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原著作者:【むじん書院】

魏書六 董二袁劉伝第六

董卓伝

董卓仲穎といい、隴西臨洮の人である。[一]若いころから義俠を好み、あるとき族の里へ行き、豪族たちと一人残らず交わりを結んだ。のちに田野を耕すため帰郷しようとすると、豪族のうちには後から付いてくる者もあったので、董卓は彼らとともに帰り、農耕牛を殺して一緒に酒宴を楽しんだ。豪族たちはその心意気に感銘し、帰国してからさまざまな家畜を互いに出し合い、千頭余りになったので、それを董卓への贈り物とした。[二]桓帝劉志)の末期、六郡の良家の子ということで羽林郎となった。董卓は才能・武勇の持ち主であり、膂力で太刀打ちできる者は少なく、二つのを身に帯びて左右に馳せながら弓を射た。軍司馬として中郎将張奐幷州征討に従軍し、功績を立てて郎中を拝命、練り絹九千匹を賜ったが、董卓は全て官吏・兵士に分け与えてしまった。広武県令蜀郡北部都尉西域戊己校尉と昇進していったが、罷免された。中央に徴し寄せられて幷州刺史河東太守を拝命、[三]中郎将に昇進して黄巾賊を討伐したが、戦いに敗れて罪を科せられる。韓遂らが涼州で挙兵したので、ふたたび中郎将となり、西進して韓遂を防いだ。望垣硤の北方にて羌族・族数万人の包囲を受け、食糧が底を突いた。董卓は魚を捕るふりをして退路を堰きとめ、川の渡し場を池に変えて周囲数十里に水を湛えた。密かに堰の下から自軍を通し、それから堰を決壊させた。羌族・胡族が気付いて追いかけてきたころには、もう水位が高まっていて渡ることができなかった。このとき六手の軍勢が隴西に攻め上ったが、五手が敗北し、董卓だけが人数を損ねることなく帰還し、扶風に駐屯した。前将軍を拝命して斄郷侯に封ぜられ、徴し寄せられて幷州となった。[四]

[一] 『英雄記』に言う。董卓の父董君雅は、低い官職から潁川綸氏県尉となった。三人の子があり、長子の董擢は字を孟高といったが、早くに卒去した。次子が董卓で、董卓の弟董旻は字を叔穎といった。

[二] 『呉書』に言う。郡は董卓を召し出して役人とし、盗賊を仕切らせた。あるとき胡族が侵入して数多くの民衆を拐かしたので、涼州刺史成就は董卓を召し寄せて従事とし、歩騎を率いさせ討伐させたところ、それを大いに打ち破り、斬首捕虜は千人ほどもあった。幷州刺史段熲が董卓を公府三公の役所)に推薦すると、司徒袁隗が召し寄せてとした。

[三] 『英雄記』に言う。董卓は何度も羌族・胡族を討伐し、前後して百回以上も戦った。

[四] 『霊帝紀』に言う。中平五年(一八八)、董卓を徴し寄せて少府とし、麾下の官吏・兵士を伴って左将軍皇甫嵩の指揮下に入り、行在所に参詣せよとの詔勅が下された。董卓は上奏して述べた。「涼州は混乱して鯨のごとき巨悪はいまだ滅びず、これこその発奮して命を捨てるでございます。官吏兵士は勇躍して御恩を思っては恩返しを願い、おのおのが臣の馬車を遮り、声音は懇々と真心がこもっておりますので、いまだ帰途に就くことができませぬ。しばし行前将軍事として誠意を尽くして(彼らの)慰安に当たり、軍務に尽力いたしたく存じまする。」六年、董卓を幷州牧とし、官吏・兵士を皇甫嵩に引き継がせるよう重ねて詔勅を下した。董卓はまたも上奏して言った。「臣が兵事に携わって十年、士卒どもは老若を問わず仲睦まじくなって久しく、臣が養育した恩恵を慕い、国家の御為に緊急の命令にも奮起して応えたいものと願っております。なにとぞ州への着任と辺境での尽力をお許しくださいますよう。」董卓は二度までも詔勅に違背したのであるが、ちょうどそのとき何進に召し寄せられた(ので、処罰されることはなかった)。

霊帝劉宏)が崩御して少帝劉弁)が即位した。大将軍何進司隷校尉袁紹とともに宦官たちを誅殺せんと謀議したが、太后が聞き入れなかった。何進はそこで董卓を召し寄せて軍勢を率いて京師へ参詣させるとともに、密かに以下のごとく上書させた。「中常侍張譲らはご寵愛を利用して海内を混乱させております。むかし趙鞅晋陽の武装兵を起こして君側の悪を駆逐いたしました。臣は速やかに鐘鼓を鳴らしつつ洛陽へ赴き、ただちに張譲らを討伐いたします。」こうして太后を脅迫するつもりだったのである。董卓が到着する以前に何進は敗北した。[一]中常侍段珪らは帝を人質に取って小平津へ逃れた。董卓はそのまま軍勢を率いて北芒にて帝を迎え入れ、宮殿に帰還した。[二]ときに何進の弟である車騎将軍何苗が何進の手勢に殺されたため、[三]何進・何苗の部曲は所属先を失い、みな董卓のもとへ参詣した。董卓はさらに執金吾丁原呂布に殺させ、その軍勢を併合した。こうして京都の兵権はただ董卓だけが持つことになった。[四]

[一] 『続漢書』に言う。何進は字を遂高といい、南陽の人であり、太后の異母兄にあたる。何進は本来、屠殺夫の家の子で、父を何真といった。何真の死後、何進は黄門の世話で妹を掖庭に入れてもらい、(妹が)寵愛を得て、光和三年(一八〇)に皇后に立てられた。何進はそれによってご寵愛の貴人になったのである。中平元年(一八四)、黄巾賊が蜂起したので、何進を大将軍に任命した。 『典略』に載せる董卓の上表に言う。「臣が伏して思いまするに、天下に絶えず叛逆が起こるのは、みなみな黄門常侍張譲らが天道を侮って王命に操作を勝手に加え、父子兄弟がみな州郡に居すわり、一たび手紙を出せばたちまち千金を手に入れるという有様で、近畿諸郡の肥沃な美田数百万頃がみな張譲らの手に落ちているからなのでございます。こうして(人々の)怨恨が募り、妖賊が蜂起するに至ったのであります。臣がかつて詔勅を奉じて於夫羅を討伐いたしましたおり、将兵は飢えに苦しんで川を渡ることを承知せず、みな口々に、京師に参詣してまず宦官どもを誅殺し、民衆の害毒を取り除いて台閣へ資金を請求したい、と申しておりました。臣がなだめなだめながらようやく新安に着いたものです。湯を持ち上げて沸騰を止めるのは薪を抜いて火を消すほどのことでなく、腫れ物を潰すのは痛くとも肉を培養するよりはましだ、と臣は聞いております。溺れてから船を呼び、後悔しても間に合わないのでございます。」

[二] 張璠の『漢紀』に言う。帝は八月庚午に黄門たちの人質となり、穀門から歩いて出てゆき、黄河のほとりまで逃れた。黄門たちは黄河に身を投げて死んだ。ときに帝は十四歳、陳留王劉協)は九歳であった。夜中、兄弟二人だけで歩いて宮殿に帰ろうとした。暗闇のさなか蛍の火を追いながら歩き、数里先で民家を見付け、露車で送り出された。辛未、公卿以下、董卓とともに北芒の坂の下にて帝を出迎えた。 『献帝春秋』に言う。それ以前のこと、童謡の文句にこうあった。「侯は侯でなし、王は王でなし。千乗の車、万騎の馬が北芒に走る。」董卓はちょうど到着したばかりで顕陽苑に屯していたが、帝が帰ってくると聞き、軍勢を率いて帝を出迎えに行った。 『典略』に言う。董卓の軍勢を遠目に見るなり帝が涙を流したので、公卿たちは董卓に「兵を退けとの詔勅だ」と告げた。董卓は「貴公らは国家の大臣でありながら王室を是正することもできず、挙げ句、国家を流浪させてしまった。兵を退けとは何事か!」と言い、そのまま連れ立って入城した。 『献帝紀』に言う。董卓は帝と語り合ったが、会話がよくからなかった。そこで改めて陳留王と語り合い、混乱の起こった理由を訊ねたところ、陳留王の返答は、終始、抜かりないものであった。董卓はいたく喜び、以来、廃立の企みを持つようになったのである。 『英雄記』に言う。河南中部掾閔貢が帝と陳留王を先導して都を目指し、雒舎で宿泊した。一匹の馬には帝が一人で乗り、一匹の馬には陳留王と閔貢とが一緒に乗り、雒舎から南へと出発した。公卿百官が北芒の坂の下で奉迎し、太尉崔烈が先導した。董卓が歩騎数千人を率いて出迎えに来ると、崔烈は怒鳴って退けようとした。董卓は崔烈を罵って「昼夜通して三百里もやって来たものを、なにゆえ退けなどと言うか。が貴卿の頭を斬れぬと?」と言い、帝のもとに進み出て拝謁し、「陛下が常侍・小黄門どもに混乱を起こさせ、このような有様になったのでございます。災難を招いた責任は小さくありませんな?」と述べ、また陳留王のもとへ走り寄って「我が董卓でございます。我がお抱えして参りましょう」と告げ、閔貢の懐から陳留王を取り上げた。 『英雄記』に言う。ある本では、陳留王が董卓の抱擁を拒んだので、董卓は陳留王と轡を並べて馬を進めた、という。

[三] 『英雄記』に言う。何苗は太后の同母兄で、(何真の)死んだ妻氏の子である。何進の部曲将呉匡は、日ごろから何苗が何進に同心せぬことを残念がっていたが、そのうえ彼が宦官と通謀しているのではないかと疑い、そこで軍中に命じて言った。「大将軍を殺したのは車騎将軍であるぞ。」そのまま手勢を率いて董卓の弟董旻とともに朱爵門の下で何苗に攻撃をかけて殺した。

[四] 『九州春秋』に言う。董卓は洛陽入りした当初、歩騎合わせても三千人に過ぎず、手勢の少なさのために遠近を屈服させられないのが悩みの種であった。ほぼ四・五日ごとに、夜中、手勢を四方の城門から出し、翌日、や鼓を連ねて入城させ、「西方の軍勢がまたも洛陽入りしたぞ」と喧伝させた。人々は(からくりに)気が付かず、董卓の軍勢は数え切れぬほどだと思った。

それ以前、何進は騎都尉である太山鮑信を派遣して各地で兵士を募集させていた。帰洛したとき、鮑信は袁紹に向かって「董卓は強力な軍勢を擁してよからぬ野心を抱いております。いま早々に片付けておかねば身動きを封じられる羽目になりますぞ。到着したばかりの疲労に付け込んで襲撃すれば、生け捕りにすることもできましょう」と告げたが、袁紹は董卓を恐れて行動しようとしなかった。鮑信はそのまま郷里へ帰っていった。

このとき長らく雨が降らなかったということで、司空劉弘を罷免して董卓をその後任とし、いきなり太尉に昇進して仮節鉞となり、虎賁(近衛兵)を貸与された。ついに帝を廃して弘農王とし、ほどなくして、さらに弘農王および何太后を殺した。霊帝の末子陳留王を擁立したが、これが献帝である。[一]董卓は相国に昇進して郿侯に封ぜられ、拝謁のとき名乗らず、剣履のまま昇殿することが許され、さらに董卓の母を池陽君に封じて家令・家丞を設置した。董卓は最初に精兵を率いて到来したとき、ちょうど王室の大混乱に遭遇したため、思う存分、廃位擁立することができたのである。兵器庫の甲冑や武器、国家の珍宝を押さえたことで、威光は天下を震わせた。董卓の人柄は残忍不仁であり、厳酷な刑罰によって人々を脅し、睚眦の恨みには必ず報復したため、人々は我が身を守ることさえできなかった。[二]あるとき、軍勢を陽城に派遣したことがあった。ちょうど二月のの時期にあたり、領民たちがそれぞれ社の下に集まっていたが、(董卓の手兵は)一斉に走り寄ってそれらの男子の首を斬った。彼らの車や牛に乗って婦女・財物を搭載し、切り落とした首を車軸に繋ぎ、車体を連ねて帰洛すると、賊軍を攻撃して大勝利を得たぞと言い、万歳を称えた。開陽城門に入ると、その首を燃やし、婦女は女中や妻妾として甲兵に与えた。挙げ句の果てには宮女や公主を強姦するに及び、董卓の凶悪さはこれほどであった。

[一] 『献帝紀』に言う。董卓は皇帝廃位を目論み、羣臣を朝堂に集めて提議した。「大なるは天地、次なるは君臣、それが統治をなす所以である。ただいま皇帝は闇弱であり、宗廟を奉り、天下の主たるに不足しておる。伊尹・霍光の故事にならって陳留王を擁立しようと思うが、どうであろう?」尚書盧植が言った。「『尚書』を検討いたしますると、太甲は即位したのち聡明でなければこそ伊尹はこれを桐宮に放逐いたし、昌邑王は即位二十七日にして一千余りの罪過を犯し、それゆえ霍光はこれを廃位したのでございます。今上陛下は御歳も長けて過失もなく、過去の事件と比較することはできませぬ。」董卓は腹を立てて中座し、盧植を誅殺せんと計画したが、侍中蔡邕が取りなしたのでようやく許された。九月甲戌、董卓はふたたび羣臣を盛大に集め、言った。「太后が永楽太后を逼迫して憂死させたのは、婦姑の礼に逆らうものであり、孝順の節も備えておらぬ。天子はずっと幼稚なままで、軟弱に過ぎて君主たりえない。むかし伊尹が太甲を放逐して霍光が昌邑を廃位したことは、典籍に明らかであり、いずれも善事だと評価されておる。いまこそ太后を太甲と同等、皇帝を昌邑と同等に扱うべきだ。陳留王は仁慈孝悌であるゆえ、皇帝の国祚に就かせるのが宜しかろう。」 『献帝起居注』に載せる辞令に言う。「孝霊皇帝(霊帝劉宏)はご先祖の眉寿(長寿)の形質を充分には受け継がれず、早くも臣子をお棄てになられた。皇帝が皇統を継承したとき、海内はこぞって希望を寄せた。しかるに帝は天性の軽薄者であり、威儀は定まらず、喪中にありながらだらしなく、衰如故焉★;背徳はすでに明らか、淫乱は広く知られており、神器を辱めて宗廟を汚すものである。皇太后の教導も母としての威厳を欠いており、ご政道は乱れすさんだ。永楽太后はにわかに崩御され、衆論はこれに疑念を抱いている。(君臣・父子・夫婦の)三綱の道は天地の定めである。よって過失があるならば、その罪は重大である。陳留王協は聖徳うるわしく、所作はおおらか、下は豊かに上はく、の肖像画の面影がある。服喪中は哀しみを極め、言葉は邪悪なものごとに及ばず、ご幼少より聡明な性質には成王のごとき美風が備わっている。めでたくうるわしいご評判は天下の知るところであり、大いなる事業を継承して万世の皇統をなし、宗廟を継承されるべき御方である。皇帝を廃位して弘農王とする。皇太后は政権を返還せよ。」尚書が書面を読み終えたとき、羣臣のうちにも言葉を発する者はなかった。尚書丁宮が述べた。「天は漢室に災禍を下したまい、衰退混乱はあまねく広がりました。むかし祭仲を廃してを立てましたが、『春秋』はその臨機応変を大きく評価しております。ただいま大臣たちは社稷のため最善策を講じており、まこと天人の合致するところであります。万歳の斉唱をお許しくださいますよう。」董卓は太后が廃位されたのを理由に公卿以下の喪服着用を許さず、会葬の際にも白衣を着けただけであった。

[二] 『魏書』に言う。董卓の欲望は果てしなく、賓客に向かって「我の人相はこの上なく尊貴であろうが」と語ることもあった。 『英雄記』に言う。董卓は威光を震わせたく思っており、侍御史擾龍宗が董卓のもとへ報告に来たとき剣を帯びたままだったので、その場で殴り殺した。京師は震えおののいた。何苗の棺をあばいて亡骸を引き出し、四肢を解体して節、道ばたに投げ棄てた。また何苗の母である舞陽君を逮捕して殺し、死体を御苑にあるの生垣の中へ投げ棄て、回収して葬られることは二度となかった。

当初、董卓は尚書周毖城門校尉伍瓊らを信任し、彼らの推挙した韓馥・劉岱・孔伷・張資・張邈らを登用して州郡を宰領させていた。ところが韓馥らは官職に就くなり、みな軍勢を糾合して董卓を討とうとした。董卓はそれを聞いて、周毖・伍瓊らが通謀して自分を売り渡したのだと思い、みな斬殺した。[一]

[一] 『英雄記』に言う。周毖は字を仲遠といい、武威の人である。伍瓊は字を徳瑜といい、汝南の人である。 謝承の『後漢書』に言う。伍孚は字を徳瑜といい、若くして立派な節義があり、郡の門下書佐になった。彼の故郷の邑長が罪を犯したので、太守は伍孚に文書を発行させ、部下にあたる督郵にそれを逮捕させた。伍孚は命令書の受け取りを拒絶し、地面に伏せて諫言した。「主君が主君らしくなくとも、臣下は臣下らしくない態度は取らないものです。明府は、どうして伍孚に命令書を下して故郷の邑長を逮捕させようとなさるのですか?どうか他の役人にお申し付けくださいませ。」太守は立派なことだと思って、それを聞き入れた。のちに大将軍何進に召されて東曹属となり、次第に侍中・河南尹・越騎校尉と昇進していった。董卓が混乱を起こすと百官は震えおののいたが、伍孚は小さな鎧を着込み、朝服の下に佩刀を忍ばせて董卓に会い、隙を見て彼を刺し殺そうと考えた。語り合いがわってから辞去を告げ、董卓が彼を(小門)の下まで見送ったとき、伍孚は刀を取り出して彼を刺した。董卓は力持ちであったうえ身をかわしたので、命中しなかった。即座に伍孚を逮捕して、董卓が「貴卿は謀反するつもりか?」と言うと、伍孚は大声で「の主君ではないし、吾は汝の臣下ではない。どこに謀反など存在するのだ?汝が国家を混乱させ、主君を簒奪した罪悪は絶大である。いまこそ吾の死ぬ日だ。だから姦賊を誅殺しにやってきたのだ。汝を市場で車裂きにして天下に謝罪できなかったのが残念だよ!」と叫んだ。こうして伍孚は殺されてしまった。 謝承の記す伍孚の字および本郡は伍瓊と同じである。しかし死に至るまでの経緯が伍孚とは違っている。伍孚が伍瓊の別名なのか、それとも別に伍孚という人物がいたのか分からない。明らかでないようである。

河内太守王匡泰山兵を河陽津に屯させ、董卓を片付けようとした。董卓は囮部隊に平陰から渡河するふりをさせつつ、密かに精鋭部隊を小平から北岸へ渡し、彼らの背後へ回り込んで攻撃をかけ、渡し場の北側で大破した。(王匡勢は)ほとんど全員が死亡した。董卓は山東の豪傑たちが一斉蜂起したことが恐くて落ち着かなかった。初平元年(一九〇)二月、ついに天子を移して長安へ遷都した。洛陽の宮殿を焼き払い、ことごとく陵墓を掘り起こして宝物を奪い取った。[一]董卓は西京(長安)に到着すると太師となり、「尚父」と号した。青蓋金華車に乗り、の両側に爪画があって、当時の人々は「竿摩車」と呼んだ。[二]董卓の弟董旻は左将軍となり、鄠侯に封ぜられ、兄の子董璜侍中・中軍校尉として兵権を握り、内外の一族がそろって朝廷に居並んだ。[三]公卿は董卓を見かけると車の下まで行って拝礼したが、董卓の方では返礼をしなかった。(董卓が)三台を召し寄せたときは、尚書以下がわざわざ董卓の(役所)へ出向いて報告をした。[四]郿塢を築いたが、高さは長安の城壁ほどにもなり、食糧を集積して三十年分を貯え、[五]「事業が成功すれば天下を大きく占拠できようし、成功しなくともこの地を守ったまま老いを全うできよう」と言っていた。あるとき郿塢まで出かけて行くことになり、公卿以下が横門の外で送別会を催したことがあった。横の音は光(コウ)。董卓はあらかじめ幔幕を張って飲んでいたが、降服した北地の謀反人数百人を呼び入れ、座中においてまず彼らの舌を切断しておき、手足を斬り落としたり、あるいは目玉をくり抜いたり、あるいは大鍋で煮たりした。まだ死にきれずに飯台のあいだで転げ回るので、列席者はみな震えおののいてや箸を取り落とした。しかし董卓は平然として飲み食いしていた。太史が気を観察して「大臣のうち刑死する者がありましょう」と言上した。故の太尉張温はこのとき衛尉であったが、もともと董卓と仲が悪く、董卓は内心、彼を怨んでいた。天気に異変が起こったので災禍を防ごうと考え、張温が袁術と交流していると人に言上させて笞で打ち殺した。[六]法令は苛酷であって、愛憎による刑罰が氾濫し、互いに誣告しあったために冤罪で死ぬ者が千人を数えた。百姓たちは怒鳴りながら路上で睨み合った。[七]銅人・鍾虡を残らず叩き壊し、ついで五銖銭をつぶした。改めて小銭を鋳造したが、大きさは五分、文章はなく、に輪郭はなく、研磨もされていなかった。そのため貨幣価値は下がって物価が高騰し、食糧一斛が数十万銭にも上った。これより以降、貨幣は流通しなくなってしまった。

[一] 華嶠の『漢書』に言う。董卓は長安へ遷都しようと思い、公卿以下を召し出して大会議を催した。司徒楊彪が言った。「むかし盤庚は五たび遷都いたしましたので、の民衆はいに怨みました。それゆえ『三篇』を作って天下の民への模範としたのでございます。るに海内は安穏としておりますゆえ、理由もなく都を移してしまっては、百姓どもが驚いて騒ぎ立て、が沸いて蟻が集まるような混乱をきたす恐れがございます。」董卓は言った。「関中が肥沃豊饒であればこそはよく六国を併呑できたのである。いま西京へ遷都すれば、たとい関東の強豪のうちに行動を起こす者があったとて、我が精兵でもって威圧をかけただけで大海へと行ってもらうことができよう。」楊彪は言った。「海内を騒がせるのはいたく容易なこと、それを落ち着かせるのはひどく困難なことであります。それに長安の宮殿は破壊されており、にわかに再建することはできませぬ。」董卓は言った。「武帝劉徹)はときおり杜陵の南山のふもとに住まわれたので、瓦焼きのが数千基もある。涼州の材木を取り寄せて東下させ、それで宮殿を建造すれば、完成させるのも難しくはない。」董卓は思い通りにゆかず、さっと顔色を変えて言った。「貴公は我が計略を台無しにするおつもりか?辺章・韓約が書状を寄越して、必ず朝廷を遷都させよと言ってきている。もし大軍が来下したなら、我はもう助けてやることはできぬ。貴公はすぐさま氏とともに西行されよ。」楊彪は言った。「西方はもともと楊彪の(故郷への)道筋でございますが、天下の行く末の知れぬのが気がかりなのでございます!」会議が終わったあと、董卓は司隷校尉宣璠に命じて災害異変を理由に弾劾奏上させた。そのため楊彪は罷免された。 『続漢書』に言う。太尉黄琬・司徒楊彪・司空荀爽がともども董卓のもとに参詣すると、董卓は言った。「むかし高祖劉邦)が関中に都を定められ、十一世ののち中興されると、改めて洛陽に遷都された。光武帝(中興の主・劉秀)より今上陛下までやはり十一世になる。『石苞室讖』を検討したが、ふたたび都を長安に戻すべきだ。」座中の者たちはみな驚愕して、返答できる者はなかった。楊彪が言った。「遷都や制度改正は天下の一大事でありますゆえ、いずれも民衆の心、よき時機に基づくべきでございます。むかし盤庚は五たび遷都いたしましたので、殷の民衆は胥いに怨みました。それゆえ『三篇』を作って模範としたのでございます。かつては王莽の簒奪があって五常(五つの倫理規範)をでたらめに変えてしまいましたし、更始帝劉玄)・赤眉の乱のときには長安が燃され、百姓は殺されて人民は流浪し、百人に一人も残りませんでした。光武帝が天命をお受けになって洛邑(洛陽)に遷都されたのは、それが時宜に適っていたからでございます。ただいま聖主を即位させて漢の国祚を興隆させましたから、理由もなく宮殿・御陵を放棄なされば、百姓どもが驚愕してその意義を理解できず、糜が沸いて蟻が集まるような混乱を起こす恐れがございます。『石苞室讖』は妖しげな書、どうして信用できましょうか?」董卓は顔色を変えて言った。「公は国家の計略を台無しにするおつもりか?関東はいまや混乱して至るところで賊軍が蜂起しておる。崤函崤山・函谷関)の険固さは国家の要害、そのうえ隴右で材木を集めれば完成させるのも難しくはない。杜陵の南山のふもとには孝武帝(劉徹)の陶窯跡があり、煉瓦を作れば一晩で片付けられよう。宮殿や官庁などは論ずるまでもないだろうな!百姓や庶民のことは考えなくともよい。もしおろおろする者がおれば、我が大軍でもって駆り立ててやる。勝手なまねなどさせるものか。」百官は恐怖のあまり顔色を変えた。黄琬が董卓に告げた。「これは一大事であります。楊公の発言は熟慮を尽くしたものではございますまい!★」董卓は退出して、即日、司隷に命じて楊彪および黄琬のことを上奏させ、いずれも免官とした。御車はすぐさま西上の途に就いた。董卓の手勢が洛陽の城外百里四方を焼き払い、また彼自身も兵士を連れて南北の宮殿および宗廟・国庫・民家を焼き払ったので、城内は掃き清めたように滅ぼされた。また富豪たちを逮捕し、罪を被せて彼らの財産を没収した。無実の罪で死んだ者は数え切れないほどであった。 『献帝記』に言う。董卓は山東の兵士を生け捕りにすると、十匹余りの布に猪の脂を塗っておいて彼らの体に巻き付け、そのあと火を付けたが、最初は足から点火した。袁紹の予州従事李延を生け捕りにすると、これを煮殺した。董卓の親愛している胡人が、寵愛を鼻にかけて勝手な振る舞いをしていたため、司隷校尉趙謙に殺された。董卓は激怒して「我の可愛がっている犬でさえ他人には叱咤させたくないものだ。ましてや人間なのだ!」と言い、そこで司隷都官を召し寄せて殴り殺した。

[二] 『魏書』に言う。(竿摩とは)天子に迫るという意味である。 『献帝紀』に言う。董卓は太師になったのち、さらに「尚父」と称したく思い、それについて蔡邕に訊ねた。蔡邕は言った。「むかし(周の)武王が天命を受けたとき、太公(望)が師となり、周室を補佐して無道を討伐いたしました。だから天下は彼を尊んで尚父と呼んだのでございます。ただいま公の功徳はまこと崇高たるものでございますが、まずは関東を完全平定して御車を東方へ戻し、しかるのちご提議なさいませ。」そこで取り止めた。京師が地震に遭ったとき、董卓はまた蔡邕に訊ねた。蔡邕が「大地が動くのは陰気が盛んになり、大臣が法度を越えた結果でございます。公は青蓋の車に乗っておいでですが、遠近の者たちは適当でないと考えておりました」と答えたので、董卓はそれを聞き入れ、乗り物を黒蓋の金華車に改めた。

[三] 『英雄記』に言う。董卓の妻妾に抱きかかえられた子供もみな侯に封ぜられ、金(印)・紫(綬)をおもちゃにした。董白という名の孫娘は、そのときまだ(十五歳未満で)も差していなかったのに渭陽君に封ぜられた。城の東に縦横二丈余り、高さ五・六尺の壇を築いて、董白を青蓋の金華車に載せ、郿にいる都尉・中郎将・刺史、それに千石取りには、おのおの車に乗せて簪筆させ、董白を先導させた。壇に着いて登ると、兄の子董璜を使者として印綬を授けさせた。

