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原著作者:【むじん書院】

呉書九 三国志五十四 周瑜魯粛呂蒙伝第九

周瑜伝

周瑜公瑾といい、廬江の人である。従祖父周景、周景の子周忠はいずれも太尉となった。[一](周瑜の)父周異洛陽県令である。

[一] 謝承の『後漢書』に言う。周景は字を仲嚮といい、若くして廉潔有能によって称せられ、学問に明るいことから孝廉に推挙され、三公の府(役所)に招かれた。のちに予州刺史となったとき、汝南陳蕃を招いて別駕とし、潁川李膺・荀緄・杜密沛国朱寓従事としたが、みな天下英俊の士であった。次第に昇進して尚書令になり、ついに太尉の地位に昇った。 張璠の『漢紀』に言う。周景の父は周栄といい、章帝・和帝の御代に尚書令となった。はじめ周景は州牧・太守の地位を歴任し、善行を好んで士人を愛し、毎年孝廉を推挙するたび、(その人を)招き入れて奥座敷に上がらせ、家族とともに宴会を楽しんだ。そうしたことは三・四回もあって、餞別を送るにも手を尽くし、さらにその人の子弟を任用してやった。いつも言うには、「臣下を息子にしてしまう。政において(これ以上の)何があろう?」それ以前、司徒韓縯河内太守であったころ、公務を心がけて私心なく、推挙した者には一言述べるに留まり、その後はその人の門戸へは(恩恵を)及ぼさなかった。言うには、「は良き人物を推挙するが、恩愛を一つの家に偏らせまいぞ。」当時の論者には両方を非難する者があった。

周瑜は成長すると姿貌の持ち主になった。はじめ孫堅は義兵を起こして董卓を討伐したとき、住まいを舒に移した。孫堅の子孫策は周瑜と同い年で、ただ二人きりで仲良くなった。周瑜は道の南向かいの大邸宅を宿所として孫策に差し出し、表座敷に昇って(孫策の)母に拝礼し、足りない物があれば分け合った。周瑜の従父周尚丹陽太守になったので、周瑜は出かけていって彼を訪ねた。ちょうどそのとき孫策は(長江を)東へと渡って歴陽に行こうとしていたが、手紙を飛ばして周瑜に知らせたので、周瑜は軍勢を率いて孫策を出迎えた。孫策は大喜びして言った。「を得たからには事業に目処が付いたぞ。」そのまま横江・当利攻撃に従軍し、みな陥落させた。そののち長江を渡って秣陵を攻撃し、笮融・薛礼を打ち破り、転進して湖孰・江乗に下向して曲阿に進入した。劉繇が遁走したとき、孫策の軍勢はすでに数万人に達していた。そこで(孫策は)周瑜に告げた。「吾はこの軍勢でもって呉会(呉郡・会稽郡)を切り取り、山越を平定するのに充分だと思う。卿は帰還して丹陽を鎮撫していてくだされ。」周瑜は帰還した。しばらくして袁術が従弟袁胤を派遣して周尚に代えて太守にすると、周瑜は周尚とともに寿春に帰還した。袁術は周瑜を将にしたいと思ったが、周瑜は袁術が結局成功できないだろうと観測したので、居巣県長になりたいと請願し、東方へ帰還する口実とした。袁術がそれを聞き入れたので、そのまま居巣を経由してへと帰還した。この歳は建安三年である。孫策は自ら周瑜を出迎えて建威中郎将の職を授け、すぐさま軍勢二千人、騎馬五十匹を与えた。[一]周瑜はこのとき二十四歳、呉ではみな「周郎」と呼んだ。周瑜の恩恵・信義は廬江で顕著であったので、出向して牛渚を固め、のちに春穀の県長を領した。しばらくして孫策は荊州を略取せんと企て、周瑜を中護軍とし、江夏太守を領させた。皖城攻めに従軍し、これを陥落させた。そのとき橋公の二人のを手に入れたが、いずれも中国一の色香であった。孫策は自ら大橋を納れ、周瑜は小橋を納れた。[二]また尋陽に進出して劉勲を破り、江夏を討伐した。引き返して予章・廬陵を平定し、巴丘に駐留した。[三]

[一] 『江表伝』に言う。孫策はまた周瑜に鼓吹を給付して館舎を用意してやり、下賜(の重さ)は比肩する者がなかった。孫策は布令を下して言った。「周公瑾は英俊異才であり、とは総角のころからの好誼、骨肉の本分があった。以前に丹陽にいたときなどは、軍勢および艦船・糧秣を徴発してくれ、大事業を完成できた。徳義を論じて功績に報いたが、これでもまだ充分な報酬ではあるまい。」

[二] 『江表伝』に言う。孫策はのんびりとして周瑜に冗談を言った。「橋公の二人の女は生き別れになったが、吾ら二人を婿にできたのだから喜んでもいいだろうね。」

[三] 臣裴松之は考える。孫策はこのとき初めて予章・廬陵を手に入れたのだが、それでもまだ江夏を平定できていなかった。周瑜が鎮撫したのは今の巴丘県に相当し、後に卒去したという巴丘とは同じ場所ではない。

五年、孫策が薨去し、孫権が事業を統括することになった。周瑜は軍勢を率いて埋葬に駆けつけ、そのまま呉に留まり、中護軍として長史張昭とともにもろもろの事務を管掌した。[一]十一年、孫瑜らを監督して麻・保、二つの屯所を討伐し、その頭目を梟首したが、捕虜は一万人余りに上った。引き揚げて官亭を守備した。江夏太守黄祖が将鄧龍に軍勢数千人を率いて柴桑に侵入させると、周瑜は追討して攻撃し、鄧龍を生け捕りにして呉に送り飛ばした。十三年春、孫権は江夏を討伐したとき、周瑜を前部大督とした。

[一] 『江表伝』に言う。曹公曹操)は袁紹を撃破したばかりで、軍勢の威信は日に日に盛んになっていた。建安七年、(曹公は)手紙を下して子息を人質に出すよう孫権に要求してきた。孫権は群臣を召しだして会議を開いたが、張昭・秦松らはためらって決断することができなかった。孫権は内心人質を送りたくはなかったので、ただ周瑜だけを連れて母の御前へ参って相談した。周瑜は言った。「むかしの国が荊山の側に封ぜられたばかりのころ、土地は百里にも満たなかったのですが、後継者が賢明有能で、領土を広げて境界を開き、に基礎を打ち立てて、ついに荊陽を根拠とし、(その勢力は)南海にまで行き着き、事業を伝えて国祚を延ばすこと九百年余りになりました。いま将軍は父兄の資質を受け継ぎ、六郡の軍勢を兼併しておられ、軍勢は精強にして食糧は多量、将兵は命令を奉じており、山を鋳れば銅となり海を煮れば塩となり、領内は富みあふれて人々は混乱を望まず、そこかしこで舟は帆を張って朝に出発して夕に到着し、士風は強く勇ましく向かうところ敵なしであります。何の差し障りがあって人質を送ろうとなさるのです?ひとたび人質をお入れになれば、曹氏と相互協力しないわけにはいかず、相互協力すればお召しの命令に従わざるを得ず、やすやすと他人に制御されることになりましょうぞ。(手に入る物は)せいぜい侯の印綬一つと奴隷十人余り、車を数乗に馬を数匹に過ぎますまいに、どうして南面してと称するのと同列にできましょうか?派遣など致さず、ゆっくりと変化の起こるのを待つに越したことはありません。もし曹氏がよく義を行って天下を正すことができたならば、(そのあと)将軍が彼にお仕えしても遅くはないでしょう。もし(彼が)暴虐混乱を企てるようでしたら、兵事は火炎のようなものでありますから、自分が火傷を負わぬわけには参りますまい。(そのとき)将軍は勇気を包み隠して威勢を抑え込み、天命を待たれればよく、どうして人質をお送りする理由がありましょうか!」孫権の母は言った。「公瑾の意見は正しい。公瑾は伯符(孫策)と同い年で一月若いだけですが、我は彼を我が子のように見ておりますよ。も彼に兄事なさい。」ついに人質を送ることはなかった。

その年九月、曹公が荊州に進入すると、劉琮は軍勢をこぞって降服した。曹公がその水軍を手に入れ、水兵・歩兵は数十万人になったので、(呉の)将兵たちはそれを聞いてみな恐懼した。孫権は配下の者どもを引見して計略を諮った。論者はみな言った。「曹公は豺虎でありながら漢の宰相を名分とし、天子を擁して四方を征討して、朝廷の御為を口実にして行動しております。今日これを拒めば、事態はさらに容易ならざることになりましょう。そのうえ将軍の大きな味方であり、曹操に対抗させているのは長江であります。いま曹操が荊州を手に入れてその土地を覆い、(かつて)劉表が調練した水軍は蒙衝・闘艦が千単位もございましたが、曹操は(それらの艦船を)ことごとく長江沿岸に浮かべ、歩兵を兼併して水陸両面から下ってきておりますが、これは長江の険阻さが、とうに我らと共有されたということであります。そのうえ兵力の多寡はまた論ずべくもありません。大計を愚考するに、彼を迎え入れるに越したことはありますまい。」周瑜は言った。「左様ではございますまい。曹操は漢の宰相を名分としておりますが、その実、漢の国賊であります。将軍は神のごとき武勇と英雄たる才覚、加えて父兄の功業をもって江東に割拠なさり、地方は数千里になり、軍勢は精強にして役立ち、(配下の)英雄どもは業務を楽しんでいるのです。少なくとも、天下を横行して漢家のために残虐汚穢を取り除くべきであって、ましてや曹操が自分から死ににやって来たというのに、それを迎え入れることなどありましょうや?将軍の御為に計略を立てることを許されたい。今たとい北方が既に安定されて曹操に内憂がないとして、長期間持久して境界を争いに来ることができたとしても、またどうして我らと船楫において対等に勝負することなどできましょうか?いま北方は未だ平安でない上、加えて馬超・韓遂がなお関西にいて曹操の後患となっているのです。しかも鞍馬をてて舟楫を手に取り、呉越と力比べをするとなると、もともと中国の得意とするところではありません。さらに今は盛寒にあたり、馬に(与える)藁草なく、中国の軍勢を駆り出してはるばる江湖一帯に渡らせても、水や土に慣れず、必ずや疫病が発生するでありましょう。これら数点は軍勢を動かす際の懸案事項でありますが、しかしながら曹操はそれらをみな冒しているのです。将軍が曹操を生け捕りになさるのも今日明日のことでありましょう。周瑜は精兵三万人をお預かりして夏口に進駐したいと存じます。将軍の御為に彼を撃破することをお約束いたしましょう。」孫権は言った。「老賊めは漢を廃して自分が立とうと願っておったが、ただ二袁・呂布・劉表、それに孤だけを心配していた。いま数々の英雄たちはすでに滅亡し、ただ孤だけが残っているのだ。孤と老賊は情勢からいって両立しない。君が撃つべしと言うのは、きわめて孤(の意見)と適合しておる。これは天が君を孤に授けてくれたのである。」[一]

[一] 『江表伝』に言う。孫権は抜刀して眼前の文机を切り、「諸将官吏のうちに再び曹操を迎え入れるべきと敢えて言う者があれば、この机と同じだぞ!」と言った。会見が終わった夜になると、周瑜が拝謁を求めて言った。「諸人はただ曹操の手紙を見ただけで水兵・歩兵八十万と言い、おのおの怖じ気付いてしまってその虚実を料簡しようとせず、拙速にもああした議論を展開いたしておりますが、はなはだ根拠無きことでございます。いま事実に基づいて愚考いたしますと、彼が率いてくる中国人は十五・六万人に過ぎず、しかも軍勢はすでに久しく疲労しており、手に入れた劉表の軍勢とてせいぜい七・八万のみで、今なお狐疑を抱いております。疲労した士卒をもって狐疑の軍勢を制御するというのですから、人数が多いとはいえ、まるで畏るるに足りぬのであります。精兵五万を得られればきっと彼を制するには充分です。将軍よ、ご憂慮召されますな。」孫権は背中を撫でながら言った。「公瑾よ、卿の言葉がそこに帰結するのなら、きわめて孤の気持ちに適合しておる。子布・文表といった諸人は、おのおのが妻子を顧みて私情を差し挟み、いたく失望させられた。ただ卿と子敬だけが孤に賛同してくれた。これは天が卿たち二人によって孤を助けてくれているのだ。五万の軍勢を卒爾集合させることは困難であるが、既に三万人を選抜し、艦船・食糧・武具などは全て整っておる。卿は子敬・程公とともにすぐさま先発してくれ。孤は人数を断続的に徴発し、多量の物資・食糧を搭載して卿の後援をしよう。卿がよく彼を仕切れるならまこと決着を付けてくれ。思い通りにならないことがあったとしても、すぐさま帰還して孤のもとに駆け付けてくれれば、孤が曹操と決着を付けるだろう。」 臣裴松之が考えるに、曹公を拒絶する計画を建てたのは実際魯粛より始まる。当時、周瑜は鄱陽に使いしており、魯粛が周瑜を呼び寄せるよう孫権に勧めたことから、周瑜は鄱陽への使いから帰ったのであり、ただ内心では魯粛と一致していたため、ともに大勲を成し遂げることができたのだ。本伝ではただ、孫権が配下の者どもを引見して計略を諮ると、周瑜は衆人の議論を排除し、ただ一人対抗する計略を述べたとのみ言い、しまいまで魯粛が先に計略を持っていたとは言わない。まるで魯粛の善を盗み取ったようなものだ。

このとき劉備は曹公に打ち破られ、南方へ引き揚げて長江を渡ろうとしていたが、当陽で魯粛と遭遇し、かくて共同して計画を立てることになった。そこで夏口に進駐し、諸葛亮を孫権のもとに派遣した。孫権はかくて周瑜および程普らをやって劉備と協力して曹公を迎撃させ、赤壁で対峙した。時に曹公の軍勢はすでに疾病を抱えており、初めに一度交戦しただけで曹公の軍は敗退し、長江北岸に引き揚げていった。周瑜らは南岸に布陣した。周瑜の部将黄蓋が言った。「いま賊は多勢、我は寡勢であって持久戦は困難です。しかしながら曹操軍を観察いたしまするに、艦船をまっすぐ連ねてとが接しております。焼き討ちにすれば敗走させられましょうぞ。」そこで蒙衝・闘艦数十艘を選び、薪や草を詰め込んでその中に膏油を注ぎ、帷幕で包んで上に牙旗を建て、あらかじめ曹公に手紙を送り、偽りの降服をしようとした。[一]またあらかじめ走舸を準備して、それぞれ大船の後方に繋いでおき、それから行列を作って前進した。曹公軍の官吏・兵士らはみな首を伸ばして遠望し、指差しながら黄蓋が降服してきたと言った。黄蓋はもろもろの船を放ち、時を同じくして火を起こした。時に風は猛り狂い、ことごとく岸辺の陣営に延焼した。しばらくすると煙や炎が天に漲り、人馬のうち焼けたり溺れたりして死ぬ者は非常に多かった。軍はついに敗退し、引き返して南郡に楯籠った。[二]劉備が周瑜らと再び一緒になって追走すると、曹公は曹仁らを江陵城の守備に残して、まっすぐ自分は北方へ帰っていった。

[一] 『江表伝』に載せる黄蓋の手紙に言う。「黄蓋は孫氏から手厚い恩を受け、いつも将帥となって処遇は薄いものではありませんでした。しかしながら天下の事を顧みれば大勢というものがあり、江東六郡の山越の人々を用いて中国百万の軍勢にぶつかったとしても、(軍勢の)多寡が釣り合っていないことは、海内がそろって観察するところであります。東方の将校・官吏は愚者・智者(の区別)なく、みなそれが不可能であることを存じておりますが、ただ周瑜・魯粛だけはひたすら浅はかな考えを抱き、意味を理解できずにおるのです。今日ご命令に服しますのは、その実際的計算からであります。周瑜が督領しているのはもともと打ち砕きやすきものであります。矛を交えた日には黄蓋が前部(先鋒)となり、情勢を見ながら変化を起こし、命を投げ出すのも間近のことです。」曹公は特別に使者を引見して親しげに質問し、口約束をして言った。「汝が嘘を言っているのではないか、ただそれだけを恐れているのだ。黄蓋がもし信義を守ったならば、空前絶後の爵位恩賞を授けようぞ。」

