利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

廿二史箚記 卷七

95 漢の九州復古

『後漢書』に、建安十八年、禹貢の九州を復活した、とある。『魏志』でも、この年、詔勅により十四州を合併して九州とした、と述べている。『献帝春秋』の言うには、幽州・幷州を廃止して冀州に併合し、司隷校尉および涼州を廃止して雍州に併合し、これにより兖州・予州・青州・徐州・荊州・揚州・冀州・益州・雍州の九州となった、とのこと。『荀彧伝』を調査すると、こうある。建安九年、ある人が「九州を復古すれば冀州の所轄が広くなりますぞ」と曹操を説得した。荀彧が「もしそのようになさるならば、冀州は河東・馮翊・扶風・西河・幽州・幷州の地を獲得することになり、収奪が多すぎます。関右の諸将はきっと順番に奪われるだろうと思い、人々を不安にさせることになります。天下を片付けるのが容易でなくなるのが気がかりです」と言ったので、曹操はそこで九州の議論を寝かせておいた、と。このときになって改めて復活させたのであるが、思うに、幽州・幷州および関中のもろもろの郡国は、みな、当時すでに平定されていたため、曹操は自分自身が主体となって、将来の王都たる地をすっかり収めておきたかったからであろう。その前年を見れば、すでに蕩陰・朝歌・林慮・衛国・頓邱・東武陽・発干・廮陶・曲周・南和・任城・襄国・邯鄲・易陽を分割して魏郡に加増しており、この年、さらに冀州の河東・河内・魏郡・趙国・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原の十郡でもって曹操を魏公に封じたのである。九州復活がまさに受禅の地ならしになっていることが見てとれよう。

96 関・張の武勇

漢以後、勇者を称える場合には必ず関・張を取り上げた。二公の本伝に見えるものは以下の通り。袁紹が顔良を派遣して劉延を白馬において攻撃したので、曹操は張遼・関羽に劉延を救出させた。関羽は顔良の麾蓋を眺め見て、馬に鞭打って敵勢一万のただなかで顔良を刺し、その首を斬って引き返したが、袁紹の将のうちでも敵対できる者はなかった。当陽の戦役において先主は妻子を棄てて逃走し、張飛に二十騎を率いさせて後詰めさせた。張飛は川を足がかりに橋を断ち切り、目を瞋らし矛を横たえて言うに、「身どもはこれぞ張益徳である。来い、ともに死を決しようぞ!」敵兵のうちあえて近付く者はいなかった。二公の武勇のうち、伝記に見えるものはこれだけである。しかしながら当時にあって彼らの威名に震えおののかぬ者はなかった。魏の程昱は言った。「劉備には英名があり、関羽・張飛はいずれも万人之敵である。」(魏志程昱伝)劉曄は漢中奪取の勢いに乗って蜀を切り取るべきだと曹操に勧め、言った。「もし少しでも緩めてやれば、諸葛亮が統治の明るさでもって宰相を務め、関羽・張飛が三軍に冠たる勇ましさでもって将帥を務めておりますから、手を着けられなくなります。」(魏志劉曄伝)これは魏の人々が彼らの武勇に心服していたということである。周瑜は密かに上疏して孫権に言った。「劉備には梟雄の相があるうえ、関羽・張飛といった熊虎の将がおり、久しく屈従して他人のために働いたりはきっといたしますまい。」(呉志周瑜伝)これは呉の人々が彼らの武勇に心服していたということである。それだけではない。晋の劉嘏は賊軍を攻撃するたびに堅城を落として鋭鋒をくじき、冀州地方では彼を関羽・張飛になぞらえていた。(晋書劉嘏伝)苻秦は閻負・梁殊を使者として張玄靚のもとへやり、本国の将帥には王飛・鄧羌がいて、関・張の仲間、万人之敵であると誇示した。禿髪傉檀が宋敞に人材を求めたとき、宋敞は「梁崧・趙昌の武勇は、張飛・関羽と同等です」と言った。李庠は人並み外れた膂力を持っており、趙廞は彼を立派に思って「李玄序は一代の関・張である」と言った。(いずれも晋書載記)宋の薛彤・高進之はそろって武勇強力の持ち主であったので、当時の人々は関羽・張飛になぞらえていた。(宋書檀道済伝)魯爽が反乱を起こしたとき、沈慶之は薛安都にこれを攻撃させた。薛安都は魯爽を眺め見るなり、すぐさま馬を躍らせて大喝し、まっすぐ突きかかり、手をくり出すとともに倒した。当時の人々は、関羽の顔良斬りでさえこれ以上ではなかろう、と言った。(南史薛安都伝)斉の垣歴生の武勇は傑出しており、当時の人々は関羽・張飛になぞらえた。(南史文恵太子伝)魏の楊大眼は驍勇果敢、世間では関・張でもこれ以上ではなかろうと評判された。(魏書楊大眼伝)崔延伯が莫折念生を討伐して勝利を収めると、蕭宝寅は「崔公は古代の関・張である」と言った。(魏書崔延伯伝)陳の呉明徹が北進して高斉を討伐したとき、尉破胡らの十万人が着陣して楯突いた。西域の者がいて無駄なく矢を発した。呉明徹が蕭摩訶に告げた。「あの胡人を倒すことができたならば敵軍は意気沮喪するであろう。貴君には関・張の武名がある。顔良を斬ってくれるかね!」蕭摩訶はただちに陣営を飛び出し、鉄塊を投げ付けてその者を殺した。(陳書蕭摩訶伝)以上はみな各史書に見えるものである。二公の武名がただ同時代の人々に慕われ、畏怖されているばかりでなく、死後数百年たっても、彼らに震えおののいて驚かぬ者はなかったのである。武威名声は轟いて現代でも朽ちることはない。天性の神武は決して空しいものではないのだ。

