利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

呂蒙伝

呂蒙子明といい、汝南富陂の人である。幼いころ南方へ渡り、姉の夫鄧当に身を寄せた。鄧当は孫策の将としてしばしば山越を討伐していたが、呂蒙は十五・六歳のとき、内緒で鄧当の賊徒攻撃に付いていった。鄧当は振り返ったとき(彼の姿を)見付けて大いに驚き、叱り飛ばしたものの聞き分けがなかった。(鄧当は)帰国したとき呂蒙の母に告げると、母は怒って彼にお灸を据えようとした。呂蒙は言った。「貧しさ賤しさには我慢なりません。うっかり間違って功績を立ててしまっても富貴はやってくるのです。虎穴を探らずしてどうして虎子を得られましょうか?」母は哀れに思って彼を許すことにした。そのころ鄧当配下の官吏が、年少であった呂蒙を軽んじて「かの豎子に何ができると言うんだ?あんなのは肉を虎にくれてやるようなものだぞ」と言った。後日、呂蒙と顔を合わせることがあったので、またも彼を蚩辱した。呂蒙は激怒し、刀を抜いて官吏を殺して出奔、邑子(同郷)の鄭長の家に逃げ込んだ。(しばらくして)出ていき、校尉袁雄を介して自首した。間に立って取りなす者がいたので、孫策は彼を引見したが、彼の非凡さを知って左右(側近)の座に据えた。

数年して鄧当が死去すると、張昭が鄧当の後任として呂蒙を推薦したので、別部司馬を拝命した。孫権は事業を統括するようになると、群小の部将たちのうち兵が少ないためあまり役立たない者たちを選び、それらを統合してしまおうと考えた。呂蒙は密かにかけで買って兵士のために赤い上着と行縢を揃えた。点検の日、(呂蒙の)陣列は赤々と輝き、兵士はよくよく調練されていた。孫権はそれを見て大いに喜び、彼の軍勢に(群小の部将たちを)加増してやった。丹陽討伐に従軍して行く先々で功績を立て、平北都尉を拝命し、広徳県長を領した。

黄祖征討に従軍したとき、黄祖は都督陳就に出陣を命じて水軍で迎撃させた。呂蒙は先鋒を率い、その手で陳就の首級を挙げ、将兵たちは勝利に乗じて敵城へと攻め寄せた。黄祖は陳就が死んだと聞いて城を棄てて逃げ出したが、兵士たちが追いかけて彼を捕捉した。孫権は言った。「作戦の成功は、陳就を先に手に入れたおかげだ。」呂蒙を横野中郎将とし、銭一千万を賜った。

この歳、また周瑜・程普らとともに西進して烏林曹公曹操)を打ち破り、南郡曹仁を包囲した。益州の将襲粛が軍を挙げて帰参したので、周瑜は襲粛の軍勢を呂蒙に加増するようにと上表したが、呂蒙はしきりに襲粛には度胸があって有能であると称賛し、それに教化を慕って遠来したのだから、道義的にも加増してやるべきであって没収してはならないといった。孫権はその言葉を称え、襲粛の兵を返してやった。周瑜は甘寧を派遣して事前に夷陵を占拠させていたが、曹仁が軍勢を分けて甘寧を攻撃させたので、甘寧は苦境に立たされ、使者をやって(周瑜に)救援を求めさせた。諸将は軍勢が少ないため分遣させられないと言ったが、呂蒙は諸将に告げた。「淩公績淩統)を残し、呂蒙と君らとで行けば、包囲を解いて窮地を救うのも勢いからいってそう時間はかかりません。呂蒙は公績が十日間守りきれることを保証しましょう。」さらに、三百人を分遣して狭い道を塞いでおけば、賊軍が逃走したとき彼らの馬を手に入れられるでしょうと周瑜を説得した。周瑜はそれを聞き入れた。軍が夷陵に到着したその日のうちに交戦となり、殺したのは(敵兵の)半数以上になった。敵軍は夜中に遁走したが、道が塞がれているのにぶつかり、騎兵たちはみな馬を捨てて徒歩で逃げていった。(呉の)兵士たちが追いすがって攻撃し、馬三百匹を手に入れたので大船に載せて引き揚げた。このことから将兵の形勢は自ずと倍増したので、長江を渡って屯所を立て、互いに攻撃し合ったところ、曹仁は退却していった。(呉の軍勢は)そのまま南郡を占拠して荊州を鎮定した。帰還すると偏将軍を拝命し、尋陽県令を領した。

