利用許諾契約書

このurlで示される文書はGFDLに基づいて利用することができます(GFDL日本語訳)。ただしこの利用許諾契約書そのものは改変できません。

原著作者:【むじん書院】

董卓伝

董卓仲穎といい、隴西臨洮の人である。[一]若いころから義俠を好み、あるとき族の里へ行き、豪族たちと一人残らず交わりを結んだ。のちに田野を耕すため帰郷しようとすると、豪族のうちには後から付いてくる者もあったので、董卓は彼らとともに帰り、農耕牛を殺して一緒に酒宴を楽しんだ。豪族たちはその心意気に感銘し、帰国してからさまざまな家畜を互いに出し合い、千頭余りになったので、それを董卓への贈り物とした。[二]桓帝劉志)の末期、六郡の良家の子ということで羽林郎となった。董卓は才能・武勇の持ち主であり、膂力で太刀打ちできる者は少なく、二つのを身に帯びて左右に馳せながら弓を射た。軍司馬として中郎将張奐幷州征討に従軍し、功績を立てて郎中を拝命、練り絹九千匹を賜ったが、董卓は全て官吏・兵士に分け与えてしまった。広武県令蜀郡北部都尉西域戊己校尉と昇進していったが、罷免された。中央に徴し寄せられて幷州刺史河東太守を拝命、[三]中郎将に昇進して黄巾賊を討伐したが、戦いに敗れて罪を科せられる。韓遂らが涼州で挙兵したので、ふたたび中郎将となり、西進して韓遂を防いだ。望垣硤の北方にて羌族・族数万人の包囲を受け、食糧が底を突いた。董卓は魚を捕るふりをして退路を堰きとめ、川の渡し場を池に変えて周囲数十里に水を湛えた。密かに堰の下から自軍を通し、それから堰を決壊させた。羌族・胡族が気付いて追いかけてきたころには、もう水位が高まっていて渡ることができなかった。このとき六手の軍勢が隴西に攻め上ったが、五手が敗北し、董卓だけが人数を損ねることなく帰還し、扶風に駐屯した。前将軍を拝命して斄郷侯に封ぜられ、徴し寄せられて幷州となった。[四]

[一] 『英雄記』に言う。董卓の父董君雅は、低い官職から潁川綸氏県尉となった。三人の子があり、長子の董擢は字を孟高といったが、早くに卒去した。次子が董卓で、董卓の弟董旻は字を叔穎といった。

[二] 『呉書』に言う。郡は董卓を召し出して役人とし、盗賊を仕切らせた。あるとき胡族が侵入して数多くの民衆を拐かしたので、涼州刺史成就は董卓を召し寄せて従事とし、歩騎を率いさせ討伐させたところ、それを大いに打ち破り、斬首捕虜は千人ほどもあった。幷州刺史段熲が董卓を公府三公の役所)に推薦すると、司徒袁隗が召し寄せてとした。

[三] 『英雄記』に言う。董卓は何度も羌族・胡族を討伐し、前後して百回以上も戦った。

[四] 『霊帝紀』に言う。中平五年(一八八)、董卓を徴し寄せて少府とし、麾下の官吏・兵士を伴って左将軍皇甫嵩の指揮下に入り、行在所に参詣せよとの詔勅が下された。董卓は上奏して述べた。「涼州は混乱して鯨のごとき巨悪はいまだ滅びず、これこその発奮して命を捨てるでございます。官吏兵士は勇躍して御恩を思っては恩返しを願い、おのおのが臣の馬車を遮り、声音は懇々と真心がこもっておりますので、いまだ帰途に就くことができませぬ。しばし行前将軍事として誠意を尽くして(彼らの)慰安に当たり、軍務に尽力いたしたく存じまする。」六年、董卓を幷州牧とし、官吏・兵士を皇甫嵩に引き継がせるよう重ねて詔勅を下した。董卓はまたも上奏して言った。「臣が兵事に携わって十年、士卒どもは老若を問わず仲睦まじくなって久しく、臣が養育した恩恵を慕い、国家の御為に緊急の命令にも奮起して応えたいものと願っております。なにとぞ州への着任と辺境での尽力をお許しくださいますよう。」董卓は二度までも詔勅に違背したのであるが、ちょうどそのとき何進に召し寄せられた(ので、処罰されることはなかった)。

霊帝劉宏)が崩御して少帝劉弁)が即位した。大将軍何進司隷校尉袁紹とともに宦官たちを誅殺せんと謀議したが、太后が聞き入れなかった。何進はそこで董卓を召し寄せて軍勢を率いて京師へ参詣させるとともに、密かに以下のごとく上書させた。「中常侍張譲らはご寵愛を利用して海内を混乱させております。むかし趙鞅晋陽の武装兵を起こして君側の悪を駆逐いたしました。臣は速やかに鐘鼓を鳴らしつつ洛陽へ赴き、ただちに張譲らを討伐いたします。」こうして太后を脅迫するつもりだったのである。董卓が到着する以前に何進は敗北した。[一]中常侍段珪らは帝を人質に取って小平津へ逃れた。董卓はそのまま軍勢を率いて北芒にて帝を迎え入れ、宮殿に帰還した。[二]ときに何進の弟である車騎将軍何苗が何進の手勢に殺されたため、[三]何進・何苗の部曲は所属先を失い、みな董卓のもとへ参詣した。董卓はさらに執金吾丁原呂布に殺させ、その軍勢を併合した。こうして京都の兵権はただ董卓だけが持つことになった。[四]

[一] 『続漢書』に言う。何進は字を遂高といい、南陽の人であり、太后の異母兄にあたる。何進は本来、屠殺夫の家の子で、父を何真といった。何真の死後、何進は黄門の世話で妹を掖庭に入れてもらい、(妹が)寵愛を得て、光和三年(一八〇)に皇后に立てられた。何進はそれによってご寵愛の貴人になったのである。中平元年(一八四)、黄巾賊が蜂起したので、何進を大将軍に任命した。 『典略』に載せる董卓の上表に言う。「臣が伏して思いまするに、天下に絶えず叛逆が起こるのは、みなみな黄門常侍張譲らが天道を侮って王命に操作を勝手に加え、父子兄弟がみな州郡に居すわり、一たび手紙を出せばたちまち千金を手に入れるという有様で、近畿諸郡の肥沃な美田数百万頃がみな張譲らの手に落ちているからなのでございます。こうして(人々の)怨恨が募り、妖賊が蜂起するに至ったのであります。臣がかつて詔勅を奉じて於夫羅を討伐いたしましたおり、将兵は飢えに苦しんで川を渡ることを承知せず、みな口々に、京師に参詣してまず宦官どもを誅殺し、民衆の害毒を取り除いて台閣へ資金を請求したい、と申しておりました。臣がなだめなだめながらようやく新安に着いたものです。湯を持ち上げて沸騰を止めるのは薪を抜いて火を消すほどのことでなく、腫れ物を潰すのは痛くとも肉を培養するよりはましだ、と臣は聞いております。溺れてから船を呼び、後悔しても間に合わないのでございます。」

[二] 張璠の『漢紀』に言う。帝は八月庚午に黄門たちの人質となり、穀門から歩いて出てゆき、黄河のほとりまで逃れた。黄門たちは黄河に身を投げて死んだ。ときに帝は十四歳、陳留王劉協)は九歳であった。夜中、兄弟二人だけで歩いて宮殿に帰ろうとした。暗闇のさなか蛍の火を追いながら歩き、数里先で民家を見付け、露車で送り出された。辛未、公卿以下、董卓とともに北芒の坂の下にて帝を出迎えた。 『献帝春秋』に言う。それ以前のこと、童謡の文句にこうあった。「侯は侯でなし、王は王でなし。千乗の車、万騎の馬が北芒に走る。」董卓はちょうど到着したばかりで顕陽苑に屯していたが、帝が帰ってくると聞き、軍勢を率いて帝を出迎えに行った。 『典略』に言う。董卓の軍勢を遠目に見るなり帝が涙を流したので、公卿たちは董卓に「兵を退けとの詔勅だ」と告げた。董卓は「貴公らは国家の大臣でありながら王室を是正することもできず、挙げ句、国家を流浪させてしまった。兵を退けとは何事か!」と言い、そのまま連れ立って入城した。 『献帝紀』に言う。董卓は帝と語り合ったが、会話がよくからなかった。そこで改めて陳留王と語り合い、混乱の起こった理由を訊ねたところ、陳留王の返答は、終始、抜かりないものであった。董卓はいたく喜び、以来、廃立の企みを持つようになったのである。 『英雄記』に言う。河南中部掾閔貢が帝と陳留王を先導して都を目指し、雒舎で宿泊した。一匹の馬には帝が一人で乗り、一匹の馬には陳留王と閔貢とが一緒に乗り、雒舎から南へと出発した。公卿百官が北芒の坂の下で奉迎し、太尉崔烈が先導した。董卓が歩騎数千人を率いて出迎えに来ると、崔烈は怒鳴って退けようとした。董卓は崔烈を罵って「昼夜通して三百里もやって来たものを、なにゆえ退けなどと言うか。が貴卿の頭を斬れぬと?」と言い、帝のもとに進み出て拝謁し、「陛下が常侍・小黄門どもに混乱を起こさせ、このような有様になったのでございます。災難を招いた責任は小さくありませんな?」と述べ、また陳留王のもとへ走り寄って「我が董卓でございます。我がお抱えして参りましょう」と告げ、閔貢の懐から陳留王を取り上げた。 『英雄記』に言う。ある本では、陳留王が董卓の抱擁を拒んだので、董卓は陳留王と轡を並べて馬を進めた、という。

[三] 『英雄記』に言う。何苗は太后の同母兄で、(何真の)死んだ妻氏の子である。何進の部曲将呉匡は、日ごろから何苗が何進に同心せぬことを残念がっていたが、そのうえ彼が宦官と通謀しているのではないかと疑い、そこで軍中に命じて言った。「大将軍を殺したのは車騎将軍であるぞ。」そのまま手勢を率いて董卓の弟董旻とともに朱爵門の下で何苗に攻撃をかけて殺した。

[四] 『九州春秋』に言う。董卓は洛陽入りした当初、歩騎合わせても三千人に過ぎず、手勢の少なさのために遠近を屈服させられないのが悩みの種であった。ほぼ四・五日ごとに、夜中、手勢を四方の城門から出し、翌日、や鼓を連ねて入城させ、「西方の軍勢がまたも洛陽入りしたぞ」と喧伝させた。人々は(からくりに)気が付かず、董卓の軍勢は数え切れぬほどだと思った。

それ以前、何進は騎都尉である太山鮑信を派遣して各地で兵士を募集させていた。帰洛したとき、鮑信は袁紹に向かって「董卓は強力な軍勢を擁してよからぬ野心を抱いております。いま早々に片付けておかねば身動きを封じられる羽目になりますぞ。到着したばかりの疲労に付け込んで襲撃すれば、生け捕りにすることもできましょう」と告げたが、袁紹は董卓を恐れて行動しようとしなかった。鮑信はそのまま郷里へ帰っていった。

このとき長らく雨が降らなかったということで、司空劉弘を罷免して董卓をその後任とし、いきなり太尉に昇進して仮節鉞となり、虎賁(近衛兵)を貸与された。ついに帝を廃して弘農王とし、ほどなくして、さらに弘農王および何太后を殺した。霊帝の末子陳留王を擁立したが、これが献帝である。[一]董卓は相国に昇進して郿侯に封ぜられ、拝謁のとき名乗らず、剣履のまま昇殿することが許され、さらに董卓の母を池陽君に封じて家令・家丞を設置した。董卓は最初に精兵を率いて到来したとき、ちょうど王室の大混乱に遭遇したため、思う存分、廃位擁立することができたのである。兵器庫の甲冑や武器、国家の珍宝を押さえたことで、威光は天下を震わせた。董卓の人柄は残忍不仁であり、厳酷な刑罰によって人々を脅し、睚眦の恨みには必ず報復したため、人々は我が身を守ることさえできなかった。[二]あるとき、軍勢を陽城に派遣したことがあった。ちょうど二月のの時期にあたり、領民たちがそれぞれ社の下に集まっていたが、(董卓の手兵は)一斉に走り寄ってそれらの男子の首を斬った。彼らの車や牛に乗って婦女・財物を搭載し、切り落とした首を車軸に繋ぎ、車体を連ねて帰洛すると、賊軍を攻撃して大勝利を得たぞと言い、万歳を称えた。開陽城門に入ると、その首を燃やし、婦女は女中や妻妾として甲兵に与えた。挙げ句の果てには宮女や公主を強姦するに及び、董卓の凶悪さはこれほどであった。

