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原著作者:【むじん書院】

破虜伝

孫堅文台といい、呉郡富春の人である。おそらく孫武の後裔なのだろう。[一]若くして県吏となった。十七歳のとき、父と一緒に船に載って銭唐まで行ったが、ちょうど海賊の胡玉らが匏里から上陸して商人の財物を略奪し、岸の上でそれを分配しようとしているところだった。旅人たちはみな立ち往生し、船は進むことができなかった。孫堅は父に言った。「こいつら賊どもを攻撃すべきです。やつらを討伐させてください。」父は言った。「の考えられることじゃないぞ。」孫堅は突き進んで刀を引っ提げて岸に上がり、手で東西に指しまねき、部下の兵士を分散させて賊を包囲遮断するかのようなふりをした。賊は眺め見て、官兵が捕まえにきたと思い、すぐさま財物を棄てて逃げ散った。孫堅は追いかけて斬り、首級一つを持って帰ってきたので、父は大いに驚いた。これによって名声は顕著となり、(県の?)府に召されて仮のに任命された。会稽妖賊(宗教に基づく叛逆者)許昌句章で蜂起し、自ら陽明皇帝を称して、[二]その子許韶とともに諸県を煽動し、軍勢は万単位で数えられた。孫堅は郡の司馬として精鋭を募って千人余りを得て、州郡と合流して彼らを討ち破った。この歳は熹平元年(一七二)である。刺史臧旻が功績をつぶさに列挙して上表したので、詔書が下って孫堅は塩瀆県丞に叙任され、数年して盱眙県丞に異動となり、さらに下邳県丞に異動になった。[三]

[一] 『呉書』に言う。孫堅(の家)は代々(郡)に仕官していて、富春に居住し、(亡くなれば)城の東に葬られていた。塚の上にしばしば光の怪現象が現れ、雲気は五色となり、立ち上って天まで届き、数里も広がった。人々は出かけて観察した。父老たちは「これは非凡な気だ。孫氏は勃興するだろう!」と言い合った。母は孫堅を懐妊するに及び、腸が飛び出して呉の閶門を取り巻くという夢を見た。目が覚めると心配になり、隣家の母(年上の女性)に告げた。隣家の母は言った。「どうして吉兆でないと思うのですか。」孫堅が生まれると、容貌は非凡であり、性質は闊達、立派な節義を好んだ。

[二] 『霊帝紀』に言う。許昌はその父を越王とした。

[三] 『江表伝』に言う。孫堅は三県の補佐(丞)を歴任し、至るところで名声があり、官吏・人民は親しみ懐いた。郷里の旧知や時事を好む若者が(孫堅の家を)往来して、いつも数百人になったが、孫堅は手厚く接して待遇し、あたかも子弟のようであった。

中平元年(一八四)、黄巾賊の総帥張角魏郡で蜂起し、神霊にかこつけて、八人の使者を派遣し、善道によって天下を教化し、その一方で密かに連結を組み、自ら黄天泰平と称した。三月甲子、三十六万は同じ日に一斉に決起し、天下は響くように呼応し、郡県を燃焼し、長吏(県令・県長)を殺害した。[一]漢(の朝廷)は車騎将軍皇甫嵩中郎将朱儁を派遣して軍勢を率いさせ、これを討伐させた。朱儁は上表して孫堅を左軍司馬にするよう請願した。郷里の若者たちのうち、下邳に付いてきた者たちはみな従軍を願い出た。孫堅は一方でもろもろの旅商人や淮水・泗水流域の精鋭を募り、千人ばかりを糾合し、朱儁と力を合わせて奮闘したが、向かうところ敵なしだった。[二]汝(南)・潁(川)の賊どもは追い詰められ、逃走して宛城に楯籠った。孫堅は自ら一方面を担当し、城壁をよじのぼって先に入り、軍勢はそのあとで蟻のように張り付き、ついにこれを大破した。朱儁がつぶさに状況を上表すると、孫堅は別部司馬の官を授けられた。[三]