97 荊州貸与という間違い

荊州貸借の説は、呉の人々の事後の議論から出てきたものであって、当時における事実ではないのである。『江表伝』に言う。曹操を撃破したのち、周瑜が南郡太守となり、南岸の地を分割して劉備に与えた。そして劉表の官吏兵士のうち北軍から逃げ帰った者たちは、みな劉備に身を投じてきた。劉備は与えられた土地では供給するには不足していたため、孫権から荊州の数郡を借用した、と。『魯粛伝』にまた言う。劉備が京に参詣して孫権にまみえ、荊州を都督したいと求めたとき、魯粛は彼に貸してやって共同して曹操に対抗せよと孫権に勧めた。曹操は孫権が土地でもって劉備を支援したと聞くや、ちょうど手紙を書いていたところであったが、筆を地べたに落としてしまった。のちに魯粛は関羽に会って荊州を求めたとき、関羽に告げた。「我が国が卿の家に土地をお貸ししたのは、卿の家の軍勢が敗れて遠方から来られ、元手を失ったものと思ったからである。」孫権もまた、魯粛には二つの長所があるが、ただ玄徳へ土地を貸すよう吾に勧めたのは短所の一つである、と論じた。これらが荊州貸与説の由来であるが、しかし、いずれも呉の人々の記述が出所なのである。そもそも「貸す」というのは、自分がもともと所有している物を他人に仮に与えることである。荊州はもともと劉表の土地であって、孫氏の本来の持ち物ではないのだ。曹操が南下した時点では、孫氏の江東六郡は自分たちを守りきれないことを恐れるのが精一杯、諸将はみな曹操を迎え入れるよう孫権に勧めたほどであったが、孫権はただ一人それを希望しなかった。ちょうど劉備が諸葛亮を派遣して友好関係を結ばせてきたので、孫権はようやく劉備(の力)を借りて一緒に曹操を防ごうと思うようになったのだ。このときはただ曹操に対抗することだけが望みであって、まだ荊州を獲得しようとまでは思っていなかったのである。諸葛亮が孫権を説得したとき、孫権はすぐさま「劉予州でなければ曹操に対抗できる者はない」と言い、周瑜・程普らを派遣して諸葛亮とともに劉備に参詣させ、力を合わせて曹操を防いだ。(諸葛亮伝)これは(孫権が)劉備を対曹操の主役に立て、自分は脇役になろうとしたということであろう。諸葛亮はまた、「将軍がもし予州どのと心を一つにして曹操を破ることができたなら、荊・呉の勢力は強くなり、そして鼎足の形は完成するのです」とも言っている。これは当時すでに三分の説が存在し、孫権に荊州攻略を依頼してそれを借用したのではないということである。赤壁の合戦では周瑜と劉備とが一緒に曹操を撃破しており、(呉志)華容の戦役では劉備が単独で曹操を追撃しており、(山陽公載記)そののち南郡において曹仁を包囲したときも、劉備はやはり陣中に身を置いており、(蜀志)一度たりとも呉の兵力が単独で出されたことはなく、劉備が何もせずその成果を横取りしたわけではないのだ。曹操を撃破したのち、劉備は京に参詣して孫権にまみえ、孫権は妹を彼に嫁がせた。周瑜は密かに上疏して劉備を京に留めるよう求めたが、孫権は聞き入れず、英雄とは長く手を取り合うべきだと考えた。これは劉備が荊州にいて障壁になってくれないのを孫権が恐れていたということである。曹操は逃走して華容の難所を抜け出したとき、喜びながら諸将に「劉備は吾の同類であるが、ただ計略を思い付くのが少しばかり遅かったな」と言った。(山陽公載記)これは曹操が指折り数える者に劉備だけが入り、いまだ孫権には言及されなかったということである。程昱は魏にいて劉備が呉に入ったと聞いた。