利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

97 荊州貸与という間違い

荊州貸借の説は、呉の人々の事後の議論から出てきたものであって、当時における事実ではないのである。『江表伝』に言う。曹操を撃破したのち、周瑜が南郡太守となり、南岸の地を分割して劉備に与えた。そして劉表の官吏兵士のうち北軍から逃げ帰った者たちは、みな劉備に身を投じてきた。劉備は与えられた土地では供給するには不足していたため、孫権から荊州の数郡を借用した、と。『魯粛伝』にまた言う。劉備が京に参詣して孫権にまみえ、荊州を都督したいと求めたとき、魯粛は彼に貸してやって共同して曹操に対抗せよと孫権に勧めた。曹操は孫権が土地でもって劉備を支援したと聞くや、ちょうど手紙を書いていたところであったが、筆を地べたに落としてしまった。のちに魯粛は関羽に会って荊州を求めたとき、関羽に告げた。「我が国が卿の家に土地をお貸ししたのは、卿の家の軍勢が敗れて遠方から来られ、元手を失ったものと思ったからである。」孫権もまた、魯粛には二つの長所があるが、ただ玄徳へ土地を貸すよう吾に勧めたのは短所の一つである、と論じた。これらが荊州貸与説の由来であるが、しかし、いずれも呉の人々の記述が出所なのである。そもそも「貸す」というのは、自分がもともと所有している物を他人に仮に与えることである。荊州はもともと劉表の土地であって、孫氏の本来の持ち物ではないのだ。曹操が南下した時点では、孫氏の江東六郡は自分たちを守りきれないことを恐れるのが精一杯、諸将はみな曹操を迎え入れるよう孫権に勧めたほどであったが、孫権はただ一人それを希望しなかった。ちょうど劉備が諸葛亮を派遣して友好関係を結ばせてきたので、孫権はようやく劉備(の力)を借りて一緒に曹操を防ごうと思うようになったのだ。このときはただ曹操に対抗することだけが望みであって、まだ荊州を獲得しようとまでは思っていなかったのである。諸葛亮が孫権を説得したとき、孫権はすぐさま「劉予州でなければ曹操に対抗できる者はない」と言い、周瑜・程普らを派遣して諸葛亮とともに劉備に参詣させ、力を合わせて曹操を防いだ。(諸葛亮伝)これは(孫権が)劉備を対曹操の主役に立て、自分は脇役になろうとしたということであろう。諸葛亮はまた、「将軍がもし予州どのと心を一つにして曹操を破ることができたなら、荊・呉の勢力は強くなり、そして鼎足の形は完成するのです」とも言っている。これは当時すでに三分の説が存在し、孫権に荊州攻略を依頼してそれを借用したのではないということである。赤壁の合戦では周瑜と劉備とが一緒に曹操を撃破しており、(呉志)華容の戦役では劉備が単独で曹操を追撃しており、(山陽公載記)そののち南郡において曹仁を包囲したときも、劉備はやはり陣中に身を置いており、(蜀志)一度たりとも呉の兵力が単独で出されたことはなく、劉備が何もせずその成果を横取りしたわけではないのだ。曹操を撃破したのち、劉備は京に参詣して孫権にまみえ、孫権は妹を彼に嫁がせた。周瑜は密かに上疏して劉備を京に留めるよう求めたが、孫権は聞き入れず、英雄とは長く手を取り合うべきだと考えた。これは劉備が荊州にいて障壁になってくれないのを孫権が恐れていたということである。曹操は逃走して華容の難所を抜け出したとき、喜びながら諸将に「劉備は吾の同類であるが、ただ計略を思い付くのが少しばかり遅かったな」と言った。(山陽公載記)これは曹操が指折り数える者に劉備だけが入り、いまだ孫権には言及されなかったということである。程昱は魏にいて劉備が呉に入ったと聞いた。論者の多くは孫権が必ずや劉備を殺すであろうと言ったが、程昱は「曹公は天下に敵う者なく、孫権は対抗することができない。劉備には英名があり、孫権は必ずや彼を支援して我らを防ごうとするはずだ」と言った。(程昱伝)これは魏の人々もまた劉備だけを指折り数えて、いまだ孫権に言及していないということである。さて兵力について論じてみよう。諸葛亮は初めて孫権に謁見したとき、「いま戦士のうち帰還した者と関羽の武装した精鋭は合わせて一万人になり、劉琦の戦士もまた一万人を下りません」と言っている。そして孫権の派遣した周瑜らの水軍もやはり三万人に過ぎず、(諸葛亮伝)劉備の十倍とまではいかないのである。しかも当時、劉表の長子劉琦はなお江夏にあり、曹操を破ったのち、劉備は劉琦を荊州刺史にするよう上表しているが、孫権は一度たりとも異論を唱えていない。荊州がもともと劉琦の土地だったからだ。同時にまた四郡を南征すると、武陵・長沙・桂陽・零陵はみな降服し、劉琦が死去すると、群臣は劉備を推戴して荊州牧とした。(蜀先主伝)劉備はそこで諸葛亮をやって零陵・桂陽・長沙の三郡を監督させ、その租税・賦役を収めて軍需物資に充てた。(諸葛亮伝)また関羽を襄陽太守・盪寇将軍として江北に駐屯させ、(関羽伝)張飛を宜都太守・征虜将軍として南郡に在留させ、(張飛伝)趙雲を偏将軍・領桂陽太守とし、(趙雲伝)将軍たちを派遣して各地に進駐させている。おそらく劉備の指揮について最初から孫氏に報告しなかったのは、もともと孫権の土地ではなかったからであろう。だからこそ劉備は孫権に報告する必要はなく、孫権もまた劉備を阻害してこなかったのである。その後、三分の形勢がすっかり定まってから、呉の人々は赤壁の戦役を思い起こし、実際には呉の兵力を貸しただけなのに、とうとう荊州は呉が所有すべきなのだと言い出し、しかしながら(実際には)劉備がその地を占拠していることから、ここで初めて荊州貸与の説が提唱されたのである。そもそも協力して曹操に対抗したときを思い起こせば、劉備にはもともと孫権に対する貸しがあり、孫権には劉備に対する貸しがなかったのだ。孫権はそのとき、ただ自分の危機を救うのが精一杯であって、どうして早くも荊州攻略の野心を持つことができたであろうか。関羽が魯粛に対して言った、「烏林の戦役では、左将軍は寝るときも具足を解かず、協力して曹操を打ち破ったものでしたが、どうして無駄骨を折って一塊の土地さえないということがありましょうか」とは、(魯粛伝)これこそ永久不変の議論であろう。その後、呉・蜀が三郡を争奪することになったが、一転して湘水を境界として和議を結び、長沙・江夏・桂陽を分割して呉に属させ、南郡・零陵・武陵を蜀に属させたのは、最も合意が得られやすいからであった。それなのに呉の君臣は関羽の北伐を窺い、荊州を襲撃してこの地を占拠し、あろうことか荊州貸与なる説をまるごと捏造し、奪われたものを取り返したのだと主張するようになってしまった。こんなものは呉の君臣による狡猾な詭弁なのであるが、荊州貸与という言葉だけが一人歩きして現在に伝えられている。一つの物語として完成され、論破できないほど(思い込みは)堅牢になった。そうした曲解が巡りめぐって蜀にも伝わっているが、それらは聞きかじりの議論なのである。