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原著作者:【むじん書院】

呉書一 三国志四十六 孫破虜討逆伝第一

破虜伝

孫堅文台といい、呉郡富春の人である。おそらく孫武の後裔なのだろう。[一]若くして県吏となった。十七歳のとき、父と一緒に船に載って銭唐まで行ったが、ちょうど海賊の胡玉らが匏里から上陸して商人の財物を略奪し、岸の上でそれを分配しようとしているところだった。旅人たちはみな立ち往生し、船は進むことができなかった。孫堅は父に言った。「こいつら賊どもを攻撃すべきです。やつらを討伐させてください。」父は言った。「の考えられることじゃないぞ。」孫堅は突き進んで刀を引っ提げて岸に上がり、手で東西に指しまねき、部下の兵士を分散させて賊を包囲遮断するかのようなふりをした。賊は眺め見て、官兵が捕まえにきたと思い、すぐさま財物を棄てて逃げ散った。孫堅は追いかけて斬り、首級一つを持って帰ってきたので、父は大いに驚いた。これによって名声は顕著となり、(県の?)府に召されて仮のに任命された。会稽妖賊(宗教に基づく叛逆者)許昌句章で蜂起し、自ら陽明皇帝を称して、[二]その子許韶とともに諸県を煽動し、軍勢は万単位で数えられた。孫堅は郡の司馬として精鋭を募って千人余りを得て、州郡と合流して彼らを討ち破った。この歳は熹平元年(一七二)である。刺史臧旻が功績をつぶさに列挙して上表したので、詔書が下って孫堅は塩瀆県丞に叙任され、数年して盱眙県丞に異動となり、さらに下邳県丞に異動になった。[三]

[一] 『呉書』に言う。孫堅(の家)は代々(郡)に仕官していて、富春に居住し、(亡くなれば)城の東に葬られていた。塚の上にしばしば光の怪現象が現れ、雲気は五色となり、立ち上って天まで届き、数里も広がった。人々は出かけて観察した。父老たちは「これは非凡な気だ。孫氏は勃興するだろう!」と言い合った。母は孫堅を懐妊するに及び、腸が飛び出して呉の閶門を取り巻くという夢を見た。目が覚めると心配になり、隣家の母(年上の女性)に告げた。隣家の母は言った。「どうして吉兆でないと思うのですか。」孫堅が生まれると、容貌は非凡であり、性質は闊達、立派な節義を好んだ。

[二] 『霊帝紀』に言う。許昌はその父を越王とした。

[三] 『江表伝』に言う。孫堅は三県の補佐(丞)を歴任し、至るところで名声があり、官吏・人民は親しみ懐いた。郷里の旧知や時事を好む若者が(孫堅の家を)往来して、いつも数百人になったが、孫堅は手厚く接して待遇し、あたかも子弟のようであった。

中平元年(一八四)、黄巾賊の総帥張角魏郡で蜂起し、神霊にかこつけて、八人の使者を派遣し、善道によって天下を教化し、その一方で密かに連結を組み、自ら黄天泰平と称した。三月甲子、三十六万は同じ日に一斉に決起し、天下は響くように呼応し、郡県を燃焼し、長吏(県令・県長)を殺害した。[一]漢(の朝廷)は車騎将軍皇甫嵩中郎将朱儁を派遣して軍勢を率いさせ、これを討伐させた。朱儁は上表して孫堅を左軍司馬にするよう請願した。郷里の若者たちのうち、下邳に付いてきた者たちはみな従軍を願い出た。孫堅は一方でもろもろの旅商人や淮水・泗水流域の精鋭を募り、千人ばかりを糾合し、朱儁と力を合わせて奮闘したが、向かうところ敵なしだった。[二]汝(南)・潁(川)の賊どもは追い詰められ、逃走して宛城に楯籠った。孫堅は自ら一方面を担当し、城壁をよじのぼって先に入り、軍勢はそのあとで蟻のように張り付き、ついにこれを大破した。朱儁がつぶさに状況を上表すると、孫堅は別部司馬の官を授けられた。[三]

[一] 『献帝春秋』に言う。張角は天公将軍を称し、張角の弟張宝地公将軍を称し、張宝の弟張梁人公将軍を称した。

[二] 『呉書』に言う。孫堅は勝利に乗じて深く進入したが、西華で不利となった。孫堅は傷付いて落馬し、草むらの中に倒れ伏した。軍の人々が手を分け(て探し)たが、孫堅の所在は知れなかった。孫堅の葦毛の乗馬が走って陣営に帰ってきて、逆立ちしていなないた。将兵は馬に付いていって草むらの中で孫堅を見付けた。孫堅は陣営に戻って十数日すると傷が少し癒えたので、そこで再び戦闘に参加した。

[三] 『続漢書』に言う。朱儁は字を公偉といい、会稽の人である。若いころから学問を好み、郡の功曹となって孝廉に推薦され、進士に推挙された。漢朝では黄巾討伐の功績によって車騎将軍の官を授け、次々に昇進して河南尹となった。董卓は朱儁を謁見すると、表面的には親しげに迎え入れたが、内心では彼を憎んだ。朱儁のほうでもやはり密かに気構えをしていた。関東の兵が決起したとき、董卓が遷都しようと提議したが、朱儁はすぐさま董卓を止めた。董卓は朱儁を嫌ってはいたが、彼の名声の重さを利用するため、太僕に任じるよう上表して自分の補佐にしようとした。朱儁はお召しを被ったものの拝受することを承知せず、その機会に進言した。「国(都)は遷すべきではありません。きっと天下の希望に背くことになり、山東の結盟が成立してしまいます。にはその利点を見出せません。」担当官が難詰して言った。「君を召し出して拝授しようしたのに、君はそれを拒絶した。遷都のことは問われてないのに、君はそれを陳述した。どういうことか?」朱儁は言った。「相国を補佐することは臣にはできません。遷都が計算に合わないことは、臣の急務とするところです。できないことを辞退し、急務とすることを進言するのは、臣がなすべきことでしょう。」担当官は言った。「遷都のことなど初めからそんな計画はないのだ。たといあったとしてもまだ発表されていない。どこで聞いてきたのか?」朱儁は言った。「相国董卓が臣に説明したのです。臣はそれを相国からお聞きしました。」担当官は屈服させることができず、朝廷(の人々)は(朱儁を)称賛し感服した。のちに太尉となった。李傕・郭氾(郭汜)は攻撃しあって、天子・公卿をさらって人質とした。朱儁の性質は剛直であったので、すぐに病を発して卒去した。

辺章・韓遂涼州で混乱を起こした。中郎将董卓が迎え撃ったが成果を挙げられなかった。中平三年、司空張温に車騎将軍の職務を行わせ、西進して辺章らを討たせた。張温は上表して孫堅を参軍事にするよう要請し、長安に駐屯した。張温は詔書を奉じて董卓を召し寄せたが、董卓はしばらくしてからやっと張温のもとに出頭した。張温は董卓を譴責したが、董卓の対応は従順でなかった。孫堅はこのとき坐中にあったが、進み出て張温に耳語して言った。「董卓は罪をも恐れず大言壮語して威張っております。すぐさまお召しに応じてやって来なかったことを名目に、軍法を陳述して彼を斬るべきです。」張温は言った。「董卓は平素より隴・蜀地方で威名を顕しているから、今日彼を殺せば西進するにも伝手がなくなってしまう。」孫堅は言った。「明公は直々に天兵を率い、威光は天下を振るわしておられます。どうして董卓に頼ろうとなさるのです?董卓の言葉を観察いたしますと、明公に敬意を払わず、お上を軽んじて無礼です。(それが)第一の罪です。辺章・韓遂が跳梁跋扈して年をまたいでおり、時機を見て進んで討つべきなのに、董卓はまだ良くないと言っては軍勢を沮喪させ人々を心配させております。第二の罪です。董卓は任務を受け持ちながら功績がなく、お召しに応じるときもぐずぐずと先延ばしにし、そのくせ意気軒昂として自分を誇っております。第三の罪です。古代の名将はによって人々に臨み、斬刑の断行によって威信を示さなかった者はありません。これこそ穣苴荘賈を斬り、魏絳楊干を処刑しました(理由です)。いま明公は董卓に意を垂れられ、ただちに誅伐をお加えにならない。威信・刑罰の欠損はそのせいなのですぞ。」張温は摘発検挙するに忍びず、そこで言った。「君はひとまず帰りなさい。董卓に疑われるぞ。」孫堅はそこで立ち上がって退出した。辺章・韓遂は大軍が向かってくると聞き、仲間の軍勢が離散したので、みな降服を乞うた。軍は帰還したが、論議する者たちは、軍が敵と衝突していなかったことから論功行賞を行うべきでないとした。それでも孫堅が董卓の三つの罪を数え上げ、張温に彼を斬るよう勧めたと聞き、歎息しない者はなかった。孫堅は議郎の官を拝受した。当時、長沙の賊区星が将軍を自称し、軍勢一万人余りで城邑を攻め囲んでいた。そこで孫堅を長沙太守とした。郡に着任するや直々に将兵を率い、計略を施して、一ヶ月のあいだに区星らを撃ち破った。[一]周朝・郭石もやはり衆徒の頭目となって零(陵)・桂(陽)で蜂起し、区星と互いに呼応していた。そのまま越境して遠征討伐し、三郡は粛然とした。漢朝では前後の功績を記録し、孫堅を封じて烏程侯とした。[二]

[一] 『魏書』に言う。孫堅が郡に着任すると、郡中は震え上がって服従した。(孫堅は)善良な官吏を任用して命令した。「善良な者たちを鄭重に待遇し、公文書を管理しするときは必ず統治を遵守し、盗賊は太守に送付せよ。」

[二] 『呉録』に言う。当時、廬江太守陸康の従子が宜春県長であったが、賊に攻められ、使者をやって孫堅に救援を求めた。孫堅は(軍勢を)引き締めて彼を救援した。主簿が進み出て諫めたが、孫堅は返答して言った。「太守には文徳なく、征伐によって功績を立てた。郡境を越えて攻撃討伐し、異国を保全にしてやる。それによって罪を得たとしても、どうして海内に恥じよう?」そこで兵を進めて救援に赴くと、賊は聞いて逃げていった。

霊帝が崩御すると董卓が朝政を専断し、京城で横暴勝手を働いた。諸州郡はいずれも義兵を起こして董卓を討とうとした。[一]孫堅もまた兵を挙げた。荊州刺史王叡は平素から孫堅への待遇が無礼であったので、孫堅は通過したとき彼を殺した。[二]南陽に到達するころには、軍勢数万人になっていた。南陽太守張咨は軍が到着したと聞いても泰然自若としていた。[三]孫堅は牛酒を捧げて張咨に挨拶し、張咨も翌日やはり返礼のため孫堅のもとを訪ねた。酒宴がとなると、長沙の主簿が入ってきて孫堅に言上した。「事前に南陽へ回し文を送付しましたのに、道路は整備されず、軍需物資の備えはありませんでした。主簿を収監して事件の首謀者について尋問されたく存じます。」張咨は強い恐怖を抱き立ち去ろうとしたが、兵士が四方を取り巻いていて出ることができなかった。しばらくして、主簿がまた入ってきて孫堅に言上した。「南陽太守は義兵を足止めし、賊を時機に応じて討たせまいとしております。(太守を)収監して引っ張り出し、軍法を勘案して処理されたく存じます。」すぐさま張咨を軍門まで引っ張って行き、彼を斬った。郡中は戦慄して、要求して得られないものはなかった。[四]前進して魯陽に到達し、袁術に謁見した。袁術は上表して孫堅に破虜将軍を代行させ、予州刺史を領させた。そのまま軍勢を魯陽城で調練した。進軍して董卓を討つにあたって、長史公仇称に軍勢を率いさせて従事し(?)、州に還らせて軍糧を督促させることにした。城の東門の外に幔幕をめぐらして公仇称の出立に送別会を行い、官吏たちはみな参会した。董卓は歩騎数万人を遣して孫堅に迎撃させたが、軽騎兵数十騎が先に到達した。孫堅はちょうど酒を呑んで談笑していたところだったが、部曲に命令を下して陣列を整えて妄動しないようにさせた。後続の騎兵が次第に増えてくると、孫堅はゆっくりと座を立ち、(軍勢を)導いて入城させた。そこで左右の者に言った。「はじめ孫堅がすぐさま立ち上がらなかったのは、兵卒どもが踏みつけあって諸君らが入れなくなることを心配したからだ。」董卓の軍勢は孫堅の軍勢が非常に整然としていることを見て、あえて城を攻めることなく引き返していった。[五]孫堅はの東に移駐したが、董卓軍の総攻撃を受け、孫堅は数十騎とともに包囲を破って脱出した。孫堅はいつも赤い罽幘を着用していたが、を脱いで親近の将軍祖茂にこれを着用させた。董卓の騎兵は争って祖茂を追走したので、孫堅は間道をつたって逃げることができた。祖茂は追い詰められて馬を下り、幘を塚のあいだの焼け柱にかぶせ、そこで草むらの中に身を伏せた。董卓の騎兵は眺め見ながら幾重にも包囲したが、近付いてみてそれが柱であったと分かり、ようやく立ち去った。孫堅はふたたび軍勢を集めて陽人で合戦し、董卓軍を大破して、その都督華雄らを梟首した。当時、ある人が孫堅と袁術を離間させようとしたので、袁術は疑惑を抱き、軍糧を供給してやらなかった。[六]陽人は魯陽を去ること百里余りあったが、孫堅は夜中に馳せ帰って袁術に会い、地面に絵を描いて相談しながら言った。「身を投げ出して顧みない訳は、上は国家のために賊を討ち、下は将軍のご家門の私的な恨みをお慰めするためです。孫堅は董卓に骨肉の恨みがあるわけではありません。それなのに将軍は譖潤(?)の言葉をお受けになって、逆に嫌疑を差し向けなさるのか!」[七]袁術は踧踖とし、すぐに軍糧を徴発したので、孫堅は屯営に帰っていった。董卓は孫堅が勇猛であることを恐れ、そこで将軍李傕らを派遣して和親を求め、いま孫堅が子弟を刺史・郡守として列挙すれば、許諾して上表のうえ彼らを任用するだろうとした。孫堅は言った。「董卓は天に背いて非道であり、王室を転覆させようとしている。いまの三族を皆殺しにして四海に県示(掲示)してやらねば、は死んでも瞑目できない。どうして乃らと和親などしようか?」ふたたび大谷まで進軍し、雒陽てること九十里になった。[八]董卓はにわかに都を西方に移して(函谷)関に入り、雒陽のを焼き滅ぼした。孫堅はそこで前進して雒陽に入り、もろもろの陵墓を修復し、董卓が発掘したところを塞いで平らにした。[九]それが終わってから軍勢を率いて帰還し、魯陽に駐屯した。[一〇]

[一] 『江表伝』に言う。孫堅はこれを聞くと、胸を叩きながら歎いて言った。「張公(張温)がむかし吾の言葉に従っていたなら、朝廷はいまこの困難に遭わなかったであろうに。」

[二] 『王氏譜』を調べると、王叡は字を通耀といい、太保王祥の伯父である。『呉録』に言う。王叡は以前孫堅とともに零(陵)・桂(陽)を攻撃したことがあるが、孫堅が武官であることから言辞はすこぶる彼を軽んじたものであった。王叡が兵を挙げて董卓を討とうとするに及び、平素から武陵太守曹寅と折り合いが悪かったので、まず曹寅を殺すのだと揚言した。曹寅は恐れ、案行使者光禄大夫温毅の檄文を偽造し、孫堅に送付して王叡の罪過を説明し、逮捕して処刑執行したうえ、その様子を上表させようとした。孫堅は檄文を受け取ると軍勢を率いて王叡を襲撃した。王叡は軍勢が到達したと聞き、矢倉に登ってそれを眺め見て、使者を出して何をしようとしているのかを質問した。孫堅の先行部隊は返答した。「軍勢は久しく戦って苦労しておりますのに、頂戴したご褒美では衣服とするにも不足しております。使君のもとに参上して更なる資直をお願いするのです。」王叡は言った。「刺史がどうして物惜しみなどしよう?」すぐさま武器庫を開放し、(孫堅の兵が)自分で入ってそれを見て、残っている物があるかどうかを確認させた。軍勢が進んで矢倉の下まで来たとき、王叡は孫堅の姿を見付け、驚いて言った。「軍勢が勝手に恩賞を求めているというのに、孫使君がどうしてその中にいるのだ?」孫堅は言った。「使者(温毅)の檄文をこうむって君を誅するのです。」王叡は言った。「我はいかなる罪ぞ?」孫堅は言った。「居座ったまま対処しなかったことです。」王叡は追い詰められ、金を削り、それを飲んで死んだ。

