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原著作者:【むじん書院】

呉書十 程黄韓蔣周陳董甘淩徐潘丁伝第十

程普伝

程普徳謀といい、右北平土垠の人である。はじめ州郡の役人であったが、容貌と計略の持ち主で、応対が立派だった。孫堅の征伐戦に従軍して宛・鄧黄巾賊を討伐し、陽人では董卓を撃破、攻城でも野戦でも(先頭に立って戦ったので、)我が身に傷を被った。

孫堅が薨去すると、また孫策に随伴して淮南に身を置き、廬江攻めに従軍してこれを陥落させた。凱旋ののち(孫策と)一緒に(長江の)東岸へ渡った。孫策は横江・当利に着陣するなり張英・于麋らを打ち破り、転戦して秣陵・湖熟・句容・曲阿を攻め落としたが、程普が全ての戦いで武功を立てていたので、軍勢二千人・騎馬五十匹を加増してやった。進軍して烏程・石木・波門・陵伝・余杭を打ち破ったが、程普の戦功は多大であった。孫策は会稽入りすると、程普を呉郡都尉として銭唐において統治させた。のちに丹陽都尉へ異動となり、石城に在城した。また宣城・涇・安呉・陵陽・春穀の賊徒どもを討伐し、全て打ち破った。孫策が祖郎を攻撃したとき、厳しく包囲されたことがあったが、程普は騎兵もう一人とともに孫策を守護しつつ、馬を飛ばして大喝し、矛を手に賊軍に突進すると、賊ども(の包囲)が解けてきたので、孫策はこれに続いて脱出した。のちに盪寇中郎将を拝命して零陵太守を領した。尋陽における劉勲討伐に従軍し、沙羨へ進軍して黄祖を攻撃し、凱旋して石城を固めた。

孫策が薨去すると張昭らとともに孫権を輔弼し、三つの郡を駆けめぐって服従せぬ者どもを討ち平らげた。さらに江夏征討に従軍したが、帰還途中、予章から別働隊として楽安を討伐し、楽安が平定されると太史慈の後任として海昏を守った。周瑜とともに左右のとなり、烏林において曹公曹操)を打ち破り、さらに南郡へ進攻して曹仁を敗走させた。裨将軍を拝命して江夏太守を領し、沙羨で統治を執り、四県をんだ。

最初に出仕した諸将の中でも、程普が一番の年かさであったので、当時の人々はみな程公と呼んでいた。施しを好み、士大夫を敬うといった人柄であった。周瑜が卒去すると、後任として南郡太守を領した。孫権が荊州を分割して(南郡を)劉備に与えたため、程普は引き揚げてまたも江夏を領した。盪寇将軍に昇進し、卒去した。[一]孫権が尊号を称したとき、程普の功績をさかのぼって取り上げ、子の程咨亭侯に封じた。

[一] 『呉書』に言う。程普は叛逆者数百人を殺し、全てを火中に投げ込ませた。その日のうちに癩病にかかり、百日余りして卒去した。

黄蓋伝

黄蓋公覆といい、零陵泉陵の人である。[一]はじめ郡の役人となり、孝廉に推挙されて公府からお召しを受けた。孫堅が義兵を挙げると黄蓋はこれに従う。孫堅は南方で山賊を破り、北方では董卓を走らせ、黄蓋を別部司馬に任じた。孫堅が薨去すると、黄蓋は孫策および孫権に従い、甲冑に身を固めて駆けずりまわり、白刃をかいくぐって城を屠った。

[一] 『呉書』に言う。(黄蓋は)南陽太守黄子廉の子孫である。その子孫が枝分かれして、(黄蓋の)祖父の代で零陵に移り、そのままそこへ居を構えたのである。黄蓋は若いころ父を失い、赤子から二十歳になるまで不幸続きで、辛苦を舐め尽くした。それでも壮大な志を抱き、貧賤の身にあっても凡庸な輩とは同調しようとせず、いつも薪を背負っている時間を利用して手紙の書き方を学び、軍事を研究した。

山越たちが服従せず、その被害に遭っている県があれば、そのつど黄蓋が守長太守・県長)に任用された。石城県の役人はとりわけ始末に負えなかったので、黄蓋は二人のを任命し、諸曹(もろもろの部署)をそれぞれに分担させて、こう命じておいた。「令長(黄蓋)は不徳にして、ただ武功のみをもって官に就き、文吏として評価されることはなかった。いま賊徒どもはまだ平定されておらず、軍旅の仕事があるゆえ、(郡政については)ひとまず文書をもって両掾に委託することとし、諸曹の取り締まりに当たらせて過失の摘発をさせたい。両掾の担当において支出入に誤魔化しがあれば、絶対に鞭や杖を食らわせる(だけで済ませる)ことはないので、おのおの心を尽くして人々の(悪しき)前例とはならぬようにいたせ。」はじめはみな威光を怖れて朝から夜まで職務に慎んでいたが、長らくすると、役人たちは黄蓋が文書を確認していないことに気付き、次第に私事を差し挟むようになっていった。黄蓋の方でも(彼らの)怠慢が目に付くようになってきたので、ときどき視察を行い、二人の掾がそれぞれに法令をないがしろにしている事実を多数つかんだ。そこで各部署の役人を全員集めて酒食を振る舞い、その場で事実を発表して詰問したところ、二人の掾は弁解に詰まり、みな土下座して謝罪した。黄蓋は「絶対に鞭や杖を食らわせたりはしないと事前に言っておいたはずだ。欺いたわけではないぞ」と言って彼らを殺したので、県内は戦慄した。のちに春穀の県長、尋陽県令に転任した。合わせて九つの県を守ったが、至るところで鎮まった。丹陽都尉に昇進し、強きを抑えて弱きを助けたので、山越たちも心服した。