[一] 『献帝紀』に言う。董卓は皇帝廃位を目論み、羣臣を朝堂に集めて提議した。「大なるは天地、次なるは君臣、それが統治をなす所以である。ただいま皇帝は闇弱であり、宗廟を奉り、天下の主たるに不足しておる。伊尹・霍光の故事にならって陳留王を擁立しようと思うが、どうであろう?」尚書盧植が言った。「『尚書』を検討いたしますると、太甲は即位したのち聡明でなければこそ伊尹はこれを桐宮に放逐いたし、昌邑王は即位二十七日にして一千余りの罪過を犯し、それゆえ霍光はこれを廃位したのでございます。今上陛下は御歳も長けて過失もなく、過去の事件と比較することはできませぬ。」董卓は腹を立てて中座し、盧植を誅殺せんと計画したが、侍中蔡邕が取りなしたのでようやく許された。九月甲戌、董卓はふたたび羣臣を盛大に集め、言った。「太后が永楽太后を逼迫して憂死させたのは、婦姑の礼に逆らうものであり、孝順の節も備えておらぬ。天子はずっと幼稚なままで、軟弱に過ぎて君主たりえない。むかし伊尹が太甲を放逐して霍光が昌邑を廃位したことは、典籍に明らかであり、いずれも善事だと評価されておる。いまこそ太后を太甲と同等、皇帝を昌邑と同等に扱うべきだ。陳留王は仁慈孝悌であるゆえ、皇帝の国祚に就かせるのが宜しかろう。」 『献帝起居注』に載せる辞令に言う。「孝霊皇帝(霊帝劉宏)はご先祖の眉寿(長寿)の形質を充分には受け継がれず、早くも臣子をお棄てになられた。皇帝が皇統を継承したとき、海内はこぞって希望を寄せた。しかるに帝は天性の軽薄者であり、威儀は定まらず、喪中にありながらだらしなく、衰如故焉★;背徳はすでに明らか、淫乱は広く知られており、神器を辱めて宗廟を汚すものである。皇太后の教導も母としての威厳を欠いており、ご政道は乱れすさんだ。永楽太后はにわかに崩御され、衆論はこれに疑念を抱いている。(君臣・父子・夫婦の)三綱の道は天地の定めである。よって過失があるならば、その罪は重大である。陳留王協は聖徳うるわしく、所作はおおらか、下は豊かに上はく、の肖像画の面影がある。服喪中は哀しみを極め、言葉は邪悪なものごとに及ばず、ご幼少より聡明な性質には成王のごとき美風が備わっている。めでたくうるわしいご評判は天下の知るところであり、大いなる事業を継承して万世の皇統をなし、宗廟を継承されるべき御方である。皇帝を廃位して弘農王とする。皇太后は政権を返還せよ。」尚書が書面を読み終えたとき、羣臣のうちにも言葉を発する者はなかった。尚書丁宮が述べた。「天は漢室に災禍を下したまい、衰退混乱はあまねく広がりました。むかし祭仲を廃してを立てましたが、『春秋』はその臨機応変を大きく評価しております。ただいま大臣たちは社稷のため最善策を講じており、まこと天人の合致するところであります。万歳の斉唱をお許しくださいますよう。」董卓は太后が廃位されたのを理由に公卿以下の喪服着用を許さず、会葬の際にも白衣を着けただけであった。

[二] 『魏書』に言う。董卓の欲望は果てしなく、賓客に向かって「我の人相はこの上なく尊貴であろうが」と語ることもあった。 『英雄記』に言う。董卓は威光を震わせたく思っており、侍御史擾龍宗が董卓のもとへ報告に来たとき剣を帯びたままだったので、その場で殴り殺した。京師は震えおののいた。何苗の棺をあばいて亡骸を引き出し、四肢を解体して節、道ばたに投げ棄てた。また何苗の母である舞陽君を逮捕して殺し、死体を御苑にあるの生垣の中へ投げ棄て、回収して葬られることは二度となかった。

当初、董卓は尚書周毖城門校尉伍瓊らを信任し、彼らの推挙した韓馥・劉岱・孔伷・張資・張邈らを登用して州郡を宰領させていた。ところが韓馥らは官職に就くなり、みな軍勢を糾合して董卓を討とうとした。董卓はそれを聞いて、周毖・伍瓊らが通謀して自分を売り渡したのだと思い、みな斬殺した。[一]

[一] 『英雄記』に言う。周毖は字を仲遠といい、武威の人である。伍瓊は字を徳瑜といい、汝南の人である。 謝承の『後漢書』に言う。伍孚は字を徳瑜といい、若くして立派な節義があり、郡の門下書佐になった。彼の故郷の邑長が罪を犯したので、太守は伍孚に文書を発行させ、部下にあたる督郵にそれを逮捕させた。伍孚は命令書の受け取りを拒絶し、地面に伏せて諫言した。「主君が主君らしくなくとも、臣下は臣下らしくない態度は取らないものです。明府は、どうして伍孚に命令書を下して故郷の邑長を逮捕させようとなさるのですか?どうか他の役人にお申し付けくださいませ。」太守は立派なことだと思って、それを聞き入れた。のちに大将軍何進に召されて東曹属となり、次第に侍中・河南尹・越騎校尉と昇進していった。董卓が混乱を起こすと百官は震えおののいたが、伍孚は小さな鎧を着込み、朝服の下に佩刀を忍ばせて董卓に会い、隙を見て彼を刺し殺そうと考えた。語り合いがわってから辞去を告げ、董卓が彼を(小門)の下まで見送ったとき、伍孚は刀を取り出して彼を刺した。董卓は力持ちであったうえ身をかわしたので、命中しなかった。即座に伍孚を逮捕して、董卓が「貴卿は謀反するつもりか?」と言うと、伍孚は大声で「の主君ではないし、吾は汝の臣下ではない。どこに謀反など存在するのだ?汝が国家を混乱させ、主君を簒奪した罪悪は絶大である。いまこそ吾の死ぬ日だ。だから姦賊を誅殺しにやってきたのだ。汝を市場で車裂きにして天下に謝罪できなかったのが残念だよ!」と叫んだ。こうして伍孚は殺されてしまった。 謝承の記す伍孚の字および本郡は伍瓊と同じである。しかし死に至るまでの経緯が伍孚とは違っている。伍孚が伍瓊の別名なのか、それとも別に伍孚という人物がいたのか分からない。明らかでないようである。

河内太守王匡泰山兵を河陽津に屯させ、董卓を片付けようとした。董卓は囮部隊に平陰から渡河するふりをさせつつ、密かに精鋭部隊を小平から北岸へ渡し、彼らの背後へ回り込んで攻撃をかけ、渡し場の北側で大破した。(王匡勢は)ほとんど全員が死亡した。董卓は山東の豪傑たちが一斉蜂起したことが恐くて落ち着かなかった。初平元年(一九〇)二月、ついに天子を移して長安へ遷都した。洛陽の宮殿を焼き払い、ことごとく陵墓を掘り起こして宝物を奪い取った。[一]董卓は西京(長安)に到着すると太師となり、「尚父」と号した。青蓋金華車に乗り、の両側に爪画があって、当時の人々は「竿摩車」と呼んだ。[二]董卓の弟董旻は左将軍となり、鄠侯に封ぜられ、兄の子董璜侍中・中軍校尉として兵権を握り、内外の一族がそろって朝廷に居並んだ。[三]公卿は董卓を見かけると車の下まで行って拝礼したが、董卓の方では返礼をしなかった。(董卓が)三台を召し寄せたときは、尚書以下がわざわざ董卓の(役所)へ出向いて報告をした。[四]郿塢を築いたが、高さは長安の城壁ほどにもなり、食糧を集積して三十年分を貯え、[五]「事業が成功すれば天下を大きく占拠できようし、成功しなくともこの地を守ったまま老いを全うできよう」と言っていた。あるとき郿塢まで出かけて行くことになり、公卿以下が横門の外で送別会を催したことがあった。横の音は光(コウ)。董卓はあらかじめ幔幕を張って飲んでいたが、降服した北地の謀反人数百人を呼び入れ、座中においてまず彼らの舌を切断しておき、手足を斬り落としたり、あるいは目玉をくり抜いたり、あるいは大鍋で煮たりした。まだ死にきれずに飯台のあいだで転げ回るので、列席者はみな震えおののいてや箸を取り落とした。しかし董卓は平然として飲み食いしていた。太史が気を観察して「大臣のうち刑死する者がありましょう」と言上した。故の太尉張温はこのとき衛尉であったが、もともと董卓と仲が悪く、董卓は内心、彼を怨んでいた。天気に異変が起こったので災禍を防ごうと考え、張温が袁術と交流していると人に言上させて笞で打ち殺した。[六]法令は苛酷であって、愛憎による刑罰が氾濫し、互いに誣告しあったために冤罪で死ぬ者が千人を数えた。百姓たちは怒鳴りながら路上で睨み合った。[七]銅人・鍾虡を残らず叩き壊し、ついで五銖銭をつぶした。改めて小銭を鋳造したが、大きさは五分、文章はなく、に輪郭はなく、研磨もされていなかった。そのため貨幣価値は下がって物価が高騰し、食糧一斛が数十万銭にも上った。これより以降、貨幣は流通しなくなってしまった。

[一] 華嶠の『漢書』に言う。董卓は長安へ遷都しようと思い、公卿以下を召し出して大会議を催した。司徒楊彪が言った。「むかし盤庚は五たび遷都いたしましたので、の民衆はいに怨みました。それゆえ『三篇』を作って天下の民への模範としたのでございます。るに海内は安穏としておりますゆえ、理由もなく都を移してしまっては、百姓どもが驚いて騒ぎ立て、が沸いて蟻が集まるような混乱をきたす恐れがございます。」董卓は言った。「関中が肥沃豊饒であればこそはよく六国を併呑できたのである。いま西京へ遷都すれば、たとい関東の強豪のうちに行動を起こす者があったとて、我が精兵でもって威圧をかけただけで大海へと行ってもらうことができよう。」楊彪は言った。「海内を騒がせるのはいたく容易なこと、それを落ち着かせるのはひどく困難なことであります。それに長安の宮殿は破壊されており、にわかに再建することはできませぬ。」董卓は言った。「武帝劉徹)はときおり杜陵の南山のふもとに住まわれたので、瓦焼きのが数千基もある。涼州の材木を取り寄せて東下させ、それで宮殿を建造すれば、完成させるのも難しくはない。」董卓は思い通りにゆかず、さっと顔色を変えて言った。「貴公は我が計略を台無しにするおつもりか?辺章・韓約が書状を寄越して、必ず朝廷を遷都させよと言ってきている。もし大軍が来下したなら、我はもう助けてやることはできぬ。貴公はすぐさま氏とともに西行されよ。」楊彪は言った。「西方はもともと楊彪の(故郷への)道筋でございますが、天下の行く末の知れぬのが気がかりなのでございます!」会議が終わったあと、董卓は司隷校尉宣璠に命じて災害異変を理由に弾劾奏上させた。そのため楊彪は罷免された。 『続漢書』に言う。太尉黄琬・司徒楊彪・司空荀爽がともども董卓のもとに参詣すると、董卓は言った。「むかし高祖劉邦)が関中に都を定められ、十一世ののち中興されると、改めて洛陽に遷都された。光武帝(中興の主・劉秀)より今上陛下までやはり十一世になる。『石苞室讖』を検討したが、ふたたび都を長安に戻すべきだ。」座中の者たちはみな驚愕して、返答できる者はなかった。楊彪が言った。「遷都や制度改正は天下の一大事でありますゆえ、いずれも民衆の心、よき時機に基づくべきでございます。むかし盤庚は五たび遷都いたしましたので、殷の民衆は胥いに怨みました。それゆえ『三篇』を作って模範としたのでございます。かつては王莽の簒奪があって五常(五つの倫理規範)をでたらめに変えてしまいましたし、更始帝劉玄)・赤眉の乱のときには長安が燃され、百姓は殺されて人民は流浪し、百人に一人も残りませんでした。光武帝が天命をお受けになって洛邑(洛陽)に遷都されたのは、それが時宜に適っていたからでございます。ただいま聖主を即位させて漢の国祚を興隆させましたから、理由もなく宮殿・御陵を放棄なされば、百姓どもが驚愕してその意義を理解できず、糜が沸いて蟻が集まるような混乱を起こす恐れがございます。『石苞室讖』は妖しげな書、どうして信用できましょうか?」董卓は顔色を変えて言った。「公は国家の計略を台無しにするおつもりか?関東はいまや混乱して至るところで賊軍が蜂起しておる。崤函崤山・函谷関)の険固さは国家の要害、そのうえ隴右で材木を集めれば完成させるのも難しくはない。杜陵の南山のふもとには孝武帝(劉徹)の陶窯跡があり、煉瓦を作れば一晩で片付けられよう。宮殿や官庁などは論ずるまでもないだろうな!百姓や庶民のことは考えなくともよい。もしおろおろする者がおれば、我が大軍でもって駆り立ててやる。勝手なまねなどさせるものか。」百官は恐怖のあまり顔色を変えた。黄琬が董卓に告げた。「これは一大事であります。楊公の発言は熟慮を尽くしたものではございますまい!★」董卓は退出して、即日、司隷に命じて楊彪および黄琬のことを上奏させ、いずれも免官とした。御車はすぐさま西上の途に就いた。董卓の手勢が洛陽の城外百里四方を焼き払い、また彼自身も兵士を連れて南北の宮殿および宗廟・国庫・民家を焼き払ったので、城内は掃き清めたように滅ぼされた。また富豪たちを逮捕し、罪を被せて彼らの財産を没収した。無実の罪で死んだ者は数え切れないほどであった。 『献帝記』に言う。董卓は山東の兵士を生け捕りにすると、十匹余りの布に猪の脂を塗っておいて彼らの体に巻き付け、そのあと火を付けたが、最初は足から点火した。袁紹の予州従事李延を生け捕りにすると、これを煮殺した。董卓の親愛している胡人が、寵愛を鼻にかけて勝手な振る舞いをしていたため、司隷校尉趙謙に殺された。董卓は激怒して「我の可愛がっている犬でさえ他人には叱咤させたくないものだ。ましてや人間なのだ!」と言い、そこで司隷都官を召し寄せて殴り殺した。

