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原著作者:【むじん書院】

周瑜伝

周瑜公瑾といい、廬江の人である。従祖父周景、周景の子周忠はいずれも太尉となった。[一](周瑜の)父周異洛陽県令である。

[一] 謝承の『後漢書』に言う。周景は字を仲嚮といい、若くして廉潔有能によって称せられ、学問に明るいことから孝廉に推挙され、三公の府(役所)に招かれた。のちに予州刺史となったとき、汝南陳蕃を招いて別駕とし、潁川李膺・荀緄・杜密沛国朱寓従事としたが、みな天下英俊の士であった。次第に昇進して尚書令になり、ついに太尉の地位に昇った。 張璠の『漢紀』に言う。周景の父は周栄といい、章帝・和帝の御代に尚書令となった。はじめ周景は州牧・太守の地位を歴任し、善行を好んで士人を愛し、毎年孝廉を推挙するたび、(その人を)招き入れて奥座敷に上がらせ、家族とともに宴会を楽しんだ。そうしたことは三・四回もあって、餞別を送るにも手を尽くし、さらにその人の子弟を任用してやった。いつも言うには、「臣下を息子にしてしまう。政において(これ以上の)何があろう?」それ以前、司徒韓縯河内太守であったころ、公務を心がけて私心なく、推挙した者には一言述べるに留まり、その後はその人の門戸へは(恩恵を)及ぼさなかった。言うには、「は良き人物を推挙するが、恩愛を一つの家に偏らせまいぞ。」当時の論者には両方を非難する者があった。

周瑜は成長すると姿貌の持ち主になった。はじめ孫堅は義兵を起こして董卓を討伐したとき、住まいを舒に移した。孫堅の子孫策は周瑜と同い年で、ただ二人きりで仲良くなった。周瑜は道の南向かいの大邸宅を宿所として孫策に差し出し、表座敷に昇って(孫策の)母に拝礼し、足りない物があれば分け合った。周瑜の従父周尚丹陽太守になったので、周瑜は出かけていって彼を訪ねた。ちょうどそのとき孫策は(長江を)東へと渡って歴陽に行こうとしていたが、手紙を飛ばして周瑜に知らせたので、周瑜は軍勢を率いて孫策を出迎えた。孫策は大喜びして言った。「を得たからには事業に目処が付いたぞ。」そのまま横江・当利攻撃に従軍し、みな陥落させた。そののち長江を渡って秣陵を攻撃し、笮融・薛礼を打ち破り、転進して湖孰・江乗に下向して曲阿に進入した。劉繇が遁走したとき、孫策の軍勢はすでに数万人に達していた。そこで(孫策は)周瑜に告げた。「吾はこの軍勢でもって呉会(呉郡・会稽郡)を切り取り、山越を平定するのに充分だと思う。卿は帰還して丹陽を鎮撫していてくだされ。」周瑜は帰還した。しばらくして袁術が従弟袁胤を派遣して周尚に代えて太守にすると、周瑜は周尚とともに寿春に帰還した。袁術は周瑜を将にしたいと思ったが、周瑜は袁術が結局成功できないだろうと観測したので、居巣県長になりたいと請願し、東方へ帰還する口実とした。袁術がそれを聞き入れたので、そのまま居巣を経由してへと帰還した。この歳は建安三年である。孫策は自ら周瑜を出迎えて建威中郎将の職を授け、すぐさま軍勢二千人、騎馬五十匹を与えた。[一]周瑜はこのとき二十四歳、呉ではみな「周郎」と呼んだ。周瑜の恩恵・信義は廬江で顕著であったので、出向して牛渚を固め、のちに春穀の県長を領した。しばらくして孫策は荊州を略取せんと企て、周瑜を中護軍とし、江夏太守を領させた。皖城攻めに従軍し、これを陥落させた。そのとき橋公の二人のを手に入れたが、いずれも中国一の色香であった。孫策は自ら大橋を納れ、周瑜は小橋を納れた。[二]また尋陽に進出して劉勲を破り、江夏を討伐した。引き返して予章・廬陵を平定し、巴丘に駐留した。[三]