魯粛が周瑜の後任として陸口に赴任することになったとき、呂蒙の駐屯地の側を通りがかった。魯粛の気持ちではまだ呂蒙を軽蔑するところがあったが、ある者が「呂将軍の功名は日ごと顕著になっており、昔の気持ちで接せられてはなりません。君よ、それをご考慮なされませ」と魯粛に説いたので、呂蒙の元へ挨拶に立ち寄った。酒宴が酣になると呂蒙が魯粛に訊ねた。「君は重任を授かって関羽と隣接されることになりましたが、さて、どのような計略によって不慮の事態に備えておいでなのです?」魯粛は口先だけで答えた。「その時になったら考える。」呂蒙が言った。「いま東西は一つの家族になりましたが、関羽の実態は熊虎そのものです。どうして計略をあらかじめ定めておかずにいられましょうか?」そこで魯粛のために五つの策略を立ててやった。魯粛はいきなり席を立って彼の側へ行き、その背中を叩きながら言った。「呂子明よ、の才略がこれほど行き届いているとはは知らなかったよ。」かくて呂蒙の母に拝礼し、朋友の契りを結んでから別れた。[一]

[一] 『江表伝』に言う。むかし孫権は呂蒙と蔣欽に告げた。「卿がたはいま揃って当塗(要職)に就いて事務を司ることになったのだから、学問をやって自分の見識を広めるべきだぞ。」呂蒙が言った。「軍中ではいつも多忙に追われ、読書できないのではないかと心配です。」孫権は言った。「がどうして卿がたに経典を修めて博士になってもらいたいと望むだろうか?ただ渉猟して過去の事を知ってもらいたいだけなのだ。卿は多忙と言うたが孤と比べてどうじゃ。孤は若いころ『詩経』『尚書』『礼記』『左伝』『国語』を渡り歩き、読んでないのは『周易』くらいだ。事業を統括するようになって以来、三史や諸家の兵書を精読し、自分では裨益するところ大だと思っておる。卿がた二人は意志も性質も明朗であるから、学べば必ず身に付けられるであろうに、どうしてしないでいられようか?取り急ぎ『孫子』『六韜』『左伝』『国語』および三史をお読みなさるとよい。孔子も『ひねもす食わず、よもすがら寝ずに思いを馳せても無益である。学ぶに越したことはない』とおっしゃっているし、光武は兵馬の務めに際しても手から巻子を離さなかった。孟徳(曹操)もまた年老いてから学問を好むようになったと自分で言っている。卿がただけがどうしてご自身を勉励なさらないのか?」呂蒙はそこで初めて学問に就いたが、丹誠をこめて倦むことなく、彼の読んだところは根っからの儒者でも敵わなくなった。のちに魯粛が周瑜の後任として(長江を)遡上し、呂蒙の元に立ち寄って議論したが、ずっとやりこめられそうな状態だった。魯粛は呂蒙の背中を叩きながら言った。「吾は大弟どのがただ武略しか持っておらぬと思っておったが、今となっては、学識は広く明るく、もうの城下の阿蒙ではなくなってしまったのう。」呂蒙は言った。「士たる者は別れて三日になれば、目をこすって気持ちを新たに向き合うべきなのです。大兄の先ほどのお言葉、なにゆえ一々穣侯と同じなのでありましょうか。はいま公瑾(周瑜)の後任となり、ただでさえ引き継ぐのは困難でありますのに、そのうえ関羽と隣接なさるのです。かの人物は長じてから学問を好み、『左伝』を読んでほとんど全部を口に出すことができ、剛直で雄大な気迫を持っておりますが、その一方で自負心が非常に強い性格で、他人の上に立つことを好みます。いま彼と向き合うことになったのですから、単複を備えて彼に卿待すべきです。」密かに魯粛のために三つの策略を披露してやると、魯粛は恭しくそれを傾聴し、秘して他言しなかった。孫権はつねづね歎息して言っていた。「人間たる者は長ずるとともに向上してゆくものだが、呂蒙・蔣欽ほどには及ばないだろう。富貴と名声を手に入れながら、なおも誇りを捨てて学問を好み、書伝を楽しみ、財貨を軽んじて道義を尊ぶ。行動は慕うべき規範となり、いずれも国士となった。なんと立派なことではないか!」