[二] 『魏書』に言う。(竿摩とは)天子に迫るという意味である。 『献帝紀』に言う。董卓は太師になったのち、さらに「尚父」と称したく思い、それについて蔡邕に訊ねた。蔡邕は言った。「むかし(周の)武王が天命を受けたとき、太公(望)が師となり、周室を補佐して無道を討伐いたしました。だから天下は彼を尊んで尚父と呼んだのでございます。ただいま公の功徳はまこと崇高たるものでございますが、まずは関東を完全平定して御車を東方へ戻し、しかるのちご提議なさいませ。」そこで取り止めた。京師が地震に遭ったとき、董卓はまた蔡邕に訊ねた。蔡邕が「大地が動くのは陰気が盛んになり、大臣が法度を越えた結果でございます。公は青蓋の車に乗っておいでですが、遠近の者たちは適当でないと考えておりました」と答えたので、董卓はそれを聞き入れ、乗り物を黒蓋の金華車に改めた。

[三] 『英雄記』に言う。董卓の妻妾に抱きかかえられた子供もみな侯に封ぜられ、金(印)・紫(綬)をおもちゃにした。董白という名の孫娘は、そのときまだ(十五歳未満で)も差していなかったのに渭陽君に封ぜられた。城の東に縦横二丈余り、高さ五・六尺の壇を築いて、董白を青蓋の金華車に載せ、郿にいる都尉・中郎将・刺史、それに千石取りには、おのおの車に乗せて簪筆させ、董白を先導させた。壇に着いて登ると、兄の子董璜を使者として印綬を授けさせた。

[四] 『山陽公載記』に言う。かつて董卓が前将軍だったとき、皇甫嵩は左将軍であって、ともに韓遂を征討したが、どちらも頭を下げようとはしなかった。のちに董卓が少府・幷州牧として徴し返され、軍勢を皇甫嵩に引き継がせることになると、董卓は大いに腹を立てた。太師になったとき、皇甫嵩は御史中丞だったので車の下で拝礼を行った。董卓は皇甫嵩に訊ねた。「義真よ、まだ降参せぬか?」皇甫嵩は言った。「明公がここまで上りつめるとは思いも寄りませなんだ!」董卓が「鴻鵠はもとより遠大な志を抱いておるものだ。ただ燕雀がそれを知らぬだけさ」と言うと、皇甫嵩が「いえ、むかしは明公とともに鴻鵠でございましたが、今日、思いがけず鳳凰に変身されたのです」と言うので、董卓は笑って「貴卿が早々に降参しておれば、今日になって拝礼せずに済んだのだ」と言った。 張璠の『漢紀』に言う。董卓はその手を叩きながら皇甫嵩に告げた。「義真よ、恐ろしいのかね?」皇甫嵩は答えた。「明公は徳義によって朝廷を補佐されております。大いなる慶事が到来するのですから、どうして恐ろしいということがありましょう?もしもでたらめな刑罰が横行するならば、天下のみなみなが恐怖いたします。どうして皇甫嵩一人のことでございましょう?」董卓は黙りこみ、ようやく皇甫嵩と和解した。

[五] 『英雄記』に言う。郿は長安を去ること二百六十里である。

[六] 『傅子』に言う。霊帝の時代、御門に看板をかけて官職が売りに出された。それから太尉段熲・司徒崔烈・太尉樊陵・司空張温といった人々は、みな上は一千万銭、下は五百万銭を投じて三公の官職を買った。段熲はしばしば征伐により大功を立てていたし、崔烈は北方の州で重々しい名声があり、張温には傑出した才能があり、樊陵はよく時代に適合し、みな一代の名士であったが、それでも貨幣によって官位を得ていたのである。ましてや劉囂・唐珍・張顥といった連中では! 『風俗通』に言う。司隷の劉囂は、常侍たちに荷担することによって公輔(宰相)の位に昇った。 『続漢書』に言う。唐珍は中常侍唐衡の弟、張顥は中常侍張奉の弟である。

[七] 『魏書』に言う。董卓は司隷校尉劉囂に命じ、官吏民衆に孝行でない子、忠義でない臣下、清潔でない役人、従順でない弟があれば記録させ、これに該当する者があればみな誅殺し、財産物資は国庫に没収した。そのため愛憎が互いに起こり、民衆の多くが無実の罪で死んだ。

三年四月、司徒王允尚書僕射士孫瑞、董卓の将呂布が董卓誅殺を共謀した。ちょうど天子が病気から快癒したばかりだったので、未央の宮殿において盛大な宴会が催された。呂布は同郡の騎都尉李粛らに昵懇の兵士十人余りを率いさせ、制服を着けて衛士のふりをさせ、掖門を守らせた。呂布は詔書を懐中に抱いた。董卓が来ると、李粛らが董卓に殴りかかった。董卓が驚いて「呂布はどこか」と叫ぶと、呂布は「詔勅だ」と言い、そのまま董卓を殺し、三族皆殺しにした。主簿田景が董卓の死体に走り寄ったので、呂布はこれも殺した。およそ殺された者は三人、そのほか身動きする者はなかった。[一]長安の士民たちはみな互いに祝賀し、董卓に迎合していた者どもはみな獄に下されて死んだ。[二]

[一] 『英雄記』に言う。そのころ「千里ののなんと青青たることよ。十日、するもなお生ぜず」といった文句の歌が流行っていて、また「董逃の歌」なるものが作られた。また布きれに「呂」という字を書いて董卓に見せた道士もあったが、董卓はそれが呂布を指しているということに気付かなかった。董卓は宴会に参加することになると、陣営から宮殿まで歩騎を並べ、その間から朝服を着けて先導者に引かれて通った。馬が脚を止めて進まなくなったので、董卓は怪訝に思って取り止めようとしたが、呂布が行くようにと勧めるので衷甲して入った。董卓が死んだとき、日月は澄みわたり、微風さえ吹いていなかった。董旻・董璜および一族の老幼はみな郿にいて、みな(隴西へ)帰郷したが、その部下たちによって斬殺されたり射殺されたりした。董卓の母は九十歳であったが、の門まで逃げて「どうか殺さないでください」と訴えたが、即刻、斬首された。袁氏の門生故吏は、郿で亡くなった袁氏を改葬し、董氏の死体をかき集めてその傍らで焼き払った。董卓の死体を市場で晒した。董卓はもともと太っていて、膏が流れて地面に染み込んだので、草はそのため赤く染まった。死体を見張っていた役人が、日暮れ時、大きなを作り、董卓の臍に差して灯りにすると、光明は明け方まで持ち、それが何日も続いた。のちに董卓の故の部曲が焼かれた灰を収集して一つの棺の中へ収め、郿に埋葬した。董卓の塢の内部には金二・三万斤、銀八・九万斤、珠玉・綺羅錦・珍奇な品物などがあり、みな山のごとく積み上げられて数知れなかった。

[二] 謝承の『後漢書』に言う。蔡邕は王允の酒宴に列席していたが、董卓が死んだと聞いて歎息の声をもらした。王允が蔡邕を咎めて言った。「董卓は国家の大賊、主君を弑して臣下を殺したのだ。天地も助けず、神人ともに憎む輩である。貴君は王臣として代々にわたり漢朝の御恩を蒙り、これまで矛を逆しまに持つこともなかった。董卓が天誅を受けたというに、それをかえって悼むのか?」ただちに廷尉に送致させた。蔡邕は王允に陳謝した。「不忠だとしても大義は理解しております。古今の安全危険については、耳では飽きるほど聞き、口では絶えず申しておるくらいですから、どうして国家に背いて董卓に従うことがありましょう?うっかり出てしまった狂人盲目の言葉が、入ったときには憂患となりました。なにとぞ黥首(入れ墨)の刑に処して漢の史書を書き継がせてくださいますよう。」公卿たちは蔡邕の才能を惜しみ、みな揃って王允を諫めたが、王允は「むかし武帝は司馬遷を殺さなかったために誹謗の書を作らせ、後世に流布させることになった。いまや国祚は衰退の時期にあたり、兵馬は郊外にある。佞臣に筆を持たせて幼主の左右に置くことで、のちのち吾らがそろって批判を受けるようにさせてはならぬ」と言い、とうとう蔡邕を殺してしまった。 臣裴松之は思う。蔡邕は董卓の親愛任用を受けていたものの、本心では決して同調していなかったのだ。どうして董卓の姦悪が天下の害毒であることを知らぬとか、その死亡を聞けば義理として痛歎せぬといったことがあろうか(?)。たといまたそうであったとしても、王允の座中で反論するはずがない。これはおそらく謝承のでたらめな記録であろう。史遷(司馬遷)の紀伝(『史記』)は広くこの世に立派な功績を立てているのに、王允が孝武帝(武帝)は速やかに司馬遷を殺すべきだったと発言したとしている。これは識者の発言ではない。ただ司馬遷は孝武帝の過失を隠さずに正直に書いただけなのであって、どうして誹謗するつもりがあっただろうか?王允の忠義公正さは、内省してやましさがないと言うべきものであるから、もともと誹謗の恐れはなく、しかも蔡邕を殺すつもりであれば、蔡邕が死ぬべきかどうかを議論すればよいのであって、どうして自分が誹謗されることを心配して善人をむやみに殺すことなどができようか!これらはみな無理でたらめの中でもひどいものである。 張璠の『漢紀』に言う。もともと蔡邕は発言によって従えられ、名声は天下に響き、義心は志士たちを動かした。帰還してからは廷内の寵臣たちに憎まれた。蔡邕は恐怖して海浜方面に亡命し、放浪のすえ太山の氏を頼って十年が経過した。董卓は太尉になると召し出して掾とし、高第から侍御史治書とし、三日間のうちにそのまま尚書へと昇らせた。のちに巴東太守へ異動したが、董卓は侍中に任じて留めるようにと上表し、長安に到着すると左中郎将とした。董卓はその才能を重んじて手厚く待遇し、朝廷での仕事があればいつも蔡邕に草稿を用意させていた。王允が蔡邕を殺そうとしたとき、当時の名士たちの多くが彼のために弁明してやったので、王允は後悔して中止させようとした。しかし蔡邕はすでに死んでいたのである。

