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原著作者:【むじん書院】

呉書十 程黄韓蔣周陳董甘淩徐潘丁伝第十

程普伝

程普徳謀といい、右北平土垠の人である。はじめ州郡の役人であったが、容貌と計略の持ち主で、応対が立派だった。孫堅の征伐戦に従軍して宛・鄧黄巾賊を討伐し、陽人では董卓を撃破、攻城でも野戦でも(先頭に立って戦ったので、)我が身に傷を被った。

孫堅が薨去すると、また孫策に随伴して淮南に身を置き、廬江攻めに従軍してこれを陥落させた。凱旋ののち(孫策と)一緒に(長江の)東岸へ渡った。孫策は横江・当利に着陣するなり張英・于麋らを打ち破り、転戦して秣陵・湖熟・句容・曲阿を攻め落としたが、程普が全ての戦いで武功を立てていたので、軍勢二千人・騎馬五十匹を加増してやった。進軍して烏程・石木・波門・陵伝・余杭を打ち破ったが、程普の戦功は多大であった。孫策は会稽入りすると、程普を呉郡都尉として銭唐において統治させた。のちに丹陽都尉へ異動となり、石城に在城した。また宣城・涇・安呉・陵陽・春穀の賊徒どもを討伐し、全て打ち破った。孫策が祖郎を攻撃したとき、厳しく包囲されたことがあったが、程普は騎兵もう一人とともに孫策を守護しつつ、馬を飛ばして大喝し、矛を手に賊軍に突進すると、賊ども(の包囲)が解けてきたので、孫策はこれに続いて脱出した。のちに盪寇中郎将を拝命して零陵太守を領した。尋陽における劉勲討伐に従軍し、沙羨へ進軍して黄祖を攻撃し、凱旋して石城を固めた。

孫策が薨去すると張昭らとともに孫権を輔弼し、三つの郡を駆けめぐって服従せぬ者どもを討ち平らげた。さらに江夏征討に従軍したが、帰還途中、予章から別働隊として楽安を討伐し、楽安が平定されると太史慈の後任として海昏を守った。周瑜とともに左右のとなり、烏林において曹公曹操)を打ち破り、さらに南郡へ進攻して曹仁を敗走させた。裨将軍を拝命して江夏太守を領し、沙羨で統治を執り、四県をんだ。

最初に出仕した諸将の中でも、程普が一番の年かさであったので、当時の人々はみな程公と呼んでいた。施しを好み、士大夫を敬うといった人柄であった。周瑜が卒去すると、後任として南郡太守を領した。孫権が荊州を分割して(南郡を)劉備に与えたため、程普は引き揚げてまたも江夏を領した。盪寇将軍に昇進し、卒去した。[一]孫権が尊号を称したとき、程普の功績をさかのぼって取り上げ、子の程咨亭侯に封じた。

[一] 『呉書』に言う。程普は叛逆者数百人を殺し、全てを火中に投げ込ませた。その日のうちに癩病にかかり、百日余りして卒去した。

黄蓋伝

黄蓋公覆といい、零陵泉陵の人である。[一]はじめ郡の役人となり、孝廉に推挙されて公府からお召しを受けた。孫堅が義兵を挙げると黄蓋はこれに従う。孫堅は南方で山賊を破り、北方では董卓を走らせ、黄蓋を別部司馬に任じた。孫堅が薨去すると、黄蓋は孫策および孫権に従い、甲冑に身を固めて駆けずりまわり、白刃をかいくぐって城を屠った。

[一] 『呉書』に言う。(黄蓋は)南陽太守黄子廉の子孫である。その子孫が枝分かれして、(黄蓋の)祖父の代で零陵に移り、そのままそこへ居を構えたのである。黄蓋は若いころ父を失い、赤子から二十歳になるまで不幸続きで、辛苦を舐め尽くした。それでも壮大な志を抱き、貧賤の身にあっても凡庸な輩とは同調しようとせず、いつも薪を背負っている時間を利用して手紙の書き方を学び、軍事を研究した。

山越たちが服従せず、その被害に遭っている県があれば、そのつど黄蓋が守長太守・県長)に任用された。石城県の役人はとりわけ始末に負えなかったので、黄蓋は二人のを任命し、諸曹(もろもろの部署)をそれぞれに分担させて、こう命じておいた。「令長(黄蓋)は不徳にして、ただ武功のみをもって官に就き、文吏として評価されることはなかった。いま賊徒どもはまだ平定されておらず、軍旅の仕事があるゆえ、(郡政については)ひとまず文書をもって両掾に委託することとし、諸曹の取り締まりに当たらせて過失の摘発をさせたい。両掾の担当において支出入に誤魔化しがあれば、絶対に鞭や杖を食らわせる(だけで済ませる)ことはないので、おのおの心を尽くして人々の(悪しき)前例とはならぬようにいたせ。」はじめはみな威光を怖れて朝から夜まで職務に慎んでいたが、長らくすると、役人たちは黄蓋が文書を確認していないことに気付き、次第に私事を差し挟むようになっていった。黄蓋の方でも(彼らの)怠慢が目に付くようになってきたので、ときどき視察を行い、二人の掾がそれぞれに法令をないがしろにしている事実を多数つかんだ。そこで各部署の役人を全員集めて酒食を振る舞い、その場で事実を発表して詰問したところ、二人の掾は弁解に詰まり、みな土下座して謝罪した。黄蓋は「絶対に鞭や杖を食らわせたりはしないと事前に言っておいたはずだ。欺いたわけではないぞ」と言って彼らを殺したので、県内は戦慄した。のちに春穀の県長、尋陽県令に転任した。合わせて九つの県を守ったが、至るところで鎮まった。丹陽都尉に昇進し、強きを抑えて弱きを助けたので、山越たちも心服した。

黄蓋は威厳ある面持ちで、よく兵士たちを養育したので、征討に向かった先々では、士卒たちがみな先を争った。建安年間(一九六~二二〇)、周瑜に従って赤壁曹公曹操)を防ぎ、策略を立てて火攻めを行った。記載は『周瑜伝』にある。[一]武鋒中郎将を拝命した。武陵の蛮民どもが反乱を起こして城邑を攻め取ったので、黄蓋に太守を領させた。このとき郡兵はわずかに五百人しかおらず、敵対できないと思われたため、城門を開き、賊軍の半数が侵入したところで攻撃をかけて首級数百を挙げた。残りはみな遁走し、全てが(本来の)部落に帰っていった。頭立った者を誅殺して、(彼らに)付き従っただけの者は赦免した。春から夏にかけて反乱軍はことごとく平定され、はるか遠く巴・醴・由・誕といった地のもろもろの邑侯君長たちも、みな態度を改め、礼を尽くして拝謁し、郡境はすっかりと清められた。のちに長沙益陽県が山賊の攻撃を受けたので、黄蓋がまた平定にあたり、偏将軍の号を加増された。病気のため在官のまま卒去した。

[一] 『呉書』に言う。赤壁の戦役において黄蓋は流れ矢に当たり、寒い時期であるのに川へ墜落した。呉軍の人に拾われたが、それが黄蓋であるとは分からず、廁牀内に寝かされた。黄蓋が自分を励ましてただ一声、韓当を呼ぶと、韓当はそれを聞いて「これは公覆の声だ」と言い、顔を合わせると涙を流しながら衣服を替えてやった。こうして生き延びることができたのである。

黄蓋は職務にあたって決断力があり、仕事が滞留することはなく、人々は彼を思慕したものである。[一]孫権が践祚するに及び、その功績をさかのぼって取り上げ、子の黄柄関内侯の爵位を賜った。

[一] 『呉書』に言う。また黄蓋の姿を描き、季節ごとに祭祀を行った。

韓当伝

韓当義公といい、遼西令支の人である。令の音は郎定の反切(レイ)、支の音は巨児の反切(キ)。弓馬に長けて膂力の持ち主であるということで孫堅の寵愛を受け、征伐戦に従軍して駆けずりまわり、しばしば危険を冒して敵陣を陥落させたり敵将を捕虜にしたりして、別部司馬に任じられた。[一]孫策が(長江の)東岸へ渡ってからは三郡討伐に従軍し、先登校尉に昇進、軍勢二千人・騎馬五十匹を授かった。劉勲征討や黄祖撃破に従軍し、引き返して鄱陽を討伐し、楽安県長を領することになると、山越どもも畏服した。のちに中郎将として周瑜らとともに曹公曹操)を打ち破り、また呂蒙とともに南郡を奪取し、偏将軍に昇進して永昌太守を領す。宜都の戦役では、陸遜・朱然らとともに涿郷において軍を攻撃し、これを大破、威烈将軍に異動となり、都亭侯に封ぜられた。曹真が南郡を攻撃したとき、韓当は東南(の一角)を守った。外地にあっては司令官として将兵を励まして心を一つに堅守し、また督司(目付役?)を尊重して軍紀を遵守したので、孫権は彼を褒め称えた。黄武二年(二二三)、石城に封ぜられ、昭武将軍に昇進して冠軍太守を領し、後日さらに都督の号を加増された。敢死兵および解煩兵一万人を率いて丹陽の賊徒を討伐し、これを打ち破ったが、ちょうどそのとき病卒し、子の韓綜が侯位を襲い、軍勢を領した。

[一] 『呉書』に言う。韓当は苦労を重ねて武功を立てていたが、軍旅にあっては寄騎に過ぎず、英雄豪傑たちに(功績を)切り取られたため、爵位を与えられることはなく、孫堅の世代を通じて別部司馬となる(に留まった)。

