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原著作者:【むじん書院】

魏書十六 三国志十六 任蘇杜鄭倉伝第十六

任峻伝

任俊伯達といい、河南中牟の人である。漢末の擾乱で関東が震動すると、中牟の県令楊原は憂い恐れ、官を棄てて逃げようとした。任峻は楊原を説得して言った。「董卓が混乱を主導していますが、天下では横目で睨み付けない者はおりません。それなのに先発する者がいないのは、その心がないからではなく、まだ状勢が許さないからです。明府がもし彼らをよく導くなら、必ず呼応する者がありましょう。」楊原は言った。「そのためにはどうすれば?」任峻は言った。「いま関東には十余りの県があり、兵になれる者は一万人を下りません。もし独断で河南尹の職務を代行し、彼らを総括して用いれば、解決しないことはないでしょう。」楊原はその計略に従い、任峻を主簿とした。任峻は楊原のために河南尹の職務を代行することを上表し、諸県に堅守させて兵を挙げた。ちょうど太祖曹操)が関東で挙兵して中牟の県境に入ったが、人々は誰に従うべきかわからなかった。任峻だけは同郡の張奮とともに、郡を挙げて太祖に帰服すべきだと提議した。また任峻は一族と賓客の家子郎党数百人を別に集め、太祖に従うことを願い出た。太祖は大いに喜んで、上表して任峻を騎都尉とし、従妹を嫁がせ、非常に目をかけて信頼した。太祖が征伐に出るたび、任峻はいつも留守を守って軍の補給にあたった。そのころ飢饉・旱魃の年にあたり、兵糧が不足したので、羽林監潁川棗祗屯田を置くことを建議した。太祖が任峻を典農中郎将に任じると、数年のうちに至る所で粟が積み上げられ、倉庫はいっぱいになった。官渡の戦いで、太祖は任峻に軍の武器・兵糧の輸送をさせたが、賊はしばしば輸送路を遮断して略奪を行った。そこで輜重車千台を一部隊とし、横十列に並んで行軍し、また二重の陣形を組んでこれを警護したので、賊は近付くことができなくなった。軍や国がたらふく食えたのは、棗祗が立案して任峻が実行したからである。[一]太祖は任峻の功績が多大であったので、上表して都亭侯に封じて所領三百戸とし、長水校尉に転任させた。

[一] 『魏武故事』に載せる布令に言う。「陳留太守棗祗は、天性の忠臣・才覚者であった。はじめ一緒に義兵を挙げ、征討に携わった。のち袁紹冀州にいて棗祗を欲しがり、彼を得ようとしたが、棗祗は深くを頼りにしたので、東阿県令を領(兼務)させた。呂布の乱では、兗州はみな叛逆したが、ただと東阿だけが無事だったのは、棗祗が軍勢でもって城を守った尽力によるものだった。のちに大軍の兵糧が欠乏したとき、東阿でもって食いつなぐことができたのは棗祗の功績である。黄巾賊を破ってを平定するに及び、賊の物資を手に入れた(ので食糧難は解決した)。屯田事業を興すにあたって、当時の論者はみな牛を数えて穀物を輸送すべきだと言ったので、(そのように)「佃科」(屯田に関する法律)を定めた。施行後、棗祗は建白して、牛を賃借して穀物を輸送する場合、収穫が多いときでも(輸送ができないために)穀物を増やせず、水害や旱魃などの災害が起こったときも大いに不便であると言った。繰り返し言ってきたが、それでも孤は従来通りにすべきで、収穫が多いときでも(方針を)変えることはないと考えた。棗祗はなおもこのことを取り上げたが、孤はどうすればよいか分からなかったので、荀令君荀彧)と一緒に議論させた。そのころ故の軍祭酒侯声は言っていた。『佃科に従って官牛を扱い、官田の計算をしましょう。棗祗の提案では、官にとって都合がよくとも、(屯田に従事する)客にとっては不都合であります。』侯声はこの自説をもって云々し、荀令君を悩ませた。それでもなお棗祗は自信を持ち、計画に基づいて再び建白し、田地を分ける方法を取り上げた。孤はそこで彼に賛成し、屯田都尉にしてやり、農業を施行させた。その年は収穫が多く、のちにそれによってついに田地を増大させたので、軍需を充足させ、群がる叛逆者どもを破滅させて天下を平定し、王室を興隆させた。棗祗はその功業を樹立したが、不幸にも早く没してしまったので、郡守の官を追贈したが、(その報酬は)まだ功績に相当していない。いま重ねてそれを思うと、棗祗は封土を受けるべきだったのに、今までなおざりにしていたのは孤の過ちであった。棗祗の子棗処中に封土と爵位を加え、棗祗を祀ることで不朽の事業とすべきである。」『文士伝』に言う。棗祗のもともとの姓はであったが、祖先が難を避けて、棗と改めたのである。孫の棗拠は字を道彦といい、冀州刺史である。棗拠の子棗嵩は字を台産といい、散騎常侍である。いずれも才覚と名声があり、著述した物も多い。棗嵩の兄棗腆は字を玄方といい、襄城太守で、また文章には華やかさを持っていた。

任峻は寛容・温厚で度量があり、物事の道理を会得し、意見を陳述するごとに、太祖はそれを評価することが多かった。飢饉の際でも、朋友の孤児を引き取って憐れみをかけ、内(任氏)でも外(妻の家)でも一族に貧しい者があれば、急場を救って不足を補ってやり、信義は称賛された。建安九年(二〇四)に薨じ、太祖は長いあいだ涙を流し続けた。子の任先が嗣ぎ、任先が薨じると、子がなかったので国(所領)は解除された。文帝曹丕)はさかのぼって功臣を記録し、任峻にして成侯と言った。また任峻の次子任覧関内侯とした。

蘇則伝

蘇則文師といい、扶風武功の人である。若くして学問と行いによって知られ、孝廉・茂才に推挙されて三公の役所に招かれたが、いずれも応じなかった。家から出て酒泉太守となり、安定・武都太守に転任したが、[一]至るところで威名があった。太祖曹操)が張魯を征討したとき、その郡を通過し、蘇則を謁見して彼のことを喜び、軍の先導をさせた。張魯を破ると、蘇則は下弁の諸を鎮定して安んじた。黄河西岸への道を開通させ、金城太守に異動になった。このとき騒乱が起こったばかりで、官吏・民衆は流浪して飢えに苦しみ、戸数も減少していたが、蘇則は彼らを慰撫して落ち着かせ、その様子はたいそう謹み深かった。外から羌族・胡族を招いて手懐け、彼らから牛や羊を手に入れて、貧しい者、年老いた者を養育した。民衆と食べ物を分け合い、まる一ヶ月で数千家の流民はみな帰ってきた。そこで禁令を明らかにし、法を犯す者があればただちに殺し、教えに従う者には必ず褒美を与えた。蘇則自ら民を教育して農地を耕すと、その年大収穫になったので、帰依する者が日ごとに多くなっていった。李越隴西郡を挙げて叛乱を起こしたが、蘇則は羌族・胡族を率いて李越を包囲すると、李越はすぐに降服を乞うた。太祖が崩ずると、西平麹演が叛逆し、護羌校尉を称した。蘇則は兵を率いて彼を討った。麹演は恐れて降服を乞うた。文帝曹丕)はその功績によって蘇則に護羌校尉の官を加え、関内侯の爵を賜った。[二]

[一] 『魏書』に言う。蘇則は剛直で悪を憎み、いつも汲黯の人となりを慕っていた。『魏略』に言う。蘇則の家は代々の名家であったが、興平年間(一九四~一九六)に三輔地方が混乱して飢えに苦しむと、北地に難を避けた。安定に仮住まいし、富豪の師亮を頼った。師亮の待遇は充分なものでなかったので、蘇則は慨歎して言った。「天下は必ず安定する。そう遠いことではないぞ。必ずこの郡の太守となって帰ってきて、凡庸な連中をやっつけてやる。」のちに馮翊吉茂らと一緒に郡の南の太白山に隠れ住み、書籍を自分の娯楽とした。安定太守になったとき、師亮らはみな亡命しようとしたが、蘇則はそれを聞き、あらかじめ使者をやって弁解させ、礼をもって彼に報いた。

[二] 『魏名臣奏』に載せる文帝の雍州刺史張既へのご下問に言う。「試みに金城太守を守らせた(代行させた)蘇則は、すでに民衆を安んじてを平らげる功績を挙げた。聞けばまた車を出して西進して湟中を平定し、黄河西岸に力と勢いを付けさせた。ははなはだこれを評価する。蘇則の功績からいって、爵位と所領を加増するべきではないだろうか?封爵は重大な事柄なのでに問う。密かに意見を申し、決して漏らすでないぞ。」張既は答えて言った。「金城郡は、むかし韓遂に殺戮・略奪され、(民衆は)死んだり流浪したりして、ある者は戎狄の地に隠れ、ある者は混乱のため命を落とし、戸数は五百にも満たないのでした。蘇則が職務に就くと、内では被災者を慰撫し、外では離散者を糾合し、いま戸数は千余りになりました。また梁焼の種々の羌族は、むかし韓遂と一緒に悪事を働いていましたが、韓遂が倒れたのちは要塞を越えて出てきました。蘇則は前後して招き手懐け、三千余りの集落が郡に帰化させ、みな威信・恩恵をもっていたわり、官に役立てるようにしました。西平の麹演らが邪悪な計画を唱えると、蘇則はただちに軍を出し、その項領(要衝?)に臨みましたが、麹演はすぐさま人質を送って命に帰服し、賊の糧道を絶ちました。蘇則はすでに民衆をいたわる功績があるうえに、また戎狄どもをよく手懐け、忠誠を尽くして節義を顕しました。聖明な君主の御代にあたっては、功績は必ず記録されるものだとか。蘇則に爵位・所領を加増するようなことは、まことに臣下に忠勤を勧めるのに充分で、風俗を励ますものとなります。」

のちに麹演はふたたび近隣の郡と結んで叛乱を起こした。張掖張進は太守杜通を拘禁し、酒泉の黄華は太守辛機を受け入れず、張進・黄華はおのおの太守を自称して麹演に呼応した。また武威の三種の胡族もみな略奪を働き、道路を遮断した。武威太守毌丘興は蘇則に危急を告げた。このとき雍州・涼州の豪族たちはみな羌族・胡族を捕まえて駆り立て張進らに付き従い、郡の人はみな張進には敵わないと思っていた。また将軍郝昭魏平は以前おのおの金城に駐屯していたが、また詔勅を受けても西に渡ることができなかった。そこで蘇則は郡内の高官および郝昭らと会見し、羌族の頭目らと計画して言った。「いま賊の勢いは盛んだが、みな新たに集まった者に過ぎず、ある者は脇に従っているが、必ずしも同心したわけではない。隙を見て攻撃すれば、善人と悪人は必ず離ればなれになり、離れた者は我々に帰服するだろう。我々にとっては利益となり、彼らには損失となる。すでに軍勢増強の実利を得て、なおかつ士気倍増の気勢があるからには、(軍勢を)率いて張進を討てば破ることができるのは間違いない。もし大軍(の到着)を待ち、持久のために日を無駄にすれば、善人は帰る先を失って必ず悪人と合流し、善悪が合流すればすぐには離し難い勢いになる。詔勅による命令があるが、違背したとしても方便に合致するなら専断してよいのだ。」こうして郝昭らはそれに従い、軍勢を進発させて武威を救い、その三種の胡族を降服させ、毌丘興とともに張掖で張進を攻撃した。麹演はそれを聞き、歩騎三千を率いて蘇則を出迎え、言葉では軍を助けに来たと言いながら、実際には変事を起こそうとしていた。蘇則は彼を呼び入れて謁見し、そこで彼を斬った。外に出て(彼の)軍勢に宣告すると、彼の仲間はみな逃げ散った。蘇則はそのまま諸軍とともに張掖を包囲して、これを破り、張進と彼の支援者を斬ると軍勢はみな降服した。麹演の軍が敗れたので黄華は恐懼し、捕虜を釈放して降服を願ったので、黄河西岸は平和になった。そこで金城に帰還した。都亭侯に進め、所領三百戸とした。

中央に召されて侍中を拝し、董昭と同僚になった。あるとき董昭は蘇則の膝を枕にして寝そべったが、蘇則は彼を押しのけて言った。「蘇則の膝は佞人の枕ではないぞ。」はじめ蘇則と臨菑侯曹植氏がに代わっ(て王朝を立て)たと聞き、いずれも喪服を着けて哭泣した。文帝曹丕)は曹植がそうした様子だったことを聞いていたが、蘇則のことは聞いていなかった。帝が洛陽にいたころ、従容として言ったことがある。「吾は天命に応じて受禅したのだが、それを聞いていた者がおる。なぜか?」蘇則は問責されたのだと思い、鬚髯を残らずぴんと張り、正論でもって答えようとした。侍中傅巽が蘇則をって言った。「卿のことは言ってないぞ。」そこで止めた。[一]文帝は蘇則に下問して言った。「以前、酒泉・張掖を破ったとき、西域は使者を通じて来て、燉煌も直径一寸の大真珠を献上してきた。ふたたび市場の利益を求めるべきだろうか?」蘇則は答えて言った。「もし陛下の教化が中国のすみずみまで行き渡り、御徳が沙漠にまで届くなら、求めずとも自然とやって来るでしょう。(わざわざ)求めてそれを得るのは尊重するに及びません。」帝は黙然とした。のちに蘇則は遊猟に随従した。槎桎が抜けて鹿が逃げ出してしまったので、帝は大いに怒り、牀几にって抜刀し、担当の官吏をことごとく逮捕して彼らを斬ろうとした。蘇則はぬかづいて言った。「は、古代の聖王は鳥獣のために人を殺めなかったと聞いております。いま陛下はまさに堯帝の教化をなさろうとしておられます。それなのに狩猟のお戯れをもって数多くの官吏を殺そうとなさるのを、愚臣は納得いたしかねます。敢えて死を請います!」帝は言った。「卿は直言の臣である。」ついにみな赦免した。しかしこれによって憚られることになった。黄初四年(二二三)、東平国のに左遷された。まだ(任地に)到着しないうち、道中で病気となって薨じた。して剛侯と言った。子の蘇怡が嗣いだ。蘇怡が薨じると、子がなかったため弟の蘇愉が襲封した。蘇愉は咸煕年間(二六四~二六七)に尚書になった。[二]

[一] 『魏略』に言う。古いしきたりでは、侍中が(帝の)起居を直接お世話するので、俗に(侍中を)「執虎子(おまる係)」と呼んでいた。蘇則と同郡だった吉茂は当時、はじめ県令を歴任していたが、のちに閑職に左遷されていた。吉茂は蘇則に会ったとき、彼を嘲笑して言った。「仕官するにも執虎子どまりではないぞ。」蘇則は笑って言った。「我はのように鹿車(小さな車。龐淯伝参照)を走らせるような苦労を手本にできなくてね。」はじめ蘇則は金城にいて、漢帝が位を譲ったと聞いて崩御したのだと思った。そこで服喪したが、あとで健在であると聞いて自分の不明を思い、心からたいそう黙然としてしまった。臨菑侯曹植は先帝(曹操)の歓心を失ったことを悲しみ、やはり激しく恨んで哭泣した。そののち文帝が遊覧に出かけたとき、臨菑侯を思い出して恨み、左右を振り返って言った。「人の心は同じでないものだな。我が大位に登ろうとしたとき、天下に哭いた者がおる。」そのとき従っていた臣たちは、帝の発言には理由があって発せられたことを知っていたが、蘇則は自分のことだと思い、馬を下りて陳謝しようとした。侍中傅巽が彼に目配せしたので、ようやく(事情を)理解した。孫盛は言う。そもそも士たる者、非難する相手には仕えず、仕える相手には非難しないもので、出処進退をいたずらにできようか!蘇則はすでに新王朝に名を連ね、異なる王朝に身を委ねたのに、そこで初めて二心を懐いて怒りを発し、はっきりした言葉を奮おうとしたが、雅やかな君子の去就の分別といえようか?『詩(経)』に言う。「士であるのにけじめがなく、その行いは二転三転する。」士が二転三転するだけで妻を失ってしまうものだ。ましてや人臣はどうか?