[一] 『献帝春秋』に言う。張角は天公将軍を称し、張角の弟張宝地公将軍を称し、張宝の弟張梁人公将軍を称した。

[二] 『呉書』に言う。孫堅は勝利に乗じて深く進入したが、西華で不利となった。孫堅は傷付いて落馬し、草むらの中に倒れ伏した。軍の人々が手を分け(て探し)たが、孫堅の所在は知れなかった。孫堅の葦毛の乗馬が走って陣営に帰ってきて、逆立ちしていなないた。将兵は馬に付いていって草むらの中で孫堅を見付けた。孫堅は陣営に戻って十数日すると傷が少し癒えたので、そこで再び戦闘に参加した。

[三] 『続漢書』に言う。朱儁は字を公偉といい、会稽の人である。若いころから学問を好み、郡の功曹となって孝廉に推薦され、進士に推挙された。漢朝では黄巾討伐の功績によって車騎将軍の官を授け、次々に昇進して河南尹となった。董卓は朱儁を謁見すると、表面的には親しげに迎え入れたが、内心では彼を憎んだ。朱儁のほうでもやはり密かに気構えをしていた。関東の兵が決起したとき、董卓が遷都しようと提議したが、朱儁はすぐさま董卓を止めた。董卓は朱儁を嫌ってはいたが、彼の名声の重さを利用するため、太僕に任じるよう上表して自分の補佐にしようとした。朱儁はお召しを被ったものの拝受することを承知せず、その機会に進言した。「国(都)は遷すべきではありません。きっと天下の希望に背くことになり、山東の結盟が成立してしまいます。にはその利点を見出せません。」担当官が難詰して言った。「君を召し出して拝授しようしたのに、君はそれを拒絶した。遷都のことは問われてないのに、君はそれを陳述した。どういうことか?」朱儁は言った。「相国を補佐することは臣にはできません。遷都が計算に合わないことは、臣の急務とするところです。できないことを辞退し、急務とすることを進言するのは、臣がなすべきことでしょう。」担当官は言った。「遷都のことなど初めからそんな計画はないのだ。たといあったとしてもまだ発表されていない。どこで聞いてきたのか?」朱儁は言った。「相国董卓が臣に説明したのです。臣はそれを相国からお聞きしました。」担当官は屈服させることができず、朝廷(の人々)は(朱儁を)称賛し感服した。のちに太尉となった。李傕・郭氾(郭汜)は攻撃しあって、天子・公卿をさらって人質とした。朱儁の性質は剛直であったので、すぐに病を発して卒去した。