[一] 『江表伝』に言う。孫策はまた周瑜に鼓吹を給付して館舎を用意してやり、下賜(の重さ)は比肩する者がなかった。孫策は布令を下して言った。「周公瑾は英俊異才であり、とは総角のころからの好誼、骨肉の本分があった。以前に丹陽にいたときなどは、軍勢および艦船・糧秣を徴発してくれ、大事業を完成できた。徳義を論じて功績に報いたが、これでもまだ充分な報酬ではあるまい。」

[二] 『江表伝』に言う。孫策はのんびりとして周瑜に冗談を言った。「橋公の二人の女は生き別れになったが、吾ら二人を婿にできたのだから喜んでもいいだろうね。」

[三] 臣裴松之は考える。孫策はこのとき初めて予章・廬陵を手に入れたのだが、それでもまだ江夏を平定できていなかった。周瑜が鎮撫したのは今の巴丘県に相当し、後に卒去したという巴丘とは同じ場所ではない。

五年、孫策が薨去し、孫権が事業を統括することになった。周瑜は軍勢を率いて埋葬に駆けつけ、そのまま呉に留まり、中護軍として長史張昭とともにもろもろの事務を管掌した。[一]十一年、孫瑜らを監督して麻・保、二つの屯所を討伐し、その頭目を梟首したが、捕虜は一万人余りに上った。引き揚げて官亭を守備した。江夏太守黄祖が将鄧龍に軍勢数千人を率いて柴桑に侵入させると、周瑜は追討して攻撃し、鄧龍を生け捕りにして呉に送り飛ばした。十三年春、孫権は江夏を討伐したとき、周瑜を前部大督とした。

[一] 『江表伝』に言う。曹公曹操)は袁紹を撃破したばかりで、軍勢の威信は日に日に盛んになっていた。建安七年、(曹公は)手紙を下して子息を人質に出すよう孫権に要求してきた。孫権は群臣を召しだして会議を開いたが、張昭・秦松らはためらって決断することができなかった。孫権は内心人質を送りたくはなかったので、ただ周瑜だけを連れて母の御前へ参って相談した。周瑜は言った。「むかしの国が荊山の側に封ぜられたばかりのころ、土地は百里にも満たなかったのですが、後継者が賢明有能で、領土を広げて境界を開き、に基礎を打ち立てて、ついに荊陽を根拠とし、(その勢力は)南海にまで行き着き、事業を伝えて国祚を延ばすこと九百年余りになりました。いま将軍は父兄の資質を受け継ぎ、六郡の軍勢を兼併しておられ、軍勢は精強にして食糧は多量、将兵は命令を奉じており、山を鋳れば銅となり海を煮れば塩となり、領内は富みあふれて人々は混乱を望まず、そこかしこで舟は帆を張って朝に出発して夕に到着し、士風は強く勇ましく向かうところ敵なしであります。何の差し障りがあって人質を送ろうとなさるのです?ひとたび人質をお入れになれば、曹氏と相互協力しないわけにはいかず、相互協力すればお召しの命令に従わざるを得ず、やすやすと他人に制御されることになりましょうぞ。(手に入る物は)せいぜい侯の印綬一つと奴隷十人余り、車を数乗に馬を数匹に過ぎますまいに、どうして南面してと称するのと同列にできましょうか?派遣など致さず、ゆっくりと変化の起こるのを待つに越したことはありません。もし曹氏がよく義を行って天下を正すことができたならば、(そのあと)将軍が彼にお仕えしても遅くはないでしょう。もし(彼が)暴虐混乱を企てるようでしたら、兵事は火炎のようなものでありますから、自分が火傷を負わぬわけには参りますまい。(そのとき)将軍は勇気を包み隠して威勢を抑え込み、天命を待たれればよく、どうして人質をお送りする理由がありましょうか!」孫権の母は言った。「公瑾の意見は正しい。公瑾は伯符(孫策)と同い年で一月若いだけですが、我は彼を我が子のように見ておりますよ。も彼に兄事なさい。」ついに人質を送ることはなかった。