[四] 『山陽公載記』に言う。かつて董卓が前将軍だったとき、皇甫嵩は左将軍であって、ともに韓遂を征討したが、どちらも頭を下げようとはしなかった。のちに董卓が少府・幷州牧として徴し返され、軍勢を皇甫嵩に引き継がせることになると、董卓は大いに腹を立てた。太師になったとき、皇甫嵩は御史中丞だったので車の下で拝礼を行った。董卓は皇甫嵩に訊ねた。「義真よ、まだ降参せぬか?」皇甫嵩は言った。「明公がここまで上りつめるとは思いも寄りませなんだ!」董卓が「鴻鵠はもとより遠大な志を抱いておるものだ。ただ燕雀がそれを知らぬだけさ」と言うと、皇甫嵩が「いえ、むかしは明公とともに鴻鵠でございましたが、今日、思いがけず鳳凰に変身されたのです」と言うので、董卓は笑って「貴卿が早々に降参しておれば、今日になって拝礼せずに済んだのだ」と言った。 張璠の『漢紀』に言う。董卓はその手を叩きながら皇甫嵩に告げた。「義真よ、恐ろしいのかね?」皇甫嵩は答えた。「明公は徳義によって朝廷を補佐されております。大いなる慶事が到来するのですから、どうして恐ろしいということがありましょう?もしもでたらめな刑罰が横行するならば、天下のみなみなが恐怖いたします。どうして皇甫嵩一人のことでございましょう?」董卓は黙りこみ、ようやく皇甫嵩と和解した。

[五] 『英雄記』に言う。郿は長安を去ること二百六十里である。

[六] 『傅子』に言う。霊帝の時代、御門に看板をかけて官職が売りに出された。それから太尉段熲・司徒崔烈・太尉樊陵・司空張温といった人々は、みな上は一千万銭、下は五百万銭を投じて三公の官職を買った。段熲はしばしば征伐により大功を立てていたし、崔烈は北方の州で重々しい名声があり、張温には傑出した才能があり、樊陵はよく時代に適合し、みな一代の名士であったが、それでも貨幣によって官位を得ていたのである。ましてや劉囂・唐珍・張顥といった連中では! 『風俗通』に言う。司隷の劉囂は、常侍たちに荷担することによって公輔(宰相)の位に昇った。 『続漢書』に言う。唐珍は中常侍唐衡の弟、張顥は中常侍張奉の弟である。

[七] 『魏書』に言う。董卓は司隷校尉劉囂に命じ、官吏民衆に孝行でない子、忠義でない臣下、清潔でない役人、従順でない弟があれば記録させ、これに該当する者があればみな誅殺し、財産物資は国庫に没収した。そのため愛憎が互いに起こり、民衆の多くが無実の罪で死んだ。

三年四月、司徒王允尚書僕射士孫瑞、董卓の将呂布が董卓誅殺を共謀した。ちょうど天子が病気から快癒したばかりだったので、未央の宮殿において盛大な宴会が催された。呂布は同郡の騎都尉李粛らに昵懇の兵士十人余りを率いさせ、制服を着けて衛士のふりをさせ、掖門を守らせた。呂布は詔書を懐中に抱いた。董卓が来ると、李粛らが董卓に殴りかかった。董卓が驚いて「呂布はどこか」と叫ぶと、呂布は「詔勅だ」と言い、そのまま董卓を殺し、三族皆殺しにした。主簿田景が董卓の死体に走り寄ったので、呂布はこれも殺した。およそ殺された者は三人、そのほか身動きする者はなかった。[一]長安の士民たちはみな互いに祝賀し、董卓に迎合していた者どもはみな獄に下されて死んだ。[二]

[一] 『英雄記』に言う。そのころ「千里ののなんと青青たることよ。十日、するもなお生ぜず」といった文句の歌が流行っていて、また「董逃の歌」なるものが作られた。また布きれに「呂」という字を書いて董卓に見せた道士もあったが、董卓はそれが呂布を指しているということに気付かなかった。董卓は宴会に参加することになると、陣営から宮殿まで歩騎を並べ、その間から朝服を着けて先導者に引かれて通った。馬が脚を止めて進まなくなったので、董卓は怪訝に思って取り止めようとしたが、呂布が行くようにと勧めるので衷甲して入った。董卓が死んだとき、日月は澄みわたり、微風さえ吹いていなかった。董旻・董璜および一族の老幼はみな郿にいて、みな(隴西へ)帰郷したが、その部下たちによって斬殺されたり射殺されたりした。董卓の母は九十歳であったが、の門まで逃げて「どうか殺さないでください」と訴えたが、即刻、斬首された。袁氏の門生故吏は、郿で亡くなった袁氏を改葬し、董氏の死体をかき集めてその傍らで焼き払った。董卓の死体を市場で晒した。董卓はもともと太っていて、膏が流れて地面に染み込んだので、草はそのため赤く染まった。死体を見張っていた役人が、日暮れ時、大きなを作り、董卓の臍に差して灯りにすると、光明は明け方まで持ち、それが何日も続いた。のちに董卓の故の部曲が焼かれた灰を収集して一つの棺の中へ収め、郿に埋葬した。董卓の塢の内部には金二・三万斤、銀八・九万斤、珠玉・綺羅錦・珍奇な品物などがあり、みな山のごとく積み上げられて数知れなかった。

[二] 謝承の『後漢書』に言う。蔡邕は王允の酒宴に列席していたが、董卓が死んだと聞いて歎息の声をもらした。王允が蔡邕を咎めて言った。「董卓は国家の大賊、主君を弑して臣下を殺したのだ。天地も助けず、神人ともに憎む輩である。貴君は王臣として代々にわたり漢朝の御恩を蒙り、これまで矛を逆しまに持つこともなかった。董卓が天誅を受けたというに、それをかえって悼むのか?」ただちに廷尉に送致させた。蔡邕は王允に陳謝した。「不忠だとしても大義は理解しております。古今の安全危険については、耳では飽きるほど聞き、口では絶えず申しておるくらいですから、どうして国家に背いて董卓に従うことがありましょう?うっかり出てしまった狂人盲目の言葉が、入ったときには憂患となりました。なにとぞ黥首(入れ墨)の刑に処して漢の史書を書き継がせてくださいますよう。」公卿たちは蔡邕の才能を惜しみ、みな揃って王允を諫めたが、王允は「むかし武帝は司馬遷を殺さなかったために誹謗の書を作らせ、後世に流布させることになった。いまや国祚は衰退の時期にあたり、兵馬は郊外にある。佞臣に筆を持たせて幼主の左右に置くことで、のちのち吾らがそろって批判を受けるようにさせてはならぬ」と言い、とうとう蔡邕を殺してしまった。 臣裴松之は思う。蔡邕は董卓の親愛任用を受けていたものの、本心では決して同調していなかったのだ。どうして董卓の姦悪が天下の害毒であることを知らぬとか、その死亡を聞けば義理として痛歎せぬといったことがあろうか(?)。たといまたそうであったとしても、王允の座中で反論するはずがない。これはおそらく謝承のでたらめな記録であろう。史遷(司馬遷)の紀伝(『史記』)は広くこの世に立派な功績を立てているのに、王允が孝武帝(武帝)は速やかに司馬遷を殺すべきだったと発言したとしている。これは識者の発言ではない。ただ司馬遷は孝武帝の過失を隠さずに正直に書いただけなのであって、どうして誹謗するつもりがあっただろうか?王允の忠義公正さは、内省してやましさがないと言うべきものであるから、もともと誹謗の恐れはなく、しかも蔡邕を殺すつもりであれば、蔡邕が死ぬべきかどうかを議論すればよいのであって、どうして自分が誹謗されることを心配して善人をむやみに殺すことなどができようか!これらはみな無理でたらめの中でもひどいものである。 張璠の『漢紀』に言う。もともと蔡邕は発言によって従えられ、名声は天下に響き、義心は志士たちを動かした。帰還してからは廷内の寵臣たちに憎まれた。蔡邕は恐怖して海浜方面に亡命し、放浪のすえ太山の氏を頼って十年が経過した。董卓は太尉になると召し出して掾とし、高第から侍御史治書とし、三日間のうちにそのまま尚書へと昇らせた。のちに巴東太守へ異動したが、董卓は侍中に任じて留めるようにと上表し、長安に到着すると左中郎将とした。董卓はその才能を重んじて手厚く待遇し、朝廷での仕事があればいつも蔡邕に草稿を用意させていた。王允が蔡邕を殺そうとしたとき、当時の名士たちの多くが彼のために弁明してやったので、王允は後悔して中止させようとした。しかし蔡邕はすでに死んでいたのである。

はじめ董卓の女婿である中郎将牛輔は別働隊を率いてに屯し、校尉李傕郭氾張済を分遣して陳留・潁川の諸県で略奪を働かせていた。董卓が死ぬと、呂布は李粛を陝へ差しむけて勅命により牛輔を誅殺しようとした。牛輔らは李粛を出迎えて戦い、李粛は弘農へと敗走した。呂布は李粛を誅殺した。[一]その後、牛輔陣営には夜中に離叛して出ていく兵士もあって、陣中は騒動になった。牛輔はみながみな叛逆したのだと思い、黄金や財宝を抱え、日ごろから目をかけていた友胡赤児ら、五・六人だけを連れて城壁を乗りこえ、黄河北岸へと渡った。赤児らはその黄金財宝に目がくらみ、(牛輔の)首を斬って長安に送り飛ばした。

[一] 『魏書』に言う。牛輔は怯えきって腰を抜かし、自分を落ち着けることができなかった。いつも軍用の割り符を持ち、傍らには鈇鑕(斬首用の斧)を置いて自分を力づけていた。来客に会うときには、あらかじめ謀反の気配があるかどうかを人相見に占わせたり、また筮竹によって吉凶を調べておき、それからやっと会うことにした。中郎将董越が牛輔を頼ってきたとき、牛輔が筮竹を使わせるとが下、が上の卦であった。占い師は言った。「火が金に勝ち、外の者が内の者を謀殺する卦でございます。」即刻、董越を殺した。 『献帝紀』に言う。占い師はつねづね董越に鞭打たれていたので、この機会を利用して報復したのである。

李傕・郭氾伝

李傕らが戻ったころには牛輔はすでに敗北しており、人々は頼りを失い、それぞれに解散して帰郷したく思った。しかし赦免の書状もなく、そのうえ長安では涼州人を一人残らず誅殺するつもりだと聞いて、恐怖のあまりなすすべを知らなかった。(そこで)賈詡の策略を採用し、そのままその軍勢を率いて西進し、行く先々で軍兵を拾い上げていった。長安に着くにんで軍勢は十万余りに達し、[一]董卓の故の部曲樊稠・李蒙・王方らと合流して長安城を包囲した。十日後に城を陥落させて城内で呂布と戦い、呂布を敗走させた。李傕らは兵士を放って長安中の老人から若者までを捕らえさせ、それを一人残らず殺し尽くしたので、(そこら中に)死体が散乱した。董卓を殺した者を処刑し、王允を市場に晒した。[二]董卓を郿に埋葬したが、暴風雨が董卓の墓を揺るがし、雨水が墓穴に流れ込んで棺を漂わせた。李傕は車騎将軍・池陽侯・領司隷校尉・仮節となり、郭氾は後将軍・美陽侯となり、樊稠は右将軍・万年侯となり、李傕・郭氾・樊稠は朝政を欲しいままにした。[三]張済は驃騎将軍・平陽侯となり、弘農に屯した。

[一] 『九州春秋』に言う。李傕らは陝にあって、みな恐怖し、急いで軍勢を抱えて自衛しようとした。胡文才楊整修はいずれも涼州の大人であったが、司徒王允とはかねてより不仲であった。李傕が叛逆すると王允は文才・整修を呼び、東行させて彼らに釈明させようとしたが、優しげな顔を作らずに「関東の鼠どもは何をするつもりなのか?貴卿らが彼らを呼びに行きなさい」と言った。そこで二人は出かけたあと、実際には兵士を集めて戻ってきたのである。

[二] 張璠の『漢紀』に言う。呂布は軍勢が敗れると、青瑣門の門前に馬をとめて王允に言った。「公よ、行きましょう。」王允は言った。「国家を安んずることこそ吾の最上の願い。それができねば身を捧げて死ぬまでだ。朝廷は幼主であり、我だけを頼りにしておられる。危難を前にして生を盗むなど、吾はいたさぬ。どうか、関東の諸公に詫び、国家のことに専念するように尽力してくれ。」李傕・郭氾は長安に入城すると南宮掖門に屯し、太僕魯馗大鴻臚周奐・城門校尉崔烈・越騎校尉王頎を殺した。官吏民衆の死者は数えきれない。司徒王允は天子を連れて宣平城の城門に上り、戦闘を避けた。李傕らは城門の下で拝礼し、地に平伏して叩頭した。帝が李傕らに言った。「卿は威信や恩恵を施してはならぬ。それなのに兵士どもを放って好き勝手なことをするとは。なにをしようとしておるのか?」李傕らは言った。「董卓は陛下に対して忠義でありましたのに、理由もなく呂布に殺されました。臣らは董卓の敵討ちをするだけで、まさか反逆をなすなどできるものではありませぬ。どうか仕事を片付けてから廷尉に出頭して処罰を受けることをお許しください。」王允は追いつめられて出てゆき、李傕に会った。李傕は王允とその妻子宗族の十人あまりを誅殺した。長安城内では老若男女、涙を流さぬ者はなかった。王允は字を子師といい、太原の人である。若いころから大いなる節義の持ち主で、郭泰は彼に会うと目をみはり、「王生は一日千里(をゆく駿馬)、王佐(王者の補佐)の才である」と言った。郭泰は先達の立場であったが、ついに彼との交わりを固めることにした。三公からそろって招かれ、予州刺史に就任すると荀爽・孔融を招いて従事とし、河南尹・尚書令と昇進していった。司徒になってからは王室の扶助を心がけ、きわめて大臣の節義にかなっていたので、天子以下、みなが彼を頼りにしたのである。董卓もまた彼を信用しきり、朝廷のことを任せたのであった。 華嶠は言う。そもそも士たる者は正道でもって立志し、策謀でもって実行し、義理でもって完成するものである。たとえば、王允が董卓を推戴しつつもその権力を切りとり、やつの隙を窺ってその罪を責めたようにだ。このとき初めて天下の困難は解除されたのであるが、元を正せば、みな忠誠心を根本としていたのだ。だから董卓を推戴しても正道を失したことにはならず、権力を切りとっても義理に背いたことにはならず、隙を窺っても詐欺を働いたことにはならないのだ。これこそ策謀が実行され義理が完成されて、かくして正道に立ちかえったということである。

[三] 『英雄記』に言う。李傕は北地の人である。郭氾は張掖の人で、一名を「」といった。

この歳、韓遂・馬騰らが軍勢を率いて長安に降服してきた。韓遂は鎮西将軍となり涼州へ帰され、馬騰は征西将軍として郿に屯することになった。侍中馬宇諫議大夫种邵・左中郎将劉範らとともに、馬騰に長安を襲撃させ、自分たちが内応して李傕らを誅殺せんと企てた。馬騰が軍勢を率いて長平観まで来たとき、馬宇らの計画は漏洩し、槐里に出奔した。樊稠が馬騰を攻撃すると、馬騰は敗走して涼州に帰っていった。あらためて槐里を攻撃すると、馬宇らはみな死んだ。そのころ三輔の民衆はまだ数十万戸もあったが、李傕らが兵士どもを放って略奪させ、城邑を攻撃させたので、人民は飢えに苦しみ、二年のあいだに互いに食らいあい、ほとんどが死に絶えてしまった。[一]

[一] 『献帝紀』に言う。このとき遷都したばかりのことで、宮人の多くが衣服を失っていた。帝は御府を開いて彼らに絹を下賜しようと思ったが、李傕はそれを望まず、「宮中には衣服がございますのに、なぜ改めて作る必要がありましょう?」と言った。詔勅を下して廐舎の馬百匹あまりを売却し、御府・大司農に二万匹の色混じりの絹を供出させると、売却した馬の利益と合わせ、公卿から貧民までのうち自立できない者たちに下賜した。李傕は「わが邸閣(食料庫)の蓄えが少のうございます」と言い、まるごと全部、自分の陣営に運びいれた。賈詡が「これは上意であらせられ、邪魔だてしてはなりませぬ」と言ったが、李傕は聞き入れなかった。

諸将は権力争いのすえ、とうとう樊稠を殺してその軍勢を吸いあげた。[一]郭氾と李傕は打ってかわって互いを疑うようになり、長安の城内で戦闘を起こした。[二]李傕は自陣へ天子を人質にとり、宮殿や城門を焼きはらって官庁で略奪を働き、乗り物や衣服、器物を残らず取りあげて自邸にしまいこんだ。[三]李傕は講和を求める使者として公卿を郭氾のもとへ行かせたが、郭氾は彼らをみな捕まえてしまった。[四]互いに攻撃すること数ヶ月、死者は万単位にも上った。[五]

[一] 『九州春秋』に言う。馬騰・韓遂が敗走したとき、樊稠が追撃して陳倉まで到達した。韓遂が樊稠に語りかけた。「天地は引っくりかえり、どうなるとも知れない。もともと争いの生じた理由は私怨によるものでなく、王家(を思えばこそ)のことなのだ。足下とは州里(故郷)の人間であり、今でこそ些細な行きちがいがあるものの、大同団結すべきと願っている。お互いに仲よく語りあってから別れよう。万が一、思いどおりの出会いにならなければ、後日、また顔合わせできるだろうか!」ともに騎馬武者を下げると、馬が触れあうほど進み、臂を交えて押さえあい、しばらく語りあってから別れた。李傕の兄の子李利が樊稠に随行していたが、李利は帰ってくると、「韓・樊(韓遂・樊稠)は馬首を交えて語りあい、言葉は聞きとれませんでしたが、心情は非常に親密でした」と李傕に報告した。このことから李傕は、勝手に韓遂と和解して異心を抱いているのだろうと樊稠を疑うようになった。樊稠は軍勢を率いて関東へ出撃しようと思い、李傕に兵力増強を求めた。(李傕は)それを利用して樊稠を会議に招き、その座中ですぐさま樊稠を殺した。

[二] 『典略』に言う。李傕はたびたび酒宴を設けて郭氾を招き、ときには郭氾を帰さずに宿泊させることもあった。郭氾の妻は、李傕が婢妾(女中)を郭氾にあてがって、自分への愛情が奪われることを恐れ、彼らを離間しようと思いたった。ちょうど李傕が(食膳)を贈ってきたので、妻はそこでを薬に見せかけ、郭氾が食べようとしたとき、「食べ物は外から参りました。おそらくは訳ありなのでしょう!」と言うと、薬をんで見せた。そして「一つの巣に二羽の雄は住まいませぬ。私はもともと将軍が李公(李傕)を信頼なさるのを不思議に思っておりました」と言った。後日、李傕はまた郭氾を招いて(郭氾を)泥酔させた。郭氾は李傕に薬を飲まされたと疑い、糞汁をしぼって飲み、やっと解毒できた。こうしたことから、とうとう仲間割れが生じ、軍勢をかまえてせめぎあうようになった。

[三] 『献帝起居注』に言う。最初に天子を自陣に迎え入れようと郭氾が計画したとき、夜中、脱走して李傕に報告する者があった。李傕は兄の子李暹に数千人を率いさせて宮殿を包囲し、三乗の車でもって天子を迎え入れた。楊彪が「古代より、帝王が人臣の家に住まわったことなどない。物事を行うにあたって天下の心を一致させるべきなのに、諸君はこんな真似をする。正しいことではないぞ」と言うと、李暹は「将軍の計画は決まっております」と言った。こうして天子は一乗、貴人氏が一乗、賈詡・左霊が一乗(の車に乗り)、その他の者はみな歩行で随行した。同日、李傕はふたたび御車を移して北塢に行幸させ、校尉に命じて塢の門を監視させ、内外を断絶した。侍臣たちはみな飢えた様子であった。真夏の暑い季節であったが、人々はみな胆を冷やしたのである。帝は左右の者に与えるべく五斛の米と五具の牛の骨を要請したが、李傕は「毎朝、上等の御膳を献上しておるのに、米なんかを使ってどうするつもりだ?」と言い、結局、腐った牛の骨しか出さなかった。どれも臭くて食べられたものではない。帝がたいそう腹を立てて、彼を譴責しようとすると、侍中の楊琦が密奏して「李傕は田舎者なので夷狄の習俗に染まっておるのです。しかも、いまは非道を働いたことを自覚し、いつも浮かぬ顔色をしており、御車を導いて黄白城へ行幸させることで憤懣を晴らそうと考えております。陛下にはお忍びなされ、あやつの罪をおおっぴらになさらぬよう、臣は願いあげ奉りまする」と言上したので、帝はそれを受けいれた。李傕はもともと黄白城に屯したことがあったので、ここへ移そうと考えたのである。李傕は司徒の趙温が自分に同調しないので、趙温を塢のなかへ入れた。趙温は李傕が御車を移そうとしていることを聞くや、李傕に手紙を書いて述べた。「公はかつて董公の仇討ちをするのだと言いつつ、実際には王城を攻め滅ぼして大臣を殺戮いたしました。天下の家々に訪問して戸々に釈明することは不可能です。いまは睚眥の恨みから争いを起こし、千鈞の讎となりました。民衆は塗炭の苦しみにあって、それぞれ生活のあてもないのに、(公は)一度も改悛することもなく、こうして災禍混乱を巻きおこしなさる。朝廷が詔勅を下して和解させようとなされたのに、勅命は履行されず恩沢は日ごとに失われてゆきます。それどころか、またしても御車を黄白城へ運ぼうとなさるとは。それは全く、老人の解せぬことでございます。『』によると、最初の過ちを『』と呼び、二度目を『』と呼び、三度目でも改めないのを、頭まで漬かるということで『』と呼びます。すみやかに和解して軍勢を駐屯地に引きあげることにより、上は万乗を安んじ、下は民衆を全うするに越したことはございませぬ。幸福の極みではございませんか!」李傕は激怒し、人をやって趙温を殺そうとした。彼の従弟の李応は趙温の故の掾であったので、何日間も諫め、やっと諦めさせた。趙温が李傕に手紙を送ったと聞いて、帝は侍中常洽に「李傕は善悪を知らぬ。趙温の言葉はあまりに厳しいので、肝を冷やしてしまうのだ」と訊ねたところ、「もう李応がなだめました」との答えだったので、帝はようやく満足した。

[四] 華嶠の『漢書』に言う。郭氾は公卿に(酒食を)振るまい、李傕を攻撃すべしと提議した。楊彪が「臣下同士でせめぎあい、一人が天子を人質にすれば、一人が公卿を人質にする。こんなことをしてよいものでしょうか?」と言うので、郭氾は腹を立てて、その手で彼を斬ろうとした。中郎将楊密や左右の者たちの多くが諫言したので、郭氾はようやく帰してやった。

[五] 『献帝起居注』に言う。李傕は生まれつき鬼神や呪術を好むたちで、つねづね道人や巫女に歌わせたり太鼓を叩かせたりして神霊を呼び、六丁を祀り、御札や魔除けの類で使わないものはなかった。また朝廷の庁舎の門外に董卓のための祭壇を作り、たびたび牛や羊を生贄として祀り、それが終わってから庁舎の門をくぐって(帝の)ご機嫌を伺い、拝謁を求めるのであった。李傕は三ふりの刀を帯び、そのほか手に鞭と一ふりの刃物を持っていた。侍中・侍郎らは李傕が武器を携帯しているのを見て、みな恐れおののき、同じように刀剣を携帯し、先に入室して帝のお側についた。李傕は帝と受け答えするにあたり、「明陛下」と言ったり「明帝」と言ったりして郭氾の無軌道ぶりを帝に説明し、帝のほうでも彼の意図に合わせて返答した。李傕は嬉しくなり、退出すると「明陛下はまこと賢明な聖主さまだ」と言い、ますます自信を深め、うまく天子の歓心をつかんだとじこんだ。そのくせ側近たちが剣を帯びたまま帝のお側についていることがまだ不満で、他人には「この連中は我を殺そうとしているのかな?みなが刀を持っているぞ」と言っていた。侍中李禎は李傕の州里であり、もともと李傕と付き合いがあったので、「刀を持っているのは軍中ではそうせざるをえないからです。これは国家に前例があります」と李傕に語った。李傕の気持ちはようやくほぐれた。天子は謁者僕射皇甫酈が涼州の古い家であり、対話の才能があるので、李傕・郭氾を和解させよと命じた。皇甫酈がまず郭氾のもとへ行くと、郭氾は詔勅をお受けした。李傕のもとへ行ったところ、李傕は承知せず、「我には呂布の功績がある。政治をお助けして四年、三輔が静謐になったのは天下周知のことである。郭多(郭氾)は馬泥棒にすぎんのに、なぜ吾らの仲間に入ろうとするのか?あいつは絶対に誅殺してやるつもりだ。貴君は涼州人の一人として、吾の計略と軍勢について決着をつけるに充分であるのを見ておるかね?しかも郭多は公卿を人質にとっていて、振るまいはそうした調子だ。それでも貴君が郭多に味方するつもりであれば、李傕にも肝っ玉があることが自ずと明らかになるであろう」と言った。皇甫酈が答えた。「むかし有窮后羿は弓矢の腕をたよって災難など恐れもしませんでしたが、けっきょく死ぬことになりました。近くは董公の強さを明将軍も肉眼でご覧になりました。内部には公(王允)がいて内向きのことで仕切り役を務め、外部には董旻・董承・董璜がいて鯁毒となりましたが、呂布がご恩顧に背いて暗殺を企てると、またたく間に、(董卓の)頭は竿先に吊りさげられました。これは武勇を持ちながら智謀がなかったからです。いま将軍は上将の身であられ、を手にしてを杖つき、ご子孫は権力を掌握し、ご一門は寵愛を蒙り、国家の高い爵位は全て独占しておられます。いま郭多は公卿を人質にとっておりますが、将軍は至尊を脅迫なさっており、どちら(の罪)が重いでしょうか?張済は郭多・楊定と通謀しており、しかも官僚どもに信頼されております。楊奉白波の頭目に過ぎませんが、それでも将軍のなさることが正しくないと理解しております。将軍が任命による恩寵を与えてもなお、尽力することは承知いたしますまい。」李傕は皇甫酈の言葉を受けいれず、怒鳴りつけて退出させた。皇甫酈は退出すると省門へ参り、李傕が詔勅に従わず、不遜な言葉を吐いていると報告した。侍中胡邈は李傕に可愛がられていたので、詔勅を伝える役目の者を呼んで、その言葉を粉飾した。さらに皇甫酈に向かい、「将軍(李傕)は貴卿に対して粗末にはされておらぬ。それに皇甫公(皇甫酈の叔父皇甫嵩)が太尉になれたのも李将軍の尽力のおかげなのだぞ」と言った。皇甫酈が「胡敬才どの、貴卿は国家の常伯(侍中・常侍)であり、輔弼の臣下であろう。そんなことを言うようでは、お役目をどうやって果たすつもりか?」と答えると、胡邈は「貴卿が李将軍のお気持ちを損ねては容易ならざることになろうと心配しておるのだ!我が貴卿に対して含むことがあろうか?」と言う。皇甫酈は言った。「我は代々にわたるご恩顧を蒙り、自身でもつねづね帷幄に侍ってまいった。君主が侮辱されれば臣下は死ぬもの。国家の御為に尽くして李傕に殺されようとも、それは天命というものである。」天子は皇甫酈が(胡邈に対して)厳しく返答したことを知ると、それが李傕に聞かれることを恐れ、ただちに皇甫酈のもとに勅使をつかわした。皇甫酈がちょうど営門を出たとき、李傕は虎賁の王昌に命じて彼を呼びつけさせたが、王昌は皇甫酈の忠義正直を理解していたので、存分に出てゆかせ、引き返して「追いつけませんでした」と李傕に報告した。天子は左中郎将李固に節を持たせて使者とし、李傕を大司馬に任命して三公より上位とした。李傕は鬼神の力添えをえられたのだと勝手に思い、巫女たちに手厚い贈り物をしたのであった。

李傕の将楊奉が、李傕の軍吏宋果らとともに李傕殺害を企てたが、計画が漏れたため、軍兵を率いて李傕に対して叛逆した。李傕は手勢が叛逆したため、次第に衰弱してゆくことになる。張済が陝から出てきて彼らを和解させたので、天子はようやく抜けだすことができ、新豊や霸陵の辺りまで行きついた。[一]郭氾がふたたび天子をさらって郿に遷都させようとしたので、天子は楊奉の陣営に逃れ、楊奉が郭氾を撃破した。郭氾が南山に敗走すると、楊奉および将軍董承は天子を支えて洛陽へ帰る(ことにした)。李傕・郭氾は天子を行かせたことを後悔し、ふたたび和解して天子を追い、弘農の曹陽で追いついた。楊奉は取りいそぎ河東の故の白波の頭領であった韓暹・胡才・李楽らを招きよせて合流し、李傕・郭氾と大いに戦った。楊奉軍が敗北し、李傕らは兵士どもを放って公卿・百官を殺し、宮人を誘拐しつつ弘農に侵入した。[二]天子は陝へと逃れて、黄河北岸に渡った。輜重を失い、徒歩でゆき、付きしたがうのはただ皇后と貴人だけであった。大陽に着くと民家に宿泊した。[三]奉・暹等遂以天子都安邑,御乗牛車.太尉楊彪・太僕韓融近臣従者十余人.以暹為征東・才為征西・楽征北将軍,並与奉・承持政.遣融至弘農,与傕・氾等連和,還所略宮人公卿百官,及乗輿車馬数乗.是時蝗蟲起,歳旱無穀,従官食棗菜.[四]諸将不能相率,上下乱,糧食尽.奉・暹・承乃以天子還洛陽.出箕関,下軹道,張楊以食迎道路,拝大司馬.語在楊伝.天子入洛陽,宮室焼尽,街陌荒蕪,百官披荊棘,依丘牆間.州郡各擁兵自衛,莫有至者.飢窮稍甚,尚書郎以下,自出樵采,或飢死牆壁間.