辺章・韓遂涼州で混乱を起こした。中郎将董卓が迎え撃ったが成果を挙げられなかった。中平三年、司空張温に車騎将軍の職務を行わせ、西進して辺章らを討たせた。張温は上表して孫堅を参軍事にするよう要請し、長安に駐屯した。張温は詔書を奉じて董卓を召し寄せたが、董卓はしばらくしてからやっと張温のもとに出頭した。張温は董卓を譴責したが、董卓の対応は従順でなかった。孫堅はこのとき坐中にあったが、進み出て張温に耳語して言った。「董卓は罪をも恐れず大言壮語して威張っております。すぐさまお召しに応じてやって来なかったことを名目に、軍法を陳述して彼を斬るべきです。」張温は言った。「董卓は平素より隴・蜀地方で威名を顕しているから、今日彼を殺せば西進するにも伝手がなくなってしまう。」孫堅は言った。「明公は直々に天兵を率い、威光は天下を振るわしておられます。どうして董卓に頼ろうとなさるのです?董卓の言葉を観察いたしますと、明公に敬意を払わず、お上を軽んじて無礼です。(それが)第一の罪です。辺章・韓遂が跳梁跋扈して年をまたいでおり、時機を見て進んで討つべきなのに、董卓はまだ良くないと言っては軍勢を沮喪させ人々を心配させております。第二の罪です。董卓は任務を受け持ちながら功績がなく、お召しに応じるときもぐずぐずと先延ばしにし、そのくせ意気軒昂として自分を誇っております。第三の罪です。古代の名将はによって人々に臨み、斬刑の断行によって威信を示さなかった者はありません。これこそ穣苴荘賈を斬り、魏絳楊干を処刑しました(理由です)。いま明公は董卓に意を垂れられ、ただちに誅伐をお加えにならない。威信・刑罰の欠損はそのせいなのですぞ。」張温は摘発検挙するに忍びず、そこで言った。「君はひとまず帰りなさい。董卓に疑われるぞ。」孫堅はそこで立ち上がって退出した。辺章・韓遂は大軍が向かってくると聞き、仲間の軍勢が離散したので、みな降服を乞うた。軍は帰還したが、論議する者たちは、軍が敵と衝突していなかったことから論功行賞を行うべきでないとした。それでも孫堅が董卓の三つの罪を数え上げ、張温に彼を斬るよう勧めたと聞き、歎息しない者はなかった。孫堅は議郎の官を拝受した。当時、長沙の賊区星が将軍を自称し、軍勢一万人余りで城邑を攻め囲んでいた。そこで孫堅を長沙太守とした。郡に着任するや直々に将兵を率い、計略を施して、一ヶ月のあいだに区星らを撃ち破った。[一]周朝・郭石もやはり衆徒の頭目となって零(陵)・桂(陽)で蜂起し、区星と互いに呼応していた。そのまま越境して遠征討伐し、三郡は粛然とした。漢朝では前後の功績を記録し、孫堅を封じて烏程侯とした。[二]

[一] 『魏書』に言う。孫堅が郡に着任すると、郡中は震え上がって服従した。(孫堅は)善良な官吏を任用して命令した。「善良な者たちを鄭重に待遇し、公文書を管理しするときは必ず統治を遵守し、盗賊は太守に送付せよ。」

[二] 『呉録』に言う。当時、廬江太守陸康の従子が宜春県長であったが、賊に攻められ、使者をやって孫堅に救援を求めた。孫堅は(軍勢を)引き締めて彼を救援した。主簿が進み出て諫めたが、孫堅は返答して言った。「太守には文徳なく、征伐によって功績を立てた。郡境を越えて攻撃討伐し、異国を保全にしてやる。それによって罪を得たとしても、どうして海内に恥じよう?」そこで兵を進めて救援に赴くと、賊は聞いて逃げていった。