その年九月、曹公が荊州に進入すると、劉琮は軍勢をこぞって降服した。曹公がその水軍を手に入れ、水兵・歩兵は数十万人になったので、(呉の)将兵たちはそれを聞いてみな恐懼した。孫権は配下の者どもを引見して計略を諮った。論者はみな言った。「曹公は豺虎でありながら漢の宰相を名分とし、天子を擁して四方を征討して、朝廷の御為を口実にして行動しております。今日これを拒めば、事態はさらに容易ならざることになりましょう。そのうえ将軍の大きな味方であり、曹操に対抗させているのは長江であります。いま曹操が荊州を手に入れてその土地を覆い、(かつて)劉表が調練した水軍は蒙衝・闘艦が千単位もございましたが、曹操は(それらの艦船を)ことごとく長江沿岸に浮かべ、歩兵を兼併して水陸両面から下ってきておりますが、これは長江の険阻さが、とうに我らと共有されたということであります。そのうえ兵力の多寡はまた論ずべくもありません。大計を愚考するに、彼を迎え入れるに越したことはありますまい。」周瑜は言った。「左様ではございますまい。曹操は漢の宰相を名分としておりますが、その実、漢の国賊であります。将軍は神のごとき武勇と英雄たる才覚、加えて父兄の功業をもって江東に割拠なさり、地方は数千里になり、軍勢は精強にして役立ち、(配下の)英雄どもは業務を楽しんでいるのです。少なくとも、天下を横行して漢家のために残虐汚穢を取り除くべきであって、ましてや曹操が自分から死ににやって来たというのに、それを迎え入れることなどありましょうや?将軍の御為に計略を立てることを許されたい。今たとい北方が既に安定されて曹操に内憂がないとして、長期間持久して境界を争いに来ることができたとしても、またどうして我らと船楫において対等に勝負することなどできましょうか?いま北方は未だ平安でない上、加えて馬超・韓遂がなお関西にいて曹操の後患となっているのです。しかも鞍馬をてて舟楫を手に取り、呉越と力比べをするとなると、もともと中国の得意とするところではありません。さらに今は盛寒にあたり、馬に(与える)藁草なく、中国の軍勢を駆り出してはるばる江湖一帯に渡らせても、水や土に慣れず、必ずや疫病が発生するでありましょう。これら数点は軍勢を動かす際の懸案事項でありますが、しかしながら曹操はそれらをみな冒しているのです。将軍が曹操を生け捕りになさるのも今日明日のことでありましょう。周瑜は精兵三万人をお預かりして夏口に進駐したいと存じます。将軍の御為に彼を撃破することをお約束いたしましょう。」孫権は言った。「老賊めは漢を廃して自分が立とうと願っておったが、ただ二袁・呂布・劉表、それに孤だけを心配していた。いま数々の英雄たちはすでに滅亡し、ただ孤だけが残っているのだ。孤と老賊は情勢からいって両立しない。君が撃つべしと言うのは、きわめて孤(の意見)と適合しておる。これは天が君を孤に授けてくれたのである。」[一]