[二] 『江表伝』に言う。戦いの日、黄蓋はあらかじめ快速船十艘を選び、乾燥した荻や柴をその中に積載し、魚膏を注いで赤い幔幕で覆い、旌旗・龍幡を船上に建てた。時に東南の風は激しく、そこで十艘を先頭に立てて、長江の真ん中で帆を挙げた。黄蓋は火を掲げて将校たちに告げ、兵士どもに声をそろえて叫ばせた。「降服だ!」曹操の軍人たちはみな陣営を出て立ち見したが、北軍を去ること二里余りのところで、時を同じくして火の手が挙がった。火は激しく風は猛り、向かってくる船は箭の如く、埃は飛んで絶爛し、北方の船を焼き尽くして岸辺の陣営まで延焼した。周瑜らが軽装の精鋭を率いてその後方から押し寄せ、太鼓をして大いに進撃すると、北軍は大壊滅して曹公は撤退逃走した。

周瑜はさらに程普とともに南郡へと進撃し、曹仁と長江を挟んで対峙した。両軍がまだ矛先を交えないうち、[一]周瑜はすぐさま甘寧を派遣して事前に夷陵を占拠させた。曹仁が歩騎を分けて別働隊に甘寧を攻囲させたので、甘寧は周瑜に危急を報告した。周瑜は呂蒙の計略を採用し、淩統を残して背後を守らせ、自身では呂蒙とともに(長江を)遡上して甘寧を救いに行った。甘寧への包囲が解かれたのち、(長江を)渡河して北岸に屯し、(曹仁と)期日を決めて大決戦を行った。周瑜は自ら馬に跨って櫟陣したが、そのとき流れ矢が右の脇腹に命中した。傷がひどく、急遽撤退した。その後、曹仁は周瑜が伏したまま未だ立ち上がれずにいると聞き、軍勢を率いて(呉の)陣営に取り付いてきた。周瑜はようようのことで自分の身を起こし、軍営を視察して官吏や兵士を激励した。曹仁はそれを見て、ついに(江陵城を放棄して)撤退した。

[一] 『呉録』に言う。劉備が周瑜に告げた。「曹仁が江陵城を守っておるが、城中の兵糧は多く、(我らにとっては)障害であると言っていいだろう。張益徳張飛)に千人を率いて卿に従軍させるから、卿は二千人を分けて我に随行させてくれ。それぞれが夏水から入って曹仁の背後を遮断するようにすれば、曹仁はこなたの進入を聞くや、必ず逃げ出すだろう。」周瑜は二千人を彼に加勢させた。

孫権は周瑜を偏将軍に任命して南郡太守を領させ、下雋漢昌劉陽州陵奉邑とし、江陵に据え置いた。劉備は左将軍のまま荊州牧を領し、公安で統治を行った。劉備がに参詣して孫権と会見したとき、周瑜は上疏して言った。「劉備には梟雄の相があるうえ、関羽・張飛といった熊虎の将がおり、久しく屈従して他人のために働いたりはきっといたしますまい。(国家の)大計を愚考いたしますに、劉備を移して呉に留め、盛大に宮殿をこしらえ、彼のために美女や娯楽を増やし、そうして彼の耳目を喜ばせてやるがよろしゅうございます。あの二人を離ればなれにして各方面に配置し、周瑜のような(立場の)者に味方させて戦闘に参加させれば、大事業を完成させることができるのです。いまみだりに土地を割譲して彼の元手にしてやり、あの三人を集結させて国境にまとめて置いておくのは、おそらくは蛟龍が雲雨を得たようなもので、しまいには池の中のものではなくなってしまいますぞ。」孫権は曹公が北方におり、手広く英雄たちを集める必要があり、同時に劉備を制御し続けるのが困難であることを危惧し、それゆえ聞き入れなかった。

その当時、劉璋益州牧であったが、外部からは張魯の侵略を受けていた。周瑜はそこで京に参詣し、孫権に拝謁して言った。「いま曹操は挫折したばかりで、まさに憂慮を体内に抱えているのであります。将軍と軍勢を連ねて事を構えることなどできますまい。奮威孫瑜)どのとともに進軍してを奪取し、蜀を得たうえは張魯を併合して奮威どのにその地を固守していただき、馬超と好を結んで同盟したいと存じます。周瑜が帰還してから、将軍とともに襄陽を占拠して曹操を追い詰めれば、北方のことは片付けることができましょう。」孫権はそれを許可した。周瑜は江陵に帰還して軍装に着替えたが、しかし道中、巴丘にて病のため卒去した。[一]時に三十六歳であった。孫権は白衣で哀悼を捧げ、左右の者たちを感動させた。亡骸が呉に帰ってくることになると、今度はそれを蕪湖まで出迎え、(葬儀に必要な)もろもろの費用は一切合切まかなってやった。のちに布令を下して言った。「の将軍周瑜・程普について、彼らが賓客を召し抱えていたとしても、すべて問責してはならない。」むかし周瑜は友人として孫策に処遇されていたが、(その母)太妃はそのうえ孫権にも彼へ兄事させた。そのとき孫権の官位は将軍であったが、諸将や賓客たちは(彼を軽んじ、)礼をするにも簡略さを優先した。しかし周瑜だけは真っ先に敬意を尽くし、すぐさま臣下としての礼節を執った。度量は寛大であって、ほとんどの場合は他人の心をつかむことができた。ただ程普とだけは仲が良くなかった。[二]

[一] 臣裴松之が思案するに、周瑜が蜀を奪取しようと江陵に帰還して軍備を整え、卒去したという場所は、今の巴陵に位置するのであって、前文に駐留したとある巴丘とは同じ名前であっても違う場所なのである。

[二] 『江表伝』に言う。程普はずいぶんと年かさであったので、たびたび周瑜を侮辱していた。周瑜は膝を屈してへりくだり、決して張り合おうとはしなかった。程普は後になって自分から感服し、彼を親しみつつ尊重するようになった。それから人に告げて言った。「周公瑾との交遊は醇醪(濃厚などぶろく)を呑むような趣がある。自分が酔ってしまったことに気付かないのだ。」当時の人々は、彼の謙譲がかようにまで他人を心服させたのだと思った。はじめ曹公は、周瑜が年少ながら立派な才能を持っていると聞き、游説によって心動かすべきだと考えた。そこで密かに揚州(の刺史)に命じ、九江蔣幹に周瑜を訪問させた。蔣幹は威儀ある風采を持ち、才覚と弁舌によって称賛を受けており、長江・淮水流域では孤高の存在であって、対等に太刀打ちできる者はいなかった。(蔣幹は)そこで布衣に葛巾(という出で立ち)で、私的な旅行にかこつけて周瑜を訪れた。周瑜は彼を出迎えたが、(屋外に)立ったまま蔣幹に言った。「子翼どの、ようこそ参られた。はるばる江湖まで来られたのは曹氏のために説客をなさるためかな?」蔣幹は言った。「吾と足下とは州里(同郷)なのにしばらく離ればなれであった。遠くにいて素晴らしい勲功を聞いたので、わざわざやってきて久闊を叙し、ついでに雅やかな教化に浴そうと思ったまで。それなのに説客などと言う。逆詐(勘繰り)というものではないか?」周瑜は言った。「吾は夔・曠に及ばぬとしても、弦を聞いて音を味わえば、雅曲を見分けるくらいはできるのですよ。」それから蔣幹を招き入れて酒食の宴を催した。お開きになってから、彼を見送りながら言った。「ちょうど吾は機密の仕事が入りましてな。まずは席を外して頂いて館に行っててくだされ。仕事が終わり次第、改めてお迎えいたしましょう。」三日後、周瑜は蔣幹を呼んで、一緒に陣中を見て回り、倉庫の物資や武器まで視察した。帰ってきて宴会を開き、侍者だの服飾だの珍品だのといった物を彼に見せてから、蔣幹に言った。「丈夫たる者が世に出たからには、己を知る君主に遭遇し、外面では君臣の義を装いつつ、内面では骨肉の恩を結び、献言は実行され、計略は採用され、禍福を共にするものだ。たとい蘇・張を再生させ、老人を復活させたとしても、それでも彼らの背を撫でつつ、その言葉を論破したであろう。どうして足下ごとき若造に気移りさせられようか?」蔣幹はただ笑うばかりで、結局何もしゃべれなかった。蔣幹は(北方に)帰還すると、周瑜の雅量と高尚さを称賛し、言辞による離間を否定した。中州の士人もまた、そのことから彼を重んじた。劉備が京から帰還するとき、孫権は飛雲の大船に乗って張昭・秦松・魯粛ら十人余りとともに彼を見送り、大宴会を催して別れを告げた。張昭・魯粛らが席を外したあと、孫権一人が残って劉備と語り合った。(劉備は)話の流れで、周瑜のことを賛美して言った。「公瑾の文武計略は万人の英俊ですな。あの器量の広大さを考えると、きっと久しく人臣のままではいないでしょう。」周瑜が軍を撃破したとき、曹公は言った。「孤は逃走を恥としない。」後に孫権に手紙を送って言った。「赤壁の戦役では、ちょうど疾病が起こったため、孤は船を焼いて自ら撤退したのだ。不本意ながら周瑜にはあのような虚名を与えることになってしまったよ。」周瑜の威信声望が遠方でも高らかであったので、曹公・劉備はみな疑惑を植え付けようとして彼を誹謗したのである。(周瑜が)卒去すると、孫権は涙を流しながら言った。「公瑾は王佐の資質を持っていたのに、いま忽然と命が尽きた。孤は何を頼りにすればよいのか!」後に孫権は尊号を称したとき、公卿たちに言った。「孤は周公瑾がおらねば、帝王たりえなかったな。」

周瑜は若いころから音楽に精通し、盃が三度回った後でも、それに間違いが有れば周瑜は必ずそれに気付き、気付けば必ず振り返った。そのため当時の人々は歌にして言った。「曲を間違えれば周郎が振り返る。」

周瑜には二男一女があり、女は太子孫登に嫁いだ。男子周循公主を降嫁されて騎都尉を拝命した。周瑜の遺風を持っていたが早くに卒去した。周循の弟周胤は、はじめ興業都尉を拝命して宗室の女を娶り、軍勢千人を授かって公安に屯していた。黄龍元年(二二九)、都郷侯に封ぜられたが、のちに罪過のため廬陵郡に配流された。赤烏二年(二三九)、諸葛瑾・歩騭が連名で上疏して言った。「故の将軍周瑜の子周胤は、むかしお引き立てを蒙って、封土を受け将軍となりましたが、お目こぼしによってそれを増やしたり、功績を立ててお報いしようとまで思いが至らず、情欲を欲しいままにして罪悪を招き寄せる結果となりました。臣らが密かに思うには、周瑜はむかし寵愛と信任を受け、入朝しては腹心となり、出向しては爪牙となり、ご命令を蒙って出征すれば、身に矢石が当たろうとも節義を尽くして任務を果たし、死ぬことを念願するかのようでありました。それゆえよく烏林において曹操を破砕し、郢都において曹仁を駆逐し、国家の威信を発揚して華夏を震わせ、蠢動する蛮荊どもであれ帰服せざる者をなくしたのであります。方叔や漢の(韓)信・(英)布といえども、まこと、これ以上ではありますまい。そもそも鋭鋒を挫いて艱難を斥ける臣下といいますのは、古代以来、帝王の尊重せざる例はございません。それゆえ漢の高帝劉邦)は封爵の誓文で『たとい黄河が帯のごとく太山のごとくなれども、国は永久に存在したまま苗裔に及ぶのである』と仰せられ、丹書をもってい、詛盟をもって重んじられ、宗廟にしまって無窮に伝えられました。功臣の子孫が代々にわたって相受け継ぎ、ただ子や孫のみならず、すなわちはるけき苗裔にまで、恩義に報い功績を明らかにせんがためであり、慇懃さ鄭重さがこれほどまで行き着きましたのは、後世の人々への指標とすることによって、ご命令を奉ずる臣下たちが死んでも後悔せぬようお図りくだされたからなのです。ましてや周瑜の身は亡んで間もないのです。それを彼の子周胤を匹夫に降格されましたのは、いよいよ傷み悲しむべきことであります。密かに思い奉りますのは、陛下の叡慮が古を思い起こして勃興継承の道を高められ、周胤の供述を引き出してあがないきれぬ罪を追及し、(償いが終わりましたら)軍勢を返還して爵位に復帰させられ、朝を忘れた鶏に再度一鳴きさせるよう、罪を抱えた臣下に後日のご報恩への道を開かれますように。」孫権は答えて言った。「腹心や元勲たちは孤を補佐して事業に協力してくれた。公瑾にはそうしたものがあって決して忘れられるものではない。むかし周胤は年少であって初めは功労も無かったのであるが、無理をして精兵を授け、爵位を侯のまま将帥に取り立てたのは、公瑾を思えばこそ(恩返しを)周胤に波及させたのであった。しかるに周胤はそれを驕り、酒に浸って身勝手に振る舞い、前後して訓諭したにも関わらず一度も改悛することがなかった。孤の公瑾に対する(気持ち)は、義理からいっても二君(の申すところ)と同じである。周胤が成熟するのを願っているばかりか、どうして(それだけで)済ませようか?周胤の罪悪を追及しつつも、すぐに徴し返すのを承知しないのは、ひとまず彼を追い詰めることによって自覚させたいからなのだ。いま二君が真心から漢の高祖による河山の誓いを引用されたので、孤は忸怩たる思いになった。徳義の点で彼(高祖)の仲間とは言えないが、それでも近付きたいとは願っている。事実としては依然あのような具合で、それゆえ未だご意見に添うことはできないでいるが、公瑾の子息のことでもあり、そのうえ二君が間に立ってくれているのだから、もしよくよく改悛してくれるのなら、またどうして心配することがあろうか!」諸葛瑾・歩騭の上表が奉られると、朱然および全琮もまた一緒に請願したので、孫権はようやく聞き届けた。ちょうどそのころ周胤は病死した。

周瑜の兄の子周峻は、やはり周瑜の元勲によって偏将軍となり、官吏・兵士千人を領した。周峻が卒去すると、全琮が周峻の子周護を将帥に取り立てるよう上表した。孫権は言った。「むかし曹操を敗走させて荊州を開拓したのが、全て公瑾のおかげであることをいつでも忘れたことはない。初めは周峻が亡くなったと聞いて周護を任用しようと思ったのだが、周護の性格や行動が危なっかしく、彼を任用することは災禍を招くことになると聞いて、急遽取り止めたのだ。孤は公瑾を思い出すばかりか、どうして(それだけで)済ませるであろう也?」

魯粛伝

魯粛子敬といい、臨淮東城の人である。生まれてすぐ父を失ったので、祖母と一緒に暮らした。実家は資産に恵まれており、(魯粛は)根っからの施し好きであった。当時、天下は混乱をきたしていたが、魯粛は家業を営もうとはせず、盛大に財貨をばらまいて田畑を売却するようし、そうして困窮した者を救い、士人と交わることに意を注いだため、大いに郷里の歓心が得られた。

周瑜居巣県長になると、数百人を引き連れてわざわざ魯粛を訪れて挨拶し、同時に軍糧提供を求めた。魯家には蔵二つ分の米があって、(蔵一つで)それぞれ三千であったが、魯粛は一方の米蔵を指差して周瑜に与えた。周瑜はますます彼の立派さを思い知り、ついに親しく交わり合って僑・札の契りを結んだ。袁術は彼の名声を聞いて東城県長に任命した。袁術に綱紀がなく、ともに事業を興すことはできまいと見て取った魯粛は、そこで老弱の手を引いて任俠者の少年百人余りを連れ、南進して居巣の周瑜に身を寄せた。周瑜が東岸に渡ったときは彼に同行し、[一]家族を曲阿に残した。ちょうどそのとき祖母が亡くなったので、帰郷して東城に葬った。