霊帝が崩御すると董卓が朝政を専断し、京城で横暴勝手を働いた。諸州郡はいずれも義兵を起こして董卓を討とうとした。[一]孫堅もまた兵を挙げた。荊州刺史王叡は平素から孫堅への待遇が無礼であったので、孫堅は通過したとき彼を殺した。[二]南陽に到達するころには、軍勢数万人になっていた。南陽太守張咨は軍が到着したと聞いても泰然自若としていた。[三]孫堅は牛酒を捧げて張咨に挨拶し、張咨も翌日やはり返礼のため孫堅のもとを訪ねた。酒宴がとなると、長沙の主簿が入ってきて孫堅に言上した。「事前に南陽へ回し文を送付しましたのに、道路は整備されず、軍需物資の備えはありませんでした。主簿を収監して事件の首謀者について尋問されたく存じます。」張咨は強い恐怖を抱き立ち去ろうとしたが、兵士が四方を取り巻いていて出ることができなかった。しばらくして、主簿がまた入ってきて孫堅に言上した。「南陽太守は義兵を足止めし、賊を時機に応じて討たせまいとしております。(太守を)収監して引っ張り出し、軍法を勘案して処理されたく存じます。」すぐさま張咨を軍門まで引っ張って行き、彼を斬った。郡中は戦慄して、要求して得られないものはなかった。[四]前進して魯陽に到達し、袁術に謁見した。袁術は上表して孫堅に破虜将軍を代行させ、予州刺史を領させた。そのまま軍勢を魯陽城で調練した。進軍して董卓を討つにあたって、長史公仇称に軍勢を率いさせて従事し(?)、州に還らせて軍糧を督促させることにした。城の東門の外に幔幕をめぐらして公仇称の出立に送別会を行い、官吏たちはみな参会した。董卓は歩騎数万人を遣して孫堅に迎撃させたが、軽騎兵数十騎が先に到達した。孫堅はちょうど酒を呑んで談笑していたところだったが、部曲に命令を下して陣列を整えて妄動しないようにさせた。後続の騎兵が次第に増えてくると、孫堅はゆっくりと座を立ち、(軍勢を)導いて入城させた。そこで左右の者に言った。「はじめ孫堅がすぐさま立ち上がらなかったのは、兵卒どもが踏みつけあって諸君らが入れなくなることを心配したからだ。」董卓の軍勢は孫堅の軍勢が非常に整然としていることを見て、あえて城を攻めることなく引き返していった。[五]孫堅はの東に移駐したが、董卓軍の総攻撃を受け、孫堅は数十騎とともに包囲を破って脱出した。孫堅はいつも赤い罽幘を着用していたが、を脱いで親近の将軍祖茂にこれを着用させた。董卓の騎兵は争って祖茂を追走したので、孫堅は間道をつたって逃げることができた。祖茂は追い詰められて馬を下り、幘を塚のあいだの焼け柱にかぶせ、そこで草むらの中に身を伏せた。董卓の騎兵は眺め見ながら幾重にも包囲したが、近付いてみてそれが柱であったと分かり、ようやく立ち去った。孫堅はふたたび軍勢を集めて陽人で合戦し、董卓軍を大破して、その都督華雄らを梟首した。当時、ある人が孫堅と袁術を離間させようとしたので、袁術は疑惑を抱き、軍糧を供給してやらなかった。[六]陽人は魯陽を去ること百里余りあったが、孫堅は夜中に馳せ帰って袁術に会い、地面に絵を描いて相談しながら言った。「身を投げ出して顧みない訳は、上は国家のために賊を討ち、下は将軍のご家門の私的な恨みをお慰めするためです。孫堅は董卓に骨肉の恨みがあるわけではありません。それなのに将軍は譖潤(?)の言葉をお受けになって、逆に嫌疑を差し向けなさるのか!」[七]袁術は踧踖とし、すぐに軍糧を徴発したので、孫堅は屯営に帰っていった。董卓は孫堅が勇猛であることを恐れ、そこで将軍李傕らを派遣して和親を求め、いま孫堅が子弟を刺史・郡守として列挙すれば、許諾して上表のうえ彼らを任用するだろうとした。孫堅は言った。「董卓は天に背いて非道であり、王室を転覆させようとしている。いまの三族を皆殺しにして四海に県示(掲示)してやらねば、は死んでも瞑目できない。どうして乃らと和親などしようか?」ふたたび大谷まで進軍し、雒陽てること九十里になった。[八]董卓はにわかに都を西方に移して(函谷)関に入り、雒陽のを焼き滅ぼした。孫堅はそこで前進して雒陽に入り、もろもろの陵墓を修復し、董卓が発掘したところを塞いで平らにした。[九]それが終わってから軍勢を率いて帰還し、魯陽に駐屯した。[一〇]

[一] 『江表伝』に言う。孫堅はこれを聞くと、胸を叩きながら歎いて言った。「張公(張温)がむかし吾の言葉に従っていたなら、朝廷はいまこの困難に遭わなかったであろうに。」