[一] 『江表伝』に言う。孫権は抜刀して眼前の文机を切り、「諸将官吏のうちに再び曹操を迎え入れるべきと敢えて言う者があれば、この机と同じだぞ!」と言った。会見が終わった夜になると、周瑜が拝謁を求めて言った。「諸人はただ曹操の手紙を見ただけで水兵・歩兵八十万と言い、おのおの怖じ気付いてしまってその虚実を料簡しようとせず、拙速にもああした議論を展開いたしておりますが、はなはだ根拠無きことでございます。いま事実に基づいて愚考いたしますと、彼が率いてくる中国人は十五・六万人に過ぎず、しかも軍勢はすでに久しく疲労しており、手に入れた劉表の軍勢とてせいぜい七・八万のみで、今なお狐疑を抱いております。疲労した士卒をもって狐疑の軍勢を制御するというのですから、人数が多いとはいえ、まるで畏るるに足りぬのであります。精兵五万を得られればきっと彼を制するには充分です。将軍よ、ご憂慮召されますな。」孫権は背中を撫でながら言った。「公瑾よ、卿の言葉がそこに帰結するのなら、きわめて孤の気持ちに適合しておる。子布・文表といった諸人は、おのおのが妻子を顧みて私情を差し挟み、いたく失望させられた。ただ卿と子敬だけが孤に賛同してくれた。これは天が卿たち二人によって孤を助けてくれているのだ。五万の軍勢を卒爾集合させることは困難であるが、既に三万人を選抜し、艦船・食糧・武具などは全て整っておる。卿は子敬・程公とともにすぐさま先発してくれ。孤は人数を断続的に徴発し、多量の物資・食糧を搭載して卿の後援をしよう。卿がよく彼を仕切れるならまこと決着を付けてくれ。思い通りにならないことがあったとしても、すぐさま帰還して孤のもとに駆け付けてくれれば、孤が曹操と決着を付けるだろう。」 臣裴松之が考えるに、曹公を拒絶する計画を建てたのは実際魯粛より始まる。当時、周瑜は鄱陽に使いしており、魯粛が周瑜を呼び寄せるよう孫権に勧めたことから、周瑜は鄱陽への使いから帰ったのであり、ただ内心では魯粛と一致していたため、ともに大勲を成し遂げることができたのだ。本伝ではただ、孫権が配下の者どもを引見して計略を諮ると、周瑜は衆人の議論を排除し、ただ一人対抗する計略を述べたとのみ言い、しまいまで魯粛が先に計略を持っていたとは言わない。まるで魯粛の善を盗み取ったようなものだ。

このとき劉備は曹公に打ち破られ、南方へ引き揚げて長江を渡ろうとしていたが、当陽で魯粛と遭遇し、かくて共同して計画を立てることになった。そこで夏口に進駐し、諸葛亮を孫権のもとに派遣した。孫権はかくて周瑜および程普らをやって劉備と協力して曹公を迎撃させ、赤壁で対峙した。時に曹公の軍勢はすでに疾病を抱えており、初めに一度交戦しただけで曹公の軍は敗退し、長江北岸に引き揚げていった。周瑜らは南岸に布陣した。周瑜の部将黄蓋が言った。「いま賊は多勢、我は寡勢であって持久戦は困難です。しかしながら曹操軍を観察いたしまするに、艦船をまっすぐ連ねてとが接しております。焼き討ちにすれば敗走させられましょうぞ。」そこで蒙衝・闘艦数十艘を選び、薪や草を詰め込んでその中に膏油を注ぎ、帷幕で包んで上に牙旗を建て、あらかじめ曹公に手紙を送り、偽りの降服をしようとした。[一]またあらかじめ走舸を準備して、それぞれ大船の後方に繋いでおき、それから行列を作って前進した。曹公軍の官吏・兵士らはみな首を伸ばして遠望し、指差しながら黄蓋が降服してきたと言った。黄蓋はもろもろの船を放ち、時を同じくして火を起こした。時に風は猛り狂い、ことごとく岸辺の陣営に延焼した。しばらくすると煙や炎が天に漲り、人馬のうち焼けたり溺れたりして死ぬ者は非常に多かった。軍はついに敗退し、引き返して南郡に楯籠った。[二]劉備が周瑜らと再び一緒になって追走すると、曹公は曹仁らを江陵城の守備に残して、まっすぐ自分は北方へ帰っていった。

