殺戮を取り除くには用兵ほど善なるものはない。そもそも「礼」というものは万物の体(本質)であり、万物がみなその体を会得したならば、不善などというものはなくなるのだ。だからこれを『体論』と名付けるのである。

甘露二年(二五七)、河東の楽詳は年齢九十余歳だったが、上書して杜畿の遺業を訴えたところ朝廷は感銘した。詔勅によって杜恕の子杜預を封じて豊楽亭侯とし、所領を百戸とした。[一]

[一] 『魏略』に言う。楽詳は字を文載と言う。若いころから学問を好み、建安年間(一九六~二二〇)初め、楽詳は公車司馬令南郡謝該が『左氏伝』を得意としていると聞き、そこで南陽から歩いて謝該を訪問し、疑問点について訊ねたり諸々の要点を批判したりした。現在の『左氏楽氏問七十二事』は楽詳が編纂したものである。質問が全て終わると郷里に帰ったが、当時、杜畿が太守となっていて、やはり大変な学問好きで、楽詳を文学祭酒の任にあてて後進を指導させた。そのため河東郡では学業が大いに勃興した。黄初年間(二二〇~二二七)になって中央に召されて博士の官を授かった。当時は太学が創立されたところで、博士は十人余りいたものの(彼らの)学問は偏ったり視野が狭いところが多かった。そのうえ真理を理解しておらず、ほとんどは自分で指導することもせず、ただ頭数を揃えるだけであった。ただ楽詳だけが五業を全て教授し、その難解な箇所について質問して(学生が)理解できなかったときも楽詳は嫌な顔もせず、杖で地面に図を描き、比喩をしたり類例を引いたりして、寝食を忘れ(て解説し)た。そのため遠近を問わず名声を独り占めした。楽詳の学業はすでに精密さを極めており、また星と星の運行を計算することが得意であったので、格別に詔勅を拝受して、太史(令)とともに律歴を定めることになった。太和年間(二二七~二三三)、転任して騎都尉の官を授かった。楽詳の学業は優れていたが能力は乏しく、そのため(魏武帝・文帝・明帝の)三代を歴ても、とうとう出向して国相・太守となることはなかった。正始年間(二四〇~二四九)にいたり、老年を理由に官を退いて家に帰ったが、故郷の宗族は彼に帰服し、門徒は数千人になった。

杜恕が上奏した提議・論駮はみな見所があり、その(なかでも)世情に切実な重大事を(選んで)綴り、篇(杜恕伝)に記しておいた。[一]

[一] 『杜氏新書』に言う。杜恕の弟杜理は字を務仲という。幼いころから物事の本質を察知するに機敏で、杜畿はそれに驚いた。だから彼を「理」と名付けたのである。二十一歳のとき卒去した。弟杜寛は字を務叔という。清楚・幽玄であり、利発であったが古いものを好んだ。名臣の一門であったので幼いころから京師で成長したが、志は篤く博学で、世俗の務めを絶ちきった。彼の気持ちは『索隠』を探究することにあった。それによって名声を顕し、政治の要人の多くが交わりを結んだ。孝廉に推挙されて郎中に叙任されたが、四十二歳で卒去した。経伝の意義について議論・反駁することが多かったが、いずれも草稿の段階であって完成することはなかった。ただ『刪集礼記』と『春秋左氏伝解』だけは世間に現存している。杜預は字を元凱といい、司馬宣王(司馬懿)の女婿である。王隠の『晋書』は称する。杜預の智謀が幅広く深く、混乱を収めることに明るく、つねづね「徳というものは企図するものではない。功績を打ち立て一家言を打ち立てることこそ願うところである」と語っていた。あまたの書籍にざっと目を通し、「『公羊』『穀梁』は詭弁である」、また「過去の儒学者たちの『左氏伝』の解説は左丘明の意図を理解できておらず、そのため(公羊・穀梁の)二つの伝が横行して(『春秋』の理解を)混乱させている」とも言っていた。そこで微妙な言葉をちりばめて『春秋左氏経伝集解』を著し、また諸家を参考して、それを『釈例』と名付けた。また『盟会図』『春秋長歴』を作り、一家の学問(杜預独自の学派)を完成させ、老年になってようやく成就した。尚書郎摯虞はこれをはなはだ尊重して言った。「左丘明は本来『春秋』のために伝を作ったが、『左伝』はついに単独で行われることになった。『釈例』は本来『左伝』のために設けられたが、発見・証明したことはどうして『左伝』だけであろうか。そうしたことからやはり単独で行われるだろう。」杜預は晋王室に対して大いに功名を挙げ、官位は征南大将軍にまで昇り、開府し、当陽侯に封ぜられて、所領八千戸をんだ。子杜錫は字を世嘏といい、尚書左丞である。『晋諸公賛』に言う。杜嘏には器量があった。杜預の従兄杜斌は字を世将といい、やはり才能・人望があって黄門郎となったが、趙王司馬倫に無実の罪で殺された。杜嘏の子杜乂は字を洪治という。幼くして令名があり、丹陽(郡)丞となったが早くに卒去した。阮武という者も、また枠にとらわれない大きな才能であった。『阮氏譜』を調べると、阮武の父阮諶は字を士信といい、お召しを受けても官に就かず、『三礼図』を造ったが世に伝えられているとある。『杜氏新書』に言う。阮武は字を文業といい、闊達で物知り、深い雅心をもった人物だったが、官位は清河太守で止まってしまった。阮武の弟阮炳は字を叔文といい、河南尹である。医術に意を注いで、『薬方』一部を編纂した。阮炳の子阮坦は字を弘舒といい、晋の太子少傅平東将軍である。阮坦の弟阮柯は字を士度という。荀綽の『兗州記』に言う。阮坦は家を出て伯父(の家)を継いだ。(彼が)亡くなると、次兄が爵位を襲うべきであったが、父は阮柯を愛し、名指しして彼に継がせたので、ついに封地を受け継ぐことになった。当時は幼小であったため辞退することができなかったが、成長するにおよんで後悔し、ついに幅巾で(隠者として)暮らし、のちに出仕することになっても止めることはなかった。性質は純粋誠実かつ物静かで上品、礼儀を好んで踏み外すことなく、心は経典の戒めにあり、博学にして見聞が広かった。選抜されて濮陽王文学となり、転任して領軍長史となったが、在官のままくなった。王衍は当時の領軍であったが、彼のために哭(声をあげて泣く儀式)をして深刻に泣き叫んだ。