[一] 献帝起居注曰:初,天子出到宣平門,当度橋,氾兵数百人遮橋問「是天子邪?」車不得前.傕兵数百人皆持大戟在乗輿車左右,侍中劉艾大呼云:「是天子也.」使侍中楊琦高挙車帷.帝言諸兵:「汝不却,何敢迫近至尊邪?」氾等兵乃却.既度橋,士衆咸呼万歳.

[二] 献帝紀曰:時尚書令士孫瑞為乱兵所害. 三輔決録注曰:瑞字君栄,扶風人,世為学門.瑞少伝家業,博達無所不通,仕歴顕位.卓既誅,遷大司農,為国三老.毎三公欠,瑞常在選中.太尉周忠・皇甫嵩,司徒淳于嘉・趙温,司空楊彪・張喜等為公,皆辞拝譲瑞.天子都許,追論瑞功,封子萌澹津亭侯.萌字文始,亦有才学,与王粲善.臨当就国,粲作詩以贈萌,萌有答,在粲集中.

[三] 献帝紀曰:初,議者欲令天子浮河東下,太尉楊彪曰:「臣弘農人,従此已東,有三十六灘,非万乗所当従也.」劉艾曰:「臣前為陝令,知其危険,有師猶有傾覆,況今無師,太尉謀是也.」乃止.及当北渡,使李楽具船.天子歩行趨河岸,岸高不得下,董承等謀欲以馬羈相続以繋帝腰.時中宮僕伏徳扶中宮,一手持十匹絹,乃取徳絹連続為輦.行軍校尉尚弘多力,令弘居前負帝,乃得下登船.其余不得渡者甚衆,復遣船収諸不得渡者,皆争攀船,船上人以刃櫟断其指,舟中之指可掬.

[四] 魏書曰:乗輿時居棘籬中,門戸無関閉.天子与群臣会,兵士伏籬上観,互相鎮壓以為笑.諸将専権,或擅笞殺尚書.司隷校尉出入,民兵抵擲之.諸将或遣婢詣省閤,或自齎酒啖,過天子飲,侍中不通,喧呼罵詈,遂不能止.又競表拝諸営壁民為部曲,求其礼遺.医師・走卒,皆為校尉,御史刻印不供,乃以錐画,示有文字,或不時得也.

太祖乃迎天子都許.暹・奉不能奉王法,各出奔,寇徐・揚間,為劉備所殺.[一]董承従太祖歳余,誅.建安二年,遣謁者僕射裴茂率関西諸将誅傕,夷三族.[二]氾為其将五習所襲,死於郿.済飢餓,至南陽寇略,為穣人所殺,従子繡摂其衆.才・楽留河東,才為怨家所殺,楽病死.遂・騰自還涼州,更相寇,後騰入為衛尉,子超領其部曲.十六年,超与関中諸将及遂等反,太祖征破之.語在武紀.遂奔金城,為其将所殺.超拠漢陽,騰坐夷三族.趙衢等挙義兵討超,超走漢中従張魯,後奔劉備,死於蜀.

[一] 英雄記曰:備誘奉与相見,因於坐上執之.暹失奉勢孤,時欲走還幷州,為杼秋屯帥張宣所邀殺.

[二] 典略曰:傕頭至,有詔高県.

袁紹伝

 袁紹字本初,汝南汝陽人也.高祖父安,為漢司徒.自安以下四世居三公位,由是勢傾天下.[一]紹有姿貌威容,能折節下士,士多附之,太祖少与交焉.以大将軍掾為侍御史,[二]稍遷中軍校尉,至司隷.

[一] 華?漢書曰:安字邵公,好学有威重.明帝時為楚郡太守,治楚王獄,所申理者四百余家,皆蒙全済,安遂為名臣.章帝時至司徒,生蜀郡太守京.京弟敞為司空.京子湯,太尉.湯四子:長子平,平弟成,左中郎将,並早卒;成弟逢,逢弟隗,皆為公.魏書曰:自安以下,皆博愛容?,無所揀択;賓客入其門,無賢愚皆得所欲,為天下所帰.紹即逢之庶子,術異母兄也,出後成為子.英雄記曰:成字文開,壮健有部分,貴戚権豪自大将軍梁冀以下皆与結好,言無不従.故京師為作諺曰:「事不諧,問文開.」

[二] 英雄記曰:紹生而父死,二公愛之.幼使為郎,弱冠除濮陽長,有清名.遭母喪,服竟,又追行父服,凡在?廬六年.礼畢,隠居洛陽,不妄通賓客,非海?知名,不得相見.又好游?,与張孟卓?何伯求??子卿?許子遠?伍徳瑜等皆為奔走之友.不応辟命.中常侍趙忠謂諸?門曰:「袁本初坐作声価,不応呼召而養死士,不知此児欲何所為乎?」紹叔父隗聞之,責数紹曰:「汝且破我家!」紹於是乃起応大将軍之命.臣松之案:魏書云「紹,逢之庶子,出後伯父成」.如此記所言,則似実成所生.夫人追服所生,礼無其文,況於所後而可以行之!二書未詳孰是.

 霊帝崩,太后兄大将軍何進与紹謀誅諸閹官,[一]太后不従.乃召董卓,欲以脅太后.常侍??門聞之,皆詣進謝,唯所錯置.時紹勧進便可於此決之,至于再三,而進不許.令紹使洛陽方略武吏検司諸宦者.又令紹弟虎賁中郎将術選?厚虎賁二百人,当入禁中,代持兵?門陛守門?.中常侍段珪等矯太后命,召進入議,遂殺之,宮中乱.[二]術将虎賁焼南宮嘉徳殿青瑣門,欲以迫出珪等.珪等不出,劫帝及帝弟陳留王走小平津.紹既斬宦者所署司隷校尉許相,遂勒兵捕諸閹人,無少長皆殺之.或有無鬚而誤死者,至自発露形体而後得免.宦者或有行善自守而猶見及.其濫如此.死者二千余人.急追珪等,珪等悉赴河死.帝得還宮.

[一] 続漢書曰:紹使客張津?進曰:「?門?常侍秉権日久,又永楽太后与諸常侍専通財利,将軍宜整頓天下,為海?除患.」進以為然,遂与紹結謀.

[二] 九州春秋曰:初紹?進曰:「?門?常侍累世太盛,威服海?,前竇武欲誅之而反為所害,但坐言語漏泄,以五営士為兵故耳.五営士生長京師,服畏中人,而竇氏反用其鋒,遂果叛走帰?門,是以自取破滅.今将軍以元舅之尊,二府並領勁兵,其部曲将吏,皆英雄名士,楽尽死力,事在掌握,天賛其時也.今為天下誅除貪穢,功勲顕著,垂名後世,雖周之申伯,何足道哉?今大行在前殿,将軍以詔書領兵?守,可勿入宮.」進納其言,後更狐疑.紹懼進之改変,脅進曰:「今交搆已成,形勢已露,将軍何為不早決之?事留変生,後機禍至.」進不従,遂敗.

 董卓呼紹,議欲廃帝,立陳留王.是時紹叔父隗為太傅,紹偽許之,曰:「此大事,出当与太傅議.」卓曰:「劉氏種不足復遺.」紹不応,横刀長揖而去.[一]紹既出,遂亡奔冀州.侍中周毖・城門校尉伍瓊・議郎何?等,皆名士也,卓信之,而陰為紹,乃?卓曰:「夫廃立大事,非常人所及.紹不達大体,恐懼故出奔,非有他志也.今購之急,勢必為変.袁氏樹恩四世,門世故吏?於天下,若収豪傑以聚徒?,英雄因之而起,則山東非公之有也.不如赦之,拝一郡守,則紹喜于免罪,必無患矣.」卓以為然,乃拝紹勃海太守,封??侯.

[一] 献帝春秋曰:卓欲廃帝,謂紹曰:「皇帝沖闇,非万乗之主.陳留王猶勝,今欲立之.人有少智,大或痴,亦知復何如,為当且爾;卿不見霊帝乎?念此令人憤毒!」紹曰;「漢家君天下四百許年,恩沢深渥,兆民戴之来久.今帝雖幼沖,未有不善宣聞天下,公欲廃適立庶,恐?不従公議也.」卓謂紹曰:「豎子!天下事豈不決我?我今為之,誰敢不従?爾謂董卓刀為不利乎!」紹曰:「天下健者,豈唯董公?」引佩刀横揖而出.臣松之以為紹於時与卓未搆嫌隙,故卓与之諮謀.若但以言議不同,便罵為豎子,而有推刃之心,及紹復答,屈疆為甚,卓又安能容忍而不加害乎?且如紹此言,進非亮正,退違詭遜,而顕其競爽之旨,以触哮?之鋒,有志功業者,理豈然哉!此語,妄之甚矣.

 紹遂以勃海起兵,将以誅卓.語在武紀.紹自号車騎将軍,主盟,与冀州牧韓馥立幽州牧劉虞為帝,遣使奉章詣虞,虞不敢受.後馥軍安平,為公孫?所敗.?遂引兵入冀州,以討卓為名,?欲襲馥.馥懐不自安.[一]会卓西入関,紹還軍延津,因馥惶遽,使陳留高幹・潁川荀諶等?馥曰:「公孫?乗勝来向南,而諸郡応之,袁車騎引軍東向,此其意不可知,竊為将軍危之.」馥曰:「為之奈何?」諶曰:「公孫提燕・代之卒,其鋒不可当.袁氏一時之傑,必不為将軍下.夫冀州,天下之重資也,若両雄幷力,兵交於城下,危亡可立而待也.夫袁氏,将軍之旧,且同盟也,当今為将軍計,莫若挙冀州以譲袁氏.袁氏得冀州,則?不能与之争,必厚徳将軍.冀州入於親交,是将軍有譲賢之名,而身安於泰山也.願将軍勿疑!」馥素?怯,因然其計.馥長史耿武・別駕閔純・治中李?諫馥曰:「冀州雖鄙,帯甲百万,穀支十年.袁紹孤客窮軍,仰我鼻息,譬如嬰児在股掌之上,?其哺乳,立可餓殺.奈何乃欲以州与之?」馥曰:「吾,袁氏故吏,且才不如本初,度徳而譲,古人所貴,諸君独何病焉!」従事趙浮・程奐請以兵拒之,馥又不聴.乃譲紹,[二]紹遂領冀州牧.

[一] 英雄記曰:逢紀?紹曰:「将軍挙大事而仰人資給,不拠一州,無以自全.」紹答云:「冀州兵彊,吾士飢乏,設不能?,無所容立.」紀曰:「可与公孫?相聞,導使来南,?取冀州.公孫必至而馥懼矣,因使?利害,為陳禍福,馥必遜譲.於此之際,可拠其位.」紹従其言而?果来.

[二] 九州春秋曰:馥遣都督従事趙浮・程奐将彊弩万張屯河陽.浮等聞馥欲以冀州与紹,自孟津馳東下.時紹尚在朝歌清水口,浮等従後来,船数百艘,?万余人,整兵鼓夜過紹営,紹甚悪之.浮等到,謂馥曰:「袁本初軍無斗糧,各己離散,雖有張楊・於扶羅新附,未肯為用,不足敵也.小従事等請自以見兵拒之,旬日之間,必土崩瓦解;明将軍但当開閤高枕,何憂何懼!」馥不従,乃避位,出居趙忠故舎.遣子齎冀州印綬於黎陽与紹.

 従事沮授沮音?.?紹曰:「将軍弱冠登朝,則播名海?;?廃立之際,則忠義奮発;単騎出奔,則董卓懐怖;済河而北,則勃海稽首.振一郡之卒,撮冀州之?,威震河朔,名重天下.雖?巾猾乱,黒山跋扈,挙軍東向,則青州可定;還討黒山,則張燕可滅;回?北首,則公孫必喪;震脅戎狄,則匈奴必従.横大河之北,合四州之地,収英雄之才,擁百万之?,迎大駕於西京,復宗廟於洛邑,号令天下,以討未復,以此争鋒,誰能敵之?比及数年,此功不難.」紹喜曰:「此吾心也.」即表授為監軍・奮威将軍.[一]卓遣執金吾胡母班・将作大匠?脩齎詔書?紹,紹使河?太守王匡殺之.[二]卓聞紹得関東・乃悉誅紹宗族太傅隗等.当是時,豪?多附紹,皆思為之報,州郡?起,莫不仮其名.馥懐懼,従紹索去,往依張?.[三]後紹遣使詣?,有所計議,与?耳語.馥在坐上,謂見図構,無何起至溷自殺.[四]

[一] 献帝紀曰:沮授,広平人,少有大志,多権略.仕州別駕,挙茂才,?二県令,又為韓馥別駕,表拝騎都尉.袁紹得冀州,又辟焉.英雄記曰:是時年号初平,紹字本初,自以為年与字合,必能克平禍乱.

[二] 漢末名士?曰:班字季皮,太山人,少与山陽度尚・東平張?等八人並軽財赴義,振済人士,世謂之八廚.謝承後漢書曰:班,王匡之妹夫,董卓使班奉詔到河?,解釈義兵.匡受袁紹旨.収班?獄,欲殺之以徇軍.班与匡書云:「自古以来,未有下土諸侯挙兵向京師者.劉向伝曰『擲鼠忌器』,器猶忌之,況卓今処宮闕之?,以天子為藩屏,幼主在宮,如何可討?僕与太傅馬公・太僕趙岐・少府陰脩?受詔命.関東諸郡,雖実嫉卓,猶以銜奉王命,不敢?辱.而足下独囚僕于獄,欲以釁鼓,此悖暴無道之甚者也.僕与董卓有何親戚,義豈同悪?而足下張虎狼之口,吐長之毒,恚卓遷怒,何甚酷哉!死,人之所難,然恥為狂夫所害.若亡者有霊,当訴足下於皇天.夫婚姻者禍福之機,今日著矣.曩為一体,今為血?.亡人子二人,則君之甥,身没之後,慎勿令臨僕尸骸也.」匡得書,抱班二子而泣.班遂死於獄.班嘗見太山府君及河伯,事在捜神記,語多不載.

[三] 英雄記曰:紹以河?朱漢為都官従事.漢先時為馥所不礼,?懐怨恨,且欲邀迎紹意,擅発城郭兵囲守馥第,抜刃登屋.馥走上楼,収得馥大児,槌折両?.紹亦立収漢,殺之.馥猶憂怖,故報紹索去.

[四] 英雄記曰:公孫??青州?巾賊,大破之,還屯広宗,改易守令,冀州長吏無不望風響応,開門受之.紹自往征?,合戦于界橋南二十里.??兵三万余人為方陳,騎為両翼,左右各五千余匹,白馬義従為中堅,亦分作両校,左射右,右射左,旌旗鎧甲,光照天地.紹令?義以八百兵為先登,彊弩千張夾承之,紹自以?兵数万結陳于後.義久在涼州,暁習羌?,兵皆驍?.?見其兵少,便放騎欲陵蹈之.義兵皆伏楯下不動,未至数十?,乃同時?起,揚塵大叫,直前衝突,彊弩雷発,所中必倒,臨陳斬?所署冀州刺史厳綱甲首千余級.?軍敗績,?騎奔走,不復還営.義追至界橋;?殿兵還戦橋上,義復破之,遂到?営,抜其牙門,営中余?皆復散走.紹在後,未到橋十数里,下馬発鞍,見?已破,不為設備,惟帳下彊弩数十張,大戟士百余人自随.?部迸騎二千余匹卒至,便囲紹数重,弓矢雨下.別駕従事田豊扶紹欲却入空垣,紹以兜?撲地曰:「大丈夫当前?死,而入牆間,豈可得活乎?」彊弩乃乱発,多所殺傷.?騎不知是紹,亦稍引却;会?義?迎,乃散去.??与虜戦,常乗白馬,追不?発,数獲戎捷,虜相告云「当避白馬」.因虜所忌,簡其白馬数千匹,選騎射之士,号為白馬義従;一曰胡夷健者常乗白馬,?有健騎数千,多乗白馬,故以号焉,紹既破?,引軍南到薄落津,方与賓客諸将共会,聞魏郡兵反,与黒山賊于毒共覆?城,遂殺太守栗成.賊十余部,?数万人,聚会?中.坐上諸客有家在?者,皆憂怖失色,或起啼泣,紹容貌不変,自若也.賊陶升者,故??小吏也,有善心,独将部?踰西城入,閉守州門,不?他賊,以車載紹家及諸衣冠在州?者,身自扞?,送到斥丘乃還.紹到,遂屯斥丘,以陶升為建義中郎将.乃引軍入朝歌鹿場山蒼巌谷討于毒,囲攻五日,破之,斬毒及長安所署冀州牧壺寿.遂尋山北行,薄?諸賊(左髪丈八)[左髭丈八]等,皆斬之.又?劉石・青牛角・?龍・左校・郭大賢・李大目・于?根等,皆屠其屯壁,奔走得?,斬首数万級.紹復還屯?.初平四年,天子使太傅馬日?・太僕趙岐和解関東.岐別詣河北,紹出迎於百里上,拝奉帝命.岐住紹営,移書告?.?遣使具与紹書曰:「趙太僕以周召之徳,銜命来征,宣揚朝恩,示以和睦,曠若開雲見日,何喜如之?昔賈復・寇恂亦争士卒,欲相危害,遇光武之寛,親?陛見,同輿共出,時人以為栄.自省辺鄙,得与将軍共同此福,此誠将軍之眷,而?之幸也.」?義後恃功而驕恣,紹乃殺之.

 初,天子之立非紹意,及在河東,紹遣潁川郭図使焉.図還?紹迎天子都?,紹不従.[一]会太祖迎天子都許,収河南地,関中皆附.紹悔,欲令太祖徙天子都?城以自密近,太祖拒之.天子以紹為太尉,転為大将軍,封?侯,[二]紹譲侯不受.頃之.?破?于易京,井其?.[三]出長子譚為青州,沮授諫紹:「必為禍始.」紹不聴,曰:「孤欲令諸児各拠一州也.」[四]又以中子煕為幽州,甥高幹為幷州.?数十万,以審配・逢紀統軍事,田豊・荀諶・許攸為謀主,顔良・文醜為将率,簡精卒十万,騎万匹,将攻許.[五]

[一] 献帝伝曰:沮授?紹云:「将軍累葉輔弼,世済忠義.今朝廷播越,宗廟毀壊,観諸州郡外託義兵,?図相滅,未有存主恤民者.且今州城粗定,宜迎大駕,安宮?都,挟天子而令諸侯,畜士馬以討不庭,誰能禦之!」紹悦,将従之.郭図・淳于瓊曰:「漢室陵遅,為日久矣,今欲興之,不亦難乎!且今英雄拠有州郡,?動万計,所謂秦失其鹿,先得者王.若迎天子以自近,動輒表聞,従之則権軽,違之則拒命,非計之善者也.」授曰:「今迎朝廷,至義也,又於時宜大計也,若不早図,必有先人者也.夫権不失機,功在速捷,将軍其図之!」紹弗能用.案此書称(郭図)[沮授]之計,則与本伝違也.

[二] 献帝春秋曰:紹恥班在太祖下,怒曰;「曹操当死数矣,我輒救存之,今乃背恩,挟天子以令我乎!」太祖聞,而以大将軍譲于紹.

[三] 典略曰:自此紹貢御希慢,私使主薄耿苞密白曰:「赤徳衰尽,袁為?胤,宜順天意.」紹以苞密白事示軍府将吏.議者咸以苞為妖妄宜誅,紹乃殺苞以自解.九州春秋曰:紹延?北海鄭玄而不礼,趙融聞之曰:「賢人者,君子之望也.不礼賢,是失君子之望也.夫有為之君,不敢失万民之歓心,況於君子乎?失君子之望,難乎以有為矣.」英雄記載太祖作董卓歌,辞云:「徳行不虧欠,変故自難常.鄭康成行酒,伏地気?,郭景図命尽于園桑.」如此之文,則玄無病而卒.余書不見,故載?之.

[四] 九州春秋載授諫辞曰:「世称一兔走衢,万人逐之,一人獲之,貪者悉止,分定故也.且年均以賢,徳均則卜,古之制也.願上惟先代成敗之戒,下思逐兔分定之義.」紹曰:「孤欲令四児各拠一州,以観其能.」授出曰:「禍其始此乎!」譚始至青州,為都督,未為刺史,後太祖拝為刺史.其土自河而西,蓋不過平原而已.遂北排田楷,東攻孔融,曜兵海隅,是時百姓無主,欣戴之矣.然信用?小,好受近言,肆志奢淫,不知稼穡之艱難.華?・孔順皆姦佞小人也,信以為腹心;王脩等備官而已.然能接待賓客,慕名敬士.使婦弟領兵在?,至令草竊,?井而外,虜掠田野;別使両将募兵下県,有賂者見免,無者見取,貧弱者多,乃至於竄伏丘野之中,放兵捕索,如猟鳥獣.邑有万?者,著籍不盈数百,収賦納?,参分不入一.招命賢士,不就;不趨赴軍期,安居族党,亦不能罪也.

[五] 世語曰:紹?卒五万,騎八千.孫盛評曰:案魏武謂崔?曰「昨案貴州?籍,可得三十万?」.由此推之,但冀州勝兵已如此,況兼幽・幷及青州乎?紹之大挙,必悉師而起,十万近之矣.献帝伝曰:紹将南師,沮授・田豊諫曰:「師出?年,百姓疲弊,倉?無積,賦役方殷,此国之深憂也.宜先遣使献捷天子,務農逸民;若不得通,乃表曹氏隔我王路,然後進屯黎陽,漸営河南,益作舟船,繕治器械,分遣精騎,鈔其辺鄙,令彼不得安,我取其逸.三年之中,事可坐定也.」審配・郭図曰:「兵書之法,十囲五攻,敵則能戦.今以明公之神武,跨河朔之彊?,以伐曹氏.譬若覆手,今不時取,後難図也.」授曰:「蓋救乱誅暴,謂之義兵;恃?憑彊,謂之驕兵.兵義無敵,驕者先滅.曹氏迎天子安宮許都,今挙兵南向,於義則違.且廟勝之策,不在彊弱.曹氏法令既行,士卒精練,非公孫?坐受囲者也.今棄万安之術,而興無名之兵,竊為公懼之!」図等曰:「武王伐紂,不曰不義,況兵加曹氏而云無名!且公師武臣(竭)力,将士憤怒,人思自騁,而不及時早定大業,慮之失也.夫天与弗取,反受其咎,此越之所以霸,?之所以亡也.監軍之計,計在持牢,而非見時知機之変也.」紹従之.図等因是譖授「監統?外,威震三軍,若其浸盛,何以制之?夫臣与主不同者昌,主与臣同者亡,此?石之所忌也.且御?于外,不宜知?.」紹疑焉.乃分監軍為三都督,使授及郭図・淳于瓊各典一軍,遂合而南.

 先是,太祖遣劉備詣徐州拒袁術.術死,備殺刺史車胄,引軍屯沛.紹遣騎佐之.太祖遣劉岱・王忠?之,不克.建安五年,太祖自東征備.田豊?紹襲太祖後,紹辞以子疾,不許,豊挙杖?地曰:「夫遭難遇之機,而以嬰児之病失其会,惜哉!」太祖至,?破備;備奔紹.[一]

[一] 魏氏春秋載紹檄州郡文曰:「蓋聞明主図危以制変,忠臣慮難以立権.曩者彊秦弱主,趙高執柄,専制朝命,威福由己,終有望夷之禍,?辱至今.及臻呂后,禄・?専政,擅断万機,決事省禁,下陵上替,海?寒心.於是絳侯・朱?興威奮怒,誅夷逆乱,尊立太宗,故能道化興隆,光明顕融,此則大臣立権之明表也.司空曹操,祖父騰,故中常侍,与左?・徐?並作妖?,饕餮放横,傷化虐民.父嵩,乞?携養,因贓仮位,輿金輦璧,輸貨権門,竊盗鼎司,傾覆重器.操贅閹遺醜,本無令徳,?狡鋒?,好乱楽禍.幕府昔統鷹揚,掃夷凶逆.続遇董卓侵官暴国,於是提剣揮鼓,発命東夏,方収羅英雄,棄瑕?用,故遂与操参咨策略,謂其鷹犬之才,爪牙可任.至乃愚佻短慮,軽進易退,傷夷折?,数喪師徒.幕府輒復分兵命?,修完補輯,表行東郡太守・?州刺史,被以虎文,授以偏師,?蹙威柄,冀獲秦師一克之報.而操遂乗資跋扈,肆行酷烈,割?元元,残賢害善.故九江太守辺譲,英才俊逸,天下知名,以直言正色,論不阿諂,身[首]被梟県之戮,妻孥受灰滅之咎.自是士林憤痛,民怨彌重,一夫奮臂,挙州同声,故躬破於徐方,地奪於呂布,彷徨東裔,蹈拠無所.幕府唯彊幹弱枝之義,且不登叛人之党,故復援旌?甲,席巻赴征,金鼓響震,布?破沮,拯其死亡之患,復其方伯之任,是則幕府無徳於?土之民,而有大造於操也.後会鑾駕東反,?虜乱政.時冀州方有北鄙之警,匪遑離局,故使従事中郎徐勛就発遣操,使繕修郊廟,翼?幼主.而便放志専行,脅遷省禁,卑侮王官,敗法乱紀,坐召三台,専制朝政,爵賞由心,刑戮在口,所愛光五宗,所悪滅三族,?談者蒙顕誅,腹議者蒙隠戮,道路以目,百寮鉗口,尚書記朝会,公卿充員品而已.故太尉楊彪,?典三司,享国極位,操因睚眥,被以非罪,榜楚幷兼,五毒?至,触情放慝,不顧憲章.又議郎趙?,忠諫直言,議有可納,故聖朝含聴,改容加錫,操欲迷奪時権,杜?言路,擅収立殺,不俟報聞.又梁孝王,先帝母弟,墳陵尊顕,松柏桑梓,猶宜恭粛,而操率将校吏士親臨発掘,破棺裸尸,略取金宝,至令聖朝流涕,士民傷懐.又署発丘中郎将・摸金校尉,所過堕突,無骸不露.身処三公之官,而行桀虜之態,殄国虐民,毒流人鬼.加其細政苛惨,科防互設,繒?充蹊,坑?塞路,挙手挂網羅,動足蹈機陥,是以?・予有無聊之民,帝都有吁嗟之怨.?観古今書籍,所載貪残虐烈無道之臣,於操為甚.幕府方詰外姦,未及整訓,加意含覆,冀可彌縫.而操豺狼野心,潜苞禍謀,乃欲撓折棟梁,孤弱漢室,除滅中正,専為梟雄.往?伐鼓北征,討公孫?,彊禦桀逆,拒囲一年.操因其未破,陰交書命,欲託助王師,以相掩襲,故引兵造河,方舟北済.会其行人発露,?亦梟夷,故使鋒芒挫縮,厥図不果.屯拠敖倉,阻河為固,乃欲以螳螂之斧,禦隆車之隧.幕府奉漢威霊,折衝宇宙,長戟百万,胡騎千群,奮中?・育・獲之材,騁良弓勁弩之勢,幷州越太行,青州?済・?,大軍汎?河以角其前,荊州下宛・葉而掎其後,雷震虎?,並集虜庭,若挙炎火以?飛蓬,覆滄海而沃?炭,有何不消滅者哉?当今漢道陵遅,綱弛紀?.操以精兵七百,囲守宮闕,外称陪?,?以拘執,懼其?逆之禍,因斯而作.乃忠臣肝腦塗地之秋,烈士立功之会也,可不?哉!」此陳琳之辞.