はじめ董卓の女婿である中郎将牛輔は別働隊を率いてに屯し、校尉李傕郭氾張済を分遣して陳留・潁川の諸県で略奪を働かせていた。董卓が死ぬと、呂布は李粛を陝へ差しむけて勅命により牛輔を誅殺しようとした。牛輔らは李粛を出迎えて戦い、李粛は弘農へと敗走した。呂布は李粛を誅殺した。[一]その後、牛輔陣営には夜中に離叛して出ていく兵士もあって、陣中は騒動になった。牛輔はみながみな叛逆したのだと思い、黄金や財宝を抱え、日ごろから目をかけていた友胡赤児ら、五・六人だけを連れて城壁を乗りこえ、黄河北岸へと渡った。赤児らはその黄金財宝に目がくらみ、(牛輔の)首を斬って長安に送り飛ばした。

[一] 『魏書』に言う。牛輔は怯えきって腰を抜かし、自分を落ち着けることができなかった。いつも軍用の割り符を持ち、傍らには鈇鑕(斬首用の斧)を置いて自分を力づけていた。来客に会うときには、あらかじめ謀反の気配があるかどうかを人相見に占わせたり、また筮竹によって吉凶を調べておき、それからやっと会うことにした。中郎将董越が牛輔を頼ってきたとき、牛輔が筮竹を使わせるとが下、が上の卦であった。占い師は言った。「火が金に勝ち、外の者が内の者を謀殺する卦でございます。」即刻、董越を殺した。 『献帝紀』に言う。占い師はつねづね董越に鞭打たれていたので、この機会を利用して報復したのである。

李傕・郭氾伝

李傕らが戻ったころには牛輔はすでに敗北しており、人々は頼りを失い、それぞれに解散して帰郷したく思った。しかし赦免の書状もなく、そのうえ長安では涼州人を一人残らず誅殺するつもりだと聞いて、恐怖のあまりなすすべを知らなかった。(そこで)賈詡の策略を採用し、そのままその軍勢を率いて西進し、行く先々で軍兵を拾い上げていった。長安に着くにんで軍勢は十万余りに達し、[一]董卓の故の部曲樊稠・李蒙・王方らと合流して長安城を包囲した。十日後に城を陥落させて城内で呂布と戦い、呂布を敗走させた。李傕らは兵士を放って長安中の老人から若者までを捕らえさせ、それを一人残らず殺し尽くしたので、(そこら中に)死体が散乱した。董卓を殺した者を処刑し、王允を市場に晒した。[二]董卓を郿に埋葬したが、暴風雨が董卓の墓を揺るがし、雨水が墓穴に流れ込んで棺を漂わせた。李傕は車騎将軍・池陽侯・領司隷校尉・仮節となり、郭氾は後将軍・美陽侯となり、樊稠は右将軍・万年侯となり、李傕・郭氾・樊稠は朝政を欲しいままにした。[三]張済は驃騎将軍・平陽侯となり、弘農に屯した。

[一] 『九州春秋』に言う。李傕らは陝にあって、みな恐怖し、急いで軍勢を抱えて自衛しようとした。胡文才楊整修はいずれも涼州の大人であったが、司徒王允とはかねてより不仲であった。李傕が叛逆すると王允は文才・整修を呼び、東行させて彼らに釈明させようとしたが、優しげな顔を作らずに「関東の鼠どもは何をするつもりなのか?貴卿らが彼らを呼びに行きなさい」と言った。そこで二人は出かけたあと、実際には兵士を集めて戻ってきたのである。

[二] 張璠の『漢紀』に言う。呂布は軍勢が敗れると、青瑣門の門前に馬をとめて王允に言った。「公よ、行きましょう。」王允は言った。「国家を安んずることこそ吾の最上の願い。それができねば身を捧げて死ぬまでだ。朝廷は幼主であり、我だけを頼りにしておられる。危難を前にして生を盗むなど、吾はいたさぬ。どうか、関東の諸公に詫び、国家のことに専念するように尽力してくれ。」李傕・郭氾は長安に入城すると南宮掖門に屯し、太僕魯馗大鴻臚周奐・城門校尉崔烈・越騎校尉王頎を殺した。官吏民衆の死者は数えきれない。司徒王允は天子を連れて宣平城の城門に上り、戦闘を避けた。李傕らは城門の下で拝礼し、地に平伏して叩頭した。帝が李傕らに言った。「卿は威信や恩恵を施してはならぬ。それなのに兵士どもを放って好き勝手なことをするとは。なにをしようとしておるのか?」李傕らは言った。「董卓は陛下に対して忠義でありましたのに、理由もなく呂布に殺されました。臣らは董卓の敵討ちをするだけで、まさか反逆をなすなどできるものではありませぬ。どうか仕事を片付けてから廷尉に出頭して処罰を受けることをお許しください。」王允は追いつめられて出てゆき、李傕に会った。李傕は王允とその妻子宗族の十人あまりを誅殺した。長安城内では老若男女、涙を流さぬ者はなかった。王允は字を子師といい、太原の人である。若いころから大いなる節義の持ち主で、郭泰は彼に会うと目をみはり、「王生は一日千里(をゆく駿馬)、王佐(王者の補佐)の才である」と言った。郭泰は先達の立場であったが、ついに彼との交わりを固めることにした。三公からそろって招かれ、予州刺史に就任すると荀爽・孔融を招いて従事とし、河南尹・尚書令と昇進していった。司徒になってからは王室の扶助を心がけ、きわめて大臣の節義にかなっていたので、天子以下、みなが彼を頼りにしたのである。董卓もまた彼を信用しきり、朝廷のことを任せたのであった。 華嶠は言う。そもそも士たる者は正道でもって立志し、策謀でもって実行し、義理でもって完成するものである。たとえば、王允が董卓を推戴しつつもその権力を切りとり、やつの隙を窺ってその罪を責めたようにだ。このとき初めて天下の困難は解除されたのであるが、元を正せば、みな忠誠心を根本としていたのだ。だから董卓を推戴しても正道を失したことにはならず、権力を切りとっても義理に背いたことにはならず、隙を窺っても詐欺を働いたことにはならないのだ。これこそ策謀が実行され義理が完成されて、かくして正道に立ちかえったということである。

[三] 『英雄記』に言う。李傕は北地の人である。郭氾は張掖の人で、一名を「」といった。

この歳、韓遂・馬騰らが軍勢を率いて長安に降服してきた。韓遂は鎮西将軍となり涼州へ帰され、馬騰は征西将軍として郿に屯することになった。侍中馬宇諫議大夫种邵・左中郎将劉範らとともに、馬騰に長安を襲撃させ、自分たちが内応して李傕らを誅殺せんと企てた。馬騰が軍勢を率いて長平観まで来たとき、馬宇らの計画は漏洩し、槐里に出奔した。樊稠が馬騰を攻撃すると、馬騰は敗走して涼州に帰っていった。あらためて槐里を攻撃すると、馬宇らはみな死んだ。そのころ三輔の民衆はまだ数十万戸もあったが、李傕らが兵士どもを放って略奪させ、城邑を攻撃させたので、人民は飢えに苦しみ、二年のあいだに互いに食らいあい、ほとんどが死に絶えてしまった。[一]

[一] 『献帝紀』に言う。このとき遷都したばかりのことで、宮人の多くが衣服を失っていた。帝は御府を開いて彼らに絹を下賜しようと思ったが、李傕はそれを望まず、「宮中には衣服がございますのに、なぜ改めて作る必要がありましょう?」と言った。詔勅を下して廐舎の馬百匹あまりを売却し、御府・大司農に二万匹の色混じりの絹を供出させると、売却した馬の利益と合わせ、公卿から貧民までのうち自立できない者たちに下賜した。李傕は「わが邸閣(食料庫)の蓄えが少のうございます」と言い、まるごと全部、自分の陣営に運びいれた。賈詡が「これは上意であらせられ、邪魔だてしてはなりませぬ」と言ったが、李傕は聞き入れなかった。

諸将は権力争いのすえ、とうとう樊稠を殺してその軍勢を吸いあげた。[一]郭氾と李傕は打ってかわって互いを疑うようになり、長安の城内で戦闘を起こした。[二]李傕は自陣へ天子を人質にとり、宮殿や城門を焼きはらって官庁で略奪を働き、乗り物や衣服、器物を残らず取りあげて自邸にしまいこんだ。[三]李傕は講和を求める使者として公卿を郭氾のもとへ行かせたが、郭氾は彼らをみな捕まえてしまった。[四]互いに攻撃すること数ヶ月、死者は万単位にも上った。[五]

[一] 『九州春秋』に言う。馬騰・韓遂が敗走したとき、樊稠が追撃して陳倉まで到達した。韓遂が樊稠に語りかけた。「天地は引っくりかえり、どうなるとも知れない。もともと争いの生じた理由は私怨によるものでなく、王家(を思えばこそ)のことなのだ。足下とは州里(故郷)の人間であり、今でこそ些細な行きちがいがあるものの、大同団結すべきと願っている。お互いに仲よく語りあってから別れよう。万が一、思いどおりの出会いにならなければ、後日、また顔合わせできるだろうか!」ともに騎馬武者を下げると、馬が触れあうほど進み、臂を交えて押さえあい、しばらく語りあってから別れた。李傕の兄の子李利が樊稠に随行していたが、李利は帰ってくると、「韓・樊(韓遂・樊稠)は馬首を交えて語りあい、言葉は聞きとれませんでしたが、心情は非常に親密でした」と李傕に報告した。このことから李傕は、勝手に韓遂と和解して異心を抱いているのだろうと樊稠を疑うようになった。樊稠は軍勢を率いて関東へ出撃しようと思い、李傕に兵力増強を求めた。(李傕は)それを利用して樊稠を会議に招き、その座中ですぐさま樊稠を殺した。

[二] 『典略』に言う。李傕はたびたび酒宴を設けて郭氾を招き、ときには郭氾を帰さずに宿泊させることもあった。郭氾の妻は、李傕が婢妾(女中)を郭氾にあてがって、自分への愛情が奪われることを恐れ、彼らを離間しようと思いたった。ちょうど李傕が(食膳)を贈ってきたので、妻はそこでを薬に見せかけ、郭氾が食べようとしたとき、「食べ物は外から参りました。おそらくは訳ありなのでしょう!」と言うと、薬をんで見せた。そして「一つの巣に二羽の雄は住まいませぬ。私はもともと将軍が李公(李傕)を信頼なさるのを不思議に思っておりました」と言った。後日、李傕はまた郭氾を招いて(郭氾を)泥酔させた。郭氾は李傕に薬を飲まされたと疑い、糞汁をしぼって飲み、やっと解毒できた。こうしたことから、とうとう仲間割れが生じ、軍勢をかまえてせめぎあうようになった。

[三] 『献帝起居注』に言う。最初に天子を自陣に迎え入れようと郭氾が計画したとき、夜中、脱走して李傕に報告する者があった。李傕は兄の子李暹に数千人を率いさせて宮殿を包囲し、三乗の車でもって天子を迎え入れた。楊彪が「古代より、帝王が人臣の家に住まわったことなどない。物事を行うにあたって天下の心を一致させるべきなのに、諸君はこんな真似をする。正しいことではないぞ」と言うと、李暹は「将軍の計画は決まっております」と言った。こうして天子は一乗、貴人氏が一乗、賈詡・左霊が一乗(の車に乗り)、その他の者はみな歩行で随行した。同日、李傕はふたたび御車を移して北塢に行幸させ、校尉に命じて塢の門を監視させ、内外を断絶した。侍臣たちはみな飢えた様子であった。真夏の暑い季節であったが、人々はみな胆を冷やしたのである。帝は左右の者に与えるべく五斛の米と五具の牛の骨を要請したが、李傕は「毎朝、上等の御膳を献上しておるのに、米なんかを使ってどうするつもりだ?」と言い、結局、腐った牛の骨しか出さなかった。どれも臭くて食べられたものではない。帝がたいそう腹を立てて、彼を譴責しようとすると、侍中の楊琦が密奏して「李傕は田舎者なので夷狄の習俗に染まっておるのです。しかも、いまは非道を働いたことを自覚し、いつも浮かぬ顔色をしており、御車を導いて黄白城へ行幸させることで憤懣を晴らそうと考えております。陛下にはお忍びなされ、あやつの罪をおおっぴらになさらぬよう、臣は願いあげ奉りまする」と言上したので、帝はそれを受けいれた。李傕はもともと黄白城に屯したことがあったので、ここへ移そうと考えたのである。李傕は司徒の趙温が自分に同調しないので、趙温を塢のなかへ入れた。趙温は李傕が御車を移そうとしていることを聞くや、李傕に手紙を書いて述べた。「公はかつて董公の仇討ちをするのだと言いつつ、実際には王城を攻め滅ぼして大臣を殺戮いたしました。天下の家々に訪問して戸々に釈明することは不可能です。いまは睚眥の恨みから争いを起こし、千鈞の讎となりました。民衆は塗炭の苦しみにあって、それぞれ生活のあてもないのに、(公は)一度も改悛することもなく、こうして災禍混乱を巻きおこしなさる。朝廷が詔勅を下して和解させようとなされたのに、勅命は履行されず恩沢は日ごとに失われてゆきます。それどころか、またしても御車を黄白城へ運ぼうとなさるとは。それは全く、老人の解せぬことでございます。『』によると、最初の過ちを『』と呼び、二度目を『』と呼び、三度目でも改めないのを、頭まで漬かるということで『』と呼びます。すみやかに和解して軍勢を駐屯地に引きあげることにより、上は万乗を安んじ、下は民衆を全うするに越したことはございませぬ。幸福の極みではございませんか!」李傕は激怒し、人をやって趙温を殺そうとした。彼の従弟の李応は趙温の故の掾であったので、何日間も諫め、やっと諦めさせた。趙温が李傕に手紙を送ったと聞いて、帝は侍中常洽に「李傕は善悪を知らぬ。趙温の言葉はあまりに厳しいので、肝を冷やしてしまうのだ」と訊ねたところ、「もう李応がなだめました」との答えだったので、帝はようやく満足した。