黄蓋は威厳ある面持ちで、よく兵士たちを養育したので、征討に向かった先々では、士卒たちがみな先を争った。建安年間(一九六~二二〇)、周瑜に従って赤壁曹公曹操)を防ぎ、策略を立てて火攻めを行った。記載は『周瑜伝』にある。[一]武鋒中郎将を拝命した。武陵の蛮民どもが反乱を起こして城邑を攻め取ったので、黄蓋に太守を領させた。このとき郡兵はわずかに五百人しかおらず、敵対できないと思われたため、城門を開き、賊軍の半数が侵入したところで攻撃をかけて首級数百を挙げた。残りはみな遁走し、全てが(本来の)部落に帰っていった。頭立った者を誅殺して、(彼らに)付き従っただけの者は赦免した。春から夏にかけて反乱軍はことごとく平定され、はるか遠く巴・醴・由・誕といった地のもろもろの邑侯君長たちも、みな態度を改め、礼を尽くして拝謁し、郡境はすっかりと清められた。のちに長沙益陽県が山賊の攻撃を受けたので、黄蓋がまた平定にあたり、偏将軍の号を加増された。病気のため在官のまま卒去した。

[一] 『呉書』に言う。赤壁の戦役において黄蓋は流れ矢に当たり、寒い時期であるのに川へ墜落した。呉軍の人に拾われたが、それが黄蓋であるとは分からず、廁牀内に寝かされた。黄蓋が自分を励ましてただ一声、韓当を呼ぶと、韓当はそれを聞いて「これは公覆の声だ」と言い、顔を合わせると涙を流しながら衣服を替えてやった。こうして生き延びることができたのである。

黄蓋は職務にあたって決断力があり、仕事が滞留することはなく、人々は彼を思慕したものである。[一]孫権が践祚するに及び、その功績をさかのぼって取り上げ、子の黄柄関内侯の爵位を賜った。

[一] 『呉書』に言う。また黄蓋の姿を描き、季節ごとに祭祀を行った。

韓当伝

韓当義公といい、遼西令支の人である。令の音は郎定の反切(レイ)、支の音は巨児の反切(キ)。弓馬に長けて膂力の持ち主であるということで孫堅の寵愛を受け、征伐戦に従軍して駆けずりまわり、しばしば危険を冒して敵陣を陥落させたり敵将を捕虜にしたりして、別部司馬に任じられた。[一]孫策が(長江の)東岸へ渡ってからは三郡討伐に従軍し、先登校尉に昇進、軍勢二千人・騎馬五十匹を授かった。劉勲征討や黄祖撃破に従軍し、引き返して鄱陽を討伐し、楽安県長を領することになると、山越どもも畏服した。のちに中郎将として周瑜らとともに曹公曹操)を打ち破り、また呂蒙とともに南郡を奪取し、偏将軍に昇進して永昌太守を領す。宜都の戦役では、陸遜・朱然らとともに涿郷において軍を攻撃し、これを大破、威烈将軍に異動となり、都亭侯に封ぜられた。曹真が南郡を攻撃したとき、韓当は東南(の一角)を守った。外地にあっては司令官として将兵を励まして心を一つに堅守し、また督司(目付役?)を尊重して軍紀を遵守したので、孫権は彼を褒め称えた。黄武二年(二二三)、石城に封ぜられ、昭武将軍に昇進して冠軍太守を領し、後日さらに都督の号を加増された。敢死兵および解煩兵一万人を率いて丹陽の賊徒を討伐し、これを打ち破ったが、ちょうどそのとき病卒し、子の韓綜が侯位を襲い、軍勢を領した。

[一] 『呉書』に言う。韓当は苦労を重ねて武功を立てていたが、軍旅にあっては寄騎に過ぎず、英雄豪傑たちに(功績を)切り取られたため、爵位を与えられることはなく、孫堅の世代を通じて別部司馬となる(に留まった)。

同年、孫権は石陽を征討するにあたり、韓綜が服喪中であったため武昌を守らせることとした。ところが韓綜は淫乱かつ無軌道であった。孫権は父親の縁ということで不問に付したが、韓綜はそれでも内心恐怖を抱き、[一]父の亡骸を車に載せ、母や家族、部曲の男女数千人を連れてへ逃亡した。魏は(彼を)将軍として広陽侯に封じた。(韓綜が)しばしば辺境を侵犯して人民を殺害したため、孫権はいつも歯軋りして口惜しがった。東興の戦役において、韓綜は先鋒を務めていたが、戦いに敗れて身を亡ぼし、諸葛恪がその首を斬って(本国へ)送り、孫権廟に報告した。

[一] 『呉書』に言う。韓綜は叛逆を企てたものの、左右の者が言うことを聞かぬのではないかと恐れた。そこで略奪を働くようそそのかし、彼らを裕福にしてやりたい気持ちがあるかのように見せかけた。次々と真似する者が現れたため、旅行者は多大な損害を被った。後日、部曲が強盗を働いた件について譴責する内容の詔勅が届いたと嘘を吐き、「将軍・軍吏以下、揃って処罰されるだろう」と言い、さらに、処罰は自分へも波及する懸念があるとも言った。左右の者たちはそのため「退去するしかありませぬ」と言い、とうとう共謀するようになった。(韓綜は)父を埋葬するからといって親戚のや姉をみんな呼び戻して、(彼女らを)残らず将兵に嫁がせ、お手付きの女中でさえも全て側近たちに賜与してしまい、牛をつぶして酒を呑み、血をすすって誓約を固めたのであった。

