なまえ: メッセージ:

ペテン師解体晋書があ〜〜〜判らないところ見に行ったニャー 2021/10/21(木) 19:45
陳寿陳寿 2021/06/03(木) 15:40
三国志演義の訓読三国志演義の訓読はじめました。https://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/sp/pages/382.html 2021/05/08(土) 08:38
菅原@解體晉書むじんさん、お元気ですか?【解體晉書】は会としての活動を停止してしまいました。現在、未公開の訳を公開するため、鋭意作業中です。 2021/04/03(土) 22:54
ペテンいきてますよ〜〜〜♪またにぎやかにしてください 2021/02/17(水) 02:30
高順みんな元気かな 2021/02/14(日) 21:02
長尾景虎ぺてん師さん、さんこうしゅうさん、みなさんお元気でいらっしゃるのですね! 2020/12/31(木) 21:18
銃8死略全文https://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/344.html 2020/11/22(日) 21:10
三口宗みんないてびっくり 2020/09/13(日) 13:41
ペテン師長尾さんだーーーー 2020/08/22(土) 12:01
長尾景虎元気でさぁ 2020/07/25(土) 17:00
ぺてん師高順さんがまだ現役でしたぁ 2020/06/18(木) 15:13
高順にっこり('◇')ゞ 2020/03/16(月) 21:27
ペテンばりばりばりばり 2020/02/13(木) 17:53
江夏疫病そらもうバリバリよ 2020/01/29(水) 14:59
東夷の倭人ここってまだ機能してるんですか? 2020/01/04(土) 19:07
ペテン師李恢ってなんでいきなり使持節になれたんでしょう。関羽・張飛・馬超も仮節だったのに…長年使えた姜維・魏延・張翼も仮節だったのに…そもそもなんでライコウ都督になれたんでしょう。この人南中しゅっしんなのに… 2017/04/18(火) 20:54
ペテン師すると、士仁はもしかしたら劉備一党の古参の1人の可能性もあるかもしれないのかな?燕であれば公孫讃の所にいた時に編成された1人かもしれないし…ビ芳の様に経歴を一切消されている可能性もありそうです 2016/04/27(水) 03:24
mujinいえ、おそらくは幽州の広陽郡(=燕国)かと思います。当時の郡のうち、広陽といえば幽州にしかないはず。 2016/04/21(木) 23:09
ペテン師併州の広陽県のところの郡人に士仁がいますけど、この人は益州の広陽郡ではないでしょうか 2016/03/21(月) 19:00
むじんなるほど。情報のご提供ありがとうございます。いま手元に『太平御覧』がないので確認できません。確認が取れたら掲載させていただきます。いましばらくお待ちください! 2013/02/03(日) 17:55
将棋倒し文俶の字は「次騫」です。《太平御覽》巻き275に見えます。「干宝《晋紀》曰:文淑,字次騫,小名鸯,有武力籌策。」 2013/02/01(金) 12:27
閻行これ↓自分で解釈したつもりでしたが、なんとなくどこかで誰かが言ってたような・・・ 2012/07/26(木) 23:56
閻行劉曄伝『傅子』注の『蜀降者說:「蜀中一日數十驚,備雖斬之而不能安也。」』という使者の言葉によって、劉曄は劉備が蜀に戻ってきた事実を知り、蜀平定の機が去ったことを悟ったのかもしれません。 2012/07/24(火) 23:42
閻行おそらく張魯は投降の意を早い段階で伝えていたと思われます。もしかしたら朴胡・杜濩らも張魯らの意向で下っていたのかもしれません。ところが劉備が踵を返して巴中に入り、朴胡・杜濩らは破れ、張郃を派遣する。「朴胡、杜濩は巴から略陽に移った」強制移住とはこのことかもしれませんね。 2012/07/24(火) 23:33
閻行先主伝によれば、214年夏四月、雒城を陥す。数十日の籠城を経て成都も陥落。214〜215にかけて荆州を争って孫権と対峙。張魯が巴西に逃走したことを聞くと、和睦して江州まで戻る。張魯が巴西に向かったのが七月、この時点で漢中は曹操に下ったとみていい。『後漢書』献帝紀でも七月に張魯が投降したとある。 2012/07/24(火) 23:18
劉曄の進言が張魯が逃げた直後なのか劉備が巴を掌握してからなのか不明だが張コウ派遣の目的が四川制圧の露払いなり劉備へのけん制とすると山中に部下を捨てにいったようなものになるな。沙汰止みになってからとは別のタイミングと動機で派遣されたんじゃないか 2012/07/24(火) 02:49
武帝紀では7月に張魯が巴に逃げる。9月に朴胡、杜濩が魏に降伏。11月に張魯が魏に降伏。対劉備に張郃派遣。12月に南鄭から帰る。黄権伝では黄権が張魯を迎えに行ったが降伏しており朴胡、杜濩を破った。華陽国志では朴胡、杜濩は巴から略陽に移ったとある 2012/07/24(火) 02:35
閻行さすが水甕様。きっかけの「なんで昇進したか」なんてすっかり忘れてたよ・・・。「曹操自体が乗り気じゃなくて、結局沙汰止み」ああ、なるほど・・・実は資料見ているうちに、張郃が「隴を得て蜀を望む」の戒めに逆らっているように見えちゃってたんで、納得です。 2012/07/23(月) 23:01
水甕集解の部分は直訳ではないけど、ニュアンスはこんな感じ。張郃サンは結果として、国の方針とは違う場所に出征したわけで、兵站もままならなかったろうから、そりゃ負けるわナ。もちろんこれが真実だとは思いませんが、こんな読み方もあるということを紹介しておきます。 2012/07/23(月) 22:55

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