[一] 『呉書』に言う。魯粛の体躯は雄々しく立派で、若いころから壮士の節義を持ち、奇計を考えることを好んだ。天下が乱れんとしていたので、撃剣と騎射を学び、若者たちを招き集めて衣食を工面してやり、南方の山中を往来して狩猟を行い、密かに編成を組んで、武術の講義や軍勢の調練を行った。父老たちはみな言った。「魯氏は代を重ねるごとに衰えておったが、とうとうこんな気違い息子が生まれちまった!」のちに群雄たちが次々と立ち上がり、中州が混乱すると、魯粛は家族たちに言い聞かせた。「中国は綱紀を失ってしまい、盗賊どもが暴れ狂っている。淮水・泗水流域は子孫を残せる場所ではない。江東は万里に及ぶ沃野を抱え、民衆は豊かで軍勢は強いとは聞いている。避難するには充分だ。さあ、一緒に連れ立って楽土へ行き、時の変化を見定めようではないか?」彼の家族はみな言い付けに従った。そこで女子供を先に立て、強壮な者が殿軍となって、男女三百人余りで移動した。州庁から騎馬武者たちが追いかけてきたので、魯粛らは移動速度をゆるめて軍勢をまとめ、満を持して(迎撃の構えを取り)彼らに告げた。「卿らは丈夫であって天下の情勢を理解できるはずだ。今日、天下に兵乱が訪れており、功績はあっても褒賞はなく、追跡しなくとも処罰はない。どうして我らを追及するのか?」また自ら盾を立て掛けておき、弓を引いてそれを狙うと、矢は全て貫通した。騎馬武者たちは魯粛の言葉に感銘を受け、そのうえ制御できそうもないと考えられたため、互いに連れ立って帰っていった。魯粛は長江を渡って孫策に会いに行ったが、孫策の方でも彼を立派だと思った。

劉子揚劉曄)は魯粛の親友であったので、彼に手紙を書いて言った。「今や天下に豪傑どもが並び立っており、吾との才覚は今日にこそ相応しい。取り急ぎ帰って老母を迎えられ、東城に滞在して難を避けられますよう。いま近くに鄭宝という者が巣湖におり、軍勢一万人余りを擁して豊饒の地を占め、廬江一帯の人々の多くは彼に身を寄せております。ましてや(才覚ある)吾らならどうでしょうか?彼らの形勢を観察してみるに、ますます(人材を)手広く集められましょう。時機を失ってはなりません。足下も急がれよ。」魯粛はその計略の通りであると返答した。葬儀が済むと曲阿に戻り、北方へ行こうとしたが、ちょうどそのとき周瑜が魯粛の母を連れてに到着しており、魯粛は詳しい事情を周瑜に説明した。当時、孫策はすでに薨去していたが、(その弟)孫権がまだ呉に残っていた。周瑜は魯粛に言った。「むかし馬援は『いま世の中では、ただ君主が臣下を選ぶだけでなく、臣下もまた君主を選ぶのです』と光武劉秀)に答えています。いまご主君は賢者に親しみ士人を尊重され、奇才を入れ異能を取り上げておられます。また吾の聞くところでは、先哲の秘論として、天運を承けて劉氏に代わる者は必ず東南に興るとのことでしたが、情勢を占ってみるに、かのお方こそが暦数に合致しておるのです。最終的に帝業の基を築き、天の意志に適うことでしょう。これぞ烈士が龍鳳にしがみついて奔走するなのです。吾はその時機に出会いました。足下も子揚の言葉を意に介して躊躇なされぬよう。」魯粛は彼の言葉に従った。周瑜はそこで魯粛の才能は天命を補佐しうるものであり、彼のような人材を広く求めて功業を完成すべきです、立ち去らせてはなりませぬと(孫権に告げて魯粛を)推挙した。

孫権はすぐさま魯粛に会って語り合い、大いに満悦した。賓客たちが退出したとき魯粛も辞去したが、そのあと魯粛だけが呼び返され、を間に挟んで酒を飲んだ。そこで(孫権は)密かに諮った。「いま漢室は危殆に傾き、四方は群雲のごとく乱れておるが、孤は父兄の遺業を受け継ぎ、桓・文(春秋時代の桓公文公)の功績を思慕している。ありがたいことに君がいてくれるのだが、どうやって助けてくれるのかな?」魯粛は答えた。「むかし高帝劉邦)が微力だったとき、義帝にお仕えしようとして叶わなかったのは、項羽が害をなしたからでした。今の曹操がちょうど昔の項羽に当たります。将軍がどうして桓・文になりえましょうか?魯粛が密かに思料いたしまするに、漢室を復興することも、曹操を即座に除去することも不可能であります。将軍の御為にお計り申し上げますれば、ただただ江東に鼎足を構えて天下の隙を窺うのみであります。そのように基準を設けますれば、もう戸惑うことはございません。何故だかお分かりになりますか?北方はまことにもって多忙であるからです。その多忙に乗じて黄祖を滅ぼし、劉表を征伐し、最終的に長江を北限として割拠し、これを領有され、しかるのち帝王を称して天下を攻略する。これこそが高帝の事業なのであります。」孫権は言った。「今は一地方で手一杯。漢家をお助けできればと願うのみであって、そのようなことは及びもつかないよ。」張昭は魯粛の謙遜ぶりが足りないとけちを付け、しきりに彼を中傷し、魯粛は年若く粗忽者なので任用するのは時期尚早だと述べた。孫権は意に介することなく、ますます彼を尊重し、魯粛の母には衣服・幃帳を下賜し、住居の調度品の豊かさは元通りになった。

劉表が死去したので、魯粛は進み出て説いた。「そもそも荊楚荊州)は我が国と隣接しており、川の流れは北方に通じ、外は長江・漢水を帯び、内は山岳に阻まれ、金城のごとき堅固さ、万里に広がる沃野、富み栄えた士民を有しております。この地を占拠し、領有することができますれば、それが帝王の元手となるのです。いま劉表が死亡したばかりですが、二人の子は普段から仲が悪く、軍中の諸将はおのおのが両派に分かれております。しかも劉備は天下の梟雄であり、曹操と仲違いして劉表の元に寄寓しておりましたが、劉表は彼の才能を憎んで任用することができませんでした。もし劉備が彼らと心を合わせて君臣が一致団結しておれば、手懐けて同盟を結ぶのが宜しゅうございます。もし離違しておれば、彼らと手を切って征服し、大事業を完遂なさるのが宜しゅうございます。魯粛はご下命を奉じて劉表の二子に弔意を伝え、同時にその軍中で役立つ者を慰労したく存じます。劉備には劉表軍を手懐けて心を合わせ、共同して曹操を討伐するよう説得いたしますれば、劉備は必ずや喜んで言い付けに従うでありましょう。それがうまくいけば天下を平定することができるのです。いま急いで行かなければ、おそらく曹操に先手を打たれてしまいましょう。」孫権はすぐさま魯粛に出立させた。夏口に到達したとき、すでに曹公(曹操)が荊州に向かっていると聞き、(魯粛は)昼夜兼行で急いだ。南郡に到達したころには劉表の子劉琮はすでに曹公に降伏しており、劉備は慌てふためいて遁走し、長江を南へ渡ろうとしていた。魯粛は彼を出迎えるべく直行して当陽長阪に行き着き、劉備と会見して孫権の令旨を宣騰した。江東の強固さを述べ、孫権と協力するよう劉備に勧めると、劉備はいたく喜んで満足した。このとき諸葛亮が劉備に付き従っていたが、魯粛は諸葛亮に「子瑜(諸葛亮の兄諸葛瑾)の友人であります」と告げ、その場で結束を固めた。劉備はそのまま夏口に行き、諸葛亮を孫権への使者に立てたが、魯粛もまた復命した。[一]

[一] 臣裴松之は考える。劉備が孫権と協力して一緒に中国へ抵抗したのは、すべて魯粛の本来の計略であった。また諸葛亮に「我は子瑜の友人であります」と語っているのだから、諸葛亮もすでに魯粛の意見を聞いていたことになる。それなのに『蜀書』諸葛亮伝では「諸葛亮が連衡の計略を孫権に説くと、孫権は大いに喜んだ」と言っており、あたかもその計略は諸葛亮が創始したかのようである。両国の史官がおのおのの見聞を記し、自国の優位を称揚して競い合い、それぞれがその手柄を奪い合っているかのようだ。今この二書は一人物から同時に出たものなのに、これほどまで食い違っている。著述として体をなしていない。

そのころ孫権は曹公が東進しようとしているとの風聞を聞き、諸将たちと協議したが、みな彼を出迎えるよう孫権に勧めた。魯粛は一人だけ何も言わない。孫権が更衣に立つと魯粛が宇下まで追いかけてきたので、孫権は彼の意図を察知し、魯粛の手を取って言った。「には何か言いたいことがあるのかい?」魯粛は答えた。「先ほどの衆人の議を観察いたしますと、どれも将軍を誤らせるものばかりで、ともに大事を図るに足りません。いま魯粛は曹操を迎えても構いませんが、将軍にとっては宜しくありません。何故そう言えるのでしょう?いま魯粛が曹操を出迎えれば、曹操は魯粛を郷里に帰すことでしょうが、名望・位階を格付けすれば最低でも下曹従事を下回ることはなく、犢車に乗って官吏・士卒を従え、士林を交遊し、任官を重ねればまず州郡(の長官)を下回ることはないのです。将軍は曹操をお迎えするとして、どこに身を寄せるおつもりなのですか?どうか早く大計を定め、衆人の議を用いられませぬよう。」孫権は歎息しながら言った。「あの方たちの提議は随分とを失望させた。いま卿は大計を展開してくれたが、まさしく孤と一致するものである。これは天が卿を我に賜ってくれたのだ。」[一]

[一] 『魏書』および『九州春秋』に言う。曹公が荊州を征討すると、孫権は大いに恐懼した。魯粛は内心、曹公を防ぐよう孫権に勧めるつもりであったが、孫権を挑発するように説得した。「かの曹公なる者は実に手強い敵でありまして、新たに袁紹を併合したばかりのこととて兵馬はいたって精強、戦勝の勢いに乗じて混乱した国を伐ちますので勝利は万全なのであります。軍勢を派遣して彼を支援し、同時に将軍のご家族をへお送りするに越したことはございません。さもなくば危険がやって参りましょうぞ。」孫権は激怒して魯粛を斬ろうとした。魯粛はそこで言った。「いま事態は危急を告げておりますゆえ、すぐさま別の方策を講じねばなりません。どうして軍勢を派遣して劉備を支援しようともせず、我を斬りなさるのですか?」孫権はその通りだと思い、そこで周瑜をやって劉備を支援させた。孫盛は言う。『呉書』および『江表伝』には、魯粛が初めて孫権と会見したとき、すでに曹公を防ぐべきと説いて帝王の計略を論じており、劉表が死ぬと、またも使者を立てて情勢を観察するよう要請したとあり、今さら意見を変えて曹公の出迎えを勧めて挑発することなどありえないのである。しかも、このとき出迎えを勧める者は数多くいたのに、そのくせ魯粛一人を斬ろうとしたなどと言うのは、その論理に合わぬことである。

そのとき周瑜は使命を受けて鄱陽に行っていたので、魯粛は追って周瑜を徴し返すよう勧めた。かくて周瑜に軍務遂行を委任し、魯粛を賛軍校尉として戦略立案を補佐させた。曹公が敗走すると、魯粛はすぐさま一足早く帰国した。孫権は諸将を総動員して魯粛を出迎える。魯粛が門に入って拝礼しようとすると、孫権が立ち上がって彼に敬礼し、そして言った。「子敬よ、孤が鞍を手に下馬して出迎えたならば、卿を充分に顕彰したといえるだろうか?」魯粛は走り出て言った。「まだまだですな。」人々にそれを聞いて愕然としない者はない。座に着いたのち、(魯粛は)ゆっくりと鞭を挙げながら言った。「願わくば至尊よ、威徳を四海に加えて九州を総括され、よく帝業を打ち立て、改めて安車・軟輪をもって魯粛を徴されよ。そうして初めて顕彰したことになるのでございます。」孫権は手を叩いて愉快げに笑った。

のちに劉備がに参詣して孫権にまみえ、荊州を都督(監察)したいと求めたとき、(諸将は反対したが)魯粛だけは彼に貸してやって共同して曹公に対抗せよと孫権に勧めた。[一]曹公は孫権が土地でもって劉備を支援したと聞くや、ちょうど手紙を書いていたところであったが、筆を地べたに落としてしまった。

[一] 『漢晋春秋』に言う。呂範は劉備を足止めするよう勧めたが、魯粛は言った。「なりませぬ。将軍は神武命世のお方とはいえ、曹公の威力は実に重大でございますし、まだ荊州に臨んだばかりで恩寵信義はまだ広まっておりません。劉備に貸してやって慰撫させるのがよろしゅうございます。曹操の敵を増やす一方、こちらで仲間を作るのが上計なのであります。」孫権はすぐさまそれを聞き入れた。

周瑜は病気にかかり、そこで上疏して言った。「いま天下に事変が起ころうとしており、それが朝から晩まで周瑜の心底憂慮していることです。どうか至尊におかれましては、まず事態の勃発せぬうちに備えられ、それからのちお楽しみ遊ばしませ。いま既に曹操と敵対なさっており、劉備は近く公安に駐在して国境を接しており、百姓たちはまだ懐いておりませぬから、良将を手に入れてその地を鎮撫されるべきです。魯粛の智略は任務を遂行するに充分でございますので、なにとぞ周瑜の後任としてくださいますよう。(さすれば)周瑜の死んだ日でも思いを残すことはないのでございます。」[一](孫権は)すぐさま魯粛を奮武校尉に任じ、周瑜の後任として軍勢を宰領させた。周瑜の将兵は四千人余りおり、奉邑は四県であったが、すべて彼に属すことになった。程普には南郡太守を領させた。魯粛は初め江陵に着任し、のちに引き揚げて陸口に屯したが、威信恩恵は大いに広まり、軍勢は一万人余りも増えた。漢昌太守・偏将軍を拝受する。十九年、孫権に従軍して皖城を破り、横江将軍に転任した。

[一] 『江表伝』は、むかし周瑜は病気が重くなったとき、孫権に送った手紙を載せている。「周瑜は凡才でありながら、むかし討逆(孫策)さまより特別待遇をお受けし、腹心のごとく用いられ、とうとう栄誉と任務を授かって兵馬を統御することになりました。(それゆえ)鞭とを手にして軍務で手柄を立てたいものと念願したのでございます。巴蜀を平定し、続いて襄陽を奪うことは、ご威光を奉ずるならば手中にあるも同然でありますが、不養生がたたって道中で病気にかかる羽目となり、先日より医療を受けているものの、日に日にひどくなって快復いたしません。人生には死というものがあって長短は運命なのでありますから、誠に惜しむに足りません。ただ一つ、ささやかな志を遂げて、再びご命令を奉ずることができないことだけが恨めしく思われるのです。今まさに曹公が北方にいて国境地帯は静謐ならず、劉備が寄寓して虎を養うかのような風情であり、天下のことは、未だどう決着するとも知れません。これこそ朝廷の人士が食事をらす秋、至尊の叡慮を垂れたまう日なのでございます。魯粛は忠烈にして、職務に臨んでは手加減をいたしませんから、周瑜の後任になさるべきであります。人の死せんとするや、その言や善し(と申します)。もし(周瑜の言葉を)お取り上げ頂けたならば、周瑜は死すとも不朽でございます。」思うに、この手紙は本伝に載せるものと主旨が同じで、その言葉遣いが乖離しているだ。