 紹進軍黎陽,遣顔良攻劉延于白馬.沮授又諫紹:「良性促狭,雖驍勇不可独任.」紹不聴.太祖救延,与良戦,破斬良.[一]紹渡河,壁延津南,使劉備・文醜挑戦.太祖?破之,斬醜,再戦,禽紹大将.紹軍大震.[二]太祖還官渡.沮授又曰:「北兵数?而果勁不及南,南穀?少而貨財不及北;南利在於急戦,北利在於緩搏.宜徐持久,曠以日月.」紹不従.連営稍前,逼官渡,合戦,太祖軍不利,復壁.紹為高櫓,起土山,射営中,営中皆蒙楯,?大懼.太祖乃為発石車,?紹楼,皆破,紹?号曰霹靂車.[三]紹為地道,欲襲太祖営.太祖輒於?為長塹以拒之,又遣奇兵襲?紹運車,大破之,尽焚其穀.太祖与紹相持日久,百姓疲乏,多叛応紹,軍食乏.会紹遣淳于瓊等将兵万余人北迎運車,沮授?紹:「可遣将?奇別為支軍於表,以断曹公之鈔.」紹復不従.瓊宿烏?,去紹軍四十里.太祖乃留曹洪守,自将?騎五千候夜潜往攻瓊.紹遣騎救之,敗走.破瓊等,悉斬之.太祖還,未至営,紹将高覧・張?等率其?降.紹?大潰,紹与譚単騎退渡河.余?偽降,尽坑之.[四]沮授不及紹渡,為人所執,詣太祖,[四]太祖厚待之.後謀還袁氏,見殺.

[一] 献帝伝曰:紹臨発,沮授会其宗族,散資財以与之曰:「夫勢在則威無不加,勢亡則不保一身,哀哉!」其弟宗曰:「曹公士馬不敵,君何懼焉!」授曰:「以曹?州之明略,又挟天子以為資,我雖克公孫,?実疲弊,而将驕主?,軍之破敗,在此挙也.揚雄有言,『六国蚩蚩,為?弱?』,今之謂也.」

[二] 献帝伝曰:紹将済河,沮授諫曰:「勝負変化,不可不詳.今宜留屯延津,分兵官渡,若其克獲,還迎不?,設其有難,?弗可還.」紹弗従.授臨済歎曰:「上盈其志,下務其功,悠悠?河,吾其不反乎!」遂以疾辞.紹恨之,乃省其所部兵属郭図.

[三] 魏氏春秋曰:以古有矢石,又伝言「?動而鼓」,?[文]曰「?,発石也」,於是造発石車.

[四] 張?漢紀云:殺紹卒凡八万人.

[五] 献帝伝云:授大呼曰:「授不降也,為軍所執耳!」太祖与之有旧,逆謂授曰:「分野殊異,遂用??,不図今日乃相禽也!」授対曰:「冀州失策,以取奔北.授智力?困,宜其見禽耳.」太祖曰:「本初無謀,不用君計,今喪乱過紀,国家未定,当相与図之.」授曰:「叔父・母・弟,県命袁氏,若蒙公霊,速死為福.」太祖歎曰:「孤早相得,天下不足慮.」

 初,紹之南也,田豊?紹曰:「曹公善用兵,変化無方,?雖少,未可軽也,不如以久持之.将軍拠山河之固,擁四州之?,外結英雄,?脩農戦,然後簡其精?,分為奇兵,乗?迭出,以擾河南,救右則?其左,救左則?其右,使敵疲於奔命,民不得安業;我未労而彼已困,不及二年,可坐克也.今釈廟勝之策,而決成敗於一戦,若不如志,悔無及也.」紹不従.豊懇諫,紹怒甚,以為沮?,械?之.紹軍既敗,或謂豊曰:「君必見重.」豊曰:「若軍有利,吾必全,今軍敗,吾其死矣.」紹還,謂左右曰:「吾不用田豊言,果為所笑.」遂殺之.[一]紹外寛雅,有局度,憂喜不形于色,而?多忌害,皆此類也.

[一]先賢行?曰:豊字元皓,鉅鹿人,或云勃海人.豊天姿傑,権略多奇,少喪親,居喪尽哀,日月雖過,笑不至矧.博覧多識,名重州党.初辟太尉府,挙茂才,遷待御史.閹宦?朝,英賢被害,豊乃棄官帰家.袁紹起義,卑辞厚幣以招致豊,豊以王室多難,志存匡救,乃応紹命,以為別駕.勧紹迎天子,紹不納.紹後用豊謀,以平公孫?.逢紀憚豊亮直,数讒之於紹,紹遂忌豊.紹軍之敗也,土崩奔北,師徒略尽,軍皆拊膺而泣曰:「向令田豊在此,不至於是也.」紹謂逢紀曰:「冀州人聞吾軍敗,皆当念吾,惟田別駕前諫止吾,与?不同,吾亦慚見之.」紀復曰:「豊聞将軍之退,拊手大笑,喜其言之中也.」紹於是有害豊之意.初,太祖聞豊不従戎,喜曰:「紹必敗矣.」及紹奔遁,復曰:「向使紹用田別駕計,尚未可知也.」孫盛曰:観田豊?沮授之謀,雖良?平何以過之?故君貴審才,臣尚量主;君用忠良,則伯王之業隆,臣奉闇后,則覆亡之禍至:存亡栄辱,常必由茲.豊知紹将敗,敗則己必死,甘冒虎口以尽忠規,烈士之於所事,慮不存己.夫諸侯之臣,義有去就,況豊与紹非純臣乎!詩云「逝将去汝,適彼楽土」,言去乱邦,就有道可也.

 冀州城邑多叛,紹復?定之.自軍敗後発病,七年,憂死.

袁譚・袁尚伝

 紹愛少子尚,貌美,欲以為後而未顕.[一]審配?逢紀与辛評?郭図争権,配?紀与尚比,評?図与譚比.?以譚長,欲立之.配等恐譚立而評等為己害,?紹素意,乃奉尚代紹位.譚至,不得立,自号車騎将軍.由是譚?尚有隙.太祖北征譚?尚.譚軍黎陽,尚少与譚兵,而使逢紀従譚.譚求益兵,配等議不与.譚怒,殺紀.[二]太祖渡河攻譚,譚告急於尚.尚欲分兵益譚,恐譚遂奪其?,乃使審配守?,尚自将兵助譚,与太祖相拒於黎陽.自[二][九]月至(九)[二]月,大戦城下,譚?尚敗退,入城守.太祖将囲之,乃夜遁.追至?,収其麦,抜陰安,引軍還許.太祖南征荊州,軍至西平.譚?尚遂挙兵相攻,譚敗奔平原.尚攻之急,譚遣辛?詣太祖請救.太祖乃還救譚,十月至黎陽.[三]尚聞太祖北,釈平原還?.其将呂曠?呂翔叛尚帰太祖,譚復陰刻将軍印仮曠?翔.太祖知譚詐,与結婚以安之,乃引軍還.尚使審配?蘇由守?,復攻譚平原.太祖進軍将攻?,到?水,去?五十里,由欲為?応,謀泄,与配戦城中,敗,出奔太祖.太祖遂進攻之,為地道,配亦於?作塹以当之.配将馮礼開突門,?太祖兵三百余人,配覚之,従城上以大石?突中柵門,柵門閉,入者皆没.太祖遂囲之,為塹,周四十里,初令浅,示若可越.配望而笑之,不出争利.太祖一夜掘之,広深二丈,決?水以灌之,自五月至八月,城中餓死者過半.尚聞?急,将兵万余人還救之,依西山来,東至陽平亭,去?十七里,臨?水,挙火以示城中,城中亦挙火相応.配出兵城北,欲与尚対決囲.太祖逆?之,敗還,尚亦破走,依曲?為営,太祖遂囲之.未合,尚懼,遣陰??陳琳乞降,不聴.尚還走濫口,進復囲之急,其将馬延等臨陳降,?大潰,尚奔中山.尽収其輜重,得尚印綬?節鉞及衣物,以示其家,城中崩沮.配兄子栄守東門,夜開門?太祖兵,与配戦城中,生禽配.配声気壮烈,終無撓辞,見者莫不歎息.遂斬之.[四]高幹以幷州降,復以幹為刺史.

[一] 典論曰:譚長而恵,尚少而美.紹妻劉氏愛尚,数称其才,紹亦奇其貌,欲以為後,未顕而紹死.劉氏性酷?,紹死,僵尸未殯,寵妾五人,劉尽殺之.以為死者有知,当復見紹於地下,乃?頭墨面以毀其形.尚又為尽殺死者之家.

[二] 英雄記曰:紀字元図.初,紹去董卓出奔,与許攸及紀?詣冀州,紹以紀聰達有計策,甚親信之,与共挙事.後審配任用,与紀不睦.或有讒配于紹,紹問紀,紀称「配天性烈直,古人之節,不宜疑之」.紹曰:「君不悪之邪?」紀答曰:「先日所争者私情,今所陳者国事.」紹善之,卒不廃配.配由是更与紀為親善.

[三] 魏氏春秋載劉表遺譚書曰:「天篤降害,禍難殷流,尊公?殞,四海悼心.賢胤承統,遐邇属望,咸欲展布旅力,以投盟主,雖亡之日,猶存之願也.何寤青蠅飛於干?,無極游於二塁,使股肱分為二体,背膂?為異身!昔三王五伯,下及戦国,父子相残,蓋有之矣;然或欲以成王業,或欲以定霸功,或欲以顕宗主,或欲以固?嗣,未有棄親即異,?其本根,而能崇業済功,垂祚後世者也.若斉襄復九世之讎,士?卒荀偃之事,是故春秋美其義,君子称其信.夫伯游之恨于斉,未若(文公)[太公]之忿曹;宣子之承業,未若仁君之継統也.且君子之違難不適讎国,豈可忘先君之怨,棄至親之好,為万世之戒,遺同盟之恥哉!冀州不弟之,既已然矣;仁君当降志辱身,以匡国為務;雖見憎於夫人,未若鄭荘之於姜氏,兄弟之嫌,未若重華之於象傲也.然荘公有大隧之楽,象受有鼻之封.願棄捐前忿,遠思旧義,復為母子昆弟如初.」又遺尚書曰:「知変起辛?郭,禍結同生,追閼伯?実沈之蹤,忘常棣死喪之義,親尋干戈,僵尸流血,聞之哽咽,雖存若亡.昔軒轅有?鹿之戦,周武有商?奄之師,皆所以翦除穢害而定王業,非彊弱之(事)争,喜怒之忿也.故雖滅親不為尤,誅兄不傷義.今二君初承洪業,纂継前軌,進有国家傾危之慮,退有先公遺恨之負,当唯義是務,唯国是康.何者?金木水火以剛柔相済,然後克得其和,能為民用.今青州天性峭急,迷于曲直.仁君度数弘広,綽然有余,当以大包小,以優容劣,先除曹操以卒先公之恨,事定之後,乃議曲直之計,不亦善乎!若留神遠図,克己復礼,当振?長駆,共?王室,若迷而不反,違而無改,則胡夷将有誚譲之言,況我同盟,復能?力為君之役哉?此韓盧?東郭自困於前而遺田父之獲者也.憤踴鶴望,冀聞和同之声.若其泰也,則袁族其与漢升降乎!如其否也,則同盟永無望矣.」譚?尚尽不従.漢晋春秋載審配献書於譚曰:「春秋之義,国君死社稷,忠臣死王命.苟有図危宗廟,敗乱国家,王綱典律,親?一也.是以周公垂泣而蔽管?蔡之獄,季友歔欷而行鍼叔之鴆.何則?義重人軽,事不得已也.昔?霊公廃??而立輒,??為不道,入戚以?,?師伐之.春秋伝曰:『以石曼姑之義,為可以拒之.』是以??終獲叛逆之罪,而曼姑永享忠臣之名.父子猶然,豈況兄弟乎!昔先公廃?将軍以続賢兄,立我将軍以為適嗣,上告祖霊,下書譜牒,先公謂将軍為兄子,将軍謂先公為叔父,海?遠近,誰不備聞?且先公即世之日,我将軍斬衰居廬,而将軍斎于堊室,出入之分,於斯益明.是時凶臣逢紀,妄画蛇足,曲辞諂媚,交乱懿親,将軍奮赫然之怒,誅不旋時,[我]将軍亦奉命承旨,加以淫刑.自是之後,癰疽破潰,骨肉無絲髪之嫌,自疑之臣,皆保生全之福.故悉遣彊胡,簡命名将,料整器械,選択戦士,殫府庫之財,竭食土之実,其所以供奉将軍,何求而不備?君臣相率,共?旌麾,戦為雁行,賦為幣主,雖傾倉覆庫,翦?民物,上下欣戴,莫敢告労.何則?推戀戀忠赤之情,尽家家肝腦之計,脣歯輔車,不相為賜.謂為将軍心合意同,混斉一体,必当幷威偶勢,禦寇寧家.何図凶険讒慝之人,造飾無端,誘導姦利,至令将軍翻然改図,忘孝友之仁,聴豺狼之謀,誣先公廃立之言,違近者在喪之位,悖紀綱之理,不顧逆順之節,横易冀州之主,欲当先公之継.遂放兵鈔撥,屠城殺吏,交尸盈原,裸民満野,或有??髪膚,割截支体,?魂痛於幽冥,創痍号於草棘.又乃図獲?城,許賜秦?胡,財物婦女,予有分界.或聞告令吏士云:『孤雖有老母,輒使身体完具而已.』聞此言者,莫不驚愕失気,悼心揮涕,使太夫人憂哀憤懣于堂室,我州君臣士友仮寐悲歎,無所措其手足;念欲静師拱黙以聴執事之図,則懼違春秋死命之節,貽太夫人不測之患,隕先公高世之業.且三軍憤慨,人懐私怒,我将軍辞不獲已,以及館陶之役.是時外為禦難,?実乞罪,既不見赦,而(屠辱谷)[屠各]二三其心,臨陳叛?.我将軍進退無功,首尾受敵,引軍奔避,不敢告辞.亦謂将軍当少垂親親之仁,?以緩追之恵,而乃尋蹤躡軌,無所逃命.困獣必?,以干厳行,而将軍師旅土崩瓦解,此非人力,乃天意也.是後又望将軍改往修来,克己復礼,追還孔懐如初之愛;而縦情肆怒,趣破家門,企踵鶴立,連結外讎,散鋒於火,播増毒螫,烽煙相望,?血千里,遺城厄民,引領悲怨,雖欲勿救,悪得已哉!故遂引軍東轅,保正疆?,雖近郊塁,未侵境域,然望旌麾,能不永歎?配等備先公家臣,奉廃立之命.而図等干国乱家,礼有常刑.故奮敝州之賦,以除将軍之疾,若乃天?于心,早行其誅,則我将軍匍匐悲号于将軍股掌之上,配等亦袒躬布体以待斧鉞之刑.若必不悛,有以国斃,図頭不県,軍不旋踵.願将軍詳度事宜,錫以環?.」典略曰:譚得書悵然,登城而泣.既劫于郭図,亦以兵鋒累交,遂戦不解.

[四] 先賢行?曰:配字正南,魏郡人,少忠烈慷慨,有不可犯之節.袁紹領冀州,委以腹心之任,以為治中別駕,幷総幕府.初,譚之去,皆呼辛??郭図家得出,而辛評家独被収.及配兄子開城門?兵,時配在城東南角楼上,望見太祖兵入,忿辛?郭壊敗冀州,乃遣人馳詣?獄,指殺仲治家.是時,辛?在軍,聞門開,馳走詣獄,欲解其兄家,兄家已死.是日生縛配,将詣帳下,辛?等逆以馬鞭?其頭,罵之曰:「奴,汝今日真死矣!」配顧曰:「狗輩,正由汝曹破我冀州,恨不得殺汝也!且汝今日能殺生我邪?」有頃,公引見,謂配:「知誰開卿城門?」配曰:「不知也.」曰:「自卿(文)[子]栄耳.」配曰:「小児不足用乃至此!」公復謂曰:「曩日孤之行囲,何弩之多也?」配曰:「恨其少耳!」公曰:「卿忠于袁氏父子,亦自不得不爾也.」有意欲活之.配既無撓辞,而辛?等号哭不已,乃殺之.初,冀州人張子謙先降,素与配不善,笑謂配曰:「正南,卿竟何如我?」配厲声曰:「汝為降虜,審配為忠臣,雖死,豈若汝生邪!」臨行刑,叱持兵者令北向,曰:「我君在北.」楽資山陽公載記及袁?献帝春秋並云太祖兵入城,審配戦于門中,既敗,逃于井中,於井獲之.臣松之以為配一代之烈士,袁氏之死臣,豈当数窮之日,方逃身于井,此之難信,誠為易了.不知資??之徒竟為何人,未能識別然否,而軽弄翰墨,妄生異端,以行其書.如此之類,正足以誣罔視聴,疑誤後生矣.寔史籍之罪人,達学之所不取者也.

 太祖之囲?也,譚略取甘陵?安平?勃海?河間,攻尚於中山.尚走故安従煕,譚悉収其?.太祖将討之,譚乃抜平原,幷南皮,自屯龍湊.十二月,太祖軍其門,譚不出,夜遁奔南皮,臨清河而屯.十年正月,攻抜之,斬譚及図等.煕?尚為其将焦触?張南所攻,奔遼西烏丸.触自号幽州刺史,駆率諸郡太守令長,背袁向曹,陳兵数万,殺白馬盟,令曰:「違命者斬!」?莫敢語,各以次歃.至別駕韓?,曰:「吾受袁公父子厚恩,今其破亡,智不能救,勇不能死,於義闕矣;若乃北面於曹氏,所弗能為也.」一坐為?失色.触曰:「夫興大事,当立大義,事之済否,不待一人,可卒?志,以励事君.」高幹叛,執上党太守,挙兵守壺口関.遣楽進?李典?之,未抜.十一年,太祖征幹.幹乃留其将夏昭?鄧升守城,自詣匈奴単于求救,不得,独与数騎亡,欲南奔荊州,上洛都尉捕斬之.[一]十二年,太祖至遼西?烏丸.尚?煕与烏丸逆軍戦,敗走奔遼東,公孫康誘斬之,送其首.[二]太祖高韓?節,?辟不至,卒於家.[三]

[一] 典略曰:上洛都尉王?獲高幹,以功封侯;其妻哭于室,以為?富貴将更娶妾?而奪己愛故也.

[二] 典略曰:尚為人有勇力,欲奪取康?,与煕謀曰:「今到,康必相見,欲与兄手?之,有遼東猶可以自広也.」康亦心計曰:「今不取煕?尚,無以為?於国家.」乃先置其精勇于?中,然後請煕?尚.煕?尚入,康伏兵出,皆縛之,坐于凍地.尚寒,求席,煕曰:「頭顱方行万里,何席之為!」遂斬首.譚,字顕思.煕,字顕奕.尚,字顕甫.?書曰:尚有弟名買,与尚?走遼東.曹瞞伝云:買,尚兄子.未詳.

[三] 先賢行?曰:?字子佩,代郡人,清粋有雅量.少喪父母,奉養兄?,宗族称孝悌焉.

袁術伝

 袁術字公路,司空逢子,紹之従弟也.以?気聞.挙孝廉,除郎中,?職?外,後為折衝校尉?虎賁中郎将.董卓之将廃帝,以術為後将軍;術亦畏卓之禍,出奔南陽.会長沙太守孫堅殺南陽太守張咨,術得拠其郡.南陽?口数百万,而術奢淫肆欲,?斂無度,百姓苦之.既与紹有隙,又与劉表不平而北連公孫?;紹与?不和而南連劉表.其兄弟携貳,舎近交遠如此.[一]引軍入陳留.太祖与紹合?,大破術軍.術以余?奔九江,殺揚州刺史陳?,領其州.[二]以張勲?橋?等為大将軍.李?入長安,欲結術為援,以術為左将軍,封陽?侯,仮節,遣太傅馬日?因循行拝授.術奪日?節,拘留不遣.[三]

[一] ?書曰:時議者以霊帝失道,使天下叛乱,少帝幼弱,為賊臣所立,又不識母氏所出.幽州牧劉虞宿有徳望,紹等欲立之以安当時,使人報術.術観漢室衰陵,陰懐異志,故外託公義以拒紹.紹復与術書曰:「前与韓文節共建永世之道,欲海?見再興之主.今西名有幼君,無血之属,公卿以下皆媚事卓,安可復信!但当使兵往屯関要,皆自蹙死于西.東立聖君,太平可冀,如何有疑!又室家見戮,不念子胥,可復北面乎?違天不祥,願詳思之.」術答曰:「聖主聰叡,有周成之質.賊卓因危乱之際,威服百寮,此乃漢家小厄之会.乱尚未厭,復欲興之.乃云今主『無血之属』,豈不誣乎!先人以来,奕世相承,忠義為先.太傅公仁慈惻隠,雖知賊卓必為禍害,以信徇義,不忍去也.門?滅?,死亡流漫,幸蒙遠近来相赴助,不因此時上討国賊,下刷家恥,而図於此,非所聞也.又曰『室家見戮,可復北面』,此卓所為,豈国家哉?君命,天也,天不可讎,況非君命乎!??赤心,志在滅卓,不識其他.」

[二] 臣松之案英雄記:「陳?字元悌,汝南人.先為揚州刺史,自病死.袁紹遣袁遺領州,敗散,奔沛国,為兵所殺.袁術更用陳?為揚州.?字公?,下?人.?既領州,而術敗于封丘,南向寿春,?拒術不納.術退保陰陵,更合軍攻?,?懼走帰下?.」如此,則?不為術所殺,与本伝不同.

[三] 三輔決?注曰:日?字翁叔,馬融之族子.少伝融業,以才学進.与楊彪?盧植?蔡?等典校中書,?位九卿,遂登台輔.献帝春秋曰:術従日?借節観之,因奪不還,備軍中千余人,使促辟之.日?謂術曰:「卿家先世諸公,辟士云何,而言促之,謂公府掾可劫得乎!」従術求去,而術留之不遣;既以失節屈辱,憂恚而死.

 時沛相下?陳珪,故太尉球弟子也.術与珪?公族子孫,少共交游,書与珪曰:「昔秦失其政,天下?雄争而取之,兼智勇者卒受其帰.今世事紛擾,復有瓦解之勢矣,誠英乂有為之時也.与足下旧交,豈肯左右之乎?若集大事,子実為吾心膂.」珪中子応時在下?,術並脅質応,図必致珪.珪答書曰:「昔秦末世,肆暴恣情,虐流天下,毒被生民,下不堪命,故遂土崩.今雖季世,未有亡秦苛暴之乱也.曹将軍神武応期,興復典刑,将撥平凶慝,清定海?,信有?矣.以為足下当?力同心,匡翼漢室,而陰謀不軌,以身試禍,豈不痛哉!若迷而知反,尚可以免.吾備旧知,故陳至情,雖逆于耳,骨肉之恵也.欲吾営私阿附,有犯死不能也.」

 興平二年冬,天子敗於曹陽.術会?下謂曰:「今劉氏微弱,海?鼎沸.吾家四世公輔,百姓所帰,欲応天順民,於諸君意如何?」?莫敢対.主簿閻象進曰:「昔周自后稷至于文王,積徳累功,三分天下有其二,猶服事殷.明公雖奕世克昌,未若有周之盛,漢室雖微,未若殷紂之暴也.」術?然不悦.用河?張之符命,遂僭号[一]以九江太守為淮南尹.置公卿,祠南北郊.荒侈滋甚,後宮数百皆服綺?,余粱肉,[二]而士卒凍餒,江淮間空尽,人民相食.術前為呂布所破,後為太祖所敗,奔其部曲雷薄?陳蘭于?山,復為所拒,憂懼不知所出.将帰帝号於紹,欲至青州従袁譚,発病道死.[三]妻子依術故吏廬江太守劉勲,孫策破勲,復見収視.術女入孫権宮,子燿拝郎中,燿女又配於権子奮.

[一] 典略曰:術以袁姓出陳,陳,舜之後,以土承火,得応運之次.又見讖文云:「代漢者,当塗高也.」自以名字当之,乃建号称仲氏.

[二] 九州春秋曰:司隷馮方女,国色也,避乱揚州,術登城見而悦之,遂納焉,甚愛幸.諸婦害其寵,語之曰:「将軍貴人有志節,当時時涕泣憂愁,必長見敬重.」馮氏以為然,後見術輒垂涕,術以有心志,益哀之.諸婦人因共絞殺,懸之廁梁,術誠以為不得志而死,乃厚加殯斂.

[三] 魏書曰:術帰帝号于紹曰:「漢之失天下久矣,天子提挈,政在家門,豪雄角逐,分裂疆宇,此与周之末年七国分勢無異,卒彊者兼之耳.加袁氏受命当王,符瑞炳然.今君擁有四州,民?百万,以彊則無与比大,論徳則無与比高.曹操欲扶衰拯弱,安能続?命救已滅乎?」紹陰然之.?書曰:術既為雷薄等所拒,留住三日,士??糧,乃還至江亭,去寿春八十里.問廚下,尚有麦屑三十斛.時盛暑,欲得蜜漿,又無蜜.坐櫺?上,歎息良久,乃大?曰:「袁術至于此乎!」因頓伏?下,嘔血斗余而死.