そのころ呂蒙は成当・宋定・徐顧と屯所が近かったが、三将が死んだとき(彼らの)子弟は幼少であったので、孫権は軍勢をことごとく呂蒙に統合しようとした。呂蒙は固く辞退し、徐顧らはみな国事に尽力いたしましたので、子弟が幼いとはいえ廃してはなりませぬと陳情した。上書が三度に及んで、孫権はようやく聞き入れた。呂蒙はそこで彼らのために師を選んでやって教導させた。彼が他人の心をつかむ様子はおおかたこんな具合であった。

廬江謝奇蘄春典農としての農村に屯させていたが、(謝奇は)しばしば辺境で災いをなしていた。呂蒙は人をやって彼を招いたが、言うことを聞かなかったため隙を窺って襲撃を加えると、謝奇はすくみ上がり、その部曲孫子才・宋豪らは、みな老人の手を引いたり子供を背に負ったりして呂蒙の元に降服してきた。のちに孫権に従軍して濡須において曹公を防いだが、たびたび奇計を進言し、さらに河口を挟んでを築くよう孫権に勧めた。防備はきわめて厳重になり、[一]曹公は陥落させることができず撤退した。

[一] 『呉録』に言う。孫権は塢を築きたいと考えていたが、諸将はみな「岸に上がって賊を撃ち、足を洗って船に入るまでのことです。塢を築いたとて何の役に立ちましょう?」と言った。呂蒙は言った。「勢いにも鋭いときと鈍いときがあり、戦いに百戦百勝はあり得ません。もし何かのはずみで敵軍の歩騎が我らに迫り、川に入る暇もないとなれば、どうして船に入ることができましょうか?」孫権は「よい考えだ」と言い、かくてこれを築いたのである。

曹公は朱光を廬江太守として皖に屯させ、盛んに稲田を開拓していたが、また間者に命じて鄱陽賊の統帥を誘い、内応させようとしていた。呂蒙は言った。「皖の稲田はよく肥えておりますゆえ、一度の収孰があれば奴らの軍勢は必ず増大いたします。それが数年も続くならば、曹操は本性をむき出しにしてくるでしょう。早急に除去すべきです。」そこでつぶさに現状を報告した。これにより孫権は皖へと親征することとし、諸将を引見して計策を問うた。[一]呂蒙はそこで甘寧を升城督に推薦して最前線で攻撃を指揮させ、呂蒙が精鋭を率いて後詰めにあたる(という作戦を進言した)。朝早く進攻を開始し、呂蒙がその手に枹を取って太鼓を打つと、士卒たちはみな奮い立って我先にと(城壁を)昇ってゆき、食時(わずかな時間)ほどで打ち破った。そのあと張遼夾石まで駆け付けて来たが、城がすでに陥落したと聞いて引き揚げていった。孫権はその功績を褒め称え、即日、廬江太守に任命、鹵獲した人馬をすべて彼に分け与え、それとは別に尋陽の屯田兵六百人、属官三十人を下賜した。呂蒙が尋陽に帰国して一年と経たぬうちに廬陵の賊徒が蜂起し、諸将が討伐にあたったが捕らえることができなかった。孫権は「百羽の鷙鳥(猛禽)を集めても一羽のには敵わない」と言い、改めて呂蒙に征討させた。呂蒙は着陣すると、その首魁だけを誅殺し、残りはみな釈放して平民に戻してやった。

