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原著作者:【むじん書院】

魏書十七 三国志十七 張楽于張徐伝第十七

張遼伝

張遼文遠といい、雁門馬邑の人である。もともと聶壱の子孫であるが、怨恨を避けて姓を変えたのである。若いころ郡吏になった。漢末、幷州刺史丁原は張遼の武力が人並み外れていたことから、召し寄せて従事とし、兵士を率いさせて京都に参詣させた。(大将軍の)何進河北へと派遣して軍勢を募集させると、千人余りを手に入れた。帰還すると何進は敗北していたので、兵士を連れて董卓に属した。董卓が敗北すると、兵士を連れて呂布に属し、騎都尉に昇進した。呂布が李傕に敗れたとき、呂布に付き従って東は徐州へと逃走し、魯国となった。ときに二十八歳である。太祖曹操)が下邳で呂布を破ると、張遼はその軍勢を率いて投降し、中郎将に任じられ、関内侯の爵位を賜った。しばしば戦功を立てたので裨将軍に昇進する。(太祖は)袁紹を破ったとき、別働隊として張遼を派遣して魯国の諸県を平定させた。夏侯淵とともに東海において昌豨を包囲したが、数ヶ月して食糧が底を尽き、軍勢をまとめて帰還しようと提案された。張遼は夏侯淵に告げて言った。「数日以来、包囲陣の諸隊を巡回していると、昌豨はそのつど張遼を見つめております。それに彼が射る矢も次第に少なくなっておりますし、これはきっと昌豨の計算がぐらぐらしており、そのため力一杯戦わないのでしょう。張遼は呼び出して語り合いたいと思いますが、は誘うこともできましょうか?」そこで使いをやって昌豨に告げさせた。「公よりご命令がございました。これを張遼に伝えさせます。」昌豨は果たして下城し、張遼と語り合った。張遼は彼のために説得してやった。「太祖(?)は神武をお持ちで、今や恩徳によって四方を手懐けておられます。先に味方した者ほど大きな賞賜を受けられましょうぞ。」昌豨はそこで投降することを承知した。張遼はそのまま身一つで三公山に登り、昌豨の家に入って(彼の)妻子に拝礼した。昌豨は歓喜し、(張遼に)付き従って太祖に参詣した。太祖は昌豨を帰国させ、張遼を譴責して言った。「これは大将のやり方ではないぞ。」張遼は謝罪して言った。「明公の威信は四海に顕著でございますし、張遼は聖旨を奉じておりましたから、昌豨はきっと害をなすまいと考えたのであります。」(太祖に)従軍して黎陽袁譚・袁尚を討伐し、功績を立てて行中堅将軍(中堅将軍代行)となった。従軍してで袁尚を攻撃したが、袁尚が堅守していたので陥落しなかった。太祖はに帰還すると、張遼をやって楽進とともに陰安を陥落させ、その住民を河南に移した。またも鄴の攻撃に従軍して、鄴が破られると、張遼は別働隊として趙国・常山に赴き、山沿いの諸賊および黒山孫軽らを誘降した。袁譚攻撃に従軍し、袁譚が破られると、別働隊として海浜へ赴き、遼東の賊柳毅らを打ち破った。鄴に帰還したとき、太祖は自ら張遼を出迎え、呼び入れて一緒に(車へ)載り、張遼を盪寇将軍とした。また別働隊として荊州を攻撃し、江夏の諸県を平定し、引き揚げて臨潁して、都亭侯に封ぜられた。柳城における袁尚征討に従軍したが、突如、賊軍に遭遇した。張遼は戦うことを太祖に勧め、意気ははなはだ奮い立っていた。太祖は彼を勇壮だと思い、自分が所持していたを張遼に授けた。そして攻撃すると、彼らを大いに打ち破り、単于蹋頓を斬った。[一]

[一] 『傅子』に言う。太祖が柳城を征討しようとしたとき、張遼は諫めて言った。「許は天下の中心であります。いま天子は許にましますのに、公は遠く北征しようとなさる。もし劉表劉備を派遣して許を襲撃し、この地を占拠して四方に号令したならば、公の勢力は去ってしまいましょうぞ。」太祖は劉表がきっと劉備を任用できまいと計算し、そのまま行軍した。

ときに荊州は未だ平定されておらず、また張遼を派遣して長社に屯させることにした。出発に臨み、軍中に謀反する者がいて、夜中に騒動を起こしつつ放火し、一軍まるごと擾乱に陥った。張遼は左右の者に言った。「うろたえるな。これは全隊こぞって反逆したのではない。きっと造反した者が騒動を起こして他人を混乱させようとしているだけだ。」そこで軍中に命令を下し、反逆に参加しない者を静かに座らせた。張遼は親衛隊数十人を率い、本陣に直立した。しばらくすると静かになり、首謀者を捕らえて斬刑に処した。陳蘭・梅成の六つの県をこぞって叛逆したので、太祖は于禁・臧霸らに梅成を討たせ、張遼には張郃・朱蓋らを監督させて陳蘭を討たせた。梅成は偽って于禁に投降し、于禁が帰還すると、梅成はそのまま軍勢を率いて陳蘭のもとに身を寄せ、改めて灊山に入った。県には天柱山というのがあり、高く鋭く二十里余りもあり、道は狭く険しく、歩道は僅かに通じている程度で、陳蘭らはその頂上に城壁を築いている 。張遼が進もうとすると諸将は言った。「軍勢は少なく道は険しいので、深く進入するのは困難でしょう。」張遼は言った。「これは一与一と言われているものだ。勇者たるもの前進あるのみ。」そのまま山の麓まで進んで布陣し、彼らを攻撃して陳蘭・梅成の首を斬り、その軍勢をことごとく捕虜にした。太祖は諸将の功績を論功して言った。「天山に登って峻険を踏み越え、陳蘭・梅成を捕まえたのは盪寇の功績である。」所領を加増してした。