論者の多くは孫権が必ずや劉備を殺すであろうと言ったが、程昱は「曹公は天下に敵う者なく、孫権は対抗することができない。劉備には英名があり、孫権は必ずや彼を支援して我らを防ごうとするはずだ」と言った。(程昱伝)これは魏の人々もまた劉備だけを指折り数えて、いまだ孫権に言及していないということである。さて兵力について論じてみよう。諸葛亮は初めて孫権に謁見したとき、「いま戦士のうち帰還した者と関羽の武装した精鋭は合わせて一万人になり、劉琦の戦士もまた一万人を下りません」と言っている。そして孫権の派遣した周瑜らの水軍もやはり三万人に過ぎず、(諸葛亮伝)劉備の十倍とまではいかないのである。しかも当時、劉表の長子劉琦はなお江夏にあり、曹操を破ったのち、劉備は劉琦を荊州刺史にするよう上表しているが、孫権は一度たりとも異論を唱えていない。荊州がもともと劉琦の土地だったからだ。同時にまた四郡を南征すると、武陵・長沙・桂陽・零陵はみな降服し、劉琦が死去すると、群臣は劉備を推戴して荊州牧とした。(蜀先主伝)劉備はそこで諸葛亮をやって零陵・桂陽・長沙の三郡を監督させ、その租税・賦役を収めて軍需物資に充てた。(諸葛亮伝)また関羽を襄陽太守・盪寇将軍として江北に駐屯させ、(関羽伝)張飛を宜都太守・征虜将軍として南郡に在留させ、(張飛伝)趙雲を偏将軍・領桂陽太守とし、(趙雲伝)将軍たちを派遣して各地に進駐させている。おそらく劉備の指揮について最初から孫氏に報告しなかったのは、もともと孫権の土地ではなかったからであろう。だからこそ劉備は孫権に報告する必要はなく、孫権もまた劉備を阻害してこなかったのである。その後、三分の形勢がすっかり定まってから、呉の人々は赤壁の戦役を思い起こし、実際には呉の兵力を貸しただけなのに、とうとう荊州は呉が所有すべきなのだと言い出し、しかしながら(実際には)劉備がその地を占拠していることから、ここで初めて荊州貸与の説が提唱されたのである。そもそも協力して曹操に対抗したときを思い起こせば、劉備にはもともと孫権に対する貸しがあり、孫権には劉備に対する貸しがなかったのだ。孫権はそのとき、ただ自分の危機を救うのが精一杯であって、どうして早くも荊州攻略の野心を持つことができたであろうか。関羽が魯粛に対して言った、「烏林の戦役では、左将軍は寝るときも具足を解かず、協力して曹操を打ち破ったものでしたが、どうして無駄骨を折って一塊の土地さえないということがありましょうか」とは、(魯粛伝)これこそ永久不変の議論であろう。その後、呉・蜀が三郡を争奪することになったが、一転して湘水を境界として和議を結び、長沙・江夏・桂陽を分割して呉に属させ、南郡・零陵・武陵を蜀に属させたのは、最も合意が得られやすいからであった。それなのに呉の君臣は関羽の北伐を窺い、荊州を襲撃してこの地を占拠し、あろうことか荊州貸与なる説をまるごと捏造し、奪われたものを取り返したのだと主張するようになってしまった。こんなものは呉の君臣による狡猾な詭弁なのであるが、荊州貸与という言葉だけが一人歩きして現在に伝えられている。一つの物語として完成され、論破できないほど(思い込みは)堅牢になった。そうした曲解が巡りめぐって蜀にも伝わっているが、それらは聞きかじりの議論なのである。

98 三國之主用人各不同

99 禪代

100 魏晉禪代不同

101 九錫文

102 一人二史各傳

103 晉書

104 晉書二

105 王導陶侃二傳襃貶失當