[一] 『呉書』に言う。諸将はみな土山を築いて攻具(攻城兵器)の数に入れるべきと勧めたが、呂蒙が走り出て言った。「攻具として土山まで揃えるとなれば、きっと完成までに何ヶ月もかかります。城内の防備はすっかり堅固となり、外部の救援もかならず到着し、攻略できなくなってしまいましょう。それに雨に乗じて(水位の高まったところを船で)進入いたしましたが、ぐずぐずと日にちを重ねるならば、水位はすっかり引いてしまって帰途に難渋することになります。呂蒙は密かにそれを心配いたします。いまこの城を観察してみたところ、堅固さを極めたものではございません。三軍の鋭気に乗じて四方から一斉に攻めかければ、時を移さずして陥落させられましょう。(そして)水量を利用して帰還いたしますのが、完勝の道でございます。」孫権はそれを聞き入れた。

当時、劉備は関羽を押さえとして荊州を独占していた。孫権は西征して長沙・零・桂三郡を奪取するよう呂蒙に命じた。呂蒙が檄を飛ばすと、二郡は噂を聞いただけで帰服してきたが、零陵太守郝普だけは城郭に楯籠って降服しなかった。しかも劉備自身がを出立して公安へ着陣、関羽を出して三郡を争わせた。孫権はこのとき陸口にあり、魯粛に一万人を率いさせ、益陽に屯して関羽に対抗させた。そして書状を飛ばして呂蒙を召し返し、零陵を放棄して直ちに帰還し、魯粛を支援するようにと命じた。もともと呂蒙は長沙を平定したのち、零陵を目指してを抜け、南陽鄧玄之を車に載せて、鄧玄之は郝普の旧知なのであるが、郝普を誘降させるつもりであった。(孫権からの)書状が届いて帰らなければならなくなったが、呂蒙はこれを伏せ、夜中に諸将を召し出して計略を授け、夜明けとともに城へ攻めかからせた。振り返って鄧玄之に言った。「郝子太(郝普)は世間で忠義者として知られ、彼自身もそうあろうと努めておるのだが、ただ時宜を心得ておらんのだ。左将軍(劉備)は漢中にあって夏侯淵に包囲され、関羽は南郡にあって、いま至尊(孫権)が直々にお出ましになっている。近くでもの本営が破られ、酃を救おうとしたところを逆に孫規に打ち破られた。これらはみな目前に起こったことであって、君自身が見聞したものである。彼は今まさに逆しまに吊し上げられているところで、(自分の)命を救うことさえままならないのに、そんな真似をする余力などどこにあろうか?いま吾らの士卒は精鋭であり、一人ひとりが命懸けの覚悟を固め、至尊のお遣しになった軍勢は続々と行軍の途に就いておる。いまは今日明日の命であるのに、あてにならぬ救援を待っており、あたかも牛の蹄の(跡にできた水たまりにいる)魚が長江や漢水に希望をつなぐようなものであって、それが頼りないことであるのは明らかではないか。もし子太が士卒の心を一つにして孤立した城を守り続け、今日明日(の落城)を先延ばしにして待ち人が来るというのであれば、まあよいだろう。いま吾は戦力を比較して計画を練り、その上でこの城を攻めておる。日を移さずして城が破られるのは必定である。城が破られれば、身は死して忠義立てするにも何の役にも立たず、しかも百歳の老母を白髪ながらに誅殺させることになるのだ。痛ましいことではないか?忖度するに、かのは外部からの音信が途絶えておるため救援があてになると考え、それゆえこのような事態に陥っているのだろう。君があれに会って利害を説明してやってくれないか。」鄧玄之が郝普に会ってつぶさに呂蒙の考えを伝えると、郝普は恐怖を抱いてそれを受け入れた。鄧玄之が先に出ていって呂蒙に報告し、郝普が少ししてから出頭することになったが、呂蒙はあらかじめ、それぞれ百人づつを選抜して、郝普が出てきたら、すぐさま突入して城門を固めてしまうようにと四人の将に命じておいた。しばらくして郝普が城を出てくると、呂蒙は出迎えてその手を執り、一緒に下船した。話し合いが終わってから、(孫権からの)書状を取り出して彼に見せ、手を打って大笑いした。郝普は書状を見て、劉備が公安に、関羽が益陽にあることを知って、恥ずかしさと怒りを募らせて地べたにぶっ倒れた。呂蒙は孫河を残して戦後処理を委ね、その日のうちに軍をまとめて益陽に向かった。劉備が盟約締結を求めてきたので、孫権は郝普らを帰国させ、湘水で分割して零陵を返してやった。(孫権はまた)尋陽・陽新を呂蒙の奉邑とした。