劉表伝

 劉表字景升,山陽高平人也.少知名,号八俊.[一]長八尺余,姿貌甚偉.以大将軍掾為北軍中候.霊帝崩,代王叡為荊州刺史.是時山東兵起,表亦合兵軍襄陽.[二]袁術之在南陽也,与孫堅合従,欲襲奪表州,使堅攻表.堅為流矢所中死,軍敗,術遂不能勝表.李?・郭氾入長安,欲連表為援,乃以表為鎮南将軍・荊州牧,封成武侯,仮節.天子都許,表雖遣使貢献,然北与袁紹相結.治中鄧羲諫表,表不聴,[三]羲辞疾而退,終表之世.張済引兵入荊州界,攻穣城,為流矢所中死.荊州官属皆賀,表曰:「済以窮来,主人無礼,至于交鋒,此非牧意,牧受弔,不受賀也.」使人納其?;?聞之喜,遂服従.長沙太守張羨叛表,[四]表囲之連年不下.羨病死,長沙復立其子懌,表遂攻幷懌,南収零・桂,北拠漢川,地方数千里,帯甲十余万.[五]

[一] 張?漢紀曰:表与同郡人張隠・薛郁・王訪・宣靖・(公?恭)[公緒恭]・劉祗・田林為八交,或謂之八顧.漢末名士?云:表与汝南陳翔字仲麟・范滂字孟博・魯国孔昱字世元・勃海苑康字仲真・山陽?敷字文友・張倹字元節・南陽岑?字公孝為八友.謝承後漢書曰:表受学於同郡王暢.暢為南陽太守,行過乎倹.表時年十七,進諫曰:「奢不僭上,倹不逼下,蓋中庸之道,是故?伯玉恥独為君子.府君若不師孔聖之明訓,而慕夷斉之末操,無乃皎然自遺於世!」暢答曰:「以約失之者鮮矣.且以矯俗也.」

[二] 司馬彪戦略曰:劉表之初為荊州也,江南宗賊盛,袁術屯魯陽,尽有南陽之?.?人蘇代領長沙太守,貝羽為華容長,各阻兵作乱.表初到,単馬入宜城,而延中廬人?良・?越・襄陽人蔡瑁与謀.表曰:「宗賊甚盛,而?不附,袁術因之,禍今至矣!吾欲?兵,恐不集,其策安出?」良曰:「?不附者,仁不足也,附而不治者,義不足也;苟仁義之道行,百姓帰之如水之趣下,何患所至之不従而問興兵与策乎?」表顧問越,越曰:「治平者先仁義,治乱者先権謀.兵不在多,在得人也.袁術勇而無断,蘇代・貝羽皆武人,不足慮.宗賊帥多貪暴,為下所患.越有所素養者,使示之以利,必以?来.君誅其無道,撫而用之.一州之人,有楽存之心,聞君盛徳,必襁負而至矣.兵集?附,南拠江陵,北守襄陽,荊州八郡可伝檄而定.術等雖至,無能為也.」表曰:「子柔之言,雍季之論也.異度之計,臼犯之謀也.」遂使越遣人誘宗賊,至者五十五人,皆斬之.襲取其?,或即授部曲.唯江夏賊張虎・陳生擁?拠襄陽,表乃使越与?季単騎往?降之,江南遂悉平.

[三] 漢晋春秋曰:表答羲曰:「?不失貢職,外不背盟主,此天下之達義也.治中独何怪乎?」

[四] 英雄記曰:張羨,南陽人.先作零陵・桂陽長,甚得江・湘間心,然性屈彊不順.表薄其為人,不甚礼也.羨由是懐恨,遂叛表焉.

[五] 英雄記曰:州界?寇既尽,表乃開立学官,博求儒士,使?毋?・宋忠等撰五経章句,謂之後定.

 太祖与袁紹方相持于官渡,紹遣人求助,表許之而不至,亦不佐太祖,欲保江漢間,観天下変.従事中郎韓嵩・別駕劉先?表曰:「豪傑並争,両雄相持,天下之重,在於将軍.将軍若欲有為,起乗其弊可也;若不然,固将択所従.将軍擁十万之?,安坐而観望.夫見賢而不能助,請和而不得,此両怨必集於将軍,将軍不得中立矣.夫以曹公之明哲,天下賢俊皆帰之,其勢必挙袁紹,然後称兵以向江漢,恐将軍不能禦也.故為将軍計者,不若挙州以附曹公,曹公必重徳将軍;長享福祚,垂之後嗣,此万全之策也.」表大将?越亦勧表,表狐疑,乃遣嵩詣太祖以観?実.嵩還,深陳太祖威徳,?表遣子入質.表疑嵩反為太祖?,大怒,欲殺嵩,考殺随嵩行者,知嵩無他意,乃止.[一]表雖外貌儒雅,而心多疑忌,皆此類也.

[一] 傅子曰:初表謂嵩曰:「今天下大乱,未知所定,曹公擁天子都許,君為我観其釁.」嵩対曰:「聖達節,次守節.嵩,守節者也.夫事君為君,君臣名定,以死守之;今策名委質,唯将軍所命,雖赴湯蹈火,死無辞也.以嵩観之,曹公至明,必済天下.将軍能上順天子,下帰曹公,必享百世之利,楚国実受其祐,使嵩可也;設計未定,嵩使京師,天子仮嵩一官,則天子之臣,而将軍之故吏耳.在君為君,則嵩守天子之命,義不得復為将軍死也.唯将軍重思,無負嵩.」表遂使之,果如所言,天子拝嵩侍中,遷零陵太守,還称朝廷・曹公之徳也.表以為懐貳,大会寮属数百人,陳兵見嵩,盛怒,持節将斬之,数曰:「韓嵩敢懐貳邪!」?皆恐,欲令嵩謝.嵩不動,謂表曰:「将軍負嵩,嵩不負将軍!」具陳前言.表怒不已,其妻蔡氏諫之曰:「韓嵩,楚国之望也;且其言直,誅之無辞.」表乃弗誅而囚之.

 劉備奔表,表厚待之,然不能用.[一]建安十三年,太祖征表,未至,表病死.

[一] 漢晋春秋曰:太祖之始征柳城,劉備?表使襲許,表不従.及太祖還,謂備曰:「不用君言,故失此大会也.」備曰:「今天下分裂,日尋干戈,事会之来,豈有終極乎?若能応之於後者,則此未足為恨也.」

 初,表及妻愛少子琮,欲以為後,而蔡瑁・張允為之支党,乃出長子琦為江夏太守,?遂奉琮為嗣.琦与琮遂為讎隙.[一]越・嵩及東曹掾傅巽等?琮帰太祖,琮曰:「今与諸君拠全楚之地,守先君之業,以観天下,何為不可乎?」巽対曰:「逆順有大体,彊弱有定勢.以人臣而拒人主,逆也;以新造之楚而禦国家,其勢弗当也;以劉備而敵曹公,又弗当也.三者皆短,欲以抗王兵之鋒,必亡之道也.将軍自料何与劉備?」琮曰:「吾不若也.」巽曰:「誠以劉備不足禦曹公乎,則雖保楚之地,不足以自存也;誠以劉備足禦曹公乎,則備不為将軍下也.願将軍勿疑.」太祖軍到襄陽,琮挙州降.備走奔夏口.[二]

[一] 典略曰:表疾病,琦還省疾.琦性慈孝,瑁・允恐琦見表,父子相感,更有託後之意,謂曰:「将軍命君撫臨江夏,為国東藩,其任至重;今釈?而来,必見譴怒,傷親之歓心以増其疾,非孝敬也.」遂遏于?外,使不得見,琦流涕而去.

[二] 傅子曰:巽子公悌,偉博達,有知人鑑.辟公府,拝尚書郎,後客荊州,以?劉琮之功,賜爵関?侯.文帝時為侍中,太和中卒,巽在荊州,目?統為半英雄,証裴潜終以清行顕;統遂附劉備,見待次于諸葛亮,潜位至尚書令,並有名徳.及在魏朝,魏諷以才智聞,巽謂之必反,卒如其言.巽弟子?,別有伝.漢晋春秋曰:王威?劉琮曰:「曹操得将軍既降,劉備已走,必解弛無備,軽行単進;若給威奇兵数千,徼之於険,操可獲也.獲操即威震天下,坐而虎?,中夏雖広,可伝檄而定,非徒収一勝之功,保守今日而已.此難遇之機,不可失也.」琮不納.捜神記曰:建安初,荊州童謡曰:「八九年間始欲衰,至十三年無孑遺.」言自(中興)[中平]以来,荊州独全,及劉表為牧,民又豊楽,至建安八年九年当始衰.始衰者,謂劉表妻死,諸将並零落也.十三年無孑遺者,表当又死,因以喪破也.是時,華容有女子忽啼呼云:「荊州将有大喪.」言語過差,県以為妖言,?獄月余,忽于獄中哭曰:「劉荊州今日死.」華谷去州数百里,即遣馬吏験視,而劉表果死,県乃出之.続又歌吟曰:「不意李立為貴人.」後無幾,太祖平荊州,以?郡李立字建賢為荊州刺史.

 太祖以琮為青州刺史・封列侯.[一]?越等侯者十五人.越為光禄勲;[二]嵩,大鴻臚;[三]羲,侍中;[四]先,尚書令;其余多至大官.[五]

[一] 魏武故事載令曰:「楚有江・漢山川之険,後服先疆,与秦争衡,荊州則其故地.劉鎮南久用其民矣.身没之後,諸子鼎峙,雖終難全,猶可引日.青州刺史琮,心高志潔,智深慮広,軽栄重義,薄利厚徳,蔑万里之業,忽三軍之?,篤中正之体,教令名之誉,上耀先君之遺塵,下図不朽之余祚;鮑永之棄幷州,竇融之離五郡,未足以?也.雖封列侯一州之位,猶恨此寵未副其人;而比有牋求還州.監史雖尊,秩禄未優.今聴所執,表琮為諫議大夫,参同軍事.」

[二] 傅子曰:越,?通之後也,深中足智,魁傑有雄姿.大将軍何進聞其名,辟為東曹掾.越勧進誅諸閹官,進猶予不決.越知進必敗,求出為汝陽令,佐劉表平定境?,表得以彊大.詔書拝章陵太守,封樊亭侯.荊州平,太祖与荀彧書曰:「不喜得荊州,喜得?異度耳.」建安十九年卒.臨終,与太祖書,託以門?.太祖報書曰:「死者反生,生者不愧.孤少所挙,行之多矣.魂而有霊,亦将聞孤此言也.」

[三] 先賢行?曰:嵩字徳高,義陽人.少好学,貧不改操.知世将乱,不応三公之命,与同好数人隠居于?西山中.?巾起,嵩避難南方,劉表逼以為別駕,転従事中郎.表郊祀天地,嵩正諫不従,漸見違忤.奉使到許,事在前注.荊州平,嵩疾病,就在所拝授大鴻臚印綬.

[四] 羲,章陵人.

[五] 零陵先賢伝曰:先字始宗,博学彊記,尤好?老言,明習漢家典故.為劉表別駕,奉章詣許,見太祖.時賓客並会,太祖問先:「劉牧如何郊天也?」先対曰:「劉牧託漢室肺腑,処牧伯之位,而遭王道未平,?凶塞路,抱玉帛而無所聘?,修章表而不獲達御,是以郊天祀地,昭告赤誠.」太祖曰:「?凶為誰?」先曰:「挙目皆是.」太祖曰:「今孤有熊羆之士,?騎十万,奉辞伐罪,誰敢不服?」先曰:「漢道陵遅,?生憔悴,既無忠義之士,翼戴天子,綏寧海?,使万邦帰徳,而阻兵安忍,曰莫己若,既蚩尤・智伯復見于今也.」太祖?然.拝先武陵太守.荊州平,先始為漢尚書,後為魏国尚書令.先甥同郡周不疑,字元直,零陵人.先賢伝称不疑幼有異才,聰明敏達,太祖欲以女妻之,不疑不敢当.太祖愛子倉舒,夙有才智,謂可与不疑為儔.及倉舒卒,太祖心忌不疑,欲除之.文帝諫以為不可,太祖曰:「此人非汝所能駕御也.」乃遣刺客殺之.摯虞文章志曰:不疑死時年十七,著文論四首.世語曰:表死後八十余年,至晋太康中,表?見発.表及妻身形如生,芬香聞数里.

 評曰:董卓狼?賊忍,暴虐不仁,自書契已来,殆未之有也.[一]袁術奢淫放肆,栄不終己,自取之也.[二]袁紹・劉表,咸有威容・器観,知名当世.表跨蹈漢南,紹鷹揚河朔,然皆外寛?忌,好謀無決,有才而不能用,聞善而不能納,廃嫡立庶,舎礼崇愛,至于後嗣顚蹙,社稷傾覆,非不幸也.昔項羽背范増之謀,以喪其王業;紹之殺田豊,乃甚於羽遠矣!

[一] 英雄記曰:昔大人見臨?而銅人鋳,臨?生卓而銅人毀;世有卓而大乱作,大乱作而卓身滅,抑有以也.

[二] 臣松之以為桀・紂無道,秦・莽縦虐,皆多?年所,然後?悪乃著.董卓自竊権柄,至于隕斃,計其日月,未盈三周,而禍崇山岳,毒流四海.其残賊之性,寔豺狼不若.「書契未有」,斯言為当.但評既曰「賊忍」,又云「不仁」,賊忍,不仁,於辞為重.袁術無毫芒之功,繊介之善,而猖狂于時,妄自尊立,固義夫之所扼腕,人鬼之所同疾.雖復恭倹節用,而猶必覆亡不暇,而評但云「奢淫不終」,未足見其大悪.

魏書六 董二袁劉傳第六

董卓傳

董卓字仲穎,隴西臨洮人也.[一]少好俠,嘗游羌中,盡與諸豪帥相結.後歸耕於野,而豪帥有來從之者,卓與俱還,殺耕牛與相宴樂.諸豪帥感其意,歸相斂,得雜畜千餘頭以贈卓.[二]漢桓帝末,以六郡良家子為羽林郞.卓有才武,膂力少比,雙帶兩鞬,左右馳射.為軍司馬,從中郞將張奐征幷州有功,拜郞中,賜縑九千匹,卓悉以分與吏士.遷廣武令﹑蜀郡北部都尉﹑西域戊己校尉,免.徵拜幷州刺史﹑河東太守,[三]遷中郞將,討黃巾,軍敗抵罪.韓遂等起涼州,復為中郞將,西拒遂.於望垣硤北,為羌﹑胡數萬人所圍,糧食乏絕.卓僞欲捕魚,堰其還道當所渡水為池,使水渟滿數十里,默從堰下過其軍而決堰.比羌﹑胡聞知追逐,水已深,不得渡.時六軍上隴西,五軍敗績,卓獨全眾而還,屯住扶風.拜前將軍,封斄鄕侯,徵為幷州牧.[四]

[一] 英雄記曰:卓父君雅,由微官為潁川綸氏尉.有三子:長子擢,字孟高,早卒;次卽卓;卓弟旻字叔穎.

[二] 吳書曰:郡召卓為吏,使監領盜賊.胡嘗出鈔,多虜民人,涼州刺史成就辟卓為從事,使領兵騎討捕,大破之,斬獲千計.幷州刺史段熲薦卓公府,司徒袁隗辟為掾.

[三] 英雄記曰:卓數討羌﹑胡,前後百餘戰.

[四] 靈帝紀曰:中平五年,徵卓為少府,勑以營吏士屬左將軍皇甫嵩,詣行在所.卓上言:「涼州擾亂,鯨鯢未滅,此臣奮發効命之秋.吏士踴躍,戀恩念報,各遮臣車,辭聲懇惻,未得卽路也.輒且行前將軍事,盡心慰卹,效力行陣.」六年,以卓為幷州牧,又勑以吏兵屬皇甫嵩.卓復上言:「臣掌戎十年,士卒大小,相狎彌久,戀臣畜養之恩,樂為國家奮一旦之命,乞將之州,效力邊陲.」卓再違詔勑,會為何進所召.

靈帝崩,少帝卽位.大將軍何進與司隸校尉袁紹謀誅諸閹官,太后不從.進乃召卓使將兵詣京師,幷密令上書曰:「中常侍張讓等竊幸乘寵,濁亂海內.昔趙鞅興晉陽之甲,以逐君側之惡.臣輒鳴鐘鼓如洛陽,卽討讓等.」欲以脅迫太后.卓未至,進敗.[一]中常侍段珪等劫帝走小平津,卓遂將其眾迎帝於北芒,還宮.[二]時進弟車騎將軍苗為進眾所殺,[三]進﹑苗部曲無所屬,皆詣卓.卓又使呂布殺執金吾丁原,幷其眾,故京都兵權唯在卓.[四]

[一] 續漢書曰:進字遂高,南陽人,太后異母兄也.進本屠家子,父曰眞.眞死後,進以妹倚黃門得入掖庭,有寵,光和三年立為皇后,進由是貴幸.中平元年,黃巾起,拜進大將軍. 典略載卓表曰:「臣伏惟天下所以有逆不止者,各由黃門常侍張讓等侮慢天常,操擅王命,父子兄弟並據州郡,一書出門,便獲千金,京畿諸郡數百萬膏腴美田皆屬讓等,至使怨氣上蒸,妖賊蠭起.臣前奉詔討於扶羅,將士飢乏,不肯渡河,皆言欲詣京師先誅閹豎以除民害,從臺閣求乞資直.臣隨慰撫,以至新安.臣聞揚湯止沸,不如滅火去薪,潰癰雖痛,勝於養肉,及溺呼船,悔之無及.」

[二] 張璠漢紀曰:帝以八月庚午為諸黃門所劫,步出穀門,走至河上.諸黃門旣投河死.時帝年十四,陳留王年九歲,兄弟獨夜步行欲還宮,闇暝,逐螢火而行,數里,得民家以露車載送.辛未,公卿以下與卓共迎帝於北芒阪下. 獻帝春秋曰:先是童謠曰:「侯非侯,王非王,千乘萬騎走北芒.」卓時適至,屯顯陽苑.聞帝當還,率眾迎帝. 典略曰:帝望見卓兵涕泣.羣公謂卓曰:「有詔卻兵.」卓曰:「公諸人為國大臣,不能匡正王室,至使國家播蕩,何卻兵之有!」遂俱入城. 獻帝紀曰:卓與帝語,語不可了.乃更與陳留王語,問禍亂由起;王答,自初至終,無所遺失.卓大喜,乃有廢立意. 英雄記曰:河南中部掾閔貢扶帝及陳留王上至雒舍止.帝獨乘一馬,陳留王與貢共乘一馬,從雒舍南行.公卿百官奉迎於北芒阪下,故太尉崔烈在前導.卓將步騎數千來迎,烈呵使避,卓罵烈曰:「晝夜三百里來,何云避,我不能斷卿頭邪?」前見帝曰:「陛下令常侍小黃門作亂乃爾,以取禍敗,為負不小邪?」又趨陳留王,曰:「我董卓也,從我抱來.」乃於貢抱中取王. 英雄記曰:一本云王不就卓抱,卓與王併馬而行也.

[三] 英雄記云:苗,太后之同母兄,先嫁朱氏之子.進部曲將吳匡,素怨苗不與進同心,又疑其與宦官通謀,乃令軍中曰:「殺大將軍者,車騎也.」遂引兵與卓弟旻共攻殺苗於朱爵闕下.

[四] 九州春秋曰:卓初入洛陽,步騎不過三千,自嫌兵少,不為遠近所服;率四五日,輒夜遣兵出四城門,明日陳旌鼓而入,宣言云「西兵復入至洛中」.人不覺,謂卓兵不可勝數.

先是,進遣騎都尉太山鮑信所在募兵,適至,信謂紹曰:「卓擁彊兵,有異志,今不早圖,將為所制;及其初至疲勞,襲之可禽也.」紹畏卓,不敢發,信遂還鄕里.

於是以久不雨,策免司空劉弘而卓代之,俄遷太尉,假節鉞虎賁.遂廢帝為弘農王.尋又殺王及何太后.立靈帝少子陳留王,是為獻帝.[一]卓遷相國,封郿侯,贊拜不名,劔履上殿,又封卓母為池陽君,置家令﹑丞.卓旣率精兵來,適値帝室大亂,得專廢立,據有武庫甲兵,國家珍寶,威震天下.卓性殘忍不仁,遂以嚴刑脅眾,睚眦之隙必報,人不自保.[二]嘗遣軍到陽城.時値二月社,民各在其社下,悉就斷其男子頭,駕其車牛,載其婦女財物,以所斷頭繫車轅軸,連軫而還洛,云攻賊大獲,稱萬歲.入開陽城門,焚燒其頭,以婦女與甲兵為婢妾.至於姦亂宮人公主.其凶逆如此.

[一] 獻帝紀曰:卓謀廢帝,會羣臣於朝堂,議曰:「大者天地,次者君臣,所以為治.今皇帝闇弱,不可以奉宗廟,為天下主.欲依伊尹﹑霍光故事,立陳留王,何如?」尚書盧植曰:「案尚書太甲旣立不明,伊尹放之桐宮.昌邑王立二十七日,罪過千餘,故霍光廢之.今上富於春秋,行未有失,非前事之比也.」卓怒,罷坐,欲誅植,侍中蔡邕勸之,得免.九月甲戌,卓復大會羣臣曰:「太后逼迫永樂太后,令以憂死,逆婦姑之禮,無孝順之節.天子幼質,軟弱不君.昔伊尹放太甲,霍光廢昌邑,著在典籍,僉以為善.今太后宜如太甲,皇帝宜如昌邑.陳留王仁孝,宜卽皇帝祚.」 獻帝起居注載策曰:「孝靈皇帝不究高宗眉壽之祚,早棄臣子.皇帝承紹,海內側望,而帝天姿輕佻,威儀不恪,在喪慢惰,衰如故焉;凶德旣彰,淫穢發聞,損辱神器,忝汚宗廟.皇太后教無母儀,統政荒亂.永樂太后暴崩,眾論惑焉.三綱之道,天地之紀,而乃有闕,罪之大者.陳留王協,聖德偉茂,規矩邈然,豐下兌上,有堯圖之表;居喪哀戚,言不及邪,岐嶷之性,有周成之懿.休聲美稱,天下所聞,宜承洪業,為萬世統,可以承宗廟.廢皇帝為弘農王.皇太后還政.」尚書讀冊畢,羣臣莫有言,尚書丁宮曰:「天禍漢室,喪亂弘多.昔祭仲廢忽立突,春秋大其權.今大臣量宜為社稷計,誠合天人,請稱萬歲.」卓以太后見廢,故公卿以下不布服,會葬,素衣而已.

[二] 魏書曰:卓所願無極,語賓客曰:「我相,貴無上也.」 英雄記曰:卓欲震威,侍御史擾龍宗詣卓白事,不解劍,立撾殺之,京師震動.發何苗棺,出其尸,枝解節棄於道邊.又收苗母舞陽君殺之,棄尸於苑枳落中,不復收斂.

初,卓信任尚書周毖﹑城門校尉伍瓊等,用其所擧韓馥﹑劉岱﹑孔伷﹑張資﹑張邈等出宰州郡.而馥等至官,皆合兵將以討卓.卓聞之,以為毖﹑瓊等通情賣己,皆斬之.[一]

[一] 英雄記曰:毖字仲遠,武威人.瓊字德瑜,汝南人. 謝承後漢書曰:伍孚字德瑜,少有大節,為郡門下書佐.其本邑長有罪,太守使孚出教,勑曹下督郵收之.孚不肯受教,伏地仰諫曰:「君雖不君,臣不可不臣,明府柰何令孚受教,勑外收本邑長乎?更乞授他吏.」太守奇而聽之.後大將軍何進辟為東曹屬,稍遷侍中﹑河南尹﹑越騎校尉.董卓作亂,百僚震慄.孚著小鎧,於朝服裏挾佩刀見卓,欲伺便刺殺之.語闋辭去,卓送至閤中,孚因出刀刺之.卓多力,退卻不中,卽收孚.卓曰:「卿欲反邪?」孚大言曰:「汝非吾君,吾非汝臣,何反之有?汝亂國簒主,罪盈惡大,今是吾死日,故來誅姦賊耳,恨不車裂汝於市朝以謝天下.」遂殺孚. 謝承記孚字及本郡,則與瓊同,而致死事乃與孚異也,不知孚為瓊之別名,為別有伍孚也?蓋未詳之.

河內太守王匡,遣泰山兵屯河陽津,將以圖卓.卓遣疑兵若將於平陰渡者,潛遣銳眾從小平北渡,繞擊其後,大破之津北,死者略盡.卓以山東豪傑並起,恐懼不寧.初平元年二月,乃徙天子都長安.焚燒洛陽宮室,悉發掘陵墓,取寶物.[一]卓至西京,為太師,號曰尚父.乘靑蓋金華車,爪畫兩轓,時人號曰竿摩車.[二]卓弟旻為左將軍,封鄠侯;兄子璜為侍中﹑中軍校尉典兵;宗族內外並列朝廷.[三]公卿見卓,謁拜車下,卓不為禮.召呼三臺尚書以下自詣卓府啓事.[四]築郿塢,高與長安城埓,積穀為三十年儲,[五]云事成,雄據天下,不成,守此足以畢老.嘗至郿行塢,公卿已下祖道於橫門外.橫音光.卓豫施帳幔飲,誘降北地反者數百人,於坐中先斷其舌,或斬手足,或鑿眼,或鑊煮之,未死,偃轉杯案閒,會者皆戰慄亡失匕箸,而卓飲食自若.太史望氣,言當有大臣戮死者.故太尉張溫時為衞尉,素不善卓,卓心怨之,因天有變,欲以塞咎,使人言溫與袁術交關,遂笞殺之.[六]法令苛酷,愛憎淫刑,更相被誣,寃死者千數.百姓嗷嗷,道路以目.[七]悉椎破銅人﹑鍾虡,及壞五銖錢.更鑄為小錢,大五分,無文章,肉好無輪郭,不磨鑢.於是貨輕而物貴,穀一斛至數十萬.自是後錢貨不行.

[一] 華嶠漢書曰:卓欲遷長安,召公卿以下大議.司徒楊彪曰:「昔盤庚五遷,殷民胥怨,故作三篇以曉天下之民.而海內安穩,無故移都,恐百姓驚動,麋沸蟻聚為亂.」卓曰:「關中肥饒,故秦得幷呑六國.今徙西京,設令關東豪彊敢有動者,以我彊兵踧之,可使詣滄海.」彪曰:「海內動之甚易,安之甚難.又長安宮室壞敗,不可卒復.」卓曰:「武帝時居杜陵南山下,有成瓦窑數千處,引涼州材木東下以作宮室,為功不難.」卓意不得,便作色曰:「公欲沮我計邪?邊章﹑韓約有書來,欲令朝廷必徙都.若大兵來下,我不能復相救,公便可與袁氏西行.」彪曰:「西方自彪道徑也,顧未知天下何如耳!」議罷.卓勑司隸校尉宣璠以災異劾奏,因策免彪. 續漢書曰:太尉黃琬﹑司徒楊彪﹑司空荀爽俱詣卓,卓言:「昔高祖都關中,十一世後中興,更都洛陽.從光武至今復十一世,案石苞室讖,宜復還都長安.」坐中皆驚愕,無敢應者.彪曰:「遷都改制,天下大事,皆當因民之心,隨時之宜.昔盤庚五遷,殷民胥怨,故作三篇以曉之.往者王莽簒逆,變亂五常,更始赤眉之時,焚燒長安,殘害百姓,民人流亡,百無一在.光武受命,更都洛邑,此其宜也.今方建立聖主,光隆漢祚,而無故捐宮廟,棄園陵,恐百姓驚愕,不解此意,必麋沸蟻聚以致擾亂.石苞室讖,妖邪之書,豈可信用?」卓作色曰:「楊公欲沮國家計邪?關東方亂,所在賊起.崤函險固,國之重防.又隴右取材,功夫不難.杜陵南山下有孝武故陶處,作塼瓦,一朝可辦.宮室官府,蓋何足言!百姓小民,何足與議.若有前卻,我以大兵驅之,豈得自在.」百寮恐怖失色.琬謂卓曰:「此大事.楊公之語,得無重思!」卓罷坐,卽日令司隸奏彪及琬,皆免官.大駕卽西.卓部兵燒洛陽城外面百里.又自將兵燒南北宮及宗廟﹑府庫﹑民家,城內埽地殄盡.又收諸富室,以罪惡沒入其財物;無辜而死者,不可勝計. 獻帝記曰:卓獲山東兵,以豬膏塗布十餘匹,用纏其身,然後燒之,先從足起.獲袁紹豫州從事李延,煮殺之.卓所愛胡,恃寵放縱,為司隸校尉趙謙所殺.卓大怒曰:「我愛狗,尚不欲令人呵之,而況人乎!」乃召司隸都官撾殺之.

[二] 魏書曰:言其逼天子也. 獻帝紀曰;卓旣為太師,復欲稱尚父,以問蔡邕.邕曰:「昔武王受命,太公為師,輔佐周室,以伐無道,是以天下尊之,稱為尚父.今公之功德誠為巍巍,宜須關東悉定,車駕東還,然後議之.」乃止.京師地震,卓又問邕.邕對曰:「地動陰盛,大臣踰制之所致也.公乘靑蓋車,遠近以為非宜.」卓從之,更乘金華皁蓋車也.

[三] 英雄記曰:卓侍妾懷抱中子,皆封侯,弄以金紫.孫女名白,時尚未笄,封為渭陽君.於郿城東起壇,從廣二丈餘,高五六尺,使白乘軒金華靑蓋車,都尉﹑中郞將﹑刺史千石在郿者,各令乘軒簪筆,為白導從,之壇上,使兄子璜為使者授印綬.