[二] 蘇愉は字を休予といい、太常・光禄大夫の位を歴任したことが『晋百官名』に見える。『山濤啓事』は蘇愉が忠誠心に篤く、智慧と意志があったことを称賛している。臣裴松之は調べてみた。蘇愉の子蘇紹は字を世嗣といい、呉王の師となった。石崇の妻は蘇紹の兄のである。蘇紹の詩が『金谷集』にある。蘇紹の弟蘇慎左衛将軍である。

杜畿伝

杜畿伯侯といい、京兆杜陵の人である。[一]若いころ孤児となり、継母が彼を苦しめたが、孝行によって名を知られた。二十歳で郡の功曹となり、県令を守った(代行した)。県では拘置者数百人を抱えていたが、杜畿は自ら牢獄を見て回り、彼らの罪の軽重を裁き、みんな判決を下してしまった。全てが妥当であるとはいえなかったが、郡中では彼が年少でありながら要点を押さえていることに目を見張った。孝廉に推挙され、漢中府丞に叙任された。ちょうど天下が混乱したので、そのまま官を棄て荊州に仮住まいし、建安年間(一九六~二二〇)になってから帰郷した。荀彧が彼を太祖曹操)に推薦したので、[二]太祖は杜畿を司空司直とし、護羌校尉に転任させ、使持節として西平太守を領(兼任)させた。[三]

[一] 『傅子』に言う。杜畿は御史大夫杜延年の後裔である。杜延年の父杜周南陽から茂陵に移住し、杜延年が杜陵に移住し、子孫は代々(ここに)居住した。

[二] 『傅子』に言う。杜畿は荊州から帰郷したのち、に赴いて侍中耿紀に会い、夜を徹して語り合った。尚書令荀彧と耿紀は屋舎を並べていたが、(荀彧は)夜中に杜畿の言葉を聞いて、彼を立派だと思い、さらに人をやって耿紀に言わせた。「国士がいるのに推薦しないなら、どうして官位に就いているのかね?」杜畿に会ったあと、(荀彧が)彼を理解することは古くからの面識者のようであった。ついに杜畿を朝廷に推薦することになった。

[三] 『魏略』に言う。杜畿は若いころから大志を抱いていた。荊州に数年間いて、継母が亡くなったあと、三輔への道が開通したので、母の遺体を背負って北へと帰郷した。その道中で賊の略奪に遭遇した。人々は逃走したのに杜畿だけは去らなかった。賊は彼を弓で射た。杜畿は賊に請願して「は財物が欲しいのでしょう。いまには荷物がないのに、我を射ようとするのはなぜですか?」と言った。賊はそこで止めた。杜畿が郷里に到着すると、京兆尹張時河東の人であったが、杜畿と旧交があったので署名して(彼を)功曹とした。あるとき(張時は)、彼が闊達で諸事に留意して補佐してくれないことを嫌い、この人は粗野で自分勝手だから功曹にふさわしくない、と言ったことがある。杜畿はひそかに言った。「功曹にはふさわしくないが、河東太守にはふさわしい。」

太祖が河北を平定したのち、高幹幷州をこぞって叛逆した。当時の河東太守王邑は中央に召されたが、河東の人衛固・范先は、表向きには王邑(の在任)を請願して名目とし、しかし内実では高幹と謀議を交わしていた。太祖は荀彧に言った。「関西の諸将は険阻さと馬を頼りにしており、征伐すれば必ず叛乱するだろう。張晟殽・澠一帯を荒らし、南は劉表に通じていて、衛固らは彼を頼みとしているが、は彼らが深刻な損害を起こすことを恐れるのだ。河東は山に囲まれ黄河を持ち、近隣四方では変事が多く、いま天下の要地というべきである。君が我のために蕭何・寇恂を推挙してくれれば、それによって鎮圧しよう。」荀彧は言った。「杜畿がその人です。」[一]これによって杜畿は追って河東太守を授けられた。衛固らが兵数千人をやって陝津を遮断させたので、杜畿は到着しても渡ることができなかった。太祖は夏侯惇を派遣して彼らを討伐させたが、まだ到着しなかった。荀彧が杜畿に言った。「大軍を待つべきだ。」杜畿は言った。「河東には三万戸があるが、皆が混乱を起こそうとしているのではない。いま軍が厳しく迫れば、善を行おうとする者も、主導者がないために必ず恐れて衛固の言いなりになる。衛固らの勢力が一体となれば必ず死に物狂いで戦う。もしこれを討伐して勝てなければ、近隣四方が彼らに呼応し、天下の変事は収拾できなくなってしまう。もしこれを討伐して勝てば、それは一郡の民衆を殺すことになるのだ。それに衛固らはまだ王命を拒絶するとは表明しておらず、表向きでは前任者を要請することを名目にしているのだから、きっと新任者を殺害することはない。吾は一台の車でただちに出かけ、彼らの不意を突こう。衛固の人となりは計略が多いくせに決断力がないので、必ず偽って吾を受け入れるだろう。吾が郡に一月いられれば、計略で彼らを繋ぎ止めるには充分だ。」そのまま裏道を抜けて郖津から黄河を渡った。[二]范先は杜畿を殺して人々を脅そうと思い、[三]まず杜畿の態度を観察したが、城門の下で主簿以下三十人余りを殺しても、杜畿の挙動は泰然自若としていた。そこで衛固は言った。「彼を殺しても損害を与えられず、ただ悪名を得るばかりだ。それに彼を制御しているのは我々なのだ。」こうして彼を推戴することにした。杜畿は衛固・范先に言った。「衛・范は河東の徳望家なのだから、吾は成果を仰ぎみるばかりです。それでも君臣には定まったやり方があり、成功と失敗を同じくするのだから、重大事は一緒に公平な議論をすべきでしょう。」そこで衛固を都督として郡丞の職務を行わせ、功曹を領させた(兼任させた)。将校と官兵三千人余りは全て范先に監督させた。衛固らは喜び、表向き杜畿に仕えたふりをしながら、(杜畿の本心を)意に介さなくなった。衛固が大々的に兵を徴発しようとしたので、杜畿はこれを心配して衛固を説得した。「そもそも非常の事を成し遂げようとするなら、民衆の心を動揺させてはいけません。いま大々的に兵を徴発なさっていますが、民衆は必ず騒ぎ立てます。徐々に金を出して兵を募るのに越したことはありません。」衛固はそうだと思ってそれに従い、とうとう金を出して徴発することになり、数十日で(事業は)決着したが、諸将は貪欲で、募集に応じる者は多かったのに兵士を献上することは少なかった。また(官舎に)入って衛固らを諭して言った。「人情というのは家を思うものです。諸将や属官を分けて休息させるとよいでしょう。危急のときに彼らを召し返すのは難しくありません。」衛固らは民衆の心に逆らうことを嫌い、またもやそれに従った。これによって善人は外にいて密かに自分を助け、悪人は分散してそれぞれの家に帰り、そこで民衆は離ればなれになった。ちょうど(張)白騎東垣を攻撃し、高幹が濩沢に侵入し、上党郡の諸県が長官たちを殺害し、弘農郡が郡太守を人質に執ったが、衛固らは密かに兵を徴発したものの、まだ達せられなかった。杜畿は諸県が自分に味方していることを知っており、そこで出陣して、一人で数十騎を率い、張辟に赴いて防御にあたると、官民の多くが城を挙げて杜畿を援助し、数十日ほどで四千人余りを獲得した。衛固らと高幹・張晟は一緒になって杜畿を攻撃したが、下すことができず、諸県を略奪しても得るところがなかった。そのとき大軍が到着し、高幹・張晟は敗れ、衛固らは誅殺された。彼らの残党はみな赦免し、その生業に戻らせた。

[一] 『傅子』に言う。荀彧は、杜畿の勇気は大きな困難に当たるのに充分で、智慧は変化に応じることができるので、彼を試してみるべきですと称賛した。

[二] 「郖」の音は「豆」である。『魏略』に言う。はじめ杜畿と衛固は、若いころからお互いに侮辱してれあっていて、衛固はいつも杜畿を軽蔑していた。あるとき杜畿は衛固と賭けをして、むかし杜畿が衛固に「仲堅(衛固)、我はいまに河東太守になるぞ」と言ったことを争った。衛固は着物のすそをからげて彼を罵倒した。杜畿が(河東太守の)官に就くに及んで、衛固は郡の功曹になったのである。張時はもともと京兆(尹)に任じられていた。杜畿が司隷校尉鍾繇)を迎えたとき、張時と華陰で遭遇した。張時と杜畿は相まみえ、儀礼によって各々の版(名簿)を手に取った。張時は歎いて言った。「昨日の功曹が、今や郡の将軍になるとは!」

[三] 『傅子』に言う。范先は「虎になろうとしていたのに人間を食らうことを嫌がる。虎になることはできないぞ。いま殺さなければ必ず後々の災いになるだろう」と言った。

このとき天下の郡県ではみな破壊されていたが、河東は最も早く平定されたので消耗が少なかった。杜畿はこれを統治するとき、寛容さと恩恵を第一とし、民衆に関与したりはしなかった。あるとき住民のうちに訴訟を起こし、お互いに告訴しあう者がいたが、杜畿は自ら謁見して大義を述べ、帰って反省するようにし、もし心残りがあれば、また役所に参上するようにさせた。郷邑父老たちはお互いに怒って(原告を)責めた。「ご主君がこんな風なのに、どうしてその教えに従わないのか?」それからは訴訟は少なくなった。管下の属県に孝子・貞婦・順孫(従順な孫)を推挙させ、また彼らの役務を緩和してやり、機会があれば彼らを慰労し励ました。少しづつ住民に牸牛・草馬を育てることを課し、下は鶏・・犬・に及ぶまで、みな規則があった。百姓は農業をめたので、家々は豊かになった。そこで杜畿は言った。「民は富んだ。教えなければいけない。」これより冬季は武器を修めて武術を講義し、また学宮を開いて、自ら教典を手に執って教授したので、郡中はそれに教化された。[一]

[一] 『魏略』に言う。博士楽詳は杜畿によって昇進したのである。今でも河東に儒学者が特に多いのは、杜畿のおかげなのである。

韓遂・馬超が叛逆すると、弘農・馮翊では多くの県邑が挙兵して彼らに呼応した。河東は賊に隣接していたが、住民に異心を抱く者はいなかった。太祖は西征して蒲阪に到着すると、賊と渭水を挟んで軍を構えたが、軍の兵糧はただ河東だけに依存していた。賊が破られたとき、蓄えの余剰は二十万斛余りもあった。太祖は布令を下して言った。「河東太守杜畿は、孔子の言う『について吾は非難することができない』というものである。俸禄を中二千石に加増する。」太祖が漢中を征討したとき、五千人を派遣して運送に当たらせたが、運送する者たちは自分たちを励まして言った。「人生には一つの死があるものだ。我が府君に背くまいぞ。」ついに一人の逃亡者も出なかった。彼が人心を得ていたのはこのような有様であった。[一]国が建てられたとき、杜畿を尚書とした。役職を済ませると、改めて布令があって言った。「むかし蕭何は関中を治め、寇恂は河内を治めたが、卿は彼ら(と同様)の功績があり、先ごろ卿に納言(尚書)の職を授けようとしたが、振り返って思えば河東は我が股肱の郡で、充実した場所であり、天下を制するにも充分だ。そのため、しばらく卿を煩わせることになるが、寝ながらでも鎮定してくれたまえ。」杜畿は河東にあること十六年、常に天下第一(の成果)であった。

[一] 『杜氏新書』に言う。平虜将軍劉勲は太祖に親しまれ、貴さは朝廷を震わせた。あるとき杜畿に大きなを所望したことがあったが、杜畿は他のことにかこつけて拒んだ。のちに劉勲は法に服し、太祖は彼の手紙を得て感歎した。「杜畿は『に媚びない』者と言うべきである。」杜畿の功績を称え、それを州郡に示して言った。「むかし仲尼(孔子)は顔子顔回)について言葉を発するたびに感歎しないではいられなかった。心中に情愛が発してから、また馬を牽くためには駿馬をもってすべきである。いま吾はまた、人々が高山を仰いで善行を慕うのを願うのである。」

文帝曹丕)は王位に即くと、関内侯の爵を賜い、召し返して尚書とした。践祚すると豊楽亭侯に進めて、所領百戸とし、[一]司隷校尉を守らせた(代行させた)。帝はを征討したとき、杜畿を尚書僕射として留守の事を統制させた。そののち帝は許昌に行幸したが、杜畿は再び留守を守った。詔勅を受けて御楼船(矢倉のある船)を作り、陶河において船を試験運航したが、たまたま風が吹いて沈没した。帝は彼のために涙を流した。[二]詔勅に言う。「むかしはその職務を勤めて水中で死んだ。は百穀(の栽培)に勤めて山中で死んだ。[三]の尚書僕射杜畿は孟津で船を試験運航し、ついに転覆して沈没するにいたった。忠心の極みである。朕ははなはだ憐れむものである。」太僕(の官職)を追贈し、して戴侯と言った。子の杜恕が嗣いだ。[四]

[一] 『魏略』に言う。はじめ杜畿が郡にいたころ、(命令)書を受けて寡婦を召し上げた。このとき他の郡では、既に配偶者がいる者でも、書をたてに全て奪い取って召し上げたので、(奪われた者は)道路で泣き声をあげた。杜畿だけは寡婦を取り、そのため(都に)送ることが少なかった。趙儼が杜畿に代わるに及び、送ることが多くなった。文帝は杜畿に質問した。「以前に君が送ることはなぜ少なかったのだろう。今はなぜ多いのだろう?」杜畿は答えて言った。「が以前に召し上げたのは全て亡くなった者の妻でしたが、いま趙儼が送るのは生きた人のなのです。」帝と左右の者は顔を見合わせて色を失った。

[二] 『魏氏春秋』に言う。むかし、杜畿は童子に出会ったことがある。(童子は)彼に言った。「司命(の神)が我を遣わしてをお召しになったのです。」杜畿が強く命乞いをすると、童子は言った。「今から君のために身代わりを捜してきます。君は慎みをもって言わないでください!」言葉が終わるなり忽然として見えなくなってしまった。これまで二十年が経過しており、杜畿はそのことを(人に)言ったところ、その日のうちに卒去した。時に六十二歳であった。

[三] 韋昭の『国語』の注に『毛詩伝』を引用して言う。「冥はの六世の孫である。水官となり、その職務を勤めて水中で死んだ。稷はである。百穀の種まきに勤め、黒水の山で死んだ。」

[四] 『傅子』に言う。杜畿と太僕李恢東安太守郭智は交際があった。李恢の子李豊も俊英たちと交わりを結び、才智によって天下に知られていた。郭智の子郭沖は内実はあったものの外観がよくなかったので、州里では称賛する者がなかった。杜畿が尚書僕射になったとき、二人はそれぞれ子孫の礼を執って杜畿に会見した。(二人が)退出したのち杜畿は歎いて言った。「孝懿には子がない。ただ子がないだけではなく、おそらく家もなくなるだろう。君謀は不死である。その子は彼の業績を継ぐのに充分だ。」当時の人々はみな杜畿が間違いをしたと言った。李恢の死後、李豊は中書令となったが、父子兄弟はみな誅殺された。郭沖は代郡太守となり、ついには父の業績を継いだ。世間ではようやく杜畿が人を知ることに感服した。『魏略』は李豊の父の名を李義と言っており、これと同じでない。李義はおそらく李恢の別名なのだろう。

杜恕伝

杜恕の字は務伯といい、太和年間(二二七~二三三)に散騎・黄門侍郎となった。[一]杜恕は実質をもって真心を尽くし、上辺を飾ることはしなかったので、若いころは誉められることがなかった。朝廷に出仕しても(有力者たちと)交際を結ぼうとせず、公務に専念した。政治上の利害の議論があるたび、いつも国法を引いて正論を主張し、そのため侍中辛毗らは彼の器量を重視した。

[一] 『杜氏新書』に言う。杜恕は若いころ馮翊の李豊とともに父に信任され、総角のころから仲が良かった。二人は成人すると、李豊が名声と行動を研鑽して世俗の名誉を求めたのに対し、杜恕は自由気ままで気持ちに逆らわず、李豊とは趣が異なっていた。李豊はついに一時代に名声を馳せ、京師の士人の多くは彼のために遊説してまわった。要職にある者の中には、李豊の名声が彼の実質を上回っており、一方杜恕は(粗末な衣服)を着て玉を抱いているようなものだ(『老子』)と考える者があった。こうしたことから李豊に恨まれることになった。また杜恕は自然な気持ちに任せ、時流に迎合するための努力は払わなかった。李豊は朝廷に出仕して出世したが、杜恕はまだ家を出ないで泰然自若としていた。明帝曹叡)は杜恕が大臣の子であることから、抜擢して散騎侍郎の官を授け、数ヶ月で黄門侍郎に転任させた。

当時、公卿以下(の諸官)は国益について大いに議論した。杜恕は「古代の刺史は六ヶ条の勅旨を奉り、清らかで落ち着いていることを名誉とし、威風は明らかに称賛されていた。今は(刺史に)兵を率いさせず、民事に専念すべきだ」と主張した。にわかに鎮北将軍呂昭がまた冀州(刺史)を領することとなった。[一]そこで上疏して言った。

帝王の道は民衆を安んじるほど尊いことはありません。民衆を安んじる術は財貨を豊かにすることにあります。財貨を豊かにするというのは本業(農耕)を務めて費用を節約することです。今はまさに二賊が滅びておらず、戦車はしばしば駆り出されておりますが、これは熊虎の士たちが力を発揮するなのです。しかしながら搢紳の(礼装をした)儒者たちは、無理矢理に栄誉が加えられることを望んで、扼腕しながら討論し、『孫呉』(の兵法)を第一としており、州郡の牧守もみな民衆を憐れむ方法を気にかけず、(軍勢を)統率することを行っております。農耕・養蚕の民も干戈の技を競っております。本業を務めているとは言えません。国庫は歳ごとに空虚となっているのに制度は歳ごとに広汎になっており、民力は歳ごとに衰えているのに賦役は歳ごとに盛んになっています。費用を節約しているとは言えません。いま大いなるは十州の地を完全に領有しているのに、騒乱の疲弊を受けて、その戸数を数えても昔の一州の民衆に及びません。それなのに二方面(西の蜀と東の呉)が僭称・叛逆し、北方のはまだ来朝しておらず、三辺で困難に遭遇していることは、天を取り巻いてほぼ繁茂したようなものです。一州の民衆を統治することによって九州の地を経営するのですから、その困難を譬えれば、痩せ馬に鞭打って街道を行くようなもので、その力を愛惜することに不注意でいられましょうか?武皇帝(曹操)の倹約によって国庫は充実しましたが、それでも十州で兵を擁することはできません。郡はまず二十なのです(?)。いま荊・揚・青・徐・幽・幷・雍・涼の辺境諸州ではみな兵を持っております。内に国庫を充実させて外に四方の敵を制する頼りになるのは、ただ兗・予・司・冀に過ぎません。臣は以前、州郡が軍兵を統率すると、軍功ばかりに専心して民事を勤めなくなってしまうので、将軍を別に置いて統治の義務を尽くさせるべき(と申し上げました)。ところが陛下はまた冀州をもって呂昭へのご褒美としました。冀州は戸数が最も多く、田地は多く開墾され、また桑や棗の豊かさがあります。国家が尋ね求めるところには、誠に再び兵事をもって任ずるべきではありません。もし北方に鎮守が必要とされるのでしたら、大将を配備してその鎮定に専念させるべきです。(二人の)官吏を配備する費用を計算すると、(刺史と将軍を)兼官する場合と違いがありません。しかし呂昭は人才においてまだ復易(?)です。我が朝はまことに人材に乏しく、(刺史と将軍の)才能を兼ね備える者は状勢からいって単に多くはないものです。ここから推測すると、国家は人物によって官職を選んでおり、官職のために人物を選んでないことが分かります。官職がその人物を得られれば政治は安定して訴訟は治まります。政治が安定すれば民衆は富み栄え、訴訟が治まれば牢獄は空っぽになります。陛下の践祚されたころ天下の裁決は百数十人でしたが、歳ごとに増加して五百人余りまで上っています。民衆の数は増えておらず、法律の厳しさも増えてはおりません。ここから推測すると、政治・教化が衰退しているのではなく、牧守が(職務に)相応しくないことの明らかな結果でしょうか?先年(穀物を輸送する)牛が死んだおり、天下を通じておよそ十分の二の損害がでました。麦の収穫は半数に及ばず、秋の種まきもまだ始まっておりません。もし二賊が国境地帯に心を動かすことがあれば、を飛ばせて粟を輸送しても千里(の彼方)には届きません。こうした術策に考えを尽くせば、どうして(採るべき政策が)強兵にあると言えましょうか?勇ましい士・強い兵はますます増えておりますが、ますます増えればますます病むばかりです。そもそも天下は人間の体のようなもので、腹心が充実していれば、四肢が病気になっても大きな患いとはならないものです。いま兗・予・司・冀はまた天下の腹心です。これが愚かなる臣が心配し(?)、四州の牧守がひたすら本業を務めて四肢の重荷を支えることを、心から願うところです。さりながら少数意見は支持しがたく、欲望を抑えることは成立しがたく、人々の恨みは放置しがたく、まがい物は分別しがたいもので、それゆえ長年にわたり明君の察するところにはならなかったのです。大体このことを言うのは、ほぼ全てが疎んじられ賎しい者でしたが、疎んじられ賎しい者の言葉は、まことに聴き入れやすくはないものです。もし優れた策を親しまれ貴い者に進言させようとしても、もともと四つの困難は犯しがたいので、忠心・愛情を求めてしまいますが、これは古代から当代まで常に問題となっていることです。