[一] 『江表伝』に載せる黄蓋の手紙に言う。「黄蓋は孫氏から手厚い恩を受け、いつも将帥となって処遇は薄いものではありませんでした。しかしながら天下の事を顧みれば大勢というものがあり、江東六郡の山越の人々を用いて中国百万の軍勢にぶつかったとしても、(軍勢の)多寡が釣り合っていないことは、海内がそろって観察するところであります。東方の将校・官吏は愚者・智者(の区別)なく、みなそれが不可能であることを存じておりますが、ただ周瑜・魯粛だけはひたすら浅はかな考えを抱き、意味を理解できずにおるのです。今日ご命令に服しますのは、その実際的計算からであります。周瑜が督領しているのはもともと打ち砕きやすきものであります。矛を交えた日には黄蓋が前部(先鋒)となり、情勢を見ながら変化を起こし、命を投げ出すのも間近のことです。」曹公は特別に使者を引見して親しげに質問し、口約束をして言った。「汝が嘘を言っているのではないか、ただそれだけを恐れているのだ。黄蓋がもし信義を守ったならば、空前絶後の爵位恩賞を授けようぞ。」

[二] 『江表伝』に言う。戦いの日、黄蓋はあらかじめ快速船十艘を選び、乾燥した荻や柴をその中に積載し、魚膏を注いで赤い幔幕で覆い、旌旗・龍幡を船上に建てた。時に東南の風は激しく、そこで十艘を先頭に立てて、長江の真ん中で帆を挙げた。黄蓋は火を掲げて将校たちに告げ、兵士どもに声をそろえて叫ばせた。「降服だ!」曹操の軍人たちはみな陣営を出て立ち見したが、北軍を去ること二里余りのところで、時を同じくして火の手が挙がった。火は激しく風は猛り、向かってくる船は箭の如く、埃は飛んで絶爛し、北方の船を焼き尽くして岸辺の陣営まで延焼した。周瑜らが軽装の精鋭を率いてその後方から押し寄せ、太鼓をして大いに進撃すると、北軍は大壊滅して曹公は撤退逃走した。

周瑜はさらに程普とともに南郡へと進撃し、曹仁と長江を挟んで対峙した。両軍がまだ矛先を交えないうち、[一]周瑜はすぐさま甘寧を派遣して事前に夷陵を占拠させた。曹仁が歩騎を分けて別働隊に甘寧を攻囲させたので、甘寧は周瑜に危急を報告した。周瑜は呂蒙の計略を採用し、淩統を残して背後を守らせ、自身では呂蒙とともに(長江を)遡上して甘寧を救いに行った。甘寧への包囲が解かれたのち、(長江を)渡河して北岸に屯し、(曹仁と)期日を決めて大決戦を行った。周瑜は自ら馬に跨って櫟陣したが、そのとき流れ矢が右の脇腹に命中した。傷がひどく、急遽撤退した。その後、曹仁は周瑜が伏したまま未だ立ち上がれずにいると聞き、軍勢を率いて(呉の)陣営に取り付いてきた。周瑜はようようのことで自分の身を起こし、軍営を視察して官吏や兵士を激励した。曹仁はそれを見て、ついに(江陵城を放棄して)撤退した。

[一] 『呉録』に言う。劉備が周瑜に告げた。「曹仁が江陵城を守っておるが、城中の兵糧は多く、(我らにとっては)障害であると言っていいだろう。張益徳張飛)に千人を率いて卿に従軍させるから、卿は二千人を分けて我に随行させてくれ。それぞれが夏水から入って曹仁の背後を遮断するようにすれば、曹仁はこなたの進入を聞くや、必ず逃げ出すだろう。」周瑜は二千人を彼に加勢させた。