[四] 山陽公載記曰:初卓為前將軍,皇甫嵩為左將軍,俱征韓遂,各不相下.後卓徵為少府幷州牧,兵當屬嵩,卓大怒.及為太師,嵩為御史中丞,拜於車下.卓問嵩:「義眞服未乎?」嵩曰:「安知明公乃至於是!」卓曰:「鴻鵠固有遠志,但燕雀自不知耳.」嵩曰:「昔與明公俱為鴻鵠,不意今日變為鳳皇耳.」卓笑曰:「卿早服,今日可不拜也.」 張璠漢紀曰:卓抵其手謂皇甫嵩曰:「義眞怖未乎?」嵩對曰:「明公以德輔朝廷,大慶方至,何怖之有?若淫刑以逞,將天下皆懼,豈獨嵩乎?」卓默然,遂與嵩和解.

[五] 英雄記曰:郿去長安二百六十里.

[六] 傅子曰:靈帝時牓門賣官,於是太尉段熲﹑司徒崔烈﹑太尉樊陵﹑司空張溫之徒,皆入錢上千萬下五百萬以買三公.熲數征伐有大功,烈有北州重名,溫有傑才,陵能偶時,皆一時顯士,猶以貨取位,而況於劉囂﹑唐珍﹑張顥之黨乎! 風俗通曰:司隸劉囂,以黨諸常侍,致位公輔. 續漢書曰:唐珍,中常侍唐衡弟.張顥,中常侍張奉弟.

[七] 魏書曰:卓使司隸校尉劉囂籍吏民有為子不孝,為臣不忠,為吏不清,為弟不順,有應此者皆身誅,財物沒官.於是愛憎互起,民多寃死.

三年四月,司徒王允﹑尚書僕射士孫瑞﹑卓將呂布共謀誅卓.是時,天子有疾新愈,大會未央殿.布使同郡騎都尉李肅等,將親兵十餘人,僞著衞士服守掖門.布懷詔書.卓至,肅等格卓.卓驚呼布所在.布曰「有詔」,遂殺卓,夷三族.主簿田景前趨卓尸,布又殺之;凡所殺三人,餘莫敢動.[一]長安士庶咸相慶賀,諸阿附卓者皆下獄死.[二]

[一] 英雄記曰:時有謠言曰:「千里艸,何靑靑,十日卜,猶不生.」又作董逃之歌.又有道士書布為「呂」字以示卓,卓不知其為呂布也.卓當入會,陳列步騎,自營至宮,朝服導引行其中.馬躓不前,卓心怪欲止,布勸使行,乃衷甲而入.卓旣死,當時日月清淨,微風不起.旻﹑璜等及宗族老弱悉在郿,皆還,為其羣下所斫射.卓母年九十,走至塢門曰「乞脫我死」,卽斬首.袁氏門生故吏,改殯諸袁死於郿者,斂聚董氏尸於其側而焚之.暴卓尸於市.卓素肥,膏流浸地,草為之丹.守尸吏暝以為大炷,置卓臍中以為燈,光明達旦,如是積日.後卓故部曲收所燒者灰,幷以一棺棺之,葬於郿.卓塢中金有二三萬斤,銀八九萬斤,珠玉錦綺奇玩雜物皆山崇阜積,不可知數.

[二] 謝承後漢書曰:蔡邕在王允坐,聞卓死,有歎惜之音.允責邕曰:「卓,國之大賊,殺主殘臣,天地所不祐,人神所同疾.君為王臣,世受漢恩,國主危難,曾不倒戈,卓受天誅,而更嗟痛乎?」便使收付廷尉.邕謝允曰:「雖以不忠,猶識大義,古今安危,耳所厭聞,口所常玩,豈當背國而向卓也?狂瞽之詞,謬出患入,願黥首為刑以繼漢史.」公卿惜邕才,咸共諫允.允曰:「昔武帝不殺司馬遷,使作謗書,流於後世.方今國祚中衰,戎馬在郊,不可令佞臣執筆在幼主左右,後令吾徒並受謗議.」遂殺邕. 臣松之以為蔡邕雖為卓所親任,情必不黨.寧不知卓之姦凶,為天下所毒,聞其死亡,理無歎惜.縱復令然,不應反言於王允之坐.斯殆謝承之妄記也.史遷紀傳,博有奇功於斯世,而云王允謂孝武應早殺遷,此非識者之言.但遷為不隱孝武之失,直書其事耳,何謗之有乎?王允之忠正,可謂內省不疚者矣,旣無懼於謗,且欲殺邕,當論邕應死與不,豈可慮其謗己而枉戮善人哉!此皆誣罔不通之甚者. 張璠漢紀曰:初,蔡邕以言事見從,名聞天下,義動志士.及還,內寵惡之.邕恐,乃亡命海濱,往來依太山羊氏,積十年.卓為太尉,辟為掾,以高第為侍御史治書,三日中遂至尚書.後遷巴東太守,卓上留拜侍中,至長安為左中郞將.卓重其才,厚遇之.每有朝廷事,常令邕具草.及允將殺邕,時名士多為之言,允悔欲止,而邕已死.

初,卓女壻中郞將牛輔典兵別屯陝,分遣校尉李傕﹑郭氾﹑張濟略陳留﹑潁川諸縣.卓死,呂布使李肅至陝,欲以詔命誅輔.輔等逆與肅戰,肅敗走弘農,布誅肅.[一]其後輔營兵有夜叛出者,營中驚,輔以為皆叛,乃取金寶,獨與素所厚友胡赤兒等五六人相隨,踰城北渡河,赤兒等利其金寶,斬首送長安.

[一] 魏書曰:輔恇怯失守,不能自安.常把辟兵符,以鈇鑕致其旁,欲以自彊.見客,先使相者相之,知有反氣與不,又筮知吉凶,然後乃見之.中郞將董越來就輔,輔使筮之,得兌下離上,筮者曰:「火勝金,外謀內之卦也.」卽時殺越. 獻帝紀云:筮人常為越所鞭,故因此以報之.

李傕﹑郭氾傳

比傕等還,輔已敗,眾無所依,欲各散歸.旣無赦書,而聞長安中欲盡誅涼州人,憂恐不知所為.用賈詡策,遂將其眾而西,所在收兵,比至長安,眾十餘萬,[一]與卓故部曲樊稠﹑李蒙﹑王方等合圍長安城.十日城陷,與布戰城中,布敗走.傕等放兵略長安老少,殺之悉盡,死者狼籍.誅殺卓者,尸王允於市.[二]葬卓於郿,大風暴雨震卓墓,水流入藏,漂其棺槨.傕為車騎將軍﹑池陽侯,領司隸校尉﹑假節.氾為後將軍﹑美陽侯.稠為右將軍﹑萬年侯.傕﹑氾﹑稠擅朝政.[三]濟為驃騎將軍﹑平陽侯,屯弘農.

[一] 九州春秋曰:傕等在陝,皆恐怖,急擁兵自守.胡文才﹑楊整修皆涼州大人,而司徒王允素所不善也.及李傕之叛,允乃呼文才﹑整修使東解釋之,不假借以溫顏,謂曰:「關東鼠子欲何為邪?卿往呼之.」於是二人往,實召兵而還.

[二] 張璠漢紀曰:布兵敗,駐馬靑瑣門外,謂允曰:「公可以去.」允曰:「安國家,吾之上願也,若不獲,則奉身以死.朝廷幼主恃我而已,臨難苟免,吾不為也.努力謝關東諸公,以國家為念.」傕﹑氾入長安城,屯南宮掖門,殺太僕魯馗﹑大鴻臚周奐﹑城門校尉崔烈﹑越騎校尉王頎.吏民死者不可勝數.司徒王允挾天子上宣平城門避兵,傕等於城門下拜,伏地叩頭.帝謂傕等曰:「卿無作威福,而乃放兵縱橫,欲何為乎?」傕等曰:「董卓忠於陛下,而無故為呂布所殺.臣等為卓報讎,弗敢為逆也.請事竟,詣廷尉受罪.」允窮逼出見傕,傕誅允及妻子宗族十餘人.長安城中男女大小莫不流涕.允字子師,太原祁人也.少有大節,郭泰見而奇之,曰:「王生一日千里,王佐之才也.」泰雖先達,遂與定交.三公並辟,歷豫州刺史,辟荀爽﹑孔融為從事,遷河南尹﹑尚書令.及為司徒,其所以扶持王室,甚得大臣之節,自天子以下,皆倚賴焉.卓亦推信之,委以朝廷. 華嶠曰:夫士以正立,以謀濟,以義成,若王允之推董卓而分其權,伺其閒而弊其罪.當此之時,天下之難解矣,本之皆主於忠義也,故推卓不為失正,分權不為不義,伺閒不為狙詐,是以謀濟義成,而歸於正也.

[三] 英雄記曰:傕,北地人.氾,張掖人,一名多.

是歲,韓遂﹑馬騰等降,率眾詣長安.以遂為鎭西將軍,遣還涼州,騰征西將軍,屯郿.侍中馬宇與諫議大夫种邵﹑左中郞將劉範等謀,欲使騰襲長安,己為內應,以誅傕等.騰引兵至長平觀,宇等謀泄,出奔槐里.稠擊騰,騰敗走,還涼州;又攻槐里,宇等皆死.時三輔民尚數十萬戶,傕等放兵劫略,攻剽城邑,人民飢困,二年閒相啖食略盡.[一]

[一] 獻帝紀曰:是時新遷都,宮人多亡衣服,帝欲發御府繒以與之,李傕弗欲,曰:「宮中有衣,胡為復作邪?」詔賣廏馬百餘匹,御府大司農出雜繒二萬匹,與所賣廏馬直,賜公卿以下及貧民不能自存者.李傕曰「我邸閣儲偫少」,乃悉載置其營.賈詡曰「此上意,不可拒」,傕不從之.

諸將爭權,遂殺稠,幷其眾.[一]氾與傕轉相疑,戰鬭長安中.[二]傕質天子於營,燒宮殿城門,略官寺,盡收乘輿服御物置其家.[三]傕使公卿詣氾請和,氾皆執之.[四]相攻擊連月,死者萬數.[五]

[一] 九州春秋曰:馬騰﹑韓遂之敗,樊稠追至陳倉.遂語稠曰:「天地反覆,未可知也.本所爭者非私怨,王家事耳.與足下州里人,今雖小違,要當大同,欲相與善語以別.邂逅萬一不如意,後可復相見乎!」俱卻騎前接馬,交臂相加,共語良久而別.傕兄子利隨稠,利還吿傕,韓﹑樊交馬語,不知所道,意愛甚密.傕以是疑稠與韓遂私和而有異意.稠欲將兵東出關,從傕索益兵.因請稠會議,便於坐殺稠.

[二] 典略曰:傕數設酒請氾,或留氾止宿.氾妻懼傕與氾婢妾而奪己愛,思有以離閒之.會傕送饋,妻乃以豉為藥,氾將食,妻曰:「食從外來,儻或有故!」遂摘藥示之,曰:「一棲不二雄,我固疑將軍之信李公也.」他日傕復請氾,大醉.氾疑傕藥之,絞糞汁飲之乃解.於是遂生嫌隙,而治兵相攻.

[三] 獻帝起居注曰:初,氾謀迎天子幸其營,夜有亡吿傕者,傕使兄子暹將數千兵圍宮,以車三乘迎天子.楊彪曰:「自古帝王無在人臣家者.擧事當合天下心,諸君作此,非是也.」暹曰:「將軍計定矣.」於是天子一乘,貴人伏氏一乘,賈詡﹑左靈一乘,其餘皆步從.是日,傕復移乘輿幸北塢,使校尉監塢門,內外隔絕.諸侍臣皆有飢色,時盛暑熱,人盡寒心.帝求米五斛﹑牛骨五具以賜左右,傕曰:「朝餔上飯,何用米為?」乃與腐牛骨,皆臭不可食.帝大怒,欲詰責之.侍中楊琦上封事曰:「傕,邊鄙之人,習於夷風,今又自知所犯悖逆,常有怏怏之色,欲輔車駕幸黃白城以紓其憤.臣願陛下忍之,未可顯其罪也.」帝納之.初,傕屯黃白城,故謀欲徙之.傕以司徒趙溫不與己同,乃內溫塢中.溫聞傕欲移乘輿,與傕書曰:「公前託為董公報讎,然實屠陷王城,殺戮大臣,天下不可家見而戶釋也.今爭睚眥之隙,以成千鈞之讎,民在塗炭,各不聊生,曾不改寤,遂成禍亂.朝廷仍下明詔,欲令和解,詔命不行,恩澤日損,而復欲輔乘輿於黃白城,此誠老夫所不解也.於易,一過為過,再為涉,三而弗改,滅其頂,凶.不如早共和解,引兵還屯,上安萬乘,下全生民,豈不幸甚!」傕大怒,欲遣人害溫.其從弟應,溫故掾也,諫之數日乃止.帝聞溫與傕書,問侍中常洽曰:「傕弗知臧否,溫言太切,可為寒心.」對曰:「李應已解之矣.」帝乃悅.

[四] 華嶠漢書曰:氾饗公卿,議欲攻傕.楊彪曰:「群臣共鬭,一人劫天子,一人質公卿,此可行乎?」氾怒,欲手刃之,中郞將楊密及左右多諫,氾乃歸之.

[五] 獻帝起居注曰:傕性喜鬼怪左道之術,常有道人及女巫歌謳擊鼓下神,祠祭六丁,符劾厭勝之具,無所不為.又於朝廷省門外,為董卓作神坐,數以牛羊祠之,訖,過省閤問起居,求入見.傕帶三刀,手復與鞭合持一刃.侍中﹑侍郞見傕帶仗,皆惶恐,亦帶劔持刀,先入在帝側.傕對帝,或言「明陛下」,或言「明帝」,為帝說郭氾無狀,帝亦隨其意答應之.傕喜,出言「明陛下眞賢聖主」,意遂自信,自謂良得天子歡心也.雖然,猶不欲令近臣帶劔在帝邊,謂人言「此曹子將欲圖我邪?而皆持刀也」.侍中李禎,傕州里,素與傕通,語傕「所以持刀者,軍中不可不爾,此國家故事.」傕意乃解.天子以謁者僕射皇甫酈涼州舊姓,有專對之才,遣令和傕﹑氾.酈先詣氾,氾受詔命.詣傕,傕不肯,曰:「我有呂布之功,輔政四年,三輔清靜,天下所知也.郭多,盜馬虜耳,何敢乃欲與吾等邪?必欲誅之.君為涼州人,觀吾方略士眾,足辦多不?多又劫質公卿,所為如是,而君苟欲利郭多,李傕有膽自知之.」酈答曰:「昔有窮后羿恃其善射,不思患難,以至於斃.近董公之強,明將軍目所見,內有王公以為內主,外有董旻﹑承﹑璜以為鯁毒,呂布受恩而反圖之,斯須之閒,頭縣竿端,此有勇而無謀也.今將軍身為上將,把鉞仗節,子孫握權,宗族荷寵,國家好爵而皆據之.今郭多劫質公卿,將軍脅至尊,誰為輕重邪?張濟與郭多﹑楊定有謀,又為冠帶所附.楊奉,白波帥耳,猶知將軍所為非是,將軍雖拜寵之,猶不肯盡力也.」傕不納酈言,而呵之令出.酈出,詣省門,白傕不肯從詔,辭語不順.侍中胡邈為傕所幸,呼傳詔者令飾其辭.又謂酈曰:「李將軍於卿不薄,又皇甫公為太尉,李將軍力也.」酈答曰:「胡敬才,卿為國家常伯,輔弻之臣也,語言如此,寧可用邪?」邈曰:「念卿失李將軍意,恐不易耳!我與卿何事者?」酈言:「我累世受恩,身又常在幃幄,君辱臣死,當坐國家,為李傕所殺,則天命也.」天子聞酈答語切,恐傕聞之,便勑遣酈.酈裁出營門,傕遣虎賁王昌呼之.昌知酈忠直,縱令去,還答傕,言追之不及.天子使左中郞將李固持節拜傕為大司馬,在三公之右.傕自以為得鬼神之力,乃厚賜諸巫.

傕將楊奉與傕軍吏宋果等謀殺傕,事泄,遂將兵叛傕.傕眾叛,稍衰弱.張濟自陝和解之,天子乃得出,至新豐﹑霸陵閒.[一]郭氾復欲脅天子還都郿.天子奔奉營,奉擊氾破之.氾走南山,奉及將軍董承以天子還洛陽.傕﹑氾悔遣天子,復相與和,追及天子於弘農之曹陽.奉急招河東故白波帥韓暹﹑胡才﹑李樂等合,與傕﹑氾大戰.奉兵敗,傕等縱兵殺公卿百官,略宮人入弘農.[二]天子走陝,北渡河,失輜重,步行,唯皇后貴人從,至大陽,止人家屋中.[三]奉﹑暹等遂以天子都安邑,御乘牛車.太尉楊彪﹑太僕韓融近臣從者十餘人.以暹為征東﹑才為征西﹑樂征北將軍,並與奉﹑承持政.遣融至弘農,與傕﹑氾等連和,還所略宮人公卿百官,及乘輿車馬數乘.是時蝗蟲起,歲旱無穀,從官食棗菜.[四]諸將不能相率,上下亂,糧食盡.奉﹑暹﹑承乃以天子還洛陽.出箕關,下軹道,張楊以食迎道路,拜大司馬.語在楊傳.天子入洛陽,宮室燒盡,街陌荒蕪,百官披荊棘,依丘牆閒.州郡各擁兵自衞,莫有至者.飢窮稍甚,尚書郞以下,自出樵采,或飢死牆壁閒.

[一] 獻帝起居注曰:初,天子出到宣平門,當度橋,氾兵數百人遮橋問「是天子邪?」車不得前.傕兵數百人皆持大戟在乘輿車左右,侍中劉艾大呼云:「是天子也.」使侍中楊琦高擧車帷.帝言諸兵:「汝不卻,何敢迫近至尊邪?」氾等兵乃卻.旣度橋,士眾咸呼萬歲.

[二] 獻帝紀曰:時尚書令士孫瑞為亂兵所害. 三輔決錄注曰:瑞字君榮,扶風人,世為學門.瑞少傳家業,博達無所不通,仕歷顯位.卓旣誅,遷大司農,為國三老.每三公缺,瑞常在選中.太尉周忠﹑皇甫嵩,司徒淳于嘉﹑趙溫,司空楊彪﹑張喜等為公,皆辭拜讓瑞.天子都許,追論瑞功,封子萌澹津亭侯.萌字文始,亦有才學,與王粲善.臨當就國,粲作詩以贈萌,萌有答,在粲集中.

[三] 獻帝紀曰:初,議者欲令天子浮河東下,太尉楊彪曰:「臣弘農人,從此已東,有三十六灘,非萬乘所當從也.」劉艾曰:「臣前為陝令,知其危險,有師猶有傾覆,況今無師,太尉謀是也.」乃止.及當北渡,使李樂具船.天子步行趨河岸,岸高不得下,董承等謀欲以馬羈相續以繫帝腰.時中宮僕伏德扶中宮,一手持十匹絹,乃取德絹連續為輦.行軍校尉尚弘多力,令弘居前負帝,乃得下登船.其餘不得渡者甚眾,復遣船收諸不得渡者,皆爭攀船,船上人以刃櫟斷其指,舟中之指可掬.

[四] 魏書曰:乘輿時居棘籬中,門戶無關閉.天子與群臣會,兵士伏籬上觀,互相鎭壓以為笑.諸將專權,或擅笞殺尚書.司隸校尉出入,民兵抵擲之.諸將或遣婢詣省閤,或自齎酒啖,過天子飲,侍中不通,喧呼罵詈,遂不能止.又競表拜諸營壁民為部曲,求其禮遺.醫師﹑走卒,皆為校尉,御史刻印不供,乃以錐畫,示有文字,或不時得也.

太祖乃迎天子都許.暹﹑奉不能奉王法,各出奔,寇徐﹑揚閒,為劉備所殺.[一]董承從太祖歲餘,誅.建安二年,遣謁者僕射裴茂率關西諸將誅傕,夷三族.[二]氾為其將五習所襲,死於郿.濟飢餓,至南陽寇略,為穰人所殺,從子繡攝其眾.才﹑樂留河東,才為怨家所殺,樂病死.遂﹑騰自還涼州,更相寇,後騰入為衞尉,子超領其部曲.十六年,超與關中諸將及遂等反,太祖征破之.語在武紀.遂奔金城,為其將所殺.超據漢陽,騰坐夷三族.趙衢等擧義兵討超,超走漢中從張魯,後奔劉備,死於蜀.

[一] 英雄記曰:備誘奉與相見,因於坐上執之.暹失奉勢孤,時欲走還幷州,為杼秋屯帥張宣所邀殺.

[二] 典略曰:傕頭至,有詔高縣.

袁紹伝

 袁紹字本初,汝南汝陽人也.高祖父安,為漢司徒.自安以下四世居三公位,由是勢傾天下.[一]紹有姿貌威容,能折節下士,士多附之,太祖少与交焉.以大将軍掾為侍御史,[二]稍遷中軍校尉,至司隷.

[一] 華?漢書曰:安字邵公,好学有威重.明帝時為楚郡太守,治楚王獄,所申理者四百余家,皆蒙全済,安遂為名臣.章帝時至司徒,生蜀郡太守京.京弟敞為司空.京子湯,太尉.湯四子:長子平,平弟成,左中郎将,並早卒;成弟逢,逢弟隗,皆為公.魏書曰:自安以下,皆博愛容?,無所揀択;賓客入其門,無賢愚皆得所欲,為天下所帰.紹即逢之庶子,術異母兄也,出後成為子.英雄記曰:成字文開,壮健有部分,貴戚権豪自大将軍梁冀以下皆与結好,言無不従.故京師為作諺曰:「事不諧,問文開.」

[二] 英雄記曰:紹生而父死,二公愛之.幼使為郎,弱冠除濮陽長,有清名.遭母喪,服竟,又追行父服,凡在?廬六年.礼畢,隠居洛陽,不妄通賓客,非海?知名,不得相見.又好游?,与張孟卓?何伯求??子卿?許子遠?伍徳瑜等皆為奔走之友.不応辟命.中常侍趙忠謂諸?門曰:「袁本初坐作声價,不応呼召而養死士,不知此児欲何所為乎?」紹叔父隗聞之,責数紹曰:「汝且破我家!」紹於是乃起応大将軍之命.臣松之案:魏書云「紹,逢之庶子,出後伯父成」.如此記所言,則似実成所生.夫人追服所生,礼無其文,況於所後而可以行之!二書未詳孰是.

 霊帝崩,太后兄大将軍何進与紹謀誅諸閹官,[一]太后不従.乃召董卓,欲以脅太后.常侍??門聞之,皆詣進謝,唯所錯置.時紹勧進便可於此決之,至于再三,而進不許.令紹使洛陽方略武吏検司諸宦者.又令紹弟虎賁中郎将術選?厚虎賁二百人,当入禁中,代持兵?門陛守門?.中常侍段珪等矯太后命,召進入議,遂殺之,宮中乱.[二]術将虎賁焼南宮嘉徳殿青瑣門,欲以迫出珪等.珪等不出,劫帝及帝弟陳留王走小平津.紹既斬宦者所署司隷校尉許相,遂勒兵捕諸閹人,無少長皆殺之.或有無鬚而誤死者,至自発露形体而後得免.宦者或有行善自守而猶見及.其濫如此.死者二千余人.急追珪等,珪等悉赴河死.帝得還宮.

[一] 續漢書曰:紹使客張津?進曰:「?門?常侍秉権日久,又永楽太后与諸常侍専通財利,将軍宜整頓天下,為海?除患.」進以為然,遂与紹結謀.

[二] 九州春秋曰:初紹?進曰:「?門?常侍累世太盛,威服海?,前竇武欲誅之而反為所害,但坐言語漏泄,以五営士為兵故耳.五営士生長京師,服畏中人,而竇氏反用其鋒,遂果叛走帰?門,是以自取破滅.今将軍以元舅之尊,二府並領勁兵,其部曲将吏,皆英雄名士,楽尽死力,事在掌握,天賛其時也.今為天下誅除貪穢,功勲顕著,垂名後世,雖周之申伯,何足道哉?今大行在前殿,将軍以詔書領兵?守,可勿入宮.」進納其言,後更狐疑.紹懼進之改変,脅進曰:「今交搆已成,形勢已露,将軍何為不早決之?事留変生,後機禍至.」進不従,遂敗.

 董卓呼紹,議欲廃帝,立陳留王.是時紹叔父隗為太傅,紹偽許之,曰:「此大事,出当与太傅議.」卓曰:「劉氏種不足復遺.」紹不応,横刀長揖而去.[一]紹既出,遂亡奔冀州.侍中周毖﹑城門校尉伍瓊﹑議郎何?等,皆名士也,卓信之,而陰為紹,乃?卓曰:「夫廃立大事,非常人所及.紹不達大体,恐懼故出奔,非有他志也.今購之急,勢必為変.袁氏樹恩四世,門世故吏?於天下,若収豪傑以聚徒?,英雄因之而起,則山東非公之有也.不如赦之,拝一郡守,則紹喜于免罪,必無患矣.」卓以為然,乃拝紹勃海太守,封??侯.

[一] 献帝春秋曰:卓欲廃帝,謂紹曰:「皇帝沖闇,非万乗之主.陳留王猶勝,今欲立之.人有少智,大或痴,亦知復何如,為当且爾;卿不見霊帝乎?念此令人憤毒!」紹曰;「漢家君天下四百許年,恩沢深渥,兆民戴之来久.今帝雖幼沖,未有不善宣聞天下,公欲廃適立庶,恐?不従公議也.」卓謂紹曰:「豎子!天下事豈不決我?我今為之,誰敢不従?爾謂董卓刀為不利乎!」紹曰:「天下健者,豈唯董公?」引佩刀横揖而出.臣松之以為紹於時与卓未搆嫌隙,故卓与之諮謀.若但以言議不同,便罵為豎子,而有推刃之心,及紹復答,屈疆為甚,卓又安能容忍而不加害乎?且如紹此言,進非亮正,退違詭遜,而顕其競爽之旨,以觸哮?之鋒,有志功業者,理豈然哉!此語,妄之甚矣.

 紹遂以勃海起兵,将以誅卓.語在武紀.紹自号車騎将軍,主盟,与冀州牧韓馥立幽州牧劉虞為帝,遣使奉章詣虞,虞不敢受.後馥軍安平,為公孫?所敗.?遂引兵入冀州,以討卓為名,?欲襲馥.馥懐不自安.[一]会卓西入関,紹還軍延津,因馥惶遽,使陳留高幹﹑潁川荀諶等?馥曰:「公孫?乗勝来向南,而諸郡応之,袁車騎引軍東向,此其意不可知,竊為将軍危之.」馥曰:「為之奈何?」諶曰:「公孫提燕﹑代之卒,其鋒不可当.袁氏一時之傑,必不為将軍下.夫冀州,天下之重資也,若両雄幷力,兵交於城下,危亡可立而待也.夫袁氏,将軍之旧,且同盟也,当今為将軍計,莫若挙冀州以譲袁氏.袁氏得冀州,則?不能与之争,必厚徳将軍.冀州入於親交,是将軍有譲賢之名,而身安於泰山也.願将軍勿疑!」馥素?怯,因然其計.馥長史耿武﹑別駕閔純﹑治中李?諫馥曰:「冀州雖鄙,帯甲百万,穀支十年.袁紹孤客窮軍,仰我鼻息,譬如嬰児在股掌之上,?其哺乳,立可餓殺.奈何乃欲以州与之?」馥曰:「吾,袁氏故吏,且才不如本初,度徳而譲,古人所貴,諸君独何病焉!」従事趙浮﹑程奐請以兵拒之,馥又不聴.乃譲紹,[二]紹遂領冀州牧.

[一] 英雄記曰:逢紀?紹曰:「将軍挙大事而仰人資給,不拠一州,無以自全.」紹答云:「冀州兵彊,吾士飢乏,設不能?,無所容立.」紀曰:「可与公孫?相聞,導使来南,?取冀州.公孫必至而馥懼矣,因使?利害,為陳禍福,馥必遜譲.於此之際,可拠其位.」紹従其言而?果来.