同年、孫権は石陽を征討するにあたり、韓綜が服喪中であったため武昌を守らせることとした。ところが韓綜は淫乱かつ無軌道であった。孫権は父親の縁ということで不問に付したが、韓綜はそれでも内心恐怖を抱き、[一]父の亡骸を車に載せ、母や家族、部曲の男女数千人を連れてへ逃亡した。魏は(彼を)将軍として広陽侯に封じた。(韓綜が)しばしば辺境を侵犯して人民を殺害したため、孫権はいつも歯軋りして口惜しがった。東興の戦役において、韓綜は先鋒を務めていたが、戦いに敗れて身を亡ぼし、諸葛恪がその首を斬って(本国へ)送り、孫権廟に報告した。

[一] 『呉書』に言う。韓綜は叛逆を企てたものの、左右の者が言うことを聞かぬのではないかと恐れた。そこで略奪を働くようそそのかし、彼らを裕福にしてやりたい気持ちがあるかのように見せかけた。次々と真似する者が現れたため、旅行者は多大な損害を被った。後日、部曲が強盗を働いた件について譴責する内容の詔勅が届いたと嘘を吐き、「将軍・軍吏以下、揃って処罰されるだろう」と言い、さらに、処罰は自分へも波及する懸念があるとも言った。左右の者たちはそのため「退去するしかありませぬ」と言い、とうとう共謀するようになった。(韓綜は)父を埋葬するからといって親戚のや姉をみんな呼び戻して、(彼女らを)残らず将兵に嫁がせ、お手付きの女中でさえも全て側近たちに賜与してしまい、牛をつぶして酒を呑み、血をすすって誓約を固めたのであった。

蔣欽伝

蔣欽公奕といい、九江寿春の人である。孫策袁術を襲ったとき、蔣欽は給事(側役)として(孫策に)随従した。孫策が(長江の)東岸へ渡ったとき、別部司馬を拝命して軍勢を授かった。孫策とともに駆けまわって三郡を平定し、また予章平定にも従軍した。葛陽県尉に転任し、三県の県長を歴任して盗賊どもを討ち平らげ、西部都尉へと昇進する。会稽の賊呂合・秦狼らが反乱をなすと、蔣欽は軍勢を率いて討伐し、ついに呂合・秦狼を生け捕りにして五つの県を平定した。討越中郎将に栄転して経拘・昭陽奉邑とされた。賀斉県の賊徒を討伐したとき、蔣欽が軍勢一万を監督して賀斉に合力したので、黟県の賊徒は平定された。合肥出征に従軍し、張遼(逍遥)津の北岸において孫権を襲撃したとき、蔣欽は力戦して手柄を立て、盪寇将軍に昇進して濡須を領した。のちに都へ召還されて津右護軍を拝命し、訴訟ごとを司ることとなる。

孫権はあるとき彼の座敷に上がったことがあるが、母は粗末なの着物、妻妾は麻布の下裙であった。孫権は彼が貴人でありながら倹約を心掛けていることに感歎し、即日、御府に命じて母のために錦織の着物を作らせ、帳を交換し、妻妾の衣服も全て錦の刺繡入りとした。

かつて蔣欽が宣城して予章の賊軍を討伐したときのこと、蕪湖県令徐盛が蔣欽陣営の軍吏を逮捕して斬首すべきと上表したが、蔣欽が遠方にいたため孫権が許可しなかったという事件があり、徐盛はそれ以来、蔣欽を避けるようになっていた。曹公曹操)が濡須に侵出してきたとき、蔣欽が呂蒙とともに諸軍の采配を執ることとなり、徐盛はいつも蔣欽が公務にかこつけて自分を殺すのではないかと恐怖していた。ところが蔣欽は事あるごとに彼の立派さを称えたので、徐盛は(彼の)恩徳に感服し、論者たちも賛美したのであった。[一]

[一] 『江表伝』に言う。孫権は蔣欽に言った。「徐盛は以前、のことで報告してきたが、卿はいま徐盛を推挙しておる。祁奚に倣うおつもりなのかね?」蔣欽は答えた。「公務たる推挙では私怨を差し挟まないもの、と臣は聞いております。徐盛は忠勤に励んで胆略と器用さを持ち、万人の総督に相応しゅうございます。いまだ大事業は完成しておりませぬゆえ、臣は人材探しをお手伝いするばかりであって、どうして私怨を差し挟んで賢者を隠したりいたしましょうぞ!」孫権はこれを嘉した。

孫権が関羽を討伐したとき、蔣欽は水軍を監督して沔水に入り、凱旋帰国の途中、病気のため卒去した。孫権は喪服を着けて哭礼を挙げ、蕪湖の領民二百戸と田地二百頃でもって蔣欽の妻子を給養することとした。子の蔣壱は宣城に封ぜられ、(父の遺した)軍勢を領して劉備を防ぐ功績を立てたが、南郡に転じて魏と交戦したとき、陣中にて卒去した。蔣壱には子がなかったため弟の蔣休が軍勢を領したが、後年、罪を犯して資産を失った。

周泰伝

周泰幼平といい、九江下蔡の人である。蔣欽とともに孫策に随従して左右(側近)となり、仕事ぶりは慎ましやかであった。しばしば戦場で功績を立てる。孫策が会稽入りすると別部司馬に任じられ、軍勢を授かった。孫権は彼の人柄を愛して当方で世話したいと申請した。孫策が県の山賊を討伐したとき、孫権は宣城に住まいしており、千人足らずの兵士たちに護衛を委ね、心構えは粗略なもので防壁の修繕もしていなかった。そこへ山賊数千人が突如として来襲してきた。孫権がようよう馬に跨ったときには、もう賊徒どもの矛先が左右に飛び交っている有様、その中の一人が(孫権の)馬の鞍を斬り付けたほどであった。軍中でもよく自制心を保ちえた者はおらず、ただ周泰だけは奮撃して、身を投げうって孫権を守護した。勇気は人一倍であり、左右の者たちも周泰のおかげで戦闘に復帰することができた。賊徒どもが退散したころには全身に十二ヶ所もの傷を被っており、長い時間が経ってようやく蘇生した。この日、周泰がいなければ孫権はまず助からなかったであろう。孫策はいたく彼に感謝して、春穀県長に補任した。のちに城攻略および江夏討伐に従軍し、凱旋途中で予章に差し掛かったとき、改めて宜春の県長に補任されたが、いずれの任地においても現地の租税をんだ。

黄祖討伐に従軍して功績を立て、のちに周瑜・程普とともに赤壁にて曹公曹操)を防ぎ、南郡にて曹仁を攻めた。荊州が平定されると軍勢を率いてに屯する。曹公が濡須に侵出してくると周泰はまた攻撃に赴き、曹公が撤退したあともそのまま残って濡須のとなり、平虜将軍を拝命した。そのころ朱然・徐盛らが部下に配属されていたが、いずれも服従しようとはしなかった。孫権はわざわざ軍中視察の名目で濡須塢を訪れ、諸将を集めて盛大に酒宴を催した。孫権はみずから酌をして回り、周泰の前まで来ると着物を脱ぐよう命じ、彼の傷痕を指差しながら理由を訊ねると、周泰はそのつど昔の戦闘を思い出しながら訳を話した。(一通り説明が)終わると、また衣服を着けさせ、夜更けまで飲食を楽しんだ。その翌日、使者をやって御蓋を授けた。[一]こうしたことがあって、徐盛らもすっかり服従するようになった。

[一] 『江表伝』に言う。孫権は彼の腕を取って涙を流しながら連(列)を交え、彼を字で呼びつつ言った。「幼平どの。たち兄弟のために生命さえ惜しまず熊虎の如く戦ってくれた。数十ヶ所に傷を被り、皮膚は彫刻のようだ。孤がどうして卿を骨肉の恩愛でもって待遇し、卿を兵馬の重任でもって委任せずにいられようか!卿はの功臣だ。孤は卿と栄誉も恥辱も同じくし、喜びも悲しみも等しくしたい。幼平どのは快くそれを受け入れてくれよ。寒門だからといって辞退しないでくれよ。」その場で勅命を発し、自分が常用していた御幘と青色の縑蓋を下賜した。宴が果てて馬車に乗ったとき、周泰に兵馬でもって先導させて出発することとし、(彼に)太鼓や角笛を鳴らせて鼓吹とした。

のちに関羽を打ち破ったとき、孫権は進撃してを攻略しようと思っていたので、周泰を漢中太守奮威将軍に任じ、陵陽侯に封じた。黄武年間(二二二~二二九)に卒去した。

子の周邵騎都尉として(父の遺した)軍勢を領し、曹仁が濡須に侵出してきたとき戦場で功績を立て、さらに曹休攻めに従軍し、官位は裨将軍に進んだ。黄龍二年(二三〇)に卒去し、弟の周承が軍勢を領して侯位を襲った。

陳武伝

陳武子烈といい、廬江松滋の人。孫策寿春にあったとき、陳武は出かけて拝謁する。ときに十八歳、身の丈七尺七寸であった。付き従って長江を渡り、征討で武功を挙げて別部司馬を拝した。孫策は劉勲を打ち破ったとき、廬江の人間を多数手に入れたが、その中から精鋭を選りすぐって陳武をその監督者にしたところ、行く手を遮る者はなかった。孫権が事業を統括するようになると督五校に転任した。仁慈に厚く施しを好んだので、郷里や遠方から数多くの賓客たちが彼に身を寄せた。孫権からは最高の親愛を被り、しばしば彼の邸宅を訪れることもあった。功労を重ねて官位は偏将軍に進んだが、建安二十年(二一五)、合肥攻撃に従軍し、命懸けで奮闘したすえ戦死する。孫権はそれを悲しみ、直々に彼の亡骸と対面した。[一]

[一] 『江表伝』に言う。孫権は彼の愛妾に殉死を命じ、賓客二百家を(租税免除)とした。 孫盛は言う。むかし三人の良民がに殉じ、軍はそのために遠征できなくなった。の妾は嫁に出され、杜回はそのために僵仆(転倒)した。禍福の報いはこのような結果をもたらすのだ。孫権は計算術数に頼り、生者を死者に従わせた。国祚の尽きるのが早かったのも当然ではないか!