[四] 華嶠の『漢書』に言う。郭氾は公卿に(酒食を)振るまい、李傕を攻撃すべしと提議した。楊彪が「臣下同士でせめぎあい、一人が天子を人質にすれば、一人が公卿を人質にする。こんなことをしてよいものでしょうか?」と言うので、郭氾は腹を立てて、その手で彼を斬ろうとした。中郎将楊密や左右の者たちの多くが諫言したので、郭氾はようやく帰してやった。

[五] 『献帝起居注』に言う。李傕は生まれつき鬼神や呪術を好むたちで、つねづね道人や巫女に歌わせたり太鼓を叩かせたりして神霊を呼び、六丁を祀り、御札や魔除けの類で使わないものはなかった。また朝廷の庁舎の門外に董卓のための祭壇を作り、たびたび牛や羊を生贄として祀り、それが終わってから庁舎の門をくぐって(帝の)ご機嫌を伺い、拝謁を求めるのであった。李傕は三ふりの刀を帯び、そのほか手に鞭と一ふりの刃物を持っていた。侍中・侍郎らは李傕が武器を携帯しているのを見て、みな恐れおののき、同じように刀剣を携帯し、先に入室して帝のお側についた。李傕は帝と受け答えするにあたり、「明陛下」と言ったり「明帝」と言ったりして郭氾の無軌道ぶりを帝に説明し、帝のほうでも彼の意図に合わせて返答した。李傕は嬉しくなり、退出すると「明陛下はまこと賢明な聖主さまだ」と言い、ますます自信を深め、うまく天子の歓心をつかんだとじこんだ。そのくせ側近たちが剣を帯びたまま帝のお側についていることがまだ不満で、他人には「この連中は我を殺そうとしているのかな?みなが刀を持っているぞ」と言っていた。侍中李禎は李傕の州里であり、もともと李傕と付き合いがあったので、「刀を持っているのは軍中ではそうせざるをえないからです。これは国家に前例があります」と李傕に語った。李傕の気持ちはようやくほぐれた。天子は謁者僕射皇甫酈が涼州の古い家であり、対話の才能があるので、李傕・郭氾を和解させよと命じた。皇甫酈がまず郭氾のもとへ行くと、郭氾は詔勅をお受けした。李傕のもとへ行ったところ、李傕は承知せず、「我には呂布の功績がある。政治をお助けして四年、三輔が静謐になったのは天下周知のことである。郭多(郭氾)は馬泥棒にすぎんのに、なぜ吾らの仲間に入ろうとするのか?あいつは絶対に誅殺してやるつもりだ。貴君は涼州人の一人として、吾の計略と軍勢について決着をつけるに充分であるのを見ておるかね?しかも郭多は公卿を人質にとっていて、振るまいはそうした調子だ。それでも貴君が郭多に味方するつもりであれば、李傕にも肝っ玉があることが自ずと明らかになるであろう」と言った。皇甫酈が答えた。「むかし有窮后羿は弓矢の腕をたよって災難など恐れもしませんでしたが、けっきょく死ぬことになりました。近くは董公の強さを明将軍も肉眼でご覧になりました。内部には公(王允)がいて内向きのことで仕切り役を務め、外部には董旻・董承・董璜がいて鯁毒となりましたが、呂布がご恩顧に背いて暗殺を企てると、またたく間に、(董卓の)頭は竿先に吊りさげられました。これは武勇を持ちながら智謀がなかったからです。いま将軍は上将の身であられ、を手にしてを杖つき、ご子孫は権力を掌握し、ご一門は寵愛を蒙り、国家の高い爵位は全て独占しておられます。いま郭多は公卿を人質にとっておりますが、将軍は至尊を脅迫なさっており、どちら(の罪)が重いでしょうか?張済は郭多・楊定と通謀しており、しかも官僚どもに信頼されております。楊奉白波の頭目に過ぎませんが、それでも将軍のなさることが正しくないと理解しております。将軍が任命による恩寵を与えてもなお、尽力することは承知いたしますまい。」李傕は皇甫酈の言葉を受けいれず、怒鳴りつけて退出させた。皇甫酈は退出すると省門へ参り、李傕が詔勅に従わず、不遜な言葉を吐いていると報告した。侍中胡邈は李傕に可愛がられていたので、詔勅を伝える役目の者を呼んで、その言葉を粉飾した。さらに皇甫酈に向かい、「将軍(李傕)は貴卿に対して粗末にはされておらぬ。それに皇甫公(皇甫酈の叔父皇甫嵩)が太尉になれたのも李将軍の尽力のおかげなのだぞ」と言った。皇甫酈が「胡敬才どの、貴卿は国家の常伯(侍中・常侍)であり、輔弼の臣下であろう。そんなことを言うようでは、お役目をどうやって果たすつもりか?」と答えると、胡邈は「貴卿が李将軍のお気持ちを損ねては容易ならざることになろうと心配しておるのだ!我が貴卿に対して含むことがあろうか?」と言う。皇甫酈は言った。「我は代々にわたるご恩顧を蒙り、自身でもつねづね帷幄に侍ってまいった。君主が侮辱されれば臣下は死ぬもの。国家の御為に尽くして李傕に殺されようとも、それは天命というものである。」天子は皇甫酈が(胡邈に対して)厳しく返答したことを知ると、それが李傕に聞かれることを恐れ、ただちに皇甫酈のもとに勅使をつかわした。皇甫酈がちょうど営門を出たとき、李傕は虎賁の王昌に命じて彼を呼びつけさせたが、王昌は皇甫酈の忠義正直を理解していたので、存分に出てゆかせ、引き返して「追いつけませんでした」と李傕に報告した。天子は左中郎将李固に節を持たせて使者とし、李傕を大司馬に任命して三公より上位とした。李傕は鬼神の力添えをえられたのだと勝手に思い、巫女たちに手厚い贈り物をしたのであった。

李傕の将楊奉が、李傕の軍吏宋果らとともに李傕殺害を企てたが、計画が漏れたため、軍兵を率いて李傕に対して叛逆した。李傕は手勢が叛逆したため、次第に衰弱してゆくことになる。張済が陝から出てきて彼らを和解させたので、天子はようやく抜けだすことができ、新豊や霸陵の辺りまで行きついた。[一]郭氾がふたたび天子をさらって郿に遷都させようとしたので、天子は楊奉の陣営に逃れ、楊奉が郭氾を撃破した。郭氾が南山に敗走すると、楊奉および将軍董承は天子を支えて洛陽へ帰る(ことにした)。李傕・郭氾は天子を行かせたことを後悔し、ふたたび和解して天子を追い、弘農の曹陽で追いついた。楊奉は取りいそぎ河東の故の白波の頭領であった韓暹・胡才・李楽らを招きよせて合流し、李傕・郭氾と大いに戦った。楊奉軍が敗北し、李傕らは兵士どもを放って公卿・百官を殺し、宮人を誘拐しつつ弘農に侵入した。[二]天子は陝へと逃れて、黄河北岸に渡った。輜重を失い、徒歩でゆき、付きしたがうのはただ皇后と貴人だけであった。大陽に着くと民家に宿泊した。[三]奉・暹等遂以天子都安邑,御乗牛車.太尉楊彪・太僕韓融近臣従者十余人.以暹為征東・才為征西・楽征北将軍,並与奉・承持政.遣融至弘農,与傕・氾等連和,還所略宮人公卿百官,及乗輿車馬数乗.是時蝗蟲起,歳旱無穀,従官食棗菜.[四]諸将不能相率,上下乱,糧食尽.奉・暹・承乃以天子還洛陽.出箕関,下軹道,張楊以食迎道路,拝大司馬.語在楊伝.天子入洛陽,宮室焼尽,街陌荒蕪,百官披荊棘,依丘牆間.州郡各擁兵自衛,莫有至者.飢窮稍甚,尚書郎以下,自出樵采,或飢死牆壁間.

[一] 献帝起居注曰:初,天子出到宣平門,当度橋,氾兵数百人遮橋問「是天子邪?」車不得前.傕兵数百人皆持大戟在乗輿車左右,侍中劉艾大呼云:「是天子也.」使侍中楊琦高挙車帷.帝言諸兵:「汝不却,何敢迫近至尊邪?」氾等兵乃却.既度橋,士衆咸呼万歳.

[二] 献帝紀曰:時尚書令士孫瑞為乱兵所害. 三輔決録注曰:瑞字君栄,扶風人,世為学門.瑞少伝家業,博達無所不通,仕歴顕位.卓既誅,遷大司農,為国三老.毎三公欠,瑞常在選中.太尉周忠・皇甫嵩,司徒淳于嘉・趙温,司空楊彪・張喜等為公,皆辞拝譲瑞.天子都許,追論瑞功,封子萌澹津亭侯.萌字文始,亦有才学,与王粲善.臨当就国,粲作詩以贈萌,萌有答,在粲集中.

[三] 献帝紀曰:初,議者欲令天子浮河東下,太尉楊彪曰:「臣弘農人,従此已東,有三十六灘,非万乗所当従也.」劉艾曰:「臣前為陝令,知其危険,有師猶有傾覆,況今無師,太尉謀是也.」乃止.及当北渡,使李楽具船.天子歩行趨河岸,岸高不得下,董承等謀欲以馬羈相続以繋帝腰.時中宮僕伏徳扶中宮,一手持十匹絹,乃取徳絹連続為輦.行軍校尉尚弘多力,令弘居前負帝,乃得下登船.其余不得渡者甚衆,復遣船収諸不得渡者,皆争攀船,船上人以刃櫟断其指,舟中之指可掬.

[四] 魏書曰:乗輿時居棘籬中,門戸無関閉.天子与群臣会,兵士伏籬上観,互相鎮壓以為笑.諸将専権,或擅笞殺尚書.司隷校尉出入,民兵抵擲之.諸将或遣婢詣省閤,或自齎酒啖,過天子飲,侍中不通,喧呼罵詈,遂不能止.又競表拝諸営壁民為部曲,求其礼遺.医師・走卒,皆為校尉,御史刻印不供,乃以錐画,示有文字,或不時得也.

太祖乃迎天子都許.暹・奉不能奉王法,各出奔,寇徐・揚間,為劉備所殺.[一]董承従太祖歳余,誅.建安二年,遣謁者僕射裴茂率関西諸将誅傕,夷三族.[二]氾為其将五習所襲,死於郿.済飢餓,至南陽寇略,為穣人所殺,従子繡摂其衆.才・楽留河東,才為怨家所殺,楽病死.遂・騰自還涼州,更相寇,後騰入為衛尉,子超領其部曲.十六年,超与関中諸将及遂等反,太祖征破之.語在武紀.遂奔金城,為其将所殺.超拠漢陽,騰坐夷三族.趙衢等挙義兵討超,超走漢中従張魯,後奔劉備,死於蜀.

[一] 英雄記曰:備誘奉与相見,因於坐上執之.暹失奉勢孤,時欲走還幷州,為杼秋屯帥張宣所邀殺.

[二] 典略曰:傕頭至,有詔高県.