話はさかのぼる。益州牧劉璋の綱紀が緩みきっていたため、周瑜・甘寧は口を揃えてを攻略せよと孫権に勧めたことがあるが、孫権がそれを劉備に相談すると、劉備は内心、我が物にしたく思っていたので偽りの返答をした。「劉備と劉璋とは宗室の努めとして、英霊におすがりして漢朝を正したいと念願しておりました。いま劉璋は畏れ多くも罪を犯し奉り、劉備はひとり震え上がっており、あえて奏聞いたすわけでもございませぬが、ご寛恕を加えられればと願っております。もしご宥免いただけぬなら、劉備は髪をほどいて山林に帰らねばなりませぬ。」のちに劉備は西進して劉璋を陥れ、関羽を守りに残した。孫権は言った。「狡猾な奴め、詐術を弄しおったわ!」さて関羽と魯粛が境界を接するようになると、しばしば疑念が生じ、国境地帯でごたごたが起こったが、魯粛はつねに友好的な態度でそれを鎮めた。劉備が益州を平定したとき、孫権は長沙・零・桂を要求したが、劉備は申し入れを承諾しなかった。孫権は呂蒙をやって軍勢を率いて奪いに行かせた。劉備は(それを)聞き、自身は公安に引き返し、関羽を派遣して三郡を競わせた。魯粛は益陽に布陣して関羽と対峙した。魯粛は関羽を招いて会見し、おのおの兵馬は百歩後ろに控えさせ、ただ将軍だけが刀一振りを帯びて会談に臨むよう申し入れた。魯粛はそこで関羽を責めなじり、言った。「もともと国家が心を砕いて卿の家に土地をお貸ししたのは、卿の家の軍勢が敗れて遠方から来られ、元手を失ったものと思し召されたからである。いま益州を手に入れたにもかかわらずご奉還なさろうとの意志もなく、ただ三郡を要求しただけでもやはりご命令に応じられないとは。」言葉がまだ終わらぬうち、坐中の一人が言った。「そもそも土地というものは徳のあるところに行き着くのだ。恒久的な所有権なぞあるものか!」魯粛は声を荒げてその者を叱りつけ、言葉も顔色もきわめて厳しかった。関羽は刀を取って立ち上がりながら「これはもとより国家のこと。これなる人物の分かることではない!」と言い、睨みつけてその者を追い出した。[一]劉備は結局、湘水を区切って境界とし、それが済んでから軍勢を収めた。

[一] 『呉書』に言う。魯粛が関羽と会談しようとしたとき、諸将は変事が起こるのを懸念して赴くべきでないと提言した。魯粛は言った。「今日の事態については、お互い腹を割って話し合わねばならん。劉備は国事を背負っていて、いまだに是非も定められぬのに(?)、どうして関羽がまた重ねて命令に楯突いたりできようか!」そこで関羽のところへ出向いていった。関羽は言った。「烏林の戦役では、左将軍(劉備)は軍中に身を置いて、寝るときも具足を解かず、協力してを打ち破ったものでした。どうして無駄骨を折って一塊の壌地もなく、そのうえ足下が来られて土地を搾取しようとなさるのか?」魯粛は言った。「左様ではござるまい。もともと長阪において予州(劉備)に参観したとき、予州の軍勢は一校(一部隊)にも満たず、計略思慮は尽き果てて戦意気勢は打ち砕かれ、遠くへ逃げ隠れすることを考えておって、到底そこまでは望んでおられなかった。主上は予州が身の置き場もないのを憐れみ賜い、土地や士人の力を惜しまれず、落ち着きどころを持たせて庇護を加え、その困難を救済されたのである。しかるに予州は私独して気持ちを偽り、恩義に背いて好意をりになさる。いま既に西州(益州)を(我が身の)支えとなさったのに、そのうえ荊州の地までも切り取ろうとは。こんなことは凡夫ですら忍びがたい行為であって、ましてや人物を統率する主のなさることでしょうか!貪欲を働いて義を棄てるのは、必ずや災禍を招く前段階だと魯粛は聞いております。吾子は重任を担当されながら、分を弁えて道義を守り、義を奉じて御代を輔弼することもおできにならず、そのくせ軟弱な軍勢を頼りにして力比べをしようと思っておいでだが、部曲が腰砕けになっておるのに、どうやって成果を出すおつもりか?」関羽はそれに答えなかった。

魯粛は齢四十六で、建安二十二年(二一七)に卒去した。孫権は哀悼を捧げ、また親しく彼の亡骸に対面した。諸葛亮もやはり彼のために哀悼を捧げた。[一]孫権は尊号を称えて壇上に昇ろうとしたとき、公卿たちを振り返って言った。「むかし魯子敬はいつもここへと導いてくれていた。時勢に明らかであったと言えるだろうな。」

[一] 『呉書』に言う。魯粛の人となりは謹厳で着飾ることは少なく、公私にわたって倹約に努め、低俗な趣味には手を染めなかった。軍勢を統率してもよくまとまり、禁令は必ず施行され、陣中にあっても巻物を手放すことはなかった。また談論が得意で文章が巧く、思慮は遠大で人一倍の聡明さを持っていた。周瑜以後の世代では魯粛が随一の人物であった。

魯粛の遺腹の子魯淑が壮年に達すると、濡須督張承は、最終的に(魯淑が任命を受けてこの地に)到来するだろうと言った。永安年間(二五八~二六四)になって昭武将軍・都亭侯・武昌督となり、建衡年間(二六九~二七二)にはされ、夏口督に昇進した。任地では厳正で要領を弁えていた。鳳皇三年(二七四)に卒去し、子の魯睦が爵位を襲い、兵馬を拝領した。

呂蒙伝

呂蒙子明といい、汝南富陂の人である。幼いころ南方へ渡り、姉の夫鄧当に身を寄せた。鄧当は孫策の将としてしばしば山越を討伐していたが、呂蒙は十五・六歳のとき、内緒で鄧当の賊徒攻撃に付いていった。鄧当は振り返ったとき(彼の姿を)見付けて大いに驚き、叱り飛ばしたものの聞き分けがなかった。(鄧当は)帰国したとき呂蒙の母に告げると、母は怒って彼にお灸を据えようとした。呂蒙は言った。「貧しさ賤しさには我慢なりません。うっかり間違って功績を立ててしまっても富貴はやってくるのです。虎穴を探らずしてどうして虎子を得られましょうか?」母は哀れに思って彼を許すことにした。そのころ鄧当配下の官吏が、年少であった呂蒙を軽んじて「かの豎子に何ができると言うんだ?あんなのは肉を虎にくれてやるようなものだぞ」と言った。後日、呂蒙と顔を合わせることがあったので、またも彼を蚩辱した。呂蒙は激怒し、刀を抜いて官吏を殺して出奔、邑子(同郷)の鄭長の家に逃げ込んだ。(しばらくして)出ていき、校尉袁雄を介して自首した。間に立って取りなす者がいたので、孫策は彼を引見したが、彼の非凡さを知って左右(側近)の座に据えた。

数年して鄧当が死去すると、張昭が鄧当の後任として呂蒙を推薦したので、別部司馬を拝命した。孫権は事業を統括するようになると、群小の部将たちのうち兵が少ないためあまり役立たない者たちを選び、それらを統合してしまおうと考えた。呂蒙は密かにかけで買って兵士のために赤い上着と行縢を揃えた。点検の日、(呂蒙の)陣列は赤々と輝き、兵士はよくよく調練されていた。孫権はそれを見て大いに喜び、彼の軍勢に(群小の部将たちを)加増してやった。丹陽討伐に従軍して行く先々で功績を立て、平北都尉を拝命し、広徳県長を領した。

黄祖征討に従軍したとき、黄祖は都督陳就に出陣を命じて水軍で迎撃させた。呂蒙は先鋒を率い、その手で陳就の首級を挙げ、将兵たちは勝利に乗じて敵城へと攻め寄せた。黄祖は陳就が死んだと聞いて城を棄てて逃げ出したが、兵士たちが追いかけて彼を捕捉した。孫権は言った。「作戦の成功は、陳就を先に手に入れたおかげだ。」呂蒙を横野中郎将とし、銭一千万を賜った。

この歳、また周瑜・程普らとともに西進して烏林曹公曹操)を打ち破り、南郡曹仁を包囲した。益州の将襲粛が軍を挙げて帰参したので、周瑜は襲粛の軍勢を呂蒙に加増するようにと上表したが、呂蒙はしきりに襲粛には度胸があって有能であると称賛し、それに教化を慕って遠来したのだから、道義的にも加増してやるべきであって没収してはならないといった。孫権はその言葉を称え、襲粛の兵を返してやった。周瑜は甘寧を派遣して事前に夷陵を占拠させていたが、曹仁が軍勢を分けて甘寧を攻撃させたので、甘寧は苦境に立たされ、使者をやって(周瑜に)救援を求めさせた。諸将は軍勢が少ないため分遣させられないと言ったが、呂蒙は諸将に告げた。「淩公績淩統)を残し、呂蒙と君らとで行けば、包囲を解いて窮地を救うのも勢いからいってそう時間はかかりません。呂蒙は公績が十日間守りきれることを保証しましょう。」さらに、三百人を分遣して狭い道を塞いでおけば、賊軍が逃走したとき彼らの馬を手に入れられるでしょうと周瑜を説得した。周瑜はそれを聞き入れた。軍が夷陵に到着したその日のうちに交戦となり、殺したのは(敵兵の)半数以上になった。敵軍は夜中に遁走したが、道が塞がれているのにぶつかり、騎兵たちはみな馬を捨てて徒歩で逃げていった。(呉の)兵士たちが追いすがって攻撃し、馬三百匹を手に入れたので大船に載せて引き揚げた。このことから将兵の形勢は自ずと倍増したので、長江を渡って屯所を立て、互いに攻撃し合ったところ、曹仁は退却していった。(呉の軍勢は)そのまま南郡を占拠して荊州を鎮定した。帰還すると偏将軍を拝命し、尋陽県令を領した。

魯粛が周瑜の後任として陸口に赴任することになったとき、呂蒙の駐屯地の側を通りがかった。魯粛の気持ちではまだ呂蒙を軽蔑するところがあったが、ある者が「呂将軍の功名は日ごと顕著になっており、昔の気持ちで接せられてはなりません。君よ、それをご考慮なされませ」と魯粛に説いたので、呂蒙の元へ挨拶に立ち寄った。酒宴が酣になると呂蒙が魯粛に訊ねた。「君は重任を授かって関羽と隣接されることになりましたが、さて、どのような計略によって不慮の事態に備えておいでなのです?」魯粛は口先だけで答えた。「その時になったら考える。」呂蒙が言った。「いま東西は一つの家族になりましたが、関羽の実態は熊虎そのものです。どうして計略をあらかじめ定めておかずにいられましょうか?」そこで魯粛のために五つの策略を立ててやった。魯粛はいきなり席を立って彼の側へ行き、その背中を叩きながら言った。「呂子明よ、の才略がこれほど行き届いているとはは知らなかったよ。」かくて呂蒙の母に拝礼し、朋友の契りを結んでから別れた。[一]

[一] 『江表伝』に言う。むかし孫権は呂蒙と蔣欽に告げた。「卿がたはいま揃って当塗(要職)に就いて事務を司ることになったのだから、学問をやって自分の見識を広めるべきだぞ。」呂蒙が言った。「軍中ではいつも多忙に追われ、読書できないのではないかと心配です。」孫権は言った。「がどうして卿がたに経典を修めて博士になってもらいたいと望むだろうか?ただ渉猟して過去の事を知ってもらいたいだけなのだ。卿は多忙と言うたが孤と比べてどうじゃ。孤は若いころ『詩経』『尚書』『礼記』『左伝』『国語』を渡り歩き、読んでないのは『周易』くらいだ。事業を統括するようになって以来、三史や諸家の兵書を精読し、自分では裨益するところ大だと思っておる。卿がた二人は意志も性質も明朗であるから、学べば必ず身に付けられるであろうに、どうしてしないでいられようか?取り急ぎ『孫子』『六韜』『左伝』『国語』および三史をお読みなさるとよい。孔子も『ひねもす食わず、よもすがら寝ずに思いを馳せても無益である。学ぶに越したことはない』とおっしゃっているし、光武は兵馬の務めに際しても手から巻子を離さなかった。孟徳(曹操)もまた年老いてから学問を好むようになったと自分で言っている。卿がただけがどうしてご自身を勉励なさらないのか?」呂蒙はそこで初めて学問に就いたが、丹誠をこめて倦むことなく、彼の読んだところは根っからの儒者でも敵わなくなった。のちに魯粛が周瑜の後任として(長江を)遡上し、呂蒙の元に立ち寄って議論したが、ずっとやりこめられそうな状態だった。魯粛は呂蒙の背中を叩きながら言った。「吾は大弟どのがただ武略しか持っておらぬと思っておったが、今となっては、学識は広く明るく、もうの城下の阿蒙ではなくなってしまったのう。」呂蒙は言った。「士たる者は別れて三日になれば、目をこすって気持ちを新たに向き合うべきなのです。大兄の先ほどのお言葉、なにゆえ一々穣侯と同じなのでありましょうか。はいま公瑾(周瑜)の後任となり、ただでさえ引き継ぐのは困難でありますのに、そのうえ関羽と隣接なさるのです。かの人物は長じてから学問を好み、『左伝』を読んでほとんど全部を口に出すことができ、剛直で雄大な気迫を持っておりますが、その一方で自負心が非常に強い性格で、他人の上に立つことを好みます。いま彼と向き合うことになったのですから、単複を備えて彼に卿待すべきです。」密かに魯粛のために三つの策略を披露してやると、魯粛は恭しくそれを傾聴し、秘して他言しなかった。孫権はつねづね歎息して言っていた。「人間たる者は長ずるとともに向上してゆくものだが、呂蒙・蔣欽ほどには及ばないだろう。富貴と名声を手に入れながら、なおも誇りを捨てて学問を好み、書伝を楽しみ、財貨を軽んじて道義を尊ぶ。行動は慕うべき規範となり、いずれも国士となった。なんと立派なことではないか!」

そのころ呂蒙は成当・宋定・徐顧と屯所が近かったが、三将が死んだとき(彼らの)子弟は幼少であったので、孫権は軍勢をことごとく呂蒙に統合しようとした。呂蒙は固く辞退し、徐顧らはみな国事に尽力いたしましたので、子弟が幼いとはいえ廃してはなりませぬと陳情した。上書が三度に及んで、孫権はようやく聞き入れた。呂蒙はそこで彼らのために師を選んでやって教導させた。彼が他人の心をつかむ様子はおおかたこんな具合であった。

廬江謝奇蘄春典農としての農村に屯させていたが、(謝奇は)しばしば辺境で災いをなしていた。呂蒙は人をやって彼を招いたが、言うことを聞かなかったため隙を窺って襲撃を加えると、謝奇はすくみ上がり、その部曲孫子才・宋豪らは、みな老人の手を引いたり子供を背に負ったりして呂蒙の元に降服してきた。のちに孫権に従軍して濡須において曹公を防いだが、たびたび奇計を進言し、さらに河口を挟んでを築くよう孫権に勧めた。防備はきわめて厳重になり、[一]曹公は陥落させることができず撤退した。

[一] 『呉録』に言う。孫権は塢を築きたいと考えていたが、諸将はみな「岸に上がって賊を撃ち、足を洗って船に入るまでのことです。塢を築いたとて何の役に立ちましょう?」と言った。呂蒙は言った。「勢いにも鋭いときと鈍いときがあり、戦いに百戦百勝はあり得ません。もし何かのはずみで敵軍の歩騎が我らに迫り、川に入る暇もないとなれば、どうして船に入ることができましょうか?」孫権は「よい考えだ」と言い、かくてこれを築いたのである。

曹公は朱光を廬江太守として皖に屯させ、盛んに稲田を開拓していたが、また間者に命じて鄱陽賊の統帥を誘い、内応させようとしていた。呂蒙は言った。「皖の稲田はよく肥えておりますゆえ、一度の収孰があれば奴らの軍勢は必ず増大いたします。それが数年も続くならば、曹操は本性をむき出しにしてくるでしょう。早急に除去すべきです。」そこでつぶさに現状を報告した。これにより孫権は皖へと親征することとし、諸将を引見して計策を問うた。[一]呂蒙はそこで甘寧を升城督に推薦して最前線で攻撃を指揮させ、呂蒙が精鋭を率いて後詰めにあたる(という作戦を進言した)。朝早く進攻を開始し、呂蒙がその手に枹を取って太鼓を打つと、士卒たちはみな奮い立って我先にと(城壁を)昇ってゆき、食時(わずかな時間)ほどで打ち破った。そのあと張遼夾石まで駆け付けて来たが、城がすでに陥落したと聞いて引き揚げていった。孫権はその功績を褒め称え、即日、廬江太守に任命、鹵獲した人馬をすべて彼に分け与え、それとは別に尋陽の屯田兵六百人、属官三十人を下賜した。呂蒙が尋陽に帰国して一年と経たぬうちに廬陵の賊徒が蜂起し、諸将が討伐にあたったが捕らえることができなかった。孫権は「百羽の鷙鳥(猛禽)を集めても一羽のには敵わない」と言い、改めて呂蒙に征討させた。呂蒙は着陣すると、その首魁だけを誅殺し、残りはみな釈放して平民に戻してやった。

