利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

楽進伝

楽進文謙といい、陽平衛国の人である。容貌は短小ながら、胆玉の激しさによって太祖曹操)に従い、帳下の役人となった。(太祖は彼を)本郡に還らせて募兵させ、千人余りを手に入れ、帰還すると軍の仮司馬陥陳都尉陥陣都尉)とした。(太祖に)従軍して濮陽呂布を、雍丘張超を、橋蕤を攻撃し、みな先登となって功績を立て、広昌亭侯に封ぜられた。従軍して安衆張繡を征し、下邳で呂布を包囲して別働隊の将を破り、射犬眭固を撃ち、劉備を攻め、それらを全て破り、討寇校尉を拝命した。黄河を渡って獲嘉を攻め、帰還すると、従軍して官渡袁紹を撃ち、奮戦して袁紹の将淳于瓊を斬った。従軍して黎陽袁譚・袁尚を撃ち、その大将厳敬を斬り、行遊撃将軍となった。別働隊として黄巾賊を撃ち、それを打ち破って楽安郡を平定した。従軍してを包囲し、鄴が平定されると、従軍して南皮で袁譚を撃ち、先登となって袁譚の東門に突入した。袁譚が敗北すると別働隊として雍奴を攻撃し、それを打ち破った。建安十一年(二〇六)、太祖は漢帝に上表し、楽進および于禁・張遼を称えて言った。「武力が弘大であるうえ、計略は用意周到、性質は忠義一途、節義を守り抜き、戦闘攻撃に臨むたび、いつも監督統率者となり、強敵にも奮戦し固守にも突撃し、堅陣でも陥落しないことはなく、自らと太鼓を手繰り寄せ、手は倦むことを知りません。また別働隊として征伐に派遣すれば、師団旅団を統御し、軍勢を慰撫して和合させ、命令を奉じて(法を)犯すことなく、敵にぶつかっては勝利を制し、遺失することがございません。功績を論じて登用を記し、おのおの顕彰し寵遇すべきであります。」こうして于禁は虎威将軍、楽進は折衝将軍、張遼は盪寇将軍となった。

楽進は別働隊として高幹を征討し、北道に沿って上党に入り、迂回して彼の背後に出た。高幹らは引き揚げて壺関を守ったが、連戦して(敵の兵士を)斬首した。高幹が堅守していて下せなかったが、ちょうど太祖が自ら征討することになり、ようやく陥落した。太祖は管承を征伐せんと淳于に着陣し、楽進・李典を派遣してそれを撃たせた。管承は潰走して海島に逃げ込み、海岸地帯は平定された。荊州が未だに帰服していなかったので、派遣して陽翟させた。のちに荊州平定に従軍した。(太祖が引き揚げたあとも)残留して襄陽に屯し、関羽・蘇非らを攻撃して彼らをみな逃走させた。南郡諸県の山谷の蛮夷が楽進のもとに参詣して降服した。また劉備の(任命した)臨沮県長杜普旌陽の県長梁太を征討し、彼らを全て大破した。のちに孫権征討に従軍し、(太祖は)楽進にした。太祖は帰還するとき、楽進を張遼・李典とともに留めて合肥に屯させ、食邑五百(戸)を加増し、以前と合わせて都合千二百戸とした。楽進がしばしば功績を立てたことから、五百戸を分割して一子を列侯に封じた。楽進は右将軍に昇進した。建安二十三年に薨じ、して威侯と言った。子の楽綝が嗣いだ。楽綝は剛毅果断で父の風格を持っており、官位は揚州刺史まで昇った。諸葛誕は反逆したとき、楽綝に襲いかかって殺害した。詔勅を下して彼を悼み惜しみ、衛尉を追贈し、諡して愍侯と言った。子の楽肇が嗣いだ。

樂進傳

樂進字文謙,陽平衞國人也.容貌短小,以膽烈從太祖,為帳下吏.遣還本郡募兵,得千餘人,還為軍假司馬﹑陷陳都尉.從擊呂布於濮陽,張超於雍丘,橋蕤於苦,皆先登有功,封廣昌亭侯.從征張繡於安眾,圍呂布於下邳,破別將,擊眭固於射犬,攻劉備於沛,皆破之,拜討寇校尉.渡河攻獲嘉,還,從擊袁紹於官渡,力戰,斬紹將淳于瓊.從擊譚﹑尚於黎陽,斬其大將嚴敬,行遊擊將軍.別擊黃巾,破之,定樂安郡.從圍鄴,鄴定,從擊袁譚於南皮,先登,入譚東門.譚敗,別攻雍奴,破之.建安十一年,太祖表漢帝,稱進及于禁﹑張遼曰:「武力旣弘,計略周備,質忠性一,守執節義,每臨戰攻,常為督率,奮強突固,無堅不陷,自援枹鼓,手不知倦.又遣別征,統御師旅,撫眾則和,奉令無犯,當敵制決,靡有遺失.論功紀用,宜各顯寵.」於是禁為虎威;進,折衝;遼,盪寇將軍.

進別征高幹,從北道入上黨,回出其後.幹等還守壺關,連戰斬首.幹堅守未下,會太祖自征之,乃拔.太祖征管承,軍淳于,遣進﹑李典擊之.承破走,逃入海島,海濱平,荊州未服,遣屯陽翟.後從平荊州,留屯襄陽,擊關羽﹑蘇非等,皆走之,南郡諸縣山谷蠻夷詣進降.又討劉備臨沮長杜普﹑旌陽長梁太,皆大破之.後從征孫權,假進節.太祖還,留進與張遼﹑李典屯合肥,增邑五百,幷前凡千二百戶.以進數有功,分五百戶,封一子列侯;進遷右將軍.建安二十三年薨,諡曰威侯.子綝嗣.綝果毅有父風,官至揚州刺史.諸葛誕反,掩襲殺綝,詔悼惜之,追贈衞尉,諡曰愍侯.子肇嗣.