孫権は周瑜を偏将軍に任命して南郡太守を領させ、下雋漢昌劉陽州陵奉邑とし、江陵に据え置いた。劉備は左将軍のまま荊州牧を領し、公安で統治を行った。劉備がに参詣して孫権と会見したとき、周瑜は上疏して言った。「劉備には梟雄の相があるうえ、関羽・張飛といった熊虎の将がおり、久しく屈従して他人のために働いたりはきっといたしますまい。(国家の)大計を愚考いたしますに、劉備を移して呉に留め、盛大に宮殿をこしらえ、彼のために美女や娯楽を増やし、そうして彼の耳目を喜ばせてやるがよろしゅうございます。あの二人を離ればなれにして各方面に配置し、周瑜のような(立場の)者に味方させて戦闘に参加させれば、大事業を完成させることができるのです。いまみだりに土地を割譲して彼の元手にしてやり、あの三人を集結させて国境にまとめて置いておくのは、おそらくは蛟龍が雲雨を得たようなもので、しまいには池の中のものではなくなってしまいますぞ。」孫権は曹公が北方におり、手広く英雄たちを集める必要があり、同時に劉備を制御し続けるのが困難であることを危惧し、それゆえ聞き入れなかった。

その当時、劉璋益州牧であったが、外部からは張魯の侵略を受けていた。周瑜はそこで京に参詣し、孫権に拝謁して言った。「いま曹操は挫折したばかりで、まさに憂慮を体内に抱えているのであります。将軍と軍勢を連ねて事を構えることなどできますまい。奮威孫瑜)どのとともに進軍してを奪取し、蜀を得たうえは張魯を併合して奮威どのにその地を固守していただき、馬超と好を結んで同盟したいと存じます。周瑜が帰還してから、将軍とともに襄陽を占拠して曹操を追い詰めれば、北方のことは片付けることができましょう。」孫権はそれを許可した。周瑜は江陵に帰還して軍装に着替えたが、しかし道中、巴丘にて病のため卒去した。[一]時に三十六歳であった。孫権は白衣で哀悼を捧げ、左右の者たちを感動させた。亡骸が呉に帰ってくることになると、今度はそれを蕪湖まで出迎え、(葬儀に必要な)もろもろの費用は一切合切まかなってやった。のちに布令を下して言った。「の将軍周瑜・程普について、彼らが賓客を召し抱えていたとしても、すべて問責してはならない。」むかし周瑜は友人として孫策に処遇されていたが、(その母)太妃はそのうえ孫権にも彼へ兄事させた。そのとき孫権の官位は将軍であったが、諸将や賓客たちは(彼を軽んじ、)礼をするにも簡略さを優先した。しかし周瑜だけは真っ先に敬意を尽くし、すぐさま臣下としての礼節を執った。度量は寛大であって、ほとんどの場合は他人の心をつかむことができた。ただ程普とだけは仲が良くなかった。[二]

[一] 臣裴松之が思案するに、周瑜が蜀を奪取しようと江陵に帰還して軍備を整え、卒去したという場所は、今の巴陵に位置するのであって、前文に駐留したとある巴丘とは同じ名前であっても違う場所なのである。