[一] 『呉書』に言う。諸将はみな土山を築いて攻具(攻城兵器)の数に入れるべきと勧めたが、呂蒙が走り出て言った。「攻具として土山まで揃えるとなれば、きっと完成までに何ヶ月もかかります。城内の防備はすっかり堅固となり、外部の救援もかならず到着し、攻略できなくなってしまいましょう。それに雨に乗じて(水位の高まったところを船で)進入いたしましたが、ぐずぐずと日にちを重ねるならば、水位はすっかり引いてしまって帰途に難渋することになります。呂蒙は密かにそれを心配いたします。いまこの城を観察してみたところ、堅固さを極めたものではございません。三軍の鋭気に乗じて四方から一斉に攻めかければ、時を移さずして陥落させられましょう。(そして)水量を利用して帰還いたしますのが、完勝の道でございます。」孫権はそれを聞き入れた。

当時、劉備は関羽を押さえとして荊州を独占していた。孫権は西征して長沙・零・桂三郡を奪取するよう呂蒙に命じた。呂蒙が檄を飛ばすと、二郡は噂を聞いただけで帰服してきたが、零陵太守郝普だけは城郭に楯籠って降服しなかった。しかも劉備自身がを出立して公安へ着陣、関羽を出して三郡を争わせた。孫権はこのとき陸口にあり、魯粛に一万人を率いさせ、益陽に屯して関羽に対抗させた。そして書状を飛ばして呂蒙を召し返し、零陵を放棄して直ちに帰還し、魯粛を支援するようにと命じた。もともと呂蒙は長沙を平定したのち、零陵を目指してを抜け、南陽鄧玄之を車に載せて、鄧玄之は郝普の旧知なのであるが、郝普を誘降させるつもりであった。(孫権からの)書状が届いて帰らなければならなくなったが、呂蒙はこれを伏せ、夜中に諸将を召し出して計略を授け、夜明けとともに城へ攻めかからせた。振り返って鄧玄之に言った。「郝子太(郝普)は世間で忠義者として知られ、彼自身もそうあろうと努めておるのだが、ただ時宜を心得ておらんのだ。左将軍(劉備)は漢中にあって夏侯淵に包囲され、関羽は南郡にあって、いま至尊(孫権)が直々にお出ましになっている。近くでもの本営が破られ、酃を救おうとしたところを逆に孫規に打ち破られた。これらはみな目前に起こったことであって、君自身が見聞したものである。彼は今まさに逆しまに吊し上げられているところで、(自分の)命を救うことさえままならないのに、そんな真似をする余力などどこにあろうか?いま吾らの士卒は精鋭であり、一人ひとりが命懸けの覚悟を固め、至尊のお遣しになった軍勢は続々と行軍の途に就いておる。いまは今日明日の命であるのに、あてにならぬ救援を待っており、あたかも牛の蹄の(跡にできた水たまりにいる)魚が長江や漢水に希望をつなぐようなものであって、それが頼りないことであるのは明らかではないか。もし子太が士卒の心を一つにして孤立した城を守り続け、今日明日(の落城)を先延ばしにして待ち人が来るというのであれば、まあよいだろう。いま吾は戦力を比較して計画を練り、その上でこの城を攻めておる。日を移さずして城が破られるのは必定である。城が破られれば、身は死して忠義立てするにも何の役にも立たず、しかも百歳の老母を白髪ながらに誅殺させることになるのだ。痛ましいことではないか?忖度するに、かのは外部からの音信が途絶えておるため救援があてになると考え、それゆえこのような事態に陥っているのだろう。君があれに会って利害を説明してやってくれないか。」鄧玄之が郝普に会ってつぶさに呂蒙の考えを伝えると、郝普は恐怖を抱いてそれを受け入れた。鄧玄之が先に出ていって呂蒙に報告し、郝普が少ししてから出頭することになったが、呂蒙はあらかじめ、それぞれ百人づつを選抜して、郝普が出てきたら、すぐさま突入して城門を固めてしまうようにと四人の将に命じておいた。しばらくして郝普が城を出てくると、呂蒙は出迎えてその手を執り、一緒に下船した。話し合いが終わってから、(孫権からの)書状を取り出して彼に見せ、手を打って大笑いした。郝普は書状を見て、劉備が公安に、関羽が益陽にあることを知って、恥ずかしさと怒りを募らせて地べたにぶっ倒れた。呂蒙は孫河を残して戦後処理を委ね、その日のうちに軍をまとめて益陽に向かった。劉備が盟約締結を求めてきたので、孫権は郝普らを帰国させ、湘水で分割して零陵を返してやった。(孫権はまた)尋陽・陽新を呂蒙の奉邑とした。

軍は帰還すると、その足で合肥を征討したものの、(勝利を得られず)撤退することが決まった。(そこへ)張遼らが襲来し、呂蒙は淩統とともに決死の覚悟で(孫権を)守護した。のちに曹公がまたもや濡須へ大々的に乗り出してきたので、孫権は呂蒙をとして以前作った塢に楯籠らせ、強弩一万張をその上に設置して曹公を防がせた。曹公の先鋒がまだ布陣を終えないうちに呂蒙が攻撃をかけて打ち破ったため、曹公は引き揚げていった。呂蒙を左護軍・虎威将軍に任命した。

魯粛が卒去すると、呂蒙が西上して陸口に屯し、魯粛軍の人馬一万余りはことごとく呂蒙に属すことになった。さらに漢昌太守を拝命し、下雋・劉陽・漢昌・州陵んだ。関羽と隣接して領土をめぐって対峙したが、関羽が驍雄でありながら兼併せんとの野心を持ち、加えて上流に国を構えている情勢からいって、(両国の友好関係も)そう長くは続くまいと思われた。当初、魯粛らは、曹公がなお健在で国難も始まったばかりのこととて、互いに協力し合って敵視する先を共有すべきであり、(相手国との関係を)手放してしまってはならぬと主張していた。呂蒙はそれを受けて密かに計策を開陳した。「いまこそ征虜孫皎)に南郡を固めさせ、潘璋白帝に留め、蔣欽が遊軍一万人を率いて、長江に沿って上り下りしつつ敵があれば応戦し、呂蒙は国家(孫権)の御為に先駆けとして襄陽を占拠いたします。かようにいたせば、どうして曹操を恐れ、関羽を頼りにする必要がありましょうか?しかも(劉備と)関羽の君臣は詐術と武力を自負し、至るところで裏切りを繰り返しており、腹を割って待遇することはできません。いま関羽がとっとと東方へ向かわずにいるのは、至尊が英明でおわしますうえ呂蒙らがまだ健在だからなのです。いま(我々が)強壮なうちに奴めを始末しておかねば、いずれ僵仆したとき、武力を用いようとしても叶うものでありましょうか?」孫権は深くその策略を受け入れ、また重ねて徐州攻略の考えについても試しに提案してみた。呂蒙は答えて言った。「いま曹操は遠く河北にいて新たに氏たちを打ち破ったばかりのことで、幽州・冀州を慰撫して招集をかけておりますが、まだ東方を振り返る余裕はございません。徐州地方を守る軍勢は不足しているとの情報を聞いておりますので、出征すればまず勝利を収められましょう。しかしながら(徐州の)地勢は陸路が通じて驍騎の走りまわるところであり、至尊が今日、徐州を手に入れられても、曹操は十日後には必ず奪いに参りましょうから、七・八万人でこの地を守ったとしてもまだ心配の残るところです。関羽を討ち取って長江を完全に占拠し、形勢を伸張させるに越したことはございません。」孫権はいたくその言葉が当を得ていると思った。呂蒙は魯粛に交代した当初、陸口まで行き、表面上は恩義厚礼を倍して関羽と友好を結んだ。

のちに関羽は樊討伐に出かけるとき、軍勢を残して公安・南郡を守備しようとした。呂蒙は上疏して言った。「関羽が樊討伐にあたって多数を守備兵に残しているのは、きっと呂蒙がその背後を襲うことを恐れているからでありましょう。呂蒙はずっと病気にかかっておりますゆえ、軍勢を分けて治療を名目に建業へ帰還いたしたく存じます。関羽がそれを聞けば必ずや守備兵を引き揚げ、総員で襄陽に向かうはずです。(それを見計らい)大軍を長江に浮かべて昼夜兼行で遡上し、奴めの虚を突けば、南郡を陥落させて関羽を生け捕りにすることができましょうぞ。」こうして病気が危篤になったと称し、孫権が封をしない書状を回して呂蒙を召し返すと、密かに計画を練った。関羽は案の定それを信じ込み、少しづつ軍勢を引き揚げていって樊へと向かわせた。魏は于禁をやって樊を救援させたが、関羽はことごとく于禁らの人馬数万人を捕らえ、食糧欠乏にかこつけて湘関の米を勝手に盗み取った。孫権はそれを聞くと、ついに進攻を開始し、まず呂蒙を先発させた。呂蒙は尋陽まで来ると、精兵をことごとくコウロクの船内に伏せておき、白衣の者に櫓を漕がせて商人の衣服を着せ、昼夜兼行し、関羽が長江沿いに設置した監視台まで来るたび、残らず縛り上げてしまった。そのため関羽は気付かなかったのである。ついに南郡に到達し、士仁・麋芳はいずれも投降した。[一]呂蒙は城内に入って拠点を構え、関羽および将兵の家族を残らず手に入れると、みな慰撫してやって、軍中に命じて人家に侵入させたり略奪させたりはいたしませぬと約束した。呂蒙の麾下の兵士に汝南の人があって、民家から笠一つを取り立てて官の鎧を覆った。官の鎧は(私物ではなく)公共物であったが、呂蒙はそれでも軍令に違反したからには郷里(の人)といえども法を廃することはできぬとして、涙を流しながらその者を斬首した。このことから軍中は戦慄し、路上にあっても落ちている物を拾わなくなった。呂蒙は日が昇ってから沈むまでずっと側近を遣して長老たちを慈しみ、不足しているものはないかと訊ね、病人には医薬を支給し、飢え凍えている者には衣服と食糧を賜与した。関羽の倉庫には財宝が保管されていたが(勝手に分配することはなく)、全て封鎖して孫権の到着を待った。関羽は(樊から)引き返し、道中で何度も人をやって呂蒙と連絡を取り合ったが、呂蒙はその都度、使者を厚遇しつつも、城内をめぐり歩いて家々を訪問し、時には直筆の書状によって信義を明らかにした。関羽の使者が帰ると、(その使者の元へ)密かに参向して訊ねる者もあったが、みな家族が無事で普段以上の待遇を受けていることを知り、そのため関羽の官吏兵士は闘争心を失っていった。そのころ孫権の到着を間近に控え、関羽は自分が孤立していることを知り、麦城へと逃走した。(さらに)西進して漳郷まで行ったところで、兵士たちはみな関羽を捨てて投降した。孫権が朱然・潘璋にその経路を遮断させると、すぐに父子ともども生け捕りになった。荊州はついに平定されたのだ。

[一] 『呉書』に言う。将軍士仁は公安にあって防戦に努めたが、呂蒙が虞翻に命じて説得させた。虞翻は城門まで行って門番に告げた。「吾は汝の将軍と話し合いたいのだ。」士仁が面談を承知しなかったので、手紙を書いた。「明るき者は未然に災禍を防ぎ、智者は将来の憂患を片付けるもの。利益を知り、損失を知ってこそ他人に役立ち、生存を知り、滅亡を知ってこそ吉凶を見分けることができるのです。大軍が進攻したというのに、斥候はなすすべもなく、烽火は挙げる暇もありませんでした。これが天命でないとすれば、必ずや内応者があったのでしょう。将軍は進んで時機を見ることなく、時機が到来してもやはり対応せず、ただ独りで包囲された城に楯籠って降服しようともなさりません。戦死なされば一族の祭祀は絶え、天下の笑い種となりましょうぞ。呂虎威はまっすぐ南郡を目指し、陸路を断絶なさるおつもりです。逃げ道が一度塞がれたならば、この辺りの地形から考えてみますと、将軍は箕の舌の上におられるようなもので、脱走しても逃げ切れず、降服すれば信義を失うことになり、密かに将軍の御為を考えて不安にかられるのでございます。熟慮いただければ幸いです。」士仁は手紙を受け取ると、涙を流しつつ降服した。虞翻が呂蒙に告げた。「これは偽りの兵でございます。軍勢を残して城を固めるとともに、士仁を連行して進軍すべきです。」そこで士仁を連れて南郡へ向かった。南郡太守麋芳は籠城したが、呂蒙が士仁の姿を彼に見せてやると、そのまま降服した。 『呉録』に言う。かつて南郡城内で失火して数多くの兵器を焼き、関羽がそのことで麋芳を責めたことがあり、麋芳は内心、恐怖を感じていた。孫権が(それを)聞いて彼に誘いの手をかけると、麋芳は密かに手を結んだ。呂蒙が進攻してくると牛酒を捧げて城外に投降してきた。

(孫権は)呂蒙を南郡太守として孱陵侯に封じ、[一]銭一億、黄金五百斤を下賜した。呂蒙は金も銭も固辞したが、孫権は許さなかった。封爵はまだ行われていなかったが、そのとき、呂蒙が発作を起こした。孫権はこのとき公安にあったが、(彼の身を)奥御殿へ引き取り、八方手を尽くして治療看護にあたり、呂蒙の病気を治すことができる者を賞金千金でもって領内に募集をかけた。鍼を刺すときには孫権が彼のために心を痛め、何度か彼の顔色を確かめたいとは思ったが、同時に気を遣わせてはならぬとも思い、いつもは壁に穴をくじって覗き込んだ。少しでも食が通ったのを見ては喜び、振り返って左右の者と談笑したりしたが、そうでない場合には咄唶して、夜中でも寝付けなかった。病気が少しえると大赦令を下し、群臣が揃って祝辞を挙げた。後日また病気が重くなったので、孫権は自ら見舞いに赴き、星辰の下で彼の延命を請うよう道士たちに命じたが、四十二歳にして、とうとう奥御殿において卒去した。このとき孫権の哀痛は甚だしく、彼を思い出しては気落ちして痩せ衰えた(?)。呂蒙は死去する以前、与えられた黄金財宝などの下賜の品をことごとく蔵に納め、(自分の)命が絶えた日に残らず返上せよと担当者に命じておき、葬儀は倹約に努めさせた。孫権はそれを聞いてますます悲歎に暮れた。

[一] 『江表伝』に言う。孫権は公安で盛大な酒宴を催したが、呂蒙は病気だといって列席しなかった。孫権は笑いながら言った。「関羽を生け捕りにした功績は子明の計略である。いま大功を立てて勝利を果たし、恩賞の沙汰はまだ行われていないのだから、どうして邑邑とすることがあろう?」そこで歩騎と鼓吹を加増し、虎威将軍の官属ならびに南郡・廬江両郡の威儀を直々に選出してやった。沙汰が終わって軍営に帰るとき、兵馬や鼓吹が前後に付き従い、路上に光り輝いた。

