利用許諾契約書

このurlで示される文書はGFDLに基づいて利用することができます(GFDL日本語訳)。ただしこの利用許諾契約書そのものは改変できません。

原著作者:【むじん書院】

李通伝

李通文達といい、江夏平春の人である。[一]俠気があったので(長)江・汝(水)地方で名を知られていた。同郡の陳恭とともに朗陵で挙兵すると、多くの人々が彼らに服従した。当時、周直という人物がいて、二千余家の人々を抱えて陳恭・李通と手を結んでいたが、表面的には協調しながら内心は裏切ろうとしていた。李通は周直殺害を計画しようとしたが、陳恭が難色を示したので、彼の決断力の無さを知って一人で計画を決め、周直と会合を約束し、酔いが回ったところで周直を殺した。人々は大騒ぎとなったが、李通は陳恭を連れて周直の幹部たちを殺し、彼の軍勢をみんな奪い取った。のちに陳恭の妻の弟陳郃が、陳恭を殺して彼の軍勢を我が物としたので、李通は陳郃の軍勢を攻撃し、陳郃の首を斬って陳恭の墓に祭った。また黄巾大帥呉霸を生け捕りにして、彼の手下たちを降伏させた。ちょうど大飢饉の歳にあたり、李通は家財をなげうって施しをし、兵士と糟糠を分け合ったので、みな争って彼のために用事をし、そのため盗賊たちも敢えて犯そうとしなかった。

[一] 『魏略』に言う。李通の小字万億といった。

建安年間(一九六~二二〇)の初め、李通は軍勢を連れて太祖曹操)に帰服した。李通は振威中郎将を授かり、汝南の西境に駐屯した。太祖が張繡を討とうとすると、劉表が兵を遣して張繡を助けたので、太祖は戦いに不利であった。李通が兵を率いて、夜になって太祖の元に駆け付けたので、太祖はふたたび戦うことができた。李通は先鋒となり、大いに張繡軍を破った。裨将軍を拝命し、建功侯に封ぜられた。汝南郡から二県が分割され、李通は陽安都尉に任じられた。李通の妻の伯父が法を犯し、朗陵県長趙儼が取り調べにあたり、大罪(死罪)に相当するとした。そのころ死刑執行の命令は州牧太守が出すことになっていたので、李通の妻子は号泣して命乞いをした。李通は言った。「曹公と力を合わせているからには、私情によって公務をおろそかにしないのが義理というものだ。」そして趙儼が法務に携わって阿諛迎合しないことを評価し、彼と付き合って親交を結んだ。太祖が官渡袁紹と対峙すると、袁紹は使者を派遣して李通を征南将軍に任じようとした。劉表も密かに李通を味方にしようとしたが、李通はいずれも拒絶した。李通の親戚や部下たちは涙を流しながら言った。「ただいま孤立して危険のなか一人で城を守っておりますが、救援の大軍はやって来ず、滅亡は立って待つばかりです。今すぐ袁紹に従うのが一番です。」李通は剣を押さえて彼らを叱りつけた。「曹公は明哲な人物であって必ず天下を平定できる。袁紹は強盛といっても任用にけじめがなく、しまいには捕虜になるだけだろう。わしは死んでも二心は持たないぞ。」そして袁紹の使者を斬り、(征南将軍の)印綬を送付して太祖に帰服することにした。羣賊の瞿恭・江宮・沈成らを攻撃し、彼らの軍勢を殺し尽くし、その首を(曹操に)送った。こうしてついに淮(水)・汝(水)地方を平定したので、改めて都亭侯に封ぜられ、汝南太守に昇進した。当時、賊の張赤らが五千余家を桃山に集めていたが、李通はこれを攻め破った。劉備周瑜とともに江陵城で曹仁を包囲し、別働隊として関羽に北道を分断させた。李通は軍勢を率いてこれを攻撃し、馬を下りて鹿角を抜き、包囲陣に入っては戦いながら突き進み、曹仁軍を救った。その武勇は諸将随一であった。李通は道中で発病して薨去した。時に四十二歳であった。所領二百戸を追増され、前と合わせて四百戸となった。文帝曹丕)が践祚すると、して剛侯とされた。詔に言う。「むかし袁紹の困難にあって、許・蔡より南では人々はみな異心を懐いていた。李通は義を守って顧みることなく、二心を懐く者たちを屈服させた。朕ははなはだこれを嘉する。不幸にして早く薨じ、子の李基がすでに爵位を継承したとはいえ、まだその勲功に酬いるには足りない。李基の兄李緒は以前、城に駐屯して功績があった。その功労は世に篤かったので、李基を奉義中郎将、李緒を平虜中郎将とし、この恩寵をもって差別する。」[一]