[一] 『世語』に言う。呂昭は字を子展といい、東平の人である。長子の呂巽は字を長悌といい、相国となり、司馬文王司馬昭)の寵愛を受けた。次子の呂安は字を仲悌といい、嵆康と仲が良く、嵆康とともに誅殺された。次子(?)の呂粋は字を季悌といい、河南尹である。呂粋の子呂預は字を景虞といい、御史中丞である。

当時また(人事)考課の制度について大議論をして、内外の諸官について考察することになった。杜恕は、その人物を充分に用いることができなければ、才能があったとしてもまずは無益であり、身に付いたもの(才能)が発揮できないし、発揮できても時代の需要にはあたらないと考えた。上疏して言った。

(尚)書』に「功績によってはっきりと試験し、三度の考課で昇進・降格させた」とありますが、誠に帝王の偉大な制度であります。有能な者をその官職に当て、功績ある者にその俸禄を受けさせることは、譬えていえばちょうど烏獲が千鈞を持ち上げ、(王)良・(伯)楽が駿馬を選び分けるようなものです。六代を重ねたとはいえ実績考課の法律は著されず、七聖人を経ても試験考課の制度は示されませんでした。臣は誠にその法律には大まかに依拠するべきと考えます。その詳細をつぶさに挙げるのが困難だからです。に「世に乱れた人がいても乱れた法はない」と言います。もし法律にばかり任せることができるのなら、唐(堯)・虞(舜)稷・契の補佐を待たなくてもよかったでしょうし、殷・周伊(尹)・呂(尚)の輔弼を貴ばなかったでしょう。いま実績考課について奏上する者たちは、周・漢の法律・為政を陳述し、京房の主旨を綴っておりますが、考課の要点を明らかにしていると言ってよいでしょう。(しかし)謙譲の美風を尊び、澄み渡った治世を興すためには、臣はまだ最善を尽くしていないと考えます。州郡に士を考課させようとした場合、必ず四科によって行うものですが、みな職務で功績を立てたのち観察して推挙し、試験的に三公の府(役所)に招いて民衆に親しむ長官とし、功績の順次に従って転任させて郡守に補任しますが、あるいは俸禄を増やして爵位を賜うこともありまして、これが考課の急務の最もたるところです。臣は考えますに、その身を顕官にあて、その言葉を用いる際には、州郡の法律を課すことを準備とさせ(?)、法律を細かく施行し、必ず賞する信頼を確立し、必ず罰する行政を施します。三公九卿や内務担当の大臣についても、またみながそれぞれの職務をもって考課されるべきです。

古代の三公は坐って道を論じ、内務担当の大臣は提言を納めて欠を補い、記録されない善はなく、検挙されない過ちはありませんでした。そのうえ天下は極めて大きく、万機(政治的なさまざまな職務)は極めて数多く、まことに一つの灯明によってあまねく照らすことはできるものではありません。だから君主を元首とし、臣下を股肱として、それらが一体となり助け合って成立していることは明らかなのです。これを古人は「廊廟の材は一本の木の枝によるものではなく、帝王の業は一人の士の計略によるものではない。」と言っているのです。このことから言えば、大臣が職務を守って考課を取り仕切ることで、平和で輝いた世を築くことができるものでしょうか!そのうえ布衣(無官の者)の交わりでさえ、なお信義・誓約に務めて水火に踏み込み、知己に感激して肝胆を開き、名声を求めて節義を立てるものです。ましてや帯を締めて朝廷に参内し、官位が九卿や宰相に到達するのであれば、務めはただ匹夫の信義に留まらず、感ずるのはただ知己の恩恵に留まらず、求めるのはただ名声に留めて充分でありましょうか!

 もろもろの恩寵を被り重任を受ける者は、ただ明君を唐・虞の上に挙げただけで満足するのではありません。(我が)身もまた稷・契の列に仲間入りすることを望んでいるのです。これは古人が、治世への思いが遂げられなかったことを心配せず、責任を負う意志が不足していたことを心配しましたが、それはまことに人主が彼らをそうさせたのでした。唐・虞といった君主は、稷・契・虁・龍に委任して成功をうながし、罪を追求する場合にはを処刑して四凶を追放しました。いま大臣は親しく詔書を奉って眼前にお仕えしておりますが、朝から夜まで公務につとめ、謹厳として自立し、職務に当たっては貴人や権勢に尻込みせず、公平さを心がけて私的な関係におもねらず、高潔な言行でもって朝廷に出仕する者は、おのずと明君の察するところとなります。もし俸禄をもらいながら仕事を怠ることを高尚とし、手をこまねいて沈黙することを智慧とし、職務に当たっては責任逃れの態度をとり、朝廷に出ても保身することを忘れず、清潔な行動やへりくだった言葉で朝廷に出仕する者も、また明君の察するところとなります。まことに、我が身を守って官位を保つ者が追放の罪とならず、節義を尽くして公務につとめる者が疑われる情勢があるなら、公的な義務は修められず、私的な議論が習俗となってしまい、仲尼(孔子)が計略を立てたとしても、一人の才能さえ尽くさせることはできません。ましてや世俗の人間であってはなおさらです!今の学者は商子・韓非子を師として法学を尊び、競って儒家を迂闊なものとして世の需要には不充分だとしております。これが風俗の古くからの弊害の最もたるところであり、創業者の慎みを尽くすところであります。

のちに考課はとうとう行われなくなった。[一]

[一] 『杜氏新書』に言う。当時、李豊は常侍となり、黄門郎袁侃は転任して吏部郎となり、荀俁は出向して東郡太守となっていたが、三人はみな杜恕の(黄門侍郎時代の)同僚で仲が良かった。

楽安廉昭は才能によって抜擢され、政事をうことが非常に好きだった。杜恕は上疏して口を極めて諫めた。

伏して見ますと、尚書郎の廉昭は上奏して、(尚書)左丞曹璠は罰するにあたって関(報告)すべきなのに詔勅に従わなかったとして、即座に判問(判断と問責)をしております。また「連坐している者どもについては別途上奏いたします」とも言っております。尚書令陳矯は自ら上奏して、あえて処罰を辞さない、また重んじられているからといってあえて恭しい態度は摂らないと言っており、意志は誠実を極めています。臣は密かに哀れに思い、朝廷のために彼を惜しむものです!そもそも聖人は時代を選ばずに興隆させ、民衆を代えずに統治するものですが、立ち現れてから必ず賢者・智者の補佐があるのは、思うにそれを推進するとき道義をもってし、それを統率するとき礼儀をもってするからでしょう。古代の帝王がよく時代を助けて民衆を治められた理由は、遠くは百姓の歓心を得、近くは羣臣の智力を尽くさせたことに他なりません。誠に、本朝において職を任された臣が全て天下の人選であったとしても、その力を尽くさせることができなければ、よく人を使役したと言うことはできません。もし天下の人選でないとすれば、やはりよく人を任用したと言うことはできません。陛下は万機に御心を傾けられ、あるときは灯火に親しんで(夜もお勤めになって)おられますが、物事全てを解決することはできず、規則は日に日に弛緩しております。(補佐する者が)股肱に相応しくないことの明証でないでしょうか?その理由を推し量ると、ただ臣下が忠節を尽くさないだけでなく、君主もまたよく使役できないことにもあります。百里奚で愚者でしたがで智者となり、予譲中行にはおざなりに寛容でしたが智伯には節義を顕しました。これが古人による明証です。いま臣が朝廷あげてみな不忠であると言えば、それは朝廷の誣告になります。しかしそうした類のこと(みな不忠であること)は、推察すれば得られる(結論な)のです。陛下には国庫が充実していないのに軍事が終息しないことをお感じになり、そこで四季に割り当てられた御服をお断ちになり、御蔵に御私蔵の穀物を薄くされました。(それらは羣臣の意見ではなく)聖意の思し召しによるものであり、朝廷を挙げて明断であると称賛されております。(それなのに)政事に従う側近の大臣のうち、それ(国庫の不足)について心から憂慮する者があったでしょうか?

騎都尉王才とご寵愛の楽人孟思は不法を働き、京都を震動させました。しかし彼らの罪状を告発したのは小役人に過ぎず、公卿の大臣ははじめ一言もなかったのです。陛下の践祚以来というもの、司隷校尉・御史中丞が国法を掲げて犯罪者を取り締まり、朝廷を粛然とさせたことがあったでしょうか?もし陛下におかれて、当世に良才がおらず、朝廷に賢臣が乏しいと思し召されるとしても、どうして稷・契の足跡を遙かに追慕し、坐したままで来世の儁英をお待ちでいられましょうか!いま賢者と呼ばれている者は、全て高官に就いて高禄を享受しておりますのに、お上を奉る忠節はいまだ成し遂げられておらず、公務に向かう心も専一でありません。それは委任の重責に専念せず、そのうえ風俗に禁忌が多いためです。臣は愚考いたしますに、忠臣は必ずしも寵愛されておらず、寵臣は必ずしも忠勤しておりません。なぜでしょうか?彼ら(寵臣)が嫌疑のない立場にあって仕事では存分に振る舞えるからです。いま遠ざけられている者があって、人を貶しながらその嫌疑が事実でなかったら、必ずや私情によって憎んでいる者に仕返しをしたと言われるでしょうし、人を誉めながらその栄誉が事実でなかったら、必ずや私情によって親しい者に目を掛けたと言われるでしょう。左右の者のなかには、これにかこつけて愛憎の説を進言してくることでしょう。それはただ貶したり誉めたりすることだけでなく、政事の利害について(語るとき)も、やはりみな嫌疑を掛けられてしまうのです。陛下の思し召されるべきは、朝臣の心情をはっきりと広げ、有道の節義を手厚く励まして、彼らが進んで古人に倣い、竹帛をともにすること(古人とともに歴史書に名を記されること)を望むようにさせるだけです。かえって廉昭のごとき者に(君臣の)間を混乱させますのは、しまいに大臣たちが身体と官位の保存に努めて、坐ったまま得失を傍観することとなり、それが(悪い例として)来世の戒めとなることを臣は恐れるのでございます!

むかし周公魯侯を戒めて「大臣たちが用いられないと恨むことのないように」と言いましたが、(大臣の)賢愚について言わないのは、明らかにみなが当世に役立ったからです。の功績を数え上げ、四凶を取り除いたことを称えましたが、(功績の)大小について言わないのは、罪ある者が(自分で)去っていくからです。いま朝臣は自分に能力がないとは考えず、陛下にご任用されないのだとし、自分に智慧がないとは考えず、陛下にご下問されないのだとしています。陛下にはなぜ周公のなさった任用や大舜のなさった除去に従われないのですか?侍中や尚書たちを使って、坐っているときには帷幄に侍らせ、行くときには御車に従わせ、親しくご対面のうえご下問なさり、陳情するところが必ず上聞に達せられれば、そうなると羣臣の行いは、みな優劣が知られるようになります。忠義で能力ある者は進められ、暗愚で劣っている者は退けられ、あえて誰が曖昧な態度を執って存分に振る舞えないことがありましょうか?陛下の聖明さをもちまして、親しく羣臣と政事を議論なさり、羣臣をして人に自分の推進することを叶えさせれば、人は自分が寵愛されてると考え、人は(ご恩に)報いることを思い、賢愚や優劣は、陛下の用いられるがままになります。これによって統治を行えば、この功績を成し遂げるのに何事の不弁別がありましょう。軍事あるごとに何事の不成功がありましょう。詔書ではいつも言っております。「誰がこれを憂えるべき者か?吾が自ら憂えるべきのみなのだ。」近詔でもまた言っております。「公務に心配して私事を忘れるというのは必ずしも当たっていない。ただ公務を先にして私事を後にするだけだ。そうすれば自ずと弁別できるものだ。」伏して明詔を読みますれば、聖思が下々の情勢に行き届いていることが知られました。しかしまた陛下がその根本をご存じなく、末節を心配なさっておられることを不審に思いました。人の優劣は実に本性に基づくもので、臣でさえも、また朝臣が全てが職務に相応しいわけではないと考えるのです。明君が人を用いることは、有能な者にはあえて実力を残させず、そして能力乏しい者には耐えられない任務に就けないようにします。(現在の状況では)その(職務に相応しい)人物でない者を選んだとしても、まだ必ずしも有罪とはされません。朝廷をこぞって相応しくない人物を容認して、それでやっと怪しからんことだとするのです。陛下は、彼が尽力しないことをご存じになったとき、彼を交替させてその職務について心配され、彼の能力が乏しいことをご存じになったとき、彼を教育してその事案を治めておられますが、どうして主君だけが苦心して臣下がのんびりしていられるのでしょうか?聖人・賢者が世に並び現れたとしても、こうしたことではついに統治することは不可能なのです。

陛下にはまた外台・内閣の禁令が綿密でないことや、人事がそれを嘱託することが絶えないことをご憂慮され、伊尹(?)にお聴きになって来客の接待や出入りの制度を作り、司徒の選任と汚吏の更迭によって寺門を守らせ、威令・禁制はこれを頼みとしておりますが、実際に禁令の根本とするにはまだ不充分です。むかし安帝の御代、少府竇嘉廷尉郭躬の無罪の兄の子を招聘したとき、それでもなお上奏文が挙げられ、文章による弾劾は紛々としておりました。近くは司隷校尉孔羨大将軍の狂ったように身勝手な弟を招聘したとき、担当者は沈黙するばかりで、命令を待って指図されることを願い、嘱託を受けたときよりひどくなっておりました。選任推挙が実力をもってなされないのは人事の大問題です。[一]竇嘉には親戚の恩寵があり、郭躬は社稷の重臣ではありませんでしたが、それでもなおこうした有様だったのです。現在の状況を古代にあてはめてみますと、処罰徹底を督促して阿諛迎合する輩の根源を断ち切ることを、陛下ご自身ではなさらなかったということになります。伊尹の制度(前出)が、汚吏に門を守ることを許すのは、治世の備えではありません。臣の言葉が少しでもお聞き入れ下されたなら、どうして悪事が削減されないことを心配して、廉昭ごとき連中を養ってやることがありましょうか!