[二] 『王氏譜』を調べると、王叡は字を通耀といい、太保王祥の伯父である。『呉録』に言う。王叡は以前孫堅とともに零(陵)・桂(陽)を攻撃したことがあるが、孫堅が武官であることから言辞はすこぶる彼を軽んじたものであった。王叡が兵を挙げて董卓を討とうとするに及び、平素から武陵太守曹寅と折り合いが悪かったので、まず曹寅を殺すのだと揚言した。曹寅は恐れ、案行使者光禄大夫温毅の檄文を偽造し、孫堅に送付して王叡の罪過を説明し、逮捕して処刑執行したうえ、その様子を上表させようとした。孫堅は檄文を受け取ると軍勢を率いて王叡を襲撃した。王叡は軍勢が到達したと聞き、矢倉に登ってそれを眺め見て、使者を出して何をしようとしているのかを質問した。孫堅の先行部隊は返答した。「軍勢は久しく戦って苦労しておりますのに、頂戴したご褒美では衣服とするにも不足しております。使君のもとに参上して更なる資直をお願いするのです。」王叡は言った。「刺史がどうして物惜しみなどしよう?」すぐさま武器庫を開放し、(孫堅の兵が)自分で入ってそれを見て、残っている物があるかどうかを確認させた。軍勢が進んで矢倉の下まで来たとき、王叡は孫堅の姿を見付け、驚いて言った。「軍勢が勝手に恩賞を求めているというのに、孫使君がどうしてその中にいるのだ?」孫堅は言った。「使者(温毅)の檄文をこうむって君を誅するのです。」王叡は言った。「我はいかなる罪ぞ?」孫堅は言った。「居座ったまま対処しなかったことです。」王叡は追い詰められ、金を削り、それを飲んで死んだ。

[三] 『英雄記』に言う。張咨は字を子儀といい、潁川の人である。やはり名を知られていた。『献帝春秋』に言う。袁術は上表して孫堅を仮の中郎将とした。孫堅は南陽に到達すると、檄文を太守に送付して軍糧を請求した。張咨が綱紀に質問すると、綱紀は言った。「孫堅は隣郡の二千石取り(太守)ですから、調発に応じるべきではありません。」張咨はかくて与えなかった。

[四] 『呉歴』に言う。はじめ孫堅が南陽に到着したとき、張咨はすでに軍糧を供給しなかったうえ、さらに孫堅と会見することも承知しなかった。孫堅は軍勢を進めようとしたが、背後に懸念を持つことを恐れ、そこで急病にかかったと嘘を吐くと、全軍をこぞって恐れおののかせ、巫医(呪術を使う医者)を呼び迎えて山川を祀り祈禱させた。親しくしていた者を派遣して張咨を説得し、病気が危篤になったので軍勢を張咨に附属させたいと言わせた。張咨はそれを聞くと、内心では彼の軍勢を得られると思い、ただちに歩騎五・六百人を引き連れて(孫堅の)陣営に赴き、省望(病気見舞い)した。孫堅は臥せたまま彼に会ったが、いくばくもせぬうちに突然立ち上がり、剣を押さえて張咨を罵り、そのまま逮捕して彼を斬った。この記述は『(孫堅)本伝』と同じでない。

[五] 『英雄記』に言う。はじめ孫堅が董卓を討伐したとき、梁県の陽人に到達した。董卓はまた歩騎五千の軍勢を遣して彼を迎撃させることにして、陳郡太守胡軫大督護とし、呂布騎督とし、その他の歩騎・将校・都督は非常に大勢だった。胡軫は字を文才といい、短気な性格で、あらかじめ宣言していた。「今回のこの作戦は、要するに一青綬を斬ればよく、それですっきり治まるのだ。」諸将は聞いて彼を憎らしく思った。軍勢が広成に到達したが、陽人城を去ること数十里であった。日が暮れたとき、兵馬はともに疲労を極めており止宿すべきであった。またもともと董卓から指図を受けており、広成に宿営を張り、馬にをやって飲食し、夜になってから進軍し、夜明けとともに城を攻める手立てになっていた。諸将は胡軫を忌み嫌い、賊が彼の計画をめちゃくちゃにしてくれればよいと思った。呂布らは「陽人城中の賊はもう逃げていったぞ。追いかけて奴らを探さなければ見失ってしまうぞ」と喧伝し、すぐさま夜中に進軍した。城中の守備ははなはだ整っており襲撃できそうになかった。こうして官吏・兵士は飢え渇き、人馬ともに非常に疲労した。そのうえ夜中の着陣でもあり、また塹壕・堡塁もなかった。甲冑を解いて休息していると、呂布はまた喧伝して驚かそうとして言った。「城中の賊が出て来たぞ。」軍の人々は混乱して遁走し、みな甲冑を棄て、鞍や馬を失ってしまった。十里余りも行って賊がいないと分かった。ちょうど空が明るくなったので帰還し、武器を拾い取って、(改めて)進軍して城を攻めようとしたが、城壁の守備はすでに固められ、塹壕の掘削はすでに深く、胡軫らは攻撃することができないまま撤退した。