呂蒙は若いころに書伝を学んでおらず、重要な案件を陳述する際には、いつも口述で上奏文を作っていた。かつて部曲の件について江夏太守蔡遺に告発されたことがあったが、呂蒙は怨恨を持たなかった。予章太守顧邵が卒去したとき、孫権が任用すべき人物について下問すると、呂蒙は、蔡遺が職務を遵奉する佳吏であると推薦した。「君は祁奚になるつもりなのかね?」と孫権は笑い、彼を任用することにした。甘寧は粗暴で殺戮を好み、これまで常々、呂蒙の気持ちを裏切ってきたし、しかも時々、孫権の命令にも違背することがあった。孫権は腹を立てたが、呂蒙がその都度「天下はまだ安定しておらず、甘寧ほどの闘将は得難きものです。なにとぞご容赦くだされませ」と陳情したので、孫権はそれから甘寧を手厚くもてなし、最終的には彼を役立てることができたのであった。

呂蒙の子呂霸が爵位を襲い、墓守三百家を与えられ、田五十頃が(租税免除)とされた。呂霸が卒去すると、兄呂琮が侯位を襲い、呂琮が卒去すると、弟呂睦が後を継いだ。

孫権は陸遜とともに周瑜・魯粛および呂蒙について論じ合い、述べた。「公瑾は雄邁壮烈、胆略は他人を圧倒し、ついに孟徳を打ち破って荊州を開拓し、(その行跡は)邈焉(悠遠)にして引き継ぐのも困難であるが、君がいまそれを引き継いでいるのだ。公瑾はむかし子敬(魯粛)が東方へ来られるよう取りはからい、孤に引き合わせてくれた。孤は酒席で彼と語り合ったが、(話題は)その場で大いなる計略、帝王の事業に及んだ。これが第一の快事である。のちに孟徳が劉琮を落とした勢いに乗じ、数十万の軍勢を率いて水陸両道から一斉に下向するぞと張言したとき、孤は諸将を招来して方策を諮問したが、それに適して先対する者はなく、子布・文表に至っては使者を派遣し、檄文を回して彼らを迎え入れるのがよいと口を揃えて言ったものであった。子敬はすぐさま反駮して不可と言い、早急に公瑾を呼び戻して軍勢を委ね、奴らを迎撃するよう孤に勧めてくれた。これが第二の快事である。しかも彼が計策を定めたのには、張(儀)・蘇(秦)をはるかに上回る意図があったのだ。のちに玄徳(劉備)へ土地を貸すよう吾に勧めたのは短所の一つではあるが、二つの長所を台無しにしてしまうほどのものではない。周公は一人に完備を求めなかった。それゆえ孤はその短所を忘れて長所を尊び、つねづね鄧禹になぞらえてきたのである。また子明が若いころ、孤は(彼のことを)劇易を言わぬ、果敢にして胆の据わった人物であるに過ぎないと思っていた。成長するに及んで学問で能力を身に付け、計略は奇抜であり、発議の英明渙発さという点で及ばずとも、公瑾に次ぐ者といえよう。関羽攻略については子敬よりも勝っていた。子敬は孤の手紙に答えて『(古代の)帝王が立ち上がるときにはみな先駆けが付いておりました。関羽を懸念されることはございません』と言っておったが、これは子敬が内心では弁明できなかったのを、表面的に壮語して見せたのであるが、孤はそれも大目に見てやって咎めることはしなかった。しかしながら彼の用兵は、屯営では過失を犯す者がなく、命ずれば行われ、禁ずれば収まり、管轄では廃負する者もなく、路上にあっても落ちている物を拾う者はなかった。その手並みはやはり見事なものであった。」

評曰:曹公乗漢相之資,挟天子而掃羣桀,新盪荊城,仗威東下,于時議者莫不疑貳.周瑜・魯粛建独断之明,出衆人之表,実奇才也.呂蒙勇而有謀断,識軍計,譎郝普,禽関羽,最其妙者.初雖軽果妄殺,終於克己,有国士之量,豈徒武将而已乎!孫権之論,優劣允当,故載録焉.

吳書九 三國志五十四 周瑜魯肅呂蒙傳第九

周瑜傳

周瑜字公瑾,廬江舒人也.從祖父景,景子忠,皆為漢太尉.[一]父異,洛陽令.

[一] 謝承後漢書曰:景字仲嚮,少以廉能見稱,以明學察孝廉,辟公府.後為豫州刺史,辟汝南陳蕃為別駕,潁川李膺﹑荀緄﹑杜密﹑沛國朱寓為從事,皆天下英俊之士也.稍遷至尚書令,遂登太尉. 張璠漢紀曰:景父榮,章﹑和世為尚書令.初景歷位牧守,好善愛士,每歲擧孝廉,延請入,上後堂,與家人宴會,如此者數四.及贈送旣備,又選用其子弟,常稱曰:「移臣作子,於政何有?」先是,司徒韓縯為河內太守,在公無私,所擧一辭而已,後亦不及其門戶,曰:「我擧若可矣,不令恩偏稱一家也.」當時論者,或兩譏焉.

瑜長壯有姿貌.初,孫堅興義兵討董卓,徙家於舒.堅子策與瑜同年,獨相友善,瑜推道南大宅以舍策,升堂拜母,有無通共.瑜從父尚為丹陽太守,瑜往省之.會策將東渡,到歷陽,馳書報瑜,瑜將兵迎策.策大喜曰:「吾得卿,事諧也.」遂從攻橫江﹑當利,皆拔之.乃渡江擊秣陵,破笮融﹑薛禮,轉下湖孰﹑江乘,進入曲阿,劉繇奔走,而策之眾已數萬矣.因謂瑜曰:「吾以此眾取吳會平山越已足.卿還鎮丹陽.」瑜還.頃之,袁術遣從弟胤代尚為太守,而瑜與尚俱還壽春.術欲以瑜為將,瑜觀術終無所成,故求為居巢長,欲假塗東歸,術聽之.遂自居巢還吳.是歲,建安三年也.策親自迎瑜,授建威中郞將,卽與兵二千人,騎五十匹.[一]瑜時年二十四,吳中皆呼為周郞.以瑜恩信著於廬江,出備牛渚,後領春穀長.頃之,策欲取荊州,以瑜為中護軍,領江夏太守,從攻皖,拔之.時得橋公兩女,皆國色也.策自納大橋,瑜納小橋.[二]復進尋陽,破劉勳,討江夏,還定豫章﹑廬陵,留鎮巴丘.[三]

[一] 江表傳曰:策又給瑜鼓吹,為治館舍,贈賜莫與為比.策令曰:「周公瑾英俊異才,與孤有總角之好,骨肉之分.如前在丹陽,發眾及船糧以濟大事,論德酬功,此未足以報者也.」

[二] 江表傳曰:策從容戲瑜曰:「橋公二女雖流離,得吾二人作壻,亦足為歡.」

[三] 臣松之案:孫策于時始得豫章﹑廬陵,尚未能得定江夏.瑜之所鎮,應在今巴丘縣也,與後所卒巴丘處不同.

五年,策薨,權統事.瑜將兵赴喪,遂留吳,以中護軍與長史張昭共掌眾事.[一]十一年,督孫瑜等討麻﹑保二屯,梟其渠帥,囚俘萬餘口,還備官亭.江夏太守黃祖遣將鄧龍將兵數千人入柴桑,瑜追討擊,生虜龍送吳.十三年春,權討江夏,瑜為前部大督.

[一] 江表傳曰:曹公新破袁紹,兵威日盛,建安七年,下書責權質任子.權召羣臣會議,張昭﹑秦松等猶豫不能決,權意不欲遣質,乃獨將瑜詣母前定議,瑜曰:「昔楚國初封於荊山之側,不滿百里之地,繼嗣賢能,廣土開境,立基於郢,遂據荊陽,至於南海,傳業延祚,九百餘年.今將軍承父兄餘資,兼六郡之眾,兵精糧多,將士用命,鑄山為銅,煮海為鹽,境內富饒,人不思亂,汎舟擧帆,朝發夕到,士風勁勇,所向無敵,有何偪迫,而欲送質?質一入,不得不與曹氏相首尾,與相首尾,則命召不得不往,便見制於人也.極不過一侯印,僕從十餘人,車數乘,馬數匹,豈與南面稱孤同哉?不如勿遣,徐觀其變.若曹氏能率義以正天下,將軍事之未晚.若圖為暴亂,兵猶火也,不戢將自焚.將軍韜勇抗威,以待天命,何送質之有!」權母曰:「公瑾議是也.公瑾與伯符同年,小一月耳,我視之如子也,汝其兄事之.」遂不送質.

其年九月,曹公入荊州,劉琮擧眾降,曹公得其水軍,船步兵數十萬,將士聞之皆恐懼.權延見羣下,問以計策.議者咸曰:「曹公豺虎也,然託名漢相,挾天子以征四方,動以朝廷為辭,今日拒之,事更不順.且將軍大勢,可以拒操者,長江也.今操得荊州,奄有其地,劉表治水軍,蒙衝鬭艦,乃以千數,操悉浮以沿江,兼有步兵,水陸俱下,此為長江之險,已與我共之矣.而勢力眾寡,又不可論.愚謂大計不如迎之.」瑜曰:「不然.操雖託名漢相,其實漢賊也.將軍以神武雄才,兼仗父兄之烈,割據江東,地方數千里,兵精足用,英雄樂業,尚當橫行天下,為漢家除殘去穢.況操自送死,而可迎之邪?請為將軍籌之:今使北土已安,操無內憂,能曠日持久,來爭疆埸,又能與我校勝負於船楫可乎?今北土旣未平安,加馬超﹑韓遂尚在關西,為操後患.且舍鞍馬,仗舟楫,與吳越爭衡,本非中國所長.又今盛寒,馬無藁草,驅中國士眾遠涉江湖之閒,不習水土,必生疾病.此數四者,用兵之患也,而操皆冒行之.將軍禽操,宜在今日.瑜請得精兵三萬人,進住夏口,保為將軍破之.」權曰:「老賊欲廢漢自立矣,徒忌二袁﹑呂布﹑劉表與孤耳.今數雄已滅,惟孤尚存,孤與老賊,勢不兩立.君言當擊,甚與孤合,此天以君授孤也.」[一]

[一] 江表傳曰:權拔刀斫前奏案曰:「諸將吏敢復有言當迎操者,與此案同!」及會罷之夜,瑜請見曰:「諸人徒見操書,言水步八十萬,而各恐懾,不復料其虛實,便開此議,甚無謂也.今以實校之,彼所將中國人,不過十五六萬,且軍已久疲,所得表眾,亦極七八萬耳,尚懷狐疑.夫以疲病之卒,御狐疑之眾,眾數雖多,甚未足畏.得精兵五萬,自足制之,願將軍勿慮.」權撫背曰:「公瑾,卿言至此,甚合孤心.子布﹑文表諸人,各顧妻子,挾持私慮,深失所望,獨卿與子敬與孤同耳,此天以卿二人贊孤也.五萬兵難卒合,已選三萬人,船糧戰具俱辦,卿與子敬﹑程公便在前發,孤當續發人眾,多載資糧,為卿後援.卿能辦之者誠決,邂逅不如意,便還就孤,孤當與孟德決之.」 臣松之以為建計拒曹公,實始魯肅.于時周瑜使鄱陽,肅勸權呼瑜,瑜使鄱陽還,但與肅闇同,故能共成大勳.本傳直云,權延見羣下,問以計策,瑜擺撥眾人之議,獨言抗拒之計,了不云肅先有謀,殆為攘肅之善也.

時劉備為曹公所破,欲引南渡江,與魯肅遇於當陽,遂共圖計,因進住夏口,遣諸葛亮詣權,權遂遣瑜及程普等與備幷力逆曹公,遇於赤壁.時曹公軍眾已有疾病,初一交戰,公軍敗退,引次江北.瑜等在南岸.瑜部將黃蓋曰:「今寇眾我寡,難與持久.然觀操軍方連船艦首尾相接,可燒而走也.」乃取蒙衝鬭艦數十艘,實以薪草,膏油灌其中,裹以帷幕,上建牙旗,先書報曹公,欺以欲降.[一]又豫備走舸,各繫大船後,因引次俱前.曹公軍吏士皆延頸觀望,指言蓋降.蓋放諸船,同時發火.時風盛猛,悉延燒岸上營落.頃之,煙炎漲天,人馬燒溺死者甚眾,軍遂敗退,還保南郡.[二]備與瑜等復共追.曹公留曹仁等守江陵城,徑自北歸.

[一] 江表傳載蓋書曰:「蓋受孫氏厚恩,常為將帥,見遇不薄.然顧天下事有大勢,用江東六郡山越之人,以當中國百萬之眾,眾寡不敵,海內所共見也.東方將吏,無有愚智,皆知其不可,惟周瑜﹑魯肅偏懷淺戇,意未解耳.今日歸命,是其實計.瑜所督領,自易摧破.交鋒之日,蓋為前部,當因事變化,效命在近.」曹公特見行人,密問之,口勑曰:「但恐汝詐耳.蓋若信實,當授爵賞,超於前後也.」

[二] 江表傳曰:至戰日,蓋先取輕利艦十舫,載燥荻枯柴積其中,灌以魚膏,赤幔覆之,建旌旗龍幡於艦上.時東南風急,因以十艦最著前,中江擧帆,蓋擧火白諸校,使眾兵齊聲大叫曰:「降焉!」操軍人皆出營立觀.去北軍二里餘,同時擧火,火烈風猛,往船如箭,飛埃絕爛,燒盡北船,延及岸邊營砦.瑜等率輕銳尋繼其後,雷鼓大進,北軍大壞,曹公退走.

瑜與程普又進南郡,與仁相對,各隔大江.兵未交鋒,[一]瑜卽遣甘寧前據夷陵.仁分兵騎別攻圍寧.寧吿急於瑜.瑜用呂蒙計,留淩統以守其後,身與蒙上救寧.寧圍旣解,乃渡屯北岸,克期大戰.瑜親跨馬櫟陣,會流矢中右脅,瘡甚,便還.後仁聞瑜臥未起,勒兵就陳.瑜乃自興,案行軍營,激揚吏士,仁由是遂退.

[一] 吳錄曰:備謂瑜云:「仁守江陵城,城中糧多,足為疾害.使張益德將千人隨卿,卿分二千人追我,相為從夏水入截仁後,仁聞吾入必走.」瑜以二千人益之.

權拜瑜偏將軍,領南郡太守.以下雋﹑漢昌﹑劉陽﹑州陵為奉邑,屯據江陵.劉備以左將軍領荊州牧,治公安.備詣京見權,瑜上疏曰:「劉備以梟雄之姿,而有關羽﹑張飛熊虎之將,必非久屈為人用者.愚謂大計宜徙備置吳,盛為築宮室,多其美女玩好,以娛其耳目,分此二人,各置一方,使如瑜者得挾與攻戰,大事可定也.今猥割土地以資業之,聚此三人,俱在疆埸,恐蛟龍得雲雨,終非池中物也.」權以曹公在北方,當廣擥英雄,又恐備難卒制,故不納.

是時劉璋為益州牧,外有張魯寇侵,瑜乃詣京見權曰:「今曹操新折衄,方憂在腹心,未能與將軍連兵相事也.乞與奮威俱進取蜀,得蜀而幷張魯,因留奮威固守其地,好與馬超結援.瑜還與將軍據襄陽以蹙操,北方可圖也.」權許之.瑜還江陵,為行裝,而道於巴丘病卒,[一]時年三十六.權素服擧哀,感動左右.喪當還吳,又迎之蕪湖,眾事費度,一為供給.後著令曰:「故將軍周瑜﹑程普,其有人客,皆不得問.」初瑜見友於策,太妃又使權以兄奉之.是時權位為將軍,諸將賓客為禮尚簡,而瑜獨先盡敬,便執臣節.性度恢廓,大率為得人,惟與程普不睦.[二]

[一] 臣松之案,瑜欲取蜀,還江陵治嚴,所卒之處,應在今之巴陵,與前所鎮巴丘,名同處異也.