 そもそも悪事を摘発することは、忠義なことです。しかし小人(廉昭ら)がそれを行うことを世間が憎むのは、彼らが道理を顧みず、いやしくも保身栄達を求めているからです。もし陛下におかれて一部始終をふたたびご考慮なされず、必ず人々に背いたり世間に逆らったりすることを公務を奉ることだとなさり、密かに行って人に報告することを節義を尽くすことだとなさるのであれば、どうして精通した人物の偉大な才能があるのに、さらにこれを行えないことがありましょうか?誠に道理を顧みてそれをしないだけなのです。天下の人々をみな道理に背かせ、利益に走らせてしまうのは、人主の最も心配することなのに、陛下は何を願っておられるのでしょうか。どうしてその萌芽を絶とうとはなさらないのですか!そもそも、御心に先んじて勅旨を承り、それによって受け入れられたり誉められたりするのは、ほとんど全てが天下の浅薄で道義を行わない者たちです。彼らの意図は人主の御心に適うことのみを務めとし、天下を治めて百姓を安んじようと願ってはおりません。陛下におかれては、どうして事業の転換を試みてそれを示そうとはなさらないのですか。彼らが守ろうとしていることに固執して聖意を違えることなどありましょうか?そもそも人臣が人主の心を得ようとするのは保身であり、尊貴な官に就くことは栄達であり、千鍾の俸禄を食ませることは充実です。人臣が愚かであるとはいっても、これらを願わずに逆らうことを喜びとする者は未だにおりません。道義に迫られて自ら努めるだけです。誠に愚考されますのは、陛下にはご憐憫されて彼らを手助けされ、少しは委任なさるべきです。それを却って廉昭らの傾いた意図を気にかけておられますが、どうしてこのような人物をお忘れにならないのですか?いま外には隙を窺う賊があり、内には貧しい民があります。陛下におかれては天下の損益、政事の得失を大いに計られるべきであり、誠に懈怠すべからざることであります。

杜恕は朝廷にあること八年、その議論の剛直さは、みなこうした類であった。

[一] 臣裴松之は考える。大将軍とは司馬宣王司馬懿)のことである。『晋書』に言う。「宣王の第五の弟は名を司馬通といい、司隷従事となった。」杜恕の言う「狂ったように身勝手な者」であろうと疑われる。司馬通の子司馬順龍陽亭侯に封ぜられた。が初めて受禅したとき、天命を悟らず、節義を守って心を変えなかったため、爵位・封土を削減されて武威に転封された。

出向して弘農太守となり、数年で趙国に転任したが、[一]病気のため官を去った。[二]家を出て(平民から)河東太守となり、一年余りで淮北都督護軍に昇進したが、また病気のため去った。杜恕は在職するにあたり、大体のことを務める以上はせず、その恩恵を樹立して、いよいよと百姓の歓心を得ることでは杜畿に及ばなかった。しばらくして御史中丞の官を授けられた。杜恕は朝廷にいるとき、「当世の和」に適合せず、そのためにしばしば外の任務に出されることになった。また出向して幽州刺史となり、建威将軍の官を加えられ、使持節護烏丸校尉となった。当時、征北将軍程喜に駐屯していたが、尚書袁侃らは杜恕を戒めて言った。「程申伯(程喜)は先帝の御代にあって、青州田国譲(田予)を失脚させたことがある。いま足下はともにを杖突き、ともに一つの城に駐屯することになったが、よくよく慎重にして彼を待遇すべきですぞ。」しかし杜恕は意に介さなかった。官に就いて一年にならぬうち、鮮卑の大人の子供が関塞(関所)に立ち寄らず、数十騎を率いてそのまま州役所に出頭したことがあった。州(刺史の杜恕)はやってきた幼い子供一人を斬ったが、上表して言上することはしなかった。そのため程喜は上奏して杜恕を弾劾した。(杜恕は)廷尉に下され、死罪に相当したが、父杜畿が職務に殉じて水死したことを理由に赦免され、庶民として章武郡に流された。この歳は嘉平元年(二四九)である。[三]杜恕は自由気ままに振る舞い、災いを防ごうとしない考えだったので、とうとうこの失敗に陥ったのである。

[一] 『魏略』に言う。杜恕は弘農にあって寛容さと恩恵を施していた。転任することになると、孟康が杜恕に代わって弘農(太守)となった。孟康は字を公休といい、安平の人である。黄初年間(二二〇~二二七)、后にとって外属(姉妹方の親戚)の関係を持っていたことから、一緒に九親の待遇を受け、そのまま転じて散騎侍郎となった。当時、散騎の官はみな高い才能・秀でた儒者によって人選していたが、孟康だけは女房衆との縁によって彼らの中に混じっていたので、当時の人々はみな彼を軽蔑して「阿九」と呼んでいた。孟康はすでに才敏なく、暇な官職だったので、手広く書伝を読み、のちに批判弾劾することがあったが、彼の文章が雅やかであるうえ要点を押さえていたので、そこで人々は改めて敬意を深めた。正始年間(二四〇~二四九)に出向して弘農(太守)となり、典農校尉を領(兼務)した。孟康は官職に就くと、自己を清らかにして職務を奉り、善行を評価する一方、それができない者に憐れみをかけ、訴訟沙汰を減らし、住民の欲望に寄り添い、それによって彼らに利益を与えた。郡では二百人余りの役人を抱えていたが、春になると休暇をやり、いつも四分の一に(休暇を)やっていた。職務にあたって決断をなおざりにせず、ときに外出して巡察するときも、いつもあらかじめ督郵に命じて水を治めさせ、属官たちが使者を出してご機嫌伺いをしたり、無理に敬意を繕うようなことはさせなかった。また官吏・人民が煩うことを望まず、いつも役人たちには事前に命令して、巡行のさいは各自が鎌を持参し、道中は自分たちで馬草を刈ることとし、駅舎には宿泊せず樹木の下で野宿した。また従者はいつも十人余りを越えることはなかった。郡は街道に面していたが、そこを通過する賓客たちに、公法の範囲を超えて(路銀を)支給することはなく、旧知が彼のもとにやって来たときも、彼の家計から出費し(て路銀の足しにし)た。孟康が初めて(太守に)就任したとき、人々は、彼が志と器量を持っていることは知っていたが、彼が宰相・州牧を経験したことがなかったので、能力を保証することはできなかった。しかし孟康の恩沢と統治はこうした有様だったので、官吏・人民は歌にして称えた。嘉平年間(二四九~二五四)末期、渤海太守であったが中央に召されて中書令となり、のち(中書)監に転任した。

[二] 『杜氏新書』に言う。杜恕はそのまま京師を去り、(弘農郡の)宜陽県に一泉塢という砦を築いたが、その城壁塹壕が堅固であったので、大小の家々ができた。明帝が崩御したとき、人々の多くが杜恕のために発言してやった。

[三] 『杜氏新書』に言う。程喜は杜恕が意志を曲げて自分に謝るように望み、それを司馬宋権にほのめかしてそれとなく意向を表した。杜恕は宋権に答えて手紙で言った。「委曲を尽くして頂いた趣であります。そもそも天下の事に従うなら、善意をもって待遇すれば快楽の至らぬことはありませんし、悪意をもって待遇すれば仲違いしないことはありません。それなのに議論する者たちは言います。おおよそ人間は生まれつき皆が善人ではなく、善意で待遇してさらに彼らの術中に陥るべきでない、と。僕はこうした輩に出会うと、すぐさま青海原を踏み越え、に乗って帰りたいと思うだけで、彼らの間にいて自ら打ち解けるようなことはできません。しかし五十二歳になって見捨てられることもなく、不公平ながら、また明達した君子に遭遇すればその本心を明らかにしております。もしお察し頂けないとすれば、他人に心臓をえぐられて地面に捨てられ、正に数斤の肉と似たようなもので、どうして明らかにすることができましょうか。だからこそ結局は自分からは(本心を)解説しないのです。程征北(征北将軍程喜)の功名は長年顕著であり、僕の先を行くことは非常に多大であって、征北を出し抜く人がありましょうか!案件の大小を問わず、もし部下が相談したあと実行するなら、それは上司による制御の意志から外れますし、もし相談したのに従わないのなら、やはりまた上下相互の順応という便宜に外れます。だからこそ一心を推進して一意に任せ(独断によって)、ただちにそれを実行したまでです。を殺した事についてですが、天下がそれを「是」と言うのであれば、それが僕の喜びです。声を挙げて「非」を打ち鳴らすのであれば、僕は自らそれを受け入れ、怨んだり咎めたりはいたしません。程征北がこれを明らかにするのもよいでしょうし、明らかにしないのもまたよいでしょう。諸々の君子たちが自ずとその心に同調してくれるでしょう。僕の言葉(は問題)ではありません。」程喜はこれによって、とうとう厳しく文書によって杜恕を弾劾することになった。

むかし杜恕が趙郡から帰還したとき、陳留阮武もまた清河太守から召し返され、一緒になって自分から廷尉に迫った。(阮武は)杜恕に言った。「お姿を拝見すると、才覚・性質は公の道に従うことができますのに、それを保持して磨かれておりません。器量・能力は高い官に就くことができますのに、それをお求めになるのは順当でありません。才知・学識は古今を述べることができますのに、それを志すにあたって専心なさっておりません。これはいわゆる才能がありながら実用にならないというものです。いま暇な時間ができそうですから、試みとして思索に耽り、一家言を成し遂げてみるべきでしょう。」(配所の)章武にいたとき、ついに『体論』八篇を著した。[一]また『興性論』一篇を著したが、おそらく自己を成り立たせている(本質の)ものを勃興させたのである。(嘉平)四年、配所で卒去した。

[一] 『杜氏新書』に言う。思うに、人倫のおおもとは君臣ほど重いものはなく、立身出世の基本は言動ほど大きいものはなく、お上を安んじて民を治めるには政治・法律ほど精密なものはなく、破壊に打ち勝ち殺戮を取り除くには用兵ほど善なるものはない。そもそも「礼」というものは万物の体(本質)であり、万物がみなその体を会得したならば、不善などというものはなくなるのだ。だからこれを『体論』と名付けるのである。

甘露二年(二五七)、河東の楽詳は年齢九十余歳だったが、上書して杜畿の遺業を訴えたところ朝廷は感銘した。詔勅によって杜恕の子杜預を封じて豊楽亭侯とし、所領を百戸とした。[一]

[一] 『魏略』に言う。楽詳は字を文載と言う。若いころから学問を好み、建安年間(一九六~二二〇)初め、楽詳は公車司馬令南郡謝該が『左氏伝』を得意としていると聞き、そこで南陽から歩いて謝該を訪問し、疑問点について訊ねたり諸々の要点を批判したりした。現在の『左氏楽氏問七十二事』は楽詳が編纂したものである。質問が全て終わると郷里に帰ったが、当時、杜畿が太守となっていて、やはり大変な学問好きで、楽詳を文学祭酒の任にあてて後進を指導させた。そのため河東郡では学業が大いに勃興した。黄初年間(二二〇~二二七)になって中央に召されて博士の官を授かった。当時は太学が創立されたところで、博士は十人余りいたものの(彼らの)学問は偏ったり視野が狭いところが多かった。そのうえ真理を理解しておらず、ほとんどは自分で指導することもせず、ただ頭数を揃えるだけであった。ただ楽詳だけが五業を全て教授し、その難解な箇所について質問して(学生が)理解できなかったときも楽詳は嫌な顔もせず、杖で地面に図を描き、比喩をしたり類例を引いたりして、寝食を忘れ(て解説し)た。そのため遠近を問わず名声を独り占めした。楽詳の学業はすでに精密さを極めており、また星と星の運行を計算することが得意であったので、格別に詔勅を拝受して、太史(令)とともに律歴を定めることになった。太和年間(二二七~二三三)、転任して騎都尉の官を授かった。楽詳の学業は優れていたが能力は乏しく、そのため(魏武帝・文帝・明帝の)三代を歴ても、とうとう出向して国相・太守となることはなかった。正始年間(二四〇~二四九)にいたり、老年を理由に官を退いて家に帰ったが、故郷の宗族は彼に帰服し、門徒は数千人になった。

杜恕が上奏した提議・論駮はみな見所があり、その(なかでも)世情に切実な重大事を(選んで)綴り、篇(杜恕伝)に記しておいた。[一]

[一] 『杜氏新書』に言う。杜恕の弟杜理は字を務仲という。幼いころから物事の本質を察知するに機敏で、杜畿はそれに驚いた。だから彼を「理」と名付けたのである。二十一歳のとき卒去した。弟杜寛は字を務叔という。清楚・幽玄であり、利発であったが古いものを好んだ。名臣の一門であったので幼いころから京師で成長したが、志は篤く博学で、世俗の務めを絶ちきった。彼の気持ちは『索隠』を探究することにあった。それによって名声を顕し、政治の要人の多くが交わりを結んだ。孝廉に推挙されて郎中に叙任されたが、四十二歳で卒去した。経伝の意義について議論・反駁することが多かったが、いずれも草稿の段階であって完成することはなかった。ただ『刪集礼記』と『春秋左氏伝解』だけは世間に現存している。杜預は字を元凱といい、司馬宣王(司馬懿)の女婿である。王隠の『晋書』は称する。杜預の智謀が幅広く深く、混乱を収めることに明るく、つねづね「徳というものは企図するものではない。功績を打ち立て一家言を打ち立てることこそ願うところである」と語っていた。あまたの書籍にざっと目を通し、「『公羊』『穀梁』は詭弁である」、また「過去の儒学者たちの『左氏伝』の解説は左丘明の意図を理解できておらず、そのため(公羊・穀梁の)二つの伝が横行して(『春秋』の理解を)混乱させている」とも言っていた。そこで微妙な言葉をちりばめて『春秋左氏経伝集解』を著し、また諸家を参考して、それを『釈例』と名付けた。また『盟会図』『春秋長歴』を作り、一家の学問(杜預独自の学派)を完成させ、老年になってようやく成就した。尚書郎摯虞はこれをはなはだ尊重して言った。「左丘明は本来『春秋』のために伝を作ったが、『左伝』はついに単独で行われることになった。『釈例』は本来『左伝』のために設けられたが、発見・証明したことはどうして『左伝』だけであろうか。そうしたことからやはり単独で行われるだろう。」杜預は晋王室に対して大いに功名を挙げ、官位は征南大将軍にまで昇り、開府し、当陽侯に封ぜられて、所領八千戸をんだ。子杜錫は字を世嘏といい、尚書左丞である。『晋諸公賛』に言う。杜嘏には器量があった。杜預の従兄杜斌は字を世将といい、やはり才能・人望があって黄門郎となったが、趙王司馬倫に無実の罪で殺された。杜嘏の子杜乂は字を洪治という。幼くして令名があり、丹陽(郡)丞となったが早くに卒去した。阮武という者も、また枠にとらわれない大きな才能であった。『阮氏譜』を調べると、阮武の父阮諶は字を士信といい、お召しを受けても官に就かず、『三礼図』を造ったが世に伝えられているとある。『杜氏新書』に言う。阮武は字を文業といい、闊達で物知り、深い雅心をもった人物だったが、官位は清河太守で止まってしまった。阮武の弟阮炳は字を叔文といい、河南尹である。医術に意を注いで、『薬方』一部を編纂した。阮炳の子阮坦は字を弘舒といい、晋の太子少傅平東将軍である。阮坦の弟阮柯は字を士度という。荀綽の『兗州記』に言う。阮坦は家を出て伯父(の家)を継いだ。(彼が)亡くなると、次兄が爵位を襲うべきであったが、父は阮柯を愛し、名指しして彼に継がせたので、ついに封地を受け継ぐことになった。当時は幼小であったため辞退することができなかったが、成長するにおよんで後悔し、ついに幅巾で(隠者として)暮らし、のちに出仕することになっても止めることはなかった。性質は純粋誠実かつ物静かで上品、礼儀を好んで踏み外すことなく、心は経典の戒めにあり、博学にして見聞が広かった。選抜されて濮陽王文学となり、転任して領軍長史となったが、在官のままくなった。王衍は当時の領軍であったが、彼のために哭(声をあげて泣く儀式)をして深刻に泣き叫んだ。

鄭渾伝

鄭渾文公といい、河南開封の人である。高祖父の鄭衆、鄭衆の父鄭興はいずれも名高い儒者となった。[一]鄭渾の兄鄭泰荀攸らとともに董卓誅殺を計画し、揚州刺史となって卒去した。[二]鄭渾は鄭泰の幼子鄭袤を引き連れて淮南に避難したが、袁術が取った賓客の礼はきわめて厚いものであった。鄭渾は袁術が必ず失敗することを悟った。当時、華歆予章太守となっており、もともと鄭泰と仲が良かったので、鄭渾はそこで長江を渡って華歆に身を寄せた。太祖曹操)は彼の篤実な行いを聞き、召し出してとし、また下蔡県長邵陵県令に昇進させた。天下は未だ平定されておらず、民衆はみな軽々しく振る舞って殖産を顧みなかった。彼らは子供が生まれても活かそうとせず、みな大体は取り上げないのだった。鄭渾は赴任先で彼らの漁猟の道具を没収し、耕作・養蚕に従事することを強制し、また同時に稲田を開発させ、堕胎(禁止)の法律を厳しくした。民衆ははじめ処罰を恐れて(従って)いたが、のちに段々と豊かに満ちみち、(財産の)充足しない者はなくなった。育てられた男女の多くは「鄭」という字を付けた。招かれて丞相掾属となり、左馮翊(太守)に昇進した。