子の陳脩には陳武の風格があり、十九歳のとき、孫権は召し寄せて激励し、別部司馬に任じて軍勢五百人を授けた。そのころ諸将の手の新兵には逃亡したり叛乱したりする者が多かったが、陳脩はよくよく手懐けて気持ちをつかんだので、一人として失うことはなかった。孫権はそれを奇特なことと思い、校尉に任命してやった。建安年間(一九六~二二〇)の末期、功臣の子孫をさかのぼって考課することになり、陳脩は都亭侯に封ぜられて解煩督になった。黄龍元年(二二九)に卒去した。

陳表伝

弟の陳表は字を文奧といい、陳武の庶子である。若くして名を知られ、諸葛恪・顧譚・張休らと並んで東宮に侍り、みな親友同士であった。尚書曁豔もまた陳表と親しかったが、のちに曁豔は罪人になった。当時の人々はみな保身に回り、交流が深くとも弁護してやることは少なかった。陳表だけはそうした態度を取らず、士人はそのことから彼を尊敬した。太子中庶子って翼正都尉に任じられた。兄の陳脩が亡くなったのち、陳表の母は陳脩の母の言い付けを聞かなくなった。陳表は自分の母に言った。「兄上は不幸にして早くに亡くなり、陳表が家業を統べることになりましたゆえ、嫡母を敬わねばなりません。母上がもし陳表のため感情を抑えて嫡母を尊重して頂ければ、それは願ってもないことです。もし母上がそうおできにならなければ、ただちに出ていって別居していただきます。」陳表が大義に照らして公正であったのは、これほどのものであった。それ以来、二人の母は感悟して仲睦まじくなった。陳表は父が敵地で死んだことから、将帥に任用してほしいと志願し、軍勢五百人を領することになった。陳表は戦士たちが力を尽くしてくれることを願い、心を込めて接待したので、兵士たちはみな心底懐き、命令に従うことを喜ぶようになった。そのころ、お上の物を盗んだ者があって、無難士施明に嫌疑がかけられていた。施明は昔から精悍な性質であって、逮捕されて拷問を受けても、死をって口を割らなかった。廷尉がそれを報告すると、孫権は陳表がよく健児の心を得ているということで、詔勅により施明の身柄を陳表に預け、彼の思うがままの方法で実情を調べさせた。陳表はすぐさま手かせを壊して沐浴させ、衣服を替えてやり、手厚く酒食を設け、楽しみを尽くしてから聞き出すと、施明はとうとう自白し、共犯者の名をつぶさに列挙した。陳表がありのままの状況を報告すると、孫権は大層驚き、彼の名声を傷付けぬよう、特別に施明を赦免して共犯者だけを誅殺した。陳表を無難右部督に昇らせ、都亭侯に封じて旧来の爵位を継がせた。陳表はすべて辞退して、陳脩の子陳延に伝えさせてほしいと歎願したが、孫権は許可しなかった。嘉禾三年(二三四)、諸葛恪丹陽太守を領して山越を平定したとき、陳表に新安都尉を領させて諸葛恪に加勢させるようにと上表した。かつて陳表が賜った復人二百家は会稽新安県に住まいしていたが、陳表がその人々を視察してみると、みな好き兵士になれそうであった。そこで上疏して返上を願い、官に組み込んで精鋭を補充してほしいと申請した。詔勅に言う。「先代の将軍(陳武)は我が国に対する功績があった。それゆえ国家はこれに報いたのである。はどうしてこれを辞退する理由があろうか?」陳表はそこで述べた。「いま賊徒を排除して父の仇を討つにあたっては、人間を根本としているのでございます。彼らのような精鋭を無理やり遊ばせて奴隷扱いにしてしまうのは、陳表の本意ではございません。」全員を一人づつ検査して部隊に割り当てた。現地から報告が上げられると、孫権はそれに大層満足し、郡県に下命して一般の戸籍から弱者を選んで彼の下に割り当てた。陳表は在官すること三年、両手を広げて投降者を受け入れ、兵士一万人余りを手に入れた。事業は成功を収め、(栄転の沙汰を受けて)出ていこうとしたとき、ちょうど鄱陽の住民呉遽らが反乱をなして城郭を攻め落とし、属県に動揺が広がった。陳表がすぐさま郡境を越えて討伐に駆け付けると、呉遽はそのために敗北し、投降した。陸遜は陳表を偏将軍に任じて封爵を都郷侯に進め、北へ章阬に屯させた。三十四歳で卒去した。家の財産は兵士を給養するために使い果たしており、彼の死んだ日、妻子は露天に立ち尽くす有様であったので、太子孫登が彼らのために邸宅を建ててやった。子の陳敖は十七歳で別部司馬を拝して軍勢四百人を授かった。陳敖が卒去すると、陳脩の子陳延がまた司馬として陳敖の後任にあたった。陳延の弟陳永は将軍として侯に封ぜられた。施明はむかし陳表に感化され、自分から行いを改めて善行を積むようになり、ついには勇将へと成長し、官位は将軍にまでなった。

董襲伝

董襲元代といい、会稽余姚の人。身の丈は八尺、武勇は人並み外れていた。[一]孫策が入郡したとき、董襲は高遷亭において出迎えた。孫策は(彼と)会って立派に思い、(治府に)到着すると門下賊曹に任じた。そのころ、山陰の古株の賊黄龍羅・周勃が一味数千人を集めていた。孫策が自ら討伐に出向くと、董襲はその手で黄龍羅・周勃の首を斬り、帰還したあと別部司馬を拝命し、軍勢数千人を授かった。(のちに)揚武都尉に昇進した。孫策の攻撃に従軍し、また尋陽においては劉勲を追討し、江夏においては黄祖を征伐した。

[一] 謝承の『後漢書』では、董襲は節義の固い慷慨の士で、勇武剛毅にして英邁壮烈であったと評している。

孫策が薨去したとき、孫権は年若く、初めて事業を統括することなったため、太妃(孫権の母)は彼のことを心配し、張昭および董襲らを引見して江東を安全に保てるであろうかと訊ねた。董襲は答えて言った。「江東の地勢には山川の堅固さがあり、そのうえ討逆明府(孫策)が民衆に恩徳を施されております。討虜(孫権)さまが基礎を受け継ぎ、大身も小者もご命令を奉じ、張昭が万事を統べ、董襲らが爪牙となっております。これこそ地の利、人の和の(ともに得られた)時でありますから、よろづご心配はないのでございます。」人々はみな彼の言葉を壮快に感じた。

鄱陽の賊彭虎らの軍勢は数万人もあった。董襲は淩統・歩隲・蔣欽とともに、おのおの手を分けて討伐に当たったが、董襲が向かった先ではあっさりと打ち破られたので、彭虎らは(董襲の)旌旗が遠くに見えただけですぐさま逃げ散り、十日ほどですっかり平定された。威越校尉を拝命し、(のちに)偏将軍に昇進した。

建安十三年(二〇八)、孫権は黄祖を討伐した。黄祖は二隻の蒙衝を横向けて沔口を(両側から)挟むようにして守り、栟閭(しゅろ)の大紲に石を繋いでとし、船上にいる千人が弩を(十字に)交差させて発射したので、飛来する矢は雨のように降り注ぎ、(孫権の)軍は前進できなかった。董襲は淩統とともに先鋒となり、おのおの敢死兵百人を率い、一人一人が鎧を重ね着して大舸船に乗り込み、(二隻の)蒙衝の隙間に突入した。董襲がその手に持った刀で二本のを切断すると、蒙衝はでたらめに流れだし、大軍はようやく進むことができた。黄祖はすぐさま城門を開いて逃走したが、兵士が追跡して彼を斬った。翌日、盛大な酒宴が催され、孫権は盃を手に董襲へ酌をしながら言った。「本日の宴会は、紲を切断した功績あればこそだ。」

曹公が濡須に侵出してきたとき、董襲は孫権に随従してそこへ駆け付けた。(孫権は)董襲に五隻の楼船を監督させて濡須口に駐留させた。夜中に突然、暴風が吹いて五隻の楼船は横転した。左右の側近たちは走舸を切り離し、董襲に脱出するよう請願した。董襲が怒りながら「将軍の任務を受けてここで賊軍に備えておるのだ。どうして投げ出して逃げることができよう。それでもまだ言う者があれば、斬る!」と言うと、その上、あえて楯突く者はなかった。その夜、船は崩壊し、董襲は死んだ。孫権は喪服に着替えて葬儀に参列し、(遺族への)恩給は極めて手厚いものであった。

甘寧伝

甘寧興霸といい、巴郡臨江の人である。[一]若くして気力にあふれて游俠を好み、軽薄な少年たちをかき集めて彼らの渠帥になっていた。群れ集って弓弩を携え、を背負って鈴を帯びたので、民衆は鈴の音を聞いただけで、それが甘寧であると知った。[二]他人が彼らと出くわしたとき、属城の長吏ほどの者が盛大にもてなして初めて満足するが、そうでなければ、配下の者を放ってその人の財産を奪わせた。長吏の領内で犯罪があれば、その発負を追及した。二十年余りも経ってから、ばったりと乱暴を働かなくなり、少しは諸子を読むようになった。それから劉表の元へ行って身を寄せ、南陽に住まいしたが、任用されることはなかった。のちに改めて黄祖に身を寄せたが、黄祖もまた凡人としてうだけだった。[三]