董卓傳

董卓字仲穎,隴西臨洮人也.[一]少好俠,嘗游羌中,盡與諸豪帥相結.後歸耕於野,而豪帥有來從之者,卓與俱還,殺耕牛與相宴樂.諸豪帥感其意,歸相斂,得雜畜千餘頭以贈卓.[二]漢桓帝末,以六郡良家子為羽林郞.卓有才武,膂力少比,雙帶兩鞬,左右馳射.為軍司馬,從中郞將張奐征幷州有功,拜郞中,賜縑九千匹,卓悉以分與吏士.遷廣武令﹑蜀郡北部都尉﹑西域戊己校尉,免.徵拜幷州刺史﹑河東太守,[三]遷中郞將,討黃巾,軍敗抵罪.韓遂等起涼州,復為中郞將,西拒遂.於望垣硤北,為羌﹑胡數萬人所圍,糧食乏絕.卓僞欲捕魚,堰其還道當所渡水為池,使水渟滿數十里,默從堰下過其軍而決堰.比羌﹑胡聞知追逐,水已深,不得渡.時六軍上隴西,五軍敗績,卓獨全眾而還,屯住扶風.拜前將軍,封斄鄕侯,徵為幷州牧.[四]

[一] 英雄記曰:卓父君雅,由微官為潁川綸氏尉.有三子:長子擢,字孟高,早卒;次卽卓;卓弟旻字叔穎.

[二] 吳書曰:郡召卓為吏,使監領盜賊.胡嘗出鈔,多虜民人,涼州刺史成就辟卓為從事,使領兵騎討捕,大破之,斬獲千計.幷州刺史段熲薦卓公府,司徒袁隗辟為掾.

[三] 英雄記曰:卓數討羌﹑胡,前後百餘戰.

[四] 靈帝紀曰:中平五年,徵卓為少府,勑以營吏士屬左將軍皇甫嵩,詣行在所.卓上言:「涼州擾亂,鯨鯢未滅,此臣奮發効命之秋.吏士踴躍,戀恩念報,各遮臣車,辭聲懇惻,未得卽路也.輒且行前將軍事,盡心慰卹,效力行陣.」六年,以卓為幷州牧,又勑以吏兵屬皇甫嵩.卓復上言:「臣掌戎十年,士卒大小,相狎彌久,戀臣畜養之恩,樂為國家奮一旦之命,乞將之州,效力邊陲.」卓再違詔勑,會為何進所召.

靈帝崩,少帝卽位.大將軍何進與司隸校尉袁紹謀誅諸閹官,太后不從.進乃召卓使將兵詣京師,幷密令上書曰:「中常侍張讓等竊幸乘寵,濁亂海內.昔趙鞅興晉陽之甲,以逐君側之惡.臣輒鳴鐘鼓如洛陽,卽討讓等.」欲以脅迫太后.卓未至,進敗.[一]中常侍段珪等劫帝走小平津,卓遂將其眾迎帝於北芒,還宮.[二]時進弟車騎將軍苗為進眾所殺,[三]進﹑苗部曲無所屬,皆詣卓.卓又使呂布殺執金吾丁原,幷其眾,故京都兵權唯在卓.[四]

[一] 續漢書曰:進字遂高,南陽人,太后異母兄也.進本屠家子,父曰眞.眞死後,進以妹倚黃門得入掖庭,有寵,光和三年立為皇后,進由是貴幸.中平元年,黃巾起,拜進大將軍. 典略載卓表曰:「臣伏惟天下所以有逆不止者,各由黃門常侍張讓等侮慢天常,操擅王命,父子兄弟並據州郡,一書出門,便獲千金,京畿諸郡數百萬膏腴美田皆屬讓等,至使怨氣上蒸,妖賊蠭起.臣前奉詔討於扶羅,將士飢乏,不肯渡河,皆言欲詣京師先誅閹豎以除民害,從臺閣求乞資直.臣隨慰撫,以至新安.臣聞揚湯止沸,不如滅火去薪,潰癰雖痛,勝於養肉,及溺呼船,悔之無及.」

[二] 張璠漢紀曰:帝以八月庚午為諸黃門所劫,步出穀門,走至河上.諸黃門旣投河死.時帝年十四,陳留王年九歲,兄弟獨夜步行欲還宮,闇暝,逐螢火而行,數里,得民家以露車載送.辛未,公卿以下與卓共迎帝於北芒阪下. 獻帝春秋曰:先是童謠曰:「侯非侯,王非王,千乘萬騎走北芒.」卓時適至,屯顯陽苑.聞帝當還,率眾迎帝. 典略曰:帝望見卓兵涕泣.羣公謂卓曰:「有詔卻兵.」卓曰:「公諸人為國大臣,不能匡正王室,至使國家播蕩,何卻兵之有!」遂俱入城. 獻帝紀曰:卓與帝語,語不可了.乃更與陳留王語,問禍亂由起;王答,自初至終,無所遺失.卓大喜,乃有廢立意. 英雄記曰:河南中部掾閔貢扶帝及陳留王上至雒舍止.帝獨乘一馬,陳留王與貢共乘一馬,從雒舍南行.公卿百官奉迎於北芒阪下,故太尉崔烈在前導.卓將步騎數千來迎,烈呵使避,卓罵烈曰:「晝夜三百里來,何云避,我不能斷卿頭邪?」前見帝曰:「陛下令常侍小黃門作亂乃爾,以取禍敗,為負不小邪?」又趨陳留王,曰:「我董卓也,從我抱來.」乃於貢抱中取王. 英雄記曰:一本云王不就卓抱,卓與王併馬而行也.

[三] 英雄記云:苗,太后之同母兄,先嫁朱氏之子.進部曲將吳匡,素怨苗不與進同心,又疑其與宦官通謀,乃令軍中曰:「殺大將軍者,車騎也.」遂引兵與卓弟旻共攻殺苗於朱爵闕下.

[四] 九州春秋曰:卓初入洛陽,步騎不過三千,自嫌兵少,不為遠近所服;率四五日,輒夜遣兵出四城門,明日陳旌鼓而入,宣言云「西兵復入至洛中」.人不覺,謂卓兵不可勝數.

先是,進遣騎都尉太山鮑信所在募兵,適至,信謂紹曰:「卓擁彊兵,有異志,今不早圖,將為所制;及其初至疲勞,襲之可禽也.」紹畏卓,不敢發,信遂還鄕里.

於是以久不雨,策免司空劉弘而卓代之,俄遷太尉,假節鉞虎賁.遂廢帝為弘農王.尋又殺王及何太后.立靈帝少子陳留王,是為獻帝.[一]卓遷相國,封郿侯,贊拜不名,劔履上殿,又封卓母為池陽君,置家令﹑丞.卓旣率精兵來,適値帝室大亂,得專廢立,據有武庫甲兵,國家珍寶,威震天下.卓性殘忍不仁,遂以嚴刑脅眾,睚眦之隙必報,人不自保.[二]嘗遣軍到陽城.時値二月社,民各在其社下,悉就斷其男子頭,駕其車牛,載其婦女財物,以所斷頭繫車轅軸,連軫而還洛,云攻賊大獲,稱萬歲.入開陽城門,焚燒其頭,以婦女與甲兵為婢妾.至於姦亂宮人公主.其凶逆如此.

[一] 獻帝紀曰:卓謀廢帝,會羣臣於朝堂,議曰:「大者天地,次者君臣,所以為治.今皇帝闇弱,不可以奉宗廟,為天下主.欲依伊尹﹑霍光故事,立陳留王,何如?」尚書盧植曰:「案尚書太甲旣立不明,伊尹放之桐宮.昌邑王立二十七日,罪過千餘,故霍光廢之.今上富於春秋,行未有失,非前事之比也.」卓怒,罷坐,欲誅植,侍中蔡邕勸之,得免.九月甲戌,卓復大會羣臣曰:「太后逼迫永樂太后,令以憂死,逆婦姑之禮,無孝順之節.天子幼質,軟弱不君.昔伊尹放太甲,霍光廢昌邑,著在典籍,僉以為善.今太后宜如太甲,皇帝宜如昌邑.陳留王仁孝,宜卽皇帝祚.」 獻帝起居注載策曰:「孝靈皇帝不究高宗眉壽之祚,早棄臣子.皇帝承紹,海內側望,而帝天姿輕佻,威儀不恪,在喪慢惰,衰如故焉;凶德旣彰,淫穢發聞,損辱神器,忝汚宗廟.皇太后教無母儀,統政荒亂.永樂太后暴崩,眾論惑焉.三綱之道,天地之紀,而乃有闕,罪之大者.陳留王協,聖德偉茂,規矩邈然,豐下兌上,有堯圖之表;居喪哀戚,言不及邪,岐嶷之性,有周成之懿.休聲美稱,天下所聞,宜承洪業,為萬世統,可以承宗廟.廢皇帝為弘農王.皇太后還政.」尚書讀冊畢,羣臣莫有言,尚書丁宮曰:「天禍漢室,喪亂弘多.昔祭仲廢忽立突,春秋大其權.今大臣量宜為社稷計,誠合天人,請稱萬歲.」卓以太后見廢,故公卿以下不布服,會葬,素衣而已.

[二] 魏書曰:卓所願無極,語賓客曰:「我相,貴無上也.」 英雄記曰:卓欲震威,侍御史擾龍宗詣卓白事,不解劍,立撾殺之,京師震動.發何苗棺,出其尸,枝解節棄於道邊.又收苗母舞陽君殺之,棄尸於苑枳落中,不復收斂.

初,卓信任尚書周毖﹑城門校尉伍瓊等,用其所擧韓馥﹑劉岱﹑孔伷﹑張資﹑張邈等出宰州郡.而馥等至官,皆合兵將以討卓.卓聞之,以為毖﹑瓊等通情賣己,皆斬之.[一]

[一] 英雄記曰:毖字仲遠,武威人.瓊字德瑜,汝南人. 謝承後漢書曰:伍孚字德瑜,少有大節,為郡門下書佐.其本邑長有罪,太守使孚出教,勑曹下督郵收之.孚不肯受教,伏地仰諫曰:「君雖不君,臣不可不臣,明府柰何令孚受教,勑外收本邑長乎?更乞授他吏.」太守奇而聽之.後大將軍何進辟為東曹屬,稍遷侍中﹑河南尹﹑越騎校尉.董卓作亂,百僚震慄.孚著小鎧,於朝服裏挾佩刀見卓,欲伺便刺殺之.語闋辭去,卓送至閤中,孚因出刀刺之.卓多力,退卻不中,卽收孚.卓曰:「卿欲反邪?」孚大言曰:「汝非吾君,吾非汝臣,何反之有?汝亂國簒主,罪盈惡大,今是吾死日,故來誅姦賊耳,恨不車裂汝於市朝以謝天下.」遂殺孚. 謝承記孚字及本郡,則與瓊同,而致死事乃與孚異也,不知孚為瓊之別名,為別有伍孚也?蓋未詳之.

河內太守王匡,遣泰山兵屯河陽津,將以圖卓.卓遣疑兵若將於平陰渡者,潛遣銳眾從小平北渡,繞擊其後,大破之津北,死者略盡.卓以山東豪傑並起,恐懼不寧.初平元年二月,乃徙天子都長安.焚燒洛陽宮室,悉發掘陵墓,取寶物.[一]卓至西京,為太師,號曰尚父.乘靑蓋金華車,爪畫兩轓,時人號曰竿摩車.[二]卓弟旻為左將軍,封鄠侯;兄子璜為侍中﹑中軍校尉典兵;宗族內外並列朝廷.[三]公卿見卓,謁拜車下,卓不為禮.召呼三臺尚書以下自詣卓府啓事.[四]築郿塢,高與長安城埓,積穀為三十年儲,[五]云事成,雄據天下,不成,守此足以畢老.嘗至郿行塢,公卿已下祖道於橫門外.橫音光.卓豫施帳幔飲,誘降北地反者數百人,於坐中先斷其舌,或斬手足,或鑿眼,或鑊煮之,未死,偃轉杯案閒,會者皆戰慄亡失匕箸,而卓飲食自若.太史望氣,言當有大臣戮死者.故太尉張溫時為衞尉,素不善卓,卓心怨之,因天有變,欲以塞咎,使人言溫與袁術交關,遂笞殺之.[六]法令苛酷,愛憎淫刑,更相被誣,寃死者千數.百姓嗷嗷,道路以目.[七]悉椎破銅人﹑鍾虡,及壞五銖錢.更鑄為小錢,大五分,無文章,肉好無輪郭,不磨鑢.於是貨輕而物貴,穀一斛至數十萬.自是後錢貨不行.