[二] 九州春秋曰:馥遣都督従事趙浮﹑程奐将彊弩万張屯河陽.浮等聞馥欲以冀州与紹,自孟津馳東下.時紹尚在朝歌清水口,浮等従後来,船数百艘,?万余人,整兵鼓夜過紹営,紹甚悪之.浮等到,謂馥曰:「袁本初軍無斗糧,各己離散,雖有張楊﹑於扶羅新附,未肯為用,不足敵也.小従事等請自以見兵拒之,旬日之間,必土崩瓦解;明将軍但当開閤高枕,何憂何懼!」馥不従,乃避位,出居趙忠故舎.遣子齎冀州印綬於黎陽与紹.

 従事沮授沮音?.?紹曰:「将軍弱冠登朝,則播名海?;?廃立之際,則忠義奮発;単騎出奔,則董卓懐怖;済河而北,則勃海稽首.振一郡之卒,撮冀州之?,威震河朔,名重天下.雖?巾猾乱,黒山跋扈,挙軍東向,則青州可定;還討黒山,則張燕可滅;回?北首,則公孫必喪;震脅戎狄,則匈奴必従.横大河之北,合四州之地,収英雄之才,擁百万之?,迎大駕於西京,復宗廟於洛邑,号令天下,以討未復,以此争鋒,誰能敵之?比及数年,此功不難.」紹喜曰:「此吾心也.」即表授為監軍﹑奮威将軍.[一]卓遣執金吾胡母班﹑将作大匠?脩齎詔書?紹,紹使河?太守王匡殺之.[二]卓聞紹得関東﹑乃悉誅紹宗族太傅隗等.当是時,豪?多附紹,皆思為之報,州郡?起,莫不仮其名.馥懐懼,従紹索去,往依張?.[三]後紹遣使詣?,有所計議,与?耳語.馥在坐上,謂見図構,無何起至溷自殺.[四]

[一] 献帝紀曰:沮授,広平人,少有大志,多権略.仕州別駕,挙茂才,?二県令,又為韓馥別駕,表拝騎都尉.袁紹得冀州,又辟焉.英雄記曰:是時年号初平,紹字本初,自以為年与字合,必能克平禍乱.

[二] 漢末名士?曰:班字季皮,太山人,少与山陽度尚﹑東平張?等八人並軽財赴義,振済人士,世謂之八廚.謝承後漢書曰:班,王匡之妹夫,董卓使班奉詔到河?,解釈義兵.匡受袁紹旨.収班?獄,欲殺之以徇軍.班与匡書云:「自古以来,未有下土諸侯挙兵向京師者.劉向伝曰『擲鼠忌器』,器猶忌之,況卓今処宮闕之?,以天子為藩屏,幼主在宮,如何可討?僕与太傅馬公﹑太僕趙岐﹑少府陰脩?受詔命.関東諸郡,雖実嫉卓,猶以銜奉王命,不敢?辱.而足下独囚僕于獄,欲以釁鼓,此悖暴無道之甚者也.僕与董卓有何親戚,義豈同悪?而足下張虎狼之口,吐長之毒,恚卓遷怒,何甚酷哉!死,人之所難,然恥為狂夫所害.若亡者有霊,当訴足下於皇天.夫婚姻者禍福之機,今日著矣.曩為一体,今為血?.亡人子二人,則君之甥,身没之後,慎勿令臨僕尸骸也.」匡得書,抱班二子而泣.班遂死於獄.班嘗見太山府君及河伯,事在搜神記,語多不載.

[三] 英雄記曰:紹以河?朱漢為都官従事.漢先時為馥所不礼,?懐怨恨,且欲邀迎紹意,擅発城郭兵囲守馥第,抜刃登屋.馥走上楼,収得馥大児,槌折両?.紹亦立収漢,殺之.馥猶憂怖,故報紹索去.

[四] 英雄記曰:公孫??青州?巾賊,大破之,還屯広宗,改易守令,冀州長吏無不望風響応,開門受之.紹自往征?,合戦于界橋南二十里.??兵三万余人為方陳,騎為両翼,左右各五千余匹,白馬義従為中堅,亦分作両校,左射右,右射左,旌旗鎧甲,光照天地.紹令?義以八百兵為先登,彊弩千張夾承之,紹自以?兵数万結陳于後.義久在涼州,暁習羌?,兵皆驍?.?見其兵少,便放騎欲陵蹈之.義兵皆伏楯下不動,未至数十?,乃同時?起,揚塵大叫,直前衝突,彊弩雷発,所中必倒,臨陳斬?所署冀州刺史厳綱甲首千余級.?軍敗績,?騎奔走,不復還営.義追至界橋;?殿兵還戦橋上,義復破之,遂到?営,抜其牙門,営中余?皆復散走.紹在後,未到橋十数里,下馬発鞍,見?已破,不為設備,惟帳下彊弩数十張,大戟士百余人自随.?部迸騎二千余匹卒至,便囲紹数重,弓矢雨下.別駕従事田豊扶紹欲卻入空垣,紹以兜?撲地曰:「大丈夫当前?死,而入牆間,豈可得活乎?」彊弩乃乱発,多所殺傷.?騎不知是紹,亦稍引卻;会?義?迎,乃散去.??与虜戦,常乗白馬,追不?発,数獲戎捷,虜相告云「当避白馬」.因虜所忌,簡其白馬数千匹,選騎射之士,号為白馬義従;一曰胡夷健者常乗白馬,?有健騎数千,多乗白馬,故以号焉,紹既破?,引軍南到薄落津,方与賓客諸将共会,聞魏郡兵反,与黒山賊于毒共覆?城,遂殺太守栗成.賊十余部,?数万人,聚会?中.坐上諸客有家在?者,皆憂怖失色,或起啼泣,紹容貌不変,自若也.賊陶升者,故??小吏也,有善心,独将部?踰西城入,閉守州門,不?他賊,以車載紹家及諸衣冠在州?者,身自扞?,送到斥丘乃還.紹到,遂屯斥丘,以陶升為建義中郎将.乃引軍入朝歌鹿場山蒼巌谷討于毒,囲攻五日,破之,斬毒及長安所署冀州牧壺寿.遂尋山北行,薄?諸賊(左髪丈八)[左髭丈八]等,皆斬之.又?劉石﹑青牛角﹑?龍﹑左校﹑郭大賢﹑李大目﹑于?根等,皆屠其屯壁,奔走得?,斬首数万級.紹復還屯?.初平四年,天子使太傅馬日?﹑太僕趙岐和解関東.岐別詣河北,紹出迎於百里上,拝奉帝命.岐住紹営,移書告?.?遣使具与紹書曰:「趙太僕以周召之徳,銜命来征,宣揚朝恩,示以和睦,曠若開雲見日,何喜如之?昔賈復﹑寇恂亦争士卒,欲相危害,遇光武之寛,親?陛見,同輿共出,時人以為栄.自省辺鄙,得与将軍共同此福,此誠将軍之眷,而?之幸也.」?義後恃功而驕恣,紹乃殺之.

 初,天子之立非紹意,及在河東,紹遣潁川郭図使焉.図還?紹迎天子都?,紹不従.[一]会太祖迎天子都許,収河南地,関中皆附.紹悔,欲令太祖徙天子都?城以自密近,太祖拒之.天子以紹為太尉,転為大将軍,封?侯,[二]紹譲侯不受.頃之.?破?于易京,井其?.[三]出長子譚為青州,沮授諫紹:「必為禍始.」紹不聴,曰:「孤欲令諸児各拠一州也.」[四]又以中子熙為幽州,甥高幹為幷州.?数十万,以審配﹑逢紀統軍事,田豊﹑荀諶﹑許攸為謀主,顔良﹑文醜為将率,簡精卒十万,騎万匹,将攻許.[五]

[一] 献帝伝曰:沮授?紹云:「将軍累葉輔弼,世済忠義.今朝廷播越,宗廟毀壊,観諸州郡外託義兵,?図相滅,未有存主恤民者.且今州城粗定,宜迎大駕,安宮?都,挟天子而令諸侯,畜士馬以討不庭,誰能禦之!」紹悦,将従之.郭図﹑淳于瓊曰:「漢室陵遅,為日久矣,今欲興之,不亦難乎!且今英雄拠有州郡,?動万計,所謂秦失其鹿,先得者王.若迎天子以自近,動輒表聞,従之則権軽,違之則拒命,非計之善者也.」授曰:「今迎朝廷,至義也,又於時宜大計也,若不早図,必有先人者也.夫権不失機,功在速捷,将軍其図之!」紹弗能用.案此書称(郭図)[沮授]之計,則与本伝違也.

[二] 献帝春秋曰:紹恥班在太祖下,怒曰;「曹操当死数矣,我輒救存之,今乃背恩,挟天子以令我乎!」太祖聞,而以大将軍譲于紹.

[三] 典略曰:自此紹貢御希慢,私使主薄耿苞密白曰:「赤徳衰尽,袁為?胤,宜順天意.」紹以苞密白事示軍府将吏.議者咸以苞為妖妄宜誅,紹乃殺苞以自解.九州春秋曰:紹延?北海鄭玄而不礼,趙融聞之曰:「賢人者,君子之望也.不礼賢,是失君子之望也.夫有為之君,不敢失万民之歓心,況於君子乎?失君子之望,難乎以有為矣.」英雄記載太祖作董卓歌,辞云:「徳行不虧欠,変故自難常.鄭康成行酒,伏地気?,郭景図命尽于園桑.」如此之文,則玄無病而卒.余書不見,故載?之.

[四] 九州春秋載授諫辞曰:「世称一兔走衢,万人逐之,一人獲之,貪者悉止,分定故也.且年均以賢,徳均則卜,古之制也.願上惟先代成敗之戒,下思逐兔分定之義.」紹曰:「孤欲令四児各拠一州,以観其能.」授出曰:「禍其始此乎!」譚始至青州,為都督,未為刺史,後太祖拝為刺史.其土自河而西,蓋不過平原而已.遂北排田楷,東攻孔融,曜兵海隅,是時百姓無主,欣戴之矣.然信用?小,好受近言,肆志奢淫,不知稼穡之艱難.華?﹑孔順皆姦佞小人也,信以為腹心;王脩等備官而已.然能接待賓客,慕名敬士.使婦弟領兵在?,至令草竊,?井而外,虜掠田野;別使両将募兵下県,有賂者見免,無者見取,貧弱者多,乃至於竄伏丘野之中,放兵捕索,如猟鳥獸.邑有万?者,著籍不盈数百,収賦納?,参分不入一.招命賢士,不就;不趨赴軍期,安居族党,亦不能罪也.

[五] 世語曰:紹?卒五万,騎八千.孫盛評曰:案魏武謂崔?曰「昨案貴州?籍,可得三十万?」.由此推之,但冀州勝兵已如此,況兼幽﹑幷及青州乎?紹之大挙,必悉師而起,十万近之矣.献帝伝曰:紹将南師,沮授﹑田豊諫曰:「師出?年,百姓疲弊,倉?無積,賦役方殷,此国之深憂也.宜先遣使献捷天子,務農逸民;若不得通,乃表曹氏隔我王路,然後進屯黎陽,漸営河南,益作舟船,繕治器械,分遣精騎,鈔其辺鄙,令彼不得安,我取其逸.三年之中,事可坐定也.」審配﹑郭図曰:「兵書之法,十囲五攻,敵則能戦.今以明公之神武,跨河朔之彊?,以伐曹氏.譬若覆手,今不時取,後難図也.」授曰:「蓋救乱誅暴,謂之義兵;恃?憑彊,謂之驕兵.兵義無敵,驕者先滅.曹氏迎天子安宮許都,今挙兵南向,於義則違.且廟勝之策,不在彊弱.曹氏法令既行,士卒精練,非公孫?坐受囲者也.今棄万安之術,而興無名之兵,竊為公懼之!」図等曰:「武王伐紂,不曰不義,況兵加曹氏而云無名!且公師武臣(竭)力,将士憤怒,人思自騁,而不及時早定大業,慮之失也.夫天与弗取,反受其咎,此越之所以霸,?之所以亡也.監軍之計,計在持牢,而非見時知機之変也.」紹従之.図等因是譖授「監統?外,威震三軍,若其浸盛,何以制之?夫臣与主不同者昌,主与臣同者亡,此?石之所忌也.且御?于外,不宜知?.」紹疑焉.乃分監軍為三都督,使授及郭図﹑淳于瓊各典一軍,遂合而南.

 先是,太祖遣劉備詣徐州拒袁術.術死,備殺刺史車胄,引軍屯沛.紹遣騎佐之.太祖遣劉岱﹑王忠?之,不克.建安五年,太祖自東征備.田豊?紹襲太祖後,紹辞以子疾,不許,豊挙杖?地曰:「夫遭難遇之機,而以嬰児之病失其会,惜哉!」太祖至,?破備;備奔紹.[一]

[一] 魏氏春秋載紹檄州郡文曰:「蓋聞明主図危以制変,忠臣慮難以立権.曩者彊秦弱主,趙高執柄,専制朝命,威福由己,終有望夷之禍,?辱至今.及臻呂后,禄﹑?専政,擅断万機,決事省禁,下陵上替,海?寒心.於是絳侯﹑朱?興威奮怒,誅夷逆乱,尊立太宗,故能道化興隆,光明顕融,此則大臣立権之明表也.司空曹操,祖父騰,故中常侍,与左?﹑徐?並作妖?,饕餮放横,傷化虐民.父嵩,乞?携養,因贓仮位,輿金輦璧,輸貨権門,竊盗鼎司,傾覆重器.操贅閹遺醜,本無令徳,?狡鋒?,好乱楽禍.幕府昔統鷹揚,掃夷凶逆.續遇董卓侵官暴国,於是提剣揮鼓,発命東夏,方収羅英雄,棄瑕?用,故遂与操参咨策略,謂其鷹犬之才,爪牙可任.至乃愚佻短慮,軽進易退,傷夷折?,数喪師徒.幕府輒復分兵命?,修完補輯,表行東郡太守﹑?州刺史,被以虎文,授以偏師,?蹙威柄,冀獲秦師一克之報.而操遂乗資跋扈,肆行酷烈,割?元元,残賢害善.故九江太守辺譲,英才俊逸,天下知名,以直言正色,論不阿諂,身[首]被梟県之戮,妻孥受灰滅之咎.自是士林憤痛,民怨彌重,一夫奮臂,挙州同声,故躬破於徐方,地奪於呂布,彷徨東裔,蹈拠無所.幕府唯彊幹弱枝之義,且不登叛人之党,故復援旌?甲,席巻赴征,金鼓響震,布?破沮,拯其死亡之患,復其方伯之任,是則幕府無徳於?土之民,而有大造於操也.後会鑾駕東反,?虜乱政.時冀州方有北鄙之警,匪遑離局,故使従事中郎徐勛就発遣操,使繕修郊廟,翼?幼主.而便放志専行,脅遷省禁,卑侮王官,敗法乱紀,坐召三台,専制朝政,爵賞由心,刑戮在口,所愛光五宗,所悪滅三族,?談者蒙顕誅,腹議者蒙隠戮,道路以目,百寮鉗口,尚書記朝会,公卿充員品而已.故太尉楊彪,?典三司,享国極位,操因睚眥,被以非罪,榜楚幷兼,五毒?至,觸情放慝,不顧憲章.又議郎趙?,忠諫直言,議有可納,故聖朝含聴,改容加錫,操欲迷奪時権,杜?言路,擅収立殺,不俟報聞.又梁孝王,先帝母弟,墳陵尊顕,松柏桑梓,猶宜恭粛,而操率将校吏士親臨発掘,破棺裸尸,略取金宝,至令聖朝流涕,士民傷懐.又署発丘中郎将﹑摸金校尉,所過墮突,無骸不露.身処三公之官,而行桀虜之態,殄国虐民,毒流人鬼.加其細政苛慘,科防互設,繒?充蹊,坑?塞路,挙手挂網羅,動足蹈機陥,是以?﹑予有無聊之民,帝都有吁嗟之怨.?観古今書籍,所載貪残虐烈無道之臣,於操為甚.幕府方詰外姦,未及整訓,加意含覆,冀可彌縫.而操豺狼野心,潜苞禍謀,乃欲撓折棟梁,孤弱漢室,除滅中正,専為梟雄.往?伐鼓北征,討公孫?,彊禦桀逆,拒囲一年.操因其未破,陰交書命,欲託助王師,以相掩襲,故引兵造河,方舟北済.会其行人発露,?亦梟夷,故使鋒芒挫縮,厥図不果.屯拠敖倉,阻河為固,乃欲以螳螂之斧,禦隆車之隧.幕府奉漢威霊,折衝宇宙,長戟百万,胡騎千群,奮中?﹑育﹑獲之材,騁良弓勁弩之勢,幷州越太行,青州?済﹑?,大軍汎?河以角其前,荊州下宛﹑葉而掎其後,雷震虎?,並集虜庭,若挙炎火以?飛蓬,覆滄海而沃?炭,有何不消滅者哉?当今漢道陵遅,綱弛紀?.操以精兵七百,囲守宮闕,外称陪?,?以拘執,懼其?逆之禍,因斯而作.乃忠臣肝腦塗地之秋,烈士立功之会也,可不?哉!」此陳琳之辞.

 紹進軍黎陽,遣顔良攻劉延于白馬.沮授又諫紹:「良性促狭,雖驍勇不可独任.」紹不聴.太祖救延,与良戦,破斬良.[一]紹渡河,壁延津南,使劉備﹑文醜挑戦.太祖?破之,斬醜,再戦,禽紹大将.紹軍大震.[二]太祖還官渡.沮授又曰:「北兵数?而果勁不及南,南穀?少而貨財不及北;南利在於急戦,北利在於緩搏.宜徐持久,曠以日月.」紹不従.連営稍前,逼官渡,合戦,太祖軍不利,復壁.紹為高櫓,起土山,射営中,営中皆蒙楯,?大懼.太祖乃為発石車,?紹楼,皆破,紹?号曰霹靂車.[三]紹為地道,欲襲太祖営.太祖輒於?為長塹以拒之,又遣奇兵襲?紹運車,大破之,尽焚其穀.太祖与紹相持日久,百姓疲乏,多叛応紹,軍食乏.会紹遣淳于瓊等将兵万余人北迎運車,沮授?紹:「可遣将?奇別為支軍於表,以断曹公之鈔.」紹復不従.瓊宿烏?,去紹軍四十里.太祖乃留曹洪守,自将?騎五千候夜潜往攻瓊.紹遣騎救之,敗走.破瓊等,悉斬之.太祖還,未至営,紹将高覧﹑張?等率其?降.紹?大潰,紹与譚単騎退渡河.余?偽降,尽坑之.[四]沮授不及紹渡,為人所執,詣太祖,[四]太祖厚待之.後謀還袁氏,見殺.

[一] 献帝伝曰:紹臨発,沮授会其宗族,散資財以与之曰:「夫勢在則威無不加,勢亡則不保一身,哀哉!」其弟宗曰:「曹公士馬不敵,君何懼焉!」授曰:「以曹?州之明略,又挟天子以為資,我雖克公孫,?実疲弊,而将驕主?,軍之破敗,在此挙也.揚雄有言,『六国蚩蚩,為?弱?』,今之謂也.」

[二] 献帝伝曰:紹将済河,沮授諫曰:「勝負変化,不可不詳.今宜留屯延津,分兵官渡,若其克獲,還迎不?,設其有難,?弗可還.」紹弗従.授臨済歎曰:「上盈其志,下務其功,悠悠?河,吾其不反乎!」遂以疾辞.紹恨之,乃省其所部兵属郭図.

[三] 魏氏春秋曰:以古有矢石,又伝言「?動而鼓」,?[文]曰「?,発石也」,於是造発石車.

[四] 張?漢紀云:殺紹卒凡八万人.

[五] 献帝伝云:授大呼曰:「授不降也,為軍所執耳!」太祖与之有旧,逆謂授曰:「分野殊異,遂用??,不図今日乃相禽也!」授対曰:「冀州失策,以取奔北.授智力?困,宜其見禽耳.」太祖曰:「本初無謀,不用君計,今喪乱過紀,国家未定,当相与図之.」授曰:「叔父﹑母﹑弟,県命袁氏,若蒙公霊,速死為福.」太祖歎曰:「孤早相得,天下不足慮.」

 初,紹之南也,田豊?紹曰:「曹公善用兵,変化無方,?雖少,未可軽也,不如以久持之.将軍拠山河之固,擁四州之?,外結英雄,?脩農戦,然後簡其精?,分為奇兵,乗?迭出,以擾河南,救右則?其左,救左則?其右,使敵疲於奔命,民不得安業;我未労而彼已困,不及二年,可坐克也.今釈廟勝之策,而決成敗於一戦,若不如志,悔無及也.」紹不従.豊懇諫,紹怒甚,以為沮?,械?之.紹軍既敗,或謂豊曰:「君必見重.」豊曰:「若軍有利,吾必全,今軍敗,吾其死矣.」紹還,謂左右曰:「吾不用田豊言,果為所笑.」遂殺之.[一]紹外寛雅,有局度,憂喜不形于色,而?多忌害,皆此類也.

[一]先賢行?曰:豊字元皓,鉅鹿人,或云勃海人.豊天姿傑,権略多奇,少喪親,居喪尽哀,日月雖過,笑不至矧.博覧多識,名重州党.初辟太尉府,挙茂才,遷待御史.閹宦?朝,英賢被害,豊乃棄官帰家.袁紹起義,卑辞厚幣以招致豊,豊以王室多難,志存匡救,乃応紹命,以為別駕.勧紹迎天子,紹不納.紹後用豊謀,以平公孫?.逢紀憚豊亮直,数讒之於紹,紹遂忌豊.紹軍之敗也,土崩奔北,師徒略尽,軍皆拊膺而泣曰:「向令田豊在此,不至於是也.」紹謂逢紀曰:「冀州人聞吾軍敗,皆当念吾,惟田別駕前諫止吾,与?不同,吾亦慚見之.」紀復曰:「豊聞将軍之退,拊手大笑,喜其言之中也.」紹於是有害豊之意.初,太祖聞豊不従戎,喜曰:「紹必敗矣.」及紹奔遁,復曰:「向使紹用田別駕計,尚未可知也.」孫盛曰:観田豊?沮授之謀,雖良?平何以過之?故君貴審才,臣尚量主;君用忠良,則伯王之業隆,臣奉闇后,則覆亡之禍至:存亡栄辱,常必由茲.豊知紹将敗,敗則己必死,甘冒虎口以尽忠規,烈士之於所事,慮不存己.夫諸侯之臣,義有去就,況豊与紹非純臣乎!詩云「逝将去汝,適彼楽土」,言去乱邦,就有道可也.

 冀州城邑多叛,紹復?定之.自軍敗後発病,七年,憂死.

袁譚・袁尚伝

 紹愛少子尚,貌美,欲以為後而未顕.[一]審配?逢紀与辛評?郭図争権,配?紀与尚比,評?図与譚比.?以譚長,欲立之.配等恐譚立而評等為己害,?紹素意,乃奉尚代紹位.譚至,不得立,自号車騎将軍.由是譚?尚有隙.太祖北征譚?尚.譚軍黎陽,尚少与譚兵,而使逢紀従譚.譚求益兵,配等議不与.譚怒,殺紀.[二]太祖渡河攻譚,譚告急於尚.尚欲分兵益譚,恐譚遂奪其?,乃使審配守?,尚自将兵助譚,与太祖相拒於黎陽.自[二][九]月至(九)[二]月,大戦城下,譚?尚敗退,入城守.太祖将囲之,乃夜遁.追至?,収其麦,抜陰安,引軍還許.太祖南征荊州,軍至西平.譚?尚遂挙兵相攻,譚敗奔平原.尚攻之急,譚遣辛?詣太祖請救.太祖乃還救譚,十月至黎陽.[三]尚聞太祖北,釈平原還?.其将呂曠?呂翔叛尚帰太祖,譚復陰刻将軍印仮曠?翔.太祖知譚詐,与結婚以安之,乃引軍還.尚使審配?蘇由守?,復攻譚平原.太祖進軍将攻?,到?水,去?五十里,由欲為?応,謀泄,与配戦城中,敗,出奔太祖.太祖遂進攻之,為地道,配亦於?作塹以当之.配将馮礼開突門,?太祖兵三百余人,配覚之,従城上以大石?突中柵門,柵門閉,入者皆没.太祖遂囲之,為塹,周四十里,初令浅,示若可越.配望而笑之,不出争利.太祖一夜掘之,広深二丈,決?水以灌之,自五月至八月,城中餓死者過半.尚聞?急,将兵万余人還救之,依西山来,東至陽平亭,去?十七里,臨?水,挙火以示城中,城中亦挙火相応.配出兵城北,欲与尚対決囲.太祖逆?之,敗還,尚亦破走,依曲?為営,太祖遂囲之.未合,尚懼,遣陰??陳琳乞降,不聴.尚還走濫口,進復囲之急,其将馬延等臨陳降,?大潰,尚奔中山.尽収其輜重,得尚印綬?節鉞及衣物,以示其家,城中崩沮.配兄子栄守東門,夜開門?太祖兵,与配戦城中,生禽配.配声気壮烈,終無撓辞,見者莫不歎息.遂斬之.[四]高幹以幷州降,復以幹為刺史.

[一] 典論曰:譚長而恵,尚少而美.紹妻劉氏愛尚,数称其才,紹亦奇其貌,欲以為後,未顕而紹死.劉氏性酷?,紹死,僵尸未殯,寵妾五人,劉尽殺之.以為死者有知,当復見紹於地下,乃?頭墨面以毀其形.尚又為尽殺死者之家.

[二] 英雄記曰:紀字元図.初,紹去董卓出奔,与許攸及紀?詣冀州,紹以紀聰達有計策,甚親信之,与共挙事.後審配任用,与紀不睦.或有讒配于紹,紹問紀,紀称「配天性烈直,古人之節,不宜疑之」.紹曰:「君不悪之邪?」紀答曰:「先日所争者私情,今所陳者国事.」紹善之,卒不廃配.配由是更与紀為親善.