蔣欽伝

蔣欽公奕といい、九江寿春の人である。孫策袁術を襲ったとき、蔣欽は給事(側役)として(孫策に)随従した。孫策が(長江の)東岸へ渡ったとき、別部司馬を拝命して軍勢を授かった。孫策とともに駆けまわって三郡を平定し、また予章平定にも従軍した。葛陽県尉に転任し、三県の県長を歴任して盗賊どもを討ち平らげ、西部都尉へと昇進する。会稽の賊呂合・秦狼らが反乱をなすと、蔣欽は軍勢を率いて討伐し、ついに呂合・秦狼を生け捕りにして五つの県を平定した。討越中郎将に栄転して経拘・昭陽奉邑とされた。賀斉県の賊徒を討伐したとき、蔣欽が軍勢一万を監督して賀斉に合力したので、黟県の賊徒は平定された。合肥出征に従軍し、張遼(逍遥)津の北岸において孫権を襲撃したとき、蔣欽は力戦して手柄を立て、盪寇将軍に昇進して濡須を領した。のちに都へ召還されて津右護軍を拝命し、訴訟ごとを司ることとなる。

孫権はあるとき彼の座敷に上がったことがあるが、母は粗末なの着物、妻妾は麻布の下裙であった。孫権は彼が貴人でありながら倹約を心掛けていることに感歎し、即日、御府に命じて母のために錦織の着物を作らせ、帳を交換し、妻妾の衣服も全て錦の刺繡入りとした。

かつて蔣欽が宣城して予章の賊軍を討伐したときのこと、蕪湖県令徐盛が蔣欽陣営の軍吏を逮捕して斬首すべきと上表したが、蔣欽が遠方にいたため孫権が許可しなかったという事件があり、徐盛はそれ以来、蔣欽を避けるようになっていた。曹公曹操)が濡須に侵出してきたとき、蔣欽が呂蒙とともに諸軍の采配を執ることとなり、徐盛はいつも蔣欽が公務にかこつけて自分を殺すのではないかと恐怖していた。ところが蔣欽は事あるごとに彼の立派さを称えたので、徐盛は(彼の)恩徳に感服し、論者たちも賛美したのであった。[一]

[一] 『江表伝』に言う。孫権は蔣欽に言った。「徐盛は以前、のことで報告してきたが、卿はいま徐盛を推挙しておる。祁奚に倣うおつもりなのかね?」蔣欽は答えた。「公務たる推挙では私怨を差し挟まないもの、と臣は聞いております。徐盛は忠勤に励んで胆略と器用さを持ち、万人の総督に相応しゅうございます。いまだ大事業は完成しておりませぬゆえ、臣は人材探しをお手伝いするばかりであって、どうして私怨を差し挟んで賢者を隠したりいたしましょうぞ!」孫権はこれを嘉した。

孫権が関羽を討伐したとき、蔣欽は水軍を監督して沔水に入り、凱旋帰国の途中、病気のため卒去した。孫権は喪服を着けて哭礼を挙げ、蕪湖の領民二百戸と田地二百頃でもって蔣欽の妻子を給養することとした。子の蔣壱は宣城に封ぜられ、(父の遺した)軍勢を領して劉備を防ぐ功績を立てたが、南郡に転じて魏と交戦したとき、陣中にて卒去した。蔣壱には子がなかったため弟の蔣休が軍勢を領したが、後年、罪を犯して資産を失った。

周泰伝

周泰幼平といい、九江下蔡の人である。蔣欽とともに孫策に随従して左右(側近)となり、仕事ぶりは慎ましやかであった。しばしば戦場で功績を立てる。孫策が会稽入りすると別部司馬に任じられ、軍勢を授かった。孫権は彼の人柄を愛して当方で世話したいと申請した。孫策が県の山賊を討伐したとき、孫権は宣城に住まいしており、千人足らずの兵士たちに護衛を委ね、心構えは粗略なもので防壁の修繕もしていなかった。そこへ山賊数千人が突如として来襲してきた。孫権がようよう馬に跨ったときには、もう賊徒どもの矛先が左右に飛び交っている有様、その中の一人が(孫権の)馬の鞍を斬り付けたほどであった。軍中でもよく自制心を保ちえた者はおらず、ただ周泰だけは奮撃して、身を投げうって孫権を守護した。勇気は人一倍であり、左右の者たちも周泰のおかげで戦闘に復帰することができた。賊徒どもが退散したころには全身に十二ヶ所もの傷を被っており、長い時間が経ってようやく蘇生した。この日、周泰がいなければ孫権はまず助からなかったであろう。孫策はいたく彼に感謝して、春穀県長に補任した。のちに城攻略および江夏討伐に従軍し、凱旋途中で予章に差し掛かったとき、改めて宜春の県長に補任されたが、いずれの任地においても現地の租税をんだ。