[六] 『江表伝』に言う。ある者が袁術に言った。「孫堅がもし洛陽を得たなら、もはや制御することはできなくなりますぞ。これこそ狼を取り除いて虎を得ることでしょう。」そのため袁術は彼を疑うようになった。

[七] 『江表伝』に載せる孫堅の言葉に言う。「大きな勲功はもたらされようとしているのに、軍糧は継続しません。これこそ呉起西河において歎き泣いて、楽毅が成功を目前にして遺恨を持ちました(理由です)。願わくば将軍はこれを深くご考慮くだされよ。」

[八] 『山陽公載記』に言う。董卓は長史劉艾に言った。「関東軍は敗北すること多く、みなを畏怖し、なすすべを知らない。ただ孫堅だけはさほど馬鹿じゃなく、すこぶる人使いがうまい。諸将に告げて彼に注意するよう知らしめる必要がある。孤がむかし周慎と西方征伐に行ったとき、周慎は金城で辺(章)・韓(遂)を包囲した。孤は麾下の軍兵を連れて周慎の後詰めをしたいと張温に申し出たが、張温は聞き入れなかった。孤はこのとき形勢について言上したのだが、周慎が必ず勝利できないことを知っていたのだ。(尚書)台には今でも一部始終(の記録)が残っている。その作戦の戦況報告が届かぬうちに、張温はまた孤に先零の叛逆した族を討伐させたが、西方を一斉に平定してしまおうと考えていたのだ。孤はそれが叶わないことを知悉していたが、やむを得ず出発し、別部司馬劉靖に歩騎四千を率いさせて安定に駐留させ、連動の態勢を取らせた。叛逆した羌族どもが再び帰ってきて、退路を断ちきろうとしたが、孤が少し攻撃しただけですぐさま道を開けた。安定に軍勢がいることを恐れたからだ。どもは安定に数万人がいると思っており、劉靖ただ一人しかいないことを知らなかったのだ。この時また戦況を説明して上表したのだが、一方で孫堅は周慎に随行しており、一万の軍勢を率いて金城に行かせて欲しい、周慎が二万人で後詰めをすれば、辺・韓の城中は穀物の貯えがないため外から搬入するはずだが、周慎の大軍を恐れて軽々しく孫堅には挑戦しないだろう、それでも孫堅の軍勢は彼らの糧道を断ちきるには充分だと(孫堅は)周慎に告げた。小僧(周慎)どもが用いていれば、必ず羌族どもは谷中に帰ったはずで、もしかすると涼州は平定できたかも知れぬ。張温が孤を用いることができなかったように、周慎もやはり孫堅を用いることができず、自分から金城を攻撃し、その外側の城壁を破壊したとき、使者を張温に送って、勝利は朝夕にも得られるだろうと言った。張温もまた自分の計略が当たったと思っていた。しかし渡遼児がはたして蔡園を断ちきると、周慎は輜重を棄てて逃走し、結局、孤が考えていた通りになってしまった。(尚書)台はこれによって孤を都郷侯に封じたのだが、孫堅は佐軍司馬だったので他人と同等に扱われたのに、自分では当然だと思っていたのだ。」劉艾は言った。「孫堅は時々計略を見せるといっても、もともと李傕・郭氾にも及びません。聞けば美陽亭の北方で千人の歩騎を率いて虜どもと合戦し、ほとんど死にかけたばかりか、印綬まで亡くしてしまったとのこと。これでは有能とは言えません。」董卓は言った。「孫堅はそのとき義従たちを烏合させており、軍勢は虜どもの精強さには及ばなかった。それに戦闘には勝敗が付き物だ。ただ山東の大勢を論考するにあたって、最終的には必然の結果などありはしないのだ。」劉艾は言った。「山東の小僧どもは百姓たちを駆り立てて叛逆侵害を働いておりますが、その鋒先は他人(董卓)に及ばず、甲冑の堅さ、兵器の鋭さ、弓弩の強さにかける軍資金も他人には及ばないのですから、どうして長続きしましょう?」董卓は言った。「そうだ。ただ二袁(袁紹・袁術)と劉表・孫堅を殺すだけで、天下は向こうから孤に服従するだろう。」