[二] 『江表伝』に言う。程普はずいぶんと年かさであったので、たびたび周瑜を侮辱していた。周瑜は膝を屈してへりくだり、決して張り合おうとはしなかった。程普は後になって自分から感服し、彼を親しみつつ尊重するようになった。それから人に告げて言った。「周公瑾との交遊は醇醪(濃厚などぶろく)を呑むような趣がある。自分が酔ってしまったことに気付かないのだ。」当時の人々は、彼の謙譲がかようにまで他人を心服させたのだと思った。はじめ曹公は、周瑜が年少ながら立派な才能を持っていると聞き、游説によって心動かすべきだと考えた。そこで密かに揚州(の刺史)に命じ、九江蔣幹に周瑜を訪問させた。蔣幹は威儀ある風采を持ち、才覚と弁舌によって称賛を受けており、長江・淮水流域では孤高の存在であって、対等に太刀打ちできる者はいなかった。(蔣幹は)そこで布衣に葛巾(という出で立ち)で、私的な旅行にかこつけて周瑜を訪れた。周瑜は彼を出迎えたが、(屋外に)立ったまま蔣幹に言った。「子翼どの、ようこそ参られた。はるばる江湖まで来られたのは曹氏のために説客をなさるためかな?」蔣幹は言った。「吾と足下とは州里(同郷)なのにしばらく離ればなれであった。遠くにいて素晴らしい勲功を聞いたので、わざわざやってきて久闊を叙し、ついでに雅やかな教化に浴そうと思ったまで。それなのに説客などと言う。逆詐(勘繰り)というものではないか?」周瑜は言った。「吾は夔・曠に及ばぬとしても、弦を聞いて音を味わえば、雅曲を見分けるくらいはできるのですよ。」それから蔣幹を招き入れて酒食の宴を催した。お開きになってから、彼を見送りながら言った。「ちょうど吾は機密の仕事が入りましてな。まずは席を外して頂いて館に行っててくだされ。仕事が終わり次第、改めてお迎えいたしましょう。」三日後、周瑜は蔣幹を呼んで、一緒に陣中を見て回り、倉庫の物資や武器まで視察した。帰ってきて宴会を開き、侍者だの服飾だの珍品だのといった物を彼に見せてから、蔣幹に言った。「丈夫たる者が世に出たからには、己を知る君主に遭遇し、外面では君臣の義を装いつつ、内面では骨肉の恩を結び、献言は実行され、計略は採用され、禍福を共にするものだ。たとい蘇・張を再生させ、老人を復活させたとしても、それでも彼らの背を撫でつつ、その言葉を論破したであろう。どうして足下ごとき若造に気移りさせられようか?」蔣幹はただ笑うばかりで、結局何もしゃべれなかった。蔣幹は(北方に)帰還すると、周瑜の雅量と高尚さを称賛し、言辞による離間を否定した。中州の士人もまた、そのことから彼を重んじた。劉備が京から帰還するとき、孫権は飛雲の大船に乗って張昭・秦松・魯粛ら十人余りとともに彼を見送り、大宴会を催して別れを告げた。張昭・魯粛らが席を外したあと、孫権一人が残って劉備と語り合った。(劉備は)話の流れで、周瑜のことを賛美して言った。「公瑾の文武計略は万人の英俊ですな。あの器量の広大さを考えると、きっと久しく人臣のままではいないでしょう。」周瑜が軍を撃破したとき、曹公は言った。「孤は逃走を恥としない。」後に孫権に手紙を送って言った。「赤壁の戦役では、ちょうど疾病が起こったため、孤は船を焼いて自ら撤退したのだ。不本意ながら周瑜にはあのような虚名を与えることになってしまったよ。」周瑜の威信声望が遠方でも高らかであったので、曹公・劉備はみな疑惑を植え付けようとして彼を誹謗したのである。(周瑜が)卒去すると、孫権は涙を流しながら言った。「公瑾は王佐の資質を持っていたのに、いま忽然と命が尽きた。孤は何を頼りにすればよいのか!」後に孫権は尊号を称したとき、公卿たちに言った。「孤は周公瑾がおらねば、帝王たりえなかったな。」

周瑜は若いころから音楽に精通し、盃が三度回った後でも、それに間違いが有れば周瑜は必ずそれに気付き、気付けば必ず振り返った。そのため当時の人々は歌にして言った。「曲を間違えれば周郎が振り返る。」