[三] 『英雄記』に言う。張咨は字を子儀といい、潁川の人である。やはり名を知られていた。『献帝春秋』に言う。袁術は上表して孫堅を仮の中郎将とした。孫堅は南陽に到達すると、檄文を太守に送付して軍糧を請求した。張咨が綱紀に質問すると、綱紀は言った。「孫堅は隣郡の二千石取り(太守)ですから、調発に応じるべきではありません。」張咨はかくて与えなかった。

[四] 『呉歴』に言う。はじめ孫堅が南陽に到着したとき、張咨はすでに軍糧を供給しなかったうえ、さらに孫堅と会見することも承知しなかった。孫堅は軍勢を進めようとしたが、背後に懸念を持つことを恐れ、そこで急病にかかったと嘘を吐くと、全軍をこぞって恐れおののかせ、巫医(呪術を使う医者)を呼び迎えて山川を祀り祈禱させた。親しくしていた者を派遣して張咨を説得し、病気が危篤になったので軍勢を張咨に附属させたいと言わせた。張咨はそれを聞くと、内心では彼の軍勢を得られると思い、ただちに歩騎五・六百人を引き連れて(孫堅の)陣営に赴き、省望(病気見舞い)した。孫堅は臥せたまま彼に会ったが、いくばくもせぬうちに突然立ち上がり、剣を押さえて張咨を罵り、そのまま逮捕して彼を斬った。この記述は『(孫堅)本伝』と同じでない。

[五] 『英雄記』に言う。はじめ孫堅が董卓を討伐したとき、梁県の陽人に到達した。董卓はまた歩騎五千の軍勢を遣して彼を迎撃させることにして、陳郡太守胡軫大督護とし、呂布騎督とし、その他の歩騎・将校・都督は非常に大勢だった。胡軫は字を文才といい、短気な性格で、あらかじめ宣言していた。「今回のこの作戦は、要するに一青綬を斬ればよく、それですっきり治まるのだ。」諸将は聞いて彼を憎らしく思った。軍勢が広成に到達したが、陽人城を去ること数十里であった。日が暮れたとき、兵馬はともに疲労を極めており止宿すべきであった。またもともと董卓から指図を受けており、広成に宿営を張り、馬にをやって飲食し、夜になってから進軍し、夜明けとともに城を攻める手立てになっていた。諸将は胡軫を忌み嫌い、賊が彼の計画をめちゃくちゃにしてくれればよいと思った。呂布らは「陽人城中の賊はもう逃げていったぞ。追いかけて奴らを探さなければ見失ってしまうぞ」と喧伝し、すぐさま夜中に進軍した。城中の守備ははなはだ整っており襲撃できそうになかった。こうして官吏・兵士は飢え渇き、人馬ともに非常に疲労した。そのうえ夜中の着陣でもあり、また塹壕・堡塁もなかった。甲冑を解いて休息していると、呂布はまた喧伝して驚かそうとして言った。「城中の賊が出て来たぞ。」軍の人々は混乱して遁走し、みな甲冑を棄て、鞍や馬を失ってしまった。十里余りも行って賊がいないと分かった。ちょうど空が明るくなったので帰還し、武器を拾い取って、(改めて)進軍して城を攻めようとしたが、城壁の守備はすでに固められ、塹壕の掘削はすでに深く、胡軫らは攻撃することができないまま撤退した。

[六] 『江表伝』に言う。ある者が袁術に言った。「孫堅がもし洛陽を得たなら、もはや制御することはできなくなりますぞ。これこそ狼を取り除いて虎を得ることでしょう。」そのため袁術は彼を疑うようになった。

[七] 『江表伝』に載せる孫堅の言葉に言う。「大きな勲功はもたらされようとしているのに、軍糧は継続しません。これこそ呉起西河において歎き泣いて、楽毅が成功を目前にして遺恨を持ちました(理由です)。願わくば将軍はこれを深くご考慮くだされよ。」

[八] 『山陽公載記』に言う。董卓は長史劉艾に言った。「関東軍は敗北すること多く、みなを畏怖し、なすすべを知らない。ただ孫堅だけはさほど馬鹿じゃなく、すこぶる人使いがうまい。諸将に告げて彼に注意するよう知らしめる必要がある。孤がむかし周慎と西方征伐に行ったとき、周慎は金城で辺(章)・韓(遂)を包囲した。孤は麾下の軍兵を連れて周慎の後詰めをしたいと張温に申し出たが、張温は聞き入れなかった。孤はこのとき形勢について言上したのだが、周慎が必ず勝利できないことを知っていたのだ。(尚書)台には今でも一部始終(の記録)が残っている。その作戦の戦況報告が届かぬうちに、張温はまた孤に先零の叛逆した族を討伐させたが、西方を一斉に平定してしまおうと考えていたのだ。孤はそれが叶わないことを知悉していたが、やむを得ず出発し、別部司馬劉靖に歩騎四千を率いさせて安定に駐留させ、連動の態勢を取らせた。叛逆した羌族どもが再び帰ってきて、退路を断ちきろうとしたが、孤が少し攻撃しただけですぐさま道を開けた。安定に軍勢がいることを恐れたからだ。どもは安定に数万人がいると思っており、劉靖ただ一人しかいないことを知らなかったのだ。この時また戦況を説明して上表したのだが、一方で孫堅は周慎に随行しており、一万の軍勢を率いて金城に行かせて欲しい、周慎が二万人で後詰めをすれば、辺・韓の城中は穀物の貯えがないため外から搬入するはずだが、周慎の大軍を恐れて軽々しく孫堅には挑戦しないだろう、それでも孫堅の軍勢は彼らの糧道を断ちきるには充分だと(孫堅は)周慎に告げた。小僧(周慎)どもが用いていれば、必ず羌族どもは谷中に帰ったはずで、もしかすると涼州は平定できたかも知れぬ。張温が孤を用いることができなかったように、周慎もやはり孫堅を用いることができず、自分から金城を攻撃し、その外側の城壁を破壊したとき、使者を張温に送って、勝利は朝夕にも得られるだろうと言った。張温もまた自分の計略が当たったと思っていた。しかし渡遼児がはたして蔡園を断ちきると、周慎は輜重を棄てて逃走し、結局、孤が考えていた通りになってしまった。(尚書)台はこれによって孤を都郷侯に封じたのだが、孫堅は佐軍司馬だったので他人と同等に扱われたのに、自分では当然だと思っていたのだ。」劉艾は言った。「孫堅は時々計略を見せるといっても、もともと李傕・郭氾にも及びません。聞けば美陽亭の北方で千人の歩騎を率いて虜どもと合戦し、ほとんど死にかけたばかりか、印綬まで亡くしてしまったとのこと。これでは有能とは言えません。」董卓は言った。「孫堅はそのとき義従たちを烏合させており、軍勢は虜どもの精強さには及ばなかった。それに戦闘には勝敗が付き物だ。ただ山東の大勢を論考するにあたって、最終的には必然の結果などありはしないのだ。」劉艾は言った。「山東の小僧どもは百姓たちを駆り立てて叛逆侵害を働いておりますが、その鋒先は他人(董卓)に及ばず、甲冑の堅さ、兵器の鋭さ、弓弩の強さにかける軍資金も他人には及ばないのですから、どうして長続きしましょう?」董卓は言った。「そうだ。ただ二袁(袁紹・袁術)と劉表・孫堅を殺すだけで、天下は向こうから孤に服従するだろう。」

[九] 『江表伝』に言う。旧都は空虚となり、数百里のあいだ(煮炊きのための)火や煙はなかった。孫堅は前進して入城すると、肩を落として涙を流した。『呉書』に言う。孫堅は入洛すると漢の宗廟を掃除し、太牢(の生け贄)を捧げて祀った。孫堅の軍勢は城南の甄官井の上にいたが、朝、五色の気が発生した。軍はこぞって驚き怪しみ、水を汲もうとする者はいなくなった。孫堅が人に命じて井戸へ潜らせて調査させると、漢の伝国の御璽が見付かった。印文には「命を天において受く。すでに寿しくして永昌ならん」とあり、周囲は四寸、上の紐には五龍が交差し、上の一つは角が欠けている。むかし黄門張譲らが混乱を起こし、天子を誘拐して出奔したことがあったが、左右の者は分散し、御璽を管掌する者が井戸の中に投げ入れたのである。『山陽公載記』に言う。袁術は帝号を僭称しようとしたとき、孫堅が伝国の御璽を手に入れたと聞き、孫堅の夫人を拘禁してそれを奪い上げた。『江表伝』に言う。『漢献帝起居注』を調べると、天子は黄河のほとりから帰還し、の上で六つの御璽を手に入れたと言っており、また太康年間(二八〇~二九〇)のはじめ、孫皓は黄金の御璽六枚を返上しているが、玉製のものはなかった。明らかにこれは偽りである。虞喜の『志林』に言う。天子の六つの御璽というものは、印文が「皇帝之璽」「皇帝行璽」「皇帝信璽」「天子之璽」「天子行璽」「天子信璽」とあるもので、この六つの御璽は用途の違いによって印文が同じでないのである。『献帝起居注』が「黄河のほとりから帰還し、閣の上で六つの御璽を手に入れた」と言うのは、それのことを言っているのだ。伝国の御璽というものは、すなわち高祖が身に付けたもので、の皇帝の御璽であったが、代々伝受したので伝国の御璽と呼ぶのである。思うに伝国の御璽は六つの御璽には数えない。どうしてそれを一緒くたに説くことができよう?氏の『漢官』や皇甫の『世紀』が六つの御璽を論じているところでは、文意がみな符合している。『漢官』では伝国の御璽の印文を「命を天において受く。すでに寿しくして且つ康し」と言っていて、「且康」と「永昌」の二字の違いがあるが、両家(呉書・漢官)のどちらを採るべきかはわからない。黄金や玉の精気というのは、おおかた光を放つものであるし、そのうえ神器秘宝なのだから、光り輝いてますます明らかとなり、思うに一代の奇観であっただろうし、後々までの語りぐさになったに違いない。それなのに理解できないからといって、これを偽りだと強弁するのは誣告ではあるまいか!陳寿が『破虜伝』を作ったときこの説を除外したのは、やはり『(献帝)起居注』に惑わされ、六つの御璽というのが別物の名前で、伝国と合わせて七つになることを知らなかったからである。には当時、玉を彫刻する技術がなかったので、それゆえ天子は黄金によって御璽を作ったのである。御璽が黄金製であるとはいえ、印文は変わらない。呉は降服して御璽を送ったが、送ったのは天子の六つの御璽で、むかし手に入れた玉璽のほうは、古代の人々が残した刻印であったため使用することはできなかった。天子之璽が現在ないからといって論難するのは、その意義を理解していないからに過ぎない。臣裴松之が思うに孫堅は義兵を興した者のうち忠烈の名声は一番であった。もし漢の神器を手に入れながら隠匿して言わなければ、それは密かに異心を抱いたことになる。どうして忠烈者と言えようか?呉の史書は国を飾り立てようとして、それが孫堅の人徳を損なってしまっていることに気付かなかったのだ。もしその通りだとしたら(玉璽は)子孫に伝わっているはずだ。たとえ六つの御璽に数えられないとしても、常人が持つべきものではない。孫皓が降服したときも、ただ六つの御璽だけを差し出して、伝国(の玉璽)を宝にして隠してよいものではない。「命を天において受く」のだから、どうして帰命(孫皓)の座敷などからもたらされるのか。もし虞喜の言葉通りだとしたら、この玉璽は今なお孫氏一門が保有しているはずだ。匹夫は璧を抱いただけでも罪になると言う。ましてやこのような物ならなおさらだ!

[一〇] 『呉録』に言う。このとき関東の州郡は、互いに吸収合併しあって自分を強大にするよう努力していた。袁紹は会稽のグを予州刺史にして派遣し、来襲して(予)州を奪取させた。孫堅は慨然として歎いて言った。「一緒に義兵を挙げたのは社稷を救うためなのに、逆賊が破滅しそうになるとおのおのがこんな有様だ。吾は誰と力を合わせればよいのか!」言葉を発すると同時に涕がこぼれた。周グは字を仁明といい、周昕の弟である。『会稽典録』に言う。むかし曹公曹操)が義兵を興したとき、人をやって周グにも要請した。周グはすぐさま軍勢をかき集めて二千人を得ると、公の征伐に従軍して軍師になった。のちに孫堅と予州をめぐって争い、しばしば戦ったが敗北した。そのころ次兄の九江太守周昂が袁術に攻撃されたので、周グはこれを救援しに行ったが、戦に敗れて郷里に帰り、許貢に殺されることになった。

初平三年、袁術は孫堅に荊州へ遠征させて劉表を攻撃した。劉表は黄祖をやって樊・鄧一帯で迎撃させた。孫堅はこれを撃破し、追走して漢水を渡ってそのまま襄陽を包囲した。ただ一騎で峴山を通行しているとき、黄祖の兵士に射殺された。[一]兄の子孫賁は兵士を引き連れて袁術に属し、袁術はふたたび上表して孫賁を予州刺史とした。

[一] 『典略』に言う。孫堅は彼の軍勢を総動員して劉表を攻撃したが、劉表は城門を閉じ、夜間、部将の黄祖を密かに脱出させて兵士を徴発した。黄祖が兵士を率いて帰還しようとしたとき、孫堅が迎撃して戦闘になった。黄祖は敗走して峴山の山中に隠れた。孫堅は勝利に乗じて、夜なのに黄祖を追撃したが、黄祖の部下の兵士が竹木の隙間からこっそりと孫堅を射て、彼を殺害した。『呉録』に言う。孫堅は当時三十七歳であった。『英雄記』に言う。孫堅は初平四年正月七日に死んだ。また言う。劉表の部将呂公は軍勢を率い、山に布陣して孫堅に対向したが、孫堅は軽装の騎馬で山を探索しながら呂公を討った。呂公の軍勢が石を投げ落とすと、孫堅の頭に当たり、その刹那、脳みそが吹き出して(孫堅は)物故した。その(死に様の)不同はこうした有様である。

孫堅の四人の子は孫策・孫権・孫翊・孫匡といった。孫権は(皇帝の)尊号を称したのち、孫堅にして武烈皇帝と呼んだ。[一]

[一] 『呉録』に言う。孫堅を尊んで廟号始祖と名付け、墓を高陵と名付けた。『志林』に言う。孫堅には五人の子があって、孫策・孫権・孫翊・孫匡は氏が生んだものである。末子の孫朗は庶出の生まれであり、別名を孫仁ともいった。

討逆伝

孫策伯符という。孫堅が初めに義兵を起こしたとき、孫策は母を引き連れてに移住し、周瑜と友達となり、士大夫たちを集めたばねると、長江・淮水流域の人々はみな彼を頼っていった。[一]孫堅が薨じると、曲阿亡骸を移した。長江を渡ってからは江都に住まいした。[二]

[一] 『江表伝』に言う。孫堅は朱儁に上表してもらって佐軍となり、家族を寿春に残し(て、中央に出仕し)た。孫策は十歳余りだったが、早くも交わりを結んだりして名を知られ(?)、名誉名声は噂となって飛び出した。周瑜という者がいて孫策と同い年だったが、やはり英邁闊達で夙成しており、孫策の名声風聞を聞くと、舒から出てやってきた。すぐに推結分好し、信義を同じくして金をも断ちきるほどだった。孫策に舒に移住するよう勧め、孫策もそれに従った。