軍は帰還すると、その足で合肥を征討したものの、(勝利を得られず)撤退することが決まった。(そこへ)張遼らが襲来し、呂蒙は淩統とともに決死の覚悟で(孫権を)守護した。のちに曹公がまたもや濡須へ大々的に乗り出してきたので、孫権は呂蒙をとして以前作った塢に楯籠らせ、強弩一万張をその上に設置して曹公を防がせた。曹公の先鋒がまだ布陣を終えないうちに呂蒙が攻撃をかけて打ち破ったため、曹公は引き揚げていった。呂蒙を左護軍・虎威将軍に任命した。

魯粛が卒去すると、呂蒙が西上して陸口に屯し、魯粛軍の人馬一万余りはことごとく呂蒙に属すことになった。さらに漢昌太守を拝命し、下雋・劉陽・漢昌・州陵んだ。関羽と隣接して領土をめぐって対峙したが、関羽が驍雄でありながら兼併せんとの野心を持ち、加えて上流に国を構えている情勢からいって、(両国の友好関係も)そう長くは続くまいと思われた。当初、魯粛らは、曹公がなお健在で国難も始まったばかりのこととて、互いに協力し合って敵視する先を共有すべきであり、(相手国との関係を)手放してしまってはならぬと主張していた。呂蒙はそれを受けて密かに計策を開陳した。「いまこそ征虜孫皎)に南郡を固めさせ、潘璋白帝に留め、蔣欽が遊軍一万人を率いて、長江に沿って上り下りしつつ敵があれば応戦し、呂蒙は国家(孫権)の御為に先駆けとして襄陽を占拠いたします。かようにいたせば、どうして曹操を恐れ、関羽を頼りにする必要がありましょうか?しかも(劉備と)関羽の君臣は詐術と武力を自負し、至るところで裏切りを繰り返しており、腹を割って待遇することはできません。いま関羽がとっとと東方へ向かわずにいるのは、至尊が英明でおわしますうえ呂蒙らがまだ健在だからなのです。いま(我々が)強壮なうちに奴めを始末しておかねば、いずれ僵仆したとき、武力を用いようとしても叶うものでありましょうか?」孫権は深くその策略を受け入れ、また重ねて徐州攻略の考えについても試しに提案してみた。呂蒙は答えて言った。「いま曹操は遠く河北にいて新たに氏たちを打ち破ったばかりのことで、幽州・冀州を慰撫して招集をかけておりますが、まだ東方を振り返る余裕はございません。徐州地方を守る軍勢は不足しているとの情報を聞いておりますので、出征すればまず勝利を収められましょう。しかしながら(徐州の)地勢は陸路が通じて驍騎の走りまわるところであり、至尊が今日、徐州を手に入れられても、曹操は十日後には必ず奪いに参りましょうから、七・八万人でこの地を守ったとしてもまだ心配の残るところです。関羽を討ち取って長江を完全に占拠し、形勢を伸張させるに越したことはございません。」孫権はいたくその言葉が当を得ていると思った。呂蒙は魯粛に交代した当初、陸口まで行き、表面上は恩義厚礼を倍して関羽と友好を結んだ。

