利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

襄陽耆旧記 巻第一 人物

宋玉

宋玉者,楚之鄢人也。故宜城有宋玉冢。始事屈原,原既放逐,求事楚[王於]友景差。景差惧其勝己,言之於王,王以為小臣。玉譲其友,友曰:“夫姜・桂因地而生,不因地為辛;美女因媒而嫁,不因媒而親。言子而得官者我也,官而不得意者子也。”玉曰:“若東郭(狻)[〓]者,天下之狡兔也,日行九百里而卒不免韓盧之口。然在猎者耳。夫遥見而縦(泄)[紲]耶?”友謝之,復言於王。

玉識音而善(友)[文],襄王好楽而愛賦,既美其才,而憎之(仍)[似]屈原也。[乃謂之]曰:“子盍従[楚之]俗,使楚人貴子之徳乎?”対曰:“昔楚有善歌者,[王其聞与?]始而曰《下里》《巴人》,[国中(唱)[属]而和之者数万人;中而曰《陽阿》《采菱》,]国中属而和之者数百人,既而曰《陽春》《白雪》,《朝日》《魚離》,国中属而和之者不至十人;含商吐角,絶(倫)[節]赴曲,国中属而和之者不至三人矣。其曲弥高,其和弥寡也。”

習融 子郁

習融,襄陽人。有徳行,不仕。

子郁,字文通,為黄門侍郎。[其為侍中時,従光武幸黎丘,拝大鴻臚;録其前後功,]封襄陽(公)[侯]。[於峴山南依范蠡養魚法作魚池。池辺有高堤,皆種竹及長楸,芙蓉覆水,是游宴名処。当中築一釣台。将亡,勅其児曰:“必葬我近魚池。”]

王逸

王逸叔師といい、南郡宜城の人である。元初年間(一一四~一二〇)、上計吏に推挙されて校書郎となり、昇進を重ねて侍中になった。著書の『楚詞章句』は世間に流行した。彼の賦・誄・論および雑文は合わせて二十一篇ある。『漢詩』百二十三篇を作った。子が王延寿である。

王延寿

王延寿文考という。『霊光殿賦』を作った。蔡邕もまたそのようなを作ろうとしていたが、まだ完成しないうちに(彼の作品を)見て、あまりの素晴らしさに驚き、とうとう草稿を捨ててしまった。(延寿は)あるとき奇怪な夢を見たことがあり、それを不快に思い、『夢賦』を作って自分を励ましたが、のちに溺れて死んだ。

龐徳公

龐徳公襄陽の人である。峴山の南、沔水のほとりに住まいして、一度も城内には入ったことがなかった。みずから田畑を耕し、夫婦はまるで賓客同士のように付き合った。休息するときは頭巾を正し、端坐して琴を弾いたり書を読んだりして楽しみ、その様子を見てみると実におだやかであった。

荊州牧劉表はたびたび招聘したが、思い通りにはならなかった。そこで彼自身が出かけて会いに行き、公(徳公)に言った。「身一つを守るのと、天下を守るのとでは、どちらが立派でしょうか?」公は笑いながら「鴻鵠は高い林の上に巣を作るので、日暮れになってもにありつけるのです。や亀は深い泉の下に穴を掘るので、夕方になっても宿にありつけるのです。そもそも出処進退というのは、人間にとっても巣穴のようなもの。ただ、それぞれが寝牀を得られればそれでよく、天下などは守るほどの価値もありません」と言い、耕すのをやめてに腰かけた。妻と子供とが目の前で草を刈っているのを、劉表が指差しながら訊ねた。「先生は畦や畝のなかで苦労を重ね、俸禄のあてがいを拒絶なさっておられる。それでは後世、なにを子孫に残してやるおつもりですか?」公は言った。「世間の人々はみな危険を残しておりますが、いま私だけは安全を残しているのです。残すものは違っておりますが、なにも残さないわけではございません。」劉表が「どういうことでしょう?」と訊ねると、公は言った。「むかし堯・舜は海内をこぞって臣下に授け、物惜しみするそぶりも見せず、草むらに子供を捨てておいて、憐れみをかける様子もありませんでした。(堯・舜の子)丹朱・商均は馬鹿にされたおかげで、首を打たれぬまま死ぬことができたのです。禹・湯は四海を手にして尊貴となりましたが、そのまま国家を肉親に私有させたため、(禹の子孫)には南巣へと流刑させることになり、(湯の子孫)にはの旗へ首をさらさせることになり、一族には災いを被らせることになったのです。しかしそれは丹朱・商均より愚かだったからでしょうか?いいえ、彼らが危険な状況に置かれたからなのです。周公は天下の政治を行うとき、自分の兄を殺しました。かつては周公兄弟も豆の葉やあかざの汁物を食べ、よもぎの草陰に住まいしておりましたのに、なぜそのように殺してしまう羽目になったのでしょうか!」劉表はため息をついて、立ち去った。