[一] 『呉書』に言う。甘寧はもともと南陽の人であったが、祖先が巴郡に仮住まいしたのである。甘寧は役人となって計掾に推挙され、蜀郡郡丞に補任されたが、しばらくして官職を棄てて家に帰った。

[二] 『呉書』に言う。甘寧は任俠気取りで人を殺したり、逃亡者をかくまったりして郡中に名を知られ、出入りの際、陸路なら車騎を並べ、水路なら脚早の船を連ね、付き従う者たちは彩り鮮やかな刺繡を身に付けた。行く先々で道路を輝かせ、停泊するときはいつも絹錦の綱でもって船を繋ぎ、出発するときはそれを切り捨てて豪奢ぶりを見せ付けた。

[三] 『呉書』に言う。甘寧は食客八百人を連れて劉表に身を寄せた。劉表は儒者であったため軍事を習わず、当時は英雄たちがそれぞれ挙兵していたので、甘寧は劉表の対応を観察して、最終的には何も成功させられないばかりか、土崩瓦解の暁には巻き添えを受けるのではないかと心配した。そこで東方へ向かってに入ろうとしたが、黄祖が夏口にいたため軍勢は通過することができず、そこで黄祖の元に留まった。三年もの間、黄祖は彼を礼遇しなかった。孫権が黄祖を討伐したとき、黄祖軍は敗北して遁走したのであるが、追撃は厳しいものであった。甘寧は射術に巧みだったので兵を率いて後詰めを引き受け、(孫権の)校尉淩操を射殺した。黄祖は(そのおかげで)逃げ延びることができたが、戦争が終わって本営に帰還したあとも、甘寧への待遇は以前と変わりなかった。黄祖の都督蘇飛がたびたび甘寧を推薦しても、黄祖は任用しようとせず、人をやって甘寧の食客を手懐けたので、食客たちは次第に数を減らしていった。甘寧は立ち去りたく思ったが拘束されまいかと心配して、一人で鬱々としてなすすべを知らなかった。蘇飛が彼の気持ちを察して甘寧を招き、彼のために酒宴を設けて言った。「を推薦したのは数回に及んだが、ご主君は任用なさらなかった。月日は過ぎ去り、人生はいくばくもない。ご自身の方から大志を立てて知己との遭遇を求められるがよかろう。」甘寧はしばらくしてからようやく口を開いた。「その志はございますが、だれを頼りにすればよいのか分からないのです。」蘇飛は言った。「吾は、子が県長になれるよう口添えしてやろうと思うが。それなら去就を定めるのも板の上で鞠を転がすようなものであろう?」甘寧は言った。「幸甚でございます。」蘇飛が黄祖に言上したことで、甘寧の県への赴任が認められた。(甘寧は)寝返った食客たちを呼び返し、義勇兵を合わせて数百人を手に入れた。

こうして呉に身を寄せることになった。周瑜・呂蒙がみな連名で推薦したので、孫権も目をかけて旧臣同様に遇した。甘寧が計略を陳述した。「ただいま漢祚は日ごとに衰微し、曹操はますます増長しており、しまいに簒奪を働くでありましょう。南方荊州の地は山岳の形がよく、長江が通じ、これぞ正しく西進をいざなう勢いでございます。甘寧はすでに劉表を観察しておりますが、遠い先々まで配慮も行き届かぬうえ、子供たちは輪をかけて劣っており、よく事業を継承して基礎を伝えられる者ではございませぬ。至尊(孫権)におかれては早急にこれを計画され、曹操の経略に後れを取られませぬよう。その経略の策でございますが、最初に黄祖を攻略なさるのがよろしゅうございます。黄祖も今では年老いて耄碌がひどく、財貨食糧ともに欠乏しているというのに、左右の者たちは誤魔化しを働いて利殖に走り、官吏兵士たちにたかるので心底怨まれておる有様。艦船や武器は頓廃されて修繕することなく、農耕を怠って軍隊に統制はございません。至尊が今すぐお発ちになれば、奴めが破滅するのは必定であります。一たび黄祖軍を打ち破りましたならば、太鼓を打ちつつ西進して西方は楚関を占拠いたすことで、大勢はますます有利に展開いたしましょう。さすれば順当に巴蜀を攻略することも可能になるのでございます。」孫権はその言葉を深く受け入れた。張昭はこのとき座中にあって、批評して言った。「呉の城下は業業としておりますゆえ、もし軍が出征を決行すれば、おそらく変事を招くことになりましょう。」甘寧は張昭に告げた。「国家は蕭何の任務を君に委ねられました。(それなのに)君は留守居に際して変事を懸念される。古人を慕うおつもりではなかったのですか?」孫権は酒を甘寧にぎながら言った。「興霸よ。今年の征討は、ちょうどこの酒のように、へ委ねることに決めているのだ。卿はただ計略を練ることに専念して頂きたい。黄祖に必ず勝てるようにしてくれれば、それが卿の功績なのだ。どうして張長史の言葉を気になさる必要があろうか?」孫権はついに西進して、しかと黄祖を捕らえ、ことごとくその軍勢を手に入れた。こうして甘寧に軍勢を預けることになり、当口に屯させた。[一]

[一] 『呉書』に言う。もともと孫権は黄祖を打ち破るにあたって、あらかじめ二つの箱を作っておき、黄祖および蘇飛の首を納めるつもりであった。蘇飛が人をやって(我が身の)危急を甘寧に告げると、甘寧は「蘇飛から言ってこなくても、吾がどうして彼のことを忘れられようか?」と言った。孫権が諸将のために酒宴を設けたとき、甘寧は席から飛び降りて叩頭し、血と涙とにまみれながら孫権に言上した。「蘇飛には往昔の旧恩がござって、この甘寧、蘇飛に出会わねば死骸を溝川てられて当然、麾下にあってご命令をお受けすることも叶わぬところでありました。ただいま蘇飛の罪は皆殺しに相当いたしますが、将軍より格別に(お目こぼしを賜り、)彼の首をお預けくださりませ。」孫権はその言葉に感銘しつつも、言った。「いま君のために(処分は)いておこう。もし脱走したらどうする?」甘寧は言った。「蘇飛は、分裂の災禍を免れて再生の恩義を被りましたからには、追い立てたとしてもなお逃げたりはいたしますまい。どうしてげようなどと図ったりいたしましょうや!もし左様のことがございますれば、甘寧の首を代わりに箱へお納めくださりませ。」孫権はようやく彼を赦免した。

のちに周瑜に随行して烏林において曹公曹操)と対峙し、打ち破った。南郡では曹仁を攻め、まだ陥落せぬうち、甘寧はまず直行して夷陵を奪取すべきとの計略を立て、出陣してすぐその城を落とすと、そのまま入城して守りを固めた。このとき手勢は数百人、新附の人数を合わせてようやく千人になるだけであった。曹仁が五・六千人に命じて甘寧を包囲させた。甘寧は何日にもわたって攻撃を凌ぎ、敵が矢倉を設けて雨のごとく城内に矢を射かけてくると、兵士たちはみな恐怖したが、ただ甘寧だけは平然として談笑を続けていた。使者を出して周瑜に知らせると、周瑜は呂蒙の計略を採用し、諸将を率いて囲みを解いた。のちに魯粛に随行して益陽を守り、関羽と対峙した。関羽は軍勢三万人を抱えていると喧伝しつつ、精鋭五千人を自ら選りすぐり、県の上流十里余りに位置する浅瀬に投入、夜中に渡るつもりだと吹聴していた。魯粛が諸将と協議したとき、甘寧はこのとき三百の兵士を抱えていたのだが、「さらに五百人を吾へ加増していただければ、吾が行ってきて対応いたしましょう。吾のしわぶきを聞いただけで、関羽は川を渡ろうといたしますまい。保証いたしますぞ。川を渡れば吾の捕虜になりますからな」と言った。魯粛は早速、千人の兵士を選抜して甘寧に預けた。甘寧が夜中に出陣すると、関羽はそれを聞いて渡ろうとはせず、にわか仕立ての陣営を築いた。現在では、この場所が関羽瀬と名付けられている。孫権は甘寧の功績を称え、西陵太守に任じて陽新・下雉両県を宰領させた。

のちに城攻撃に従軍したときは升城督となり、甘寧は練り絹を手にして城壁に身を委ね、官吏兵士を先導した。あっさりと打ち破って(敵の城番)朱光を捕らえ、論功の結果、呂蒙が第一、甘寧はそれに次ぐものとされ、折衝将軍を拝命した。

のちに曹公が濡須へ侵出してきたとき、甘寧は前部督となり、出陣して敵の先鋒を討つよう命ぜられた。孫権が米や酒、とりどりの料理を格別に賜与すると、甘寧はそこで百人余りの手下に選り分けた。食事が終わると、甘寧はまず銀ので汲んだ酒を自分が二杯呑み、それから都督に酌をしたが、都督はうつ伏せたまますぐには承けようとしなかった。甘寧は白削を抜いて膝上に置き、怒鳴りながら言った。「卿が至尊からお受けしている知遇は、甘寧と比べてどうでしょうか?甘寧でさえ死を惜しみませんのに、卿ひとりがどうして死を惜しまれるのですか?」都督は甘寧の激しい気色を見るなり、すぐさま立ち上がって酒を手に取り、兵士に銀盌一杯づつ酌をしてまわった。二更の時刻、を含んで出撃した。敵兵は驚き、動揺して引き下がった。甘寧はますます尊重され、軍勢二千人を加増された。[一]

