利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

韓当伝

韓当義公といい、遼西令支の人である。令の音は郎定の反切(レイ)、支の音は巨児の反切(キ)。弓馬に長けて膂力の持ち主であるということで孫堅の寵愛を受け、征伐戦に従軍して駆けずりまわり、しばしば危険を冒して敵陣を陥落させたり敵将を捕虜にしたりして、別部司馬に任じられた。[一]孫策が(長江の)東岸へ渡ってからは三郡討伐に従軍し、先登校尉に昇進、軍勢二千人・騎馬五十匹を授かった。劉勲征討や黄祖撃破に従軍し、引き返して鄱陽を討伐し、楽安県長を領することになると、山越どもも畏服した。のちに中郎将として周瑜らとともに曹公曹操)を打ち破り、また呂蒙とともに南郡を奪取し、偏将軍に昇進して永昌太守を領す。宜都の戦役では、陸遜・朱然らとともに涿郷において軍を攻撃し、これを大破、威烈将軍に異動となり、都亭侯に封ぜられた。曹真が南郡を攻撃したとき、韓当は東南(の一角)を守った。外地にあっては司令官として将兵を励まして心を一つに堅守し、また督司(目付役?)を尊重して軍紀を遵守したので、孫権は彼を褒め称えた。黄武二年(二二三)、石城に封ぜられ、昭武将軍に昇進して冠軍太守を領し、後日さらに都督の号を加増された。敢死兵および解煩兵一万人を率いて丹陽の賊徒を討伐し、これを打ち破ったが、ちょうどそのとき病卒し、子の韓綜が侯位を襲い、軍勢を領した。

[一] 『呉書』に言う。韓当は苦労を重ねて武功を立てていたが、軍旅にあっては寄騎に過ぎず、英雄豪傑たちに(功績を)切り取られたため、爵位を与えられることはなく、孫堅の世代を通じて別部司馬となる(に留まった)。

同年、孫権は石陽を征討するにあたり、韓綜が服喪中であったため武昌を守らせることとした。ところが韓綜は淫乱かつ無軌道であった。孫権は父親の縁ということで不問に付したが、韓綜はそれでも内心恐怖を抱き、[一]父の亡骸を車に載せ、母や家族、部曲の男女数千人を連れてへ逃亡した。魏は(彼を)将軍として広陽侯に封じた。(韓綜が)しばしば辺境を侵犯して人民を殺害したため、孫権はいつも歯軋りして口惜しがった。東興の戦役において、韓綜は先鋒を務めていたが、戦いに敗れて身を亡ぼし、諸葛恪がその首を斬って(本国へ)送り、孫権廟に報告した。

[一] 『呉書』に言う。韓綜は叛逆を企てたものの、左右の者が言うことを聞かぬのではないかと恐れた。そこで略奪を働くようそそのかし、彼らを裕福にしてやりたい気持ちがあるかのように見せかけた。次々と真似する者が現れたため、旅行者は多大な損害を被った。後日、部曲が強盗を働いた件について譴責する内容の詔勅が届いたと嘘を吐き、「将軍・軍吏以下、揃って処罰されるだろう」と言い、さらに、処罰は自分へも波及する懸念があるとも言った。左右の者たちはそのため「退去するしかありませぬ」と言い、とうとう共謀するようになった。(韓綜は)父を埋葬するからといって親戚のや姉をみんな呼び戻して、(彼女らを)残らず将兵に嫁がせ、お手付きの女中でさえも全て側近たちに賜与してしまい、牛をつぶして酒を呑み、血をすすって誓約を固めたのであった。