黄祖討伐に従軍して功績を立て、のちに周瑜・程普とともに赤壁にて曹公曹操)を防ぎ、南郡にて曹仁を攻めた。荊州が平定されると軍勢を率いてに屯する。曹公が濡須に侵出してくると周泰はまた攻撃に赴き、曹公が撤退したあともそのまま残って濡須のとなり、平虜将軍を拝命した。そのころ朱然・徐盛らが部下に配属されていたが、いずれも服従しようとはしなかった。孫権はわざわざ軍中視察の名目で濡須塢を訪れ、諸将を集めて盛大に酒宴を催した。孫権はみずから酌をして回り、周泰の前まで来ると着物を脱ぐよう命じ、彼の傷痕を指差しながら理由を訊ねると、周泰はそのつど昔の戦闘を思い出しながら訳を話した。(一通り説明が)終わると、また衣服を着けさせ、夜更けまで飲食を楽しんだ。その翌日、使者をやって御蓋を授けた。[一]こうしたことがあって、徐盛らもすっかり服従するようになった。

[一] 『江表伝』に言う。孫権は彼の腕を取って涙を流しながら連(列)を交え、彼を字で呼びつつ言った。「幼平どの。たち兄弟のために生命さえ惜しまず熊虎の如く戦ってくれた。数十ヶ所に傷を被り、皮膚は彫刻のようだ。孤がどうして卿を骨肉の恩愛でもって待遇し、卿を兵馬の重任でもって委任せずにいられようか!卿はの功臣だ。孤は卿と栄誉も恥辱も同じくし、喜びも悲しみも等しくしたい。幼平どのは快くそれを受け入れてくれよ。寒門だからといって辞退しないでくれよ。」その場で勅命を発し、自分が常用していた御幘と青色の縑蓋を下賜した。宴が果てて馬車に乗ったとき、周泰に兵馬でもって先導させて出発することとし、(彼に)太鼓や角笛を鳴らせて鼓吹とした。

のちに関羽を打ち破ったとき、孫権は進撃してを攻略しようと思っていたので、周泰を漢中太守奮威将軍に任じ、陵陽侯に封じた。黄武年間(二二二~二二九)に卒去した。

子の周邵騎都尉として(父の遺した)軍勢を領し、曹仁が濡須に侵出してきたとき戦場で功績を立て、さらに曹休攻めに従軍し、官位は裨将軍に進んだ。黄龍二年(二三〇)に卒去し、弟の周承が軍勢を領して侯位を襲った。

陳武伝

陳武子烈といい、廬江松滋の人。孫策寿春にあったとき、陳武は出かけて拝謁する。ときに十八歳、身の丈七尺七寸であった。付き従って長江を渡り、征討で武功を挙げて別部司馬を拝した。孫策は劉勲を打ち破ったとき、廬江の人間を多数手に入れたが、その中から精鋭を選りすぐって陳武をその監督者にしたところ、行く手を遮る者はなかった。孫権が事業を統括するようになると督五校に転任した。仁慈に厚く施しを好んだので、郷里や遠方から数多くの賓客たちが彼に身を寄せた。孫権からは最高の親愛を被り、しばしば彼の邸宅を訪れることもあった。功労を重ねて官位は偏将軍に進んだが、建安二十年(二一五)、合肥攻撃に従軍し、命懸けで奮闘したすえ戦死する。孫権はそれを悲しみ、直々に彼の亡骸と対面した。[一]

[一] 『江表伝』に言う。孫権は彼の愛妾に殉死を命じ、賓客二百家を(租税免除)とした。 孫盛は言う。むかし三人の良民がに殉じ、軍はそのために遠征できなくなった。の妾は嫁に出され、杜回はそのために僵仆(転倒)した。禍福の報いはこのような結果をもたらすのだ。孫権は計算術数に頼り、生者を死者に従わせた。国祚の尽きるのが早かったのも当然ではないか!

子の陳脩には陳武の風格があり、十九歳のとき、孫権は召し寄せて激励し、別部司馬に任じて軍勢五百人を授けた。そのころ諸将の手の新兵には逃亡したり叛乱したりする者が多かったが、陳脩はよくよく手懐けて気持ちをつかんだので、一人として失うことはなかった。孫権はそれを奇特なことと思い、校尉に任命してやった。建安年間(一九六~二二〇)の末期、功臣の子孫をさかのぼって考課することになり、陳脩は都亭侯に封ぜられて解煩督になった。黄龍元年(二二九)に卒去した。