のちに関羽は樊討伐に出かけるとき、軍勢を残して公安・南郡を守備しようとした。呂蒙は上疏して言った。「関羽が樊討伐にあたって多数を守備兵に残しているのは、きっと呂蒙がその背後を襲うことを恐れているからでありましょう。呂蒙はずっと病気にかかっておりますゆえ、軍勢を分けて治療を名目に建業へ帰還いたしたく存じます。関羽がそれを聞けば必ずや守備兵を引き揚げ、総員で襄陽に向かうはずです。(それを見計らい)大軍を長江に浮かべて昼夜兼行で遡上し、奴めの虚を突けば、南郡を陥落させて関羽を生け捕りにすることができましょうぞ。」こうして病気が危篤になったと称し、孫権が封をしない書状を回して呂蒙を召し返すと、密かに計画を練った。関羽は案の定それを信じ込み、少しづつ軍勢を引き揚げていって樊へと向かわせた。魏は于禁をやって樊を救援させたが、関羽はことごとく于禁らの人馬数万人を捕らえ、食糧欠乏にかこつけて湘関の米を勝手に盗み取った。孫権はそれを聞くと、ついに進攻を開始し、まず呂蒙を先発させた。呂蒙は尋陽まで来ると、精兵をことごとくコウロクの船内に伏せておき、白衣の者に櫓を漕がせて商人の衣服を着せ、昼夜兼行し、関羽が長江沿いに設置した監視台まで来るたび、残らず縛り上げてしまった。そのため関羽は気付かなかったのである。ついに南郡に到達し、士仁・麋芳はいずれも投降した。[一]呂蒙は城内に入って拠点を構え、関羽および将兵の家族を残らず手に入れると、みな慰撫してやって、軍中に命じて人家に侵入させたり略奪させたりはいたしませぬと約束した。呂蒙の麾下の兵士に汝南の人があって、民家から笠一つを取り立てて官の鎧を覆った。官の鎧は(私物ではなく)公共物であったが、呂蒙はそれでも軍令に違反したからには郷里(の人)といえども法を廃することはできぬとして、涙を流しながらその者を斬首した。このことから軍中は戦慄し、路上にあっても落ちている物を拾わなくなった。呂蒙は日が昇ってから沈むまでずっと側近を遣して長老たちを慈しみ、不足しているものはないかと訊ね、病人には医薬を支給し、飢え凍えている者には衣服と食糧を賜与した。関羽の倉庫には財宝が保管されていたが(勝手に分配することはなく)、全て封鎖して孫権の到着を待った。関羽は(樊から)引き返し、道中で何度も人をやって呂蒙と連絡を取り合ったが、呂蒙はその都度、使者を厚遇しつつも、城内をめぐり歩いて家々を訪問し、時には直筆の書状によって信義を明らかにした。関羽の使者が帰ると、(その使者の元へ)密かに参向して訊ねる者もあったが、みな家族が無事で普段以上の待遇を受けていることを知り、そのため関羽の官吏兵士は闘争心を失っていった。そのころ孫権の到着を間近に控え、関羽は自分が孤立していることを知り、麦城へと逃走した。(さらに)西進して漳郷まで行ったところで、兵士たちはみな関羽を捨てて投降した。孫権が朱然・潘璋にその経路を遮断させると、すぐに父子ともども生け捕りになった。荊州はついに平定されたのだ。

