利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

典韋伝

典韋陳留已吾の人である。容貌は巨体であり、膂力は人並み外れ、節義と任俠心を持っていた。襄邑氏は睢陽李永と仇敵となったが、典韋は彼のために報復した。李永はむかし富春県の県長だったので、警護は非常に厳重であった。典韋は鶏酒を載せて車に乗り、訪問者になりすました。門が開くと匕首を懐にして入り、李永を殺して、あわせてその妻も殺し、ゆったりと出てきて車上の刀戟を取り、歩いて出ていった。李永の屋敷は市場に近かったので、市場中はことごとく驚いた。追っ手は数百人いたが、敢えて近付く者はなかった。四・五里も行くと彼らの仲間に遭遇したが、転戦して脱出することができた。これによって豪傑たちに知られるようになった。初平年間(一九〇~一九四)、張邈が義兵を挙げると、典韋は兵士となり、司馬趙寵に属した。牙門旗は長大で掲げられる人がいなかったが、典韋が片手でこれを立てたので、趙寵は彼の才力を異とした。のちに夏侯惇に属し、しばしば首級を挙げて功を立てたので司馬に任じられた。太祖曹操)が濮陽呂布を討伐したとき、呂布は濮陽の西四・五十里のあたりに別働隊を屯させていた。太祖は夜襲をかけて、夜明けごろにはこれを破った。まだ帰り着かないうちに、ちょうど呂布が救援に来て、三方からゆさぶりをかけて攻撃してきた。そのとき呂布は自ら素手で戦い、日の出から午後に至るまで数十合に及び、たがいに激しかった。太祖は突撃隊を募ると典韋が真っ先に進み出たので、募集に応じた者数千人を率いさせ、みな着物を重ね着して鎧を二つ身に着け、楯を棄てて、ただ長矛だけを持って戦闘に参加した。そのとき西方で窮地に陥っていたので、典韋は突き進んでこれにぶつかったが、賊は弓弩を乱発し、矢は雨のように降り注いだ。典韋は視力を失ったので等人に言った。「敵が十歩まで来たら、それを言え。」等人は言った。「十歩です。」また言った。「五歩で言え。」等人は恐怖のため早口で言った。「敵が来ました!」典韋は手に十本余りの戟を持って、叫びながら立ち上がった。立ち向かう者で手応えとともに倒れぬ者はなく、呂布の兵は後ずさりした。ちょうど日暮となり、太祖は撤退することができた。典韋に都尉の官を授けて左右に引き連れ、親衛隊数百人を率いさせて常に大帳の周りを固めさせた。典韋も雄壮であったうえ、彼が率いた兵も全て士卒からの選りすぐりだったので、戦闘になるたび、常に先登となって敵陣を陥れた。昇進して校尉となった。性質は忠義かつ謹厳を極め、いつも昼は日没まで立ち侍り、夜はの左右で眠り、自分の屋敷に帰って寝ることは稀であった。酒食を好み、飲み食いすることは人一倍で、御前で食膳を賜るたび、大きく飲んで長くり、左右から酒を注ぎ、数人増やしてやっと釣り合った。太祖はこれを雄壮だと思った。典韋は大きな双戟と長刀などを愛用したので、そのため軍中は語って言った。「帳下の壮士に典君あり。一双戟八十斤をぐ。」