陳表伝

弟の陳表は字を文奧といい、陳武の庶子である。若くして名を知られ、諸葛恪・顧譚・張休らと並んで東宮に侍り、みな親友同士であった。尚書曁豔もまた陳表と親しかったが、のちに曁豔は罪人になった。当時の人々はみな保身に回り、交流が深くとも弁護してやることは少なかった。陳表だけはそうした態度を取らず、士人はそのことから彼を尊敬した。太子中庶子って翼正都尉に任じられた。兄の陳脩が亡くなったのち、陳表の母は陳脩の母の言い付けを聞かなくなった。陳表は自分の母に言った。「兄上は不幸にして早くに亡くなり、陳表が家業を統べることになりましたゆえ、嫡母を敬わねばなりません。母上がもし陳表のため感情を抑えて嫡母を尊重して頂ければ、それは願ってもないことです。もし母上がそうおできにならなければ、ただちに出ていって別居していただきます。」陳表が大義に照らして公正であったのは、これほどのものであった。それ以来、二人の母は感悟して仲睦まじくなった。陳表は父が敵地で死んだことから、将帥に任用してほしいと志願し、軍勢五百人を領することになった。陳表は戦士たちが力を尽くしてくれることを願い、心を込めて接待したので、兵士たちはみな心底懐き、命令に従うことを喜ぶようになった。そのころ、お上の物を盗んだ者があって、無難士施明に嫌疑がかけられていた。施明は昔から精悍な性質であって、逮捕されて拷問を受けても、死をって口を割らなかった。廷尉がそれを報告すると、孫権は陳表がよく健児の心を得ているということで、詔勅により施明の身柄を陳表に預け、彼の思うがままの方法で実情を調べさせた。陳表はすぐさま手かせを壊して沐浴させ、衣服を替えてやり、手厚く酒食を設け、楽しみを尽くしてから聞き出すと、施明はとうとう自白し、共犯者の名をつぶさに列挙した。陳表がありのままの状況を報告すると、孫権は大層驚き、彼の名声を傷付けぬよう、特別に施明を赦免して共犯者だけを誅殺した。陳表を無難右部督に昇らせ、都亭侯に封じて旧来の爵位を継がせた。陳表はすべて辞退して、陳脩の子陳延に伝えさせてほしいと歎願したが、孫権は許可しなかった。嘉禾三年(二三四)、諸葛恪丹陽太守を領して山越を平定したとき、陳表に新安都尉を領させて諸葛恪に加勢させるようにと上表した。かつて陳表が賜った復人二百家は会稽新安県に住まいしていたが、陳表がその人々を視察してみると、みな好き兵士になれそうであった。そこで上疏して返上を願い、官に組み込んで精鋭を補充してほしいと申請した。詔勅に言う。「先代の将軍(陳武)は我が国に対する功績があった。それゆえ国家はこれに報いたのである。はどうしてこれを辞退する理由があろうか?」陳表はそこで述べた。「いま賊徒を排除して父の仇を討つにあたっては、人間を根本としているのでございます。彼らのような精鋭を無理やり遊ばせて奴隷扱いにしてしまうのは、陳表の本意ではございません。」全員を一人づつ検査して部隊に割り当てた。現地から報告が上げられると、孫権はそれに大層満足し、郡県に下命して一般の戸籍から弱者を選んで彼の下に割り当てた。陳表は在官すること三年、両手を広げて投降者を受け入れ、兵士一万人余りを手に入れた。事業は成功を収め、(栄転の沙汰を受けて)出ていこうとしたとき、ちょうど鄱陽の住民呉遽らが反乱をなして城郭を攻め落とし、属県に動揺が広がった。陳表がすぐさま郡境を越えて討伐に駆け付けると、呉遽はそのために敗北し、投降した。陸遜は陳表を偏将軍に任じて封爵を都郷侯に進め、北へ章阬に屯させた。三十四歳で卒去した。家の財産は兵士を給養するために使い果たしており、彼の死んだ日、妻子は露天に立ち尽くす有様であったので、太子孫登が彼らのために邸宅を建ててやった。子の陳敖は十七歳で別部司馬を拝して軍勢四百人を授かった。陳敖が卒去すると、陳脩の子陳延がまた司馬として陳敖の後任にあたった。陳延の弟陳永は将軍として侯に封ぜられた。施明はむかし陳表に感化され、自分から行いを改めて善行を積むようになり、ついには勇将へと成長し、官位は将軍にまでなった。

董襲伝

董襲元代といい、会稽余姚の人。身の丈は八尺、武勇は人並み外れていた。[一]孫策が入郡したとき、董襲は高遷亭において出迎えた。孫策は(彼と)会って立派に思い、(治府に)到着すると門下賊曹に任じた。そのころ、山陰の古株の賊黄龍羅・周勃が一味数千人を集めていた。孫策が自ら討伐に出向くと、董襲はその手で黄龍羅・周勃の首を斬り、帰還したあと別部司馬を拝命し、軍勢数千人を授かった。(のちに)揚武都尉に昇進した。孫策の攻撃に従軍し、また尋陽においては劉勲を追討し、江夏においては黄祖を征伐した。

[一] 謝承の『後漢書』では、董襲は節義の固い慷慨の士で、勇武剛毅にして英邁壮烈であったと評している。

孫策が薨去したとき、孫権は年若く、初めて事業を統括することなったため、太妃(孫権の母)は彼のことを心配し、張昭および董襲らを引見して江東を安全に保てるであろうかと訊ねた。董襲は答えて言った。「江東の地勢には山川の堅固さがあり、そのうえ討逆明府(孫策)が民衆に恩徳を施されております。討虜(孫権)さまが基礎を受け継ぎ、大身も小者もご命令を奉じ、張昭が万事を統べ、董襲らが爪牙となっております。これこそ地の利、人の和の(ともに得られた)時でありますから、よろづご心配はないのでございます。」人々はみな彼の言葉を壮快に感じた。

鄱陽の賊彭虎らの軍勢は数万人もあった。董襲は淩統・歩隲・蔣欽とともに、おのおの手を分けて討伐に当たったが、董襲が向かった先ではあっさりと打ち破られたので、彭虎らは(董襲の)旌旗が遠くに見えただけですぐさま逃げ散り、十日ほどですっかり平定された。威越校尉を拝命し、(のちに)偏将軍に昇進した。