太祖は孫権征討から帰還したとき、張遼を楽進・李典らとともに七千人余りを率いさせて合肥に屯させた。太祖は張魯を征伐するとき、護軍薛悌に命令書を与え、箱の隅に「賊至らば開け」と記しておいた。にわかに孫権が十万人の軍勢を率いて合肥を包囲したので、そこで一緒に命令書を開いてみると、「もし孫権が来たならば張・李将軍は出撃せよ。楽将軍は護軍を守り、戦ってはならぬ」とあった。諸将はみな疑問に思った。張遼は言った。「公は遠征して外におられ、救援に来ていただくころには、奴らが我らを破るのは必定だ。それゆえ命令書によって指示を下され、彼らがまだ結集せぬうちに迎え撃ってその盛んな威勢を挫いてやり、(我が)軍勢の心を落ち着け、そののち守るべきとおっしゃられるのだ。勝敗の枢機はこの一戦にある。諸君らは何を疑っているのか?」李典もまた張遼に賛同した。こうして張遼は夜中、敢えて従おうという兵士を募って八百人を手に入れると、牛をつぶして将兵に振る舞い、明日を大戦とした。明け方、張遼は甲冑を身に着けて戟を持ち、先登になって敵陣を陥れ、数十人を殺し、二人の将を斬り、大声で我が名を叫びながら城塁に突入して孫権の麾下にまで到達した。孫権は大いに驚き、軍勢もなすすべを知らず、逃走し、高い丘に登って長戟で自衛した。張遼は「孫権よ、下りてきて戦え」と怒鳴ったが、孫権は動こうとはせず、張遼の率いる軍勢が少ないと眺め見てとるや、結集して幾重にも張遼を囲んだ。張遼は左右に包囲陣を指差しつつも、まっすぐ前進して急撃すると包囲は解け、張遼は麾下数十人を率いて脱出することができた。残された連中が呼び叫んだ。「将軍は我らを見棄てられるのですか!」張遼は再び引き返して包囲陣に突入し、残された連中を引っ張り出した。孫権の人馬はみなき(武帝紀参照)、敢えてぶつかっていく者はなかった。明け方から戦い続けて日中になったが、の人々が戦意を喪失したので、引き揚げて守備を固めたが、軍勢の心は落ち着いていたので諸将はみな感服した。孫権は合肥を十日余りも見守ったが、城を陥落させることができず、ようやく引き退いた。張遼は諸軍を率いて追撃し、もう少しで孫権を捕らえられそうだった。太祖は張遼を大いに勇壮に思い、征東将軍に任命した。[一]建安二十一年(二一六)、太祖は再び孫権を征討し、(翌年?)合肥に着陣したが、張遼が戦った場所を巡察し、長いあいだ歎息した。そこで張遼の手勢を増やしてやり、諸軍を多数留め置いて、屯所を居巣に移した。

[一] 孫盛は言う。兵というのは元来が詭道であり、奇と正が助け合っているものだ。将軍に命令を下して出征させる場合には、を押しながら権限を委ね、あるときは率然の形に任せ、あるときは掎角の勢に頼るものだが、もろもろの将帥たちが不和であれば、それは軍を棄てる道となる。合肥の守備に至っては、県は弱く無援であり、勇敢な者に専任すれば戦闘を好んで患いを生じ、怯懦な者に専任すれば怖じ気づいて保つことは難しかろう。彼は多勢、我は寡勢だったのだから、(彼は)必ず怠惰を貪る気持ちを抱くだろう。命懸けの兵でもって怠惰を貪る兵を撃てば、その形勢からいって必ず勝つのである。勝ったのち守る。守りは必ずや堅固である。それゆえ魏武(曹操)は(人柄の)四角いのや円いのから選び出し、同じもの違ったものを並べ、これらに秘密の命令を与え、彼らの力を削いだり伸ばしたりした。事変の起こるや(計画と結果が)照応し、割り符を繋ぐように合致していた。絶妙である!

関羽曹仁を包囲したとき、ちょうど孫権が藩を称したので、張遼および諸軍を召し返し、全軍を引き揚げて曹仁を救援させた。張遼がまだ到着しないうちに、徐晃が先に関羽を破って曹仁の包囲を解いた。張遼は摩陂で太祖と落ち合った。張遼の軍勢が到着すると、太祖はに乗って出迎え、彼を慰労し、帰還して陳郡に屯させた。文帝曹丕)が王位に即くと、前将軍に異動となった。[一]封地を分割して兄張汎および一子を列侯とした。孫権が再び叛いたので、張遼を派遣して合肥駐屯に還らせ、張遼の爵位を都亭侯に進めた。張遼の母に輿車を支給し、さらに兵馬で張遼の家(家族)が屯所に赴くのを護送させ、張遼の母が到着したならば先導や従者は出迎えよと勅命を下した。監督下の諸軍の将吏はみな道路脇に居並んで拝礼し、見物人はこれを光栄なことだと思った。文帝が践祚すると晋陽侯に封ぜられ、食邑千戸を加増されて、以前と合わせて二千六百戸となった。黄初二年(二二一)、張遼は洛陽宮に朝覲したが、文帝は張遼を招いて建始殿で謁見し、呉を破ったときの状況について親しく下問した。帝は歎息して左右の者を振り返りつつ言った。「この人は古代の邵虎である。」彼のために邸宅を建て、さらに特別に張遼の母の宮殿を造ってやり、張遼が呉を破ったときに従えていた応募の歩兵をみな虎賁とした。孫権がまた藩を称したので、張遼は引き揚げて雍丘に屯したが、病気にかかってしまった。帝は侍中劉曄を派遣し、太医を連れて行って診療させた。虎賁たちが消息を尋ねようと道路に集まった。病気がまだ癒えないので、帝は張遼を行在所に迎え入れ、車駕で親しく見舞って彼の手を取り、御衣を賜り、太官が毎日御膳を送ることとした。病気が少し癒えたところで屯所に還った。孫権がまたもや叛逆したので、帝は張遼を舟に乗せて派遣し、曹休とともに海陵まで行かせて長江に臨ませた。孫権は非常に恐れ憚り、諸将たちに命令した。「張遼は病気とはいえ当たることはできまいぞ。気を付けよ!」この歳、張遼は諸将とともに孫権の将呂範を打ち破った。張遼の病気はついにひどくなり、江都において薨じた。帝は涙を流し、して剛侯と言った。子の張虎が嗣いだ。六年、帝は張遼・李典が合肥にいたときの功績を思い起こし、詔勅を下して言った。「合肥の役において、張遼・李典は歩兵八百をもって賊軍十万を破った。古代以来の用兵でも、これ程のものはなかった。賊どもには今にいたるまで戦意喪失させておるが、国家にとって爪牙と言うべきであろう。そこで張遼・李典の食邑からおのおの百戸を分割し、一子に関内侯の爵位を下賜する。」張虎は偏将軍となり、薨ずると子の張統が嗣いだ。