[一] 華嶠漢書曰:卓欲遷長安,召公卿以下大議.司徒楊彪曰:「昔盤庚五遷,殷民胥怨,故作三篇以曉天下之民.而海內安穩,無故移都,恐百姓驚動,麋沸蟻聚為亂.」卓曰:「關中肥饒,故秦得幷呑六國.今徙西京,設令關東豪彊敢有動者,以我彊兵踧之,可使詣滄海.」彪曰:「海內動之甚易,安之甚難.又長安宮室壞敗,不可卒復.」卓曰:「武帝時居杜陵南山下,有成瓦窑數千處,引涼州材木東下以作宮室,為功不難.」卓意不得,便作色曰:「公欲沮我計邪?邊章﹑韓約有書來,欲令朝廷必徙都.若大兵來下,我不能復相救,公便可與袁氏西行.」彪曰:「西方自彪道徑也,顧未知天下何如耳!」議罷.卓勑司隸校尉宣璠以災異劾奏,因策免彪. 續漢書曰:太尉黃琬﹑司徒楊彪﹑司空荀爽俱詣卓,卓言:「昔高祖都關中,十一世後中興,更都洛陽.從光武至今復十一世,案石苞室讖,宜復還都長安.」坐中皆驚愕,無敢應者.彪曰:「遷都改制,天下大事,皆當因民之心,隨時之宜.昔盤庚五遷,殷民胥怨,故作三篇以曉之.往者王莽簒逆,變亂五常,更始赤眉之時,焚燒長安,殘害百姓,民人流亡,百無一在.光武受命,更都洛邑,此其宜也.今方建立聖主,光隆漢祚,而無故捐宮廟,棄園陵,恐百姓驚愕,不解此意,必麋沸蟻聚以致擾亂.石苞室讖,妖邪之書,豈可信用?」卓作色曰:「楊公欲沮國家計邪?關東方亂,所在賊起.崤函險固,國之重防.又隴右取材,功夫不難.杜陵南山下有孝武故陶處,作塼瓦,一朝可辦.宮室官府,蓋何足言!百姓小民,何足與議.若有前卻,我以大兵驅之,豈得自在.」百寮恐怖失色.琬謂卓曰:「此大事.楊公之語,得無重思!」卓罷坐,卽日令司隸奏彪及琬,皆免官.大駕卽西.卓部兵燒洛陽城外面百里.又自將兵燒南北宮及宗廟﹑府庫﹑民家,城內埽地殄盡.又收諸富室,以罪惡沒入其財物;無辜而死者,不可勝計. 獻帝記曰:卓獲山東兵,以豬膏塗布十餘匹,用纏其身,然後燒之,先從足起.獲袁紹豫州從事李延,煮殺之.卓所愛胡,恃寵放縱,為司隸校尉趙謙所殺.卓大怒曰:「我愛狗,尚不欲令人呵之,而況人乎!」乃召司隸都官撾殺之.

[二] 魏書曰:言其逼天子也. 獻帝紀曰;卓旣為太師,復欲稱尚父,以問蔡邕.邕曰:「昔武王受命,太公為師,輔佐周室,以伐無道,是以天下尊之,稱為尚父.今公之功德誠為巍巍,宜須關東悉定,車駕東還,然後議之.」乃止.京師地震,卓又問邕.邕對曰:「地動陰盛,大臣踰制之所致也.公乘靑蓋車,遠近以為非宜.」卓從之,更乘金華皁蓋車也.

[三] 英雄記曰:卓侍妾懷抱中子,皆封侯,弄以金紫.孫女名白,時尚未笄,封為渭陽君.於郿城東起壇,從廣二丈餘,高五六尺,使白乘軒金華靑蓋車,都尉﹑中郞將﹑刺史千石在郿者,各令乘軒簪筆,為白導從,之壇上,使兄子璜為使者授印綬.

[四] 山陽公載記曰:初卓為前將軍,皇甫嵩為左將軍,俱征韓遂,各不相下.後卓徵為少府幷州牧,兵當屬嵩,卓大怒.及為太師,嵩為御史中丞,拜於車下.卓問嵩:「義眞服未乎?」嵩曰:「安知明公乃至於是!」卓曰:「鴻鵠固有遠志,但燕雀自不知耳.」嵩曰:「昔與明公俱為鴻鵠,不意今日變為鳳皇耳.」卓笑曰:「卿早服,今日可不拜也.」 張璠漢紀曰:卓抵其手謂皇甫嵩曰:「義眞怖未乎?」嵩對曰:「明公以德輔朝廷,大慶方至,何怖之有?若淫刑以逞,將天下皆懼,豈獨嵩乎?」卓默然,遂與嵩和解.

[五] 英雄記曰:郿去長安二百六十里.

[六] 傅子曰:靈帝時牓門賣官,於是太尉段熲﹑司徒崔烈﹑太尉樊陵﹑司空張溫之徒,皆入錢上千萬下五百萬以買三公.熲數征伐有大功,烈有北州重名,溫有傑才,陵能偶時,皆一時顯士,猶以貨取位,而況於劉囂﹑唐珍﹑張顥之黨乎! 風俗通曰:司隸劉囂,以黨諸常侍,致位公輔. 續漢書曰:唐珍,中常侍唐衡弟.張顥,中常侍張奉弟.

[七] 魏書曰:卓使司隸校尉劉囂籍吏民有為子不孝,為臣不忠,為吏不清,為弟不順,有應此者皆身誅,財物沒官.於是愛憎互起,民多寃死.

三年四月,司徒王允﹑尚書僕射士孫瑞﹑卓將呂布共謀誅卓.是時,天子有疾新愈,大會未央殿.布使同郡騎都尉李肅等,將親兵十餘人,僞著衞士服守掖門.布懷詔書.卓至,肅等格卓.卓驚呼布所在.布曰「有詔」,遂殺卓,夷三族.主簿田景前趨卓尸,布又殺之;凡所殺三人,餘莫敢動.[一]長安士庶咸相慶賀,諸阿附卓者皆下獄死.[二]

[一] 英雄記曰:時有謠言曰:「千里艸,何靑靑,十日卜,猶不生.」又作董逃之歌.又有道士書布為「呂」字以示卓,卓不知其為呂布也.卓當入會,陳列步騎,自營至宮,朝服導引行其中.馬躓不前,卓心怪欲止,布勸使行,乃衷甲而入.卓旣死,當時日月清淨,微風不起.旻﹑璜等及宗族老弱悉在郿,皆還,為其羣下所斫射.卓母年九十,走至塢門曰「乞脫我死」,卽斬首.袁氏門生故吏,改殯諸袁死於郿者,斂聚董氏尸於其側而焚之.暴卓尸於市.卓素肥,膏流浸地,草為之丹.守尸吏暝以為大炷,置卓臍中以為燈,光明達旦,如是積日.後卓故部曲收所燒者灰,幷以一棺棺之,葬於郿.卓塢中金有二三萬斤,銀八九萬斤,珠玉錦綺奇玩雜物皆山崇阜積,不可知數.

[二] 謝承後漢書曰:蔡邕在王允坐,聞卓死,有歎惜之音.允責邕曰:「卓,國之大賊,殺主殘臣,天地所不祐,人神所同疾.君為王臣,世受漢恩,國主危難,曾不倒戈,卓受天誅,而更嗟痛乎?」便使收付廷尉.邕謝允曰:「雖以不忠,猶識大義,古今安危,耳所厭聞,口所常玩,豈當背國而向卓也?狂瞽之詞,謬出患入,願黥首為刑以繼漢史.」公卿惜邕才,咸共諫允.允曰:「昔武帝不殺司馬遷,使作謗書,流於後世.方今國祚中衰,戎馬在郊,不可令佞臣執筆在幼主左右,後令吾徒並受謗議.」遂殺邕. 臣松之以為蔡邕雖為卓所親任,情必不黨.寧不知卓之姦凶,為天下所毒,聞其死亡,理無歎惜.縱復令然,不應反言於王允之坐.斯殆謝承之妄記也.史遷紀傳,博有奇功於斯世,而云王允謂孝武應早殺遷,此非識者之言.但遷為不隱孝武之失,直書其事耳,何謗之有乎?王允之忠正,可謂內省不疚者矣,旣無懼於謗,且欲殺邕,當論邕應死與不,豈可慮其謗己而枉戮善人哉!此皆誣罔不通之甚者. 張璠漢紀曰:初,蔡邕以言事見從,名聞天下,義動志士.及還,內寵惡之.邕恐,乃亡命海濱,往來依太山羊氏,積十年.卓為太尉,辟為掾,以高第為侍御史治書,三日中遂至尚書.後遷巴東太守,卓上留拜侍中,至長安為左中郞將.卓重其才,厚遇之.每有朝廷事,常令邕具草.及允將殺邕,時名士多為之言,允悔欲止,而邕已死.

初,卓女壻中郞將牛輔典兵別屯陝,分遣校尉李傕﹑郭氾﹑張濟略陳留﹑潁川諸縣.卓死,呂布使李肅至陝,欲以詔命誅輔.輔等逆與肅戰,肅敗走弘農,布誅肅.[一]其後輔營兵有夜叛出者,營中驚,輔以為皆叛,乃取金寶,獨與素所厚友胡赤兒等五六人相隨,踰城北渡河,赤兒等利其金寶,斬首送長安.

[一] 魏書曰:輔恇怯失守,不能自安.常把辟兵符,以鈇鑕致其旁,欲以自彊.見客,先使相者相之,知有反氣與不,又筮知吉凶,然後乃見之.中郞將董越來就輔,輔使筮之,得兌下離上,筮者曰:「火勝金,外謀內之卦也.」卽時殺越. 獻帝紀云:筮人常為越所鞭,故因此以報之.

李傕﹑郭氾傳

比傕等還,輔已敗,眾無所依,欲各散歸.旣無赦書,而聞長安中欲盡誅涼州人,憂恐不知所為.用賈詡策,遂將其眾而西,所在收兵,比至長安,眾十餘萬,[一]與卓故部曲樊稠﹑李蒙﹑王方等合圍長安城.十日城陷,與布戰城中,布敗走.傕等放兵略長安老少,殺之悉盡,死者狼籍.誅殺卓者,尸王允於市.[二]葬卓於郿,大風暴雨震卓墓,水流入藏,漂其棺槨.傕為車騎將軍﹑池陽侯,領司隸校尉﹑假節.氾為後將軍﹑美陽侯.稠為右將軍﹑萬年侯.傕﹑氾﹑稠擅朝政.[三]濟為驃騎將軍﹑平陽侯,屯弘農.

[一] 九州春秋曰:傕等在陝,皆恐怖,急擁兵自守.胡文才﹑楊整修皆涼州大人,而司徒王允素所不善也.及李傕之叛,允乃呼文才﹑整修使東解釋之,不假借以溫顏,謂曰:「關東鼠子欲何為邪?卿往呼之.」於是二人往,實召兵而還.

[二] 張璠漢紀曰:布兵敗,駐馬靑瑣門外,謂允曰:「公可以去.」允曰:「安國家,吾之上願也,若不獲,則奉身以死.朝廷幼主恃我而已,臨難苟免,吾不為也.努力謝關東諸公,以國家為念.」傕﹑氾入長安城,屯南宮掖門,殺太僕魯馗﹑大鴻臚周奐﹑城門校尉崔烈﹑越騎校尉王頎.吏民死者不可勝數.司徒王允挾天子上宣平城門避兵,傕等於城門下拜,伏地叩頭.帝謂傕等曰:「卿無作威福,而乃放兵縱橫,欲何為乎?」傕等曰:「董卓忠於陛下,而無故為呂布所殺.臣等為卓報讎,弗敢為逆也.請事竟,詣廷尉受罪.」允窮逼出見傕,傕誅允及妻子宗族十餘人.長安城中男女大小莫不流涕.允字子師,太原祁人也.少有大節,郭泰見而奇之,曰:「王生一日千里,王佐之才也.」泰雖先達,遂與定交.三公並辟,歷豫州刺史,辟荀爽﹑孔融為從事,遷河南尹﹑尚書令.及為司徒,其所以扶持王室,甚得大臣之節,自天子以下,皆倚賴焉.卓亦推信之,委以朝廷. 華嶠曰:夫士以正立,以謀濟,以義成,若王允之推董卓而分其權,伺其閒而弊其罪.當此之時,天下之難解矣,本之皆主於忠義也,故推卓不為失正,分權不為不義,伺閒不為狙詐,是以謀濟義成,而歸於正也.