[一] 『江表伝』に言う。曹公が濡須へ侵出してきて、歩騎四十万が長江の川べりで馬に水を飲ませるのだと喧伝した。孫権は軍勢七万を率いてこれに立ち向かい、甘寧に三千人を預けて前部督とした。孫権は密かに甘寧に命じ、夜中に軍へ突入させることとした。甘寧はそこで手下から勇士百人余りを選り抜き、まっすぐに曹公陣営の前まで突き進む。逆茂木を抜かせ、塁壁を越えて陣営に侵入するなり、数十もの首級を挙げた。北軍は驚き、太鼓を鳴らしてどよめき、松明を星のごとく掲げたが、甘寧はもう引き返して本営に入ったところで、鼓吹に演奏させて万歳を称えている。そのまま夜分を押して孫権に拝謁すると、孫権は喜んで「年寄りを驚かせるには充分であったかのう?少しは卿の大胆さを見られたぞ」と言い、その場で絹千匹と刀百振りを賜った。孫権は言った。「孟徳(曹操)に張遼がおり、に興霸がおって、ちょうど釣り合いが取れているのだ。」一ヶ月余り駐留しているうちに、北軍は忽然と立ち去った。

甘寧は麤暴で殺人を好んだものの、しかし爽快な人柄で計略を持ち、財貨を軽んじて士人を敬い、手厚く勇者たちを育てたので、勇者たちもまた役に立ちたいと願った。建安二十年(二一五)、合肥攻めに従軍したが、疫病が流行したため軍勢はみな撤退し、車下虎士千人余りと、呂蒙・蔣欽・淩統および甘寧だけが逍遥津の北岸で孫権に従っていた。張遼がそれをはるかに眺めて、歩騎を率いて急襲をかけてきた。甘寧は弓を引き絞って敵兵に射かけ、淩統らとともに決死の覚悟で戦った。甘寧は声を荒げて「なぜ演奏しないのか」と鼓吹を責めたが、毅然たる勇壮さを、孫権はとりわけ評価した。[一]

[一] 『呉書』に言う。淩統は父淩操が甘寧に殺されたことを怨んでおり、甘寧はいつも淩統を警戒して顔を合わせようとはせず、孫権もまた報復してはならぬと淩統に命じていた。あるとき呂蒙の邸宅で宴会が催され、盛り上がったところで淩統が刀を抜いて舞を始めた。「甘寧は双戟の舞をうまくやりますよ」と、甘寧も立ち上がった。呂蒙が「甘寧どのがうまいとはいっても、呂蒙ほど達者ではなかろう」と言いながら、刀を振りながら楯を持ち、体ごと割って入った。後日、孫権は淩統の気持ちを汲んで、甘寧には軍勢を率いて半州へ移駐させた。

あるとき甘寧の廚房の小僧が過失を犯し、呂蒙の元へ逃げ込んだ。呂蒙は甘寧が彼を殺してしまうことを心配し、すぐには帰さなかった。後日、甘寧は礼物を提げて呂蒙の母に贈るため、直接、座敷に参上することになった。そこで(呂蒙は)廚房の小僧を甘寧に返してやり、甘寧も殺したりはしないと呂蒙に約束した。しばらくして船へ戻り、(小僧を)桑の木に縛り付け、みずから弓を引いて射殺した。そのあと、船頭にを幾重にもかけさせ、着物を脱いで船内に寝転んだ。呂蒙は激怒し、太鼓を打ち鳴らして兵士を集め、船を追いかけて甘寧を攻撃しようとした。甘寧はそれを聞いても、あえて立ち上がろうとはしなかった。呂蒙の母が裸足で駆け付けてきて、「至尊はを骨肉同然に待遇してくださり、重要な職務を汝にお授けになりました。どうして私怨でもって甘寧を攻め殺そうなどと考えられましょう?甘寧を死なせた日には、たとい至尊が不問に付したとしても、汝は臣下の法を犯したことになるのですよ」と呂蒙を諭すと、呂蒙はもともと孝心篤き人であったので、母の言葉を聞くなり、からりと気持ちが解け、甘寧の船まで行き、笑いながら「興霸よ、老母が食事を作って卿を待っているんだ。急いで来いよ!」と呼びかけた。甘寧は涙を流して「卿に借りを作ってしまった」と、むせび泣いた。呂蒙と一緒に(彼の)母に会い、ひねもす酒宴を楽しんだ。

甘寧が卒去すると、孫権は彼のことを痛惜したものであった。子の甘瓌は罪にかかって会稽に移住させられ、ほどなくして死んだ。

淩統伝

徐盛伝

潘璋伝

丁奉伝

吳書十 程黃韓蔣周陳董甘淩徐潘丁傳第十

程普傳

程普字德謀,右北平土垠人也.初為州郡吏,有容貌計略,善於應對.從孫堅征伐,討黃巾於宛﹑鄧,破董卓於陽人,攻城野戰,身被創夷.

堅薨,復隨孫策在淮南,從攻廬江,拔之,還俱東渡.策到橫江﹑當利,破張英﹑于麋等,轉下秣陵﹑湖熟﹑句容﹑曲阿,普皆有功,增兵二千,騎五十匹.進破烏程﹑石木﹑波門﹑陵傳﹑餘杭,普功為多.策入會稽,以普為吳郡都尉,治錢唐.後徙丹陽都尉,居石城.復討宣城﹑涇﹑安吳﹑陵陽﹑春穀諸賊,皆破之.策嘗攻祖郞,大為所圍,普與一騎共蔽扞策,驅馬疾呼,以矛突賊,賊披,策因隨出.後拜盪寇中郞將,領零陵太守,從討劉勳於尋陽,進攻黃祖於沙羨,還鎭石城.

策薨,與張昭等共輔孫權,遂周旋三郡,平討不服.又從征江夏,還過豫章,別討樂安.樂安平定,代太史慈備海昏,與周瑜為左右督,破曹公於烏林,又進攻南郡,走曹仁.拜裨將軍,領江夏太守,治沙羨,食四縣.

先出諸將,普最年長,時人皆呼程公.性好施與,喜士大夫.周瑜卒,代領南郡太守.權分荊州與劉備,普復還領江夏,遷盪寇將軍,卒.[一]權稱尊號,追論普功,封子咨為亭侯.

[一] 吳書曰:普殺叛者數百人,皆使投火,卽日病癘,百餘日卒.

黃蓋傳

黃蓋字公覆,零陵泉陵人也.[一]初為郡吏,察孝廉,辟公府.孫堅擧義兵,蓋從之.堅南破山賊,北走董卓,拜蓋別部司馬.堅薨,蓋隨策及權,擐甲周旋,蹈刃屠城.

[一] 吳書曰:故南陽太守黃子廉之後也,枝葉分離,自祖遷于零陵,遂家焉.蓋少孤,嬰丁凶難,辛苦備嘗,然有壯志,雖處貧賤,不自同於凡庸,常以負薪餘閒,學書疏,講兵事.

諸山越不賓,有寇難之縣,輒用蓋為守長.石城縣吏,特難檢御,蓋乃署兩掾,分主諸曹.教曰:「令長不德,徒以武功為官,不以文吏為稱.今賊寇未平,有軍旅之務,一以文書委付兩掾,當檢攝諸曹,糾擿謬誤.兩掾所署,事入諾出,若有姦欺,終不加以鞭杖,宜各盡心,無為眾先.」初皆怖威,夙夜恭職;久之,吏以蓋不視文書,漸容人事.蓋亦嫌外懈怠,時有所省,各得兩掾不奉法數事.乃悉請諸掾吏,賜酒食,因出事詰問.兩掾辭屈,皆叩頭謝罪.蓋曰:「前已相勅,終不以鞭杖相加,非相欺也.」遂殺之.縣中震慄.後轉春穀長,尋陽令.凡守九縣,所在平定.遷丹陽都尉,抑彊扶弱,山越懷附.

蓋姿貌嚴毅,善於養眾,每所征討,士卒皆爭為先.建安中,隨周瑜拒曹公於赤壁,建策火攻,語在瑜傳.[一]拜武鋒中郞將.武陵蠻夷反亂,攻守城邑,乃以蓋領太守.時郡兵才五百人,自以不敵,因開城門,賊半入,乃擊之,斬首數百,餘皆奔走,盡歸邑落.誅討魁帥,附從者赦之.自春訖夏,寇亂盡平,諸幽邃巴﹑醴﹑由﹑誕邑侯君長,皆改操易節,奉禮請見,郡境遂清.後長沙益陽縣為山賊所攻,蓋又平討.加偏將軍,病卒於官.

[一] 吳書曰:赤壁之役,蓋為流矢所中,時寒墮水,為吳軍人所得,不知其蓋也,置廁牀中.蓋自彊以一聲呼韓當,當聞之,曰:「此公覆聲也.」向之垂涕,解易其衣,遂以得生.

蓋當官決斷,事無留滯,人思之.[一]及權踐阼,追論其功,賜子柄爵關內侯.

[一] 吳書曰:又圖畫蓋形,四時祠祭.

韓當傳

韓當字義公,遼西令支人也.令音郞定反.支音巨兒反.以便弓馬,有膂力,幸於孫堅,從征伐周旋,數犯危難,陷敵擒虜,為別部司馬.[一]及孫策東渡,從討三郡,遷先登校尉,授兵二千,騎五十匹.從征劉勳,破黃祖,還討鄱陽,領樂安長,山越畏服.後以中郞將與周瑜等拒破曹公,又與呂蒙襲取南郡,遷偏將軍,領永昌太守.宜都之役,與陸遜﹑朱然等共攻蜀軍於涿鄕,大破之,徙威烈將軍,封都亭侯.曹眞攻南郡,當保東南.在外為帥,厲將士同心固守,又敬望督司,奉遵法令,權善之.黃武二年,封石城侯,遷昭武將軍,領冠軍太守,後又加都督之號.將敢死及解煩兵萬人,討丹陽賊,破之.會病卒,子綜襲侯領兵.