[一] 『魏書』に言う。王は張遼に千匹・穀物一万斛を賜った。

楽進伝

楽進文謙といい、陽平衛国の人である。容貌は短小ながら、胆玉の激しさによって太祖曹操)に従い、帳下の役人となった。(太祖は彼を)本郡に還らせて募兵させ、千人余りを手に入れ、帰還すると軍の仮司馬陥陳都尉陥陣都尉)とした。(太祖に)従軍して濮陽呂布を、雍丘張超を、橋蕤を攻撃し、みな先登となって功績を立て、広昌亭侯に封ぜられた。従軍して安衆張繡を征し、下邳で呂布を包囲して別働隊の将を破り、射犬眭固を撃ち、劉備を攻め、それらを全て破り、討寇校尉を拝命した。黄河を渡って獲嘉を攻め、帰還すると、従軍して官渡袁紹を撃ち、奮戦して袁紹の将淳于瓊を斬った。従軍して黎陽袁譚・袁尚を撃ち、その大将厳敬を斬り、行遊撃将軍となった。別働隊として黄巾賊を撃ち、それを打ち破って楽安郡を平定した。従軍してを包囲し、鄴が平定されると、従軍して南皮で袁譚を撃ち、先登となって袁譚の東門に突入した。袁譚が敗北すると別働隊として雍奴を攻撃し、それを打ち破った。建安十一年(二〇六)、太祖は漢帝に上表し、楽進および于禁・張遼を称えて言った。「武力が弘大であるうえ、計略は用意周到、性質は忠義一途、節義を守り抜き、戦闘攻撃に臨むたび、いつも監督統率者となり、強敵にも奮戦し固守にも突撃し、堅陣でも陥落しないことはなく、自らと太鼓を手繰り寄せ、手は倦むことを知りません。また別働隊として征伐に派遣すれば、師団旅団を統御し、軍勢を慰撫して和合させ、命令を奉じて(法を)犯すことなく、敵にぶつかっては勝利を制し、遺失することがございません。功績を論じて登用を記し、おのおの顕彰し寵遇すべきであります。」こうして于禁は虎威将軍、楽進は折衝将軍、張遼は盪寇将軍となった。

楽進は別働隊として高幹を征討し、北道に沿って上党に入り、迂回して彼の背後に出た。高幹らは引き揚げて壺関を守ったが、連戦して(敵の兵士を)斬首した。高幹が堅守していて下せなかったが、ちょうど太祖が自ら征討することになり、ようやく陥落した。太祖は管承を征伐せんと淳于に着陣し、楽進・李典を派遣してそれを撃たせた。管承は潰走して海島に逃げ込み、海岸地帯は平定された。荊州が未だに帰服していなかったので、派遣して陽翟させた。のちに荊州平定に従軍した。(太祖が引き揚げたあとも)残留して襄陽に屯し、関羽・蘇非らを攻撃して彼らをみな逃走させた。南郡諸県の山谷の蛮夷が楽進のもとに参詣して降服した。また劉備の(任命した)臨沮県長杜普旌陽の県長梁太を征討し、彼らを全て大破した。のちに孫権征討に従軍し、(太祖は)楽進にした。太祖は帰還するとき、楽進を張遼・李典とともに留めて合肥に屯させ、食邑五百(戸)を加増し、以前と合わせて都合千二百戸とした。楽進がしばしば功績を立てたことから、五百戸を分割して一子を列侯に封じた。楽進は右将軍に昇進した。建安二十三年に薨じ、して威侯と言った。子の楽綝が嗣いだ。楽綝は剛毅果断で父の風格を持っており、官位は揚州刺史まで昇った。諸葛誕は反逆したとき、楽綝に襲いかかって殺害した。詔勅を下して彼を悼み惜しみ、衛尉を追贈し、諡して愍侯と言った。子の楽肇が嗣いだ。

于禁伝

于禁文則といい、泰山鉅平の人である。黄巾賊が蜂起すると、鮑信が人数を招き集めていたので、于禁は付き従った。太祖曹操)が兗州を領したとき、于禁は仲間たちとともに参詣して都伯となり、将軍王朗に所属した。王朗は彼に目を見張り、于禁の才能は大将軍を任せられると推薦した。太祖は召し寄せて語り合い、軍司馬の官を授け、軍勢を率いて徐州へ行かせた。広威を攻めてこれを陥落させ、陥陳都尉陥陣都尉)に任命された。(太祖に)従軍して濮陽呂布を討伐したとき、別働隊として城南で呂布の二陣営を破り、また別働隊として須昌高雅を破った。寿張・定陶・離狐の攻撃に従軍し、雍丘では張超を包囲し、これらを全て陥落させた。黄巾賊劉辟・黄邵らの征伐に従軍し、版梁した。黄邵らが太祖の軍営に夜襲をかけてきたので、于禁は麾下を率いて彼らを撃破し、劉辟・黄邵らを斬って、その軍勢をことごとく降服させた。平虜校尉に昇進した。における橋蕤包囲に従軍し、橋蕤ら四人の将を斬った。従軍してに着陣すると張繡は投降した。張繡がまたも叛逆すると、太祖は彼と戦って不利となり、軍勢は敗北し、舞陰に撤退した。このとき軍中は混乱し、各人が密かに太祖のもとへ行こうとした。于禁ただ一人だけは部下数百人を率い、戦っては引き、引いては戦い、死傷者が出ても離脱しなかった。賊の追撃がやや緩やかになったところで、于禁はゆっくりと隊列を整え、鼓を鳴らしながら撤退した。まだ太祖の居所に行き着かないうち、道中で十人余りの者が傷を負い鎧も着けずに逃走するのを見かけた。于禁がその訳を質問すると、「青州兵に略奪されたのです」と言う。むかし黄巾賊が投降して「青州兵」と呼ばれていたが、太祖が彼らを寛容に扱ったので、そうした経緯によりかかって略奪をなしたのである。于禁は憤怒し、その軍勢に命令を下して言った。「青州兵とは同じく曹公に属していたが、それなのにまたも賊になりおったか!」そこで彼らを討ち、彼らを責め立てて有罪とした。青州兵はあわてて逃走し、太祖のもとに参詣して告訴した。于禁が(太祖の軍営まで)到達すると、真っ先に陣営塁壁を築き、すぐには太祖に拝謁しようとはしなかった。ある者が于禁に告げた。「青州兵がすでに君を告訴いたしました。早く公を参詣してそれについて弁解なさいませ。」于禁は言った。「いま賊が背後に迫り、追い付いてくるまでもう間もない。真っ先に備えずして、どうやって敵を待ち受けるのか?それに公は聡明であらせられ、讒訴などどうして取り上げられよう!」悠然と塹壕を掘り、陣営を固め終わってから、やっと中に入って拝謁し、つぶさに事実を陳述した。太祖は喜んで于禁に告げた。「淯水の危難は、にとって緊急事態であった。将軍は混乱の中にあってよく整い、暴を討ち塁を堅めた。動かしがたい節義を持つという点では、古代の名将でも、どうしてこれ以上であろうか!」こうして于禁の前後にわたる功績を査定し、益寿亭侯に封じた。また従軍してで張繡を攻め、下邳で呂布を生け捕りにし、別働隊として史渙・曹仁とともに射犬眭固を攻めて打ち破り、これを斬った。