[二] 江表傳曰:普頗以年長,數陵侮瑜.瑜折節容下,終不與校.普後自敬服而親重之,乃吿人曰:「與周公瑾交,若飲醇醪,不覺自醉.」時人以其謙讓服人如此.初曹公聞瑜年少有美才,謂可游說動也,乃密下揚州,遣九江蔣幹往見瑜.幹有儀容,以才辯見稱,獨步江﹑淮之閒,莫與為對.乃布衣葛巾,自託私行詣瑜.瑜出迎之,立謂幹曰:「子翼良苦,遠涉江湖為曹氏作說客邪?」幹曰:「吾與足下州里,中閒別隔,遙聞芳烈,故來敘闊,幷觀雅規,而云說客,無乃逆詐乎?」瑜曰:「吾雖不及夔﹑曠,聞弦賞音,足知雅曲也.」因延幹入,為設酒食.畢,遣之曰:「適吾有密事,且出就館,事了,別自相請.」後三日,瑜請幹與周觀營中,行視倉庫軍資器仗訖,還宴飲,示之侍者服飾珍玩之物,因謂幹曰:「丈夫處世,遇知己之主,外託君臣之義,內結骨肉之恩,言行計從,禍福共之,假使蘇張更生,酈叟復出,猶撫其背而折其辭,豈足下幼生所能移乎?」幹但笑,終無所言.幹還,稱瑜雅量高致,非言辭所閒.中州之士,亦以此多之.劉備之自京還也,權乘飛雲大船,與張昭﹑秦松﹑魯肅等十餘人共追送之,大宴會敘別.昭﹑肅等先出,權獨與備留語,因言次,歎瑜曰:「公瑾文武籌略,萬人之英,顧其器量廣大,恐不久為人臣耳.」瑜之破魏軍也,曹公曰:「孤不羞走.」後書與權曰:「赤壁之役,值有疾病,孤燒船自退,橫使周瑜虛獲此名.」瑜威聲遠著,故曹公﹑劉備咸欲疑譖之.及卒,權流涕曰:「公瑾有王佐之資,今忽短命,孤何賴哉!」後權稱尊號,謂公卿曰:「孤非周公瑾,不帝矣.」

瑜少精意於音樂,雖三爵之後,其有闕誤,瑜必知之,知之必顧,故時人謠曰:「曲有誤,周郞顧.」

瑜兩男一女.女配太子登.男循尚公主,拜騎都尉,有瑜風,早卒.循弟胤,初拜興業都尉,妻以宗女,授兵千人,屯公安.黃龍元年,封都鄉侯,後以罪徙廬陵郡.赤烏二年,諸葛瑾﹑步騭連名上疏曰:「故將軍周瑜子胤,昔蒙粉飾,受封為將,不能養之以福,思立功效,至縱情欲,招速罪辟.臣竊以瑜昔見寵任,入作心膂,出為爪牙,銜命出征,身當矢石,盡節用命,視死如歸,故能摧曹操於烏林,走曹仁於郢都,揚國威德,華夏是震,蠢爾蠻荊,莫不賓服,雖周之方叔,漢之信﹑布,誠無以尚也.夫折衝扞難之臣,自古帝王莫不貴重,故漢高帝封爵之誓曰『使黃河如帶,太山如礪,國以永存,爰及苗裔』;申以丹書,重以盟詛,藏于宗廟,傳于無窮,欲使功臣之後,世世相踵,非徒子孫,乃關苗裔,報德明功,勤勤懇懇,如此之至,欲以勸戒後人,用命之臣,死而無悔也.況於瑜身沒而未久,而其子胤降為匹夫,益可悼傷.竊惟陛下欽明稽古,隆於興繼,為胤歸訴,乞匄餘罪,還兵復爵,使失旦之雞,復得一鳴,抱罪之臣,展其後效.」權答曰:「腹心舊勳,與孤協事,公瑾有之,誠所不忘.昔胤年少,初無功勞,橫受精兵,爵以侯將,蓋念公瑾以及於胤也.而胤恃此,酗淫自恣,前後吿喻,曾無悛改.孤於公瑾,義猶二君,樂胤成就,豈有已哉?迫胤罪惡,未宜便還,且欲苦之,使自知耳.今二君勤勤援引漢高河山之誓,孤用恧然.雖德非其疇,猶欲庶幾,事亦如爾,故未順旨.以公瑾之子,而二君在中閒,苟使能改,亦何患乎!」瑾﹑騭表比上,朱然及全琮亦俱陳乞,權乃許之.會胤病死.

瑜兄子峻,亦以瑜元功為偏將軍,領吏士千人.峻卒,全琮表峻子護為將.權曰:「昔走曹操,拓有荊州,皆是公瑾,常不忘之.初聞峻亡,仍欲用護,聞護性行危險,用之適為作禍,故便止之.孤念公瑾,豈有已也?」

魯肅傳

魯肅字子敬,臨淮東城人也.生而失父,與祖母居.家富於財,性好施與.爾時天下已亂,肅不治家事,大散財貨,摽賣田地,以賑窮弊結士為務,甚得鄉邑歡心.

周瑜為居巢長,將數百人故過候肅,幷求資糧.肅家有兩囷米,各三千斛,肅乃指一囷與周瑜,瑜益知其奇也,遂相親結,定僑﹑札之分.袁術聞其名,就署東城長.肅見術無綱紀,不足與立事,乃攜老弱將輕俠少年百餘人,南到居巢就瑜.瑜之東渡,因與同行,[一]留家曲阿.會祖母亡,還葬東城.

[一] 吳書曰:肅體貌魁奇,少有壯節,好為奇計.天下將亂,乃學擊劍騎射,招聚少年,給其衣食,往來南山中射獵,陰相部勒,講武習兵.父老咸曰:「魯氏世衰,乃生此狂兒!」後雄傑並起,中州擾亂,肅乃命其屬曰:「中國失綱,寇賊橫暴,淮﹑泗閒非遺種之地,吾聞江東沃野萬里,民富兵彊,可以避害,寧肯相隨俱至樂土,以觀時變乎?」其屬皆從命.乃使細弱在前,彊壯在後,男女三百餘人行.州追騎至,肅等徐行,勒兵持滿,謂之曰:「卿等丈夫,當解大數.今日天下兵亂,有功弗賞,不追無罰,何為相偪乎?」又自植盾,引弓射之,矢皆洞貫.騎旣嘉肅言,且度不能制,乃相率還.肅渡江往見策,策亦雅奇之.

劉子揚與肅友善,遺肅書曰:「方今天下豪傑並起,吾子姿才,尤宜今日.急還迎老母,無事滯於東城.近鄭寶者,今在巢湖,擁眾萬餘,處地肥饒,廬江閒人多依就之,況吾徒乎?觀其形勢,又可博集,時不可失,足下速之.」肅答然其計.葬畢還曲阿,欲北行.會瑜已徙肅母到吳,肅具以狀語瑜.時孫策已薨,權尚住吳,瑜謂肅曰:「昔馬援答光武云『當今之世,非但君擇臣,臣亦擇君』.今主人親賢貴士,納奇錄異,且吾聞先哲祕論,承運代劉氏者,必興于東南,推步事勢,當其曆數.終搆帝基,以協天符,是烈士攀龍附鳳馳騖之秋.吾方達此,足下不須以子揚之言介意也.」肅從其言.瑜因薦肅才宜佐時,當廣求其比,以成功業,不可令去也.

權卽見肅,與語甚悅之.眾賓罷退,肅亦辭出,乃獨引肅還,合榻對飲.因密議曰:「今漢室傾危,四方雲擾,孤承父兄餘業,思有桓文之功.君旣惠顧,何以佐之?」肅對曰:「昔高帝區區欲尊事義帝而不獲者,以項羽為害也.今之曹操,猶昔項羽,將軍何由得為桓文乎?肅竊料之,漢室不可復興,曹操不可卒除.為將軍計,惟有鼎足江東,以觀天下之釁.規模如此,亦自無嫌.何者?北方誠多務也.因其多務,剿除黃祖,進伐劉表,竟長江所極,據而有之,然後建號帝王以圖天下,此高帝之業也.」權曰:「今盡力一方,冀以輔漢耳,此言非所及也.」張昭非肅謙下不足,頗訾毀之,云肅年少麤疎,未可用.權不以介意,益貴重之,賜肅母衣服幃帳,居處雜物,富擬其舊.

劉表死.肅進說曰:「夫荊楚與國鄰接,水流順北,外帶江漢,內阻山陵,有金城之固,沃野萬里,士民殷富,若據而有之,此帝王之資也.今表新亡,二子素不輯睦,軍中諸將,各有彼此.加劉備天下梟雄,與操有隙,寄寓於表,表惡其能而不能用也.若備與彼協心,上下齊同,則宜撫安,與結盟好;如有離違,宜別圖之,以濟大事.肅請得奉命弔表二子,幷慰勞其軍中用事者,及說備使撫表眾,同心一意,共治曹操,備必喜而從命.如其克諧,天下可定也.今不速往,恐為操所先.」權卽遣肅行.到夏口,聞曹公已向荊州,晨夜兼道.比至南郡,而表子琮已降曹公,備惶遽奔走,欲南渡江.肅徑迎之,到當陽長阪,與備會,宣騰權旨,及陳江東彊固,勸備與權併力.備甚歡悅.時諸葛亮與備相隨,肅謂亮曰「我子瑜友也」,卽共定交.備遂到夏口,遣亮使權,肅亦反命.[一]

[一] 臣松之案:劉備與權併力,共拒中國,皆肅之本謀.又語諸葛亮曰「我子瑜友也」,則亮已亟聞肅言矣.而蜀書亮傳曰:「亮以連橫之略說權,權乃大喜.」如似此計始出於亮.若二國史官,各記所聞,競欲稱揚本國容美,各取其功.今此二書,同出一人,而舛互若此,非載述之體也.

會權得曹公欲東之問,與諸將議,皆勸權迎之,而肅獨不言.權起更衣,肅追於宇下,權知其意,執肅手曰:「卿欲何言?」肅對曰:「向察眾人之議,專欲誤將軍,不足與圖大事.今肅可迎操耳,如將軍,不可也.何以言之?今肅迎操,操當以肅還付鄉黨,品其名位,猶不失下曹從事,乘犢車,從吏卒,交游士林,累官故不失州郡也.將軍迎操,欲安所歸?願早定大計,莫用眾人之議也.」權歎息曰:「此諸人持議,甚失孤望;今卿廓開大計,正與孤同,此天以卿賜我也.」[一]

[一] 魏書及九州春秋曰:曹公征荊州,孫權大懼,魯肅實欲勸權拒曹公,乃激說權曰:「彼曹公者,實嚴敵也,新幷袁紹,兵馬甚精,乘戰勝之威,伐喪亂之國,克可必也.不如遣兵助之,且送將軍家詣鄴;不然,將危.」權大怒,欲斬肅,肅因曰:「今事已急,卽有他圖,何不遣兵助劉備,而欲斬我乎?」權然之,乃遣周瑜助備.孫盛曰:吳書及江表傳,魯肅一見孫權便說拒曹公而論帝王之略,劉表之死也,又請使觀變,無緣方復激說勸迎曹公也.又是時勸迎者眾,而云獨欲斬肅,非其論也.

時周瑜受使至鄱陽,肅勸追召瑜還.遂任瑜以行事,以肅為贊軍校尉,助畫方略.曹公破走,肅卽先還,權大請諸將迎肅.肅將入閤拜,權起禮之,因謂曰:「子敬,孤持鞍下馬相迎,足以顯卿未?」肅趨進曰:「未也.」眾人聞之,無不愕然.就坐,徐擧鞭言曰:「願至尊威德加乎四海,總括九州,克成帝業,更以安車輭輪徵肅,始當顯耳.」權撫掌歡笑.

後備詣京見權,求都督荊州,惟肅勸權借之,共拒曹公.[一]曹公聞權以土地業備,方作書,落筆於地.

[一] 漢晉春秋曰:呂範勸留備,肅曰:「不可.將軍雖神武命世,然曹公威力實重,初臨荊州,恩信未洽,宜以借備,使撫安之.多操之敵,而自為樹黨,計之上也.」權卽從之.

周瑜病,因上疏曰:「當今天下,方有事役,是瑜乃心夙夜所憂,願至尊先慮未然,然後康樂.今旣與曹操為敵,劉備近在公安,邊境密邇,百姓未附,宜得良將以鎮撫之.魯肅智略足任,乞以代瑜.瑜隕踣之日,所懷盡矣.」[一]卽拜肅奮武校尉,代瑜領兵.瑜士眾四千餘人,奉邑四縣,皆屬焉.令程普領南郡太守.肅初住江陵,後下屯陸口,威恩大行,眾增萬餘人,拜漢昌太守﹑偏將軍.十九年,從權破皖城,轉橫江將軍.

[一] 江表傳載:初瑜疾困,與權牋曰:「瑜以凡才,昔受討逆殊特之遇,委以腹心,遂荷榮任,統御兵馬,志執鞭弭,自效戎行.規定巴蜀,次取襄陽,憑賴威靈,謂若在握.至以不謹,道遇暴疾,昨自醫療,日加無損.人生有死,修短命矣,誠不足惜,但恨微志未展,不復奉教命耳.方今曹公在北,疆埸未靜,劉備寄寓,有似養虎,天下之事,未知終始,此朝士旰食之秋,至尊垂慮之日也.魯肅忠烈,臨事不苟,可以代瑜.人之將死,其言也善,儻或可採,瑜死不朽矣.」案此牋與本傳所載,意旨雖同,其辭乖異耳.

先是,益州牧劉璋綱維頹弛,周瑜﹑甘寧並勸權取蜀,權以咨備,備內欲自規,仍偽報曰:「備與璋託為宗室,冀憑英靈,以匡漢朝.今璋得罪左右,備獨竦懼,非所敢聞,願加寬貸.若不獲請,備當放髮歸於山林.」後備西圖璋,留關羽守,權曰:「猾虜乃敢挾詐!」及羽與肅鄰界,數生狐疑,疆埸紛錯,肅常以歡好撫之.備旣定益州,權求長沙﹑零﹑桂,備不承旨,權遣呂蒙率眾進取.備聞,自還公安,遣羽爭三郡.肅住益陽,與羽相拒.肅邀羽相見,各駐兵馬百步上,但請將軍單刀俱會.肅因責數羽曰:「國家區區本以土地借卿家者,卿家軍敗遠來,無以為資故也.今已得益州,旣無奉還之意,但求三郡,又不從命.」語未究竟,坐有一人曰:「夫土地者,惟德所在耳,何常之有!」肅厲聲呵之,辭色甚切.羽操刀起謂曰:「此自國家事,是人何知!」目使之去.[一]備遂割湘水為界,於是罷軍.

[一] 吳書曰:肅欲與羽會語,諸將疑恐有變,議不可往.肅曰:「今日之事,宜相開譬.劉備負國,是非未決,羽亦何敢重欲干命!」乃趨就羽.羽曰:「烏林之役,左將軍身在行閒,寢不脫介,戮力破魏,豈得徒勞,無一塊壤,而足下來欲收地邪?」肅曰:「不然.始與豫州觀於長阪,豫州之眾不當一校,計窮慮極,志勢摧弱,圖欲遠竄,望不及此.主上矜愍豫州之身,無有處所,不愛土地士人之力,使有所庇廕以濟其患,而豫州私獨飾情,愆德隳好.今已藉手於西州矣,又欲翦幷荊州之土,斯蓋凡夫所不忍行,而況整領人物之主乎!肅聞貪而棄義,必為禍階.吾子屬當重任,曾不能明道處分,以義輔時,而負恃弱眾以圖力爭,師曲為老,將何獲濟?」羽無以答.

肅年四十六,建安二十二年卒.權為擧哀,又臨其葬.諸葛亮亦為發哀.[一]權稱尊號,臨壇,顧謂公卿曰:「昔魯子敬嘗道此,可謂明於事勢矣.」

[一] 吳書曰:肅為人方嚴,寡於玩飾,內外節儉,不務俗好.治軍整頓,禁令必行,雖在軍陳,手不釋卷.又善談論,能屬文辭,思度弘遠,有過人之明.周瑜之後,肅為之冠.

肅遺腹子淑旣壯,濡須督張承謂終當到.至永安中,為昭武將軍﹑都亭侯﹑武昌督.建衡中,假節,遷夏口督.所在嚴整,有方幹.鳳皇三年卒.子睦襲爵,領兵馬.