諸葛孔明諸葛亮)は公の家へ行くたび、ひとりで牀の傍らで公に拝礼し、公もわざわざ止めようとはしなかった。司馬徳操司馬徽)はあるとき公のもとを訪れたが、ちょうど公は沔水を渡って祖先の墓参りに出かけたところだった。徳操はまっすぐ入って座敷に上がり、徳公の妻子を呼び付けてを作らせ、言った。「あらかじめ徐元直徐庶)が言っていたはずだぞ。客人がやってきて、私と公とが話し合うことになっている、と。」彼の妻子はみな座敷の下へ一列になって拝礼し、駆けずりまわって御膳を用意した。しばらくして徳公が帰ってきて、すぐさま入って会ってみたのだが、この訪問客が何者であるのか、まるで覚えがないのであった。

徳操は徳公より十歳ほど若く、彼に兄事して龐公と呼んだ。そのため世間の人々は「公」というのが徳公の名だと思い込んでいるが、そうではないのだ。

のちに妻と子供を連れて鹿門山に登り、薬草を採りに行くと言っていたのだが、それ以来、行方知れずとなった。

先賢伝』に言う。「郷里の古い言い伝えによると、諸葛孔明を臥龍龐士元龐統)を鳳雛、司馬徳操を水鏡と見立てるのは、みな徳公による品評なのである。」

その子龐仙民にもまたうるわしい名声があり、諸葛孔明の下の姉を娶っていた。黄門吏部郎となったが、早くに卒去した。子の龐煥世文といい、太康年間(二八〇~二九〇)、牂牁太守になった。官職を去って郷里に帰ると、荊南白沙郷に住まいした。土地の人々は彼を尊敬して、「わが家の池に龍が帰ってきた」と言い合っていた。郷里の人々は、彼の謙譲の美徳に感銘し、若者たちはみな老人の代わりに(荷物を)担いでやるようになった。

徳公の従子が龐統である。

龐統

龐統,字士元。少未有識者,惟徳公重之;年十八,使詣司馬徳操。徳操与語自昼達夜,乃嘆息曰:“徳公誠知人,此実盛徳也。必南州士之冠冕。”由是顕名。

後劉備訪世事於徳操,[徳操]曰:“儒生俗士,豈識時務?識時務者,在乎俊傑。此間有臥龍・鳳雛。”備問為誰,曰:“諸葛孔明,龐士元也。”[備後幷用為軍師中郎将。]

[統]毎称咏,多過其才。時人怪而問之,統曰:“当今天下大乱,雅道陵遅,善人少而悪人多。方欲興風俗,長道業,若不美其談,則声名不足慕。今抜十失五,猶得其半,而可以崇長世教,使有志者自励,不亦可乎?”

呉将周瑜卒,統送喪至呉,呉人多聞其名,陸績・顧劭・全琮皆往。統曰:“陸子可謂駑馬有逸足之力,顧子可謂駑牛能負重致遠也。”

初,劉備領荊州,統以従事守耒陽令,在県不治,免官。魯粛与備書曰:“龐士元非百里才也,使其処治中・別駕之任,始当展其驥足耳。”備大器之,以為治中従事。

勧備入益州。備向成都,所向輒中。於涪大会,曰:“今日之会可為楽矣。”統曰:“伐人之国而以為楽,非仁者所為。”備酔,怒曰:“武王伐紂,前歌後舞,非仁者乎?”