太祖が袁紹征討を始めたとき、袁紹の軍勢は盛強であったが、于禁は先登になることを志願した。太祖は彼を勇壮に思い、そこで歩兵二千人をやって于禁に率いさせ、延津を守備して袁紹と対峙させ、太祖は軍勢をまとめて官渡に引き揚げた。劉備徐州をこぞって叛逆したので、太祖は東進してこれを征討した。袁紹が于禁を攻撃したが、于禁が堅守したので、袁紹は陥落させることができなかった。また楽進らとともに歩騎五千人を率い、袁紹の別働隊の陣営を攻撃することになり、延津から西南へ黄河沿いに進み、汲・獲嘉両県まで行くと、三十余りの保塁を焼き払い、斬首・捕虜はおのおの数千人、袁紹の将何茂・王摩ら二十人余りを降した。太祖はまた于禁に別働隊として原武に屯させ、杜氏津で袁紹の別働隊陣営を攻撃させると、これを打ち破った。裨将軍に昇進し、のちに随従して官渡に帰還した。太祖は袁紹に対し、陣営を連ね、土山を掘り起こして対峙した。袁紹が陣中に矢を射込み、士卒の多数が死傷したので軍中は恐怖した。于禁は土山の守兵を督促して奮戦したので、士気は次第に奮起するようになった。袁紹が破られると、偏将軍に昇進した。冀州は平定された。昌豨がまたもや叛逆したので、于禁を派遣して征討させた。于禁は急行して昌豨を攻撃したが、昌豨は于禁と旧交があったので、于禁のもとに参詣して降服した。諸将たちはみな、昌豨は既に降服したのだから太祖のもとへ送致すべきだと言ったが、于禁は「諸君らは公のいつものご命令をご存じないのか!包囲したのちに降服した者は赦免しないものだ。法律を奉り命令を執行するのは、お上に仕える者の節義である。昌豨は旧友ではあるが、于禁が節義を失ってよいものか!」と言い、自ら昌豨と対面して別れを告げ、涙をこぼしながら彼を斬首にした。このとき太祖は淳于に着陣したところだったが、(于禁が昌豨を処断したと)聞いて、歎息した。「昌豨は降服するとき、吾のもとに参詣せず于禁に身を寄せた。天命でないと言えようか!」ますます于禁を重用するようになった。[一]東海が平定されると、于禁に虎威将軍の官を授けた。のちに臧霸らとともに梅成を攻撃し、張遼・張郃らは陳蘭を討伐した。于禁が着陣したところで、梅成は軍勢三千人余りを挙げて投降した。降服するなりまたもや叛逆し、の軍勢、陳蘭のもとに出奔した。張遼らは陳蘭と対峙していて軍糧が少なくなっていたが、于禁が前後相継いで食糧を運送したので、(彼のおかげで)張遼はついに陳蘭・梅成を斬った。食邑を二百戸加増し、以前と合わせて千二百戸とした。このとき、于禁は張遼・楽進・張郃・徐晃とともに名将とされ、太祖が征伐に出るたび、みな代わるがわる、進攻のときは先鋒となり、撤退のときは殿軍となっていた。そして于禁が軍勢を統括するのは厳整であり、賊から財物を手に入れても私蔵しなかったため、賞賜は格別に手厚かった。しかしながら法律によって下の者を制御しようとしたため、兵士の心はひどく離れてしまった。太祖はいつも朱霊を恨み、その軍営を没収しようと思っていた。于禁が威厳と重厚さを備えていたので、于禁に数十騎を率いさせて命令文書を伝えさせ、ただちに朱霊の軍営に赴いてその軍勢を没収させた。朱霊および部下の人数はあえて動くことができなかった。そこで朱霊を于禁の部下として監督させると、人々はみな震え上がって服従した。彼が恐れ憚られていたのはこれ程であった。左将軍に昇進させて節鉞し、食邑五百戸を分割して一子を列侯に封じた。

[一] 臣裴松之は考える。包囲したのちに降服した者を、法律では赦免しないことになっているとはいえ、囚人として送致しても命令違反にはならないのだ。于禁はまるで旧交(昌豨)のために万一を希求することもなく、そのくせ殺戮を好む心を欲しいままにし、人々の提案に逆らった。しまいに虜囚となり、死んで悪いを与えられたのも当然である。