建安十三年(二〇八)、孫権は黄祖を討伐した。黄祖は二隻の蒙衝を横向けて沔口を(両側から)挟むようにして守り、栟閭(しゅろ)の大紲に石を繋いでとし、船上にいる千人が弩を(十字に)交差させて発射したので、飛来する矢は雨のように降り注ぎ、(孫権の)軍は前進できなかった。董襲は淩統とともに先鋒となり、おのおの敢死兵百人を率い、一人一人が鎧を重ね着して大舸船に乗り込み、(二隻の)蒙衝の隙間に突入した。董襲がその手に持った刀で二本のを切断すると、蒙衝はでたらめに流れだし、大軍はようやく進むことができた。黄祖はすぐさま城門を開いて逃走したが、兵士が追跡して彼を斬った。翌日、盛大な酒宴が催され、孫権は盃を手に董襲へ酌をしながら言った。「本日の宴会は、紲を切断した功績あればこそだ。」

曹公が濡須に侵出してきたとき、董襲は孫権に随従してそこへ駆け付けた。(孫権は)董襲に五隻の楼船を監督させて濡須口に駐留させた。夜中に突然、暴風が吹いて五隻の楼船は横転した。左右の側近たちは走舸を切り離し、董襲に脱出するよう請願した。董襲が怒りながら「将軍の任務を受けてここで賊軍に備えておるのだ。どうして投げ出して逃げることができよう。それでもまだ言う者があれば、斬る!」と言うと、その上、あえて楯突く者はなかった。その夜、船は崩壊し、董襲は死んだ。孫権は喪服に着替えて葬儀に参列し、(遺族への)恩給は極めて手厚いものであった。

甘寧伝

甘寧興霸といい、巴郡臨江の人である。[一]若くして気力にあふれて游俠を好み、軽薄な少年たちをかき集めて彼らの渠帥になっていた。群れ集って弓弩を携え、を背負って鈴を帯びたので、民衆は鈴の音を聞いただけで、それが甘寧であると知った。[二]他人が彼らと出くわしたとき、属城の長吏ほどの者が盛大にもてなして初めて満足するが、そうでなければ、配下の者を放ってその人の財産を奪わせた。長吏の領内で犯罪があれば、その発負を追及した。二十年余りも経ってから、ばったりと乱暴を働かなくなり、少しは諸子を読むようになった。それから劉表の元へ行って身を寄せ、南陽に住まいしたが、任用されることはなかった。のちに改めて黄祖に身を寄せたが、黄祖もまた凡人としてうだけだった。[三]

[一] 『呉書』に言う。甘寧はもともと南陽の人であったが、祖先が巴郡に仮住まいしたのである。甘寧は役人となって計掾に推挙され、蜀郡郡丞に補任されたが、しばらくして官職を棄てて家に帰った。

[二] 『呉書』に言う。甘寧は任俠気取りで人を殺したり、逃亡者をかくまったりして郡中に名を知られ、出入りの際、陸路なら車騎を並べ、水路なら脚早の船を連ね、付き従う者たちは彩り鮮やかな刺繡を身に付けた。行く先々で道路を輝かせ、停泊するときはいつも絹錦の綱でもって船を繋ぎ、出発するときはそれを切り捨てて豪奢ぶりを見せ付けた。

[三] 『呉書』に言う。甘寧は食客八百人を連れて劉表に身を寄せた。劉表は儒者であったため軍事を習わず、当時は英雄たちがそれぞれ挙兵していたので、甘寧は劉表の対応を観察して、最終的には何も成功させられないばかりか、土崩瓦解の暁には巻き添えを受けるのではないかと心配した。そこで東方へ向かってに入ろうとしたが、黄祖が夏口にいたため軍勢は通過することができず、そこで黄祖の元に留まった。三年もの間、黄祖は彼を礼遇しなかった。孫権が黄祖を討伐したとき、黄祖軍は敗北して遁走したのであるが、追撃は厳しいものであった。甘寧は射術に巧みだったので兵を率いて後詰めを引き受け、(孫権の)校尉淩操を射殺した。黄祖は(そのおかげで)逃げ延びることができたが、戦争が終わって本営に帰還したあとも、甘寧への待遇は以前と変わりなかった。黄祖の都督蘇飛がたびたび甘寧を推薦しても、黄祖は任用しようとせず、人をやって甘寧の食客を手懐けたので、食客たちは次第に数を減らしていった。甘寧は立ち去りたく思ったが拘束されまいかと心配して、一人で鬱々としてなすすべを知らなかった。蘇飛が彼の気持ちを察して甘寧を招き、彼のために酒宴を設けて言った。「を推薦したのは数回に及んだが、ご主君は任用なさらなかった。月日は過ぎ去り、人生はいくばくもない。ご自身の方から大志を立てて知己との遭遇を求められるがよかろう。」甘寧はしばらくしてからようやく口を開いた。「その志はございますが、だれを頼りにすればよいのか分からないのです。」蘇飛は言った。「吾は、子が県長になれるよう口添えしてやろうと思うが。それなら去就を定めるのも板の上で鞠を転がすようなものであろう?」甘寧は言った。「幸甚でございます。」蘇飛が黄祖に言上したことで、甘寧の県への赴任が認められた。(甘寧は)寝返った食客たちを呼び返し、義勇兵を合わせて数百人を手に入れた。