[一] 『続漢書』に言う。鄭興は字を少贛といい、諫議大夫であった。鄭衆の字は子師といい、大司農であった。

[二] 張璠の『漢紀』に言う。鄭泰は字を公業といった。若くして才略があり、計略を多く立てたが、天下が乱れようとしていることを悟り、密かに豪傑たちと交じわり結んだ。家は財産に恵まれており田は四百頃もあったが、(多くの食客を抱えていたため)食物はいつも不足し、名声は山東に聞こえた。孝廉に推挙されると三公の府(役所)から招かれ、公車で徴し出されたが、いずれにも就かなかった。何進は政治を補佐するようになると名士を徴用し、鄭泰を尚書侍郎とし、奉車都尉の官職を加えた。何進は黄門宦官)を誅殺しようとしたとき、董卓を召し出して助力させようとしたが、鄭泰は何進に言った。「董卓は強力残忍で道義を軽んじ、意志は貪欲で飽くことを知りません。もし彼に朝政を預けて大事を委ねるなら、その心の赴くままに振る舞って朝廷を危険に陥れるでしょう。明公の威信・徳義をもってして、阿衡伊尹)なみの重任を占拠なさり、意志を固持して独断を下し、罪人どもを誅殺・排除なさいませ。まことに董卓を待って後援とするまでもありませんぞ。それに計画を先延ばしにして変事が生じることは、その見本は遠い(昔の)ことではありますまい。」さらに時勢の要務について陳述したが、何進は用いることができなかった。そこで官職を棄てて立ち去った。潁川の人荀攸に言った。「何公(何進)を補佐するのも容易でないな。」何進は程なく殺害され、董卓は果たして実権を独占して帝(少帝劉弁)を廃した。関東で義兵が起こると、董卓は会議上で大々的に軍隊を動員しようとしたが、群臣はみな董卓を憚って、敢えて逆らう者はなかった。鄭泰は彼が強力になると、ますます制御しがたくなることを恐れ、そこで言った。「そもそも秩序は徳にあり、兵にあるのではございません。」董卓は不愉快になって言った。「こんな有様なのに兵が無益だというのか?」人々のうち顔色を変えない者はなく、鄭泰のために震えおののいた。鄭泰はそこで詭弁で答えた。「無益だというのではなく、山東に兵を出すまでもないというのです。いま山東では語らって兵を起こそうとし、州郡は互いに連合して人々も互いに連繋しており、不可能ではないと思っています。しかしながら中国は光武帝以来、鶏が鳴いたり犬が吠えるほどの騒ぎもなく、百姓たちは戦争の日々を忘れて久しいのです。仲尼孔子)の言葉に『民衆を教育せずに戦わせること、それを彼らを棄てると言うのだ』とありますが、たとえ大勢であっても侵害することはできますまい。(これが)第一(の理由)です。明公は西方の州よりお出でになり、若くして国家の将軍となられましたが、平時は軍事調練を行い、しばしば戦場に足を踏み入れられ、名声は当世において称賛されております。それによって民衆を威圧し、民衆のほうも懐き畏服しております。第二です。袁本初袁紹)は公卿の子弟であり京師で生まれ、体長は婦人なみですし、張孟卓張邈)は東平の長者であり、居座ったままで堂を窺うことはなく、孔公緒孔伷)は清らかな談議、高邁な議論が得意で、枯木にふっと息をかけたり生木にはっと息をかけたりしておりますが、軍帥の才能はなく、霜露の任務に耐えたり、矛先を前にして白刃に飛び込み、敵と雌雄を決することにかけては、みな明公に敵いません。第三です。山東の士を観察しますと、膂力は馬にまたがり弦を引き、勇気は孟賁に等しく、敏捷さは慶忌にならび、聊城の守備のような信義を持ち、張良・陳平の謀計のような策略を持ち、一師団を任せて成功の責任を負うべき人物は、まだ彼らからは聞こえてきません。第四です。もしそんな人物がいたとしても、王の爵位を与えず、嫁と姑の位置も定まらなければ、おのおのが数と力をたのみ、人々には棊跱して勝敗を傍観させ、心を同じくして肝胆を共にし、旅団を率いて行軍することを承知しません。第五です。関西の諸郡は上党・太原・馮翊・扶風・安定と北に隣接し、近日以来しばしば族どもと戦い、婦女たちは戟を戴き矛を挟み、弦と弓は矢を負っており、ましてやその屈強な夫なのですから。彼らによって山東の戦いを忘れた民にぶつかるのですから、譬えるなら羊の群れを駆り出して虎狼に向かわせるようなもので、その勝利は確実です。第六です。そのうえ天下の権勇といえば、いま存在する者を見ても匈奴屠各湟中義従・八種の西羌を上回る者はなく、みな普段から百姓たちに畏服されておりますが、明公は仮に爪牙となさっておられ、勇壮な男たちが震えおののいているのですから小悪党ならなおさらです!第七です。また明公の将帥はみな内外(董氏一門とその他)の腹心であり、奔走する日々は久しく、三原・挟口(の戦役)以来、恩愛・信義は手厚く明らかで、忠誠は遠方を任せるに充分、智謀は特別に働かせるに充分、彼らをもって山東の解散し合流するでたらめに当たるのですから、実際相手になりません。第八です。そもそも戦いには三つの滅亡がありまして、混乱によって秩序を攻める者は亡び、邪悪によって正義を攻める者は亡び、叛逆によって順正を攻める者は亡ぶのでありますが、いま明公は国政に携わって平定し、族を討伐して宦官を悪とし、忠義を打ち立てておられ、三つの徳をもって三つの滅亡を待ち受けるのですから、勅旨を奉じて罪人どもを討伐するならば、あえて誰が防げましょう。第九です。東州には鄭康成鄭玄)がおり、学問は古今に該博で、儒学者たちの寄り集まるところであり、北海邴根矩邴原)は清廉・高潔・正直・明亮でして、多くの士の模範となっておりますが、かの諸将がもしその計画を相談したならば、経典を調べて強弱を比較し、燕・趙・斉・梁が盛んでなかった訳でもないのに最後はに滅ぼされ、呉・楚の七国が大勢でなかった訳でもないのにそれでも熒陽を越えることができず、ましてや今の徳政の赫々たるさま、手足となる者たちの国家の良臣ぶりなのですから(鄭玄・邴原はきっと山東の計画を批判します)、混乱を起こそうとして不義を願う者たちは、きっとその通りだとは賛成せず、(彼らを殺害するという)不吉な謀略を働くでしょう。第十です。もし十のうち少しでも採用すべきことがあれば、軍隊を動員して天下を驚かせることによって、兵役に就く民衆を患わせ、互いに集まって違法行為を働き、御徳を棄てて多勢をたのみ、ご威光の重々しさを軽んじさせるような真似をさせられませぬように。」董卓はやっと喜んで鄭泰を将軍にし、諸軍を統率させて関東を撃たせた。ある人が董卓に言った。「鄭泰の智略は人並み以上であるのに結託して山東と陰謀を立てております。いま彼に人馬を供給してやるのは、かの連中に味方させるようなものです。密かに明公のために心配しております。」董卓は彼から兵馬を没収し、(朝廷に)留めて議郎の官職を授けた。後にまた王允とともに計画して一緒に董卓を誅殺したが、鄭泰は脱出して武関から逃走し、東方に行って帰還した。後将軍袁術が揚州刺史にしようとしたが、まだ官職に就かないうちに道中で卒去した。当時、四十一歳であった。

当時、梁興らが官吏・人民五千家余りを連れ去って侵害を働いたが、諸県は防ぐことができず、(諸県の役人は)みな恐怖を抱いて郡の治府に身を寄せていた。意見する者は全て移して要害に籠らせようと主張したが、鄭渾は言った。「梁興らは敗れて散らばり、山の険しさに身を隠している。従う者がいるといっても脅迫されて従っているだけだ。今は降服への道を広く開いてやり、恩愛・信義をもって説得すべきだ。要害に頼って守りを固めるのは我らの弱みを示すことになる。」そこで官吏・人民をかき集めて城郭を修理し、防御の備えをした。そのあと民衆を徴発して賊を駆逐させ、賞罰を明らかにし、彼らが得たもののうち十分の七を褒美として取らせることを約束した。百姓は大喜びしてみな賊を捕まえることを願うようになり、多くの婦女・財物を獲得した。賊のうち妻子を失った者は、みな帰ってきて降服を求めた。鄭渾は奴らが奪った他人の婦女について追及し、そのあとで妻子を返してやった。こうして盗賊どもはお互いに奪い合いをし、仲間は離散していった。さらに官吏・人民のうち恩愛・信義のある者を派遣して、山谷に分け入って説得させると、(山から)出てくる者が相継いだ。そこで諸県の長吏(県令・県長)たちにおのおのの本来の治所に帰らせ、彼らを安住させた。梁興らは恐れをなし、残党を率いて城に集結した。太祖は夏侯淵を郡への救援に出して彼らを攻撃させた。鄭渾は官吏・人民を率いて先登に立ち、梁興とその仲間たちを斬った。また賊の靳富らが夏陽県長・邵陵県令を脅して連れ去り、その官吏・人民を併合して磑山に入っていたが、鄭渾はまた討伐に出て靳富らを撃破し、両県の長吏の身柄を保護し、奴らに連れ去られた者たちを引き連れて帰還した。趙青龍なる者が左内史程休を殺害すると、鄭渾は聞いて、勇士を派遣して(趙青龍を暗殺させ)その首を晒した。前後して四千家余りが帰属し、これによって山賊たちはみな平定され、民衆は産業に落ち着くことができた。転任して上党太守となった。

太祖は漢中を征討するとき鄭渾を京兆尹にした。鄭渾は百姓たちが新たに集まったばかりだったので、移住に関する法律を制定し、金持ちと身軽な者とを互いに隣組とし、温厚・信義な者と孤児・老人とを隣人として、農業にいそしませ、禁令を明らかにして犯罪を摘発した。これによって民衆は農業に落ち着き、盗賊どもは息をひそめた。大軍が漢中に進入すると、軍糧を切り盛りして(功績は)第一になった。また民衆を派遣して漢中を耕させたが、逃亡する者はなかった。太祖はますます彼を気に入り、ふたたび中央に入れて丞相掾とした。文帝曹丕)が即位すると侍御史となり、駙馬都尉の官職を付加され、陽平・沛郡の二太守に転任した。郡境あたりは低く多湿で、水害を患い、百姓は飢え苦しんでいた。鄭渾は蕭県・相県の両県との境界に赴き、堤防を築いて稲田を開発した。郡の人々はみな不満げであったが、鄭渾は言った。「地勢は水たまりの下にある。灌漑しよう。しまいには経常的に魚・稲の利益が得られるぞ。これは民衆を豊かにする根本である。」とうとう自ら官吏・人民を率いて仕事を始め、一冬のあいだに完成させた。毎年大収穫となり、耕地面積は年々増えてゆき、租税収入は通常の二倍もあった。民衆はその利益を頼りにし、石を刻んで彼を称え、(堤防を)「鄭陂」と名付けた。山陽・魏郡太守に転任したが、その統治はこれ(沛郡の統治)に倣った。さらに、郡下の百姓が材木の欠乏に苦しんでいたので、の木を植えて垣根を作るように強制し、同時に五種類の果物の木をより多く植えさせた。楡の木はみな垣根として完成し、五種類の果物は実を豊かに結んだ。魏郡の境界に入ってからは村落は整理されて一体となり、民衆は財産を得て費用には不足することなく有り余っていた。明帝曹叡)はそれを聞くと詔勅を下して褒め称え、天下に布告した。将作大匠に転任した。鄭渾は清楚であり公務を心がけていたので、妻子は飢えと寒さを免れることができなかった。卒去したとき、子の鄭崇郎中となった。[一]

[一] 『晋陽秋』に言う。鄭泰の子鄭袤は字を材叔という。鄭泰は華歆・荀攸と仲が良かったが、(二人は)鄭袤を見て「鄭公業は亡びてはいないぞ。」と言った。はじめ臨菑侯曹植)の文学となり、次第に昇進して光禄大夫にまでなった。泰始七年(二七一)、鄭袤は司空となったが固辞して受けず、家にいて臨終となった。子鄭黙は字を思玄という。『晋諸公賛』に言う。鄭黙は家業を遵守し、篤実さによって平素から評判があり、官位は太常にまで昇った。鄭黙の弟鄭質・鄭舒・鄭詡は、みな九卿になった。鄭黙の子鄭球は清楚・正直で理論・知識があり、尚書右僕射として人事を宰領した。鄭球の弟鄭予尚書になった。

倉慈伝

倉慈孝仁といい、淮南の人である。はじめ郡吏となった。建安年間(一九六~二二〇)、太祖曹操)は淮南で屯田を行い(作業員を)公募したとき、倉慈を綏集都尉にした。黄初年間(二二〇~二二七)末期、長安県令となったが、清廉・簡潔で筋目があったので、官吏・民衆は畏怖しながらも彼を愛した。太和年間(二二七~二三三)、燉煌太守に昇進した。郡は西の果てにあり、騒乱によって隔絶し、太守のまるでいないまま二十年となっており、大姓(豪族)は雄々しく威張り、とうとうそれが習いとなってしまった。前任の太守尹奉らは先例に従うに留まり、改革矯正することがなかった。倉慈が着任すると、権威ある者を抑え挫き、貧しく弱い者を慰め憐れみ、はなはだ理にかなっていた。古くからの大氏族は田地が余りあるのに、貧しい民衆は立錐の土地さえなかったのだが、倉慈はみな人数ごとに賦役を割り当てて、次第しだいに本来の状態へと終わらせていった。それ以前、属下の城邑では訴訟ごとが数多いうえ紛糾し、県では判決を下すことができず、多くが郡役所に持ち込まれていた。倉慈は自ら赴いて観察し、軽重を料簡して、死罪に当たらないものからは、ただ鞭打ちに留めてこれを釈放し、一年あたりの処刑執行は十人未満を超えることはなかった。また、かつて西域の種々の胡族たちが来朝して貢ぎ物を献上したがっていたとき、諸豪族の多くが叛逆していたため道を絶たれていた。そして貿易できるようになると、(諸豪族は)詐欺を働いたり押し買いをしたりして、多くの場合(取り引きは)公明ではなかった。胡族はつねづね恨みに思っていたが、倉慈はみな彼らをいたわり、洛陽に参詣したい者には「過所」を作ってやり、郡から帰還したいと願う者には、お上が平等に取りはからって、たびたび役所が監査役となって一緒に交易をし、官吏・人民を動員して道中を護送させた。こうして民衆もも心を一つに合わせて彼の人徳・恩恵を称えた。数年して在官のまま卒去した。官吏・民衆は悲しみ歎き、親戚のように喪に服し、彼の姿を絵に描いてその遺影を思慕した。西域の諸々の胡族は倉慈が死んだと聞き、ことごとく連れ立って戊己校尉や長吏(県令・県長)の役所のもとに集まり哀悼の意を表した。ある者は刀で顔面を区切り、それによって血の証を立てた。また祠を立てて共同して遥かに彼を祀った。[一]

[一] 『魏略』に言う。天水王遷が倉慈の後を受けて交代し、その行跡に倣ったが及びつかなかった。金城趙基が王遷の後を受け継いだが、やはり王遷に及ばなかった。嘉平年間(二四九~二五四)になると、安定皇甫隆が趙基に代わって太守となった。むかし燉煌は耕作のことをよく知らず、いつも灌漑をしては水を貯め(?)、すみずみまで水浸しにしてしまい、そのあとになってから耕し始めた。また「耬犂」(牛に牽かせる鍬)を作る方法もよく知らず、水を引いて種を播くころには、人も牛もすっかり労力を使い果たし、それでいて収穫はいよいよ少なくなるのである。皇甫隆は着任すると「耬犂」を作る方法を教えてやり、また灌漑の仕方も教え、歳の(収穫の)終わりにざっと計算すると、労力を省いたところは半分以上なのに、収穫は五割増しであった。また燉煌の習俗では婦人はを着用したが、羊の腸のように縮れさせていたので布一疋が必要であった。皇甫隆はまた禁止してこれを改造し、省かれたのはまたもや目を見張らずにはいられなかった。そのため燉煌の人が思うには、皇甫隆は強い決断力と厳格さにおいては倉慈に及ばないが、慎み深く恵み深いことで下々に利益を与えたことでは、彼に次ぐ者だとした。

太祖の時代から咸煕年間(二六四~二六七)まで、魏郡太守である陳国呉瓘清河太守である楽安任燠京兆太守である済北顔斐弘農太守である太原令狐邵済南国のである魯国孔乂は、ある者は憐れみをもって判決を下し、ある者は誠実さを推進して恩恵・愛情を示し、ある者は我が身を治めて清潔さを保ち、ある者は犯罪摘発にあたって隠し事を暴き、みな良質の二千石取りであった。[一]

[一] 呉瓘・任燠のことは(ほかでは)見られない。『魏略』に言う。顔斐は字を文林という。才能・学識があった。丞相が召し出して太子洗馬とし、黄初年間(二二〇~二二七)の初めに転任して黄門侍郎となり、のちに京兆太守となった。はじめ京兆では、馬超が敗北してからというもの人民の多くが農業殖産に専念せず、また三・四人の二千石取り(太守)が歴任したのに、目先の解決策を採用して、民衆のために長期的計画を立てる者がいなかった。顔斐が着任すると、属下の県に命令してあぜ道を整備させ、桑や果物の木を植えさせた。このとき民衆の多くは車や牛を持っていなかった。顔斐はまた民衆に暇な月(農閑期)に車の材料を取ってくるよう義務付け、互いに車の匠作(作り方)を教え合うようにさせた。さらに民衆のうち牛を持たない者に対して義務付け、や狗を飼育して、(それらを)売って牛を買わせた。初めのうち民衆は煩わしく思っていたが、一・二年間もすると家々が丁車・大牛を持つようになった。また文学を振興させ、官吏・人民のうち読書を願う者には、その僅かな夫役を維持するよう規定し(て、重い負担をかけないようにし)た。また役所の下に菜園を作り、官吏たちに命じて仕事の合間に耕させた。また民衆に義務付けて、租税を輸送するとき車や牛についでとしておのおの二束の薪を載せさせ、冬の寒さのなかで筆硯を炙らせるのに用立てた。こうして風俗の教化は大いに行われ、官吏は民衆を煩わせず、民衆も官吏に要求しなくなった。京兆は馮翊・扶風と境界を接していたが、二郡では道路がすでに荒れ果てて塞がっており、田地も雑草が生い茂っていて人民はえ凍えていた。しかし京兆では全てが(道路)整頓・(田地)開明され、豊富さは常に雍州十郡でも筆頭であった。顔斐はまた自己を清らかにし、(利殖を図らず)俸禄を仰ぐに過ぎなかった。そうしたことで官吏・人民は彼が転任してしまうことを恐れた。青龍年間(二三三~二三七)になると、司馬宣王司馬懿)は長安に駐在して軍営の市場を設立したが、軍中の役人や兵士は県民を侮って侵害することが多かった。顔斐はそこで宣王に上申した。宣王はそこで怒りを発して軍の市候(市場の見回り役)を召し寄せ、すぐさま顔斐の目前で百回の杖(撃ちの処罰)とした。このとき長安の典農は顔斐と一緒に坐っていたが、顔斐に謝らせようと思い、そこで密かに顔斐をつっついた。顔斐は謝ることを承知せず、しばらく経ってから言った。「顔斐が心のうちで明公を分割された責任を観察したところ、大勢の庶民を一つにしたいと願っておられ、(そのご意志は)きっと左右されるものではありますまい。それなのに典農は密かにつっついて顔斐に謝らせようとしました。もしも顔斐が謝ったとしたら、それは明公のご意志を得られないものといよいよ存じます。」宣王はそのまま役人・兵士に対して厳しさを維持することになった。それからというもの、軍営・郡県は各自の領分を守ることができた。数年後、転任して平原太守となったが、官吏・人民が涙を流して道を遮ったので車は進むことができず、一歩一歩引き留められ、十日余りしてやっと郡境を出た。東に行って崤山まで来ると病気に苦しんだ。顔斐は本心では京兆を恋しく思っており、彼の家族・従者が顔斐の病気がひどくなったのを見て、「平原さま、ご自身を励まして元気になってください」と勧めて言うと、顔斐は言った。「の心は平原を願っておらぬのだ。の仲間たちが我を呼ぶのに、どうして京兆と言わないのだ?」ついに卒去し、(顔斐の遺体は家族とともに)平原に帰還した。京兆ではそれを聞いてみな涙を流し、彼のために碑を立て、今でも彼を褒め称えている。令狐邵は字を孔叔という。父は漢朝に仕えて烏丸校尉となった。建安年間(一九六~二二〇)の初め、氏が冀州に来ると、令狐邵は本郡を去ってに住居を構えた。九年、少しのあいだ外出して武安毛城の城中に赴いた。ちょうど太祖が鄴を破り、そのまま毛城を包囲した。城が破れると、令狐邵ら十人余りの仲間が捕らえられ、みな斬首に相当した。太祖は彼を謁見し、その衣冠に不審を抱いて祖先について質問すると、彼の父と面識があった。そこで解放して軍謀掾に任命した。郡守・国相を歴任してから、のちに丞相主簿に移り、出向して弘農太守になった。いたるところで氷雪のごとく清潔で、妻子が官庁に至ることは稀であった。善事を挙げて(民衆に)教えてやり、寛容さによって人を待遇し、訴訟ごとを好まず、下の者を遠ざけることはなかった。その当時、郡には経典を知る者がなかった。そこで役人たちに次々と質問し、遠くまで行って師匠に就きたいという者があれば、すぐさま暇をやって派遣し、河東に行って楽詳に就いて経典を学ばせ、おおまかに理解できたら帰らせ、それによって文学を設置した。こうして弘農の学業は一転して勃興した。黄初年間(二二〇~二二七)の初めになると、徴し出されて羽林郎の官を拝受し、虎賁中郎将に昇進し、三年して病気で亡くなった。はじめ令狐邵の族子令狐愚白衣(平民)だったとき、(彼が)いつも高い志を持っていたことから、人々は令狐愚がきっと令狐氏を繁栄させるだろうと言っていた。しかし令狐邵が一人だけ言うには、「令狐愚の性質は倜儻で、徳を修めようともせずに大きなことを願っている。必ずや我が一族を滅ぼすだろう。」令狐愚は令狐邵の言葉を聞いて、その心を平穏にさせられなかった。令狐邵が虎賁(中)郎将になったとき、令狐愚は出仕・昇進して、すでに歴任・異動すること多く、いたるところで名声があった。令狐愚は令狐邵に会い、ゆったりとした様子で訊ね(?)、やんわりと彼を責めて言った。「以前、大人が令狐愚のことを(一族を)絶やすものだとおっしゃったと聞きました。令狐愚の今後については何とおっしゃいますか?」令狐邵は熟視したものの返答しなかった。しかしながら密かに妻子に言うには、「公治(令狐愚)の性格・態度はなお昔のままだ。の観察するところでは最終的に破滅するだろう。ただ我が長生きしてあいつに連坐するかどうかは分からぬ。汝たちに(禍が)及ぶだろう!」令狐邵の没後、十年間余りして、令狐愚は兗州刺史となり、果たして王淩と一緒になって(天子の)廃立を計画し、家族は誅滅された。令狐邵の子令狐華は当時、弘農郡丞となっていたが、親族関係が遠かったため連坐せずに済んだ。『孔氏譜』を調べると、孔乂は字を元儁といい、孔子の後裔である。曾祖父の孔疇は字を元矩といい、陳国の相である。桓帝苦県頼郷老子廟を立て、孔子の姿を壁に描いていたが、孔疇は陳国の相となると孔子の碑を像の前に立てた。今も現存している。孔乂の父祖はみな二千石取り(太守)で、孔乂が散騎常侍となって上疏して諫め正したことは、『三少帝紀』に記載がある。大鴻臚まで昇った。子の孔恂は字を士信といい、平東将軍衛尉である。