建安二十四年(二一九)、太祖は長安に在陣したとき、曹仁をやって関羽を討伐させ、さらに于禁を派遣して曹仁を援助させた。秋、大長雨となり、漢水は溢れ、平地でも水位は数丈にもなり、于禁らの七軍はすべて水没した。于禁は諸将とともに高みに登って水を見下ろしたが、回避できる場所はなかった。関羽が大船に乗って于禁らを攻撃し始めたので、于禁はついに降服した。ただ龐悳だけは節義を枉げることなく死んだ。太祖はそれを聞いて、哀しみ歎くこと久しく、(しばらくして)言った。「吾は于禁を知ること三十年になる。危機に臨んで困難に処するにあたり、まさか龐悳にも及ばぬなどと、どうして思えたものだろうか!」ちょうどそのころ孫権が関羽を捕虜にして、その軍勢を手に入れ、于禁もまたに送られた。文帝曹丕)が践祚すると、孫権は藩を称して于禁を帰還させた。帝が于禁を引見すると、(于禁は)鬚も髪も真っ白で、姿形は憔悴しており、涙を流して平伏した。帝は荀林父・孟明視の故事を引いて慰め諭し、[一]任命して安遠将軍とした。呉への使者として遣そうと思い、その前に北へに赴いて高陵を参拝するよう命じた。帝はあらかじめ陵の建物に絵を描かせておいた。関羽が戦いに勝利し、龐悳が憤然と怒り、于禁は降服しているといった有様である。于禁は(それを)見て、恥じらいと怒りのため病気にかかり、薨去した。子の于圭益寿亭侯の封爵を嗣いだ。于禁にして厲侯と言った。

[一] 『魏書』に載せる詔勅に言う。「むかし荀林父はにおいて敗北し、孟明において軍勢を失ったが、も更迭せず、その位に戻してやった。その後、晋はの地を手に入れ、秦は西戎に霸を称えた。まちまちとした小国でさえ、それでもまだそうだったのだ。ましてや万乗(の大国)ならばどうか?樊城の敗北は水害がにわかに起こったためで、戦いにおける失敗ではないのだ。そこで于禁らの官職を復帰させよう。」

張郃伝

張郃儁乂といい、河間の人である。漢末、黄巾賊討伐の募兵に応じて軍司馬となり、韓馥に属した。韓馥が敗れると、軍勢をこぞって袁紹に帰服した。袁紹は張郃を校尉として公孫瓚と対峙させた。公孫瓚が破れたとき、張郃は功績が多かったため寧国中郎将に昇進した。太祖曹操)が官渡で袁紹と対峙したとき、[一]袁紹は将淳于瓊らに輸送部隊を監督させて烏巣させていたが、太祖は自らそれを急襲しようとした。張郃は袁紹を説得して言った。「曹公の軍勢は精悍で、行けば必ず淳于瓊らを破るでありましょう。淳于瓊らが破られれば、将軍の事業は台無しですぞ。急遽、軍勢を率いて救援すべきです。」郭図が言った。「張郃の計略はまずい。奴らの本営を攻撃するに越したことはなく、情勢からいって必ず引き返します。これぞ救わずして自ずと解くというものであります。」張郃は言った。「曹公の陣営は堅固であり、これを攻撃してもきっと陥落させられますまい。もし淳于瓊らが生け捕りになったら、吾らも残らず捕虜になってしまいましょうぞ。」袁紹はただ軽騎兵だけを派遣して淳于瓊を救わせ、そして重装兵でもって太祖の陣営を攻撃したが、陥落させられなかった。太祖は果たして淳于瓊らを打ち破り、袁紹軍は潰滅した。郭図は恥ずかしく思い、また改めて張郃を讒言した。「張郃は軍の敗北を喜び、吐く言葉も不遜です。」張郃は恐怖し、そこで太祖のもとに身を寄せた。[二]

[一] 『漢晋春秋』に言う。張郃は袁紹を説得して言った。「公は勝利を重ねておられますが、しかし曹公と戦ってはなりませぬ。密かに軽騎兵を派遣して彼らの南方を脅かせば、(曹公の)軍勢は自ずと敗れることでしょう。」袁紹はそれを聞き入れなかった。

[二] 臣裴松之が『武紀』および『袁紹伝』を調べてみると、いずれも、袁紹は張郃・高覧に太祖に陣営を攻撃させたが、張郃らは淳于瓊が破られたと聞いてそのまま来降し、袁紹の軍勢はそのために大潰滅した、と言っている。これは張郃らの降服がきっかけとなり、そのあと袁紹軍が崩壊したということになる。この『伝』になると、袁紹軍が先に潰滅していて、(張郃は)郭図の讒言を恐れ、そのあとで太祖に身を寄せたとしており、ちぐはぐになっていて同じでない。

太祖は張郃を得ると、非常に喜んで言った。「むかし(伍)子胥は早く目覚めなかったため、我が身を危険にさらした。どうして微子を去り、韓信に帰参した程度のことであろう?(それ以上である。)」張郃を偏将軍に任じて都亭侯に封じた。率いてきた軍勢を(そのまま)授かり、攻撃に従軍してこれを陥落させた。また従軍して渤海袁譚を撃ち、別働隊として軍勢を率いて雍奴を囲み、これを大いに打ち破った。のちに柳城を討伐したとき、張遼とともにそろって先鋒となり、功績によって平狄将軍に昇進した。別働隊として東萊を征伐し、管承を討伐した。また張遼とともに陳蘭・梅成らを征討し、これらを打ち破った。従軍して馬超・韓遂渭南で破った。安定を包囲し、楊秋を降した。夏侯淵とともにの賊梁興および武都族を討伐した。また馬超を破り、宋建を平らげた。太祖が張魯を征討したとき、まず張郃に諸軍を監督しつつ興和の氐王竇茂を討伐させた。太祖は散関から漢中に入ると、また先に、張郃に歩兵五千人を監督しつつ前を行かせ、道路を開通させた。陽平に到達すると張魯が降服したので、太祖は帰還し、張郃を夏侯淵らとともに残して漢中を守らせ、劉備と対峙させた。張郃は別働隊として諸軍を監督し、巴東・巴西の二郡を降し、その住民を漢中に移住させた。進撃して宕渠に布陣したが、劉備の将張飛に阻まれて南鄭に引き揚げた。盪寇将軍を拝命する。劉備が陽平に屯すると、張郃も広石に屯した。劉備は精兵一万人余りを十部隊に分け、夜間、張郃を急襲した。張郃は親衛兵を率いて格闘し、劉備は勝つことができなかった。その後、劉備が走馬谷で本営を焼いたので、夏侯淵は火災を鎮めようと間道を縫ううち、劉備と遭遇し、戦闘となり、(接近戦になって)短刀の刃を交えた。夏侯淵はついに戦没し、張郃は陽平に引き揚げた。[一]このとき元帥を失ったばかりで、劉備が(その弱みに)乗じるのではないかと恐れ、三軍はみな顔色を失った。夏侯淵の司馬郭淮はそこで軍勢に命令を下した。「張将軍は国家の名将であり、劉備に恐れ憚られている。今日の緊急事態は、張将軍であらねば鎮めることはできまい。」ついに張郃を推し立てて軍のとした。張郃は(を)出て、兵卒をまとめて陣営を鎮め、諸将はみな張郃の指図を受け、軍勢の気持ちは落ち着いた。太祖は長安にいて、使者を派遣して張郃にした。太祖はそのまま自ら漢中に着陣したが、劉備は高山に楯籠って戦おうとはしなかった。太祖はそこで漢中の諸軍を引き揚げさせ、張郃も撤退して陳倉に屯した。

