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原著作者:【むじん書院】

90 三国志の誤記

の『武紀』に、建安二年、汝南黄巾賊何儀・劉辟・黄邵・何曼らは軍勢おのおの数万人であり、曹操は進軍して彼らを討ち破り、劉辟・黄邵らを斬首した、とある。これは劉辟がすでに処刑されていたということである。ところが、建安五年、曹操が官渡において袁紹と対峙したとき、汝南の投降した賊である劉辟らが叛逆して袁紹に呼応し、の城下を攻略し、袁紹は劉備をやって劉辟を支援させた、という。これは劉辟がもともと死んでおらず、ただ曹操に降伏しただけで、このときまた叛逆して袁紹に呼応したということである。一つの帝紀だけでもうこれだけの矛盾があるのだ。さらに『于禁伝』では、于禁は黄巾賊の征伐に従軍し、劉辟・黄邵らが曹操の陣営に夜襲をかけてきたので、于禁は彼らを撃破し、劉辟・黄邵らを斬った、とある。その記述は官渡戦への従軍以前に置かれており、つまり建安二年の事件ということになる。さすれば実際のところ劉辟はすでに死んでいたのである。の『先主伝』には、曹操が官渡において袁紹と対峙しているとき、汝南黄巾賊の劉辟らが曹操に叛いて袁紹に呼応したので、袁紹は先主(劉備)に劉辟らとともに許の城下で略奪させた、とある。これもまた建安五年の事件であって、劉辟はまだ生きていたということになる。なぜ帝紀と列伝とでまたぴったりと符合しているのか。まさか、この時代に二人の劉辟がいたというのか?『高堂隆伝』にいう。魏の明帝曹叡)が盛大に宮殿を築いたので、高堂隆は上疏して諫めた。「いま呉・蜀二人の賊徒が皇帝を僭称しておりますが、もし孫権・劉備がともに恩徳ある政治を敷いていると報告する者があり、陛下がそれを聞いたとして、はらはらとせずにおられましょうか。」調べてみると、蜀の先主が崩御したのは魏の文帝曹丕)の黄初四年のことであって、どうして明帝の時代に「孫権・劉備」と称することができよう。これはきっと字に間違いがあるのだろう。の『孫輔伝』にいう。その息子の孫松射声校尉・都郷侯となり、黄龍三年に卒去した。蜀の丞相諸葛亮は兄の諸葛瑾に手紙を送り、「かつて東の朝廷で厚遇を賜り、子弟の方々には親密な心を抱いております」、また「子喬(孫松)どのは器量に秀でておられ、彼のために哀悼するものでありますが、彼が諸葛亮にくれた品物を見るたび、感傷のため涙が流れるのでございます」と述べた。彼がここまで孫松を追悼するのは、諸葛亮の養子諸葛喬から(孫松のことを)聞いていたからだと言われる、と。この段落の文章は全く理解できない。息子諸葛喬というのは諸葛瑾の実子であるが諸葛亮の養嗣子に出された人物であって、おそらく諸葛喬が孫松の人となりを諸葛亮に説明したことがあったものと思われる。それなのに「子弟の方々には親密な心を抱いております」とか「諸葛亮にくれた品物」とは一体、何を言っているのか。諸葛亮がかつて使者として呉を訪れたとき、孫松と面識があって、その後、孫松が品物を諸葛喬に預けて諸葛亮に贈ったということだろうか?それにしても文章が全く意味不明である。『陸抗伝』に、陸抗西陵都督して関羽から白帝へ赴いた、とある。白帝とは夔州城のことであるから、関羽もまた地名かも知れぬ。おそらく関羽が荊州を守っていたことで、後世の人々が彼の名を取って地名にしたのであろうから、これはまだ間違いであるとは限らない。『夏侯惇伝』にいう。建安二十一年、孫権征討に従軍した。二十四年、曹操は摩陂において呂布軍を撃破し、夏侯惇を招いて一緒に(馬車へ)載り、それによって恩寵の深さを示した、と。調べてみると、曹操が呂布を生け捕りにしたのは建安二年のことで、建安二十四年とは二十年以上も離れている。どうして今さら呂布を撃破することがありえようか。考えてみるに、このとき関羽は曹仁を包囲しており、曹操は徐晃をやって救援させ、曹操は洛陽から直々に出向いて対応することにしたが、まだ到着せぬうちに徐晃が関羽を破り、関羽がすでに敗走していたので、曹操はそのまま摩陂に着陣したのである。そうすると『夏侯惇伝』で呂布と呼ばれているのは、きっと関羽の間違いであろう。また『呉志』の『孫壱伝』にいう。孫綝朱異に命じて潜行部隊に孫壱を襲撃させると、孫壱は魏に逃亡した。魏はこれを車騎将軍として呉侯に封じ、先帝斉王曹芳貴人であった氏を娶らせた。(孫壱は)魏の黄初三年に死去した、と。調べてみると「黄初」というのは魏の文帝の年号であり、文帝から斉王曹芳が廃されるまで二十年以上が経っている。どうして曹芳の妃を娶らせたあと、また黄初年間に死ぬことがありえようか。『魏志』によると孫壱の降参は高貴郷公曹髦)の甘露二年のことであって、となれば彼が死んだのも景元・咸煕年間のことである。ここで黄初三年に死去したというのは、やはり間違っているはずだ。