呂蒙傳

呂蒙字子明,汝南富陂人也.少南渡,依姊夫鄧當.當為孫策將,數討山越.蒙年十五六,竊隨當擊賊,當顧見大驚,呵叱不能禁止.歸以吿蒙母,母恚欲罰之,蒙曰:「貧賤難可居,脫誤有功,富貴可致.且不探虎穴,安得虎子?」母哀而舍之.時當職吏以蒙年小輕之,曰:「彼豎子何能為?此欲以肉餧虎耳.」他日與蒙會,又蚩辱之.蒙大怒,引刀殺吏,出走,逃邑子鄭長家.出因校尉袁雄自首,承閒為言,策召見奇之,引置左右.

數歲,鄧當死,張昭薦蒙代當,拜別部司馬.權統事,料諸小將兵少而用薄者,欲幷合之.蒙陰賒貰,為兵作絳衣行縢,及簡日,陳列赫然,兵人練習,權見之大悅,增其兵.從討丹陽,所向有功,拜平北都尉,領廣德長.

從征黃祖,祖令都督陳就逆以水軍出戰.蒙勒前鋒,親梟就首,將士乘勝,進攻其城.祖聞就死,委城走,兵追禽之.權曰:「事之克,由陳就先獲也.」以蒙為橫野中郞將,賜錢千萬.

是歲,又與周瑜﹑程普等西破曹公於烏林,圍曹仁於南郡.益州將襲肅擧軍來附,瑜表以肅兵益蒙,蒙盛稱肅有膽用,且慕化遠來,於義宜益不宜奪也.權善其言,還肅兵.瑜使甘寧前據夷陵,曹仁分眾攻寧,寧困急,使使請救.諸將以兵少不足分,蒙謂諸將曰:「留淩公績,蒙與君行,解圍釋急,勢亦不久,蒙保公績能十日守也.」又說瑜分遣三百人柴斷險道,賊走可得其馬.瑜從之.軍到夷陵,卽日交戰,所殺過半.敵夜遁去,行遇柴道,騎皆舍馬步走.兵追蹙擊,獲馬三百匹,方船載還.於是將士形勢自倍,乃渡江立屯,與相攻擊,曹仁退走,遂據南郡,撫定荊州.還,拜偏將軍,領尋陽令.

魯肅代周瑜,當之陸口,過蒙屯下.肅意尚輕蒙,或說肅曰:「呂將軍功名日顯,不可以故意待也,君宜顧之.」遂往詣蒙.酒酣,蒙問肅曰:「君受重任,與關羽為鄰,將何計略,以備不虞?」肅造次應曰:「臨時施宜.」蒙曰:「今東西雖為一家,而關羽實熊虎也,計安可不豫定?」因為肅畫五策.肅於是越席就之,拊其背曰:「呂子明,吾不知卿才略所及乃至於此也.」遂拜蒙母,結友而別.[一]

[一] 江表傳曰:初,權謂蒙及蔣欽曰:「卿今並當塗掌事,宜學問以自開益.」蒙曰:「在軍中常苦多務,恐不容復讀書.」權曰:「孤豈欲卿治經為博士邪?但當令涉獵見往事耳.卿言多務孰若孤,孤少時歷詩﹑書﹑禮記﹑左傳﹑國語,惟不讀易.至統事以來,省三史﹑諸家兵書,自以為大有所益.如卿二人,意性朗悟,學必得之,寧當不為乎?宜急讀孫子﹑六韜﹑左傳﹑國語及三史.孔子言『終日不食,終夜不寢以思,無益,不如學也』.光武當兵馬之務,手不釋卷.孟德亦自謂老而好學.卿何獨不自勉勖邪?」蒙始就學,篤志不倦,其所覽見,舊儒不勝.後魯肅上代周瑜,過蒙言議,常欲受屈.肅拊蒙背曰:「吾謂大弟但有武略耳,至於今者,學識英博,非復吳下阿蒙.」蒙曰:「士別三日,卽更刮目相待.大兄今論,何一稱穰侯乎.兄今代公瑾,旣難為繼,且與關羽為鄰.斯人長而好學,讀左傳略皆上口,梗亮有雄氣,然性頗自負,好陵人.今與為對,當有單複以卿待之.」密為肅陳三策,肅敬受之,祕而不宣.權常歎曰:「人長而進益,如呂蒙﹑蔣欽,蓋不可及也.富貴榮顯,更能折節好學,耽悅書傳,輕財尚義,所行可迹,並作國士,不亦休乎!」

時蒙與成當﹑宋定﹑徐顧屯次比近,三將死,子弟幼弱,權悉以兵幷蒙.蒙固辭,陳啟顧等皆勤勞國事,子弟雖小,不可廢也.書三上,權乃聽.蒙於是又為擇師,使輔導之,其操心率如此.

魏使廬江謝奇為蘄春典農,屯皖田鄉,數為邊寇.蒙使人誘之,不從,則伺隙襲擊,奇遂縮退,其部伍孫子才﹑宋豪等,皆攜負老弱,詣蒙降.後從權拒曹公於濡須,數進奇計,又勸權夾水口立塢,所以備御甚精,[一]曹公不能下而退.

[一] 吳錄曰:權欲作塢,諸將皆曰:「上岸擊賊,洗足入船,何用塢為?」呂蒙曰:「兵有利鈍,戰無百勝,如有邂逅,敵步騎蹙人,不暇及水,其得入船乎?」權曰:「善.」遂作之.

曹公遣朱光為廬江太守,屯皖,大開稻田,又令閒人招誘鄱陽賊帥,使作內應.蒙曰:「皖田肥美,若一收孰,彼眾必增,如是數歲,操態見矣,宜早除之.」乃具陳其狀.於是權親征皖,引見諸將,問以計策.[一]蒙乃薦甘寧為升城督,督攻在前,蒙以精銳繼之.侵晨進攻,蒙手執枹鼓,士卒皆騰踊自升,食時破之.旣而張遼至夾石,聞城已拔,乃退.權嘉其功,卽拜廬江太守,所得人馬皆分與之,別賜尋陽屯田六百人,官屬三十人.蒙還尋陽,未期而廬陵賊起,諸將討擊不能禽,權曰:「鷙鳥累百,不如一鶚.」復令蒙討之.蒙至,誅其首惡,餘皆釋放,復為平民.

[一] 吳書曰:諸將皆勸作土山,添攻具,蒙趨進曰:「治攻具及土山,必歷月乃成,城備旣脩,外救必至,不可圖也.且乘雨水以入,若留經日,水必向盡,還道艱難,蒙竊危之.今觀此城,不能甚固,以三軍銳氣,四面並攻,不移時可拔,及水以歸,全勝之道也.」權從之.

是時劉備令關羽鎮守,專有荊土,權命蒙西取長沙﹑零﹑桂三郡.蒙移書二郡,望風歸服,惟零陵太守郝普城守不降.而備自蜀親至公安,遣羽爭三郡.權時住陸口,使魯肅將萬人屯益陽拒羽,而飛書召蒙,使捨零陵,急還助肅.初,蒙旣定長沙,當之零陵,過酃,載南陽鄧玄之,玄之者郝普之舊也,欲令誘普.及被書當還,蒙祕之,夜召諸將,授以方略,晨當攻城,顧謂玄之曰:「郝子太聞世閒有忠義事,亦欲為之,而不知時也.左將軍在漢中,為夏侯淵所圍.關羽在南郡,今至尊身自臨之.近者破樊本屯,救酃,逆為孫規所破.此皆目前之事,君所親見也.彼方首尾倒懸,救死不給,豈有餘力復營此哉?今吾士卒精銳,人思致命,至尊遣兵,相繼於道.今子以旦夕之命,待不可望之救,猶牛蹄中魚,冀賴江漢,其不可恃亦明矣.若子太必能一士卒之心,保孤城之守,尚能稽延旦夕,以待所歸者,可也.今吾計力度慮,而以攻此,曾不移日,而城必破,城破之後,身死何益於事,而令百歲老母,戴白受誅,豈不痛哉?度此家不得外問,謂援可恃,故至於此耳.君可見之,為陳禍福.」玄之見普,具宣蒙意,普懼而聽之.玄之先出報蒙,普尋後當至.蒙豫勅四將,各選百人,普出,便入守城門.須臾普出,蒙迎執其手,與俱下船.語畢,出書示之,因拊手大笑,普見書,知備在公安,而羽在益陽,慚恨入地.蒙留孫河,委以後事.卽日引軍赴益陽.劉備請盟,權乃歸普等,割湘水,以零陵還之.以尋陽﹑陽新為蒙奉邑.

師還,遂征合肥,旣徹兵,為張遼等所襲,蒙與淩統以死扞衞.後曹公又大出濡須,權以蒙為督,據前所立塢,置彊弩萬張於其上,以拒曹公.曹公前鋒屯未就,蒙攻破之,曹公引退.拜蒙左護軍﹑虎威將軍.

魯肅卒,蒙西屯陸口,肅軍人馬萬餘盡以屬蒙.又拜漢昌太守,食下雋﹑劉陽﹑漢昌﹑州陵.與關羽分土接境,知羽驍雄,有幷兼心,且居國上流,其勢難久.初,魯肅等以為曹公尚存,禍難始搆,宜相輔協,與之同仇,不可失也,蒙乃密陳計策曰:「今征虜守南郡,潘璋住白帝,蔣欽將游兵萬人,循江上下,應敵所在,蒙為國家前據襄陽,如此,何憂於操,何賴於羽?且羽君臣,矜其詐力,所在反覆,不可以腹心待也.今羽所以未便東向者,以至尊聖明,蒙等尚存也.今不於彊壯時圖之,一旦僵仆,欲復陳力,其可得邪?」權深納其策,又聊復與論取徐州意,蒙對曰:「今操遠在河北,新破諸袁,撫集幽﹑冀,未暇東顧.徐土守兵,聞不足言,往自可克.然地勢陸通,驍騎所騁,至尊今日得徐州,操後旬必來爭,雖以七八萬人守之,猶當懷憂.不如取羽,全據長江,形勢益張.」權尤以此言為當.及蒙代肅,初至陸口,外倍修恩厚,與羽結好.

後羽討樊,留兵將備公安﹑南郡.蒙上疏曰:「羽討樊而多留備兵,必恐蒙圖其後故也.蒙常有病,乞分士眾還建業,以治疾為名.羽聞之,必撤備兵,盡赴襄陽.大軍浮江,晝夜馳上,襲其空虛,則南郡可下,而羽可禽也.」遂稱病篤,權乃露檄召蒙還,陰與圖計.羽果信之,稍撤兵以赴樊.魏使于禁救樊,羽盡禽禁等,人馬數萬,託以糧乏,擅取湘關米.權聞之,遂行,先遣蒙在前.蒙至尋陽,盡伏其精兵コウロク中,使白衣搖櫓,作商賈人服,晝夜兼行,至羽所置江邊屯候,盡收縛之,是故羽不聞知.遂到南郡,士仁﹑麋芳皆降.[一]蒙入據城,盡得羽及將士家屬,皆憮慰,約令軍中不得干歷人家,有所求取.蒙麾下士,是汝南人,取民家一笠,以覆官鎧,官鎧雖公,蒙猶以為犯軍令,不可以鄉里故而廢法,遂垂涕斬之.於是軍中震慄,道不拾遺.蒙旦暮使親近存恤耆老,問所不足,疾病者給醫藥,飢寒者賜衣糧.羽府藏財寶,皆封閉以待權至.羽還,在道路,數使人與蒙相聞,蒙輒厚遇其使,周游城中,家家致問,或手書示信.羽人還,私相參訊,咸知家門無恙,見待過於平時,故羽吏士無鬭心.會權尋至,羽自知孤窮,乃走麥城,西至漳鄉,眾皆委羽而降.權使朱然﹑潘璋斷其徑路,卽父子俱獲,荊州遂定.

[一] 吳書曰:將軍士仁在公安拒守,蒙令虞翻說之.翻至城門,謂守者曰:「吾欲與汝將軍語.」仁不肯相見.乃為書曰:「明者防禍於未萌,智者圖患於將來,知得知失,可與為人,知存知亡,足別吉凶.大軍之行,斥候不及施,烽火不及擧,此非天命,必有內應.將軍不先見時,時至又不應之,獨守縈帶之城而不降,死戰則毀宗滅祀,為天下譏笑.呂虎威欲徑到南郡,斷絕陸道,生路一塞,案其地形,將軍為在箕舌上耳,奔走不得免,降則失義,竊為將軍不安,幸熟思焉.」仁得書,流涕而降.翻謂蒙曰:「此譎兵也,當將仁行,留兵備城.」遂將仁至南郡.南郡太守麋芳城守,蒙以仁示之,遂降. 吳錄曰:初,南郡城中失火,頗焚燒軍器.羽以責芳,芳內畏懼,權聞而誘之,芳潛相和.及蒙攻之,乃以牛酒出降.

以蒙為南郡太守,封孱陵侯,[一]賜錢一億,黃金五百斤.蒙固辭金錢,權不許.封爵未下,會蒙疾發,權時在公安,迎置內殿,所以治護者萬方,募封內有能愈蒙疾者,賜千金.時有鍼加,權為之慘慼,欲數見其顏色,又恐勞動,常穿壁瞻之,見小能下食則喜,顧左右言笑,不然則咄唶,夜不能寐.病中瘳,為下赦令,羣臣畢賀.後更增篤,權自臨視,命道士於星辰下為之請命.年四十二,遂卒於內殿.時權哀痛甚,為之降損.蒙未死時,所得金寶諸賜盡付府藏,勅主者命絕之日皆上還,喪事務約.權聞之,益以悲感.

[一] 江表傳曰:權於公安大會,呂蒙以疾辭,權笑曰:「禽羽之功,子明謀也,今大功已捷,慶賞未行,豈邑邑邪?」乃增給步騎鼓吹,勅選虎威將軍官屬,幷南郡﹑廬江二郡威儀.拜畢還營,兵馬導從,前後鼓吹,光燿于路.

蒙少不脩書傳,每陳大事,常口占為牋疏.常以部曲事為江夏太守蔡遺所白,蒙無恨意.及豫章太守顧邵卒,權問所用,蒙因薦遺奉職佳吏,權笑曰:「君欲為祁奚耶?」於是用之.甘寧麤暴好殺,旣常失蒙意,又時違權令,權怒之,蒙輒陳請:「天下未定,鬭將如寧難得,宜容忍之.」權遂厚寧,卒得其用.

蒙子霸襲爵,與守冢三百家,復田五十頃.霸卒,兄琮襲侯.琮卒,弟睦嗣.

孫權與陸遜論周瑜﹑魯肅及蒙曰:「公瑾雄烈,膽略兼人,遂破孟德,開拓荊州,邈焉難繼,君今繼之.公瑾昔要子敬來東,致達於孤,孤與宴語,便及大略帝王之業,此一快也.後孟德因獲劉琮之勢,張言方率數十萬眾水步俱下.孤普請諸將,咨問所宜,無適先對,至子布﹑文表,俱言宜遣使脩檄迎之,子敬卽駮言不可,勸孤急呼公瑾,付任以眾,逆而擊之,此二快也.且其決計策,意出張蘇遠矣;後雖勸吾借玄德地,是其一短,不足以損其二長也.周公不求備於一人,故孤忘其短而貴其長,常以比方鄧禹也.又子明少時,孤謂不辭劇易,果敢有膽而已;及身長大,學問開益,籌略奇至,可以次於公瑾,但言議英發不及之耳.圖取關羽,勝於子敬.子敬答孤書云:『帝王之起,皆有驅除,羽不足忌.』此子敬內不能辨,外為大言耳,孤亦恕之,不苟責也.然其作軍,屯營不失,令行禁止,部界無廢負,路無拾遺,其法亦美也.」

評曰:曹公乘漢相之資,挾天子而掃羣桀,新盪荊城,仗威東下,于時議者莫不疑貳.周瑜﹑魯肅建獨斷之明,出眾人之表,實奇才也.呂蒙勇而有謀斷,識軍計,譎郝普,禽關羽,最其妙者.初雖輕果妄殺,終於克己,有國士之量,豈徒武將而已乎!孫權之論,優劣允當,故載錄焉.