[一] 『魏略』に言う。夏侯淵は都督ではあったが、劉備は張郃を恐れ憚って夏侯淵を軽く見ていた。夏侯淵を殺したとき、劉備は言った。「奴らの首魁を落とすべし。この程度のことがどうだと言うのか!」

文帝曹丕)は王位に即くと、張郃を左将軍とし、爵位を都郷侯に進めた。践祚するに及んで、封爵を鄚侯に進めた。詔勅を張郃に下して曹真とともに安定の盧水胡および東羌を討たせ、張郃と曹真を召し寄せ、ならんでの宮殿に参朝させ、南に派遣して夏侯尚とともに江陵を撃たせた。張郃は別働隊として諸軍を監督しつつ長江を渡り、中洲の上の砦を攻略した。明帝曹叡)は即位すると、南に派遣して荊州に屯させ、司馬宣王司馬懿)とともに孫権の別将劉阿らを撃ち、祁口まで追走し、交戦のすえ彼を打ち破った。諸葛亮祁山に進出してきた。張郃に特進の位を加増し、諸軍を監督して諸葛亮の将馬謖街亭で防がせた。馬謖は南山を頼みとして、下山して城に楯籠らなかった。張郃は彼の水汲みの道を絶ち切り、攻撃し、これを大いに打ち破った。南安・天水・安定郡は反逆して諸葛亮に呼応していたが、張郃はみな打ち破ってこれらを平定した。詔勅に言う。「賊諸葛亮は巴蜀の人数でもって、吼えたける虎のごとき(本朝の)軍勢に当たろうとした。将軍は堅き(甲冑)を身に着け鋭き(矛)を手に取り、至るところで勝利を収めた。朕ははなはだこれを嘉するものである。食邑千戸を加増し、以前と合わせて四千三百戸とする。」司馬宣王は荊州で水軍を調練し、沔水に乗って長江に入り、を討伐しようとしていた。張郃に詔勅を下して関中諸軍を監督して(荊州へ)行かせ、(宣王の)指図を受けさせた。荊州に到着したが、ちょうど冬季で水深の浅い時期にあたり、大船は進むことができず、そこで引き揚げて方城に屯した。諸葛亮が再び進出して、陳倉を急襲した。帝は駅馬によって張郃を召し寄せ、京都に来させた。帝は自ら河南城に行幸し、酒宴を設けて張郃を送り出すことにし、南北の軍兵三万人を遣し、さらに武威・虎賁(近衛兵)を分けて張郃を護衛させてやり、そのとき張郃に下問した。「将軍の到着したには、諸葛亮がすでに陳倉を手に入れているのではないだろうか!」張郃は諸葛亮が軍を深入りさせて食糧がなく、長い間攻め続けることができないことを知っていたので、「臣が到着しないうちに諸葛亮はすでに逃走しておりましょう。指折り数えますと、諸葛亮の食糧は十日と持ちますまい」と答えた。張郃が朝も夜も行軍して南鄭に着陣すると、諸葛亮は撤退した。詔勅によって張郃を京都に召還し、征西(の職務を代行する)車騎将軍に任命した。

張郃は変幻術数の道を識り、軍陣経営の始末を善くし、戦況地形を思料し、計略通りにならないことはなく、諸葛亮以下、みな彼を恐れ憚っていた。張郃は武将でありながら儒者を愛好し、かつて同郷の卑湛経明行修として推薦したこともあった。詔勅に言う。「むかし祭遵は将であったが、五経大夫を設置するよう奏上し、軍中にあるときも、もろもろの書生たちとともに雅歌投壺をした。いま将軍は外において軍旅を率い、内において朝廷を念じている。朕は将軍の心を嘉する。いま卑湛を抜擢として博士にしよう。」

諸葛亮がまたも祁山に進出してきたので、詔勅を下して張郃に諸将を監督させ、西進して略陽に赴かせた。諸葛亮が引き揚げて祁山に楯籠ったので、張郃は追走して木門まで行き、諸葛亮軍と交戦したが、飛来した矢が張郃の右膝に当たり、薨去した。[一]して壮侯と言った。子の張雄が嗣いだ。張郃は前後して征伐に功績を立てていたので、明帝は張郃の戸数を分割し、張郃の四子を列侯に封じ、末子に関内侯の爵位を賜った。

[一] 『魏略』に言う。諸葛亮の軍勢が撤退すると、司馬宣王は張郃に追撃させた。張郃は言った。「軍法では、城を包囲するときは必ず脱出路を開けておき、帰還する軍勢を追撃してはならぬとあります。」宣王が聞き入れなかったので、張郃はやむを得ず進発した。蜀軍は高みに登って伏兵を布き、弓や弩を乱発した。矢は張郃のに当たった。

徐晃伝

徐晃公明といい、河東の人である。郡吏となり、車騎将軍楊奉の賊徒討伐に従軍して功績を立て、騎都尉を拝命した。李傕・郭氾長安を混乱させたとき、徐晃が、天子を奉じて洛陽に帰還するよう楊奉を説得すると、楊奉はその計略を聞き入れた。天子は黄河を渡って安邑に行幸し、徐晃を都亭侯に封じた。洛陽に到達したところ、韓暹・董承が日ごとに闘争するので、徐晃は太祖曹操)に帰服するよう楊奉を説得した。楊奉はそれに従おうとしたが、後になって悔やんだ。太祖がにおいて楊奉を討つと、徐晃はついに太祖に帰参した。