太祖が荊州を征討してまで来ると、張繡が出迎えて降伏した。太祖は非常に喜び、張繡や彼の将帥を招いて、酒を振る舞って大宴会を催した。太祖が盃を配っているとき、典韋は大斧を持って後ろに立ったが、刃渡りは一尺もあり、太祖が配っていく先では、そのつど典韋が斧を持ち上げて彼(張繡ら)を睨みつけた。酒宴が終わるまで、張繡や彼の将帥で敢えて顔を上げて見る者はいなかった。十日余り後、張繡は謀叛し、太祖の陣営を襲った。太祖は陣営を出て戦ったが不利となり、軽装のまま馬に乗って逃げ去った。典韋が門の中で戦ったので、賊は入ることができなかった。兵はばらばらになり他の門から入ってきた。そのとき典韋の将校はまだ十人余りいて、みな死に物狂いで戦い、一人で十人を相手にしない者はなかった。賊は前後から来て次第に数も増え、典韋は長戟を振るって左右に撃ち、戟の枝が入るごとに十本余りの矛が打ち砕かれた。左右にいて死傷した者もほとんどいなくなってしまった。典韋は数十ヶ所の傷を被ったが、短い武器を取って接戦となり、賊が進み出て彼に立ち向かうと、典韋は両脇に二人の賊を抱えて撃ち殺したので、ほかの賊は進み出ることができなかった。典韋はまた進んで敵に突きかかり、数人を殺したが、深手を負って傷口は開き、目を怒らせて大声で罵りながら死んだ。賊は恐る恐る近付いて彼の首を斬り、それを回し合って見せ物とし、軍を覆して彼の躯を見物した。太祖は舞陰まで退却して落ち着いたが、典韋の死を聞いて涙を流し、彼の棺を盗み取ってくる者を募った。自ら親しく立ち会って彼のために哭し、襄邑に送り返して葬らせ、子の典満に官を授けて郎中とした。車駕が通りかかるたび、いつも中牢の生け贄でった。太祖は典韋を思い出し、典満を司馬に任じて身近に引き寄せた。文帝曹丕)は王位に即くと、典満を都尉として関内侯の爵位を賜った。

典韋傳

典韋,陳留已吾人也.形貌魁梧,旅力過人,有志節任俠.襄邑劉氏與睢陽李永為讎,韋為報之.永故富春長,備衞甚謹.韋乘車載鷄酒,偽為候者,門開,懷匕首入殺永,幷殺其妻,徐出,取車上刀戟,步出.永居近市,一市盡駭.追者數百,莫敢近.行四五里,遇其伴,轉戰得脱.由是為豪傑所識.初平中,張邈擧義兵,韋為士,屬司馬趙寵.牙門旗長大,人莫能勝,韋一手建之,寵異其才力.後屬夏侯惇,數斬首有功,拜司馬.太祖討呂布於濮陽.布有別屯在濮陽西四五十里,太祖夜襲,比明破之.未及還,會布救兵至,三面掉戰.時布身自搏戰,自旦至日昳數十合,相持急.太祖募陷陣,韋先占,將應募者數千人,皆重衣兩鎧,棄楯,但持長矛撩戰.時西面又急,韋進當之,賊弓弩亂發,矢至如雨,韋不視,謂等人曰:「虜來十步,乃白之.」等人曰:「十步矣.」又曰:「五步乃白.」等人懼,疾言「虜至矣!」韋手持十餘戟,大呼起,所抵無不應手倒者.布眾退.會日暮,太祖乃得引去.拜韋都尉,引置左右,將親兵數百人,常繞大帳.韋旣壯武,其所將皆選卒,每戰鬭,常先登陷陣.遷為校尉.性忠至謹重,常晝立侍終日,夜宿帳左右,稀歸私寢.好酒食,飲噉兼人,每賜食於前,大飲長歠,左右相屬,數人益乃供,太祖壯之.韋好持大雙戟與長刀等,軍中為之語曰:「帳下壯士有典君,提一雙戟八十斤.」

太祖征荊州,至宛,張繡迎降.太祖甚悅,延繡及其將帥,置酒高會.太祖行酒,韋持大斧立後,刃徑尺,太祖所至之前,韋輒擧斧目之.竟酒,繡及其將帥莫敢仰視.後十餘日,繡反,襲太祖營,太祖出戰不利,輕騎引去.韋戰於門中,賊不得入.兵遂散從他門並入.時韋校尚有十餘人,皆殊死戰,無不一當十.賊前後至稍多,韋以長戟左右擊之,一叉入,輒十餘矛摧.左右死傷者略盡.韋被數十創,短兵接戰,賊前搏之.韋雙挾兩賊擊殺之,餘賊不敢前.韋復前突賊,殺數人,創重發,瞋目大罵而死.賊乃敢前,取其頭,傳觀之,覆軍就視其躯.太祖退住舞陰,聞韋死,為流涕,募閒取其喪,親自臨哭之,遣歸葬襄邑,拜子滿為郞中.車駕每過,常祠以中牢.太祖思韋,拜滿為司馬,引自近.文帝卽王位,以滿為都尉,賜爵關內侯.