[二] 『魏書』に言う。孫策は(烏程)侯の爵位を(父孫堅から)嗣ぐべきであったが、弟孫匡に譲り与えた。

徐州牧陶謙はひどく孫策を嫌っていた。孫策の舅呉景が当時丹陽太守であったので、孫策はそこで母を車に載せて曲阿に移り、呂範・孫河とともに呉景に身を寄せ、伝手を頼って募集をかけると数百人が手に入った。興平元年(一九四)、袁術に従属した。袁術は彼を非常に立派だと思い、孫堅の部曲を孫策に返してやった。[一]太傅馬日磾を杖突きながら関東を慰撫していたが、寿春にいたとき礼をもって孫策を招き、上表して懐義校尉の官職を授けた。袁術の大将喬蕤・張勲はみな心を傾けて(孫策を)尊敬した。袁術はいつも歎息して言っていた。「袁術に孫郎のような子があれば、死んでもまた思い残すことはないのになあ!」孫策の騎士が罪を犯し、袁術の陣営に逃げ込んで陣中の廐に隠れた。孫策は指差しながら人をやって彼を斬らせた。事後、袁術のもとに出頭して謝罪した。袁術は言った。「兵士は叛逆を好むものだ。一緒になってそいつらを憎むのが当然なのに、どうして謝罪なぞするんだね?」このことから、軍中ではますます彼を畏れ憚った。袁術は初め孫策が九江太守になることを許諾していたが、あとになって後任に丹陽陳紀を登用した。のちに袁術は徐州を攻撃したいと思い、廬江太守陸康に米三万斛を求めたが、陸康が承諾しなかったので、袁術は大いに怒った。孫策はむかし陸康のもとに参向したことがあったが、陸康は会おうとせず、主簿に彼を接待させた。(そのため)孫策は常々恨みに思っていた。袁術は孫策をやって陸康を攻撃させ、告げて言った。「以前、って陳紀を登用したが、いつも本心を貫けなかったことを悔やんでいたものだ。今度もし陸康を捕らえられたなら、廬江は本当にのものだぞ。」孫策は陸康を攻撃し、それを陥落させた。袁術はまたもや彼の故吏劉勲を登用して太守としたので、孫策はますます失望した。それ以前、劉繇揚州刺史となっていたが、州の古くからの治所は寿春であった。寿春はすでに袁術に占拠されていたので、劉繇はそこで長江を渡って曲阿に治府を置いた。当時、呉景はなお丹陽におり、孫策の従兄孫賁もまた丹陽都尉であったが、劉繇は着任すると、彼らを圧迫して全て追い出してしまった。呉景・孫賁は立ち去って歴陽に宿営した。劉繇は樊能・于麋・陳横を派遣して長江の渡し場にさせ、張英には当利口に屯させ、そうして袁術をんだ。袁術は自分で登用して、故吏である琅邪恵衢を揚州刺史とし、さらに呉景を督軍中郎将とし、孫賁と一緒に軍勢を率いさせて張英らを攻撃させたが、何年ものあいだ勝つことができなかった。孫策はそこで袁術を説得し、呉景らを援助して江東を平定したいと請願した。[二]袁術は上表して孫策を折衝校尉とし、殄寇将軍を代行させたが、軍勢はわずか千人余り、騎馬は数十匹、賓客のうち従軍を願う者は数百人であった。歴陽に到達するころには、軍勢は五・六千人になっていた。孫策の母は先だって曲阿から歴陽に移っていたが、孫策はさらに母を阜陵に移動させた。長江を渡って転戦したが、向かうところ全て撃破し、あえてその鋭鋒にぶつかる者はなかった。しかしながら軍令が厳粛であったため、百姓は彼に懐いた。[三]

[一] 『呉歴』に言う。はじめ孫策が江都にいたとき、張紘は母の喪に服していた。孫策は何度も張紘のもとを訪ね、世事の要務について質問して言った。「まさに今は漢の祚が衰微しつつあり、天下は騒擾し、英雄俊傑はおのおの軍勢を擁して私腹を肥やしておりますが、危難を救い混乱を治められる者は未だ現れません。先君は袁氏とともに董卓を打ち破りましたが、功業の未だ達成されぬうちに、黄祖の危害のために卒去いたしました。孫策は暗愚・幼稚であるとはいえ、ささやかながら密かに志を持っており、袁揚州(袁術)に先君のお遺しになった軍勢(の返還)を求め、丹陽の舅(呉景)のもとに馳せ参じて離散した者共を糾合し、東に行って呉会に拠り、を報じて恥をぎ、朝廷のために外の藩屏になろうかと思います。はいかがに思われますか?」張紘は答えて言った。「もともと空しく生を送る愚劣者であるうえ、ちょうど服喪中でもございまして、盛大なるご計画をお支えすることができませぬ。」孫策は言った。「君のご高名は他国まで広がり、遠きも近きも懐き慕っております。今日のことの計略は、君によって決定されるのです。どうしてご遠謀を啓示されて、高山のごとくご尊敬するのに沿うてはくだされないのですか。もしささやかな志が遂げられ、血縁の讎に報いることができますれば、それこそ君のご尽力によるものであり、孫策の心より望むところなのです。」そして涙をあふれさせて泣き、顔色を変えることはなかった。張紘は孫策の忠勇さが内心から発せられ、言葉遣いは慷慨としているのを見て、彼の志と言葉に感銘し、そこで答えて言った。「むかしの政道が衰えていったときは斉・晋がならんで勃興し、王室がすでに安定したときには諸侯は職務について(王室に)貢献いたしました。いま君は先代の道を引き継がれ、驍勇の武名がございます。もし丹陽に身を投じて呉会で軍勢を手に入れたなら、荊州・揚州を一つにすることもできますし、讎敵に報いることもできましょう。長江に拠って威徳を振るい、もろもろの穢れた者共を誅伐排除し、漢室を正しお助けするならば、功業は(斉の)桓公・(晋の)文公を窺うほどであり、どうしてただ外の藩屏に留まりましょう?ちょうど今は世が混乱して困難が多くございますが、もし功績が成し遂げられ事業が打ち立てられたならば、を同じくする者たちと南に行って(長江を)渡られるべきでしょう。」孫策は言った。「君と(意見が)一致して符合したからには契りを結び、永久に固い間柄を持ち同じくしたいと存じます。いますぐ出かけなければなりませんが、年老いた母と幼い弟を君に委ねられたなら、孫策はもう回顧する心配はなくなるのです。」『江表伝』に言う。孫策はただちに寿春に赴いて袁術に謁見し、涙ながらに言った。「亡き父はむかし長沙から(洛陽に)入って董卓を討伐し、明使君南陽で合流して同盟の好を結ばれましたが、不幸にして危難に遭遇し、功業は完成を見ませんでした。孫策は先人の(袁術に対する)旧恩に感じ思い、自らお頼りして結びつきたいと存じます。願わくば明使君、わが真心をご推察くださいませ。」袁術ははなはだ貴んで彼を評価したものの、そのくせ彼の父の軍勢を返してやることにはなかなか承知しなかった。袁術は孫策に告げて言った。「は初めに舅御(呉景)を起用して丹陽太守とし、従兄御の伯陽を都尉としたものだが、あれは精兵の地であるから、帰って身を寄せられ、募集をかけられるとよかろう。」孫策はついに丹陽の舅に身を寄せ、数百人を手に入れたが、県の大帥祖郎に襲撃されてしまい、ほとんど死にかけるところだった。こうして再び赴いて袁術に拝謁すると、袁術は孫堅の残した軍勢千人余りを孫策に返してやった。

[二] 『江表伝』に言う。孫策は袁術を説得して言った。「(我が)家は東方に(施した)旧恩がございます。願わくば舅を援助して横江を討ちたいと存じます。横江が陥落したのち、本土に身を投じて募集をかければ、三万の軍勢が得られるでしょう。それによって明使君をお助けし漢室を正しお救いしましょう。」袁術は彼が恨んでいることを知っていたが、しかし劉繇が曲阿に拠り、王朗が会稽にいたので、孫策はきっと平定することはできないだろうと思い、それを許可してやった。

[三] 『江表伝』に言う。孫策は長江を渡って劉繇の牛渚の陣営を攻撃し、邸閣の食糧・兵器をことごとく奪い取った。この歳は興平二年である。当時、彭城国の薛礼下邳国の相笮融は劉繇に身を寄せて(彼を)盟主とし、薛礼は秣陵城に拠り、笮融は県南に屯していた。孫策はまず笮融を攻撃したが、笮融が兵を出してきたので交戦となり、五百級余りの首を斬った。笮融はそこで陣門を閉ざして動こうとしなくなった。そこで(孫策は)長江を渡って薛礼を攻撃すると、薛礼は出し抜けに逃走した。ところが樊能・于麋らは再び軍勢をかき集め、牛渚の屯営を襲撃して奪った。孫策はそれを聞き、引き返して樊能らを攻め破り、男女一万人余りを生け捕りにした。またもや(長江を)下って笮融を攻めたが、流れ矢に当たって股を傷付けてしまった。馬に乗ることさえできなかったため、輿で担がれて牛渚の屯営に引き返した。ある者が叛逆して笮融に密告した。「孫郎(孫策)は箭に当たって死んでしまいました。」笮融は大喜びして、すぐさま将の于慈をやって孫策にかわせた。孫策は歩騎数百人を出して挑戦させ、伏兵を後方に設置させておいた。賊が出てきて攻撃を仕掛けてきたとき、矛先を交えないうちに偽って逃走すると、賊は追いかけてきて伏兵の中に飛び込んだ。そこで彼らを大いに撃破し、千級余りの首を斬った。孫策はそこで笮融の陣営のもとまで行き、左右の者に大声で叫ばせた。「孫郎は結局どうなんだろうね!」賊はそれに驚き恐れ、夜中に遁走した。笮融は孫策がなお健在であると聞き、さらに塹壕を深く城塁を高くして防御の備えを修繕した。孫策は笮融の駐屯地の地勢が険固であったので、そのままにして立ち去り、海陵において劉繇の別働隊の部将を攻め破り、湖孰・江乗に転戦して、それらを全て攻め下した。

孫策の人となりは、姿や顔は美しく談笑を好み、性質は闊達で聞き上手、人使いが上手かった。そのため士卒・民衆で(彼に)会った者は、心を尽くさない者がなく、彼のために死ぬことを願った。劉繇が軍勢を棄てて遁逃すると、もろもろの郡守はみな城郭を捨てて奔走した。[一]の人である厳白虎らの人数はおのおの一万人余りもおり、そこかしこに軍勢を屯させていた。呉景らはまず厳虎(厳白虎)らを撃破して、そのあとで会稽に行きたいと思った。孫策は言った。「厳虎らは烏合の盗賊であって、大それた野心なぞ持ってはおらぬ。やつらは生け捕りになるだけだろう。」そのまま軍勢を返して浙江を渡り、会稽を拠点として東冶り、そのあと厳虎らを攻め破った。[二]すべての長吏(県令・県長)を交替させ、孫策は自ら(任じて)会稽太守を領し、再び呉景を丹陽太守とし、孫賁を予章太守とし、予章郡を分割して廬陵郡を作り、孫賁の弟孫輔を廬陵太守とし、丹陽の朱治を呉郡太守とした。彭城の張昭広陵張紘・秦松・陳端らを謀主(幕僚長)とした。[三]そのとき袁術が帝号を僭称した。孫策は手紙を出して責め、彼と絶交した。[四]曹公曹操)は上表して孫策を討逆将軍とし、呉侯に封じた。[五]のちに袁術が死んだとき、長史楊弘・大将張勲らがその配下の人々を引き連れて孫策に身を寄せようとした。廬江太守劉勲は(彼らを)待ち伏せして攻撃し、彼らを全て生け捕りにし、その珍宝を手に入れて我が物にしてしまった。孫策はそれを聞き、(本心を)偽って劉勲と同盟を結んだ。劉勲は新たに袁術の軍勢を手に入れたのだが、当時、予章上繚宗民一万家余りが江東にいたので、孫策はそれを攻め取るよう勧めた。劉勲が出かけて行ったので、孫策は軽装軍にて朝から夜にかけて廬江を襲撃して陥落させ、劉勲の軍勢はことごとく降服し、劉勲はただ独り麾下数百人と一緒に自分から曹公に帰服した。[六]そのころは袁紹(の勢力)が強いときにあたり、その一方で孫策が江夏を併合したので、曹公の力はまだ思い通りにならず、(曹公は)まず彼(孫策)を手懐けようとした。[七]そこで弟のを孫策の末弟孫匡に嫁がせ、また子の曹彰のために孫賁の女を娶ってやり、みな礼をもって孫策の弟孫権・孫翊を招き、さらに揚州刺史厳象に命じて孫権を茂才に推挙させた。

[一] 『江表伝』に言う。孫策はこのとき年若く、(そのため)官位称号があったのに兵士・民衆はみな彼を「孫郎」と呼んだ。(敵地の)百姓たちは孫郎がやってくると聞いて、みな魂魄を失い、長吏も城郭を棄てて山草のあいだに隠れ伏した。到着してからは、兵士は軍令を遵守して誘拐・略奪を働くことはなく、鶏でも犬でも菜も茹も、一つとして被害に遭うものはなかった。民衆はそこで大喜びし、競い合って牛酒をもって軍に参上した。劉繇が逃走したのち、孫策は曲阿に入城して将兵をねぎらい賞賜し、部将陳宝を阜陵に行かせて母および弟を出迎えさせた。恵み深い布令を発行し、諸県に布告した。「劉繇・笮融らの故郷の部曲のうち、降服してきた主だった者は、一切詰問してはならぬ。従軍を志願する者には、一人が軍属になれば門戸からは免除せよ。志願しない者にも強要してはならぬ。」十日の間に四方から雲集し、軍勢二万人余り、騎馬千匹余りを手に入れ、威信は江東に震い、形勢はいよいよ盛んになった。

[二] 『呉録』に言う。当時、烏程には鄒他・銭銅および前の合浦太守の嘉興王晟らがいて、おのおの軍勢一万人余り、あるいは数千人を集めていた。軍勢を引率して討伐し、すべて彼らを攻め破った。孫策の母氏は言った。「王晟はの父とは座敷に上がって妻と会う間柄でした。いま彼の子息兄弟たちはみな晒し首となり、ただ一人の老翁が残っているだけです。どうして恐れるに足るでしょう?」そこで彼のことは捨て置き、残りは一族あげて誅殺した。孫策は自ら厳虎を討伐したが、厳虎が塁壁を高くして堅守しつつ、弟厳輿を使者として和睦を請うたので、それを許してやった。厳輿は一人で孫策に対面したいと申し入れた。会談中、孫策は白刃を抜いてった。厳輿の体は震えていた。孫策は笑いながら言った。「卿が坐った姿勢からよく飛び上がり、敏捷さは人並みならぬと聞いておりましたので、いささか卿をからかっただけです!」厳輿は言った。「は刃物を見るとそうなるのです。」孫策は彼が(そのように)できないと悟り、そこで手戟を彼に投げ付けると(厳輿は)即死した。厳輿は勇気・武力があり、厳虎の軍勢は彼が死んだことにより、非常に恐怖した。(孫策は)進軍して彼らを攻め破った。厳虎は余杭に遁走し、許昭の奴隷のなかに身を投じた。程普は許昭を攻撃したいと請うたが、孫策は言った。「許昭は旧主に信義を立てており、旧友に誠実を尽くしている。これこそ丈夫たる者の志だ。」そこで彼を放置しておいた。臣裴松之は考える。許昭が旧主に信義を立てたというのは、盛憲を救ったことを言うのである。そのことは後の注に見える。旧友に誠実を尽くしたというのは、厳白虎を受け入れたことである。