太祖は徐晃に軍勢を授け、原武の賊を攻撃させ、彼らを打ち破ったので、裨将軍に任命した。呂布征討に従軍し、別働隊として呂布の将趙庶・李鄒らを降服させた。史渙とともに河内眭固を斬った。(太祖に)従軍して劉備を撃破し、さらに従軍して顔良を撃破し、白馬を陥落させ、進軍して延津に行き、文醜を撃破して偏将軍を拝命した。曹洪とともにインの賊祝臂を攻撃し、これを打ち破り、また史渙とともに故市において袁紹の輸送車両を攻撃し、功績は最も多く、都亭侯に封ぜられた。太祖はを包囲して邯鄲を打ち破ったが、易陽県令韓範が城をこぞって降服すると偽りつつ防ぎ守ったので、太祖は徐晃を派遣してこれを攻めさせた。徐晃は着陣すると、矢を城内に飛ばし、成功失敗について説明してやった。韓範が悔悛したので、徐晃はすぐさま彼を降服させた。そのあと太祖に進言した。「二袁袁譚・袁尚)は未だ破られておらず、諸城のうち陥落しないものは耳を傾けて(戦場からの報告を)聞いており、今日、易陽が滅ぼされたならば、明日にはみな死に物狂いで守りを固め、河北は平定するひまもなくなる恐れがございます。どうか公は易陽を降服させて(恩愛を)諸城へお示しくだされ。さすれば威風を待望せぬ者はありますまい。」太祖はそれを善しとした。別働隊として毛城を討ち、伏兵を設けて急撃し、三つの屯営を打ち破った。従軍して南皮で袁譚を打ち破り、平原の叛逆した賊を討伐し、これらに打ち勝った。蹋頓征討に従軍し、横野将軍を拝命した。荊州征圧に従軍し、別働隊としてし、中廬・臨沮・宜城の賊を討った。また満寵とともに漢津関羽を追討し、曹仁とともに江陵周瑜を攻撃した。十五年、太原の反逆者を討ち、太陵を包囲のすえに陥落させ、賊の統帥商曜を斬った。韓遂・馬超らが関右関西)で反逆すると、(太祖は)徐晃を派遣して汾陰に屯させて河東を慰撫し、牛酒を下賜して先人の墓に献じさせた。太祖は潼関に着陣したが、(黄河を)渡ることができないのではと心配し、徐晃を召し寄せて訊ねた。徐晃は言った。「公がこの地で軍勢を催しておられますのに、賊どもはまるで別働隊を立てて蒲阪を守備しようとしておらず、その無謀さが分かります。いま臣に精兵をお貸しいただければ、[一]蒲阪津を渡り、軍の御為に先取りし、彼らの背後を遮断いたしましょう。賊どもは生け捕りになるばかりです。」太祖は言った。「素晴らしい。」徐晃をやって歩騎四千人でを渡らせた。塹壕や防壁の工事が完成しないうち、賊の梁興が夜中、歩騎五千人余りを率いて徐晃を攻撃したが、徐晃はこれを撃破して逃走させた。太祖の軍勢は渡河することができ、こうして馬超らを打ち破ったのである。(太祖は)徐晃をやって夏侯淵とともに隃麋・汧のもろもろの族を平定させ、太祖と安定で合流させることにした。太祖が鄴に帰還し、徐晃をやって夏侯淵とともに鄜・夏陽の賊の残党を平定させると、(徐晃らは)梁興を斬り、三千戸余りを降服させた。張魯征討に従軍した。別働隊として徐晃を派遣し、櫝・仇夷の諸山の氐族を討ち攻め、彼らをみな降服させた。平寇将軍に昇進した。将軍張順への包囲を解き、賊の陳福らの三十余りの屯所を攻撃し、これらを全て打ち破った。

[一] 臣裴松之は言う。勘案するに、徐晃は当時まだ臣と称していなかったはずだ。伝写した者の誤りである。

太祖は鄴に帰還すると、徐晃を夏侯淵とともに留めて陽平で劉備を防がせた。劉備は陳式ら十余りの軍営を派遣して馬鳴閣道を遮断させ、徐晃は別働隊として征討し、これを打ち破ったが、賊兵のうちには、自ら山谷に身を投げて死ぬ者も多かった。太祖は聞いて非常に喜び、徐晃にし、布令を下した。「この閣道桟道)は漢中の要害の咽喉である。劉備は内外を断絶して漢中を奪おうとしたが、将軍は一挙にして賊の計略を骨抜きにした。善のなかの善たるものである。」太祖はかくて自ら陽平に着陣し、漢中諸軍を率いて外に出した。再び徐晃を派遣して曹仁の関羽征討に助力させ、に屯した。ちょうどそのとき漢水がにわかに溢れかえり、于禁らは水没した。関羽は曹仁を樊で包囲し、さらに将軍呂常襄陽で包囲した。徐晃が率いているのは新兵が多く、関羽と矛先を争うには困難であったため、そのまま進軍して陽陵陂まで行って屯した。太祖は再び還ると、将軍徐商・呂建らを徐晃のもとに派遣し、命令を下して言った。「兵馬が集結するのを待って、それから一斉に進軍せよ。」賊が偃城に屯していた。徐晃は着陣すると、偽って塹壕を作るのだと言い立て、彼らの背後を絶ちきるようなふりをすると、賊は屯営を焼いて逃走した。徐晃は偃城を手に入れると、両翼に陣営を連ねながら、少しづつ、賊の包囲から三丈のところまで前進した。まだ攻撃しないうちに、太祖は前後して殷署・朱蓋ら都合十二の軍営を徐晃のもとに派遣した。賊はを包囲して屯営を築いており、また別働隊が四冢に屯していた。徐晃は頭の包囲陣を攻めるぞと喧伝しつつ、密かに四冢を攻撃した。関羽は四冢が崩壊しそうなのを見て、自ら歩騎五千人を率いて出撃したが、徐晃がこれを攻撃すると逃走した。(徐晃は)そのまま追撃してともども包囲陣になだれ込み、これを打ち破った。(賊軍の)ある者などは自ら沔水(漢水)に身を投げて死ぬ程だった。太祖は布令を下して言った。「賊の包囲陣は塹壕鹿角が十重にもなっていたが、将軍は戦闘を挑んで全勝し、ついに賊の包囲陣を陥落させ、斬首捕虜を数多く挙げた。は兵を用いること三十年余りになり、古代の巧みに兵を用いる者について聞き及んでいるが、いまだかつて長駆してまっすぐ敵の包囲陣に切り込んだ者はいなかった。しかも樊・襄陽は包囲の内にあって、莒・即墨よりもひどかったのだ。将軍の功績は孫武・(司馬)穣苴を上回るものである。」徐晃は凱旋して摩陂に帰還したが、太祖は七里まで徐晃を出迎え、酒を用意して大々的に宴会を催した。太祖は盃を手にして徐晃に酌をしてやり、彼を慰労しながら言った。「樊・襄陽を全うできたのは将軍の功績である。」このとき諸軍が全て集結していたので、太祖はもろもろの陣営を訪れて慰撫したが、士卒たちはみな陣列を離れて見物しにいった。しかし徐晃の軍営だけは整然として、将兵は陣列に留まったまま身動きしなかった。太祖は感歎して言った。「徐将軍には周亜夫の風格があると言うべきか。」

