利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

臧霸伝

臧霸宣高といい、泰山の人である。父の臧戒は県の獄掾となり、太守が私情で(被告人を)死刑にしようとしたが、法律を根拠にして命令を聞かなかった。太守は大いに怒って、臧戒を逮捕して役所に連行させた。このとき護送する者は百余人もいた。臧霸は十八歳であったが、食客数十人を引き連れ、ただちに県の西の山中で待ち伏せして父を奪い返すと、護送する者はあえて動こうとはしなかった。こうして父とともに東海国に亡命したが、この事件によって勇壮であるとの評判が立てられた。黄巾の乱が起こると、臧霸は陶謙に従って賊を撃破し、騎都尉の官を拝した。ついに徐州で兵を募集し、孫観・呉敦・尹礼らとともに軍勢を集め、臧霸は総帥となって開陽した。太祖曹操)が呂布を討伐することになると、臧霸たちは兵を率いて呂布を支援した。呂布が捕らわれると臧霸は身を隠した。太祖は公募して臧霸を探しあて、会ってみて彼を評価し、臧霸をやって呉敦・尹礼・孫観・それに孫観の兄孫康らを招かせると、みな太祖のもとにやって来た。太祖は臧霸を琅邪国のに任じ、呉敦を利城太守、尹礼を東莞太守、孫観を北海太守、孫康を城陽太守とし、青州と徐州を分けて臧霸に委任した。太祖は兗州にいたころ徐翕・毛暉を部将に取り立てていた。兗州が乱れると徐翕・毛暉はみな叛いた。のちに兗州が平定されると、徐翕・毛暉は亡命して臧霸のもとに身を寄せた。太祖は劉備と話をして、臧霸に二人の首を送るように話を付けさせることにした。臧霸は劉備に言った。「臧霸がよく自立できるのは、そのようなこと(見捨てること)をしないからです。臧霸は公(曹操)より命を全うできるようご恩を受けましたから、あえてご命令に背こうとは思いません。しかし王霸の君主に正義について述べることはよしとされています。将軍にお願いしたい。彼らのために弁明してやってください。」劉備は臧霸の言葉を太祖に告げると、太祖は歎息して臧霸に言った。「これは古人の行ったことだが、それを君がよく行うのは、の願いでもある。」そこで徐翕・毛暉をいずれも郡守(太守)とした。当時、太祖は袁紹と対峙していたが、臧霸はしばしば精兵を率いて青州に入ったので、太祖は袁紹のことに専念することができ、東方のことを心配しなかった。太祖が南皮袁譚を破ると、臧霸らは集まって祝賀を述べた。臧霸はこの機会に、自分の子弟や諸将の父兄家族をに移住させるよう申請した。太祖は言った。「諸君の忠孝は、もうこれほどであったのか!むかし蕭何が子弟を仕官させたのを高祖劉邦)は拒まなかった。耿純が家屋を焼いて棺をかついで従ったのを光武帝は反対しなかった。どうしてがそれを軽視するものか!」東方の州に騒擾が起こると、臧霸らは正義をかかげて暴悪を征し、海岱地方をすっかり平定してしまい、功績が莫大だったのでみな列侯に封ぜられた。臧霸は都亭侯となって威虜将軍の官を加えられた。また于禁とともに昌豨を討ち、夏侯淵とともに黄巾賊の残党徐和らを討って、功績があったので徐州刺史に栄転した。沛国公武周下邳県令となっていたが、臧霸は武周を尊敬して、みずから県令の役所を訪れた。部従事謥詷(軽薄)であったため法を犯したが、武周はその犯罪が発覚すると、すぐさま逮捕して捜査をやり終えた。臧霸はますます武周を評価した。(太祖に)従って孫権を討伐したとき、先鋒となって再び巣湖に入り、居巣を攻め、これを破った。張遼陳蘭を討つことになると、臧霸は別働隊として皖城に進出し、の将軍韓当を討って孫権の陳蘭救援を阻止しようとした。韓当は兵を派遣して臧霸に抵抗させたが、臧霸はこれと逢龍で戦い、韓当はまたも兵を派遣して夾石で臧霸を迎え撃ったが、(臧霸は)ともに戦ってこれを破り、帰還してに屯した。孫権は数万人を船に乗せて舒口に屯させ、軍勢を分けて陳蘭を救おうとしたが、臧霸の軍が舒にいると聞いて逃げ帰った。臧霸は夜中これを追って、夜が明けるころまでには百余里を行き、賊を迎えて前後から挟撃した。賊は慌てふためいて船に乗ることもできず、水に溺れる者がきわめて多かった。そのため賊は陳蘭を救うことができず、張遼はついにこれを破ることができた。臧霸は(太祖に)従って孫権を濡須口で討ったとき、張遼とともに先鋒となったが、途中で豪雨となり、大軍は先に着いていたが、水位が高まって賊の船が段々と進んで来たので、将士はみな不安になった。張遼は撤退しようとしたが、臧霸は引き留めて言った。「公は利鈍を計ることに明らかです。我々を見捨てるようなことがあるでしょうか?」翌日、はたして(撤退の)命令があった。張遼は到着すると(臧霸の言葉を)太祖に語った。太祖はこのことに感心し、(臧霸に)揚威将軍の官を授け、仮節とした。のちに孫権が降服を乞うたので、太祖は帰還し、臧霸と夏侯惇らに留守を任せて居巣に屯させた。