進囲雒県,統帥衆攻城,為矢所中,卒,年三十六。

統弟林婦習。

龐林婦習

龐林の妻は、同郡の習禎の妹である。曹操荊州を打ち破ったとき、龐林の妻は龐林と離ればなれになったが、十年余りにわたって女子供を守り育てた。のちに龐林が黄権に随従してに投降したので、ようやく再会することができた。魏文曹丕)はそれを聞いて賢女だと思い、寝牀の帳と衣服とを賜って彼女の節義を顕彰した。

蔡瑁

蔡瑁徳珪といい、襄陽の人である。性格は豪壮で自負心が強かった。

若いころは魏武曹操)に可愛がられた。劉琮が敗北すると、武帝(同上)は彼の邸宅を訪れて蔡瑁の私室に入り、彼の妻子を呼んでから蔡瑁に言った。「徳珪よ、覚えているかい。むかし一緒に梁孟星梁鵠)に会いに行ったのに孟星が会おうとしなかったことを。今ここに来ているそうだが、何の面目あってに顔を合わせられるんだろうね!」当時、蔡瑁の邸宅は蔡洲のほとりにあり、造りは非常に立派で、四方の垣根はみな青石でもって角を作っていた。婢妾は数百人もおり、(田地は)別に四・五十ヶ所もあった。

漢末は、蔡氏たちの最盛期である。蔡諷は姉を太尉張温に嫁がせ、長女を黄承彦の妻とし、末女を劉景升劉表)の後妻とした。(末女は)蔡瑁の姉にあたる。蔡瓚は字を茂珪といい、国のとなり、蔡琰は字を文珪といい、巴郡太守となった。(彼らは)蔡瑁の従兄弟にあたる。永嘉年間(三〇七~三一三)の末期、彼らの子孫はまだ裕福、一族は大変強力で、一緒に蔡洲のほとりに立て籠もっていたが、草賊の王如に殺されて一族は全滅した。現在ではもう蔡を姓とする者はいなくなっている。

蔡瑁は、劉表の時代に江夏・南郡・章陵太守鎮南大将軍軍師となった。そして魏武の従事中郎司馬長水校尉・漢陽亭侯となる。魏武は旧知として彼を待遇したのであるが、当時の人々には蔑まれた。彼が劉琮を助けて劉琦を貶めたのが咎められたのである。

魏文曹丕)は『典論』を作り、蔡瑁を引き合いに出して結びの言葉とした。「劉表の長子を劉琦と言った。劉表ははじめ彼を愛し、自分に似ていることを褒めていた。しばらくして、末子劉琮のために後妻として蔡氏の姪を娶り、ついに劉琮を愛して劉琦を憎むようになった。蔡瑁および外甥張允はそろって劉表の寵愛を手に入れ、また劉琮とも仲が良かった。劉琮に善行があれば、どんなに些細なことでも必ず知らせ、過失があれば、どんなに深刻なことでも必ず隠した。蔡夫人は室内にいて美挙を称え、張允・蔡瑁は室外にいて人徳を唱えた。愛情と憎悪はそれが基準になり、劉琦はますます遠ざけられていった。そこで江夏太守に出向させて、外部にあって軍事を監督させたのだ。蔡瑁・張允はこっそり彼の過失を探り、事あるごとに彼を貶めた。美点はそれが顕著であっても掩蔽しないことはなく、欠点はそれが微少であっても暴露しないことはなかった。こうしたことから(劉表の劉琦に対する)憤怒の顔色は日ごとに表れ、難詰の言葉は日ごとに届けられた。そして結局、劉琮が後継者になったのである。昔から『受難は仲違いから生まれ、寵愛は近習から出てくる』というのは、このことではないか!穆公の側に人がいなければ、泄柳・申詳はその身の安全を得られなかった。君臣でさえそうした有様だったし、父子もまたこの通りだ!」

のちに劉表が病気にかかったとき、劉琦は慈悲孝行の人だったので、病気見舞いのために帰還した。蔡瑁・張允は、彼を劉表に会わせてしまうと、(劉表が)父子の情を起こし、改めて後事を託すのではないかと恐れ、「将軍は貴君に江夏を鎮撫させて、東方の藩塀となさいました。その責任はいたって重いものです。いま軍勢を放って来られたからには、必ずやお怒りを蒙ることになりましょう。父親としての愛情を傷付けて、その病気を悪化させることは親孝行ではありませぬぞ」と言い、(劉琦を)戸外へ押しとどめて会わせないようにした。劉琦は涙を流しながら立ち去ったが、人々はそれを聞いて痛ましく思った。劉表が卒去すると劉琮が後継者に立ち、侯の印を劉琦に授けた。劉琦は怒って(印を)投げ捨て、葬儀への参列を口実に蔡瑁・張允を討ちはたそうと考えた。ちょうどそのとき官軍が郊外まで迫ったので、劉琮は一州をこぞって降服し、劉琦は江南へと出奔した。