[九] 『江表伝』に言う。旧都は空虚となり、数百里のあいだ(煮炊きのための)火や煙はなかった。孫堅は前進して入城すると、肩を落として涙を流した。『呉書』に言う。孫堅は入洛すると漢の宗廟を掃除し、太牢(の生け贄)を捧げて祀った。孫堅の軍勢は城南の甄官井の上にいたが、朝、五色の気が発生した。軍はこぞって驚き怪しみ、水を汲もうとする者はいなくなった。孫堅が人に命じて井戸へ潜らせて調査させると、漢の伝国の御璽が見付かった。印文には「命を天において受く。すでに寿しくして永昌ならん」とあり、周囲は四寸、上の紐には五龍が交差し、上の一つは角が欠けている。むかし黄門張譲らが混乱を起こし、天子を誘拐して出奔したことがあったが、左右の者は分散し、御璽を管掌する者が井戸の中に投げ入れたのである。『山陽公載記』に言う。袁術は帝号を僭称しようとしたとき、孫堅が伝国の御璽を手に入れたと聞き、孫堅の夫人を拘禁してそれを奪い上げた。『江表伝』に言う。『漢献帝起居注』を調べると、天子は黄河のほとりから帰還し、の上で六つの御璽を手に入れたと言っており、また太康年間(二八〇~二九〇)のはじめ、孫皓は黄金の御璽六枚を返上しているが、玉製のものはなかった。明らかにこれは偽りである。虞喜の『志林』に言う。天子の六つの御璽というものは、印文が「皇帝之璽」「皇帝行璽」「皇帝信璽」「天子之璽」「天子行璽」「天子信璽」とあるもので、この六つの御璽は用途の違いによって印文が同じでないのである。『献帝起居注』が「黄河のほとりから帰還し、閣の上で六つの御璽を手に入れた」と言うのは、それのことを言っているのだ。伝国の御璽というものは、すなわち高祖が身に付けたもので、の皇帝の御璽であったが、代々伝受したので伝国の御璽と呼ぶのである。思うに伝国の御璽は六つの御璽には数えない。どうしてそれを一緒くたに説くことができよう?氏の『漢官』や皇甫の『世紀』が六つの御璽を論じているところでは、文意がみな符合している。『漢官』では伝国の御璽の印文を「命を天において受く。すでに寿しくして且つ康し」と言っていて、「且康」と「永昌」の二字の違いがあるが、両家(呉書・漢官)のどちらを採るべきかはわからない。黄金や玉の精気というのは、おおかた光を放つものであるし、そのうえ神器秘宝なのだから、光り輝いてますます明らかとなり、思うに一代の奇観であっただろうし、後々までの語りぐさになったに違いない。それなのに理解できないからといって、これを偽りだと強弁するのは誣告ではあるまいか!陳寿が『破虜伝』を作ったときこの説を除外したのは、やはり『(献帝)起居注』に惑わされ、六つの御璽というのが別物の名前で、伝国と合わせて七つになることを知らなかったからである。には当時、玉を彫刻する技術がなかったので、それゆえ天子は黄金によって御璽を作ったのである。御璽が黄金製であるとはいえ、印文は変わらない。呉は降服して御璽を送ったが、送ったのは天子の六つの御璽で、むかし手に入れた玉璽のほうは、古代の人々が残した刻印であったため使用することはできなかった。天子之璽が現在ないからといって論難するのは、その意義を理解していないからに過ぎない。臣裴松之が思うに孫堅は義兵を興した者のうち忠烈の名声は一番であった。もし漢の神器を手に入れながら隠匿して言わなければ、それは密かに異心を抱いたことになる。どうして忠烈者と言えようか?呉の史書は国を飾り立てようとして、それが孫堅の人徳を損なってしまっていることに気付かなかったのだ。もしその通りだとしたら(玉璽は)子孫に伝わっているはずだ。たとえ六つの御璽に数えられないとしても、常人が持つべきものではない。孫皓が降服したときも、ただ六つの御璽だけを差し出して、伝国(の玉璽)を宝にして隠してよいものではない。「命を天において受く」のだから、どうして帰命(孫皓)の座敷などからもたらされるのか。もし虞喜の言葉通りだとしたら、この玉璽は今なお孫氏一門が保有しているはずだ。匹夫は璧を抱いただけでも罪になると言う。ましてやこのような物ならなおさらだ!