周瑜には二男一女があり、女は太子孫登に嫁いだ。男子周循公主を降嫁されて騎都尉を拝命した。周瑜の遺風を持っていたが早くに卒去した。周循の弟周胤は、はじめ興業都尉を拝命して宗室の女を娶り、軍勢千人を授かって公安に屯していた。黄龍元年(二二九)、都郷侯に封ぜられたが、のちに罪過のため廬陵郡に配流された。赤烏二年(二三九)、諸葛瑾・歩騭が連名で上疏して言った。「故の将軍周瑜の子周胤は、むかしお引き立てを蒙って、封土を受け将軍となりましたが、お目こぼしによってそれを増やしたり、功績を立ててお報いしようとまで思いが至らず、情欲を欲しいままにして罪悪を招き寄せる結果となりました。臣らが密かに思うには、周瑜はむかし寵愛と信任を受け、入朝しては腹心となり、出向しては爪牙となり、ご命令を蒙って出征すれば、身に矢石が当たろうとも節義を尽くして任務を果たし、死ぬことを念願するかのようでありました。それゆえよく烏林において曹操を破砕し、郢都において曹仁を駆逐し、国家の威信を発揚して華夏を震わせ、蠢動する蛮荊どもであれ帰服せざる者をなくしたのであります。方叔や漢の(韓)信・(英)布といえども、まこと、これ以上ではありますまい。そもそも鋭鋒を挫いて艱難を斥ける臣下といいますのは、古代以来、帝王の尊重せざる例はございません。それゆえ漢の高帝劉邦)は封爵の誓文で『たとい黄河が帯のごとく太山のごとくなれども、国は永久に存在したまま苗裔に及ぶのである』と仰せられ、丹書をもってい、詛盟をもって重んじられ、宗廟にしまって無窮に伝えられました。功臣の子孫が代々にわたって相受け継ぎ、ただ子や孫のみならず、すなわちはるけき苗裔にまで、恩義に報い功績を明らかにせんがためであり、慇懃さ鄭重さがこれほどまで行き着きましたのは、後世の人々への指標とすることによって、ご命令を奉ずる臣下たちが死んでも後悔せぬようお図りくだされたからなのです。ましてや周瑜の身は亡んで間もないのです。それを彼の子周胤を匹夫に降格されましたのは、いよいよ傷み悲しむべきことであります。密かに思い奉りますのは、陛下の叡慮が古を思い起こして勃興継承の道を高められ、周胤の供述を引き出してあがないきれぬ罪を追及し、(償いが終わりましたら)軍勢を返還して爵位に復帰させられ、朝を忘れた鶏に再度一鳴きさせるよう、罪を抱えた臣下に後日のご報恩への道を開かれますように。」孫権は答えて言った。「腹心や元勲たちは孤を補佐して事業に協力してくれた。公瑾にはそうしたものがあって決して忘れられるものではない。むかし周胤は年少であって初めは功労も無かったのであるが、無理をして精兵を授け、爵位を侯のまま将帥に取り立てたのは、公瑾を思えばこそ(恩返しを)周胤に波及させたのであった。しかるに周胤はそれを驕り、酒に浸って身勝手に振る舞い、前後して訓諭したにも関わらず一度も改悛することがなかった。孤の公瑾に対する(気持ち)は、義理からいっても二君(の申すところ)と同じである。周胤が成熟するのを願っているばかりか、どうして(それだけで)済ませようか?周胤の罪悪を追及しつつも、すぐに徴し返すのを承知しないのは、ひとまず彼を追い詰めることによって自覚させたいからなのだ。いま二君が真心から漢の高祖による河山の誓いを引用されたので、孤は忸怩たる思いになった。徳義の点で彼(高祖)の仲間とは言えないが、それでも近付きたいとは願っている。事実としては依然あのような具合で、それゆえ未だご意見に添うことはできないでいるが、公瑾の子息のことでもあり、そのうえ二君が間に立ってくれているのだから、もしよくよく改悛してくれるのなら、またどうして心配することがあろうか!」諸葛瑾・歩騭の上表が奉られると、朱然および全琮もまた一緒に請願したので、孫権はようやく聞き届けた。ちょうどそのころ周胤は病死した。

周瑜の兄の子周峻は、やはり周瑜の元勲によって偏将軍となり、官吏・兵士千人を領した。周峻が卒去すると、全琮が周峻の子周護を将帥に取り立てるよう上表した。孫権は言った。「むかし曹操を敗走させて荊州を開拓したのが、全て公瑾のおかげであることをいつでも忘れたことはない。初めは周峻が亡くなったと聞いて周護を任用しようと思ったのだが、周護の性格や行動が危なっかしく、彼を任用することは災禍を招くことになると聞いて、急遽取り止めたのだ。孤は公瑾を思い出すばかりか、どうして(それだけで)済ませるであろう也?」