利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

山簡

山簡季倫といい、司徒山濤の子である。永嘉三年(三〇九)、出向して征南将軍都督荊・湘・交・広四州諸軍事仮節となり、襄陽に駐屯した。

そのころ四方で騒乱が起こって天下は崩壊し、王朝の威信は振るわず、朝廷でも在野でも危惧する者があった。(しかし)山簡は年が暮れるまで優雅に遊び暮らし、ひたすら酒に溺れ続けた。氏一族は荊州の豪族であり、立派な庭園や池を所有していた。山簡は遊行に出かけるとなると、その池の側へ行くことが多く、酒宴を開いてはすぐに酔っぱらって「これぞ高陽池だ!」と言った。子供たちはこう歌った。「山公どちらへお出かけかしら?高陽池へと行くんだよ。日暮れにゃ潰れて車で帰り、泥酔していて訳も分からぬ。ときには乗馬もやるけれど、白い頭巾を逆さにかぶる。鞭を振りふり葛強に『幷州どのはいかが?』とお訊ね。」葛強は幷州に住まいする山簡のお気に入りの部将である。

そのころ楽府勤めの楽人たちの多くが沔漢へと避難していた。宴会の日、補佐官のなかに、彼らに演奏させてはと勧める者があったが、山簡は「社稷が傾いているのにお救いすることもできずにいる。(我は)にとっては罪人なのだ。どうして楽しむ余裕などがあるだろう?」と言い、涙を流して怒りをつのらせた。同座した者はみな恥ずかしく思った。