楊慮 許汜

楊慮威方といい、襄陽の人である。若くして徳行を修め、沔南では最高の人物であった。州郡の手厚い礼儀、諸公のお招きの命令のいずれでも、(彼を)屈服させられなかった。十七歳にして夭折した。門徒の数百人は、彼の徳義規範を尊敬して「徳行楊君」と呼んだ。

許汜は楊慮と同じ里の人である。若くして楊慮に師事し、魏武曹操)の従事中郎となった。劉表の催した酒宴で、劉備と一緒に陳元龍陳登)を論評したのは、この人である。

楊慮の弟が楊儀である。

楊儀

楊儀,字威公。為蜀相諸葛亮長史,加綏軍将軍。

亮出軍,儀常規画分部,籌度糧穀,不稽思慮,斯須便了。軍戎節度,取辦於儀。亮深惜儀之才幹,凭魏延之驍勇,故(嘗)[常]恨二人之不平,不忍有所偏廃也。

[建興]十二年,亮出屯谷口,卒於敵場。[儀率]全軍而還,又(誅討)[討誅]魏延,自以為功勲至大,当代亮。而方廃中軍師,無所統領,従容而已。遂大怨憤,謂費禕曰:“往者吾若挙軍就魏,寧当落度如此[邪]!令人追悔不可更及。”

禕表其言,坐徙。儀復上書誹謗,詞旨激切。遂下郡収儀,自殺。

繁仲皇

繁仲皇,襄陽人,為青州刺史。自爾以来,雖無名徳重位,世世作書生門戸。

習詢 習竺

習詢・習竺,才気鋒爽。

習承業

習承業,博学有才鑑。歴江陽・汶山太守,都督龍鶴諸[軍]事。

習藹

習藹,有威儀,善談論。

習珍

習珍,為零陵北部都尉,加裨将軍。

孫権殺関羽,諸県響応。[珍]欲保城不降,珍弟[宏]曰:“駆甚崩之民,当乗勝之敵,甲不堅密,士不素精,難以成功。不如暫屈節於彼,然後立大効以報漢室也。”珍従之,乃陰約樊胄等挙兵,為権所破。珍挙七県,自号邵陵太守,屯校夷界以事蜀。

[孫権遣]潘濬討珍,所至皆下,唯珍所帥数百[人]登山。珍遂謂曰:“我必為漢鬼,不為呉臣,不可逼也。”因引射濬。濬還(共)攻,[珍固守]月余,糧・箭皆尽。[珍謂群下]曰:“受漢厚恩,不得不報之以死。諸君何為者?”即仗剣自裁。

劉備聞珍敗,為発喪,追贈邵陵太守。

[弟宏在呉,凡有問,皆不答。]張邵伯難(習)宏曰:“若亡国之大夫不可以訪事,敗軍之将不足以言勇,則商之箕子当見捐於昔日,趙之広武君無能振策於一世也。”

後賊発其漢末先人墓,堀習郁冢作炭竈,時人痛之。

珍子温。

習温

習温,識度広大。歴長沙・武昌太守,選曹尚書,広州刺史。従容朝位三十年,不立名迹,不結権豪。飲酒一石乃酔。有別業在洛上,毎休沐常宴其中。

長子宇,執法郎,曾取急(趨)[帰],車乗道従甚盛。温怒,杖[宇,責]之曰:“吾聞生於乱世,貴而能貧,始可以亡患,況復以侈靡竟乎!”

潘濬見温十数歳時,曰:“此児名士,必為吾州里議主。”勅子弟与善。[温]後果為荊州大公平。

[及至晋朝,以江表始通,人物未悉,使江南別立大中正,人沿称]大公平,今之州都。

潘秘過,辞於温,曰:“先君昔(因)[曰]君侯当為州里議主,今果如其言。不審州里誰当復相代者?”温曰:“無過於君也。”後秘為尚書僕射;[先是]代温為公平,甚得州里之誉。

黄承彦

黄承彦,高爽開朗,為沔南名士,謂孔明曰:“聞君択婦;身有醜女,黄頭黒面,才堪相配。”孔明許[焉],即載送之。時人以為笑楽,郷里為之諺曰:“莫作孔明択婦,正得阿承醜女!”

習禎 子忠 忠子隆

習禎,有風流,善談論。名亜龐統,而在馬良之右。子忠,亦有名。忠子隆,為歩兵校尉,掌校秘書。