[一] 王隠の『晋書』に言う。李緒の子李秉は字を玄胄といい、俊才があって、当時の人々に尊敬され、官は秦州刺史まで昇った。李秉はかつて司馬文王司馬昭)の問いに答えたことがあったが、それにより『家誡』を作って言った。むかし先帝の側にお仕えしたことがあるが、当時三人の長官が罷免された。(彼らが)退出しようとしたとき、(司馬昭)はおっしゃった。「官吏の長となったからには清潔であれ、慎重であれ、勤勉であれ。この三つを心がければ、どうして治まらないことを心配する必要があるだろう?」それぞれに詔を受けて、(彼らが)退出すると、上は振り返って我々におっしゃった。「戒めようとするならば、正にこうあるべきだと思うがどうか?」お側の知恵者たちのうち賛嘆しない者はなかった。上はまた問われた。「どうしても叶わないとすれば、この三つのうち何を第一とすべきだろうか?」ある者がお答えして申し上げた。「清潔こそ根本とすべきでしょう。」次ぎにまた私に問われたので、お答えして申し上げた。「清潔さと慎重さの道は、互いに助け合って成り立っておりますが、どうしても叶わないならば、慎重さの方が大切でしょう。清潔な者が必ずしも慎重とは限らず、慎重な者が必ず清潔であろうとすることは、ちょうど仁徳のある者には必ず勇気もあって、勇気のある者に必ずしも仁徳があるとは限らないようなものです。これを『易経』では『袋をくくってお咎めなし、敷物に白茅を用いる』と申します。みな慎重さの極致であります。」上はおっしゃった。「の言葉はもっともじゃ。近世でよく慎んだ者といえば誰であろうか?」人々がまだお答えすることができないうちに、私は太尉荀景倩尚書董仲連僕射王公仲の名を挙げて、みな慎重であったと言うべきです(と申し上げた)。上はおっしゃった。「そうした人々が温恭であることは朝夕ずっとで、仕事をするときも慎みを持っていた。おのおの慎重であった。しかし天下第一に慎重さを極めているのは、阮嗣宗阮籍)ではないだろうか!つねづね彼と語り合っておるが、言葉は幽玄の境地におよび、しかしながら、未だかつて時事を評論したり、人物を批評したりはしない。真に慎重さの極致と言うべきであろうか。」私はいつもこのお言葉を思い出すたび、これもまた明らかな戒めとするに充分だと考えるのだ。だいたい人が仕事を行うには、年少のころから身を立てて、慎まなければならない。軽々しく人物を論じてはならず、軽々しく時事を説いてはならない。このようにしていれば、どうして後悔などが生じるだろうか。災禍は訪れるすべもないだろう、と。李秉の子李重の字は茂曾といい、若いころから名を知られ、官位は吏部郎平陽太守を歴任した。『晋諸公賛』に言う。李重は清潔さ、高尚さを称せられた。相国趙王司馬倫は、李重に名声があったことから右司馬に招いた。李重は司馬倫が叛乱を起こそうとしていたので、病を理由に官に就かなかった。司馬倫は彼に迫って諦めなかったので、李重はついに生の望みを棄て、危篤に陥ってから参上し、助け起こされながら任命を受けたが、数日して卒去し、散騎常侍の官を追贈された。李重の二人の弟は、李尚の字を茂仲といい、李矩の字を茂約といったが、永嘉年間(三〇七~三一三)にいずれも郡を司り、李矩は江州刺史まで昇った。李重の子李式は字を景則といい、官は侍中まで昇った。

李通傳

李通字文達,江夏平春人也.[一]以俠聞於江﹑汝之閒.與其郡人陳恭共起兵於朗陵,眾多歸之.時有周直者,眾二千餘家,與恭﹑通外和內違.通欲圖殺直而恭難之.通知恭無斷,乃獨定策,與直克會,酒酣殺直.眾人大擾,通率恭誅其黨帥,盡幷其營.後恭妻弟陳郃,殺恭而據其眾.通攻破郃軍,斬郃首以祭恭墓.又生禽黃巾大帥吳霸而降其屬.遭歲大饑,通傾家振施,與士分糟糠,皆爭為用,由是盜賊不敢犯.