こうして呉に身を寄せることになった。周瑜・呂蒙がみな連名で推薦したので、孫権も目をかけて旧臣同様に遇した。甘寧が計略を陳述した。「ただいま漢祚は日ごとに衰微し、曹操はますます増長しており、しまいに簒奪を働くでありましょう。南方荊州の地は山岳の形がよく、長江が通じ、これぞ正しく西進をいざなう勢いでございます。甘寧はすでに劉表を観察しておりますが、遠い先々まで配慮も行き届かぬうえ、子供たちは輪をかけて劣っており、よく事業を継承して基礎を伝えられる者ではございませぬ。至尊(孫権)におかれては早急にこれを計画され、曹操の経略に後れを取られませぬよう。その経略の策でございますが、最初に黄祖を攻略なさるのがよろしゅうございます。黄祖も今では年老いて耄碌がひどく、財貨食糧ともに欠乏しているというのに、左右の者たちは誤魔化しを働いて利殖に走り、官吏兵士たちにたかるので心底怨まれておる有様。艦船や武器は頓廃されて修繕することなく、農耕を怠って軍隊に統制はございません。至尊が今すぐお発ちになれば、奴めが破滅するのは必定であります。一たび黄祖軍を打ち破りましたならば、太鼓を打ちつつ西進して西方は楚関を占拠いたすことで、大勢はますます有利に展開いたしましょう。さすれば順当に巴蜀を攻略することも可能になるのでございます。」孫権はその言葉を深く受け入れた。張昭はこのとき座中にあって、批評して言った。「呉の城下は業業としておりますゆえ、もし軍が出征を決行すれば、おそらく変事を招くことになりましょう。」甘寧は張昭に告げた。「国家は蕭何の任務を君に委ねられました。(それなのに)君は留守居に際して変事を懸念される。古人を慕うおつもりではなかったのですか?」孫権は酒を甘寧にぎながら言った。「興霸よ。今年の征討は、ちょうどこの酒のように、へ委ねることに決めているのだ。卿はただ計略を練ることに専念して頂きたい。黄祖に必ず勝てるようにしてくれれば、それが卿の功績なのだ。どうして張長史の言葉を気になさる必要があろうか?」孫権はついに西進して、しかと黄祖を捕らえ、ことごとくその軍勢を手に入れた。こうして甘寧に軍勢を預けることになり、当口に屯させた。[一]

[一] 『呉書』に言う。もともと孫権は黄祖を打ち破るにあたって、あらかじめ二つの箱を作っておき、黄祖および蘇飛の首を納めるつもりであった。蘇飛が人をやって(我が身の)危急を甘寧に告げると、甘寧は「蘇飛から言ってこなくても、吾がどうして彼のことを忘れられようか?」と言った。孫権が諸将のために酒宴を設けたとき、甘寧は席から飛び降りて叩頭し、血と涙とにまみれながら孫権に言上した。「蘇飛には往昔の旧恩がござって、この甘寧、蘇飛に出会わねば死骸を溝川てられて当然、麾下にあってご命令をお受けすることも叶わぬところでありました。ただいま蘇飛の罪は皆殺しに相当いたしますが、将軍より格別に(お目こぼしを賜り、)彼の首をお預けくださりませ。」孫権はその言葉に感銘しつつも、言った。「いま君のために(処分は)いておこう。もし脱走したらどうする?」甘寧は言った。「蘇飛は、分裂の災禍を免れて再生の恩義を被りましたからには、追い立てたとしてもなお逃げたりはいたしますまい。どうしてげようなどと図ったりいたしましょうや!もし左様のことがございますれば、甘寧の首を代わりに箱へお納めくださりませ。」孫権はようやく彼を赦免した。

のちに周瑜に随行して烏林において曹公曹操)と対峙し、打ち破った。南郡では曹仁を攻め、まだ陥落せぬうち、甘寧はまず直行して夷陵を奪取すべきとの計略を立て、出陣してすぐその城を落とすと、そのまま入城して守りを固めた。このとき手勢は数百人、新附の人数を合わせてようやく千人になるだけであった。曹仁が五・六千人に命じて甘寧を包囲させた。甘寧は何日にもわたって攻撃を凌ぎ、敵が矢倉を設けて雨のごとく城内に矢を射かけてくると、兵士たちはみな恐怖したが、ただ甘寧だけは平然として談笑を続けていた。使者を出して周瑜に知らせると、周瑜は呂蒙の計略を採用し、諸将を率いて囲みを解いた。のちに魯粛に随行して益陽を守り、関羽と対峙した。関羽は軍勢三万人を抱えていると喧伝しつつ、精鋭五千人を自ら選りすぐり、県の上流十里余りに位置する浅瀬に投入、夜中に渡るつもりだと吹聴していた。魯粛が諸将と協議したとき、甘寧はこのとき三百の兵士を抱えていたのだが、「さらに五百人を吾へ加増していただければ、吾が行ってきて対応いたしましょう。吾のしわぶきを聞いただけで、関羽は川を渡ろうといたしますまい。保証いたしますぞ。川を渡れば吾の捕虜になりますからな」と言った。魯粛は早速、千人の兵士を選抜して甘寧に預けた。甘寧が夜中に出陣すると、関羽はそれを聞いて渡ろうとはせず、にわか仕立ての陣営を築いた。現在では、この場所が関羽瀬と名付けられている。孫権は甘寧の功績を称え、西陵太守に任じて陽新・下雉両県を宰領させた。

のちに城攻撃に従軍したときは升城督となり、甘寧は練り絹を手にして城壁に身を委ね、官吏兵士を先導した。あっさりと打ち破って(敵の城番)朱光を捕らえ、論功の結果、呂蒙が第一、甘寧はそれに次ぐものとされ、折衝将軍を拝命した。