[一] 吳書曰:當勤苦有功,以軍旅陪隸,分於英豪,故爵位不加.終於堅世,為別部司馬.

其年,權征石陽,以綜有憂,使守武昌,而綜淫亂不軌.權雖以父故不問,綜內懷懼,[一]載父喪,將母家屬部曲男女數千人奔魏.魏以為將軍,封廣陽侯.數犯邊境,殺害人民,權常切齒.東興之役,綜為前鋒,軍敗身死,諸葛恪斬送其首,以白權廟.

[一] 吳書曰:綜欲叛,恐左右不從,因諷使劫略,示欲饒之,轉相放效,為行旅大患.後因詐言被詔,以部曲為寇盜見詰讓,云「將吏以下,當並收治」,又言恐罪自及.左右因曰:「惟當去耳.」遂共圖計,以當葬父,盡呼親戚姑姊,悉以嫁將吏,所幸婢妾,皆賜與親近,殺牛飲酒歃血,與共盟誓.

蔣欽傳

蔣欽字公奕,九江壽春人也.孫策之襲袁術,欽隨從給事.及策東渡,拜別部司馬,授兵.與策周旋,平定三郡,又從定豫章.調授葛陽尉,歷三縣長,討平盜賊,遷西部都尉.會稽治賊呂合﹑秦狼等為亂,欽將兵討擊,遂禽合﹑狼,五縣平定,徙討越中郞將,以經拘﹑昭陽為奉邑.賀齊討黟賊,欽督萬兵,與齊幷力,黟賊平定.從征合肥,魏將張遼襲權於津北,欽力戰有功,遷盪寇將軍,領濡須督.後召還都,拜津右護軍,典領辭訟.

權嘗入其堂內,母疎帳縹被,妻妾布裙.權歎其在貴守約,卽勅御府為母作錦被,改易帷帳,妻妾衣服悉皆錦繡.

初,欽屯宣城,嘗討豫章賊.蕪湖令徐盛收欽屯吏,表斬之,權以欽在遠不許,盛由是自嫌於欽.曹公出濡須,欽與呂蒙持諸軍節度.盛常畏欽因事害己,而欽每稱其善.盛旣服德,論者美焉.[一]

[一] 江表傳曰:權謂欽曰:「盛前白卿,卿今擧盛,欲慕祁奚邪?」欽對曰:「臣聞公擧不挾私怨,盛忠而勤彊,有膽略器用,好萬人督也.今大事未定,臣當助求才,豈敢挾私恨以蔽賢乎!」權嘉之.

權討關羽,欽督水軍入沔,還,道病卒.權素服擧哀,以蕪湖民二百戶﹑田二百頃,給欽妻子.子壹封宣城侯,領兵拒劉備有功,還赴南郡,與魏交戰,臨陳卒.壹無子,弟休領兵,後有罪失業.

周泰傳

周泰字幼平,九江下蔡人也.與蔣欽隨孫策為左右,服事恭敬,數戰有功.策入會稽,署別部司馬,授兵.權愛其為人,請以自給.策討六縣山賊,權住宣城,使士自衞,不能千人,意尚忽略,不治圍落,而山賊數千人卒至.權始得上馬,而賊鋒刃已交於左右,或斫中馬鞍,眾莫能自定.惟泰奮擊,投身衞權,膽氣倍人,左右由泰並能就戰.賊旣解散,身被十二創,良久乃蘇.是日無泰,權幾危殆.策深德之,補春穀長.後從攻皖,及討江夏,還過豫章,復補宜春長,所在皆食其征賦.

從討黃祖有功.後與周瑜﹑程普拒曹公於赤壁,攻曹仁於南郡.荊州平定,將兵屯岑.曹公出濡須,泰復赴擊,曹公退,留督濡須,拜平虜將軍.時朱然﹑徐盛等皆在所部,並不伏也,權特為案行至濡須塢,因會諸將,大為酣樂.權自行酒到泰前,命泰解衣,權手自指其創痕,問以所起.泰輒記昔戰鬭處以對,畢,使復服,歡讌極夜.其明日,遣使者授以御蓋.[一]於是盛等乃伏.

[一] 江表傳曰:權把其臂,因流涕交連,字之曰:「幼平,卿為孤兄弟戰如熊虎,不惜軀命,被創數十,膚如刻畫,孤亦何心不待卿以骨肉之恩,委卿以兵馬之重乎!卿吳之功臣,孤當與卿同榮辱,等休戚.幼平意快為之,勿以寒門自退也.」卽勅以己常所用御幘靑縑蓋賜之.坐罷,住駕,使泰以兵馬導從出,鳴鼓角作鼓吹.

後權破關羽,欲進圖蜀,拜泰漢中太守﹑奮威將軍,封陵陽侯.黃武中卒.

子邵以騎都尉領兵.曹仁出濡須,戰有功,又從攻破曹休,進位裨將軍,黃龍二年卒.弟承領兵襲侯.

陳武傳

陳武字子烈,廬江松滋人.孫策在壽春,武往脩謁,時年十八,長七尺七寸,因從渡江,征討有功,拜別部司馬.策破劉勳,多得廬江人,料其精銳,乃以武為督,所向無前.及權統事,轉督五校.仁厚好施,鄕里遠方客多依託之.尤為權所親愛,數至其家.累有功勞,進位偏將軍.建安二十年,從擊合肥,奮命戰死.權哀之,自臨其葬.[一]

[一] 江表傳曰:權命以其愛妾殉葬,復客二百家.孫盛曰:昔三良從穆,秦師以之不征;魏妾旣出,杜囘以之僵仆.禍福之報,如此之效也.權仗計任術,以生從死,世祚之促,不亦宜乎!

子脩有武風,年十九,權召見奬厲,拜別部司馬,授兵五百人.時諸新兵多有逃叛,而脩撫循得意,不失一人.權奇之,拜為校尉.建安末,追錄功臣後,封脩都亭侯,為解煩督.黃龍元年卒.

陳表傳

弟表,字文奧,武庶子也,少知名,與諸葛恪﹑顧譚﹑張休等並侍東宮,皆共親友.尚書曁豔亦與表善,後豔遇罪,時人咸自營護,信厚言薄,表獨不然,士以此重之.徙太子中庶子,拜翼正都尉.兄脩亡後,表母不肯事脩母,表謂其母曰:「兄不幸早亡,表統家事,當奉嫡母.母若能為表屈情,承順嫡母者,是至願也;若母不能,直當出別居耳.」表於大義公正如此.由是二母感寤雍穆.表以父死敵場,求用為將,領兵五百人.表欲得戰士之力,傾意接待,士皆愛附,樂為用命.時有盜官物者,疑無難士施明.明素壯悍,收考極毒,惟死無辭,廷尉以聞.權以表能得健兒之心,詔以明付表,使自以意求其情實.表便破械沐浴,易其衣服,厚設酒食,歡以誘之.明乃首服,具列支黨.表以狀聞.權奇之,欲全其名,特為赦明,誅戮其黨.遷表為無難右部督,封都亭侯,以繼舊爵.表皆陳讓,乞以傳脩子延,權不許.嘉禾三年,諸葛恪領丹楊太守,討平山越,以表領新安都尉,與恪參勢.初,表所受賜復人得二百家,在會稽新安縣.表簡視其人,皆堪好兵,乃上疏陳讓,乞以還官,充足精銳.詔曰:「先將軍有功於國,國家以此報之,卿何得辭焉?」表乃稱曰:「今除賊,報父之仇,以人為本.空枉此勁銳以為僮僕,非表志也.」皆輒料取以充部伍.所在以聞,權甚嘉之.下郡縣,料正戶羸民以補其處.表在官三年,廣開降納,得兵萬餘人.事捷當出,會鄱陽民吳遽等為亂,攻沒城郭,屬縣搖動,表便越界赴討,遽以破敗,遂降.陸遜拜表偏將軍,進封都鄕侯,北屯章阬.年三十四卒.家財盡於養士,死之日,妻子露立,太子登為起屋宅.子敖年十七,拜別部司馬,授兵四百人.敖卒,脩子延復為司馬代敖.延弟永,將軍,封侯.始施明感表,自變行為善,遂成健將,致位將軍.

董襲傳

董襲字元代,會稽餘姚人,長八尺,武力過人.[一]孫策入郡,襲迎於高遷亭,策見而偉之,到署門下賊曹.時山陰宿賊黃龍羅﹑周勃聚黨數千人,策自出討,襲身斬羅﹑勃首,還拜別部司馬,授兵數千,遷揚武都尉.從策攻皖,又討劉勳於尋陽,伐黃祖於江夏.

[一] 謝承後漢書稱襲志節慷慨,武毅英烈.

策薨,權年少,初統事,太妃憂之,引見張昭及襲等,問江東可保安否,襲對曰:「江東地勢,有山川之固,而討逆明府,恩德在民.討虜承基,大小用命,張昭秉眾事,襲等為爪牙,此地利人和之時也,萬無所憂.」眾皆壯其言.

鄱陽賊彭虎等眾數萬人,襲與淩統﹑步隲﹑蔣欽各別分討.襲所向輒破,虎等望見旌旗,便散走,旬日盡平,拜威越校尉,遷偏將軍.