[一] 魏略曰:通小字萬億.

建安初,通擧眾詣太祖于許.拜通振威中郞將,屯汝南西界.太祖討張繡,劉表遣兵以助繡,太祖軍不利.通將兵夜詣太祖,太祖得以復戰,通為先登,大破繡軍.拜裨將軍,封建功侯.分汝南二縣,以通為陽安都尉.通妻伯父犯法,朗陵長趙儼收治,致之大辟.是時殺生之柄,決於牧守,通妻子號泣以請其命.通曰:「方與曹公戮力,義不以私廢公.」嘉儼執憲不阿,與為親交.太祖與袁紹相拒於官渡.紹遣使拜通征南將軍,劉表亦陰招之,通皆拒焉.通親戚部曲流涕曰:「今孤危獨守,以失大援,亡可立而待也,不如亟從紹.」通按劍以叱之曰:「曹公明哲,必定天下.紹雖彊盛,而任使無方,終為之虜耳.吾以死不貳.」卽斬紹使,送印綬詣太祖.又擊羣賊瞿恭﹑江宮﹑沈成等,皆破殲其眾,送其首.遂定淮﹑汝之地.改封都亭侯,拜汝南太守.時賊張赤等五千餘家聚桃山,通攻破之.劉備與周瑜圍曹仁於江陵,別遣關羽絕北道.通率眾擊之,下馬拔鹿角入圍,且戰且前,以迎仁軍,勇冠諸將.通道得病薨,時年四十二.追增邑二百戶,幷前四百戶.文帝踐阼,諡曰剛侯.詔曰:「昔袁紹之難,自許﹑蔡以南,人懷異心.通秉義不顧,使攜貳率服,朕甚嘉之.不幸早薨,子基雖已襲爵,未足酬其庸勳.基兄緒,前屯樊城,又有功.世篤其勞,以基為奉義中郞將,緒平虜中郞將,以寵異焉.」[一]

[一] 王隱晉書曰:緒子秉,字玄胄,有雋才,為時人所貴,官至秦州刺史.秉嘗答司馬文王問,因以為家誡曰:「昔侍坐於先帝,時有三長吏倶免.臨辭出,上曰:『為官長當清,當愼,當勤,修此三者,何患不治乎?』並受詔.旣出,上顧謂吾等曰:『相誡勑正當爾不?』侍坐眾賢,莫不贊善.上又問:『必不得已,於斯三者何先?』或對曰:『清固為本.』次復問吾,對曰:『清愼之道,相須而成,必不得已,愼乃為大.夫清者不必愼,愼者必自清,亦由仁者必有勇,勇者不必有仁,是以易稱括囊無咎,藉用白茅,皆愼之至也.』上曰:『卿言得之耳.可擧近世能愼者誰乎?』諸人各未知所對,吾乃擧故太尉荀景倩﹑尚書董仲連﹑僕射王公仲並可謂為愼.上曰:『此諸人者,溫恭朝夕,執事有恪,亦各其愼也.然天下之至愼,其惟阮嗣宗乎!每與之言,言及玄遠,而未曾評論時事,臧否人物,眞可謂至愼矣.』吾每思此言,亦足以為明誡.凡人行事,年少立身,不可不愼,勿輕論人,勿輕說事,如此則悔吝何由而生,患禍無從而至矣.」秉子重,字茂曾.少知名,歷位吏部郞﹑平陽太守.晉諸公贊曰:重以清尚稱.相國趙王倫以重望取為右司馬.重以倫將為亂,辭疾不就.倫逼之不已,重遂不復自活,至於困篤,扶曳受拜,數日卒,贈散騎常侍.重二弟,尚字茂仲,矩字茂約,永嘉中並典郡;矩至江州刺史.重子式,字景則,官至侍中.