のちに曹公が濡須へ侵出してきたとき、甘寧は前部督となり、出陣して敵の先鋒を討つよう命ぜられた。孫権が米や酒、とりどりの料理を格別に賜与すると、甘寧はそこで百人余りの手下に選り分けた。食事が終わると、甘寧はまず銀ので汲んだ酒を自分が二杯呑み、それから都督に酌をしたが、都督はうつ伏せたまますぐには承けようとしなかった。甘寧は白削を抜いて膝上に置き、怒鳴りながら言った。「卿が至尊からお受けしている知遇は、甘寧と比べてどうでしょうか?甘寧でさえ死を惜しみませんのに、卿ひとりがどうして死を惜しまれるのですか?」都督は甘寧の激しい気色を見るなり、すぐさま立ち上がって酒を手に取り、兵士に銀盌一杯づつ酌をしてまわった。二更の時刻、を含んで出撃した。敵兵は驚き、動揺して引き下がった。甘寧はますます尊重され、軍勢二千人を加増された。[一]

[一] 『江表伝』に言う。曹公が濡須へ侵出してきて、歩騎四十万が長江の川べりで馬に水を飲ませるのだと喧伝した。孫権は軍勢七万を率いてこれに立ち向かい、甘寧に三千人を預けて前部督とした。孫権は密かに甘寧に命じ、夜中に軍へ突入させることとした。甘寧はそこで手下から勇士百人余りを選り抜き、まっすぐに曹公陣営の前まで突き進む。逆茂木を抜かせ、塁壁を越えて陣営に侵入するなり、数十もの首級を挙げた。北軍は驚き、太鼓を鳴らしてどよめき、松明を星のごとく掲げたが、甘寧はもう引き返して本営に入ったところで、鼓吹に演奏させて万歳を称えている。そのまま夜分を押して孫権に拝謁すると、孫権は喜んで「年寄りを驚かせるには充分であったかのう?少しは卿の大胆さを見られたぞ」と言い、その場で絹千匹と刀百振りを賜った。孫権は言った。「孟徳(曹操)に張遼がおり、に興霸がおって、ちょうど釣り合いが取れているのだ。」一ヶ月余り駐留しているうちに、北軍は忽然と立ち去った。

甘寧は麤暴で殺人を好んだものの、しかし爽快な人柄で計略を持ち、財貨を軽んじて士人を敬い、手厚く勇者たちを育てたので、勇者たちもまた役に立ちたいと願った。建安二十年(二一五)、合肥攻めに従軍したが、疫病が流行したため軍勢はみな撤退し、車下虎士千人余りと、呂蒙・蔣欽・淩統および甘寧だけが逍遥津の北岸で孫権に従っていた。張遼がそれをはるかに眺めて、歩騎を率いて急襲をかけてきた。甘寧は弓を引き絞って敵兵に射かけ、淩統らとともに決死の覚悟で戦った。甘寧は声を荒げて「なぜ演奏しないのか」と鼓吹を責めたが、毅然たる勇壮さを、孫権はとりわけ評価した。[一]

[一] 『呉書』に言う。淩統は父淩操が甘寧に殺されたことを怨んでおり、甘寧はいつも淩統を警戒して顔を合わせようとはせず、孫権もまた報復してはならぬと淩統に命じていた。あるとき呂蒙の邸宅で宴会が催され、盛り上がったところで淩統が刀を抜いて舞を始めた。「甘寧は双戟の舞をうまくやりますよ」と、甘寧も立ち上がった。呂蒙が「甘寧どのがうまいとはいっても、呂蒙ほど達者ではなかろう」と言いながら、刀を振りながら楯を持ち、体ごと割って入った。後日、孫権は淩統の気持ちを汲んで、甘寧には軍勢を率いて半州へ移駐させた。

あるとき甘寧の廚房の小僧が過失を犯し、呂蒙の元へ逃げ込んだ。呂蒙は甘寧が彼を殺してしまうことを心配し、すぐには帰さなかった。後日、甘寧は礼物を提げて呂蒙の母に贈るため、直接、座敷に参上することになった。そこで(呂蒙は)廚房の小僧を甘寧に返してやり、甘寧も殺したりはしないと呂蒙に約束した。しばらくして船へ戻り、(小僧を)桑の木に縛り付け、みずから弓を引いて射殺した。そのあと、船頭にを幾重にもかけさせ、着物を脱いで船内に寝転んだ。呂蒙は激怒し、太鼓を打ち鳴らして兵士を集め、船を追いかけて甘寧を攻撃しようとした。甘寧はそれを聞いても、あえて立ち上がろうとはしなかった。呂蒙の母が裸足で駆け付けてきて、「至尊はを骨肉同然に待遇してくださり、重要な職務を汝にお授けになりました。どうして私怨でもって甘寧を攻め殺そうなどと考えられましょう?甘寧を死なせた日には、たとい至尊が不問に付したとしても、汝は臣下の法を犯したことになるのですよ」と呂蒙を諭すと、呂蒙はもともと孝心篤き人であったので、母の言葉を聞くなり、からりと気持ちが解け、甘寧の船まで行き、笑いながら「興霸よ、老母が食事を作って卿を待っているんだ。急いで来いよ!」と呼びかけた。甘寧は涙を流して「卿に借りを作ってしまった」と、むせび泣いた。呂蒙と一緒に(彼の)母に会い、ひねもす酒宴を楽しんだ。

甘寧が卒去すると、孫権は彼のことを痛惜したものであった。子の甘瓌は罪にかかって会稽に移住させられ、ほどなくして死んだ。

淩統伝

徐盛伝

潘璋伝

丁奉伝