[三] 『江表伝』に言う。孫策は奉正都尉劉由五官掾高承を派遣し、上表文を掲げてに参内させ、地方の物品を献上させた。

[四] 『呉録』に記載する孫策が張紘に書かせた手紙に言う。「上天が司禍の星を掲げ、聖王が敢諫の鼓を立てて、非道誤謬への備えを設け、欠点を戒める言葉をいたのはなぜでしょうか?おおよそ長所があれば、必ず短所もあるからです。昨冬、大それた計画があると伝え聞き、恐れおののかぬ者はありませんでしたが、うってかわって献上物を奉納されたと聞き、万民は困惑を解消いたしました。近ごろの提言を聞きますと、ふたたび以前の計画に追従しようとされ、事業の日程は月単位まで決定されているとか。いよいよ憮然とさせられるのですが、思うにこれは流言なのでありましょう。もしそれがその通りだとすれば、民衆は何を希望にすればよいのでしょうか?昔日、義兵を挙げられたとき、天下の士が響くように呼応したのは、董卓が(天子の)廃立を専断して太后・弘農王を殺め、の宮人を誘拐し、御苑・陵墓を発掘し、暴虐はここまで至ったからです。それゆえ諸州郡の豪傑たちは(将軍の)ご声望を聞きご信義を慕ったのです。神秘的な武勇が外部で振るわされると、董卓はついに内部で滅びました。元凶が倒されると、ご幼主は東方を顧みられて保傅に命令を出させ、諸軍を凱旋帰国させようとなさいました。河北においては黒山と謀略を通じ、曹操は東方の国で毒気を放出し、劉表は南方の荊州でえて叛乱し、公孫瓚は北方の幽州で吼えたけり、劉繇は長江のほとりで力を振るい、劉備は淮水の片隅で盟主の座を争っております。こうしたことから、ご命令を承って弓を焼き、戈を棄てることができないでいるのです。いま劉備・劉繇はすでに敗れ、曹操らは飢餓しており、思いますに、天下と計略を合致させて醜悪な輩を誅伐すべきなのです。(その機会を)捨て去って考えようとせず、自分から奪取せんとの野心をお持ちになるとは、海内の希望するところではございません。(それが)第一です。むかし(の)成湯は(の)桀王を討伐したとき、夏が多くの罪を犯したと称し、(の)武王が(の)紂王を討伐したとき、殷の犯した罪は重いと言っておりました。この二王は聖徳がございまして、世に君主たるべき人物でございましたが、もしその時機に巡り会わなければ勃興することはなかったのです。幼主には天下に対する悪事があるわけではなく、ただ御年がまだお若いため強力な臣下に脅迫されているだけなのです。もし罪過なくしてそれを奪ったなら、湯・武の事業に合致せぬのではないかと心配しております。第二です。董卓は狂乱狡猾ではありましたが、主君を廃して自分から(新しい王朝を)興すまでには至りませんでした。それでも天下は彼の暴虐を聞き、腕を振るって心を同じくして彼を憎み、中原の戦いに慣れぬ兵をもって辺境の精悍な賊にぶつかり、たちまち魂をさすらわせることになりました。いま四方の人々はみな敵に慣れ戦闘に巧みになっております。対抗して勝つことができるのは、彼らが混乱して我らが治まっているとき、彼らが叛逆して我らが順当なときです。当世の紛争を目の当たりにして(武力を)大挙してこれに対処しようとしても、災禍に足を向けることができるだけです。第三です。天下の神器はむやみに犯すことはできず、必ず天の賛同と人の協力が必要になります。殷の湯王には白鳩の吉祥があり、周の武王には赤烏の瑞兆があり、高祖には星の集合する符瑞があり、世祖には神々しい光の徴候があり、いずれの場合も民衆は桀・紂の政治によって憔悴し、秦・王莽の役務に苦労しておりまして、それゆえ上手く無道を取り除き、その志を達成することができたのです。いま天下はご幼主におかれて苦しめられているわけでもなく、天命を授かる霊験も現されておりません。それなのに一朝にして突然にも尊号に即位せんとなさっております。未だこのようなことはありませんでした。第四です。天子の貴さ、四海の富を誰が望まないものでしょうか?(しかし誰も天子の位を窺おうとしないのは)道義において許されず、情勢においてできないからなのです。陳勝・項籍・王莽・公孫述の輩は、みな南面して「孤」(帝王の謙称)と称しましたが、よく全うできた者はありません。帝王の位はむやみに欲しがってはならないのです。第五です。ご幼主はご聡明であらせられ、逼迫するものを取り除き、心配事を取り去り、必ずや中興のご業績を成し遂げられるでしょう。周の成王のごとき盛徳で主君に尽くし、(周公)旦(召公)奭のごとき美名を自ら受けることこそ、まこと尊明に所望いたすところなのです。たといご幼主を他の者に改めるにしても、なお宗室の系譜家族から推薦し、近親の賢良を論考し、それによって劉氏の皇統を継続させて漢朝の宗室を固められますよう。(以上のことは)すべて(あなたのためであり)金石をもって功績が書き込まれ、丹青をもって姿が描かれ、余慶は尽きることなく受け継がれ、管絃により名声が伝えられるのであります。(それを)捨てて実行されようとせず、災難を招くことなど、(あなたの)ご賢明な素質を想起すれば、きっと忍びがたいことでしょう。第六です。(あなたの御家は)五世代にわたって宰相となり、権威の重さ、勢力の盛んさは、天下に比肩しうる者がございません。(御一門のうち)忠貞なる者はきっと『朝も夜も思惟にふけり、国家のきをお助けして社稷の危機を思い、父祖の志を奉じて漢室の御恩に報いるべきだ。』と言うでしょうし、践むべき節義をないがしろにして、奪おうとする欲望を逞しくする者は、おそらく『天下の人々のうち、我が家の執事でない者は門生である。だれか我に従わぬ者がおろうか?四方の敵のうち、我が同僚でなければ我が使用人である。誰が我に背くことができようか?代々の勢力に乗じて決起し、それを奪取しない手があるか?』と言うことでしょう。両者の方法論を区別し、詳しく観察しないではいられない者です。聖者哲人が貴ばれるのは、その時々になすべきことを弁え、挙動措置を慎んでいるからであります。計画しがたき事業、信頼しがたき威勢によって、もろもろの敵の気持ちを激昂させ、多くの人の心を生起させようとするのは、公的な道義においてもより許されず、私的な計算においてもやはり不利であり、賢明なる哲人の実行しようとしないことです。第八です。世の人々の多くは図緯(予言書)に惑わされて無関係なことにまでこじつけ、文字を並べたりくっつけたりして上司を喜ばせておりますが、まったく目上の者におもねって民衆をたぶらかし、最後になって後悔する者は、昔から今まで、未だかつて無くなることはありませんでした。慎重に選び取り、よくよく考えずにはいられません。第九です。(以上の)九つの点は、尊明がご存じのことの付け足しに過ぎませんが、事前の備えとし、ご失念の足しになさって頂きますよう。忠言は耳に逆らうものですが、ご神聴にあずかれば幸いです!」『典略』では張昭の言葉であると言っている。臣裴松之が思うに、張昭の名声は重々しかったとはいえ張紘の文章には及ばなかった。この手紙はきっと張紘が作ったものだろう。

[五] 『江表伝』に言う。建安二年夏、漢朝は議郎王輔を派遣して戊辰の詔書を奉って言う。「董卓は叛乱し、国家に仇をなし人民を害した。さきに将軍孫堅は征伐を思っおり、日ごろの心がけは未だ遂げられないまま(亡くなったの)であるが、その計略は著名である。孫策は善道を遵守し、幸福を求めて右顧左眄しない。いま孫策をもって騎都尉とし、烏程侯の爵位を襲封させ、会稽太守を領させる。」また詔勅に言う。「左将軍袁術は朝恩を顧みず、いながらにして凶逆をなし、虚偽を捏造して兵乱を欲し、百姓をたばかり騙した。その報告を聞いたとき事実でないと思われた。使持節平東将軍領徐州牧温侯呂布の上表によって、袁術が民衆を惑わして妄りな振る舞いをしていることがはっきりし、袁術の鴟梟のごとき性質と、その無道を遂げ、王宮を建設して公卿を配置し、天を郊して地を祀り、民衆を殺して器物を損壊し、極めてひどい禍をなしていることが判明した。呂布は前後して上表し、孫策が本朝に心を寄せ、帰還して袁術を討伐し、国家のために忠節を尽くしたいと願っておるゆえ、顕著な引き立てを加えるように請願してきた。そもそも恩賞を掲げて功績を待つのは、ただ忠勤に対してこれを与えるためだ(?)。ゆえに寵愛授与し、前代の食邑を受け継がせ、大郡(の太守の任)をもって尊重する。栄耀がもたらされたこと、これこそ孫策が力を尽くし命を投げ出すである。すみやかに呂布および行呉郡太守安東将軍陳瑀と協力同心し、時を同じくして征討に出立せよ。」孫策は自分が兵馬を統領することについて、ただ騎都尉の官職では郡を宰領するのに軽すぎると思い、将軍号が得られるようにと、人をやるに及んで王輔にほのめかした。王輔はそこで詔書に従って、仮の措置として孫策を明漢将軍とした。このとき陳瑀が海西に駐屯しており、孫策は詔勅を奉じて厳を治めると、呂布・陳瑀とともに協力しあう形勢を取ることになった。行軍して銭塘に到着したとき、陳瑀は孫策襲撃を密かに計画し、都尉万演らをやって密かに長江を渡らせ、印章を持たせて三十余りの細賊どもに届けさせ、丹陽・宣城・涇・陵陽始安の険阻な諸県の大帥祖郎・焦已、及び呉郡烏程の厳白虎らとともに内応させ、孫策の軍勢が進発する機を窺って諸郡を攻め取ろうと考えた。孫策はそれを察知し、呂範・徐逸を派遣して海西で陳瑀を攻撃させ、大いに陳瑀を撃破して、その官吏・兵士の妻子四千人を捕獲した。『山陽公載記』に言う。陳瑀はただ一騎で冀州に逃走し、自ら袁紹に帰服した。袁紹は故安都尉とした。『呉録』に記載する孫策の感謝する上表に言う。「臣は頑固な性質で、一人で辺境で身を守っておりました。陛下におかれては崇高なご恩沢を広く布かれ、ささやかな節義も見落とされることなく、臣に爵位を襲わせ、名郡の統治を兼ねさせることになさいました。賜りました栄誉・恩寵は顧みて、(感謝に)堪えないところでございます。興平二年十二月二十日、呉郡曲阿において袁術の上表文を読みましたが、(それによると)臣をもって殄寇将軍を行わせるとのことでしたが、(今になって)詔書を被ることになり、(その任命が)身勝手な偽りであると分かりました。すぐさま捨て去ったとはいえ、それでも恐れと胸騒ぎがいたします。臣は十七歳のとき頼りとする人(父)を喪失し、父の仕事を継ぐほどの些事すら担うこともできず、薪割りの戒めを汚してしまうのではないかと恐れました。(霍)去病は十八歳で功績を立て、世祖(光武帝)の居並ぶ将領たちは弱冠にして天命の君主を補佐しましたが、まことに(そのような功績が臣には)ございませんでした。臣が初めて軍勢を宰領することになったとき、年齢は弱冠にも満たず、無能臆病で勇気もありませんでしたが、それでも(王室の)微かなる天命が尽きんとしているのを懸念いたしておりました。思うに、袁術は発狂惑乱し、悪事をなすことは深刻でございます。臣はご威霊の加護を蒙り、正義を奉って罪人を討伐し、願わくば必ずや捷報を献じ、ご授与に報いる所存でございます。」臣裴松之は考える。『本伝』では孫堅は初平三年に卒去し、孫策は建安五年に卒去したとあり、孫策は死んだとき二十六歳だったと言っている。計算すると孫堅の死亡時、孫策は十八歳だったはずだ。それなのにこの上表では十七歳だったと言っており、符合しない。張璠の『漢紀』および『呉歴』は、いずれも孫堅が初平二年に死んだとしているが、こちらが正しく、『本伝』が誤っているのである。『江表伝』に言う。建安三年、孫策はまた使者を派遣して地方の特産物を献上したが、元年に献上したものの二倍であった。その年、詔書によって討逆将軍に転任し、改めて呉侯に封ぜられた。

[六] 『江表伝』に言う。孫策は詔勅を被り、司空曹公・衛将軍董承益州牧劉璋らとともに力を合わせて袁術・劉表を討伐することになった。軍勢が進発しようとしたとき、ちょうど袁術が死んだ。袁術の従弟袁胤女壻黄猗らは曹公を恐れ、あえて寿春を守ろうとはせず、袁術の棺を一緒にいて、彼の妻子および部曲の男女の手を支えつつ、皖城の劉勲に身を寄せた。劉勲の糧食は少なく、救済してやることができなかった。そこで従弟劉偕を派遣し、予章太守華歆に食糧を買いたいと申し込ませた。華歆の郡でももともと穀物が少なかったので、役人を派遣して、劉偕を連れて海昬・上繚に行かせ、もろもろの宗帥たちに三万斛の米を供出させて劉偕に手渡すことにした。劉偕は一ヶ月をかけて行ったが、わずか数千斛しか得られなかった。そこで劉偕は劉勲に報告したが、つぶさに状況を説明し、劉勲にこの地を襲撃奪取するようにと促した。劉勲は劉偕からの手紙を受け取ると、軍勢を潜ませて海昬の城下に進駐した。宗帥たちはそれを知ると、城内を空っぽにして逃げ隠れたので、劉勲は結局何も得られなかった。そのとき、孫策は西進して黄祖を討伐し、行軍して石城に及んでいたが、劉勲が自ら海昬に赴いていると聞き、すぐさま手分けし、従兄孫賁・孫輔に八千人を率いさせて彭沢で劉勲を待ち受けさせ、自分は周瑜とともに二万人を率いて歩行で皖城を襲撃し、すぐさまこれを落とし、袁術の百官および鼓吹、部曲三万人余り、ならびに袁術・張勲(?)の妻子を手に入れた。上表して汝南李術を用いて廬江太守とし、兵三千人を注ぎ込んで皖城を守らせ、手に入れた人々を東に移して呉に行かせた。孫賁・孫輔もまた彭沢で劉勲を撃破していた。劉勲は逃走して楚江に入り、尋陽からは徒歩で登って置馬亭まで行ったが、孫策らが既に皖城を落としたと聞き、そこで西塞に入った。まで行って、防塁を築いて守備を固め、危急を劉表に告げつつ、黄祖に救援を求めた。黄祖は太子黄射の船軍五千人を派遣して劉勲を援助させた。孫策は再び攻勢に移り、劉勲を大破した。劉勲は劉偕とともに北へ行って曹公に帰服し、黄射もまた遁走した。孫策は劉勲の軍勢二千人余り、船千艘を手に入れ、そのまま夏口まで前進して黄祖を攻撃した。当時、劉表は従子劉虎と南陽の韓晞を派遣して長矛隊五千人を率いさせており、(劉虎・韓晞は)来着すると黄祖の先鋒となった。孫策は戦って、大いに彼らを撃破した。『呉録』に所載する孫策の上表に言う。「臣は黄祖を討伐するにあたって、十二月八日をもって黄祖の屯する沙羨県に着到いたしました。劉表が部将を遣して黄祖を援助いたし、ともども臣に立ち向かって参りました。臣は十一日の明け方をもって部下の領江夏太守行建威中郎将周瑜、領桂陽太守行征虜中郎将呂範、領零陵太守行蕩寇中郎将程普、行奉業校尉孫権、行先登校尉韓当行武鋒校尉黄蓋らと同時に並進いたしました。我が身は馬に跨って陣に臨み、我が手は軍鼓を激しく撃ち、戦闘の気勢を整えました。官吏兵士は奮い立って勇躍すること百倍し、一心に、かつ勇敢に、おのおの競って命を投げ出しました。幾重にも重なる塹壕を飛び越え、迅速たること飛ぶが如きでございました。火が風上から放たれ、戦闘は煙の中で激しくなり、弓弩は一斉に発射され、振る矢は雨のように密集いたしました。辰刻に差しかかるころ、黄祖はようやく潰滅し、鋒刃の切るところ、焱火の焼くところ、それを前にして生き延びた賊はありませんでしたが、ただ黄祖だけが逃走いたしました。彼の妻子男女七人を生け捕りとし、虎狼韓晞以下二万人余りの首級を斬りました。彼らのうち水に飛び込んで溺れた者は一万人余りになり、(戦利品は)船六千艘余りと山積みの財物でございます。劉表はいまだ捕らえられておりませんが、黄祖が長らく狡猾な真似をしており、劉表の腹心として、外に出ては爪牙ともなっており、劉表が勢力を伸ばしたのは黄祖の息吹によるものでした。しかし黄祖の家族部曲は、地面を掃き清めたように残っておらず、劉表は孤立した捕虜でございますから、亡者となり死体となるばかりです。まことに皆もって聖朝の神武の遠く振るわれたお陰をもち、臣は罪人を討伐するにあたって、微力ながらの忠勤に成果を得られたのでございます。」

[七] 『呉歴』に言う。曹公は孫策が江南を平定したと聞き、心中ではそれを非常に厄介だと思い、いつも「猘児というやつは、矛先を争うことはできないものだ」と言っていた。