文帝曹丕)が王位に即くと鎮東将軍に昇進し、爵位は武安郷侯に進められ、都督青州諸軍事となった。(文帝が)践祚するに及んで開陽侯に進められ、良成侯に転封となった。曹休とともに呉の賊を討ち、呂範洞浦で破り、中央に召し返されて執金吾となり、特進の位を与えられた。軍事問題が起こるたび、帝はいつも(彼に)質問した。[一]明帝曹叡)が即位すると、領邑は五百戸に加増され、前と合わせて三千五百戸となった。薨去すると、して威侯とされた。子の臧艾が嗣いだ。[二]臧艾は青州刺史・少府の官まで昇った。臧艾が薨去すると、諡して恭侯とされた。子の臧権が嗣いだ。臧霸には前後して功績があったので、子三人は列侯に封ぜられ、一人は関内侯の爵位を賜った。[三]

[一] 『魏略』に言う。臧霸は別名を奴寇という。孫観は嬰子と名乗り、呉敦は黯奴と名乗り、尹礼は盧児と名乗った。建安二十四年(二一九)、臧霸は別働隊を派遣して洛陽に駐留させた。ちょうど太祖が崩御したとき、臧霸に所属する部隊と青州兵とは、天下が乱れそうだと思い、みな鼓を鳴らしながら勝手に立ち去った。文帝は即位すると、曹休を青州・徐州の都督とした。臧霸は曹休に告げて言った。「国家(天子)はまだ臧霸の意見を聞こうとはなさりません!もし仮に臧霸に歩騎一万人があれば、必ずや江表を行き来してみせましょう。」曹休はこれを帝に言上したが、帝は臧霸の軍兵が以前、勝手に立ち去ったことを疑っており、今このときも意志の雄壮さはこのような有様であった!ついに東方へ巡幸して、臧霸が参内するのを利用して彼の軍兵を取り上げた。

[二] 『魏書』に言う。臧艾は若いころから才能理論を称賛され、黄門郎となり、郡守の位を歴任した。

[三] 臧霸の一子臧舜は字を太伯といい、散騎常侍になったことが『武帝百官名』に見える。この『百官名』は誰が編集したのかわからない。(人物の)それぞれに題目があって、臧舜を「才気はまっすぐに伸びており、見識はよく時宜を助けた」と称えている。

孫観伝

そして孫観もまた青州刺史にまで昇り、仮節となって、太祖に従って孫権を討ったとき、戦ううち傷を負って薨去した。子の孫毓が嗣ぎ、やはり青州刺史にまで昇った。[一]

[一] 『魏書』に言う。孫観は字を仲台といい、泰山の人である。臧霸とともに挙兵し、黄巾を討って騎都尉に任じられた。太祖は呂布を破ったとき、臧霸をやって孫観兄弟を招かせ、彼らをみな厚遇した。臧霸とともに戦ったが、孫観はいつも先鋒となった。青州・徐州の羣賊を征伐し、功績は臧霸に次ぎ、呂都亭侯に封ぜらた。孫康もまた功績を立てて列侯に封ぜらた。太祖とともに南皮に集まったおり、子弟を鄴に移住させた。孫観は偏将軍を拝命し、青州刺史に昇進した。(太祖に)従軍して濡須口で孫権を征伐し、仮節となった。孫権を攻めているとき、流れ矢に当たって左足を負傷したが、戦いに力を尽くして顧みようとしなかった。太祖は彼をねぎらって言った。「将軍の怪我は重傷なのに、勇猛な気力はますます奮い立っている。お国のため我が身を惜しむべきではないかな?」振威将軍に栄転したが、傷が深く、そのまま卒去してしまった。