[三] 英雄記曰:傕,北地人.氾,張掖人,一名多.

是歲,韓遂﹑馬騰等降,率眾詣長安.以遂為鎭西將軍,遣還涼州,騰征西將軍,屯郿.侍中馬宇與諫議大夫种邵﹑左中郞將劉範等謀,欲使騰襲長安,己為內應,以誅傕等.騰引兵至長平觀,宇等謀泄,出奔槐里.稠擊騰,騰敗走,還涼州;又攻槐里,宇等皆死.時三輔民尚數十萬戶,傕等放兵劫略,攻剽城邑,人民飢困,二年閒相啖食略盡.[一]

[一] 獻帝紀曰:是時新遷都,宮人多亡衣服,帝欲發御府繒以與之,李傕弗欲,曰:「宮中有衣,胡為復作邪?」詔賣廏馬百餘匹,御府大司農出雜繒二萬匹,與所賣廏馬直,賜公卿以下及貧民不能自存者.李傕曰「我邸閣儲偫少」,乃悉載置其營.賈詡曰「此上意,不可拒」,傕不從之.

諸將爭權,遂殺稠,幷其眾.[一]氾與傕轉相疑,戰鬭長安中.[二]傕質天子於營,燒宮殿城門,略官寺,盡收乘輿服御物置其家.[三]傕使公卿詣氾請和,氾皆執之.[四]相攻擊連月,死者萬數.[五]

[一] 九州春秋曰:馬騰﹑韓遂之敗,樊稠追至陳倉.遂語稠曰:「天地反覆,未可知也.本所爭者非私怨,王家事耳.與足下州里人,今雖小違,要當大同,欲相與善語以別.邂逅萬一不如意,後可復相見乎!」俱卻騎前接馬,交臂相加,共語良久而別.傕兄子利隨稠,利還吿傕,韓﹑樊交馬語,不知所道,意愛甚密.傕以是疑稠與韓遂私和而有異意.稠欲將兵東出關,從傕索益兵.因請稠會議,便於坐殺稠.

[二] 典略曰:傕數設酒請氾,或留氾止宿.氾妻懼傕與氾婢妾而奪己愛,思有以離閒之.會傕送饋,妻乃以豉為藥,氾將食,妻曰:「食從外來,儻或有故!」遂摘藥示之,曰:「一棲不二雄,我固疑將軍之信李公也.」他日傕復請氾,大醉.氾疑傕藥之,絞糞汁飲之乃解.於是遂生嫌隙,而治兵相攻.

[三] 獻帝起居注曰:初,氾謀迎天子幸其營,夜有亡吿傕者,傕使兄子暹將數千兵圍宮,以車三乘迎天子.楊彪曰:「自古帝王無在人臣家者.擧事當合天下心,諸君作此,非是也.」暹曰:「將軍計定矣.」於是天子一乘,貴人伏氏一乘,賈詡﹑左靈一乘,其餘皆步從.是日,傕復移乘輿幸北塢,使校尉監塢門,內外隔絕.諸侍臣皆有飢色,時盛暑熱,人盡寒心.帝求米五斛﹑牛骨五具以賜左右,傕曰:「朝餔上飯,何用米為?」乃與腐牛骨,皆臭不可食.帝大怒,欲詰責之.侍中楊琦上封事曰:「傕,邊鄙之人,習於夷風,今又自知所犯悖逆,常有怏怏之色,欲輔車駕幸黃白城以紓其憤.臣願陛下忍之,未可顯其罪也.」帝納之.初,傕屯黃白城,故謀欲徙之.傕以司徒趙溫不與己同,乃內溫塢中.溫聞傕欲移乘輿,與傕書曰:「公前託為董公報讎,然實屠陷王城,殺戮大臣,天下不可家見而戶釋也.今爭睚眥之隙,以成千鈞之讎,民在塗炭,各不聊生,曾不改寤,遂成禍亂.朝廷仍下明詔,欲令和解,詔命不行,恩澤日損,而復欲輔乘輿於黃白城,此誠老夫所不解也.於易,一過為過,再為涉,三而弗改,滅其頂,凶.不如早共和解,引兵還屯,上安萬乘,下全生民,豈不幸甚!」傕大怒,欲遣人害溫.其從弟應,溫故掾也,諫之數日乃止.帝聞溫與傕書,問侍中常洽曰:「傕弗知臧否,溫言太切,可為寒心.」對曰:「李應已解之矣.」帝乃悅.

[四] 華嶠漢書曰:氾饗公卿,議欲攻傕.楊彪曰:「群臣共鬭,一人劫天子,一人質公卿,此可行乎?」氾怒,欲手刃之,中郞將楊密及左右多諫,氾乃歸之.

[五] 獻帝起居注曰:傕性喜鬼怪左道之術,常有道人及女巫歌謳擊鼓下神,祠祭六丁,符劾厭勝之具,無所不為.又於朝廷省門外,為董卓作神坐,數以牛羊祠之,訖,過省閤問起居,求入見.傕帶三刀,手復與鞭合持一刃.侍中﹑侍郞見傕帶仗,皆惶恐,亦帶劔持刀,先入在帝側.傕對帝,或言「明陛下」,或言「明帝」,為帝說郭氾無狀,帝亦隨其意答應之.傕喜,出言「明陛下眞賢聖主」,意遂自信,自謂良得天子歡心也.雖然,猶不欲令近臣帶劔在帝邊,謂人言「此曹子將欲圖我邪?而皆持刀也」.侍中李禎,傕州里,素與傕通,語傕「所以持刀者,軍中不可不爾,此國家故事.」傕意乃解.天子以謁者僕射皇甫酈涼州舊姓,有專對之才,遣令和傕﹑氾.酈先詣氾,氾受詔命.詣傕,傕不肯,曰:「我有呂布之功,輔政四年,三輔清靜,天下所知也.郭多,盜馬虜耳,何敢乃欲與吾等邪?必欲誅之.君為涼州人,觀吾方略士眾,足辦多不?多又劫質公卿,所為如是,而君苟欲利郭多,李傕有膽自知之.」酈答曰:「昔有窮后羿恃其善射,不思患難,以至於斃.近董公之強,明將軍目所見,內有王公以為內主,外有董旻﹑承﹑璜以為鯁毒,呂布受恩而反圖之,斯須之閒,頭縣竿端,此有勇而無謀也.今將軍身為上將,把鉞仗節,子孫握權,宗族荷寵,國家好爵而皆據之.今郭多劫質公卿,將軍脅至尊,誰為輕重邪?張濟與郭多﹑楊定有謀,又為冠帶所附.楊奉,白波帥耳,猶知將軍所為非是,將軍雖拜寵之,猶不肯盡力也.」傕不納酈言,而呵之令出.酈出,詣省門,白傕不肯從詔,辭語不順.侍中胡邈為傕所幸,呼傳詔者令飾其辭.又謂酈曰:「李將軍於卿不薄,又皇甫公為太尉,李將軍力也.」酈答曰:「胡敬才,卿為國家常伯,輔弻之臣也,語言如此,寧可用邪?」邈曰:「念卿失李將軍意,恐不易耳!我與卿何事者?」酈言:「我累世受恩,身又常在幃幄,君辱臣死,當坐國家,為李傕所殺,則天命也.」天子聞酈答語切,恐傕聞之,便勑遣酈.酈裁出營門,傕遣虎賁王昌呼之.昌知酈忠直,縱令去,還答傕,言追之不及.天子使左中郞將李固持節拜傕為大司馬,在三公之右.傕自以為得鬼神之力,乃厚賜諸巫.

傕將楊奉與傕軍吏宋果等謀殺傕,事泄,遂將兵叛傕.傕眾叛,稍衰弱.張濟自陝和解之,天子乃得出,至新豐﹑霸陵閒.[一]郭氾復欲脅天子還都郿.天子奔奉營,奉擊氾破之.氾走南山,奉及將軍董承以天子還洛陽.傕﹑氾悔遣天子,復相與和,追及天子於弘農之曹陽.奉急招河東故白波帥韓暹﹑胡才﹑李樂等合,與傕﹑氾大戰.奉兵敗,傕等縱兵殺公卿百官,略宮人入弘農.[二]天子走陝,北渡河,失輜重,步行,唯皇后貴人從,至大陽,止人家屋中.[三]奉﹑暹等遂以天子都安邑,御乘牛車.太尉楊彪﹑太僕韓融近臣從者十餘人.以暹為征東﹑才為征西﹑樂征北將軍,並與奉﹑承持政.遣融至弘農,與傕﹑氾等連和,還所略宮人公卿百官,及乘輿車馬數乘.是時蝗蟲起,歲旱無穀,從官食棗菜.[四]諸將不能相率,上下亂,糧食盡.奉﹑暹﹑承乃以天子還洛陽.出箕關,下軹道,張楊以食迎道路,拜大司馬.語在楊傳.天子入洛陽,宮室燒盡,街陌荒蕪,百官披荊棘,依丘牆閒.州郡各擁兵自衞,莫有至者.飢窮稍甚,尚書郞以下,自出樵采,或飢死牆壁閒.

[一] 獻帝起居注曰:初,天子出到宣平門,當度橋,氾兵數百人遮橋問「是天子邪?」車不得前.傕兵數百人皆持大戟在乘輿車左右,侍中劉艾大呼云:「是天子也.」使侍中楊琦高擧車帷.帝言諸兵:「汝不卻,何敢迫近至尊邪?」氾等兵乃卻.旣度橋,士眾咸呼萬歲.

[二] 獻帝紀曰:時尚書令士孫瑞為亂兵所害. 三輔決錄注曰:瑞字君榮,扶風人,世為學門.瑞少傳家業,博達無所不通,仕歷顯位.卓旣誅,遷大司農,為國三老.每三公缺,瑞常在選中.太尉周忠﹑皇甫嵩,司徒淳于嘉﹑趙溫,司空楊彪﹑張喜等為公,皆辭拜讓瑞.天子都許,追論瑞功,封子萌澹津亭侯.萌字文始,亦有才學,與王粲善.臨當就國,粲作詩以贈萌,萌有答,在粲集中.

[三] 獻帝紀曰:初,議者欲令天子浮河東下,太尉楊彪曰:「臣弘農人,從此已東,有三十六灘,非萬乘所當從也.」劉艾曰:「臣前為陝令,知其危險,有師猶有傾覆,況今無師,太尉謀是也.」乃止.及當北渡,使李樂具船.天子步行趨河岸,岸高不得下,董承等謀欲以馬羈相續以繫帝腰.時中宮僕伏德扶中宮,一手持十匹絹,乃取德絹連續為輦.行軍校尉尚弘多力,令弘居前負帝,乃得下登船.其餘不得渡者甚眾,復遣船收諸不得渡者,皆爭攀船,船上人以刃櫟斷其指,舟中之指可掬.

[四] 魏書曰:乘輿時居棘籬中,門戶無關閉.天子與群臣會,兵士伏籬上觀,互相鎭壓以為笑.諸將專權,或擅笞殺尚書.司隸校尉出入,民兵抵擲之.諸將或遣婢詣省閤,或自齎酒啖,過天子飲,侍中不通,喧呼罵詈,遂不能止.又競表拜諸營壁民為部曲,求其禮遺.醫師﹑走卒,皆為校尉,御史刻印不供,乃以錐畫,示有文字,或不時得也.

太祖乃迎天子都許.暹﹑奉不能奉王法,各出奔,寇徐﹑揚閒,為劉備所殺.[一]董承從太祖歲餘,誅.建安二年,遣謁者僕射裴茂率關西諸將誅傕,夷三族.[二]氾為其將五習所襲,死於郿.濟飢餓,至南陽寇略,為穰人所殺,從子繡攝其眾.才﹑樂留河東,才為怨家所殺,樂病死.遂﹑騰自還涼州,更相寇,後騰入為衞尉,子超領其部曲.十六年,超與關中諸將及遂等反,太祖征破之.語在武紀.遂奔金城,為其將所殺.超據漢陽,騰坐夷三族.趙衢等擧義兵討超,超走漢中從張魯,後奔劉備,死於蜀.

[一] 英雄記曰:備誘奉與相見,因於坐上執之.暹失奉勢孤,時欲走還幷州,為杼秋屯帥張宣所邀殺.

[二] 典略曰:傕頭至,有詔高縣.