利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

龐徳公

龐徳公襄陽の人である。峴山の南、沔水のほとりに住まいして、一度も城内には入ったことがなかった。みずから田畑を耕し、夫婦はまるで賓客同士のように付き合った。休息するときは頭巾を正し、端坐して琴を弾いたり書を読んだりして楽しみ、その様子を見てみると実におだやかであった。

荊州牧劉表はたびたび招聘したが、思い通りにはならなかった。そこで彼自身が出かけて会いに行き、公(徳公)に言った。「身一つを守るのと、天下を守るのとでは、どちらが立派でしょうか?」公は笑いながら「鴻鵠は高い林の上に巣を作るので、日暮れになってもにありつけるのです。や亀は深い泉の下に穴を掘るので、夕方になっても宿にありつけるのです。そもそも出処進退というのは、人間にとっても巣穴のようなもの。ただ、それぞれが寝牀を得られればそれでよく、天下などは守るほどの価値もありません」と言い、耕すのをやめてに腰かけた。妻と子供とが目の前で草を刈っているのを、劉表が指差しながら訊ねた。「先生は畦や畝のなかで苦労を重ね、俸禄のあてがいを拒絶なさっておられる。それでは後世、なにを子孫に残してやるおつもりですか?」公は言った。「世間の人々はみな危険を残しておりますが、いま私だけは安全を残しているのです。残すものは違っておりますが、なにも残さないわけではございません。」劉表が「どういうことでしょう?」と訊ねると、公は言った。「むかし堯・舜は海内をこぞって臣下に授け、物惜しみするそぶりも見せず、草むらに子供を捨てておいて、憐れみをかける様子もありませんでした。(堯・舜の子)丹朱・商均は馬鹿にされたおかげで、首を打たれぬまま死ぬことができたのです。禹・湯は四海を手にして尊貴となりましたが、そのまま国家を肉親に私有させたため、(禹の子孫)には南巣へと流刑させることになり、(湯の子孫)にはの旗へ首をさらさせることになり、一族には災いを被らせることになったのです。しかしそれは丹朱・商均より愚かだったからでしょうか?いいえ、彼らが危険な状況に置かれたからなのです。周公は天下の政治を行うとき、自分の兄を殺しました。かつては周公兄弟も豆の葉やあかざの汁物を食べ、よもぎの草陰に住まいしておりましたのに、なぜそのように殺してしまう羽目になったのでしょうか!」劉表はため息をついて、立ち去った。

諸葛孔明諸葛亮)は公の家へ行くたび、ひとりで牀の傍らで公に拝礼し、公もわざわざ止めようとはしなかった。司馬徳操司馬徽)はあるとき公のもとを訪れたが、ちょうど公は沔水を渡って祖先の墓参りに出かけたところだった。徳操はまっすぐ入って座敷に上がり、徳公の妻子を呼び付けてを作らせ、言った。「あらかじめ徐元直徐庶)が言っていたはずだぞ。客人がやってきて、私と公とが話し合うことになっている、と。」彼の妻子はみな座敷の下へ一列になって拝礼し、駆けずりまわって御膳を用意した。しばらくして徳公が帰ってきて、すぐさま入って会ってみたのだが、この訪問客が何者であるのか、まるで覚えがないのであった。

徳操は徳公より十歳ほど若く、彼に兄事して龐公と呼んだ。そのため世間の人々は「公」というのが徳公の名だと思い込んでいるが、そうではないのだ。

のちに妻と子供を連れて鹿門山に登り、薬草を採りに行くと言っていたのだが、それ以来、行方知れずとなった。

先賢伝』に言う。「郷里の古い言い伝えによると、諸葛孔明を臥龍龐士元龐統)を鳳雛、司馬徳操を水鏡と見立てるのは、みな徳公による品評なのである。」

その子龐仙民にもまたうるわしい名声があり、諸葛孔明の下の姉を娶っていた。黄門吏部郎となったが、早くに卒去した。子の龐煥世文といい、太康年間(二八〇~二九〇)、牂牁太守になった。官職を去って郷里に帰ると、荊南白沙郷に住まいした。土地の人々は彼を尊敬して、「わが家の池に龍が帰ってきた」と言い合っていた。郷里の人々は、彼の謙譲の美徳に感銘し、若者たちはみな老人の代わりに(荷物を)担いでやるようになった。

徳公の従子が龐統である。