[一〇] 『呉録』に言う。このとき関東の州郡は、互いに吸収合併しあって自分を強大にするよう努力していた。袁紹は会稽のグを予州刺史にして派遣し、来襲して(予)州を奪取させた。孫堅は慨然として歎いて言った。「一緒に義兵を挙げたのは社稷を救うためなのに、逆賊が破滅しそうになるとおのおのがこんな有様だ。吾は誰と力を合わせればよいのか!」言葉を発すると同時に涕がこぼれた。周グは字を仁明といい、周昕の弟である。『会稽典録』に言う。むかし曹公曹操)が義兵を興したとき、人をやって周グにも要請した。周グはすぐさま軍勢をかき集めて二千人を得ると、公の征伐に従軍して軍師になった。のちに孫堅と予州をめぐって争い、しばしば戦ったが敗北した。そのころ次兄の九江太守周昂が袁術に攻撃されたので、周グはこれを救援しに行ったが、戦に敗れて郷里に帰り、許貢に殺されることになった。

初平三年、袁術は孫堅に荊州へ遠征させて劉表を攻撃した。劉表は黄祖をやって樊・鄧一帯で迎撃させた。孫堅はこれを撃破し、追走して漢水を渡ってそのまま襄陽を包囲した。ただ一騎で峴山を通行しているとき、黄祖の兵士に射殺された。[一]兄の子孫賁は兵士を引き連れて袁術に属し、袁術はふたたび上表して孫賁を予州刺史とした。

[一] 『典略』に言う。孫堅は彼の軍勢を総動員して劉表を攻撃したが、劉表は城門を閉じ、夜間、部将の黄祖を密かに脱出させて兵士を徴発した。黄祖が兵士を率いて帰還しようとしたとき、孫堅が迎撃して戦闘になった。黄祖は敗走して峴山の山中に隠れた。孫堅は勝利に乗じて、夜なのに黄祖を追撃したが、黄祖の部下の兵士が竹木の隙間からこっそりと孫堅を射て、彼を殺害した。『呉録』に言う。孫堅は当時三十七歳であった。『英雄記』に言う。孫堅は初平四年正月七日に死んだ。また言う。劉表の部将呂公は軍勢を率い、山に布陣して孫堅に対向したが、孫堅は軽装の騎馬で山を探索しながら呂公を討った。呂公の軍勢が石を投げ落とすと、孫堅の頭に当たり、その刹那、脳みそが吹き出して(孫堅は)物故した。その(死に様の)不同はこうした有様である。

孫堅の四人の子は孫策・孫権・孫翊・孫匡といった。孫権は(皇帝の)尊号を称したのち、孫堅にして武烈皇帝と呼んだ。[一]

[一] 『呉録』に言う。孫堅を尊んで廟号始祖と名付け、墓を高陵と名付けた。『志林』に言う。孫堅には五人の子があって、孫策・孫権・孫翊・孫匡は氏が生んだものである。末子の孫朗は庶出の生まれであり、別名を孫仁ともいった。