評に言う。任峻ははじめ義兵を起こして太祖曹操)に帰服し、土を開いて穀物を殖やし、米倉は満ちあふれさせた。常の功績の極致であろう。蘇則の威信は混乱を治め、政事でも良い結果を残したうえ矯々たる剛直さを持ち、風格は烈々として称賛に値した。杜畿は寛大さ勇猛さをよく完成させ、恩恵は民衆を安んじた。鄭渾・倉慈の憐れみある統治は道理に則っていた。そもそもみなの時代の名太守であろうか!杜恕はしばしば時の政事について陳述し、経典の論議は「体」を理解していたが、見るべきものがあったと思われる。

魏書十六 三國志十六 任蘇杜鄭倉傳第十六

任峻傳

任俊字伯達,河南中牟人也.漢末擾亂,關東皆震.中牟令楊原愁恐,欲棄官走.峻說原曰:「董卓首亂,天下莫不側目,然而未有先發者,非無其心也,勢未敢耳.明府若能唱之,必有和者.」原曰:「為之奈何?」峻曰:「今關東有十餘縣,能勝兵者不減萬人,若權行河南尹事,總而用之,無不濟矣.」原從其計,以峻為主簿.峻乃為原表行尹事,使諸縣堅守,遂發兵.會太祖起關東,入中牟界,眾不知所從,峻獨與同郡張奮議,擧郡以歸太祖.峻又別收宗族及賓客家兵數百人,願從太祖.太祖大悅,表峻為騎都尉,妻以從妹,甚見親信.太祖每征伐,峻常居守以給軍.是時歲飢旱,軍食不足,羽林監潁川棗祗建置屯田,太祖以峻為典農中郞將,數年中所在積粟,倉廩皆滿.官渡之戰,太祖使峻典軍器糧運.賊數寇鈔絕糧道,乃使千乘為一部,十道方行,為複陳以營衞之,賊不敢近.軍國之饒,起於棗祗而成於峻.[一]太祖以峻功高,乃表封為都亭侯,邑三百戶,遷長水校尉.

[一] 魏武故事載令曰:「故陳留太守棗祗,天性忠能.始共擧義兵,周旋征討.後袁紹在冀州,亦貪祗,欲得之.祗深附託於孤,使領東阿令.呂布之亂,兗州皆叛,惟范﹑東阿完在,由祗以兵據城之力也.後大軍糧乏,得東阿以繼,祗之功也.及破黃巾定許,得賊資業.當興立屯田,時議者皆言當計牛輸穀,佃科以定.施行後,祗白以為僦牛輸穀,大收不增穀,有水旱災除,大不便.反覆來說,孤猶以為當如故,大收不可復改易.祗猶執之,孤不知所從,使與荀令君議之.時故軍祭酒侯声云:『科取官牛,為官田計.如祗議,於官便,於客不便.』声懷此云云,以疑令君.祗猶自信,據計畫還白,執分田之術.孤乃然之,使為屯田都尉,施設田業.其時歲則大收,後遂因此大田,豐足軍用,摧滅羣逆,克定天下,以隆王室.祗興其功,不幸早沒,追贈以郡,猶未副之.今重思之,祗宜受封,稽留至今,孤之過也.祗子處中,宜加封爵,以祀祗為不朽之事.」文士傳曰:祗本姓棘,先人避難,易為棗.孫據,字道彥,晉冀州刺史.據子嵩,字臺産,散騎常侍.並有才名,多所著述.嵩兄腆,字玄方,襄陽太守,亦有文采.

峻寬厚有度而見事理,每有所陳,太祖多善之.於饑荒之際,收卹朋友孤遺,中外貧宗,周急繼乏,信義見稱.建安九年薨,太祖流涕者久之.子先嗣.先薨,無子,國除.文帝追錄功臣,諡峻曰成侯.復以峻中子覽為關內侯.

蘇則傳

蘇則字文師,扶風武功人也.少以學行聞,擧孝廉茂才,辟公府,皆不就.起家為酒泉太守,轉安定﹑武都,[一]所在有威名.太祖征張魯,過其郡,見則悅之,使為軍導.魯破,則綏定下辯諸氐,通河西道,徙為金城太守.是時喪亂之後,吏民流散飢窮,戶口損耗,則撫循之甚謹.外招懷羌胡,得其牛羊,以養貧老.與民分糧而食,旬月之閒,流民皆歸,得數千家.乃明為禁令,有干犯者輒戮,其從教者必賞.親自教民耕種,其歲大豐收,由是歸附者日多.李越以隴西反,則率羌胡圍越,越卽請服.太祖崩,西平麴演叛,稱護羌校尉.則勒兵討之.演恐,乞降.文帝以其功,加則護羌校尉,賜爵關內侯.[二]

[一] 魏書曰:則剛直疾惡,常慕汲黯之為人.魏略曰:則世為著姓,興平中,三輔亂,飢窮,避難北地.客安定,依富室師亮.亮待遇不足,則慨然歎曰:「天下會安,當不久爾,必還為此郡守,折庸輩士也.」後與馮翊吉茂等隱於郡南太白山中,以書籍自娛.及為安定太守,而師亮等皆欲逃走.則聞之,豫使人解語,以禮報之.

[二] 魏名臣奏載文帝令問雍州刺史張旣曰:「試守金城太守蘇則,旣有綏民平夷之功,聞又出車西定湟中,為河西作声勢,吾甚嘉之.則之功效,為可加爵邑未邪?封爵重事,故以問卿.密白意,且勿宣露也.」旣答曰:「金城郡,昔為韓遂所見屠剥,死喪流亡,或竄戎狄,或陷寇亂,戶不滿五百.則到官,內撫彫殘,外鳩離散,今見戶千餘.又梁燒雜種羌,昔與遂同惡,遂斃之後,越出障塞.則前後招懷,歸就郡者三千餘落,皆卹以威恩,為官效用.西平麴演等倡造邪謀,則尋出軍,臨其項領,演卽歸命送質,破絕賊糧.則旣有恤民之效,又能和戎狄,盡忠效節.遭遇聖明,有功必錄.若則加爵邑,誠足以勸忠臣,勵風俗也.」

後演復結旁郡為亂,張掖張進執太守杜通,酒泉黃華不受太守辛機,進﹑華皆自稱太守以應之.又武威三種胡並寇鈔,道路斷絕.武威太守毌丘興吿急於則.時雍﹑涼諸豪皆驅略羌胡以從進等,郡人咸以為進不可當.又將軍郝昭﹑魏平先是各屯守金城,亦受詔不得西度.則乃見郡中大吏及昭等與羌豪帥謀曰:「今賊雖盛,然皆新合,或有脇從,未必同心;因釁擊之,善惡必離,離而歸我,我增而彼損矣.旣獲益眾之實,且有倍氣之勢,率以進討,破之必矣.若待大軍,曠日持久,善人無歸,必合於惡,善惡旣合,勢難卒離.雖有詔命,違而合權,專之可也.」於是昭等從之,乃發兵救武威,降其三種胡,與興擊進於張掖.演聞之,將步騎三千迎則,辭來助軍,而實欲為變.則誘與相見,因斬之,出以徇軍,其黨皆散走.則遂與諸軍圍張掖,破之,斬進及其支黨,眾皆降.演軍敗,華懼,出所執乞降,河西平.乃還金城.進封都亭侯,邑三百戶.

徵拜侍中,與董昭同寮.昭嘗枕則膝臥,則推下之,曰:「蘇則之膝,非佞人之枕也.」初,則及臨菑侯植聞魏氏代漢,皆發服悲哭,文帝聞植如此,而不聞則也.帝在洛陽,嘗從容言曰:「吾應天而禪,而聞有哭者,何也?」則謂為見問,鬚髯悉張,欲正論以對.侍中傅巽掐則曰:「不謂卿也.」於是乃止.[一]文帝問則曰:「前破酒泉﹑張掖,西域通使,燉煌獻徑寸大珠,可復求市益得不?」則對曰:「若陛下化洽中國,德流沙漠,卽不求自至;求而得之,不足貴也.」帝默然.後則從行獵,槎桎拔,失鹿,帝大怒,踞牀拔刀,悉收督吏,將斬之.則稽首曰:「臣聞古之聖王不以禽獸害人,今陛下方隆唐堯之化,而以獵戯多殺羣吏,愚臣以為不可.敢以死請!」帝曰:「卿,直臣也.」遂皆赦之.然以此見憚.黃初四年,左遷東平相.未至,道病薨,諡曰剛侯.子怡嗣.怡薨,無子,弟愉襲封.愉,咸熙中為尚書.[二]

[一] 魏略曰:舊儀,侍中親省起居,故俗謂之執虎子.始則同郡吉茂者,是時仕甫歷縣令,遷為冗散.茂見則,嘲之曰:「仕進不止執虎子.」則笑曰:「我誠不能效汝蹇蹇驅鹿車馳也.」初,則在金城,聞漢帝禪位,以為崩也,乃發喪;後聞其在,自以不審,意頗默然.臨菑侯植自傷失先帝意,亦怨激而哭.其後文帝出游,追恨臨菑,顧謂左右曰:「人心不同,當我登大位之時,天下有哭者.」時從臣知帝此言,有為而發也,而則以為為己.欲下馬謝.侍中傅巽目之,乃悟.孫盛曰:夫士不事其所非,不非其所事,趣舍出處,而豈徒哉!則旣策名新朝,委質異代,而方懷二心生忿,欲奮爽言,豈大雅君子去就之分哉?詩云:「士也罔極,二三其德.」士之二三,猶喪妃偶,況人臣乎?

[二] 愉字休豫,歷位太常﹑光祿大夫,見晉百官名.山濤啓事稱愉忠篤有智意.臣松之案愉子紹,字世嗣,為吳王師.石崇妻,紹之兄女也.紹有詩在金谷集.紹弟愼,左衞將軍.

杜畿傳

杜畿字伯侯,京兆杜陵人也.[一]少孤,繼母苦之,以孝聞.年二十,為郡功曹,守鄭縣令.縣囚繫數百人,畿親臨獄,裁其輕重,盡決遣之,雖未悉當,郡中奇其年少而有大意也.擧孝廉,除漢中府丞.會天下亂,遂棄官客荊州,建安中乃還.荀彧進之太祖,[二]太祖以畿為司空司直,遷護羌校尉,使持節,領西平太守.[三]

[一] 傅子曰:畿,漢御史大夫杜延年之後.延年父周,自南陽徙茂陵,延年徙杜陵,子孫世居焉.

[二] 傅子曰:畿自荊州還,後至許,見侍中耿紀,語終夜.尚書令荀彧與紀比屋,夜聞畿言,異之,且遣人謂紀曰:「有國士而不進,何以居位?」旣見畿,知之如舊相識者,遂進畿於朝.

[三] 魏略曰:畿少有大志.在荊州數歲,繼母亡後,以三輔開通,負其母喪北歸.道為賊所劫略,眾人奔走,畿獨不去.賊射之,畿請賊曰:「卿欲得財耳,今我無物,用射我何為邪?」賊乃止.畿到鄕里,京兆尹張時,河東人也,與畿有舊,署為功曹.嘗嫌其闊達,不助留意於諸事,言此家疏誕,不中功曹也.畿竊云:「不中功曹,中河東守也.」

太祖旣定河北,而高幹擧幷州反.時河東太守王邑被徵,河東人衞固﹑范先外以請邑為名,而內實與幹通謀.太祖謂荀彧曰:「關西諸將,恃險與馬,征必為亂.張晟寇殽﹑澠閒,南通劉表,固等因之,吾恐其為害深.河東被山帶河,四鄰多變,當今天下之要地也.君為我擧蕭何﹑寇恂以鎮之.」彧曰:「杜畿其人也.」[一]於是追拜畿為河東太守.固等使兵數千人絕陝津,畿至不得渡.太祖遣夏侯惇討之,未至.或謂畿曰:「宜須大兵.」畿曰:「河東有三萬戶,非皆欲為亂也.今兵迫之急,欲為善者無主,必懼而聽於固.固等勢專,必以死戰.討之不勝,四鄰應之,天下之變未息也;討之而勝,是殘一郡之民也.且固等未顯絕王命,外以請故君為名,必不害新君.吾單車直往,出其不意.固為人多計而無斷,必偽受吾.吾得居郡一月,以計縻之,足矣.」遂詭道從郖津度.[二]范先欲殺畿以威眾.[三]且觀畿去就,於門下斬殺主簿已下三十餘人,畿擧動自若.於是固曰:「殺之無損,徒有惡名;且制之在我.」遂奉之.畿謂衞固﹑范先曰:「衞﹑范,河東之望也,吾仰成而已.然君臣有定義,成敗同之,大事當共平議.」以固為都督,行丞事,領功曹;將校吏兵三千餘人,皆范先督之.固等喜,雖陽事畿,不以為意.固欲大發兵,畿患之,說固曰:「夫欲為非常之事,不可動眾心.今大發兵,眾必擾,不如徐以貲募兵.」固以為然,從之,遂為貲調發,數十日乃定,諸將貪多應募而少遣兵.又入喩固等曰:「人情顧家,諸將掾吏,可分遣休息,急緩召之不難.」固等惡逆眾心,又從之.於是善人在外,陰為己援;惡人分散,各還其家,則眾離矣.會白騎攻東垣,高幹入濩澤,上黨諸縣殺長吏,弘農執郡守,固等密調兵未至.畿知諸縣附己,因出,單將數十騎,赴張辟拒守,吏民多擧城助畿者,比數十日,得四千餘人.固等與幹﹑晟共攻畿,不下,略諸縣,無所得.會大兵至,幹﹑晟敗,固等伏誅,其餘黨與皆赦之,使復其居業.

[一] 傅子曰:彧稱畿勇足以當大難,智能應變,其可試之.

[二] 郖音豆.魏略曰:初,畿與衞固少相侮狎,固嘗輕畿.畿嘗與固博而爭道,畿嘗謂固曰:「仲堅,我今作河東也.」固褰衣罵之.及畿之官,而固為郡功曹.張時故任京兆.畿迎司隸,與時會華陰,時﹑畿相見,於儀當各持版.時歎曰:「昨日功曹,今為郡將軍也!」

[三] 傅子曰:先云:「旣欲為虎而惡食人肉,失所以為虎矣.今不殺,必為後患.」

是時天下郡縣皆殘破,河東最先定,少耗減.畿治之,崇寬惠,與民無為.民嘗辭訟,有相吿者,畿親見為陳大義,遣令歸諦思之,若意有所不盡,更來詣府.鄕邑父老自相責怒曰:「有君如此,奈何不從其教?」自是少有辭訟.班下屬縣,擧孝子﹑貞婦﹑順孫,復其繇役,隨時慰勉之.漸課民畜牸牛﹑草馬,下逮鷄豚犬豕,皆有章程.百姓勸農,家家豐實.畿乃曰:「民富矣,不可不教也.」於是冬月修戎講武,又開學宮,親自執經教授,郡中化之.[一]

[一] 魏略曰:博士樂詳,由畿而升.至今河東特多儒者,則畿之由矣.