[三] 魏氏春秋載劉表遺譚書曰:「天篤降害,禍難殷流,尊公?殞,四海悼心.賢胤承統,遐邇属望,咸欲展布旅力,以投盟主,雖亡之日,猶存之願也.何寤青蠅飛於干?,無極游於二塁,使股肱分為二体,背膂?為異身!昔三王五伯,下及戦国,父子相残,蓋有之矣;然或欲以成王業,或欲以定霸功,或欲以顕宗主,或欲以固?嗣,未有棄親即異,?其本根,而能崇業済功,垂祚後世者也.若斉襄復九世之讎,士?卒荀偃之事,是故春秋美其義,君子称其信.夫伯游之恨于斉,未若(文公)[太公]之忿曹;宣子之承業,未若仁君之継統也.且君子之違難不適讎国,豈可忘先君之怨,棄至親之好,為万世之戒,遺同盟之恥哉!冀州不弟之,既已然矣;仁君当降志辱身,以匡国為務;雖見憎於夫人,未若鄭莊之於姜氏,兄弟之嫌,未若重華之於象傲也.然莊公有大隧之楽,象受有鼻之封.願棄捐前忿,遠思旧義,復為母子昆弟如初.」又遺尚書曰:「知変起辛?郭,禍結同生,追閼伯?実沈之蹤,忘常棣死喪之義,親尋干戈,僵尸流血,聞之哽咽,雖存若亡.昔軒轅有?鹿之戦,周武有商?奄之師,皆所以翦除穢害而定王業,非彊弱之(事)争,喜怒之忿也.故雖滅親不為尤,誅兄不傷義.今二君初承洪業,纂継前軌,進有国家傾危之慮,退有先公遺恨之負,当唯義是務,唯国是康.何者?金木水火以剛柔相済,然後克得其和,能為民用.今青州天性峭急,迷于曲直.仁君度数弘広,綽然有余,当以大包小,以優容劣,先除曹操以卒先公之恨,事定之後,乃議曲直之計,不亦善乎!若留神遠図,克己復礼,当振?長駆,共?王室,若迷而不反,違而無改,則胡夷将有誚譲之言,況我同盟,復能?力為君之役哉?此韓盧?東郭自困於前而遺田父之獲者也.憤踴鶴望,冀聞和同之声.若其泰也,則袁族其与漢升降乎!如其否也,則同盟永無望矣.」譚?尚尽不従.漢晋春秋載審配献書於譚曰:「春秋之義,国君死社稷,忠臣死王命.苟有図危宗廟,敗乱国家,王綱典律,親?一也.是以周公垂泣而蔽管?蔡之獄,季友歔欷而行鍼叔之鴆.何則?義重人軽,事不得已也.昔?霊公廃??而立輒,??為不道,入戚以?,?師伐之.春秋伝曰:『以石曼姑之義,為可以拒之.』是以??終獲叛逆之罪,而曼姑永享忠臣之名.父子猶然,豈況兄弟乎!昔先公廃?将軍以續賢兄,立我将軍以為適嗣,上告祖霊,下書譜牒,先公謂将軍為兄子,将軍謂先公為叔父,海?遠近,誰不備聞?且先公即世之日,我将軍斬衰居廬,而将軍齋于堊室,出入之分,於斯益明.是時凶臣逢紀,妄画蛇足,曲辞諂媚,交乱懿親,将軍奮赫然之怒,誅不旋時,[我]将軍亦奉命承旨,加以淫刑.自是之後,癰疽破潰,骨肉無絲髪之嫌,自疑之臣,皆保生全之福.故悉遣彊胡,簡命名将,料整器械,選択戦士,殫府庫之財,竭食土之実,其所以供奉将軍,何求而不備?君臣相率,共?旌麾,戦為雁行,賦為幣主,雖傾倉覆庫,翦?民物,上下欣戴,莫敢告労.何則?推戀戀忠赤之情,尽家家肝腦之計,脣歯輔車,不相為賜.謂為将軍心合意同,混斉一体,必当幷威偶勢,禦寇寧家.何図凶険讒慝之人,造飾無端,誘導姦利,至令将軍翻然改図,忘孝友之仁,聴豺狼之謀,誣先公廃立之言,違近者在喪之位,悖紀綱之理,不顧逆順之節,横易冀州之主,欲当先公之継.遂放兵鈔撥,屠城殺吏,交尸盈原,裸民満野,或有??髪膚,割截支体,?魂痛於幽冥,創痍号於草棘.又乃図獲?城,許賜秦?胡,財物婦女,予有分界.或聞告令吏士云:『孤雖有老母,輒使身体完具而已.』聞此言者,莫不驚愕失気,悼心揮涕,使太夫人憂哀憤懣于堂室,我州君臣士友仮寐悲歎,無所措其手足;念欲静師拱黙以聴執事之図,則懼違春秋死命之節,貽太夫人不測之患,隕先公高世之業.且三軍憤慨,人懐私怒,我将軍辞不獲已,以及館陶之役.是時外為禦難,?実乞罪,既不見赦,而(屠辱谷)[屠各]二三其心,臨陳叛?.我将軍進退無功,首尾受敵,引軍奔避,不敢告辞.亦謂将軍当少垂親親之仁,?以緩追之恵,而乃尋蹤躡軌,無所逃命.困獸必?,以干厳行,而将軍師旅土崩瓦解,此非人力,乃天意也.是後又望将軍改往修来,克己復礼,追還孔懐如初之愛;而縦情肆怒,趣破家門,企踵鶴立,連結外讎,散鋒於火,播増毒螫,烽煙相望,?血千里,遺城厄民,引領悲怨,雖欲勿救,悪得已哉!故遂引軍東轅,保正疆?,雖近郊塁,未侵境域,然望旌麾,能不永歎?配等備先公家臣,奉廃立之命.而図等干国乱家,礼有常刑.故奮敝州之賦,以除将軍之疾,若乃天?于心,早行其誅,則我将軍匍匐悲号于将軍股掌之上,配等亦袒躬布体以待斧鉞之刑.若必不悛,有以国斃,図頭不県,軍不旋踵.願将軍詳度事宜,錫以環?.」典略曰:譚得書悵然,登城而泣.既劫于郭図,亦以兵鋒累交,遂戦不解.

[四] 先賢行?曰:配字正南,魏郡人,少忠烈慷慨,有不可犯之節.袁紹領冀州,委以腹心之任,以為治中別駕,幷総幕府.初,譚之去,皆呼辛??郭図家得出,而辛評家独被収.及配兄子開城門?兵,時配在城東南角楼上,望見太祖兵入,忿辛?郭壊敗冀州,乃遣人馳詣?獄,指殺仲治家.是時,辛?在軍,聞門開,馳走詣獄,欲解其兄家,兄家已死.是日生縛配,将詣帳下,辛?等逆以馬鞭?其頭,罵之曰:「奴,汝今日真死矣!」配顧曰:「狗輩,正由汝曹破我冀州,恨不得殺汝也!且汝今日能殺生我邪?」有頃,公引見,謂配:「知誰開卿城門?」配曰:「不知也.」曰:「自卿(文)[子]栄耳.」配曰:「小児不足用乃至此!」公復謂曰:「曩日孤之行囲,何弩之多也?」配曰:「恨其少耳!」公曰:「卿忠于袁氏父子,亦自不得不爾也.」有意欲活之.配既無撓辞,而辛?等号哭不已,乃殺之.初,冀州人張子謙先降,素与配不善,笑謂配曰:「正南,卿竟何如我?」配厲声曰:「汝為降虜,審配為忠臣,雖死,豈若汝生邪!」臨行刑,叱持兵者令北向,曰:「我君在北.」楽資山陽公載記及袁?献帝春秋並云太祖兵入城,審配戦于門中,既敗,逃于井中,於井獲之.臣松之以為配一代之烈士,袁氏之死臣,豈当数窮之日,方逃身于井,此之難信,誠為易了.不知資??之徒竟為何人,未能識別然否,而軽弄翰墨,妄生異端,以行其書.如此之類,正足以誣罔視聴,疑誤後生矣.寔史籍之罪人,達学之所不取者也.

 太祖之囲?也,譚略取甘陵?安平?勃海?河間,攻尚於中山.尚走故安従熙,譚悉収其?.太祖将討之,譚乃抜平原,幷南皮,自屯龍湊.十二月,太祖軍其門,譚不出,夜遁奔南皮,臨清河而屯.十年正月,攻抜之,斬譚及図等.熙?尚為其将焦觸?張南所攻,奔遼西烏丸.觸自号幽州刺史,駆率諸郡太守令長,背袁向曹,陳兵数万,殺白馬盟,令曰:「違命者斬!」?莫敢語,各以次歃.至別駕韓?,曰:「吾受袁公父子厚恩,今其破亡,智不能救,勇不能死,於義闕矣;若乃北面於曹氏,所弗能為也.」一坐為?失色.觸曰:「夫興大事,当立大義,事之済否,不待一人,可卒?志,以勵事君.」高幹叛,執上党太守,挙兵守壺口関.遣楽進?李典?之,未抜.十一年,太祖征幹.幹乃留其将夏昭?鄧升守城,自詣匈奴単于求救,不得,独与数騎亡,欲南奔荊州,上洛都尉捕斬之.[一]十二年,太祖至遼西?烏丸.尚?熙与烏丸逆軍戦,敗走奔遼東,公孫康誘斬之,送其首.[二]太祖高韓?節,?辟不至,卒於家.[三]

[一] 典略曰:上洛都尉王?獲高幹,以功封侯;其妻哭于室,以為?富貴将更娶妾?而奪己愛故也.

[二] 典略曰:尚為人有勇力,欲奪取康?,与熙謀曰:「今到,康必相見,欲与兄手?之,有遼東猶可以自広也.」康亦心計曰:「今不取熙?尚,無以為?於国家.」乃先置其精勇于?中,然後請熙?尚.熙?尚入,康伏兵出,皆縛之,坐于凍地.尚寒,求席,熙曰:「頭顱方行万里,何席之為!」遂斬首.譚,字顕思.熙,字顕奕.尚,字顕甫.?書曰:尚有弟名買,与尚?走遼東.曹瞞伝云:買,尚兄子.未詳.

[三] 先賢行?曰:?字子佩,代郡人,清粋有雅量.少喪父母,奉養兄?,宗族称孝悌焉.

袁術伝

 袁術字公路,司空逢子,紹之従弟也.以?気聞.挙孝廉,除郎中,?職?外,後為折衝校尉?虎賁中郎将.董卓之将廃帝,以術為後将軍;術亦畏卓之禍,出奔南陽.会長沙太守孫堅殺南陽太守張咨,術得拠其郡.南陽?口数百万,而術奢淫肆欲,?斂無度,百姓苦之.既与紹有隙,又与劉表不平而北連公孫?;紹与?不和而南連劉表.其兄弟携貳,舎近交遠如此.[一]引軍入陳留.太祖与紹合?,大破術軍.術以余?奔九江,殺揚州刺史陳?,領其州.[二]以張勲?橋?等為大将軍.李?入長安,欲結術為援,以術為左将軍,封陽?侯,仮節,遣太傅馬日?因循行拝授.術奪日?節,拘留不遣.[三]

[一] ?書曰:時議者以霊帝失道,使天下叛乱,少帝幼弱,為賊臣所立,又不識母氏所出.幽州牧劉虞宿有徳望,紹等欲立之以安当時,使人報術.術観漢室衰陵,陰懐異志,故外託公義以拒紹.紹復与術書曰:「前与韓文節共建永世之道,欲海?見再興之主.今西名有幼君,無血之属,公卿以下皆媚事卓,安可復信!但当使兵往屯関要,皆自蹙死于西.東立聖君,太平可冀,如何有疑!又室家見戮,不念子胥,可復北面乎?違天不祥,願詳思之.」術答曰:「聖主聰叡,有周成之質.賊卓因危乱之際,威服百寮,此乃漢家小厄之会.乱尚未厭,復欲興之.乃云今主『無血之属』,豈不誣乎!先人以来,奕世相承,忠義為先.太傅公仁慈惻隠,雖知賊卓必為禍害,以信徇義,不忍去也.門?滅?,死亡流漫,幸蒙遠近来相赴助,不因此時上討国賊,下刷家恥,而図於此,非所聞也.又曰『室家見戮,可復北面』,此卓所為,豈国家哉?君命,天也,天不可讎,況非君命乎!??赤心,志在滅卓,不識其他.」

[二] 臣松之案英雄記:「陳?字元悌,汝南人.先為揚州刺史,自病死.袁紹遣袁遺領州,敗散,奔沛国,為兵所殺.袁術更用陳?為揚州.?字公?,下?人.?既領州,而術敗于封丘,南向寿春,?拒術不納.術退保陰陵,更合軍攻?,?懼走帰下?.」如此,則?不為術所殺,与本伝不同.

[三] 三輔決?注曰:日?字翁叔,馬融之族子.少伝融業,以才学進.与楊彪?盧植?蔡?等典校中書,?位九卿,遂登台輔.献帝春秋曰:術従日?借節観之,因奪不還,備軍中千余人,使促辟之.日?謂術曰:「卿家先世諸公,辟士云何,而言促之,謂公府掾可劫得乎!」従術求去,而術留之不遣;既以失節屈辱,憂恚而死.

 時沛相下?陳珪,故太尉球弟子也.術与珪?公族子孫,少共交游,書与珪曰:「昔秦失其政,天下?雄争而取之,兼智勇者卒受其帰.今世事紛擾,復有瓦解之勢矣,誠英乂有為之時也.与足下旧交,豈肯左右之乎?若集大事,子実為吾心膂.」珪中子応時在下?,術並脅質応,図必致珪.珪答書曰:「昔秦末世,肆暴恣情,虐流天下,毒被生民,下不堪命,故遂土崩.今雖季世,未有亡秦苛暴之乱也.曹将軍神武応期,興復典刑,将撥平凶慝,清定海?,信有?矣.以為足下当?力同心,匡翼漢室,而陰謀不軌,以身試禍,豈不痛哉!若迷而知反,尚可以免.吾備旧知,故陳至情,雖逆于耳,骨肉之恵也.欲吾営私阿附,有犯死不能也.」

 興平二年冬,天子敗於曹陽.術会?下謂曰:「今劉氏微弱,海?鼎沸.吾家四世公輔,百姓所帰,欲応天順民,於諸君意如何?」?莫敢対.主簿閻象進曰:「昔周自后稷至于文王,積徳累功,三分天下有其二,猶服事殷.明公雖奕世克昌,未若有周之盛,漢室雖微,未若殷紂之暴也.」術?然不悦.用河?張之符命,遂僭号[一]以九江太守為淮南尹.置公卿,祠南北郊.荒侈滋甚,後宮数百皆服綺?,余粱肉,[二]而士卒凍餒,江淮間空尽,人民相食.術前為呂布所破,後為太祖所敗,奔其部曲雷薄?陳蘭于?山,復為所拒,憂懼不知所出.将帰帝号於紹,欲至青州従袁譚,発病道死.[三]妻子依術故吏廬江太守劉勲,孫策破勲,復見収視.術女入孫権宮,子燿拝郎中,燿女又配於権子奮.

[一] 典略曰:術以袁姓出陳,陳,舜之後,以土承火,得応運之次.又見讖文云:「代漢者,当塗高也.」自以名字当之,乃建号称仲氏.

[二] 九州春秋曰:司隷馮方女,国色也,避乱揚州,術登城見而悦之,遂納焉,甚愛幸.諸婦害其寵,語之曰:「将軍貴人有志節,当時時涕泣憂愁,必長見敬重.」馮氏以為然,後見術輒垂涕,術以有心志,益哀之.諸婦人因共絞殺,懸之廁梁,術誠以為不得志而死,乃厚加殯斂.

[三] 魏書曰:術帰帝号于紹曰:「漢之失天下久矣,天子提挈,政在家門,豪雄角逐,分裂疆宇,此与周之末年七国分勢無異,卒彊者兼之耳.加袁氏受命当王,符瑞炳然.今君擁有四州,民?百万,以彊則無与比大,論徳則無与比高.曹操欲扶衰拯弱,安能續?命救已滅乎?」紹陰然之.?書曰:術既為雷薄等所拒,留住三日,士??糧,乃還至江亭,去寿春八十里.問廚下,尚有麦屑三十斛.時盛暑,欲得蜜漿,又無蜜.坐櫺?上,歎息良久,乃大?曰:「袁術至于此乎!」因頓伏?下,嘔血斗余而死.

劉表伝

 劉表字景升,山陽高平人也.少知名,号八俊.[一]長八尺余,姿貌甚偉.以大将軍掾為北軍中候.霊帝崩,代王叡為荊州刺史.是時山東兵起,表亦合兵軍襄陽.[二]袁術之在南陽也,与孫堅合従,欲襲奪表州,使堅攻表.堅為流矢所中死,軍敗,術遂不能勝表.李?﹑郭氾入長安,欲連表為援,乃以表為鎮南将軍﹑荊州牧,封成武侯,仮節.天子都許,表雖遣使貢献,然北与袁紹相結.治中鄧羲諫表,表不聴,[三]羲辞疾而退,終表之世.張済引兵入荊州界,攻穰城,為流矢所中死.荊州官属皆賀,表曰:「済以窮来,主人無礼,至于交鋒,此非牧意,牧受弔,不受賀也.」使人納其?;?聞之喜,遂服従.長沙太守張羨叛表,[四]表囲之連年不下.羨病死,長沙復立其子懌,表遂攻幷懌,南収零﹑桂,北拠漢川,地方数千里,帯甲十余万.[五]

[一] 張?漢紀曰:表与同郡人張隠﹑薛郁﹑王訪﹑宣靖﹑(公?恭)[公緒恭]﹑劉祗﹑田林為八交,或謂之八顧.漢末名士?云:表与汝南陳翔字仲麟﹑范滂字孟博﹑魯国孔昱字世元﹑勃海苑康字仲真﹑山陽?敷字文友﹑張倹字元節﹑南陽岑?字公孝為八友.謝承後漢書曰:表受学於同郡王暢.暢為南陽太守,行過乎倹.表時年十七,進諫曰:「奢不僭上,倹不逼下,蓋中庸之道,是故?伯玉恥独為君子.府君若不師孔聖之明訓,而慕夷斉之末操,無乃皎然自遺於世!」暢答曰:「以約失之者鮮矣.且以矯俗也.」

[二] 司馬彪戦略曰:劉表之初為荊州也,江南宗賊盛,袁術屯魯陽,尽有南陽之?.?人蘇代領長沙太守,貝羽為華容長,各阻兵作乱.表初到,単馬入宜城,而延中廬人?良﹑?越﹑襄陽人蔡瑁与謀.表曰:「宗賊甚盛,而?不附,袁術因之,禍今至矣!吾欲?兵,恐不集,其策安出?」良曰:「?不附者,仁不足也,附而不治者,義不足也;苟仁義之道行,百姓帰之如水之趣下,何患所至之不従而問興兵与策乎?」表顧問越,越曰:「治平者先仁義,治乱者先権謀.兵不在多,在得人也.袁術勇而無断,蘇代﹑貝羽皆武人,不足慮.宗賊帥多貪暴,為下所患.越有所素養者,使示之以利,必以?来.君誅其無道,撫而用之.一州之人,有楽存之心,聞君盛徳,必襁負而至矣.兵集?附,南拠江陵,北守襄陽,荊州八郡可伝檄而定.術等雖至,無能為也.」表曰:「子柔之言,雍季之論也.異度之計,臼犯之謀也.」遂使越遣人誘宗賊,至者五十五人,皆斬之.襲取其?,或即授部曲.唯江夏賊張虎﹑陳生擁?拠襄陽,表乃使越与?季単騎往?降之,江南遂悉平.

[三] 漢晋春秋曰:表答羲曰:「?不失貢職,外不背盟主,此天下之達義也.治中独何怪乎?」

[四] 英雄記曰:張羨,南陽人.先作零陵﹑桂陽長,甚得江﹑湘間心,然性屈彊不順.表薄其為人,不甚礼也.羨由是懐恨,遂叛表焉.

[五] 英雄記曰:州界?寇既尽,表乃開立学官,博求儒士,使?毋?﹑宋忠等撰五経章句,謂之後定.

 太祖与袁紹方相持于官渡,紹遣人求助,表許之而不至,亦不佐太祖,欲保江漢間,観天下変.従事中郎韓嵩﹑別駕劉先?表曰:「豪傑並争,両雄相持,天下之重,在於将軍.将軍若欲有為,起乗其弊可也;若不然,固将択所従.将軍擁十万之?,安坐而観望.夫見賢而不能助,請和而不得,此両怨必集於将軍,将軍不得中立矣.夫以曹公之明哲,天下賢俊皆帰之,其勢必挙袁紹,然後称兵以向江漢,恐将軍不能禦也.故為将軍計者,不若挙州以附曹公,曹公必重徳将軍;長享福祚,垂之後嗣,此万全之策也.」表大将?越亦勧表,表狐疑,乃遣嵩詣太祖以観?実.嵩還,深陳太祖威徳,?表遣子入質.表疑嵩反為太祖?,大怒,欲殺嵩,考殺随嵩行者,知嵩無他意,乃止.[一]表雖外貌儒雅,而心多疑忌,皆此類也.

[一] 傅子曰:初表謂嵩曰:「今天下大乱,未知所定,曹公擁天子都許,君為我観其釁.」嵩対曰:「聖達節,次守節.嵩,守節者也.夫事君為君,君臣名定,以死守之;今策名委質,唯将軍所命,雖赴湯蹈火,死無辞也.以嵩観之,曹公至明,必済天下.将軍能上順天子,下帰曹公,必享百世之利,楚国実受其祐,使嵩可也;設計未定,嵩使京師,天子仮嵩一官,則天子之臣,而将軍之故吏耳.在君為君,則嵩守天子之命,義不得復為将軍死也.唯将軍重思,無負嵩.」表遂使之,果如所言,天子拝嵩侍中,遷零陵太守,還称朝廷﹑曹公之徳也.表以為懐貳,大会寮属数百人,陳兵見嵩,盛怒,持節将斬之,数曰:「韓嵩敢懐貳邪!」?皆恐,欲令嵩謝.嵩不動,謂表曰:「将軍負嵩,嵩不負将軍!」具陳前言.表怒不已,其妻蔡氏諫之曰:「韓嵩,楚国之望也;且其言直,誅之無辞.」表乃弗誅而囚之.

 劉備奔表,表厚待之,然不能用.[一]建安十三年,太祖征表,未至,表病死.

[一] 漢晋春秋曰:太祖之始征柳城,劉備?表使襲許,表不従.及太祖還,謂備曰:「不用君言,故失此大会也.」備曰:「今天下分裂,日尋干戈,事会之来,豈有終極乎?若能応之於後者,則此未足為恨也.」

 初,表及妻愛少子琮,欲以為後,而蔡瑁﹑張允為之支党,乃出長子琦為江夏太守,?遂奉琮為嗣.琦与琮遂為讎隙.[一]越﹑嵩及東曹掾傅巽等?琮帰太祖,琮曰:「今与諸君拠全楚之地,守先君之業,以観天下,何為不可乎?」巽対曰:「逆順有大体,彊弱有定勢.以人臣而拒人主,逆也;以新造之楚而禦国家,其勢弗当也;以劉備而敵曹公,又弗当也.三者皆短,欲以抗王兵之鋒,必亡之道也.将軍自料何与劉備?」琮曰:「吾不若也.」巽曰:「誠以劉備不足禦曹公乎,則雖保楚之地,不足以自存也;誠以劉備足禦曹公乎,則備不為将軍下也.願将軍勿疑.」太祖軍到襄陽,琮挙州降.備走奔夏口.[二]

[一] 典略曰:表疾病,琦還省疾.琦性慈孝,瑁﹑允恐琦見表,父子相感,更有託後之意,謂曰:「将軍命君撫臨江夏,為国東藩,其任至重;今釈?而来,必見譴怒,傷親之歓心以増其疾,非孝敬也.」遂遏于?外,使不得見,琦流涕而去.

[二] 傅子曰:巽子公悌,偉博達,有知人鑑.辟公府,拝尚書郎,後客荊州,以?劉琮之功,賜爵関?侯.文帝時為侍中,太和中卒,巽在荊州,目?統為半英雄,証裴潜終以清行顕;統遂附劉備,見待次于諸葛亮,潜位至尚書令,並有名徳.及在魏朝,魏諷以才智聞,巽謂之必反,卒如其言.巽弟子?,別有伝.漢晋春秋曰:王威?劉琮曰:「曹操得将軍既降,劉備已走,必解弛無備,軽行単進;若給威奇兵数千,徼之於険,操可獲也.獲操即威震天下,坐而虎?,中夏雖広,可伝檄而定,非徒収一勝之功,保守今日而已.此難遇之機,不可失也.」琮不納.搜神記曰:建安初,荊州童謠曰:「八九年間始欲衰,至十三年無孑遺.」言自(中興)[中平]以来,荊州独全,及劉表為牧,民又豊楽,至建安八年九年当始衰.始衰者,謂劉表妻死,諸将並零落也.十三年無孑遺者,表当又死,因以喪破也.是時,華容有女子忽啼呼云:「荊州将有大喪.」言語過差,県以為妖言,?獄月余,忽于獄中哭曰:「劉荊州今日死.」華谷去州数百里,即遣馬吏驗視,而劉表果死,県乃出之.續又歌吟曰:「不意李立為貴人.」後無幾,太祖平荊州,以?郡李立字建賢為荊州刺史.

 太祖以琮為青州刺史﹑封列侯.[一]?越等侯者十五人.越為光禄勲;[二]嵩,大鴻臚;[三]羲,侍中;[四]先,尚書令;其余多至大官.[五]

[一] 魏武故事載令曰:「楚有江﹑漢山川之険,後服先疆,与秦争衡,荊州則其故地.劉鎮南久用其民矣.身没之後,諸子鼎峙,雖終難全,猶可引日.青州刺史琮,心高志潔,智深慮広,軽栄重義,薄利厚徳,蔑万里之業,忽三軍之?,篤中正之体,教令名之誉,上耀先君之遺塵,下図不朽之余祚;鮑永之棄幷州,竇融之離五郡,未足以?也.雖封列侯一州之位,猶恨此寵未副其人;而比有牋求還州.監史雖尊,秩禄未優.今聴所執,表琮為諫議大夫,参同軍事.」

[二] 傅子曰:越,?通之後也,深中足智,魁傑有雄姿.大将軍何進聞其名,辟為東曹掾.越勧進誅諸閹官,進猶予不決.越知進必敗,求出為汝陽令,佐劉表平定境?,表得以彊大.詔書拝章陵太守,封樊亭侯.荊州平,太祖与荀彧書曰:「不喜得荊州,喜得?異度耳.」建安十九年卒.臨終,与太祖書,託以門?.太祖報書曰:「死者反生,生者不愧.孤少所挙,行之多矣.魂而有霊,亦将聞孤此言也.」

[三] 先賢行?曰:嵩字徳高,義陽人.少好学,貧不改操.知世将乱,不応三公之命,与同好数人隠居于?西山中.?巾起,嵩避難南方,劉表逼以為別駕,転従事中郎.表郊祀天地,嵩正諫不従,漸見違忤.奉使到許,事在前注.荊州平,嵩疾病,就在所拝授大鴻臚印綬.

[四] 羲,章陵人.

[五] 零陵先賢伝曰:先字始宗,博学彊記,尤好?老言,明習漢家典故.為劉表別駕,奉章詣許,見太祖.時賓客並会,太祖問先:「劉牧如何郊天也?」先対曰:「劉牧託漢室肺腑,処牧伯之位,而遭王道未平,?凶塞路,抱玉帛而無所聘?,修章表而不獲達御,是以郊天祀地,昭告赤誠.」太祖曰:「?凶為誰?」先曰:「挙目皆是.」太祖曰:「今孤有熊羆之士,?騎十万,奉辞伐罪,誰敢不服?」先曰:「漢道陵遅,?生憔悴,既無忠義之士,翼戴天子,綏寧海?,使万邦帰徳,而阻兵安忍,曰莫己若,既蚩尤﹑智伯復見于今也.」太祖?然.拝先武陵太守.荊州平,先始為漢尚書,後為魏国尚書令.先甥同郡周不疑,字元直,零陵人.先賢伝称不疑幼有異才,聰明敏達,太祖欲以女妻之,不疑不敢当.太祖愛子倉舒,夙有才智,謂可与不疑為儔.及倉舒卒,太祖心忌不疑,欲除之.文帝諫以為不可,太祖曰:「此人非汝所能駕御也.」乃遣刺客殺之.摯虞文章志曰:不疑死時年十七,著文論四首.世語曰:表死後八十余年,至晋太康中,表?見発.表及妻身形如生,芬香聞数里.

 評曰:董卓狼?賊忍,暴虐不仁,自書契已来,殆未之有也.[一]袁術奢淫放肆,栄不終己,自取之也.[二]袁紹﹑劉表,咸有威容﹑器観,知名当世.表跨蹈漢南,紹鷹揚河朔,然皆外寛?忌,好謀無決,有才而不能用,聞善而不能納,廃嫡立庶,舎礼崇愛,至于後嗣顚蹙,社稷傾覆,非不幸也.昔項羽背范増之謀,以喪其王業;紹之殺田豊,乃甚於羽遠矣!

[一] 英雄記曰:昔大人見臨?而銅人鑄,臨?生卓而銅人毀;世有卓而大乱作,大乱作而卓身滅,抑有以也.

[二] 臣松之以為桀﹑紂無道,秦﹑莽縦虐,皆多?年所,然後?悪乃著.董卓自竊権柄,至于隕斃,計其日月,未盈三周,而禍崇山岳,毒流四海.其残賊之性,寔豺狼不若.「書契未有」,斯言為当.但評既曰「賊忍」,又云「不仁」,賊忍,不仁,於辞為重.袁術無毫芒之功,繊介之善,而猖狂于時,妄自尊立,固義夫之所扼腕,人鬼之所同疾.雖復恭倹節用,而猶必覆亡不暇,而評但云「奢淫不終」,未足見其大悪.