[一] 『呉書』に言う。将軍士仁は公安にあって防戦に努めたが、呂蒙が虞翻に命じて説得させた。虞翻は城門まで行って門番に告げた。「吾は汝の将軍と話し合いたいのだ。」士仁が面談を承知しなかったので、手紙を書いた。「明るき者は未然に災禍を防ぎ、智者は将来の憂患を片付けるもの。利益を知り、損失を知ってこそ他人に役立ち、生存を知り、滅亡を知ってこそ吉凶を見分けることができるのです。大軍が進攻したというのに、斥候はなすすべもなく、烽火は挙げる暇もありませんでした。これが天命でないとすれば、必ずや内応者があったのでしょう。将軍は進んで時機を見ることなく、時機が到来してもやはり対応せず、ただ独りで包囲された城に楯籠って降服しようともなさりません。戦死なされば一族の祭祀は絶え、天下の笑い種となりましょうぞ。呂虎威はまっすぐ南郡を目指し、陸路を断絶なさるおつもりです。逃げ道が一度塞がれたならば、この辺りの地形から考えてみますと、将軍は箕の舌の上におられるようなもので、脱走しても逃げ切れず、降服すれば信義を失うことになり、密かに将軍の御為を考えて不安にかられるのでございます。熟慮いただければ幸いです。」士仁は手紙を受け取ると、涙を流しつつ降服した。虞翻が呂蒙に告げた。「これは偽りの兵でございます。軍勢を残して城を固めるとともに、士仁を連行して進軍すべきです。」そこで士仁を連れて南郡へ向かった。南郡太守麋芳は籠城したが、呂蒙が士仁の姿を彼に見せてやると、そのまま降服した。 『呉録』に言う。かつて南郡城内で失火して数多くの兵器を焼き、関羽がそのことで麋芳を責めたことがあり、麋芳は内心、恐怖を感じていた。孫権が(それを)聞いて彼に誘いの手をかけると、麋芳は密かに手を結んだ。呂蒙が進攻してくると牛酒を捧げて城外に投降してきた。

(孫権は)呂蒙を南郡太守として孱陵侯に封じ、[一]銭一億、黄金五百斤を下賜した。呂蒙は金も銭も固辞したが、孫権は許さなかった。封爵はまだ行われていなかったが、そのとき、呂蒙が発作を起こした。孫権はこのとき公安にあったが、(彼の身を)奥御殿へ引き取り、八方手を尽くして治療看護にあたり、呂蒙の病気を治すことができる者を賞金千金でもって領内に募集をかけた。鍼を刺すときには孫権が彼のために心を痛め、何度か彼の顔色を確かめたいとは思ったが、同時に気を遣わせてはならぬとも思い、いつもは壁に穴をくじって覗き込んだ。少しでも食が通ったのを見ては喜び、振り返って左右の者と談笑したりしたが、そうでない場合には咄唶して、夜中でも寝付けなかった。病気が少しえると大赦令を下し、群臣が揃って祝辞を挙げた。後日また病気が重くなったので、孫権は自ら見舞いに赴き、星辰の下で彼の延命を請うよう道士たちに命じたが、四十二歳にして、とうとう奥御殿において卒去した。このとき孫権の哀痛は甚だしく、彼を思い出しては気落ちして痩せ衰えた(?)。呂蒙は死去する以前、与えられた黄金財宝などの下賜の品をことごとく蔵に納め、(自分の)命が絶えた日に残らず返上せよと担当者に命じておき、葬儀は倹約に努めさせた。孫権はそれを聞いてますます悲歎に暮れた。

[一] 『江表伝』に言う。孫権は公安で盛大な酒宴を催したが、呂蒙は病気だといって列席しなかった。孫権は笑いながら言った。「関羽を生け捕りにした功績は子明の計略である。いま大功を立てて勝利を果たし、恩賞の沙汰はまだ行われていないのだから、どうして邑邑とすることがあろう?」そこで歩騎と鼓吹を加増し、虎威将軍の官属ならびに南郡・廬江両郡の威儀を直々に選出してやった。沙汰が終わって軍営に帰るとき、兵馬や鼓吹が前後に付き従い、路上に光り輝いた。