建安五年、曹公と袁紹は官渡で対峙した。孫策は密かに許を襲撃して漢帝を迎えんと企て、[一]密かに軍勢を整え、諸将を編制任命した。まだ進発しないうち、そのときの呉郡太守許貢の食客に殺害された。それ以前、孫策が許貢を殺したとき、許貢の末子は食客とともに長江の川辺に身を隠していた。孫策はただ一騎で外出していると、突然、食客と遭遇し、食客が孫策に襲いかかって傷を負わせた。[二]傷は重く、張昭らに請願して言った。「中国はいまや混乱の真っ只中にある。呉越の軍勢、三江の堅固さを用いれば、成功失敗を観望することもできよう。公ら、よくよく吾が弟をけてくだされよ!」孫権を呼び寄せて印綬をまとわせ、告げた。「江東の軍勢を挙げ、両陣のあいだで勝機を決し、天下とを争うことにかけては、卿は我に敵うまい。賢者を抜擢して能吏を任用し、おのおのにその心を尽くさせ、それによって江東を保つことにかけては、我は卿に敵わないよ。」夜になって卒去した。時に二十六歳であった。[三]

[一] 『呉録』に言う。当時、高岱という者が余姚に隠棲していたが、孫策は出仕を命じ、会稽陸昭を使者として彼を出迎えさせ、孫策は己を虚しゅうして伺候した。彼が『左伝』を得意としていると聞いたので、自分も熟読して議論をしようと考えた。ある人が彼に言った。「高岱は将軍がただ武勇に秀でているだけで、文学の才能を持っていないと思っております。もし『(左)伝』について議論してみて『存じ上げません』と言うようなことがあれば、それはの言葉通りだということです。」また高岱にも告げた。「孫将軍の人となりは、自分より優れた者を憎まれます。もし質問を受けるたび『存じ上げません』とお答えになれば、ご好意を得られるでしょう。全てにわたって正論をご開陳なさるようなことがあれば、きっと危険な目に至りますぞ。」高岱はその通りだと思い、『(左)伝』の議論になったとき「存じ上げません」と答えることもあった。孫策は果たして怒り出し、自分を軽蔑しているのだと思って彼を収監してしまった。知人友人および居合わせた人々は地べたに座って赦免を請願した。孫策は矢倉に登り、(彼の赦免を請う人々が)数里にわたって充満しているのを眺めた。孫策は彼が民衆の心をつかんでいることを憎み、ついに彼を殺してしまった。高岱は字を孔文といい、呉郡の人である。天性の聡明通達さで、財貨を軽んじて義心を貴んだ。彼が士人と付き合うときは奇矯な人物を選び、まだ有名にならぬうちから見出した。友達付き合いをした八人は、みな一世代の英傑ばかりであった。太守盛憲が(彼を)上計とし、孝廉に推挙した。許貢が来て郡を宰領するようになると、高岱は盛憲の手を引いて許昭の邸宅に避難し、陶謙に(会いに行って)救援を求めた。陶謙はなかなか救援しようとはしなかったが、高岱は憔悴しきって血の涙を流し、飲み物も喉を通らなかった。陶謙は、彼の忠義雄壮さには申包胥の義心があると感動し、軍勢を進発させることを許諾し、(高岱に危害を加えないようにと)手紙を書いて許貢に送った。高岱は陶謙の手紙を携えて帰還したが、許貢はすでに彼の母を収監していた。呉の人々は君子小人の区別なくみな危険だと思い、許貢はかねがね怒りを抱いているため、行けば必ず殺されてしまうだろうと言った。高岱は言った。「主君を持ったらば主君のために。そのうえ母上が牢獄に繋がれていて、行ってあげるのをお待ちなんだ。もし(役所に)入って(許貢に)会うことができれば、ことは自ずと解決するはず。」そのまま手紙を差し出して自分から申し出た。許貢がすぐに会ってみると、才能言辞は敏捷であり、自分から陳謝する様子も慇懃であった。許貢はその場で彼の母を解放してやった。高岱は許貢に会いに行くとき、友人の張允ビンに語り、あらかじめ船を用意させ、許貢はきっと後悔して後を追ってくるはずだと言っていた。(役所を)出るとすぐさま母を引き連れて船に乗り、道を変えながら逃走した。許貢はしばらくして人をやって彼を追わせ、追っ手には、もし船上で追い付いたら長江の上ですぐさま彼を殺すように、すでに渡り終えていたら諦めろと命じていた。追っ手が高岱とは違う道を取ったので、(高岱は)逃れることができた。誅殺されたとき三十歳余りだった。『江表伝』に言う。当時、道士である琅邪の于吉という者があり、以前は東方に寓居していたが、呉会(呉郡・会稽)に往来し、精舎を立て、香を焚いて道術の書物を読み、掟を定め、呪符や神水を作って病気を治療した。呉会の人々の多くが彼に師事した。孫策がかつて郡の城門矢倉の上で諸将賓客を集めて宴会を催したとき、于吉は美々しく着飾って小箱を杖にし、漆でこれに絵を描いて仙人鏵と名付け、城門の下を走り過ぎようとした。諸将賓客のうち三分の二は矢倉を下りて彼に拝礼して出迎え、賓客のまとめ役が叱りつけて禁止しても止めさせることはできなかった。孫策はすぐさま命令を下して彼を収監させた。彼に師事する多くの者たちは、みながみな妻女を孫策の母のもとに行かせて彼の助命を請うた。母は孫策に告げた。「于先生は軍を助けて福をなし、将帥兵士を治療看護しています。彼を殺してはいけませんよ。」孫策は言った。「こいつは怪しげなやつで、民衆の心を幻惑させ、遠くにいて諸将に君臣の礼を顧みることを忘れさせ、みながみな孫策を捨てて矢倉を下り彼に拝礼したのです。排除しない訳にはいかないのです。」諸将はまた連名で(手紙を書き)事情を説明して彼の命乞いをした。孫策は言った。「むかし南陽の張津交州刺史だったとき、過去の聖人たちの経典教訓を捨て去り、漢家の法律を廃し、いつも赤い帕頭け、鼓を撃ち琴を掻き鳴らして香を焚き、邪悪な道術の書物を読み、それで教化の手助けにするのだと言っていた。(ところが)突如、南夷に殺されてしまった。これこそ無益の極み(の証拠)であり、諸君らはまだ気付いていないだけなのだ。いまこいつは鬼籍に名を刻まれた。これ以上紙筆を費やさないように。」すぐに彼を斬り捨て、市場に首を掲げた。彼に師事する多くの者たちは、それでも彼が死んだと思わず、尸解したのだと言って、またもや祭祀を行って御利益を求めた。『志林』に言う。むかし順帝の御代、琅邪の宮崇が殿上に参り、師の于吉が曲陽の泉のほとりで得たという神書を献上した。白い絹に朱の罫線を引いており、『太平青領道』と号し、およそ百巻余りであった。順帝の御代から建安年間まで五・六十年は経っていて、于吉は当時、百歳に近かった。老人・幼児には礼によって刑罰を加えないことになっている。また天子は狩りに出たとき、百歳の者がいるかを訊ね、その人に会いに行くことになっており、齢を重ねたことを敬い親愛する。聖王の教化の極致である。于吉の罪過は死刑に相当するものではないのに、むやみに酷刑を加えてしまった。これは誤った誅戮であり、褒められたことではない。(虞)喜が推考するに、桓王(孫策)が薨じたのは建安五年四月四日である。このとき曹(操)・袁(紹)は攻撃しあっていて、まだ勝敗が付いていなかった。夏侯元譲夏侯惇)が石威則に手紙を与えたのを調べると、(時期は)袁紹が敗れたあとである。手紙では「孫賁に長沙を授け、張津に零(陵)・桂(陽)を営業させる」と言っており、これからすると桓王が先に亡くなり、張津が後に死んだのであり、張津の死を引き合いに出して難詰することなどできないのである。臣裴松之は考える。太康八年(二八七)、広州大中正王範が『交広二州春秋』を献呈した。(それによると)建安六年、張津は依然交州牧のままだった。『江表伝』の虚偽は『志林』の言う通りである。『搜神記』に言う。孫策は長江を渡って許を襲撃せんと企てたとき、于吉を随行させていた。そのころ大旱になっており、至るところで猛暑に苦しんだ。孫策は将帥兵士を急き立てて、速やかに船を進めさせ、ときには朝早く出かけて自ら督促したりもしていた。将帥官吏の多くが于吉のもとにいるのを見ると、孫策はそのことで激怒した。「我が于吉に及ばないとでも言うのか。それで真っ先に彼のもとに走って仕えておるのか?」と言い、すぐさま于吉を逮捕させた。(于吉が引き出されて)来ると、彼を叱り飛ばしながら「日照りつづきで雨が降らず、道路は渋滞していてなかなか通過できないでいる。それゆえ朝早く自ら出かけているのだ。それなのに卿は憂慮を共にせず、安閑と船中に居座って鬼の態をなし、吾が隊伍をぶち壊してしまう。今度こそ排除してやるぞ」と責め立て、人に命じて縛ったまま地上に置いて日に晒し、雨乞いをさせ、もし天を感応させて真昼までに雨を降らせれば赦免してやろう、さもなくば誅殺するぞといった。にわかに雲気が立ち上り、たちまち合し、真昼になるころには大雨が一斉に降り下り、谷間に満ちあふれた。将士は大喜びして、于吉はきっと赦されるだろうと思い、みんなで見舞いに行った。孫策はついに彼を殺してしまった。将士は哀惜し、一緒に彼の亡骸を隠した。夜になると、忽然としてまたもや雲が湧き起こって彼(の亡骸)を覆い、翌朝行ってみると、(亡骸が)どこにあるか分からなくなっていた。『江表伝』『搜神記』を調べてみると、于吉の記事が同じでなく、どちらが正しいのか分からない。

[二] 『江表伝』に言う。広陵太守陳登射陽で統治を執っていた。陳登は陳瑀の従兄(陳珪)の子で、孫策が以前西征に出たとき、陳登は再び密かに間者を遣し、印綬を厳白虎の残党に与え、背後から侵害させようと計画し、それによって陳瑀が彼に破れた恥辱を晴らそうとした。孫策は帰還すると再び陳登を討伐した。軍勢が丹徒に到達したところで、軍糧の補給を待つことになった。孫策は根っからの狩猟好きで、歩騎を引き連れて何度も出かけた。孫策は馬を駆って鹿を追いかけたが、乗っていた馬は精悍駿逸であり、随従していた騎兵たちはまったく追い付くことができなかった。むかし呉郡太守許貢は漢帝に上表して「孫策の驍勇雄図は項籍(項羽)に瓜二つでございます。貴職恩寵を加えられ、京邑に召還すべきと存じます。詔勅を被れば還らざるを得ないでしょう。もし外部に放っておけば、必ずや御世の患いとなりましょう」と言ったが、孫策の斥候が許貢の上奏文を手に入れて孫策に見せた。孫策は許貢に面談を申し入れ、許貢を責めなじったところ、許貢が上表なぞしておらぬと言い訳をしたので、孫策はその場で武士に命じて彼を絞め殺させた。許貢の奴客は民衆の間に潜み、許貢のために復讐しようと考えていた。狩猟に出た日、に三人の者が現れたが実は許貢の奴客であった。孫策が「たちは何者か?」と質問すると、「これらは韓当の手兵であります。ここにいて鹿を射ておりました」との答えだった。孫策は言った。「韓当の手兵ならば吾はすべて見知っておるが、未だかつて汝たちを見たことはないぞ。」そこで一人を射ると、弦に応じて倒れた。残りの二人は恐れ慌てて、すぐに弓を掲げて孫策を射ち、頬に命中させた。後続の騎兵が続々とやってきて、みなで彼ら(許貢の奴客)を刺殺した。『九州春秋』に言う。孫策は曹公が柳城に北征したと聞き、江南の軍勢を残らず動員し、自ら大司馬を号し、北進して許を襲撃せんとしたが、その武勇をたのみとして行軍中も準備を設けなかったため、遭難するはめになったのである。孫盛の『異同評』に言う。およそこの数点の書物には、おのおの至らぬ点がある。孫策は威信を長江の彼方に行き渡らせ、ほぼ六郡を領有していたとはいえ、しかし黄祖がその上流で水運を利用し、陳登はその心腹にあって隙を窺い、そのうえ深く険しい地には強力な宗民があり、まだ全てが帰服したわけではなかった。曹(操)・袁(紹)は虎のごとく争い、山海をも傾けるほどの勢いであった。孫策がどうしてはるばる汝(南)・潁(川)まで出征し、そのうえ帝を呉・越に遷座させる余裕があろうか?こういったことは、思うに凡人なみの観察であろう。ましてや孫策ほど時勢に通達した者ではどうだろうか?また考えるに、袁紹は建安五年に黎陽に着陣しており、そして孫策は四月に遭害している。それなのに『(三国)志』では、孫策は曹公と袁紹が官渡において対峙したことを聞いたと言う。誤謬である。陳登討伐の記述の方に根拠があると言うべきだ。また『江表伝』の説では、孫策が韓当の手の兵士をすべて見知っていたといい、彼らが嘘を吐いていると疑い、即座に一人を射殺したとする。そもそも三軍の将帥兵士のなかには新附の者もあろうに、孫策は大将でありながら、どうしてすべて見知ることなどできようか?見知らぬ者だからといって即座に射殺するなど、それは論外というものだ。また孫策が殺されたのは(建安)五年のこと、柳城の戦役は十二年のことであり、『九州春秋』の乖離倒錯は最もひどいものだ。臣裴松之は考える。『傅子』でも、曹公が柳城に出征したとき許を襲撃しようとしたと言っている。このようなことを記述するとは、なんとお粗末なことであろうか!しかしながら、孫盛の非難もまだ全部が正しいとは言えない。黄祖は初めて孫策に破られたところで魂魄を取り戻すことができず、し劉表と君臣であったがもともと兼有併合の志なく、上流を抑えていたとはいえ、どうして呉会を企図していたとして扱うことができようか?孫策のその挙動は、理屈からいってまず陳登を企図したはずだ。ただし挙兵の理由は陳登だけに留まるものではない。当時、強力な宗民の驍悍な将帥、祖郎・厳虎の一党などは、捕虜となり滅亡してすでに姿を消し、残りは山越などがいたが、思うにどうして憂慮となりえようか?だとすれば、孫策の企図について、余裕がなかったと言うことはできないのである。もし孫策が志を得て大権を手に入れたならば、淮水・泗水の流域のどこにでも都にできるのであって、どうして長江の彼方で志を終わらせ、帝を揚・越の地に遷座させる必要があろうか?『魏武帝紀』を調べてみると、武帝は建安四年にはすでに官渡に進駐しており、孫策が死去する以前から、長く袁紹と交戦していたのであり、すなわち『(三)国志』の言うのも誤謬ではないのである。許貢の奴客は無名の小人であったが、よく恩愛寵遇を感じ認識し、義挙に臨んでは生命を忘れ、卒然として奮い立ったのは古代の烈士のおもかげがあった。『詩(経)』に言う。「君子に立派な計画があれば、小人も参与帰属する」、と。許貢の奴客がそれであった。

[三] 『呉歴』に言う。孫策が負傷したのち、医者は「よくよく我が身を大切に守り、百日のあいだ体を動かさなければ治りますよ」と言った。孫策は鏡を取り寄せて自分自身を映すと、左右の者に言った。「こんな顔になったというのに、それでもまた功績を挙げて事業を立てることができようか?」牀几を推しのけて大昂奮したので、傷口はみな分かれ裂けてしまい、須臾にして卒去した。『搜神記』に言う。孫策は于吉を殺したのち、いつも一人で座っているときは、ぼんやりと左右に于吉がいるのを見ていた。心中ひどくそれを憎らしく思い、すこぶる常軌を逸していた。のちに傷が治りかけたとき、鏡を取り寄せて自分自身を映すと、鏡の中に于吉がいるのが見えた。振り返っても(彼の姿は)見えず、こうしたことが二・三度あって、ついに鏡を殴りつけて大声で叫び、傷口はみな崩れ裂けてしまい、須臾にして死去した。

