利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

羊祜

羊祜叔子という。武帝司馬炎)は討伐の志を立て、羊祜を都督荊州諸軍事とし、部隊を率いて南夏(中国南部)に進駐させた。学問所を開設して遠近を手懐け、はなはだ江漢長江・漢水)流域の民心を手に入れた。呉の人々に対しては大いなる信義を示した。卒去したとき、南方の州の人々は市場に出かけた日に羊祜の死を知り、号泣しない者がなかった。市場を閉めたあとも、至るところで泣き声が挙がった。国境を守る呉の将兵たちもまた彼のために泣いた。その仁徳の広がりはこれほどであった。

羊祜は山や川を愛し、いつも風景を楽しむために峴山へ行き、酒宴を開いて語り合ったり、詩を詠んだりして、ひねもす飽きることがなかった。あるとき感慨深げにため息を吐き、従事中郎鄒湛らの方へ振り返って「宇宙が誕生して、そしてこの山があり、賢明な名士が来訪してはこの山を登って遠望する。貴卿のような人は多かったんだろうなあ!しかし、みんな跡形もなく消えてしまった。悲しいことじゃないか。もし百年後でも知覚があるならば、霊魂になってこの山を登ってみたいものだ」と言った。鄒湛は言った。「公の恩徳は四海の頂点、道義は先哲を継承され、声望は立派でいらっしゃいます。必ずやこの山とともに語り継がれることでしょう。鄒湛ごとき弱輩者は、公のおっしゃる通りになるだけです。」

羊祜が卒去したのち、襄陽の百姓たちは羊祜が日ごろ楽しんでいた場所に石碑と廟所を建て、季節ごとに供物を捧げて祭った。その石碑を見れば涙を流さぬ者はなく、そのことから杜預は「堕涙碑」と名付けた。碑文は李安が書いたものである。李安は別名を李興といった。むかし荊州諸葛亮旧宅にを書いたが、その文章も立派だったし、羊公(羊祜)が卒去したとき、その碑文も巧妙だった。当時の人々はようやくその才能に感服したのであった。

楊世安記室・主簿の職務に当たることになり(?)、羊祜の石碑を読み終えると、長いため息を吐いて「大丈夫たる者、名声を樹立することを心がけねばなあ。は聡明でないが、自分だけが考えないわけにはいかないぞ」と言い、それからは政務に励み、職務では寛容さと簡略さを心がけた。荊州の人々は羊祜の名を避け、(「戸」が「祜」と同音なので)家屋はみな「門」と呼び、戸曹は「辞曹」と改称した。