韓遂﹑馬超之叛也,弘農﹑馮翊多擧縣邑以應之.河東雖與賊接,民無異心.太祖西征至蒲阪,與賊夾渭為軍,軍食一仰河東.及賊破,餘畜二十餘萬斛.太祖下令曰:「河東太守杜畿,孔子所謂『禹,吾無閒然矣』.增秩中二千石.」太祖征漢中,遣五千人運,運者自率勉曰:「人生有一死,不可負我府君.」終無一人逃亡,其得人心如此.[一]魏國旣建,以畿為尚書.事平,更有令曰:「昔蕭何定關中,寇恂平河內,卿有其功,閒將授卿以納言之職;顧念河東吾股肱郡,充實之所,足以制天下,故且煩卿臥鎮之.」畿在河東十六年,常為天下最.

[一] 杜氏新書曰:平虜將軍劉勳,為太祖所親,貴震朝廷.嘗從畿求大棗,畿拒以他故.後勳伏法,太祖得其書,歎曰:「杜畿可謂『不媚於竈』者也.」稱畿功美,以下州郡,曰:「昔仲尼之於顏子,每言不能不歎,旣情愛發中,又宜率馬以驥.今吾亦冀眾人仰高山,慕景行也.」

文帝卽王位,賜爵關內侯.徵為尚書.及踐阼,進封豐樂亭侯.邑百戶,[一]守司隸校尉.帝征吳,以畿為尚書僕射,統留事.其後帝幸許昌,畿復居守.受詔作御樓船,於陶河試船,遇風沒.帝為之流涕.[二]詔曰:「昔冥勤其官而水死,稷勤百穀而山死.[三]故尚書僕射杜畿,於孟津試船,遂至覆沒,忠之至也.朕甚愍焉.」追贈太僕,諡曰戴侯.子恕嗣.[四]

[一] 魏略曰:初畿在郡,被書錄寡婦.是時他郡或有已自相配嫁,依書皆錄奪,啼哭道路.畿但取寡者,故所送少;及趙儼代畿而所送多.文帝問畿:「前君所送何少,今何多也?」畿對曰:「臣前所錄皆亡者妻,今儼送生人婦也.」帝及左右顧而失色.

[二] 魏氏春秋曰:初,畿嘗見童子謂之曰:「司命使我召子.」畿固請之,童子曰:「今將為君求相代者.君其愼勿言!」言卒,忽然不見.至此二十年矣,畿乃言之.其日而卒,時年六十二.

[三] 韋昭國語注稱毛詩傳曰:「冥,契六世孫也,為夏水官,勤於其職而死於水.稷周棄也,勤播百穀,死於黑水之山.」

[四] 傅子曰:畿與太僕李恢﹑東安太守郭智有好.恢子豐交結英儁,以才智顯於天下.智子沖有內實而無外觀,州里弗稱也.畿為尚書僕射,二人各脩子孫禮見畿.旣退,畿歎曰:「孝懿無子;非徒無子,殆將無家.君謀為不死也,其子足繼其業.」時人皆以畿為誤.恢死後,豐為中書令,父子兄弟皆誅;沖為代郡太守,卒繼父業;世乃服畿知人.魏略曰李豐父名義,與此不同,義蓋恢之別名也.

杜恕傳

恕字務伯,太和中為散騎黃門侍郞.[一]恕推誠以質,不治飾,少無名譽.及在朝,不結交援,專心向公.每政有得失,常引綱維以正言,於是侍中辛毗等器重之.

[一] 杜氏新書曰:恕少與馮翊李豐俱為父任,總角相善.及各成人,豐砥礪名行以要世譽,而恕誕節直意,與豐殊趣.豐竟馳名一時,京師之士多為之游說.而當路者或以豐名過其實,而恕被褐懷玉也.由此為豐所不善.恕亦任其自然,不力行以合時.豐以顯仕朝廷,恕猶居家自若.明帝以恕大臣子,擢拜散騎侍郞,數月,轉補黃門侍郞.

時公卿以下大議損益,恕以為「古之刺史,奉宣六條,以清靜為名,威風著稱,今可勿令領兵,以專民事.」俄而鎮北將軍呂昭又領冀州,[一]乃上疏曰:

帝王之道,莫尚乎安民;安民之術,在於豐財.豐財者,務本而節用也.方今二賊未滅.戎車亟駕,此自熊虎之士展力之秋也.然搢紳之儒,橫加榮慕,搤腕抗論,以孫﹑吳為首,州郡牧守,咸共忽恤民之術,脩將率之事.農桑之民,競干戈之業,不可謂務本.帑藏歲虛而制度歲廣,民力歲衰而賦役歲興,不可謂節用.今大魏奄有十州之地,而承喪亂之弊,計其戶口不如往昔一州之民,然而二方僭逆,北虜未賓,三邊遘難,繞天略巿;所以統一州之民,經營九州之地,其為艱難,譬策羸馬以取道里,豈可不加意愛惜其力哉?以武皇帝之節儉,府藏充實,猶不能十州擁兵;郡且二十也.今荊﹑揚﹑靑﹑徐﹑幽﹑幷﹑雍﹑涼邊諸州皆有兵矣,其所恃內充府庫外制四夷者,惟兗﹑豫﹑司﹑冀而已.臣前以州郡典兵,則專心軍功,不勤民事,宜別置將守,以盡治理之務;而陛下復以冀州寵秩呂昭.冀州戶口最多,田多墾闢,又有桑棗之饒,國家徵求之府,誠不當復任以兵事也.若以北方當須鎮守,自可專置大將以鎮安之.計所置吏士之費,與兼官無異.然昭於人才尚復易;中朝苟乏人,兼才者勢不獨多.以此推之,知國家以人擇官,不為官擇人也.官得其人,則政平訟理;政平故民富貴,訟理故囹圄空虛.陛下踐阼,天下斷獄百數十人,歲歲增多,至五百餘人矣.民不益多,法不益峻.以此推之,非政教陵遲,牧守不稱之明效歟?往年牛死,通率天下十能損二;麥不半收,秋種未下.若二賊游魂於疆場,飛芻輓粟,千里不及.究此之術,豈在彊兵乎?武士勁卒愈多,愈多愈病耳.夫天下猶人之體,腹心充實,四支雖病,終無大患;今兗﹑豫﹑司﹑冀亦天下之腹心也.是以愚臣慺慺,實願四州之牧守,獨脩務本之業,以堪四支之重.然孤論難持,犯欲難成,眾怨難積,疑似難分,故累載不為明主所察.凡言此者,類皆疏賤;疏賤之言,實未易聽.若使善策必出於親貴,固不犯四難以求忠愛,此古今之所常患也.

[一] 世語曰:昭字子展,東平人.長子巽,字長悌,為相國掾,有寵於司馬文王.次子安,字仲悌,與嵆康善,與康俱被誅.次子粹,字季悌,河南尹.粹子預,字景虞,御史中丞.

時又大議考課之制,以考內外眾官.恕以為用不盡其人,雖才且無益,所存非所務,所務非世要.上疏曰:

書稱「明試以功,三考黜陟」,誠帝王之盛制.使有能者當其官,有功者受其祿,譬猶烏獲之擧千鈞,良﹑樂之選驥足也.雖歷六代而考績之法不著,閲七聖而課試之文不垂,臣誠以為其法可粗依,其詳難備擧故也.語曰:「世有亂人而無亂法.」若使法可專任,則唐﹑虞可不須稷﹑契之佐,殷﹑周無貴伊﹑呂之輔矣.今奏考功者,陳周﹑漢之法為,綴京房之本旨,可謂明考課之要矣.於以崇揖讓之風,興濟濟之治,臣以為未盡善也.其欲使州郡考士,必由四科,皆有事效,然後察擧,試辟公府,為親民長吏,轉以功次補郡守者,或就增秩賜爵,此最考課之急務也.臣以為便當顯其身,用其言,使具為課州郡之法,法具施行,立必信之賞,施必行之罰.至於公卿及內職大臣,亦當俱以其職考課之也.

古之三公,坐而論道,內職大臣,納言補闕,無善不紀,無過不擧.且天下至大,萬機至眾,誠非一明所能徧照.故君為元首,臣為股肱,明其一體相須而成也.是以古人稱廊廟之材,非一木之支;帝王之業,非一士之略.由是言之,焉有大臣守職辨課可以致雍熙者哉!且布衣之交,猶有務信誓而蹈水火,感知己而披肝膽,徇声名而立節義者;況於束帶立朝,致位卿相,所務者非特匹夫之信,所感者非徒知己之惠,所徇者豈声名而已乎!

 諸蒙寵祿受重任者,不徒欲擧明主於唐﹑虞之上而已;身亦欲廁稷﹑契之列.是以古人不患於念治之心不盡,患於自任之意不足,此誠人主使之然也.唐﹑虞之君,委任稷﹑契﹑虁﹑龍而責成功,及其罪也,殛鯀而放四凶.今大臣親奉明詔,給事目下,其有夙夜在公,恪勤特立,當官不撓貴勢,執平不阿所私,危言危行以處朝廷者,自明主所察也.若尸祿以為高,拱默以為智,當官苟在於免負,立朝不忘於容身,絜行遜言以處朝廷者,亦明主所察也.誠使容身保位,無放退之辜,而盡節在公,抱見疑之勢,公義不脩而私議成俗,雖仲尼為謀,猶不能盡一才,又況於世俗之人乎!今之學者,師商﹑韓而上法術,競以儒家為迂闊,不周世用,此最風俗之流弊,創業者之所致愼也.

後考課竟不行.[一]

[一] 杜氏新書曰:時李豐為常侍,黃門郞袁侃見轉為吏部郞,荀俁出為東郡太守,三人皆恕之同班友善.

樂安廉昭以才能拔擢,頗好言事.恕上疏極諫曰:

伏見尚書郞廉昭奏左丞曹璠以罰當關不依詔,坐判問.又云「諸當坐者別奏」.尚書令陳矯自奏不敢辭罰,亦不敢以處重為恭,意至懇惻.臣竊憫然為朝廷惜之!夫聖人不擇世而興,不易民而治,然而生必有賢智之佐者,蓋進之以道,率之以禮故也.古之帝王之所以能輔世長民者,莫不遠得百姓之歡心,近盡羣臣之智力.誠使今朝任職之臣皆天下之選,而不能盡其力,不可謂能使人;若非天下之選,亦不可謂能官人.陛下憂勞萬機,或親燈火,而庶事不康,刑禁日弛,豈非股肱不稱之明效歟?原其所由,非獨臣有不盡忠,亦主有不能使.百里奚愚於虞而智於秦,豫讓苟容中行而著節智伯,斯則古人之明驗矣.今臣言一朝皆不忠,是誣一朝也;然其事類,可推而得.陛下感帑藏之不充實,而軍事未息,至乃斷四時之賦衣,薄御府之私穀,帥由聖意,擧朝稱明,與聞政事密勿大臣,寧有懇懇憂此者乎?

騎都尉王才﹑幸樂人孟思所為不法,振動京都,而其罪狀發於小吏,公卿大臣初無一言.自陛下踐阼以來,司隸校尉﹑御史中丞寧有擧綱維以督姦宄,使朝廷肅然者邪?若陛下以為今世無良才,朝廷乏賢佐,豈可追望稷﹑契之遐蹤,坐待來世之儁乂乎!今之所謂賢者,盡有大官而享厚祿矣,然而奉上之節未立,向公之心不一者,委任之責不專,而俗多忌諱故也.臣以為忠臣不必親,親臣不必忠.何者?以其居無嫌之地而事得自盡也.今有疏者毀人不實其所毀,而必曰私報所憎,譽人不實其所譽,而必曰私愛所親,左右或因之以進憎愛之說.非獨毀譽有之,政事損益,亦皆有嫌.陛下當思所以闡廣朝臣之心,篤厲有道之節,使之自同古人,望與竹帛耳.反使如廉昭者擾亂其閒,臣懼大臣遂將容身保位,坐觀得失,為來世戒也!

昔周公戒魯侯曰「無使大臣怨乎不以」,不言賢愚,明皆當世用也.堯數舜之功,稱去四凶,不言大小,有罪則去也.今者朝臣不自以為不能,以陛下為不任也;不自以為不智,以陛下為不問也.陛下何不遵周公之所以用,大舜之所以去?使侍中﹑尚書坐則侍帷幄,行則從華輦,親對詔問,所陳必達,則羣臣之行,能否皆可得而知;忠能者進,闇劣者退,誰敢依違而不自盡?以陛下之聖明,親與羣臣論議政事,使羣臣人得自進,人自以為親,人思所以報,賢愚能否,在陛下之所用.以此治事,何事不辦以此建功,何功不成每有軍事,詔書常曰:「誰當憂此者邪?吾當自憂耳.」近詔又曰:「憂公忘私者必不然,但先公後私卽自辨也.」伏讀明詔,乃知聖思究盡下情,然亦怪陛下不知其本而憂其末也.人之能否,實有本性,雖臣亦以為朝臣不盡稱職也.明主之用人也,使能者不敢遺其力,而不能者不得處非其任.選擧非其人,未必為有罪也;擧朝共容非其人,乃為怪耳.陛下知其不盡力也,而代之憂其職,知其不能也,而教之治其事,豈徒主勞而臣逸哉?雖聖賢並世,終不能以此為治也.

陛下又患臺閣禁令之不密,人事請屬之不絕,聽伊尹作迎客出入之制,選司徒更惡吏以守寺門;威禁由之,實未得為禁之本也.昔漢安帝時,少府竇嘉辟廷尉郭躬無罪之兄子,猶見擧奏,章劾紛紛.近司隸校尉孔羨辟大將軍狂悖之弟,而有司嘿爾,望風希指,甚於受屬.選擧不以實,人事之大者也.[一]嘉有親戚之寵,躬非社稷重臣,猶尚如此;以今況古,陛下自不督必行之罰以絕阿黨之原耳.伊尹之制,與惡吏守門,非治世之具也.使臣之言少蒙察納,何患於姦不削滅,而養若昭等乎!

 夫糾擿姦宄,忠事也,然而世憎小人行之者,以其不顧道理而苟求容進也.若陛下不復考其終始,必以違眾忤世為奉公,密行白人為盡節,焉有通人大才而更不能為此邪?誠顧道理而弗為耳.使天下皆背道而趨利,則人主之所最病者,陛下將何樂焉,胡不絕其萌乎!夫先意承旨以求容美,率皆天下淺薄無行義者,其意務在於適人主之心而已,非欲治天下安百姓也.陛下何不試變業而示之,彼豈執其所守以違聖意哉?夫人臣得人主之心,安業也;處尊顯之官,榮事也;食千鍾之祿,厚實也.人臣雖愚,未有不樂此而喜干迕者也,迫於道,自彊耳.誠以為陛下當憐而佑之,少委任焉,如何反錄昭等傾側之意,而忽若人者乎?今者外有伺隙之寇,內有貧曠之民,陛下當大計天下之損益,政事之得失,誠不可以怠也.

恕在朝八年,其論議亢直,皆此類也.

[一] 臣松之案大將軍,司馬宣王也.晉書云:「宣王第五弟,名通,為司隸從事.」疑恕所云狂悖者.通子順,封龍陽亭侯.晉初受禪,以不達天命,守節不移,削爵土,徙武威.

出為弘農太守,數歲轉趙相,[一]以疾去官.[二]起家為河東太守,歲餘,遷淮北都督護軍,復以疾去.恕所在,務存大體而已,其樹惠愛,益得百姓歡心,不及於畿.頃之,拜御史中丞.恕在朝廷,以不得當世之和,故屢在外任.復出為幽州刺史,加建威將軍,使持節,護烏丸校尉.時征北將軍程喜屯薊,尚書袁侃等戒恕曰:「程申伯處先帝之世,傾田國讓於靑州.足下今俱杖節,使共屯一城,宜深有以待之.」而恕不以為意.至官未期,有鮮卑大人兒,不由關塞,徑將數十騎詣州,州斬所從來小子一人,無表言上.喜於是劾奏恕,下廷尉,當死.以父畿勤事水死,免為庶人,徙章武郡,是歲嘉平元年.[三]恕倜儻任意,而思不防患,終致此敗.

[一] 魏略曰:恕在弘農,寬和有惠愛.及遷,以孟康代恕為弘農.康字公休,安平人.黃初中,以於郭后有外屬,幷受九親賜拜,遂轉為散騎侍郞.是時,散騎皆以高才英儒充其選,而康獨縁妃嬙雜在其閒,故于時皆共輕之,號為阿九.康旣無才敏,因在冗官,博讀書傳,後遂有所彈駮,其文義雅而切要,眾人乃更加意.正始中,出為弘農,領典農校尉.康到官,清己奉職,嘉善而矜不能,省息獄訟,縁民所欲,因而利之.郡領吏二百餘人,涉春遣休,常四分遣一.事無宿諾,時出案行,皆豫勑督郵平水,不得令屬官遣人探候,修設曲敬.又不欲煩損吏民,常豫勑吏卒,行各持鐮,所在自刈馬草,不止亭傳,露宿樹下,又所從常不過十餘人.郡帶道路,其諸過賓客,自非公法無所出給;若知舊造之,自出於家.康之始拜,眾人雖知其有志量,以其未嘗宰牧,不保其能也;而康恩澤治能乃爾,吏民稱歌焉.嘉平末,從渤海太守徵入為中書令,後轉為監.

[二] 杜氏新書曰:恕遂去京師,營宜陽一泉塢,因其壘塹之固,小大家焉.明帝崩時,人多為恕言者.

[三] 杜氏新書曰:喜欲恕折節謝己,諷司馬宋權示之以微意.恕答權書曰:「況示委曲.夫法天下事,以善意相待,無不致快也;以不善意相待,無不致嫌隙也.而議者言,凡人天性皆不善,不當待以善意,更墮其調中.僕得此輩,便欲歸蹈滄海乘桴耳,不能自諧在其閒也.然以年五十二,不見廢棄,頗亦遭明達君子亮其本心;若不見亮,使人刳心著地,正與數斤肉相似,何足有所明,故終不自解說.程征北功名宿著,在僕前甚多,有人出征北乎!若令下官事無大小,咨而後行,則非上司彈繩之意;若咨而不從,又非上下相順之宜.故推一心,任一意,直而行之耳.殺胡之事,天下謂之是邪,是僕諧也;呼為非邪,僕自受之,無所怨咎.程征北明之亦善,不明之亦善,諸君子自共為其心耳,不在僕言也.」喜於是遂深文劾恕.