孫権は尊号を称すると、孫策に追諡して長沙桓王と言い、子の孫紹を封じて呉侯とし、のちに改めて上虞侯に封じた。孫紹が卒去すると、子の孫奉が後を嗣いだが、孫皓の時代、孫奉が擁立されるという出鱈目な噂が立ち、誅殺された。

評に言う。孫堅は忠勇にして剛毅、身寄りのない貧しい身から功績を顕し、董卓を殺すよう張温を導き、山陵を封印したことなど、忠義勇壮の激烈さがあった。孫策は英邁にして大器、勇鋭は世の先駆けとなり、奇才を見ては異能を取り上げ、志は中原をも凌駕した。しかしながらいずれも軽はずみで落ち着きがなく、(そのため)身を滅ぼし敗北するに至った。そのうえ、江東に割拠できたのは孫策の基礎のおかげだったが、孫権の尊崇が充分でなかったため子は侯爵に過ぎず、道義的に不足があった。[一]

[一] 孫盛は言う。孫氏の兄弟はみな計略に明るく抜群であり、基礎を築いて事業を打ち立てたのは、孫策の尽力によるものであったが、臨終の日に遺言をして(弟に)権限を委ねた。そもそも意気に通ずる間柄でさえ刎頸(の心意気)がある。ましてや天倫(肉親)の篤愛、豪達の英鑑があるのだから、どうして過去の名声を惜しみ、本情からの至誠を裏切る必要があろうか?はたまた虚実を計って思いを遠く馳せ、その名器を慎んだものであろうか?そもそも根本を正して名義を定めることは、国家にとって大いなる備えであり、疑惑二心を杜絶することは、流血を無くす良き計画なのである。それこそ、隠公が義心を誇示し、ついに羽父を招き、宣公が仁徳を思い、とうとう殤公の哀しみを受けた(理由な)のである。みな小さな善行ばかりを心懸けて、経国の企図に達せず、その場の名誉ばかりを求めて、遺法の策謀を思わなかったせいである。千乗の国家を軽んじ、道義実践が不充分であったと言うべきである。孫氏は騒擾の世に遭遇したため縦横の志を奮うことができたのだが、事業には徳行の蓄積による基礎があったわけでなく、国家は盤石の強固さがあったわけでない。勢力が一つになれば財産も寿命も全うすることができ、情愛が離れれば災禍も混乱も塵芥のごとく巻き起こったであろう。どうして徴候の未然に防がず、将来の災難を憂慮しないでいられようか?壮烈なものだ!孫策が創業の君となり、呉にあって開国の主となったことは。将軍・宰相が居並び、みな彼の旧恩がある有様は。しかし、嗣子は幼く劣っていて跡継ぎの重荷に堪えられず、これを奉ったならば、桓公田巿の災難を起こし、これを崇めたならば、与夷公子馮の災禍を起こしたであろう。それゆえ名義を正して根本を定め、貴き者と賎しき者とを切り離したのである。そうして初めて国家は権力濫用の譴責を受けることなく、嗣子も猜忌の嫌疑を向けられることなく、世情は異端の議論を断ち切り、不逞は僭上の野心を閉ざすのだ。心情として負い目があり、処理として不足があるとはいえ、遠大な雄図を心に秘め、末永く城塁を保つためには、まだ現れないうちに手を打ち、まだ乱れないうちに治めたと言うべきであろう。陳氏の評は充分通達したものではない!

吳書一 三國志四十六 孫破虜討逆傳第一

破虜傳

孫堅字文臺,吳郡富春人,蓋孫武之後也.[一]少為縣吏.年十七,與父共載船至錢唐,會海賊胡玉等從匏里上掠取賈人財物,方於岸上分之,行旅皆住,船不敢進.堅謂父曰:「此賊可擊,請討之.」父曰:「非爾所圖也.」堅行操刀上岸,以手東西指麾,若分部人兵以羅遮賊狀.賊望見,以為官兵捕之,卽委財物散走.堅追,斬得一級以還;父大驚.由是顯聞,府召署假尉.會稽妖賊許昌起於句章,自稱陽明皇帝,[二]與其子韶扇動諸縣,眾以萬數.堅以郡司馬募召精勇,得千餘人,與州郡合討破之.是歲,熹平元年也.刺史臧旻列上功狀,詔書除堅塩瀆丞,數歲徙盱眙丞,又徙下邳丞.[三]

[一] 吳書曰:堅世仕吳,家於富春,葬於城東.冢上數有光怪,雲氣五色,上屬于天,曼延數里.眾皆往觀視.父老相謂曰:「是非凡氣,孫氏其興矣!」及母懷姙堅,夢腸出繞吳閶門,寤而懼之,以吿鄰母.鄰母曰:「安知非吉徵也.」堅生,容貌不凡,性闊達,好奇節.

[二] 靈帝紀曰:昌以其父為越王也.

[三] 江表傳曰:堅歷佐三縣,所在有稱,吏民親附.鄕里知舊,好事少年,往來者常數百人,堅接撫待養,有若子弟焉.

中平元年,黃巾賊帥張角起于魏郡,託有神靈,遣八使,以善道教化天下,而潛相連結,自稱黃天泰平.三月甲子,三十六萬一旦倶發,天下響應,燔燒郡縣,殺害長吏.[一]漢遣車騎將軍皇甫嵩﹑中郞將朱儁將兵討擊之.儁表請堅為左軍司馬,鄕里少年隨在下邳者皆願從.堅又募諸商旅及淮﹑泗精兵,合千許人,與儁幷力奮擊,所向無前.[二]汝﹑潁賊困迫,走保宛城.堅身當一面,登城先入,眾乃蟻附,遂大破之.儁具以狀聞上,拜堅別部司馬.[三]

[一] 獻帝春秋曰:角稱天公將軍,角弟寶稱地公將軍,寶弟梁稱人公將軍.

[二] 吳書曰:堅乘勝深入,於西華失利.堅被創墮馬,臥草中.軍眾分散,不知堅所在.堅所騎驄馬馳還營,踣地呼鳴,將士隨馬於草中得堅.堅還營十數日,創少愈,乃復出戰.

[三] 續漢書曰:儁字公偉,會稽人,少好學,為郡功曹,察孝廉,擧進士.漢朝以討黃巾功拜車騎將軍,累遷河南尹.董卓見儁,外甚親納,而心忌之,儁亦陰備焉.關東兵起,卓議移都,儁輒止卓.卓雖憚儁,然貪其名重,乃表拜太僕以自副.儁被召不肯受拜,因進曰:「國不宜遷,必孤天下望,成山東之結,臣不見其可也.」有司詰曰:「召君受拜而君拒之,不問徙事而君陳之,何也?」儁曰:「副相國,非臣所堪也.遷都非計,臣之所急也.辭所不堪,進臣所急,臣之所宜也.」有司曰:「遷都之事,初無此計也,就有,未露,何所受聞?」儁曰:「相國董卓為臣說之,臣聞之於相國.」有司不能屈,朝廷稱服焉.後為太尉.李傕﹑郭氾相攻,劫質天子公卿,儁性剛,卽發病而卒.

邊章﹑韓遂作亂涼州.中郞將董卓拒討無功.中平三年,遣司空張溫行車騎將軍,西討章等.溫表請堅與參軍事,屯長安.溫以詔書召卓,卓良久乃詣溫.溫責讓卓,卓對應不順.堅時在坐,前耳語謂溫曰:「卓不怖罪而鴟張大語,宜以召不時至,陳軍法斬之.」溫曰:「卓素著威名於隴蜀之閒,今日殺之,西行無依.」堅曰:「明公親率天兵,威震天下,何賴於卓?觀卓所言,不假明公,輕上無禮,一罪也.章﹑遂跋扈經年,當以時進討,而卓云未可,沮軍疑眾,二罪也.卓受任無功,應召稽留,而軒昂自高,三罪也.古之名將,仗鉞臨眾,未有不斷斬以示威者也,是以穰苴斬莊賈,魏絳戮楊干.今明公垂意於卓,不卽加誅,虧損威刑,於是在矣.」溫不忍發擧,乃曰:「君且還,卓將疑人.」堅因起出.章﹑遂聞大兵向至,黨眾離散,皆乞降.軍還,議者以軍未臨敵,不斷功賞,然聞堅數卓三罪,勸溫斬之,無不歎息.拜堅議郞.時長沙賊區星自稱將軍,眾萬餘人,攻圍城邑,乃以堅為長沙太守.到郡親率將士,施設方略,旬月之閒,克破星等.[一]周朝﹑郭石亦帥徒眾起於零﹑桂,與星相應.遂越境尋討,三郡肅然.漢朝錄前後功,封堅烏程侯.[二]

[一] 魏書曰:堅到郡,郡中震服,任用良吏.勅吏曰:「謹遇良善,治官曹文書,必循治,以盜賊付太守.」

[二] 吳錄曰:是時廬江太守陸康從子作宜春長,為賊所攻,遣使求救於堅.堅整嚴救之.主簿進諫,堅答曰:「太守無文德,以征伐為功,越界攻討,以全異國.以此獲罪,何媿海內乎?」乃進兵往救,賊聞而走.

靈帝崩,卓擅朝政,橫恣京城.諸州郡並興義兵,欲以討卓.[一]堅亦擧兵.荊州刺史王叡素遇堅無禮,堅過殺之.[二]比至南陽,眾數萬人.南陽太守張咨聞軍至,晏然自若.[三]堅以牛酒禮咨,咨明日亦答詣堅.酒酣,長沙主簿入白堅:「前移南陽,而道路不治,軍資不具,請收主簿推問意故.」咨大懼欲去,兵陳四周不得出.有頃,主簿復入白堅:「南陽太守稽停義兵,使賊不時討,請收出案軍法從事.」便牽咨於軍門斬之.郡中震慄,無求不獲.[四]前到魯陽,與袁術相見.術表堅行破虜將軍,領豫州刺史.遂治兵於魯陽城.當進軍討卓,遣長史公仇稱將兵從事還州督促軍糧.施帳幔於城東門外,祖道送稱,官屬並會.卓遣步騎數萬人逆堅,輕騎數十先到.堅方行酒談笑,勅部曲整頓行陳,無得妄動.後騎漸益,堅徐罷坐,導引入城,乃謂左右曰:「向堅所以不卽起者,恐兵相蹈籍,諸君不得入耳.」卓兵見堅士眾甚整,不敢攻城,乃引還.[五]堅移屯梁東,大為卓軍所攻,堅與數十騎潰圍而出.堅常著赤罽幘,乃脱幘令親近將祖茂著之.卓騎爭逐茂,故堅從閒道得免.茂困迫,下馬,以幘冠冢閒燒柱,因伏草中.卓騎望見,圍繞數重,定近覺是柱,乃去.堅復相收兵,合戰於陽人,大破卓軍,梟其都督華雄等.是時,或閒堅於術,術懷疑,不運軍糧.[六]陽人去魯陽百餘里,堅夜馳見術,畫地計校,曰:「所以出身不顧,上為國家討賊,下慰將軍家門之私讐.堅與卓非有骨肉之怨也,而將軍受譖潤之言,還相嫌疑!」[七]術踧踖,卽調發軍糧.堅還屯.卓憚堅猛壯,乃遣將軍李傕等來求和親,今堅列疏子弟任刺史﹑郡守者,許表用之.堅曰:「卓逆天無道,蕩覆王室,今不夷汝三族,縣示四海,則吾死不瞑目,豈將與乃和親邪?」復進軍大谷,拒雒九十里.[八]卓尋徙都西入關,焚燒雒邑.堅乃前入至雒,脩諸陵,平塞卓所發掘.[九]訖,引軍還,住魯陽.[一〇]

[一] 江表傳曰:堅聞之,拊膺歎曰:「張公昔從吾言,朝廷今無此難也.」

[二] 案王氏譜,叡字通耀,晉太保祥伯父也.吳錄曰:叡先與堅共擊零﹑桂賊,以堅武官,言頗輕之.及叡擧兵欲討卓,素與武陵太守曹寅不相能,揚言當先殺寅.寅懼,詐作案行使者光祿大夫溫毅檄,移堅,說叡罪過,令收行刑訖,以狀上.堅卽承檄勒兵襲叡.叡聞兵至,登樓望之,遣問欲何為,堅前部答曰:「兵久戰勞苦,所得賞,不足以為衣服,詣使君更乞資直耳.」叡曰:「刺史豈有所吝?」便開庫藏,使自入視之,知有所遺不.兵進及樓下,叡見堅,驚曰:「兵自求賞,孫使君何以在其中?」堅曰:「被使者檄誅君.」叡曰:「我何罪?」堅曰:「坐無所知.」叡窮迫,刮金飲之而死.

[三] 英雄記曰:咨字子儀,潁川人,亦知名.獻帝春秋曰:袁術表堅假中郞將.堅到南陽,移檄太守請軍糧.咨以問綱紀,綱紀曰:「堅鄰郡二千石,不應調發.」咨遂不與.

[四] 吳歷曰:初堅至南陽,咨旣不給軍糧,又不肯見堅.堅欲進兵,恐有後患,乃詐得急疾,擧軍震惶,迎呼巫醫,禱祀山川.遣所親人說咨,言病困,欲以兵付咨.咨聞之,心利其兵,卽將步騎五六百人詣營省望.堅臥與相見.無何,卒然而起,按剣罵咨,遂執斬之.此語與本傳不同.

[五] 英雄記曰:初堅討董卓,到梁縣之陽人.卓亦遣兵步騎五千迎之,陳郡太守胡軫為大督護,呂布為騎督,其餘步騎將校都督者甚眾.軫字文才,性急,預宣言曰:「今此行也,要當斬一靑綬,乃整齊耳.」諸將聞而惡之.軍到廣成,去陽人城數十里.日暮,士馬疲極,當止宿,又本受卓節度宿廣成,秣馬飲食,以夜進兵,投曉攻城.諸將惡憚軫,欲賊敗其事,布等宣言「陽人城中賊已走,當追尋之;不然失之矣」,便夜進軍.城中守備甚設,不可掩襲.於是吏士飢渇,人馬甚疲,且夜至,又無塹壘.釋甲休息,而布又宣言相驚,云「城中賊出來」.軍眾擾亂奔走,皆棄甲,失鞍馬.行十餘里,定無賊,會天明,便還,拾取兵器,欲進攻城.城守已固,穿塹已深,軫等不能攻而還.

[六] 江表傳曰:或謂術曰:「堅若得洛,不可復制,此為除狼而得虎也」,故術疑之.