呂蒙は若いころに書伝を学んでおらず、重要な案件を陳述する際には、いつも口述で上奏文を作っていた。かつて部曲の件について江夏太守蔡遺に告発されたことがあったが、呂蒙は怨恨を持たなかった。予章太守顧邵が卒去したとき、孫権が任用すべき人物について下問すると、呂蒙は、蔡遺が職務を遵奉する佳吏であると推薦した。「君は祁奚になるつもりなのかね?」と孫権は笑い、彼を任用することにした。甘寧は粗暴で殺戮を好み、これまで常々、呂蒙の気持ちを裏切ってきたし、しかも時々、孫権の命令にも違背することがあった。孫権は腹を立てたが、呂蒙がその都度「天下はまだ安定しておらず、甘寧ほどの闘将は得難きものです。なにとぞご容赦くだされませ」と陳情したので、孫権はそれから甘寧を手厚くもてなし、最終的には彼を役立てることができたのであった。

呂蒙の子呂霸が爵位を襲い、墓守三百家を与えられ、田五十頃が(租税免除)とされた。呂霸が卒去すると、兄呂琮が侯位を襲い、呂琮が卒去すると、弟呂睦が後を継いだ。

孫権は陸遜とともに周瑜・魯粛および呂蒙について論じ合い、述べた。「公瑾は雄邁壮烈、胆略は他人を圧倒し、ついに孟徳を打ち破って荊州を開拓し、(その行跡は)邈焉(悠遠)にして引き継ぐのも困難であるが、君がいまそれを引き継いでいるのだ。公瑾はむかし子敬(魯粛)が東方へ来られるよう取りはからい、孤に引き合わせてくれた。孤は酒席で彼と語り合ったが、(話題は)その場で大いなる計略、帝王の事業に及んだ。これが第一の快事である。のちに孟徳が劉琮を落とした勢いに乗じ、数十万の軍勢を率いて水陸両道から一斉に下向するぞと張言したとき、孤は諸将を招来して方策を諮問したが、それに適して先対する者はなく、子布・文表に至っては使者を派遣し、檄文を回して彼らを迎え入れるのがよいと口を揃えて言ったものであった。子敬はすぐさま反駮して不可と言い、早急に公瑾を呼び戻して軍勢を委ね、奴らを迎撃するよう孤に勧めてくれた。これが第二の快事である。しかも彼が計策を定めたのには、張(儀)・蘇(秦)をはるかに上回る意図があったのだ。のちに玄徳(劉備)へ土地を貸すよう吾に勧めたのは短所の一つではあるが、二つの長所を台無しにしてしまうほどのものではない。周公は一人に完備を求めなかった。それゆえ孤はその短所を忘れて長所を尊び、つねづね鄧禹になぞらえてきたのである。また子明が若いころ、孤は(彼のことを)劇易を言わぬ、果敢にして胆の据わった人物であるに過ぎないと思っていた。成長するに及んで学問で能力を身に付け、計略は奇抜であり、発議の英明渙発さという点で及ばずとも、公瑾に次ぐ者といえよう。関羽攻略については子敬よりも勝っていた。子敬は孤の手紙に答えて『(古代の)帝王が立ち上がるときにはみな先駆けが付いておりました。関羽を懸念されることはございません』と言っておったが、これは子敬が内心では弁明できなかったのを、表面的に壮語して見せたのであるが、孤はそれも大目に見てやって咎めることはしなかった。しかしながら彼の用兵は、屯営では過失を犯す者がなく、命ずれば行われ、禁ずれば収まり、管轄では廃負する者もなく、路上にあっても落ちている物を拾う者はなかった。その手並みはやはり見事なものであった。」