建安十三年,權討黃祖.祖橫兩蒙衝挾守沔口,以栟閭大紲繫石為矴,上有千人,以弩交射,飛矢雨下,軍不得前.襲與淩統俱為前部,各將敢死百人,人被兩鎧,乘大舸船,突入蒙衝裏.襲身以刀斷兩紲,蒙衝乃橫流,大兵遂進.祖便開門走,兵追斬之.明日大會,權擧觴屬襲曰:「今日之會,斷紲之功也.」

曹公出濡須,襲從權赴之,使襲督五樓船住濡須口.夜卒暴風,五樓船傾覆,左右散走舸,乞使襲出.襲怒曰:「受將軍任,在此備賊,何等委去也,敢復言此者斬!」於是莫敢干.其夜船敗,襲死.權改服臨殯,供給甚厚.

甘寧傳

甘寧字興霸,巴郡臨江人也.[一]少有氣力,好游俠,招合輕薄少年,為之渠帥;羣聚相隨,挾持弓弩,負眊帶鈴,民聞鈴聲,卽知是寧.[二]人與相逢,及屬城長吏,接待隆厚者乃與交歡;不爾,卽放所將奪其資貨,於長吏界中有所賊害,作其發負,至二十餘年.止不攻劫,頗讀諸子,乃往依劉表,因居南陽,不見進用,後轉托黃祖,祖又以凡人畜之.[三]

[一] 吳書曰:寧本南陽人,其先客於巴郡.寧為吏擧計掾,補蜀郡丞,頃之,棄官歸家.

[二] 吳書曰:寧輕俠殺人,藏舍亡命,聞於郡中.其出入,步則陳車騎,水則連輕舟,侍從被文繡,所如光道路,住止常以繒錦維舟,去或割棄,以示奢也.

[三] 吳書曰:寧將僮客八百人就劉表.表儒人,不習軍事.時諸英豪各各起兵,寧觀表事勢,終必無成,恐一朝土崩,幷受其禍,欲東入吳.黃祖在夏口,軍不得過,乃留依祖,三年,祖不禮之.權討祖,祖軍敗奔走,追兵急,寧以善射,將兵在後,射殺校尉淩操.祖旣得免,軍罷還營,待寧如初.祖都督蘇飛數薦寧,祖不用,令人化誘其客,客稍亡.寧欲去,恐不獲免,獨憂悶不知所出.飛知其意,乃要寧,為之置酒,謂曰:「吾薦子者數矣,主不能用.日月逾邁,人生幾何,宜自遠圖,庶遇知己.」寧良久乃曰:「雖有其志,未知所由.」飛曰:「吾欲白子為邾長,於是去就,孰與臨版轉丸乎?」寧曰:「幸甚.」飛白祖,聽寧之縣.招懷亡客幷義從者,得數百人.

於是歸吳.周瑜﹑呂蒙皆共薦達,孫權加異,同於舊臣.寧陳計曰:「今漢祚日微,曹操彌憍,終為簒盜.南荊之地.山陵形便,江川流通,誠是之西勢也.寧已觀劉表,慮旣不遠,兒子又劣,非能承業傳基者也.至尊當早規之,不可後操圖之.圖之之計,宜先取黃祖.祖今年老,昏耄已甚,財穀並乏,左右欺弄,務於貨利,侵求吏士,吏士心怨,舟船戰具,頓廢不脩,怠於耕農,軍無法伍.至尊今往,其破可必.一破祖軍,鼓行而西,西據楚關,大勢彌廣,卽可漸規巴蜀.」權深納之.張昭時在坐,難曰:「吳下業業,若軍果行,恐必致亂.」寧謂昭曰:「國家以蕭何之任付君,君居守而憂亂,奚以希慕古人乎?」權擧酒屬寧曰:「興霸,今年行討,如此酒矣,決以付卿.卿但當勉建方略,令必克祖,則卿之功,何嫌張長史之言乎.」權遂西,果禽祖,盡獲其士眾.遂授寧兵,屯當口.[一]

[一] 吳書曰:初,權破祖,先作兩函,欲以盛祖及蘇飛首.飛令人吿急於寧,寧曰:「飛若不言,吾豈忘之?」權為諸將置酒,寧下席叩頭,血涕交流,為權言:「飛疇昔舊恩,寧不値飛,固已捐骸於溝壑,不得致命於麾下.今飛罪當夷戮,特從將軍乞其首領.」權感其言,謂曰:「今為君致之,若走去何?」寧曰:「飛免分裂之禍,受更生之恩,逐之尚必不走,豈當圖亡哉!若爾,寧頭當代入函.」權乃赦之.

後隨周瑜拒破曹公於烏林.攻曹仁於南郡,未拔,寧建計先徑進取夷陵,往卽得其城,因入守之.時手下有數百兵,幷所新得,僅滿千人.曹仁乃令五六千人圍寧.寧受攻累日,敵設高樓,雨射城中,士眾皆懼,惟寧談笑自若.遣使報瑜,瑜用呂蒙計,帥諸將解圍.後隨魯肅鎭益陽,拒關羽.羽號有三萬人,自擇選銳士五千人,投縣上流十餘里淺瀨,云欲夜涉渡.肅與諸將議.寧時有三百兵,乃曰:「可復以五百人益吾,吾往對之,保羽聞吾欬唾,不敢涉水,涉水卽是吾禽.」肅便選千兵益寧,寧乃夜往.羽聞之,住不渡,而結柴營,今遂名此處為關羽瀨.權嘉寧功,拜西陵太守,領陽新﹑下雉兩縣.

後從攻皖,為升城督.寧手持練,身緣城,為吏士先,卒破獲朱光.計功,呂蒙為最.寧次之,拜折衝將軍.

後曹公出濡須,寧為前部督,受勅出斫敵前營.權特賜米酒眾殽,寧以料賜手下百餘人食.食畢,寧先以銀盌酌酒,自飲兩盌,乃酌與其都督.都督伏,不肯時持.寧引白削置膝上,呵謂之曰:「卿見知於至尊,熟與甘寧?甘寧尚不惜死,卿何以獨惜死乎?」都督見寧色厲,卽起拜持酒,通酌兵各一銀盌.至二更時,銜枚出斫敵.敵驚動,遂退.寧益貴重,增兵二千人.[一]

[一] 江表傳曰:「曹公出濡須,號步騎四十萬,臨江飲馬.權率眾七萬應之,使寧領三千人為前部督.權密勅寧,使夜入魏軍.寧乃選手下健兒百餘人,徑詣曹公營下,使拔鹿角,踰壘入營,斬得數十級.北軍驚駭鼓譟,擧火如星,寧已還入營,作鼓吹,稱萬歲.因夜見權,權喜曰:「足以驚駭老子否?聊以觀卿膽耳.」卽賜絹千疋,刀百口.權曰:「孟德有張遼,孤有興霸,足相敵也.」停住月餘,北軍便退.

寧雖麤猛好殺,然開爽有計略,輕財敬士,能厚養健兒,健兒亦樂為用命.建安二十年,從攻合肥,會疫疾,軍旅皆已引出,唯車下虎士千餘人,幷呂蒙﹑蔣欽﹑淩統及寧,從權逍遙津北.張遼覘望知之,卽將步騎奄至.寧引弓射敵,與統等死戰.寧厲聲問鼓吹何以不作,壯氣毅然,權尤嘉之.[一]

[一] 吳書曰:淩統怨寧殺其父操,寧常備統,不與相見.權亦命統不得讎之.嘗於呂蒙舍會,酒酣,統乃以刀舞.寧起曰:「寧能雙戟舞.」蒙曰:「寧雖能,未若蒙之巧也.」因操刀持楯,以身分之.後權知統意,因令寧將兵,遂徙屯於半州.

寧廚下兒曾有過,走投呂蒙.蒙恐寧殺之,故不卽還.後寧齎禮禮蒙母,臨當與升堂,乃出廚下兒還寧.寧許蒙不殺.斯須還船,縛置桑樹,自挽弓射殺之.畢,勅船人更增舸纜,解衣臥船中.蒙大怒,擊鼓會兵,欲就船攻寧.寧聞之,故臥不起.蒙母徒跣出諫蒙曰:「至尊待汝如骨肉,屬汝以大事,何有以私怒而欲攻殺甘寧?寧死之日,縱至尊不問,汝是為臣下非法.」蒙素至孝,聞母言,卽豁然意釋,自至寧船,笑呼之曰:「興霸,老母待卿食,急上!」寧涕泣歔欷曰:「負卿.」與蒙俱還見母,歡宴竟日.

寧卒,權痛惜之.子瓌,以罪徙會稽,無幾死.

淩統伝

?統字公績,?郡余杭人也.父操,軽?有胆気,孫策初興,?従征伐,常冠軍履鋒.守永平長,平治山越,奸猾斂手,遷破賊校尉.及権統軍,従討江夏.入夏口,先登,破其前鋒,軽舟独進,中流矢死.

統年十五,左右多称述者,権亦以操死事,拝統別部司馬,行破賊都尉,使摂父兵.後従?山賊,権破保屯先還,余麻屯万人,統与督張異等留攻囲之,克日当攻.先期,統与督陳勤会飲酒,勤剛勇任気,因督祭酒,陵轢一坐,挙罰不以其道.統疾其侮慢,面折不為用.勤怒詈統,及其父操,統流涕不答,?因罷出.勤乗酒凶悖,又於道路辱統.統不忍,引刀斫勤,数日乃死.及当攻屯,統曰:「非死無以謝罪.」乃率厲士卒,身当矢石,所攻一面,応時披壊,諸将乗勝,遂大破之.還,自拘於軍正.権壮其果毅,使得以功贖罪.