初,恕從趙郡還,陳留阮武亦從清河太守徵,俱自薄廷尉.謂恕曰:「相觀才性可以由公道而持之不厲,器能可以處大官而求之不順,才學可以述古今而志之不一,此所謂有其才而無其用.今向閒暇,可試潛思,成一家言.」在章武,遂著體論八篇.[一]又著興性論一篇,蓋興於為己也.四年,卒於徙所.

[一] 杜氏新書曰:以為人倫之大綱,莫重於君臣;立身之基本,莫大於言行;安上理民,莫精於政法;勝殘去殺,莫善於用兵.夫禮也者,萬物之體也,萬物皆得其體,無有不善,故謂之體論.

甘露二年,河東樂詳年九十餘,上書訟畿之遺績,朝廷感焉.詔封恕子預為豐樂亭侯,邑百戶.[一]

[一] 魏略曰:樂詳字文載.少好學,建安初,詳聞公車司馬令南郡謝該善左氏傳,乃從南陽步詣該問疑難諸要,今左氏樂氏問七十二事,詳所撰也.所問旣了而歸鄕里,時杜畿為太守,亦甚好學,署詳文學祭酒,使教後進,於是河東學業大興.至黃初中,徵拜博士.于時太學初立,有博士十餘人,學多褊狹,又不熟悉,略不親教,備員而已.惟詳五業並授,其或難解,質而不解,詳無慍色,以杖畫地,牽譬引類,至忘寢食,以是獨擅名於遠近.詳學旣精悉,又善推步三五,別受詔與太史典定律歷.太和中,轉拜騎都尉.詳學優能少,故歷三世,竟不出為宰守.至正始中,以年老罷歸於舍,本國宗族歸之,門徒數千人.

恕奏議論駮皆可觀,掇其切世大事著于篇.[一]

[一] 杜氏新書曰:恕弟理,字務仲.少而機察精要,畿奇之,故名之曰理.年二十一而卒.弟寬,字務叔.清虛玄靜,敏而好古.以名臣門戶,少長京師,而篤志博學,絕於世務,其意欲探賾索隱,由此顯名,當塗之士多交焉.擧孝廉,除郞中.年四十二而卒.經傳之義,多所論駮,皆草創未就,惟删集禮記及春秋左氏傳解,今存于世.預字元凱,司馬宣王女婿.王隱晉書稱預智謀淵博,明於理亂,常稱「德者非所以企及,立功立言,所庶幾也」.大觀羣典,謂公羊﹑穀梁,詭辨之言.又非先儒說左氏未究丘明意,而橫以二傳亂之.乃錯綜微言,著春秋左氏經傳集解,又參考眾家,謂之釋例,又作盟會圖﹑春秋長歷,備成一家之學,至老乃成.尚書郞摯虞甚重之,曰:「左丘明本為春秋作傳,而左傳遂自孤行;釋例本為傳設,而所發明何但左傳,故亦孤行.」預有大功名於晉室,位至征南大將軍,開府,封當陽侯,食邑八千戶.子錫,字世嘏,尚書左丞.晉諸公贊曰:嘏有器局.預從兄斌,字世將,亦有才望,為黃門郞,為趙王倫所枉殺.嘏子乂,字洪治.少有令名,為丹陽丞,早卒.阮武者,亦拓落大才也.案阮氏譜:武父諶,字士信,徵辟無所就,造三禮圖傳於世.杜氏新書曰:武字文業,闊達博通,淵雅之士.位止清河太守.武弟炳,字叔文,河南尹.精意醫術,撰藥方一部.炳子坦,字弘舒,晉太子少傅,平東將軍.坦弟柯,字士度.荀綽兗州記曰:坦出紹伯父,亡,次兄當襲爵,父愛柯,言名傳之,遂承封.時幼小,不能讓,及長悔恨,遂幅巾而居,後雖出身,未嘗釋也.性純篤閑雅,好禮無違,存心經誥,博學洽聞.選為濮陽王文學,遷領軍長史,喪官.王衍時為領軍,哭之甚慟.

鄭渾傳

鄭渾字文公,河南開封人也.高祖父眾,眾父興,皆為名儒.[一]渾兄泰,與荀攸等謀誅董卓,為揚州刺史,卒.[二]渾將泰小子袤避難淮南,袁術賓禮甚厚.渾知術必敗.時華歆為豫章太守,素與泰善,渾乃渡江投歆.太祖聞其篤行,召為掾,復遷下蔡長﹑邵陵令.天下未定,民皆剽輕,不念産殖;其生子無以相活,率皆不擧.渾所在奪其漁獵之具,課使耕桑,又兼開稻田,重去子之法.民初畏罪,後稍豐給,無不擧贍;所育男女,多以鄭為字.辟為丞相掾屬,遷左馮翊.

[一] 續漢書曰:興字少贛,諫議大夫.眾字子師,大司農.

[二] 張璠漢紀曰:泰字公業.少有才略,多謀計,知天下將亂,陰交結豪傑.家富於財,有田四百頃,而食常不足,名聞山東.擧孝廉,三府辟,公車徵,皆不就.何進輔政,徵用名士,以泰為尚書侍郞,加奉車都尉.進將誅黃門,欲召董卓為助,泰謂進曰:「董卓彊忍寡義,志欲無饜,若借之朝政,授之大事,將肆其心以危朝廷.以明公之威德,據阿衡之重任,秉意獨斷,誅除有罪,誠不待卓以為資援也.且事留變生,其鑒不遠.」又為陳時之要務,進不能用,乃棄官去.謂潁川人荀攸曰:「何公未易輔也.」進尋見害,卓果專權,廢帝.關東義兵起,卓會議大發兵,羣寮咸憚卓,莫敢忤旨.泰恐其彊,益將難制,乃曰:「夫治在德,不在兵也.」卓不悅曰:「如此,兵無益邪?」眾人莫不變容,為泰震慄.泰乃詭辭對曰:「非以無益,以山東不足加兵也.今山東議欲起兵,州郡相連,人眾相動,非不能也.然中國自光武以來,無鷄鳴犬吠之驚,百姓忘戰日久;仲尼有言『不教民戰,是謂棄之』,雖眾不能為害,一也.明公出自西州,少為國將,閑習軍事,數踐戰場,名稱當世;以此威民,民懷懾服,二也.袁本初公卿子弟,生處京師,體長婦人;張孟卓東平長者,坐不窺堂;孔公緒能清談高論,嘘枯吹生,無軍帥之才,負霜露之勤;臨鋒履刃,決敵雌雄,皆非明公敵,三也.察山東之士,力能跨馬控弦,勇等孟賁,捷齊慶忌,信有聊城之守,策有良平之謀;可任以偏師,責以成功,未聞有其人者,四也.就有其人,王爵不相加,婦姑位不定,各恃眾怙力,將人人棊跱,以觀成敗,不肯同心共膽,率徒旅進,五也.關西諸郡,北接上黨﹑太原﹑馮翊﹑扶風﹑安定,自頃以來,數與胡戰,婦女載戟挾矛,弦弓負矢,況其悍夫;以此當山東忘戰之民,譬驅羣羊向虎狼,其勝可必,六也.且天下之權勇,今見在者不過幷﹑涼﹑匈奴屠各﹑湟中義從﹑八種西羌,皆百姓素所畏服,而明公權以為爪牙,壯夫震慄,況小醜乎!七也.又明公之將帥,皆中表腹心,周旋日久,自三原﹑狹口以來,恩信醇著,忠誠可遠任,智謀可特使,以此當山東解合之虛誕,實不相若,八也.夫戰有三亡:以亂攻治者亡,以邪攻正者亡,以逆攻順者亡.今明公秉國政平,討夷凶宦,忠義克立;以三德待於三亡,奉辭伐罪,誰人敢禦,九也.東州有鄭康成,學該古今,儒生之所以集;北海邴根矩,清高直亮,羣士之楷式.彼諸將若詢其計畫,案典校之彊弱,燕﹑趙﹑齊﹑梁非不盛,終見滅於秦,吳﹑楚七國非不眾,而不敢踰熒陽,況今德政之赫赫,股肱之邦良,欲造亂以徼不義者,必不相然讚,成其凶謀,十也.若十事少有可采,無事徵兵以驚天下,使患役之民,相聚為非,棄德恃眾,以輕威重.」卓乃悅,以泰為將軍,統諸軍擊關東.或謂卓曰:「鄭泰智略過人,而結謀山東,今資之士馬,使就其黨,竊為明公懼之.」卓收其兵馬,留拜議郞.後又與王允謀共誅卓,泰脱身自武關走,東歸.後將軍袁術以為揚州刺史,未至官,道卒,時年四十一.

時梁興等略吏民五千餘家為寇鈔,諸縣不能禦,皆恐懼,寄治郡下.議者悉以為當移就險,渾曰:「興等破散,竄在山阻.雖有隨者,率脅從耳.今當廣開降路,宣喩恩信.而保險自守,此示弱也.」乃聚斂吏民,治城郭,為守禦之備.遂發民逐賊,明賞罰,與要誓,其所得獲,十以七賞.百姓大悅,皆願捕賊,多得婦女﹑財物.賊之失妻子者,皆還求降.渾責其得他婦女,然後還其妻子,於是轉相寇盜,黨與離散.又遣吏民有恩信者,分布山谷吿喩,出者相繼,乃使諸縣長吏各還本治以安集之.興等懼,將餘眾聚鄜城.太祖使夏侯淵就助郡擊之,渾率吏民前登,斬興及其支黨.又賊靳富等,脅將夏陽長﹑邵陵令幷其吏民入磑山,渾復討擊破富等,獲二縣長吏,將其所略還.及趙靑龍者,殺左內史程休,渾聞,遣壯士就梟其首.前後歸附四千餘家,由是山賊皆平,民安産業.轉為上黨太守.

太祖征漢中,以渾為京兆尹.渾以百姓新集,為制移居之法,使兼複者與單輕者相伍,溫信者與孤老為比,勤稼穡,明禁令,以發姦者.由是民安於農,而盜賊止息.及大軍入漢中,運轉軍糧為最.又遣民田漢中,無逃亡者.太祖益嘉之,復入為丞相掾.文帝卽位,為侍御史,加駙馬都尉,遷陽平﹑沛郡二太守.郡界下溼,患水澇,百姓飢乏.渾於蕭﹑相二縣界,興陂遏,開稻田.郡人皆以為不便,渾曰:「地勢洿下,宜漑灌,終有魚稻經久之利,此豐民之本也.」遂躬率吏民,興立功夫,一冬閒皆成.比年大收,頃畝歲增,租入倍常,民賴其利,刻石頌之,號曰鄭陂.轉為山陽﹑魏郡太守,其治放此.又以郡下百姓,苦乏材木,乃課樹楡為籬,並益樹五果;楡皆成藩,五果豐實.入魏郡界,村落齊整如一,民得財足用饒.明帝聞之,下詔稱述,布吿天下,遷將作大匠.渾清素在公,妻子不免於飢寒.及卒,以子崇為郞中.[一]

[一] 晉陽秋曰:泰子袤,字材叔.泰與華歆﹑荀攸善.見袤曰:「鄭公業為不亡矣.」初為臨菑侯文學,稍遷至光祿大夫.泰始七年,以袤為司空,固辭不受,終於家.子默,字思玄.晉諸公贊曰:默遵守家業,以篤素稱,位至太常.默弟質﹑舒﹑詡,皆為卿.默子球,清直有理識,尚書右僕射,領選.球弟豫,為尚書.

倉慈傳

倉慈字孝仁,淮南人也.始為郡吏.建安中,太祖開募屯田於淮南,以慈為綏集都尉.黃初末,為長安令,清約有方,吏民畏而愛之.太和中,遷燉煌太守.郡在西陲,以喪亂隔絕,曠無太守二十歲,大姓雄張,遂以為俗.前太守尹奉等,循故而已,無所匡革.慈到,抑挫權右,撫恤貧羸,甚得其理.舊大族田地有餘,而小民無立錐之土;慈皆隨口割賦,稍稍使畢其本直.先是屬城獄訟眾猥,縣不能決,多集治下;慈躬往省閲,料簡輕重,自非殊死,但鞭杖遣之,一歲決刑曾不滿十人.又常日西域雜胡欲來貢獻,而諸豪族多逆斷絕;旣與貿遷,欺詐侮易,多不得分明.胡常怨望,慈皆勞之.欲詣洛者,為封過所,欲從郡還者,官為平取,輒以府見物與共交市,使吏民護送道路,由是民夷翕然稱其德惠.數年卒官,吏民悲感如喪親戚,圖畫其形,思其遺像.及西域諸胡聞慈死,悉共會聚於戊己校尉及長吏治下發哀,或有以刀畫面,以明血誠,又為立祠,遙共祠之.[一]

[一] 魏略曰:天水王遷,承代慈,雖循其迹,不能及也.金城趙基承遷後,復不如遷.至嘉平中,安定皇甫隆代基為太守.初,燉煌不甚曉田,常灌漑滀水,使極濡洽,然後乃耕.又不曉作耬犂,用水,及種,人牛功力旣費,而收穀更少.隆到,教作耬犂,又教衍漑,歲終率計,其所省庸力過半,得穀加五.又燉煌俗,婦人作裙,攣縮如羊腸,用布一疋;隆又禁改之,所省復不眥.故燉煌人以為隆剛斷嚴毅不及於慈,至於勤恪愛惠,為下興利,可以亞之.

自太祖迄于咸熙,魏郡太守陳國吳瓘﹑清河太守樂安任燠﹑京兆太守濟北顏斐﹑弘農太守太原令狐邵﹑濟南相魯國孔乂,或哀矜折獄,或推誠惠愛,或治身清白,或擿姦發伏,咸為良二千石.[一]

[一] 瓘﹑燠事行無所見.魏略曰:顏斐字文林.有才學.丞相召為太子洗馬,黃初初轉為黃門侍郞,後為京兆太守.始,京兆從馬超破後,民人多不專於農殖,又歷數四二千石,取解目前,亦不為民作久遠計.斐到官,乃令屬縣整阡陌,樹桑果.是時民多無車牛.斐又課民以閒月取車材,使轉相教匠作車.又課民無牛者,令畜豬狗,賣以買牛.始者民以為煩,一二年閒,家家有丁車﹑大牛.又起文學,聽吏民欲讀書者,復其小徭.又於府下起菜園,使吏役閒鉏治.又課民當輸租時,車牛各因便致薪兩束,為冬寒冰炙筆硯.於是風化大行,吏不煩民,民不求吏.京兆與馮翊﹑扶風接界,二郡道路旣穢塞,田疇又荒萊,人民饑凍,而京兆皆整頓開明,豐富常為雍州十郡最.斐又清己,仰奉而已,於是吏民恐其遷轉也.至靑龍中,司馬宣王在長安立軍市,而軍中吏士多侮侵縣民,斐以白宣王.宣王乃發怒召軍市候,便於斐前杖一百.時長安典農與斐共坐,以為斐宜謝,乃私推築斐.斐不肯謝,良久乃曰:「斐意觀明公受分陝之任,乃欲一齊眾庶,必非有所左右也.而典農竊見推築,欲令斐謝;假令斐謝,是更為不得明公意也.」宣王遂嚴持吏士.自是之後,軍營﹑郡縣各得其分.後數歲,遷為平原太守,吏民啼泣遮道,車不得前,步步稽留,十餘日乃出界,東行至崤而疾困.斐素心恋京兆,其家人從者見斐病甚,勸之,言:「平原當自勉勵作健.」斐曰:「我心不願平原,汝曹等呼我,何不言京兆邪?」遂卒,還平原.京兆聞之,皆為流涕,為立碑,於今稱頌之.令狐邵字孔叔.父仕漢,為烏丸校尉.建安初,袁氏在冀州,邵去本郡家居鄴.九年,暫出到武安毛城中.會太祖破鄴,遂圍毛城.城破,執邵等輩十餘人,皆當斬.太祖閲見之,疑其衣冠也,問其祖考,而識其父,乃解放,署軍謀掾.仍歷宰守,後徙丞相主簿,出為弘農太守.所在清如冰雪,妻子希至官省;擧善而教,恕以待人,不好獄訟,與下無忌.是時,郡無知經者,乃歷問諸吏,有欲遠行就師,輒假遣,令詣河東就樂詳學經,粗明乃還,因設文學.由是弘農學業轉興.至黃初初,徵拜羽林郞,遷虎賁中郞將,三歲,病亡.始,邵族子愚,為白衣時,常有高志,眾人謂愚必榮令狐氏,而邵獨以為「愚性倜儻,不修德而願大,必滅我宗.」愚聞邵言,其心不平.及邵為虎賁郞將,而愚仕進已多所更歷,所在有名稱.愚見邵,因從容言次,微激之曰:「先時聞大人謂愚為不繼,愚今竟云何邪?」邵熟視而不答也.然私謂其妻子曰:「公治性度猶如故也.以吾觀之,終當敗滅.但不知我久當坐之不邪?將逮汝曹耳!」邵沒之後,十餘年閒,愚為兗州刺史,果與王淩謀廢立,家屬誅滅.邵子華,時為弘農郡丞,以屬疏得不坐.案孔氏譜:孔乂字元儁,孔子之後.曾祖疇,字元矩,陳相.漢桓帝立老子廟於苦縣之賴鄕,畫孔子象於壁;疇為陳相,立孔子碑於像前,今見存.乂父祖皆二千石,乂為散騎常侍,上疏規諫.語在三少帝紀.至大鴻臚.子恂字士信,晉平東將軍﹑衞尉也.

評曰:任峻始興義兵,以歸太祖,闢土殖穀,倉庾盈溢,庸績致矣.蘇則威以平亂,旣政事之良,又矯矯剛直,風烈足稱.杜畿寬猛克濟,惠以康民.鄭渾﹑倉慈,恤理有方.抑皆魏代之名守乎!恕屢陳時政,經論治體,蓋有可觀焉.