[七] 江表傳載堅語曰:「大勳垂捷而軍糧不繼,此吳起所以歎泣於西河,樂毅所以遺恨於垂成也.願將軍深思之.」

[八] 山陽公載記曰:卓謂長史劉艾曰:「關東軍敗數矣,皆畏孤,無能為也.惟孫堅小戇,頗能用人,當語諸將,使知忌之.孤昔與周愼西征,愼圍邊﹑韓於金城.孤語張溫,求引所將兵為愼作後駐.溫不聽.孤時上言其形勢,知愼必不克.臺今有本末.事未報,溫又使孤討先零叛羌,以為西方可一時蕩定.孤皆知其不然而不得止,遂行,留別部司馬劉靖將步騎四千屯安定,以為声勢.叛羌更還,欲截歸道,孤小擊輒開,畏安定有兵故也.虜謂安定當數萬人,不知但靖也.時又上章言狀,而孫堅隨周愼行,謂愼求將萬兵造金城,使愼以二萬作後駐,邊﹑韓城中無宿穀,當於外運,畏愼大兵,不敢輕與堅戰,而堅兵足以斷其運道,兒曹用必還羌谷中,涼州或能定也.溫旣不能用孤,愼又不用堅,自攻金城,壞其外垣,馳使語溫,自以克在旦夕,溫時亦自以計中也.而渡遼兒果斷蔡園,愼棄輜重走,果如孤策.臺以此封孤都鄕侯.堅以佐軍司馬,所見與人同,自為可耳.」艾曰:「堅雖時見計,故自不如李傕﹑郭氾.聞在美陽亭北,將千騎步與虜合,殆死,亡失印綬,此不為能也.」卓曰:「堅時烏合義從,兵不如虜精,且戰有利鈍.但當論山東大勢,終無所至耳.」艾曰:「山東兒驅略百姓,以作寇逆,其鋒不如人,堅甲利兵彊弩之用又不如人,亦安得久?」卓曰:「然,但殺二袁﹑劉表﹑孫堅,天下自服從孤耳.」

[九] 江表傳曰:舊京空虛,數百里中無煙火.堅前入城,惆悵流涕.吳書曰:堅入洛,掃除漢宗廟,祠以太牢.堅軍城南甄官井上,旦有五色氣,擧軍驚怪,莫有敢汲.堅令人入井,探得漢傳國璽,文曰「受命于天,旣壽永昌」,方圜四寸,上紐交五龍,上一角缺.初,黃門張讓等作亂,劫天子出奔,左右分散,掌璽者以投井中.山陽公載記曰:袁術將僭號,聞堅得傳國璽,乃拘堅夫人而奪之.江表傳曰:案漢獻帝起居注云,天子從河上還,得六璽於閣上,又太康之初,孫皓送金璽六枚,無有玉,明其偽也.虞喜志林曰:天子六璽者,文曰「皇帝之璽」﹑「皇帝行璽」﹑「皇帝信璽」﹑「天子之璽」﹑「天子行璽」﹑「天子信璽」.此六璽所封事異,故文字不同.獻帝起居注云「從河上還,得六玉璽於閣上」,此之謂也.傳國璽者,乃漢高祖所佩秦皇帝璽,世世傳受,號曰傳國璽.案傳國璽不在六璽之數,安得總其說乎?應氏漢官﹑皇甫世紀,其論六璽,文義皆符.漢宮傳國璽,文曰「受命于天,旣壽且康」.「且康」「永昌」,二字為錯,未知兩家何者為得.金玉之精,率有光氣,加以神器祕寶,輝耀益彰,蓋一代之奇觀,將來之異聞,而以不解之故,強謂之偽,不亦誣乎!陳壽為破虜傳亦除此說,倶惑起居注,不知六璽殊名,與傳國為七者也.吳時無能刻玉,故天子以金為璽.璽雖以金,於文不異.吳降而送璽者送天子六璽,曩所得玉璽,乃古人遺印,不可施用.天子之璽,今以無有為難,不通其義者耳.臣松之以為孫堅於興義之中最有忠烈之稱,若得漢神器而潛匿不言,此為陰懷異志,豈所謂忠烈者乎?吳史欲以為國華,而不知損堅之令德.如其果然,以傳子孫,縱非六璽之數,要非常人所畜,孫皓之降,亦不得但送六璽,而寶藏傳國也.受命于天,奚取於歸命之堂,若如喜言,則此璽今尚在孫門.匹夫懷璧,猶曰有罪,而況斯物哉!

[一〇] 吳錄曰:是時關東州郡,務相兼幷以自彊大.袁紹遣會稽周グ為豫州刺史,來襲取州.堅慨然歎曰:「同擧義兵,將救社稷.逆賊垂破而各若此,吾當誰與戮力乎!」言發涕下.グ字仁明,周昕之弟也.會稽典錄曰:初曹公興義兵,遣人要ググ卽收合兵眾,得二千人,從公征伐,以為軍師.後與堅爭豫州,屢戰失利.會次兄九江太守昂為袁術所攻,グ往助之.軍敗,還鄕里,為許貢所害.

初平三年,術使堅征荊州,擊劉表.表遣黃祖逆於樊﹑鄧之閒.堅擊破之,追渡漢水,遂圍襄陽,單馬行峴山,為祖軍士所射殺.[一]兄子賁,帥將士眾就術,術復表賁為豫州刺史.

[一] 典略曰;堅悉其眾攻表,表閉門,夜遣將黃祖潛出發兵.祖將兵欲還,堅逆與戰.祖敗走,竄峴山中.堅乘勝夜追祖,祖部兵從竹木閒暗射堅,殺之.吳錄曰:堅時年三十七.英雄記曰:堅以初平四年正月七日死.又云:劉表將呂公將兵緣山向堅,堅輕騎尋山討公.公兵下石.中堅頭,應時腦出物故.其不同如此也.

堅四子:策﹑權﹑翊﹑匡.權旣稱尊號,諡堅曰武烈皇帝.[一]

[一] 吳錄曰:尊堅廟曰始祖,墓曰高陵.志林曰:堅有五子:策﹑權﹑翊﹑匡,吳氏所生;少子朗,庶生也,一名仁.

討逆傳

策字伯符.堅初興義兵,策將母徙居舒,與周瑜相友,收合士大夫,江﹑淮閒人咸向之.[一]堅薨,還葬曲阿.已乃渡江居江都.[二]

[一] 江表傳曰:堅為朱儁所表,為佐軍,留家著壽春.策年十餘歲,已交結知名,声譽發聞.有周瑜者,與策同年,亦英達夙成,聞策声聞,自舒來造焉.便推結分好,義同斷金,勸策徙居舒,策從之.

[二] 魏書曰:策當嗣侯,讓與弟匡.

徐州牧陶謙深忌策.策舅吳景,時為丹陽太守,策乃載母徙曲阿,與呂範﹑孫河就景,因緣召募得數百人.興平元年,從袁術.術甚奇之,以堅部曲還策.[一]太傅馬日磾杖節安集關東,在壽春以禮辟策,表拜懷義校尉,術大將喬蕤﹑張勳皆傾心敬焉.術常歎曰:「使術有子如孫郞,死復何恨!」策騎士有罪,逃入術營,隱於內廐.策指使人就斬之,訖,詣術謝.術曰:「兵人好叛,當共疾之,何為謝也?」由是軍中益畏憚之.術初許策為九江太守,已而更用丹陽陳紀.後術欲攻徐州,從廬江太守陸康求米三萬斛.康不與,術大怒.策昔曾詣康,康不見,使主簿接之.策嘗銜恨.術遣策攻康,謂曰:「前錯用陳紀,每恨本意不遂.今若得康,廬江眞卿有也.」策攻康,拔之,術復用其故吏劉勳為太守,策益失望.先是,劉繇為揚州刺史,州舊治壽春.壽春,術已據之,繇乃渡江治曲阿.時吳景尚在丹陽,策從兄賁又為丹陽都尉,繇至,皆迫逐之.景﹑賁退舍歷陽.繇遣樊能﹑于麋﹑陳橫屯江津,張英屯當利口,以距術.術自用故吏琅邪惠衢為揚州刺史,更以景為督軍中郞將,與賁共將兵擊英等,連年不克.策乃說術,乞助景等平定江東.[二]術表策為折衝校尉,行殄寇將軍,兵財千餘,騎數十匹,賓客願從者數百人.比至歷陽,眾五六千.策母先自曲阿徙於歷陽,策又徙母阜陵,渡江轉鬭,所向皆破,莫敢當其鋒,而軍令整肅,百姓懷之.[三]

[一] 吳歷曰:初策在江都時,張紘有母喪.策數詣紘,咨以世務,曰:「方今漢祚中微,天下擾攘,英雄俊傑各擁眾營私,未有能扶危濟亂者也.先君與袁氏共破董卓,功業未遂,卒為黃祖所害.策雖暗稚,竊有微志,欲從袁揚州求先君餘兵,就舅氏於丹陽,收合流散,東據吳會,報讎雪恥,為朝廷外藩.君以為何如?」紘答曰:「旣素空劣,方居衰?之中,無以奉贊盛略.」策曰:「君高名播越,遠近懷歸.今日事計,決之於君,何得不紆慮啓吿,副其高山之望?若微志得展,血讎得報,此乃君之勳力,策心所望也.」因涕泣橫流,顏色不變.紘見策忠壯內發,辭令慷慨,感其志言,乃答曰:「昔周道陵遲,齊﹑晉並興;王室已寧,諸侯貢職.今君紹先侯之軌,有驍武之名,若投丹陽,收兵吳會,則荊﹑揚可一,讎敵可報.據長江,奮威德,誅除羣穢,匡輔漢室,功業侔於桓﹑文,豈徒外藩而已哉?方今世亂多難,若功成事立,當與同好倶南濟也.」策曰:「一與君同符合契,同有永固之分,今便行矣,以老母弱弟委付於君,策無復回顧之憂.」江表傳曰:策徑到壽春見袁術,涕泣而言曰:「亡父昔從長沙入討董卓,與明使君會於南陽,同盟結好;不幸遇難,勳業不終.策感惟先人舊恩,欲自憑結,願明使君垂察其誠.」術甚貴異之,然未肯還其父兵.術謂策曰:「孤始用貴舅為丹陽太守,賢從伯陽為都尉,彼精兵之地,可還依召募.」策遂詣丹陽依舅,得數百人,而為涇縣大帥祖郞所襲,幾至危殆.於是復往見術,術以堅餘兵千餘人還策.

[二] 江表傳曰:策說術云:「家有舊恩在東,願助舅討橫江;橫江拔,因投本土召募,可得三萬兵,以佐明使君匡濟漢室.」術知其恨,而以劉繇據曲阿,王朗在會稽,謂策未必能定,故許之.

[三] 江表傳曰:策渡江攻繇牛渚營,盡得邸閣糧穀﹑戰具,是歲興平二年也.時彭城相薛禮﹑下邳相笮融依繇為盟主,禮據秣陵城,融屯縣南.策先攻融,融出兵交戰,斬首五百餘級,融卽閉門不敢動.因渡江攻禮,禮突走,而樊能﹑于麋等復合眾襲奪牛渚屯.策聞之,還攻破能等,獲男女萬餘人.復下攻融,為流矢所中,傷股,不能乘馬,因自輿還牛渚營.或叛吿融曰:「孫郞被箭已死.」融大喜,卽遣將于茲鄕策.策遣步騎數百挑戰,設伏於後,賊出擊之,鋒刃未接而偽走,賊追入伏中,乃大破之,斬首千餘級.策因往到融營下,令左右大呼曰:「孫郞竟云何!」賊於是驚怖夜遁.融聞策尚在,更深溝高壘,繕治守備.策以融所屯地勢險固,乃舍去,攻破繇別將於海陵,轉攻湖孰﹑江乘,皆下之.

策為人,美姿顏,好笑語,性闊達聽受,善於用人,是以士民見者,莫不盡心,樂為致死.劉繇棄軍遁逃,諸郡守皆捐城郭奔走.[一]吳人嚴白虎等眾各萬餘人,處處屯聚.吳景等欲先擊破虎等,乃至會稽.策曰:「虎等羣盜,非有大志,此成禽耳.」遂引兵渡浙江,據會稽,屠東冶,乃攻破虎等.[二]盡更置長吏,策自領會稽太守,復以吳景為丹陽太守,以孫賁為豫章太守;分豫章為廬陵郡,以賁弟輔為廬陵太守,丹陽朱治為吳郡太守.彭城張昭﹑廣陵張紘﹑秦松﹑陳端等為謀主.[三]時袁術僭號,策以書責而絕之.[四]曹公表策為討逆將軍,封為吳侯.[五]後術死,長史楊弘﹑大將張勳等將其眾欲就策,廬江太守劉勳要擊,悉虜之,收其珍寶以歸.策聞之,偽與勳好盟.勳新得術眾,時豫章上繚宗民萬餘家在江東,策勸勳攻取之.勳旣行,策輕軍晨夜襲拔廬江,勳眾盡降,勳獨與麾下數百人自歸曹公.[六]是時袁紹方彊,而策幷江夏,曹公力未能逞,且欲撫之.[七]乃以弟女配策小弟匡,又為子彰取賁女,皆禮辟策弟權﹑翊,又命揚州刺史嚴象擧權茂才.

[一] 江表傳曰:策時年少,雖有位號,而士民皆呼為孫郞.百姓聞孫郞至,皆失魂魄;長吏委城郭,竄伏山草.及至,軍士奉令,不敢虜略,鷄犬菜茹,一無所犯,民乃大悅,競以牛酒詣軍.劉繇旣走,策入曲阿勞賜將士,遣將陳寶詣阜陵迎母及弟.發恩布令,吿諸縣:「其劉繇﹑笮融等故鄕部曲來降首者,一無所問;樂從軍者,一身行,復除門戶;不樂者,勿強也.」旬日之閒,四面雲集,得見兵二萬餘人,馬千餘匹,威震江東,形勢轉盛.

[二] 吳錄曰:時有烏程鄒他﹑錢銅及前合浦太守嘉興王晟等,各聚眾萬餘或數千.引兵撲討,皆攻破之.策母吳氏曰:「晟與汝父有升堂見妻之分,今其諸子兄弟皆已梟夷,獨餘一老翁,何足復憚乎?」乃舍之,餘咸族誅.策自討虎,虎高壘堅守,使其弟輿請和.許之.輿請獨與策會面約.旣會,策引白刃斫席,輿體動,策笑曰:「聞卿能坐躍,勦捷不常,聊戲卿耳!」輿曰:「我見刃乃然.」策知其無能也,乃以手戟投之,立死.輿有勇力,虎眾以其死也,甚懼.進攻破之.虎奔餘杭,投許昭於虜中.程普請擊昭,策曰:「許昭有義於舊君,有誠於故友,此丈夫之志也.」乃舍之.臣松之案:許昭有義於舊君,謂濟盛憲也,事見後注.有誠於故友,則受嚴白虎也.

[三] 江表傳曰:策遣奉正都尉劉由﹑五官掾高承奉章詣許,拜獻方物.

[四] 吳錄載策使張紘為書曰:「蓋上天垂司過之星,聖王建敢諫之鼓,設非謬之備,急箴闕之言,何哉?凡有所長,必有所短也.去冬傳有大計,無不悚懼;旋知供備貢獻,萬夫解惑.頃聞建議,復欲追遵前圖,卽事之期,便有定月.益使憮然,想是流妄;設其必爾,民何望乎?曩日之擧義兵也,天下之士所以響應者,董卓擅廢置,害太后﹑弘農王,略烝宮人,發掘園陵,暴逆至此,故諸州郡雄豪聞声慕義.神武外振,卓遂內殲.元惡旣斃,幼主東顧,俾保傅宣命,欲令諸軍振旅,於河北通謀黑山,曹操放毒東齊,劉表稱亂南荊,公孫瓚炰烋北幽,劉繇決力江滸,劉備爭盟淮隅,是以未獲承命炰弓戢戈也.今備﹑繇旣破,操等飢餒,謂當與天下合謀,以誅醜類.捨而不圖,有自取之志,非海內所望,一也.昔成湯伐桀,稱有夏多罪;武王伐紂,曰殷有罪罰重哉.此二王者,雖有聖德,宜當君世;如使不遭其時,亦無繇興矣.幼主非有惡於天下,徒以春秋尚少,脅於彊臣,若無過而奪之,懼未合於湯﹑武之事,二也.卓雖狂狡,至廢主自興,亦猶未也,而天下聞其桀虐,攘臂同心而疾之,以中土希戰之兵,當邊地勁悍之虜,所以斯須游魂也.今四方之人,皆玩敵而便戰鬭矣,可得而勝者,以彼亂而我治,彼逆而我順也.見當世之紛若,欲大擧以臨之,適足趣禍,三也.天下神器,不可虛干,必須天贊與人力也.殷湯有白鳩之祥,周武有赤烏之瑞,漢高有星聚之符,世祖有神光之徵,皆因民困悴於桀﹑紂之政,毒苦於秦﹑莽之役,故能芟去無道,致成其志.今天下非患於幼主,未見受命之應驗,而欲一旦卒然登卽尊號,未之或有,四也.天子之貴,四海之富,誰不欲焉?義不可,勢不得耳.陳勝﹑項籍﹑王莽﹑公孫述之徒,皆南面稱孤,莫之能濟.帝王之位,不可橫冀,五也.幼主岐嶷,若除其偪,去其鯁,必成中興之業.夫致主於周成之盛,自受旦﹑奭之美,此誠所望於尊明也.縱使幼主有他改異,猶望推宗室之譜屬,論近親之賢良,以紹劉統,以固漢宗.皆所以書功金石,圖形丹靑,流慶無窮,垂声管絃.捨而不為,為其難者,想明明之素,必所不忍,六也.五世為相,權之重,勢之盛,天下莫得而比焉.忠貞者必曰宜夙夜思惟,所以扶國家之躓頓,念社稷之危殆,以奉祖考之志,以報漢室之恩.其忽履道之節而強進取之欲者,將曰天下之人非家吏則門生也,孰不從我?四方之敵非吾匹則吾役也,誰能違我?盍乘累世之勢,起而取之哉?二者殊數,不可不詳察者也.所貴於聖哲者,以其審於機宜,愼於擧措.若難圖之事,難保之勢,以激羣敵之氣,以生眾人之心,公義故不可,私計又不利,明哲不處,八也.世人多惑於圖緯而牽非類,比合文字以悅所事,苟以阿上惑眾,終有後悔者,自往迄今,未嘗無之,不可不深擇而熟思,九也.九者,尊明所見之餘耳,庶備起予,補所遺忘.忠言逆耳,幸留神聽!」典略云張昭之辭.臣松之以為張昭雖名重,然不如紘之文也,此書必紘所作.

