利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

呂虔伝

呂虔子恪といい、任城の人である。太祖曹操)は兗州にいたとき、呂虔が大胆な策略を立てると聞いて従事とし、家子郎党を率いて湖陸を守らせた。襄陵校尉杜松の管轄下の住民炅毋らが叛乱を起こし、昌豨と結んで呼応した。太祖は呂虔を杜松の後任とした。呂虔は到着すると、炅毋と頭目たち、それに同調する数十人の者を招いて酒食を振る舞った。武勇の士を選んで側に潜ませており、呂虔は炅毋らがみんな酔ってしまったのを見て、伏兵たちに彼らを皆殺しにさせた。彼らの兵を慰撫したので、賊たちは静まった。太祖は呂虔を領泰山太守とした。その郡は山海(泰山と東海)に接しており、世が乱れると、人民の多くが隠れていると聞こえていた。袁紹が任命した中郎将郭祖公孫犢ら数十人が山に籠って不法を働き、百姓は彼らに苦しんでいた。呂虔は家子郎党を率いて郡に着任し、恩寵と信義を示したので、郭祖らの一味は皆降服し、山々に逃げ隠れていた者たちも全員出てきて生業に就いた。彼らのうち屈強の者を選んで戦士を補うと、それによって泰山は精兵を手に入れることができ、名声は州郡でも最高になった。済南黄巾賊徐和らは、至る所で地方高官を誘拐し、城邑を攻め立てていた。呂虔は夏侯淵とともに兵を率いて彼らと遭遇戦となり、前後数十度戦って、斬首と捕虜は数千人にもなった。太祖が青州諸郡の兵を率いて東萊の羣賊李条らを討たせると、(呂虔は)功を立てた。太祖の布令に言う。「志を抱いてそれを必ず成し遂げることは、烈士の念願することではないだろうか。は郡に着任して以来、悪党を逮捕して暴徒を討ち、百姓は安心することができた。みずから矢石をかいくぐり、征伐に出ればたちまち勝利を収めた。むかし寇恂汝・潁地方で高名を立て、耿弇青・兗地方で建策した。今もむかしも同じである。」茂才に推挙し、騎都尉の官を加え、郡を司ることは以前通りとした。呂虔は泰山にあること十数年、はなはだ威厳と恩恵があった。文帝曹丕)が王位に即くと、裨将軍の官を加えられ、益寿亭侯に封ぜられ、徐州刺史に遷り、威虜将軍の官を加えられた。琅邪王祥に要請して別駕とし、民事は彼に一任したので、世間の人々はよく賢者を任用したものだと評価した。[一]利城の叛乱者を討伐し、斬首したり捕虜にしたりして功があった。明帝曹叡)が即位すると万年亭侯へ転封となり、所領二百戸を加増され、前と合わせて六百戸となった。呂虔が薨じると、子の呂翻が嗣いだ。呂翻が薨じると、子の呂桂が嗣いだ。

[一] 孫盛の『雑語』に言う。王祥は字を休徴という。性質はいたって孝行で、継母が(彼を)いじめ、いつも王祥に危害を加えようとしたが、王祥はおこたりなく孝養をつくす様子だった。寒さの厳しい月日、継母が「は生魚を食べたいよ」と言うと、王祥は着物を脱いで、氷を割って魚を探そうとしたが、しばらくして堅い氷は解けだし、下から魚が躍り出てきた。そこで持ち帰って差し出した。当時の人々は孝心によって起こったことだと思った。孝養をつくすこと三十余年、母が臨終を迎えたあとはじめて出仕した。当時、誠実さ・純粋さによって重んじられた。王隠の『晋書』に言う。王祥が初めて出仕したとき、年齢五十歳を過ぎていたが、次第に昇進して司隷校尉になり、高貴郷公が入学すると、王祥を三老とし、司空太尉に昇進させた。司馬文王司馬昭)は初めて晋王に昇ったとき、司空荀顗は王祥に敬意を尽くすよう要請したが、王祥は従わなかった。『二少帝紀』に記載がある。武帝司馬炎)が践祚すると、王祥を太保とし、睢陵公に封じた。泰始四年(二六八)、年齢八十九歳で薨じた。王祥の弟王覧は字を玄通といい、光禄大夫である。『晋諸公賛』は王覧を「率直で素朴、行いは最高であった」と称えている。王覧の子孫は繁栄し、多くの賢者・才子を相継いで輩出し、代々の繁栄ぶりは、古今に例が少ないものであった。

呂虔傳

呂虔字子恪,任城人也.太祖在兗州,聞虔有膽策,以為從事,將家兵守湖陸.襄陵校尉杜松部民炅毋等作亂,與昌豨通.太祖以虔代松.虔到,招誘炅毋渠率及同惡數十人,賜酒食.簡壯士伏其側,虔察炅毋等皆醉,使伏兵盡格殺之.撫其餘眾,羣賊乃平.太祖以虔領泰山太守.郡接山海,世亂,聞民人多藏竄.袁紹所置中郞將郭祖﹑公孫犢等數十輩,保山為寇,百姓苦之.虔將家兵到郡,開恩信,祖等黨屬皆降服,諸山中亡匿者盡出安土業.簡其彊者補戰士,泰山由是遂有精兵,冠名州郡.濟南黃巾徐和等,所在劫長吏,攻城邑.虔引兵與夏侯淵會擊之,前後數十戰,斬首獲生數千人.太祖使督靑州諸郡兵以討東萊羣賊李條等,有功.太祖令曰:「夫有其志,必成其事,蓋烈士之所徇也.卿在郡以來,禽姦討暴,百姓獲安,躬蹈矢石,所征輒克.昔寇恂立名於汝﹑潁,耿弇建策於靑﹑兗,古今一也.」擧茂才,加騎都尉,典郡如故.虔在泰山十數年,甚有威惠.文帝卽王位,加裨將軍,封益壽亭侯,遷徐州刺史,加威虜將軍.請琅邪王祥為別駕,民事一以委之,世多其能任賢.[一]討利城叛賊,斬獲有功.明帝卽位,徙封萬年亭侯,增邑二百,幷前六百戶.虔薨,子翻嗣.翻薨,子桂嗣.

[一] 孫盛雜語曰:祥字休徵.性至孝,後母苛虐,每欲危害祥,祥色養無怠.盛寒之月,後母曰:「吾思食生魚.」祥脱衣,將剖冰求之,有少,堅冰解,下有魚躍出,因奉以供,時人以為孝感之所致也.供養三十餘年,母終乃仕,以淳誠貞粹見重於時.王隱晉書曰:祥始出仕,年過五十矣,稍遷至司隸校尉.高貴鄕公入學,以祥為三老,遷司空﹑太尉.司馬文王初為晉王,司空荀顗要祥盡敬,祥不從.語在二少帝紀.晉武踐阼,拜祥為太保,封睢陵公.泰始四年,年八十九薨.祥弟覽,字玄通,光祿大夫.晉諸公贊稱覽率素有至行.覽子孫繁衍,頗有賢才相繼,奕世之盛,古今少比焉.