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原著作者:【むじん書院】

襄陽耆旧記 巻第四 城邑

北津

襄陽城はもともと下邑である。檀溪はその西方に横たわり、峴山はその南方に横たわっている。楚の北津である。

楚には二つの渡し場がある。こういうことだ。襄陽から沔水を渡り、南陽の郡境から方城関に出るのが一つ。周・鄭・晋・衛に通ずる道である。東へは漢津から漢水を渡り、江夏を経て平皋関に出るのが一つ。陳・蔡・斉・宋に通ずる道である。

戦地

劉表の嗣子(劉琮)が降服すると、襄陽・沔北は戦乱の地となった。羊公羊祜)がこの地を鎮めてからは、もうが侵入することはなくなった。安西将軍庾翼は北伐しようと計画したとき、襄陽を鎮めた。

柤中

の時代、朱然樊城を包囲し、諸葛瑾沮中から険しい山道を北へ抜けて柤中に進出した。「」の発音は租税の「租」と同じ。

柤中は上黄県の西境にあり、襄陽城を去ること百五十里である。の時代、夷王梅敷三兄弟の部曲一万家がこの地に屯していて、中廬・宜城の西山の鄢・沔の二つの谷間に散らばって住んでいた。土地は高く平ら、桑や麻の栽培に向き、水陸にまたがって美田が広がる。沔南の沃野であり、「柤中」と呼ばれていた。

松子亭

蔡陽侯国には松子亭があり、その傍らに神陂がある。水中には魚が多く、人の手で捕まえることができる。《南都賦》が称えているものである。

牽羊壇

襄陽には「牽羊壇」と呼ばれる祭壇がある。古い言い伝えによると、刺史は着任すると必ず、一頭の羊を連れて祭壇に詣で、それをぐるりと巡り、何周回ったかによって州を統治する年数を占うとのことである。文帝劉義隆)が刺史になったときは、羊が六周回っても止まらなかったので、力づくで止めた。その結果、八年してから昇進したのであった。

活国城

山都活国城について。沔水に面して大石激という堰があった。ある邸宅(の主人)が(自分の邸宅を)水流によってぶち壊そうとした。その人には五人の娘があって、みな大金持ちだったので、金銭を出し合って堰を造り、その邸宅を守り抜いた。

また資産一万金を抱える狠子という人があって、若いころから父の言い付けを守らなかった。父は死を目前にしたとき、山上に埋葬してほしいのだが息子が聞いてくれまいと案じ、「我を埋葬するときはの下流の砂利の上にするように」と言った。狠子は「我は今まで言い付けを守ってこなかった。今度こそはこの言い付けを守るぞ」と言い、結局、資産を使いはたして石のを造り、その周りに土を盛って長さ数百歩の中洲を造ったのであった。元康年間(二九一~三〇〇)、水流のせいで壊れてしまった。いま冢の石は全部でに半分ほどと見え(?)、数百枚は水中に固まっている。狠子は前漢の時代の人で、住まいはその東方の五女激(大石激)にある。

楽宅戍

南陽城の南九十里に尚書令楽広の旧宅がある。

楽広は彦輔といい、清談に巧みで、当時の人々から尊重されていた。成都王司馬穎)が楽広の女婿にあたり、長沙王司馬乂)はそれを疑っていた。楽広が「どうして女一人を男五人と交換いたしましょうか!」と言ったが、(長沙王は)それでもまだ疑い続けた。(楽広は)とうとう憂慮のすえ死んでしまった。

その旧宅には、現在、要害が設けられている。そこから名付けられたのだ。

張平子碑

張平子張衡)碑は崔瑗による碑文である。夏侯孝若夏侯湛)は郡守になったとき、その碑文をまずく思い、改めて碑陰に銘文を刻んだ。

三公城

城の南三十里に一つの城がある。非常にちっぽけではあるが、その名は「三公城」と言い伝えられている。

諸葛女郎墓

襄陽城の南の大通りの傍らに諸葛女郎の墓がある。諸葛仲茂の女のことである。十三・四で亡くなると、仲茂の妻はこれを不憫がって遠くへやるに忍びず、そこで城の近くへ埋葬し、日ごとに往来して泣いたのであった。

秦頡冢

秦頡というのは初起といった。秦頡は南陽へ行く途中、宜城を通過した。城内に一軒の家があり、東向きで大通りに面していた。(秦頡は)車を停めて、それを見ながら「これはを作るのにいい場所だなあ」と言った。のちに(秦頡が戦死して)亡骸が送り返されたとき、あのとき停車した場所まで来ると、車が(勝手に)進まなくなった。故吏はこの家を買い、そこへ埋葬した。いま宜城の城内にある大きな冢、前面に二つの石碑があるのがそれである。

熨斗陂

宜城県の東北の隅に熨斗陂がある。

木蘭橋

木蘭橋というのは、現在の猪蘭橋がそれにあたる。

劉和季劉弘)はこの橋の近くに蕺菜が生えているので、橋の東側で盛大にを飼育した。襄陽太守皮府君皮初)が言った。「これはなあ、猪の糞が臭いから猪蘭橋と改名すべきだな。もう木蘭橋と呼んではならぬぞ。」もともと冗談のつもりだったのだが、百姓たちはそのまま改名してしまった。

黎丘

秦豊黎丘の人である。黎丘はの土地にあたるため、それゆえ楚の黎王と称したのである。田戎成王と号し、陳義臨江王と称した。

呼鷹台

劉表荊州刺史になると、呼鷹台を築いて『野鷹来』という曲を作った。

楚王冢

建元年間(四七九~四八三)、盗賊が楚王を掘り返して玉鏡・玉履を奪い、また青糸で竹簡を繋げた古書を手に入れた。