[五] 江表傳曰:建安二年夏,漢朝遣議郞王輔奉戊辰詔書曰:「董卓逆亂,凶國害民.先將軍堅念在平討,雅意未遂,厥筭著聞.策遵善道,求福不回.今以策為騎都尉,襲爵烏程侯,領會稽太守.」又詔勅曰:「故左將軍袁術不顧朝恩,坐創凶逆,造合虛偽,欲因兵亂,詭詐百姓,聞其言以為不然.定得使持節平東將軍領徐州牧溫侯布上術所造惑眾妖妄,知術鴟梟之性,遂其無道,修治王宮,署置公卿,郊天祀地,殘民害物,為禍深酷.布前後上策乃心本朝,欲還討術,為國效節,乞加顯異.夫縣賞俟功,惟勤是與,故便寵授,承襲前邑,重以大郡,榮耀兼至,是策輸力竭命之秋也.其亟與布及行吳郡太守安東將軍陳瑀戮力一心,同時赴討.」策自以統領兵馬,但以騎都尉領郡為輕,欲得將軍號,及使人諷輔,輔便承制假策明漢將軍.是時,陳瑀屯海西,策奉詔治嚴,當與布﹑瑀參同形勢.行到錢塘,瑀陰圖襲策,遣都尉萬演等密渡江,使持印傳三十餘細賊與丹陽﹑宣城﹑涇﹑陵陽﹑始安﹑黟﹑歙諸險縣大帥祖郞﹑焦已及吳郡烏程嚴白虎等,使為內應,伺策軍發,欲攻取諸郡.策覺之,遣呂範﹑徐逸攻瑀於海西,大破瑀,獲其吏士妻子四千人.山陽公載記曰:瑀單騎走冀州,自歸袁紹,紹以為故安都尉.吳錄載策上表謝曰:「臣以固陋,孤持邊陲.陛下廣播高澤,不遺細節,以臣襲爵,兼典名郡.仰榮寵顧,所不克堪.興平二年十二月二十日,於吳郡曲阿得袁術所呈表,以臣行殄寇將軍;至被詔書,乃知詐擅.雖輒捐廢,猶用悚悸.臣年十七,喪失所怙,懼有不任堂構之鄙,以忝析薪之戒,誠無去病十八建功,世祖列將弱冠佐命.臣初領兵,年未弱冠,雖駑懦不武,然思竭微命.惟術狂惑,為惡深重.臣憑威靈,奉辭伐罪,庶必獻捷,以報所授.」臣松之案:本傳云孫堅以初平三年卒,策以建安五年卒,策死時年二十六,計堅之亡,策應十八,而此表云十七,則為不符.張璠漢紀及吳歷並以堅初平二年死,此為是而本傳誤也.江表傳曰:建安三年,策又遣使貢方物,倍於元年所獻.其年,制書轉拜討逆將軍,改封吳侯.

[六] 江表傳曰:策被詔勅,與司空曹公﹑衞將軍董承﹑益州牧劉璋等幷力討袁術﹑劉表.軍嚴當進,會術死,術從弟胤﹑女壻黃猗等畏懼曹公,不敢守壽春,乃共舁術棺柩,扶其妻子及部曲男女,就劉勳於皖城.勳糧食少,無以相振,乃遣從弟偕吿糴於豫章太守華歆.歆郡素少穀,遣吏將偕就海昬﹑上繚,使諸宗帥共出三萬斛米以與偕.偕往歷月,纔得數千斛.偕乃報勳,具說形狀,使勳來襲取之.勳得偕書,使潛軍到海昬邑下.宗帥知之,空壁逃匿,勳了無所得.時策西討黃祖,行及石城,聞勳輕身詣海昬,便分遣從兄賁﹑輔率八千人於彭澤待勳,自與周瑜率二萬人步襲皖城,卽克之,得術百工及鼓吹部曲三萬餘人,幷術﹑勳妻子.表用汝南李術為廬江太守,給兵三千人以守皖,皆徙所得人東詣吳.賁﹑輔又於彭澤破勳.勳走入楚江,從尋陽步上到置馬亭,聞策等已克皖,乃投西塞.至沂,築壘自守,吿急於劉表,求救於黃祖.祖遣太子射船軍五千人助勳.策復就攻,大破勳.勳與偕北歸曹公,射亦遁走.策收得勳兵二千餘人,船千艘,遂前進夏口攻黃祖.時劉表遣從子虎﹑南陽韓晞將長矛五千,來為黃祖前鋒.策與戰,大破之.吳錄載策表曰:「臣討黃祖,以十二月八日到祖所屯沙羨縣.劉表遣將助祖,並來趣臣.臣以十一日平旦部所領江夏太守行建威中郞將周瑜﹑領桂陽太守行征虜中郞將呂範﹑領零陵太守行蕩寇中郞將程普﹑行奉業校尉孫權﹑行先登校尉韓當﹑行武鋒校尉黃蓋等同時倶進.身跨馬櫟陳,手擊急鼓,以齊戰勢.吏士奮激,踊躍百倍,心精意果,各競用命.越渡重塹,迅疾若飛.火放上風,兵激煙下,弓弩並發,流矢雨集,日加辰時,祖乃潰爛.鋒刃所截,焱火所焚,前無生寇,惟祖迸走.獲其妻息男女七人,斬虎狼韓晞已下二萬餘級,其赴水溺者一萬餘口,船六千餘艘,財物山積.雖表未禽,祖宿狡猾,為表腹心,出作爪牙,表之鴟張,以祖氣息,而祖家屬部曲,掃地無餘,表孤特之虜,成鬼行尸.誠皆聖朝神武遠振,臣討有罪,得效微勤.」

[七] 吳歷曰:曹公聞策平定江南,意甚難之,常呼「猘兒難與爭鋒也」.

建安五年,曹公與袁紹相拒於官渡,策陰欲襲許,迎漢帝,[一]密治兵,部署諸將.未發,會為故吳郡太守許貢客所殺.先是,策殺貢,貢小子與客亡匿江邊.策單騎出,卒與客遇,客擊傷策.[二]創甚,請張昭等謂曰:「中國方亂,夫以吳﹑越之眾,三江之固,足以觀成敗.公等善相吾弟!」呼權佩以印綬,謂曰:「擧江東之眾,決機於兩陳之閒,與天下爭衡,卿不如我;擧賢任能,各盡其心,以保江東,我不知卿.」至夜卒,時年二十六.[三]

[一] 吳錄曰:時有高岱者,隱於餘姚,策命出使會稽丞陸昭逆之,策虛己候焉.聞其善左傳,乃自玩讀,欲與論講.或謂之曰:「高岱以將軍但英武而已,無文學之才,若與論傳而或云不知者,則某言符矣.」又謂岱曰:「孫將軍為人,惡勝己者,若每問,當言不知,乃合意耳.如皆辨義,比必危殆.」岱以為然,及與論傳,或答不知.策果怒,以為輕己,乃囚之.知交及時人皆露坐為請.策登樓,望見數里中填滿.策惡其收眾心,遂殺之.岱字孔文,吳郡人也.受性聰達,輕財貴義.其友士拔奇,取於未顯,所友八人,皆世之英偉也.太守盛憲以為上計,擧孝廉.許貢來領郡,岱將憲避難於許昭家,求救於陶謙.謙未卽救,岱憔悴泣血,水漿不入口.謙感其忠壯,有申包胥之義,許為出軍,以書與貢.岱得謙書以還,而貢已囚其母.吳人大小皆為危竦,以貢宿忿,往必見害.岱言在君則為君,且母在牢獄,期於當往,若得入見,事自當解.遂通書自白,貢卽與相見.才辭敏捷,好自陳謝,貢登時出其母.岱將見貢,語友人張允﹑沈ビン令豫具船,以貢必悔,當追逐之.出便將母乘船易道而逃.貢須臾遣人追之,令追者若及於船,江上便殺之,已過則止.使與岱錯道,遂免.被誅時,年三十餘. 江表傳曰:時有道士琅邪于吉,先寓居東方,往來吳會,立精舍,燒香讀道書,制作符水以治病,吳會人多事之.策嘗於郡城門樓上,集會諸將賓客,吉乃盛服杖小函,漆畫之,名為仙人鏵,趨度門下.諸將賓客三分之二下樓迎拜之,掌賓者禁呵不能止.策卽令收之.諸事之者,悉使婦女入見策母,請救之.母謂策曰:「于先生亦助軍作福,醫護將士,不可殺之.」策曰:「此子妖妄,能幻惑眾心,遠使諸將不復相顧君臣之禮,盡委策下樓拜之,不可不除也.」諸將復連名通白事陳乞之,策曰:「昔南陽張津為交州刺史,舍前聖典訓,廢漢家法律,嘗著絳帕頭,鼓琴燒香,讀邪俗道書,云以助化,卒為南夷所殺.此甚無益,諸君但未悟耳.今此子已在鬼籙,勿復費紙筆也.」卽催斬之,縣首於市.諸事之者,尚不謂其死而云尸解焉,復祭祀求福.志林曰:初順帝時,琅邪宮崇詣闕上師于吉所得神書於曲陽泉水上,白素朱界,號太平靑領道,凡百餘卷.順帝至建安中,五六十歲,于吉是時近已百年,年在耄悼,禮不加刑.又天子巡狩,問百年者,就而見之,敬齒以親愛,聖王之至教也.吉罪不及死,而暴加酷刑,是乃謬誅,非所以為美也.喜推考桓王之薨,建安五年四月四日.是時曹﹑袁相攻,未有勝負.案夏侯元讓與石威則書,袁紹破後也.書云:「授孫賁以長沙,業張津以零﹑桂.」此為桓王於前亡,張津於後死,不得相讓,譬言津之死意矣.臣松之案:太康八年,廣州大中正王範上交廣二州春秋.建安六年,張津猶為交州牧.江表傳之虛如志林所云.搜神記曰:策欲渡江襲許,與吉倶行.時大旱,所在熇厲.策催諸將士使速引船,或身自早出督切,見將吏多在吉許,策因此激怒,言:「我為不如于吉邪,而先趨務之?」便使收吉.至,呵問之曰:「天旱不雨,道塗艱澀,不時得過,故自早出,而卿不同憂戚,安坐船中作鬼物態,敗吾部伍,今當相除.」令人縛置地上暴之,使請雨,若能感天日中雨者,當原赦,不爾行誅.俄而雲氣上蒸,膚寸而合,比至日中,大雨總至,溪澗盈溢.將士喜悅,以為吉必見原,並往慶慰.策遂殺之.將士哀惜,共藏其尸.天夜,忽更興雲覆之;明旦往視,不知所在.案江表傳﹑搜神記于吉事不同,未詳孰是.

[二] 江表傳曰:廣陵太守陳登治射陽,登卽瑀之從兄子也.策前西征,登陰復遣閒使,以印綬與嚴白虎餘黨,圖為後害,以報瑀見破之辱.策歸,復討登.軍到丹徒,須待運糧.策性好獵,將步騎數出.策驅馳逐鹿,所乘馬精駿,從騎絕不能及.初,吳郡太守許貢上表於漢帝曰:「孫策驍雄,與項籍相似,宜加貴寵,召還京邑.若被詔不得不還,若放於外必作世患.」策候吏得貢表,以示策.策請貢相見,以責讓貢.貢辭無表,策卽令武士絞殺之.貢奴客潛民閒,欲為貢報讐.獵日,卒有三人卽貢客也.策問:「爾等何人?」答云:「是韓當兵,在此射鹿耳.」策曰:「當兵吾皆識之,未嘗見汝等.」因射一人,應弦而倒.餘二人怖急,便擧弓射策,中頬.後騎尋至,皆刺殺之.九州春秋曰:策聞曹公北征柳城,悉起江南之眾,自號大司馬,將北襲許,恃其勇,行不設備,故及於難.孫盛異同評曰:凡此數書,各有所失.孫策雖威行江外,略有六郡,然黃祖乘其上流,陳登閒其心腹,且深險彊宗,未盡歸復,曹﹑袁虎爭,勢傾山海,策豈暇遠師汝﹑潁,而遷帝於吳﹑越哉?斯蓋庸人之所鑒見,況策達於事勢者乎?又案袁紹以建安五年至黎陽,而策以四月遇害,而志云策聞曹公與紹相拒於官渡,謬矣.伐登之言,為有證也.又江表傳說策悉識韓當軍士,疑此為詐,便射殺一人.夫三軍將士或有新附,策為大將,何能悉識?以所不識,便射殺之,非其論也,又策見殺在五年,柳城之役在十二年,九州春秋乖錯尤甚矣.臣松之案:傅子亦云曹公征柳城,將襲許.記述若斯,何其疎哉!然孫盛所譏,未為悉是.黃祖始被策破,魂氣未反,但劉表君臣本無兼幷之志,雖在上流,何辧規擬吳會?策之此擧,理應先圖陳登,但擧兵所在,不止登而已.于時彊宗驍帥,祖郞﹑嚴虎之徒,禽滅已盡,所餘山越,蓋何足慮?然則策之所規,未可謂之不暇也.若使策志獲從,大權在手,淮﹑泗之閒,所在皆可都,何必畢志江外,其當遷帝於揚﹑越哉?案魏武紀,武帝以建安四年已出屯官渡,策未死之前,久與袁紹交兵,則國志所云不為謬也.許貢客.無聞之小人,而能感識恩遇,臨義忘生,卒然奮發,有侔古烈矣.詩云:「君子有徽猷,小人與屬.」貢客其有焉.

[三] 吳歷曰:策旣被創,醫言可治,當好自將護,百日勿動.策引鏡自照,謂左右曰:「面如此,尚可復建功立事乎?」推几大奮,創皆分裂,須臾卒.搜神記曰:策旣殺于吉,每獨坐,彷彿見吉在左右,意深惡之,頗有失常.後治創方差,而引鏡自照,見吉在鏡中,顧而弗見,如是再三,因撲鏡大叫,創皆崩裂,須臾而死.

權稱尊號,追諡策曰長沙桓王,封子紹為吳侯,後改封上虞侯.紹卒,子奉嗣.孫皓時,訛言謂奉當立,誅死.

評曰:孫堅勇摯剛毅,孤微發迹,導溫戮卓,山陵杜塞,有忠壯之烈.策英氣傑濟,猛銳冠世,覽奇取異,志陵中夏.然皆輕佻果躁,隕身致敗.且割據江東,策之基兆也,而權尊崇未至,子止侯爵,於義儉矣.[一]

[一] 孫盛曰:孫氏兄弟皆明略絕羣.創基立事,策之由也,自臨終之日,顧命委權.夫意氣之閒,猶有刎頸,況天倫之篤愛,豪達之英鑒,豈吝名號於旣往,違本情之至實哉?抑將遠思虛盈之數,而愼其名器者乎?夫正本定名,為國之大防;杜絕疑貳,消釁之良謨.是故魯隱矜義,終致羽父之禍;宋宣懷仁,卒有殤公之哀.皆心存小善,而不達經綸之圖;求譽當年,而不思貽厥之謀.可謂輕千乘之國,蹈道則未也.孫氏因擾攘之際,得奮其縱橫之志,業非積德之基,邦無磐石之固,勢一則祿祚可終,情乖則禍亂塵起,安可不防微於未兆,慮難於將來?壯哉!策為首事之君,有吳開國之主;將相在列,皆其舊也,而嗣子弱劣,析薪弗荷,奉之則魯桓﹑田巿之難作,崇之則與夷﹑子馮之禍興.是以正名定本,使貴賤殊邈,然後國無陵肆之責,後嗣罔猜忌之嫌,羣情絕異端之論,不逞杜覬覦之心;於情雖違,於事雖儉,至於括囊遠圖,永保維城,可謂為之于其未有,治之于其未亂者也.陳氏之評,其未達乎!