後権復征江夏,統為前鋒,与所厚健児数十人共乗一船,常去大兵数十里.行入右江,斬?祖将張碩,尽獲船人.還以白権,引軍兼道,水陸並集.時呂蒙敗其水軍,而統先搏其城,於是大獲.権以統為承烈都尉,与周瑜等拒破曹公於烏林,遂攻曹仁,遷為校尉.雖在軍旅,親賢接士,軽財重義,有士之風.

又従破皖,拝盪寇中郎将,領沛相.与呂蒙等西取三郡,反自益陽,従往合肥,為右部督.時権徹軍,前部已発,魏将張遼等奄至津北.権使追還前兵,兵去已遠,勢不相及,統率親近三百人陥囲,扶扞権出.敵已毀橋,橋之属者両版,権策馬駆馳,統復還戦,左右尽死,身亦被創,所殺数十人,度権已免,乃還.橋敗路?,統被甲潜行.権既御船,見之驚喜.統痛親近無反者,悲不自勝.権引袂拭之,謂曰:「公績,亡者已矣,苟使卿在,何患無人?」[一]拝偏将軍,倍給本兵.

[一] ?書曰:統創甚,権遂留統於舟,尽易其衣服.其創頼得卓氏良藥,故得不死.

時有薦同郡盛暹於権者,以為梗?大節,有過於統,権曰:「且令如統足矣.」後召暹夜至,時統已臥,聞之,摂衣出門,執其手以入.其愛善不害如此.

統以山中人尚多壮悍,可以威恩誘也,権令東占且討之,命勅属城,凡統所求,皆先給後聞.統素愛士,士亦慕焉.得精兵万余人,過本県,?入寺門,見長吏懐三版,恭敬尽礼,親旧故人,恩意益隆.事畢当出,会病卒,時年四十九.権聞之,拊?起坐,哀不能自止,数日減膳,言及流涕,使張承為作銘誄.

二子烈?封,年各数?,権?養於宮,愛待与諸子同,賓客進見,呼示之曰:「此吾虎子也.」及八九?,令葛光教之読書,十日一令乗馬,追?統功,封烈亭侯,還其故兵.後烈有罪免,封復襲爵領兵.[一]

[一] 孫盛曰:観孫権之養士也,傾心竭思,以求其死力,泣周泰之夷,殉陳武之妾,請呂蒙之命,育?統之孤,卑曲苦志,如此之勤也.是故雖令徳無聞,仁沢(?)[罔]著,而能屈彊荊?,僭擬年?者,抑有由也.然霸王之道,期於大者遠者,是以先王建徳義之基,恢信順之宇,制経略之綱,明貴賤之序,易簡而其親可久,体全而其功可大,豈委?近務,邀利於当年哉?語曰「雖小道,必有可観者焉,致遠恐泥」,其是之謂乎!

徐盛伝

徐盛字文嚮,琅邪?人也.遭乱,客居?,以勇気聞.孫権統事,以為別部司馬,授兵五百人,守柴桑長,拒?祖.祖子射,嘗率数千人下攻盛.盛時吏士不満二百,与相拒?,傷射吏士千余人.已乃開門出戦,大破之.射遂??不復為寇.権以為校尉?蕪湖令.復討臨城南阿山賊有功,徙中郎将,督校兵.

曹公出濡須,従権禦之.魏嘗大出横江,盛与諸将?赴討.時乗蒙衝,遇迅風,船落敵岸下,諸将恐懼,未有出者,盛独将兵,上突斫敵,敵披退走,有所傷殺,風止便還,権大壮之.

及権為魏称藩,魏使?貞拝権為?王.権出都亭候貞,貞有驕色,張昭既怒,而盛忿憤,顧謂同列曰:「盛等不能奮身出命,為家幷許洛,?巴蜀,而令吾君与貞盟,不亦辱乎!」因涕泣横流.貞聞之,謂其旅曰:「江東将相如此,非久下人者也.」

後遷建武将軍,封都亭侯,領廬江太守,賜臨城県為奉邑.劉備次西陵,盛攻取諸屯,所向有功.曹休出洞口,盛与呂範?全琮渡江拒守.遭大風,船人多喪,盛収余兵,与休夾江.休使兵将就船攻盛,盛以少禦多,敵不能克,各引軍退.遷安東将軍,封蕪湖侯.

後魏文帝大出,有渡江之志,盛建計従建業築囲,作薄落,囲上設仮楼,江中浮船.諸将以為無益,盛不聴,固立之.文帝到広陵,望囲愕然,彌漫数百里,而江水盛長,便引軍退.諸将乃伏.[一]

[一] 干宝晋紀所云疑城,已注孫権伝.魏氏春秋云:文帝歎曰:「魏雖有武騎千?,無所用也.」

?武中卒.子楷,襲爵領兵.

潘璋伝

潘璋字文珪,東郡発干人也.孫権為陽羨長,始往随権.性博蕩嗜酒,居貧,好??,債家至門,輒言後豪富相還.権奇愛之,因使召募,得百余人,遂以為将.討山賊有功,署別部司馬.後為?大?刺奸,盗賊断?,由是知名,遷予章西安長.劉表在荊州,民数被寇,自璋在事,寇不入境.比県建昌起為賊乱,転領建昌,加武猛校尉,討治悪民,旬月尽平,召合遺散,得八百人,将還建業.

合肥之役,張遼奄至,諸将不備,陳武?死,宋謙?徐盛皆披走,璋身次在後,便馳進,横馬斬謙?盛兵走者二人,兵皆還戦.権甚壮之,拝偏将軍,遂領百校,屯半州.

権征関羽,璋与朱然断羽走道,到臨沮,住夾石.璋部下司馬馬忠禽羽,幷羽子平?都督趙累等.権即分宜都(至)[巫]??帰二県為固陵郡,拝璋為太守?振威将軍,封?陽侯.甘寧卒,又幷其軍.劉備出夷陵,璋与陵遜幷力拒之,璋部下斬備護軍馮習等,所殺傷甚?,拝平北将軍?襄陽太守.

魏将夏侯尚等囲南郡,分前部三万人作浮橋,渡百里洲上,諸葛瑾?楊粲並会兵赴救,未知所出,而魏兵日渡不?.璋曰:「魏勢始盛,江水又浅,未可与戦.」便将所領,到魏上流五十里,伐葦数百万束,縛作大筏,欲順流放火,焼敗浮橋.作筏適畢,伺水長当下,尚便引退.璋下備陸口.権称尊号,拝右将軍.

璋為人?猛,禁令粛然,好立功業,所領兵馬不過数千,而其所在常如万人.征伐止頓,便立軍?,他軍所無,皆仰取足.然性奢泰,末年彌甚,服物僭擬.吏兵富者,或殺取其財物,数不奉法.監司挙奏,権惜其功而輒原不問.嘉禾三年卒.子平,以無行徙会稽.璋妻居建業,賜田宅,復客五十家.

丁奉伝

丁奉字承淵,廬江安豊人也.少以驍勇為小将,属甘寧?陸遜?潘璋等.数随征伐,戦?常冠軍.?斬将搴旗,身被創夷.稍遷偏将軍.孫亮即位,為冠軍将軍,封都亭侯.

魏遣諸葛誕?胡遵等攻東興,諸葛恪率軍拒之.諸将皆曰:「敵聞太傅自来,上岸必遁走.」奉独曰:「不然.彼動其境?,悉許?洛兵大挙而来,必有成規,豈?還哉?無恃敵之不至,恃吾有以勝之.」及恪上岸,奉与将軍唐咨?呂拠?留賛等,?従山西上.奉曰:「今諸軍行遅,若敵拠便地,則難与争鋒矣.」乃辟諸軍使下道,帥麾下三千人径進.時北風,奉挙帆二日至,遂拠徐塘.天寒雪,敵諸将置酒高会,奉見其前部兵少,相謂曰:「取封侯爵賞,正在今日!」乃使兵解鎧著冑,持短兵.敵人従而笑焉,不為設備.奉縦兵斫之,大破敵前屯.会拠等至,魏軍遂潰.遷滅寇将軍,進封都(亭)[?]侯.

魏将文欽来降,以奉為虎威将軍,従孫峻至寿春迎之,与敵追軍戦於高亭.奉跨馬持矛,突入其陳中,斬首数百,獲其軍器.進封安豊侯.

太平二年,魏大将軍諸葛誕拠寿春来降,魏人囲之.遣朱異?唐咨等往救,復使奉与黎斐解囲.奉為先登,屯於黎漿,力戦有功,拝左将軍.

孫休即位,与張布謀,欲誅孫?,布曰:「丁奉雖不能吏書,而計略過人,能断大事.」休召奉告曰:「?秉威,将行不軌,欲与将軍誅之.」奉曰:「丞相兄弟友党甚盛,恐人心不同,不可卒制,可因臘会,有陛下兵以誅之也.」休納其計,因会請?,奉与張布目左右斬之.遷大将軍,加左右都護.永安三年,仮節領徐州牧.六年,魏伐蜀,奉率諸軍向寿春,為救蜀之勢.蜀亡,軍還.

休薨,奉与丞相濮陽興等従万彧之言,共迎立孫?,遷右大司馬左軍師.宝鼎三年,?命奉与諸葛?攻合肥.奉与晋大将石苞書,搆而間之,苞以?還.建衡元年,奉復帥?治徐塘,因攻晋穀陽.穀陽民知之,引去,奉無所獲.?怒,斬奉導軍.三年,卒.奉貴而有功,漸以驕矜,或有毀之者,?追以前出軍事,徙奉家於臨川.奉弟封,官至後将軍,先奉死.

評曰:凡此諸将,皆江表之虎臣,孫氏之所厚待也.以潘璋之不脩,権能忘過記功,其保拠東南,宜哉!陳表将家支庶,而与胄子名人比翼斉衡,抜萃出類,不亦美乎!