文帝曹丕)は王位に即くと、徐晃を右将軍とし、封爵を逯郷侯に進めた。践祚するに及び、邦爵を楊侯に進めた。夏侯尚とともに上庸で劉備を討ち、これを破った。徐晃に陽平を鎮守させ、封爵を陽平侯に移した。明帝曹叡)が即位すると、諸葛瑾を襄陽で防いだ。食邑二百戸を加増し、以前と合わせて三千一百戸とした。病気が篤くなり、季節の衣服を着せてくれと遺言した。

性質は倹約慎重で、軍勢を率いるときはいつも遠くまで斥候を出し、あらかじめ勝てなかったときのことを考えてから(?)、そのあと戦い、敗残兵を追撃して戦利品を奪うときには、士卒は食事の暇もなかった。いつも歎息して「古代の人々は明君に遭遇できないことを心配していたものだが、いまは幸いにも遭遇できたのだ。いつも功績を立てて自分を目立たせているが、どうして私的な栄誉を貪ったりするものか!」と言い、死ぬまで交友を広めたりしなかった。太和元年(二二七)に薨去し、して壮侯と言った。子の徐蓋が嗣ぎ、徐蓋が薨去すると子の徐霸が嗣いだ。明帝は徐晃の戸数を分割し、徐晃の子孫二人を列侯に封じた。

朱霊伝

はじめ清河朱霊は袁紹の将であった。太祖が陶謙を征伐したとき、袁紹は朱霊に三つの軍営を監督させて太祖に助力させ、(朱霊は)戦闘で功績を立てた。袁紹が派遣した諸将はそれぞれ帰国したが、朱霊は「朱霊は多くの人々を見てきたが、曹公に勝る者はなかった。これこそ真の名君だ。いまもう遭遇したのに帰ってどうする?」と言い、最後まで留まって立ち去らなかった。引き連れていた士卒たちも彼を慕い、みな朱霊に随従して留まった。朱霊はのちにとうとうき将となり、名声は徐晃等に次ぎ、後将軍まで昇り、高唐亭侯に封ぜられた。[一]

[一] 『九州春秋』に言う。むかし清河の季雍をこぞって袁紹に叛き、公孫瓚に降ったので、公孫瓚は軍勢を派遣して彼を守護させた。袁紹は朱霊を派遣して彼らを攻めさせた。朱霊の家(家族)は城内におり、公孫瓚の将は朱霊の母や弟を城壁の上に出し、朱霊に投降を呼びかけた。朱霊は遠くから城を眺め、涙を流しながら言った。「丈夫たる者、一たび世に出て人に仕えたからには、どうして再び家を顧みようか!」そのまま奮戦し、これを陥落させて季雍を生け捕りにしたが、朱霊の家はみんな死んでしまった。『魏書』に言う。朱霊は字を文博という。太祖は冀州を平定すると、朱霊に新附の兵士五千人と騎馬千匹を率いての南を守らせた。太祖は彼を戒めて言った。「冀州の新附の兵士はしばしば自由奔放を許されてきたので、ここしばらくは整然としているものの、気持ちはまだ怏々としている。の名声にはとにかく威厳があるが、よくよく道義によって彼らを寛容に扱ってくれよ。さもなくばたちまち変事を起こすであろう。」朱霊は陽翟に着任すると、中郎将程昂らが果たして反乱したので、即座に程昂を斬り、状況を報告した。太祖は自分で手紙を書いて言った。「軍中で危険が起こる理由は、外では敵国と対し、内では陰謀があり、予測不可能な変化があるからである。むかし鄧禹光武帝の軍勢を二分して西方に行き、宗歆・馮愔の危難に遭い、そのあと二十四騎を率いて洛陽に帰還したが、鄧禹がどうしてそれによって(名誉を)損傷しただろうか?真心のこもった手紙が届き、過失の多くを(我が身に)引き付けているが、きっとおっしゃる通りではないだろう。」文帝は即位すると、朱霊を鄃侯に封じ、その食邑を加増してやった。詔書に言う。「将軍は天命の人たる先帝を補佐し、軍勢を司ることは長年にわたり、威厳は方(叔)・邵(虎)を上回り、功績は絳(侯)・灌(嬰)を越える。書物が褒めている者でも、どうしてこれ以上であろうか?朕は天命を蒙り、帝として海内を領有しているが、元勲の将や社稷の臣は、みな朕が幸福をともにし、これを無窮に伝える者である。いま鄃侯に封ずる。富貴となって故郷に帰らないのは、夜中に刺繡の着物で歩くようなものだ。もし平素より志願するところがあれば、遠慮なく申し述べよ。」朱霊は感謝して言った。「高唐がかねてより願っていたところです。」そこで高唐侯に転封した。薨去すると諡して威侯と言った。子の朱術が嗣いだ。

評に言う。太祖は武功を打ち建てて栄えさせたが、当時の良将といえば五人が抜きんでていた。于禁は最も剛毅重厚と呼ばれたが、しかしながらその終わりを全うしなかった。張郃は巧みな変化によって評判を得て、楽進は驍勇果断によって名声を顕したが、しかし彼らの業績を見ると、噂されている程ではない。あるいは記述に遺漏があって、張遼・徐晃のように詳細にされていないのであろうか。